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<title>Denbayのブログ</title>
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<title>石田衣由「イルカの恋」を読んで</title>
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<![CDATA[ <p>以下は『最後の恋 MEN'S つまり、自分史上最高の恋。』（新潮文庫）というアンソロジーに収められている石田衣良の「イルカの恋」についての（いわゆる）「ネタバレ」を含んでいます。ご留意ください。</p><p>&nbsp;</p><p>Ｎさんへ</p><p>&nbsp;</p><p>Ｎさんが読んだという『最後の恋 MEN'S』の中の「イルカの恋」を読みました。この一文を書く前に、さらに３回読みました。繰り返し読んでも、その印象は深まりこそすれ、薄れることはありませんでした。</p><p>&nbsp;</p><p>この短編には、作者から読者に対して、ひとつの問いかけがされていると感じました。その問いかけとは、要約すると次のようなものです。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#0000ff;">「平凡なもの、凡庸なものは、型にはまってしまっている。<br>しかし、至高のものは不定形である。<br>あなたは、その『ほんとうのもの』の形の定まらないことに耐えられるだろうか。」</span></p><p>&nbsp;</p><p>この物語では、「もの」とは「恋」のことでした。<br>そして、作中の作家に「ほんものの恋」について、次のように語らせています。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#0000ff;">「ほんものの恋なんて、かわいいものでも、素敵なものでもない。写真に撮って、きれいでしょうと雑誌にのせるようなものでもない。獰猛で、危険で、不意打ちで、できることなら生涯近づかないほうがいいようなものだ」(p.192)</span></p><p>&nbsp;</p><p>どうして「千尋」は、死ななければならなかったのか。<br>どうして「あゆみ」は、「裕介」（の行為）を受け入れたのか。</p><p>&nbsp;</p><p>そこには、「ほんとう」のものだけが持つ「獰猛さ」があったのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>ネット上の感想（レビュー）などを見ると、<br>「最後の性的な描写は無くてもよかった」<br>というようなものがあります。<br>でも、「ほんとうの恋」の獰猛さを示すには、あれは不可欠のものだったと僕は思います。</p><p>&nbsp;</p><p>また、<br>「なんとなく消化不良な感じだった」<br>という感想もありました。でも、問題を提起しながら、安易な「型」（答）を読者に与えなかったことは、作者の意図そのものではないかと僕は思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>最後の描写に「嫌悪感」を抱く読者もいるかも知れません。<br>だとすれば、その人は「ほんとう」のものが持つ「獰猛さ」や「危険」に耐えられない人なのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>ラストの「あゆみ」の行為に、「主体性」が感じられないという人もいるでしょう。<br>でも、ひょっとすると、「主体性」を重視するという考え方そのものが、ひとつの「型」に過ぎないのかも知れません。</p><p>&nbsp;</p><p>「千尋」は、「異様さ」を内に抱える自分を「イルカ」にたとえました。<br>その「異様」を生きることが、彼女にとっては「自由」だったのか。<br>それとも</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#0000ff;">「心の暗い半分が求めることにさからえる人間はいないのだ」(p.190)</span></p><p>&nbsp;</p><p>という言葉が示すように、自分でもコントロールできない何かに束縛された結果であったのか。<br>この「自由」か「束縛」かという問題も、なかなか難しいですね。</p><p>&nbsp;</p><p>少し話が変わりますが、世間の「型」とは違う自分の中にある「異様さ」を自覚し、そのことで悩み苦しむ兄妹を主人公とした平安時代の古典に「とりかえばや物語」というものがあります。<br>この古典を「さいとうちほ」さんがマンガ化して、「とりかえばや」として「月刊フラワーズ」（小学館）に連載しています。単行本も１１冊ほど出ています。Ｓさんは、この「とりかえばや」が大好きだそうです。気が向いたら、読んでみてください。</p><p>&nbsp;</p><p>石田衣良さんの文章を読むのは、これが二つ目でした。<br>最初に読んだのは、円地文子の『源氏物語(二)』（新潮文庫）の巻末の「解説」でした。<br>源氏研究家でもない石田さんが解説を書かれていることは奇妙にも思いましたが、「中年男」の立場からの源氏物語論は、とても面白かったです。</p><p>&nbsp;</p><p>今回、こうして石田さんの作品に触れることが出来て、本当によかったです。石田さんが、歴史を超えて「人間」というものを見つめ続ける作家であることを発見することが出来ました。</p><p>&nbsp;</p><p>そうした発見のきっかけを作ってくれて、ありがとう。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/murayama-denbay/entry-12264498505.html</link>
<pubDate>Mon, 10 Apr 2017 23:01:30 +0900</pubDate>
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<title>再愛（「伊勢物語」第２２段）</title>
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<![CDATA[ 昔つきあっていたけれど、なんとなく別れてしまった彼女から<br>「なっ君のこと忘れられないの。やっぱり、まだ好きかも」<br>なんてメールが来たのでナリヒラ君は、<br>「いつまでも心の友でいた方がいいよ、いつまでもね」<br>なんて返事をしてみたものの、結局ナリヒラ君は、その夜のうちに彼女の部屋へ。<br>昔話をしたり、先々のことを話し合ったり。<br><br>「千の夜の八千倍の夜を一緒に過ごしたいくらいだよ」<br><br>とナリヒラ君が言うので、彼女は<br><br>「千の夜を一夜と思っても、おしゃべりをしているうちに朝は来ちゃうわ」<br><br>てなわけで、なんのことはない、ナリヒラ君は、昔よりも足しげく彼女の部屋に通うようになってしまいましたとさ。<br><br>「伊勢物語」第２２段の拙訳<br><br>.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・<br><br>ちょっと思うところあって、「伊勢物語」なんかを読んでみている。<br>しかし、なんなんだ、このグズグズの恋愛ショート・ショート集は（笑）<br><br>でも、このグズグズ感が、それほど悪い感じがしない。<br>儒教的（中国的）な倫理観が伝播する前の日本人の考え方、「やまとごころ」というのは、こういう「なさけ（情）」を核としたメンタリティだったのかな？<br><br>この「情愛」の世界は、それはそれで心地よいものだ。<br><br>江戸時代になると、大和民族の側は儒教的倫理観に支配される。<br>そうなると、大和の側は「情愛的」なメンタリティを後進的で劣ったものと見做すようになる。<br>というような図式が正しいのかどうかは分からないけれど。<br><br>夜を共にした男女の仲を、朝の鳥が邪魔をするという話は、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」と一緒だな。<br><br>「伊勢物語」は面白い。<br><br>.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・<br><br>以下、原文。<br><br>むかし、はかなくて絶えにけるなか、なほや忘れざりけむ、女のもとより、憂きながら人をばえしも忘れねばかつ恨みつゝなほぞ戀しきといへりければ、さればよといひて、をとこあひ見ては心ひとつをかはしまの水の流れて絶えじとぞ思ふとはいひけれど、その夜いにけり。いにしへゆくさきのことどもなどいひて、<br>秋の夜の千夜を一夜になずらへて八千夜し寝ばやあく時のあらむ<br>返し<br>秋の夜の千夜を一夜になせりともことば殘りてとりや鳴きらむ<br>いにしへよりもあはれにてなむ通ひける。<br><br>&nbsp;「伊勢物語」第二十二段
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<link>https://ameblo.jp/murayama-denbay/entry-12204894089.html</link>
<pubDate>Thu, 29 Sep 2016 23:38:38 +0900</pubDate>
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<title>彦星（「伊勢物語」第９５段）</title>
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<![CDATA[ 「むかし、二条の后につかうまつるをとこありけり。女の仕うまつるを<font color="#0000FF">常に見かはして</font>、<font color="#0000FF">よばひわたりけり</font>。「いかで<font color="#0000FF">物越しに対面して</font>、おぼつかなう思ひつめたること、すこしはるかさむ」といひければ、女、いとしのびて、物越しに（七月七日）逢ひにけり。物語などして、をとこ、<br><br><font size="2" color="#9370DB">彦星に恋はまさりぬ天の河へだつる関をいまはやめてよ</font><br><font color="#0000FF"><br>この歌にめでてあひにけり。</font>」<br><br>大津有一校注『伊勢物語』（岩波文庫）ｐ．６４より<br>ただし、漢字の旧字体（舊字體）は新字体に修した。<br><br>.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・<br><br>今日、伊勢物語の原文を旺文社の対訳古典シリーズ版（中野幸一訳注）で読み終わった。<br>今日は７月７日と言っても新暦（太陽暦）だから、旧暦の「正しい」（伝統的）七夕ほどには気分が出ないけれど、世間では七夕と騒がれているので、『伊勢物語』の中の「彦星」の段（９５）を改めて読んでみた。<br><br>岩波文庫版（底本：学習院大学蔵・三条西家旧蔵・伝定家筆本）には「七月七日」という文字はないが、「阿波国文庫本」には、この日付が加筆されているようだ。<br><br>「よばひわたりけり」は、旺文社版では「求婚し続つづけていた」とのこと。<br><br>「常に見かはして」（いつも顔を合わせて）いたにもかかわらず、いざ「対面」するとなると簾か几帳などの「物越し」でしか会わないというあたりが、この時代の作法だったのだろう。<br><br>でも、素敵な歌を詠われてしまって、ついに女は「逢う」ことを許す。<br><br>この「あひにけり」の訳には、次のようなバリエーションがある。<br><br>「親しく男にあったということだ」阿部俊子（講談社学術文庫）<br>「男と契ったのだった」石田穣二（角川ソフィア文庫）<br>「契りを結んだ」中野幸一（旺文社対訳古典シリーズ）<br><br>阿部訳は、やや婉曲すぎるか。まぁ、ここは「身体を（あるいは「心を」）許した」ということでよいのだろう。<br><br><font color="#9370DB">　彦星に恋はまさりぬ天の河へだつる関をいまはやめてよ<br></font><br>この歌に、身体を許すほどの魅力を感じられるかどうか。<br>それとも、「歌にめでて」というのは単なる言い訳に過ぎず、女の側にも契りに至る何かがあったのか。七夕という状況が、心を許す契機となったのか。<br><br>そうした細かいことは、この物語には書かれていない。<br>そうしたことは読者のイマジネーションにゆだねているのだろう。そうした「書き足りなさ」が、『伊勢物語』が今に読み継がれる魅力なのかも知れない。<br><br>
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<pubDate>Thu, 07 Jul 2016 23:17:29 +0900</pubDate>
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<title>書という友－ヘミングウェイと徒然草</title>
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<![CDATA[ 「ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなる。」<br> 『徒然草』第十三段より<br><br>"There is no friend as loyal as a book."<br>ヘミングウェイ<br><br>.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・<br><br>古今東西、書物を愛した人は多い。<br>ただ、その愛好が、現実の人間関係に対するものよりも強くなると、その性向はやや病的な要素を帯びるかも知れない。<br><br>ただ、そうした病に取り憑かれた人も、また少なくないと思う。<br>多分、僕もそうした人間のうちのひとりだ。上に引用した二人の男にも、書物への愛好というよりも、人間（他人）からの逃避の傾向が見られるような気がする。一種の「人間嫌い」と言ってもいいのかも知れないが、この言葉は誤解を招きやすいかも知れない。なぜなら、徒然草の作者にも、ヘミングウェイにも、表面的には「社交性」が見られるからだ。<br><br>しかし、この「社交性」と「人間嫌い」は、決して矛盾するものではないと思う。友人や隣人たちとの交流の中で楽しく振舞いつつ感じる孤独というものもあるだろう。現実における親近が、心の裡の距離と一致するとは限らない。人間には、楽しみつつ厭うという能力もある。<br><br>「世に從へば、心外の塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。」<br>（『徒然草』第七十五段より）<br><br>「さるべきゆゑありとも、法師は人にうとくてありなん。」<br>（『徒然草』第七十六段より）<br><br>また、二人が、「人間」というものを深く追求しようとしたということも、彼等の一種の「人間嫌い」と矛盾するものではないと思う。人間が探求するのは、親しみ感じるからとは限らない。むしろ、そこに違和があり、隔たりを感じるからこそ、その対象を探求しようと思うこともある。<br><br>.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・<br><br>「一冊の書物ほどに誠実な友はいない」<br><br>なぜ、複数形の「books」ではなく、単数形の「a book」なのだろう？<br><br>いずれにしても、徒然草の一節は、ヘミングウェイの言葉に対する格好の解説となっているように思われる。<br><br>ひとり、灯の下に本を拡げて読む。それは、逢うことのない友との出会いである。その友は誠実であり、高邁であり、潔癖であり、親切であり、同情的である。人は、その交流から、あらゆるものを得る。その中には、現実の人間関係や現実そのものからは得られないものもあるかも知れない。<br><br>「逢うことのできない人を友とできるのであるから、読書は素晴らしい」と言う人もいるかも知れない。しかし、むしろ「逢うことができない人」であるからこそ、書物は「最善の（誠実な）友」となり得るのである。直接の人的な接触の不可能性が、読書の可能性なのである。<br><br>読書は、一種の病であるかも知れない。しかし、それは人生における最大の慰めでもある。<br><br>ヘミングウェイが『徒然草』に出逢っていたら、彼は『徒然草』を「a book」のうちに数えただろうか・・・。<br><br>■ヘミングウェイの言葉<br>http://www.goodreads.com/quotes/2058-there-is-no-friend-as-loyal-as-a-book<br>http://thinkexist.com/quotation/there_is_no_friend_as_loyal_as_a_book/145021.html<br><br>■『徒然草』第十三段への解説など<br>http://www.koten.net/yomu/tsure/013.htmlhttp://blogs.yahoo.co.jp/talisman_peachi/11898427.html<br>http://d.hatena.ne.jp/Tsubute/20130721http://www.kcc.zaq.ne.jp/dfaks108/tzg013.htm<br><br>■『徒然草』第七十五段・第七十六段への解説など<br>http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure050_099/turedure075.htm<br>http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure050_099/turedure076.htm<br>http://www.kcc.zaq.ne.jp/dfaks108/tzg075.htmhttp://www.kcc.zaq.ne.jp/dfaks108/tzg076.htm<br>http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2010/022201/index.html<br>http://www.meigennavi.net/pc/word/020/020919.htmhttp://www.ne.jp/asahi/jimihen/oyaji/ture46.htm<br><br>■『徒然草』全巻原文<br>http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/turezure_zen.html<br><br>■古筆手鑑『見努世友（みぬよのとも）』　一帖（二十五折）<br>http://www.idemitsu.co.jp/museum/collection/introduction/calligraphy/kana/kana01.html
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<pubDate>Wed, 25 May 2016 01:28:59 +0900</pubDate>
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<title>咲くと見しまに-桜組の活動終了</title>
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<![CDATA[ <font size="1"><font color="#0000FF"><strong><font size="3">空蝉の 世にも似たるか 花桜<br>咲くと見しまに かつ散りにけり</font></strong><br><br>読み人知らず</font><br><br><font size="2">「古今和歌集」巻第二「春下」より（歌番号７３）<br><br>.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・ <br><br>桜の花の儚さを詠った歌。<br>「読み人知らず」ではあるけれど、古今集の中でも知られた歌ではないかと思う。<br>この季節に対する感慨を詠ったものとした、代表的な歌と言えるかも知れない。<br><br>「空蝉の世」とは、一般的には「人生の無常」のことと解されているようだ。<br>「世」を「男女の仲」ととって、はかないものとしての男女関係の意にもとれるかと思ったが、「うつせみ」が付いた「世」は、「世間」「人生」と解するようだ。<br>ただ、世に生きる人間界の全てを「セミの脱けガラ」というほどに悟りきったような仏教的覚悟は、この歌からは感じられない。<br><br>今年も関東では桜の季節が終わろうとしている。<br>近所の道路が、桜色の花びらで染められているのを見た。<br><br><br>３月３１日、「北斗夢学院桜組」の３人のメンバーが「卒業」し、北海道北斗市の公認アイドルとしての桜組の活動は終了した。北海道新幹線の開業に向けた地元のＰＲというミッションの完了に伴うものだった。<br>ただ、それだけでなく、彼女たちが進学あるいは就職という路を進むにあたって、アイドルとしての活動には、どこかで区切りをつけなければならないということもあったようだ。<br><br>アイドルとしての桜組は、見事に咲き、そして散っていった。この桜だけは、来年になれば再び咲くというものでもないだろう。<br>今はただ、メンバーの一人ひとりに、アイドルとしての花とは別に「花のキセツ」があり、また「実のあるキセツ」が訪れることを心から願っている。<br><br>今年の春は、そんな特別な感慨を伴うものとして、僕の記憶の中に残るだろう。<br></font></font>
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<link>https://ameblo.jp/murayama-denbay/entry-12148340819.html</link>
<pubDate>Sat, 09 Apr 2016 10:11:59 +0900</pubDate>
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<title>ケインズの詩？</title>
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<![CDATA[ "O False and treacherous <font size="2" color="#0000FF">Probability</font>,<br>Enemy of truth, and friend to wickednesse;<br>With whose bleare eyes Opinion learnes to see,<br>Truth’s feeble party here, and barrennesse."<br><br><font size="3" color="#0000FF">「おお、人を欺き人を裏切る蓋然性かな<br>そは真実の敵、そして悪意の友なり<br>その霞む眼にて人は意見を醸成するなり<br>そこに真実の哀れな仲間、そして無残な投影あり」<br></font><br>.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・ <br><br>上に引用したのは、経済学者として知られるケインズの若き日の著作『確率論』（別名『蓋然性論』"A Treatise on Probability" by John Maynard Keynes）の最終ページに記されている詩と、酒井泰弘氏による訳文。<br><br>酒井氏は、この詩について『ケインズ対フランク・ナイト』（ミネルヴァ書房・２０１５年）の中で次のように記している。<br><font size="2"><br>「これは何とロマンチックな文章であろう。難解な名著として有名な、若きケインズの大著『蓋然性論』(A Treatise on Probability)は上のごとき印象深い詩句でもって最終幕を無事閉じるのだ。<font color="#0000FF">ここにケインズの人生観・世界観の全てが凝縮されている。</font>読者の多くが、私の訳文を通じて、いまから１００年前、イギリスなるケンブリッジの茫漠たる知的雰囲気を味わっていただきたいと願っている。」</font><br>『ケインズ対フランク・ナイト』ｐ．４３<br><br>また、この本の元となったと思われる「経済学史学会報告」（滋賀大学、2015年5月30日）の「要旨」では、次のように記している。<br><br><font size="2">「<font color="#0000FF">ケインズのプロバビリティ概念が何を意味するかは、第一の主著の最後の頁の最後の章句から鮮明である。</font>注目すべきことに、それは長く詳細な文献目録（Bibliography）の後に、見事な韻文詩の形式で書かれているのだ。<font color="#0000FF">ケインズの生涯を貫く哲学・思想・人生観を表わすと考えてよかろう。</font>」<br></font>「ケインズとナイト――奇跡の1921年を考える」<br><a target="_blank" rel="nofollow" href="http://jshet.net/docs/conference/79th/sakai.pdf">http://<wbr>jshet.n<wbr>et/docs<wbr>/confer<wbr>ence/79<wbr>th/saka<wbr>i.pdf</a><br><br>この詩の内容が、「Probability」（確率、蓋然性）というケインズの生涯にわたる研究テーマに関する端的な要約となっていることについては、僕も異論は無い。この詩が、『確率論』の最後を飾るに相応しいものであることも認めたいと思う。<br><br>ただ、酒井氏の賛辞を読みながら、湧いて来た疑問があった。<br>それは、<font size="3" color="#0000FF">この詩がケインズ自身によって書かれたものであるかどうか</font>ということだ。およそ１００年前とは言え、２０世紀の英国人が書いたにしては、語彙などが古典的過ぎるような気がするのだ。<br>ケインズは、古書の蒐集家としても知られている。また、中世から近代初期にかけての哲学史にも詳しい（と思われる）。なので、シェークスピアの時代の英語風に擬古的な詩を書く才能にも恵まれていたかも知れない。しかし、わざわざそうして才能をひけらかす必要があったのかどうかは疑わしい。<br><br>というわけで調べてみたら、これは別人が作った「ソネット」の一部であることが分った。<br><br>Fulke Greville（1554～1628年）という後に「Lord Brooke」となった人の「Cælica」の中に、冒頭の一節が含まれている。<br>以下に掲載されている２２８行に及ぶ「ソネット」の１９１行目以下の第「VIII」節の部分だ。<br><br>■Sonnets  VIII. Fulke Greville, Lord Brooke<br><a target="_blank" rel="nofollow" href="http://www.bartleby.com/261/67.html">http://<wbr>www.bar<wbr>tleby.c<wbr>om/261/<wbr>67.html</a><br>■Fulke Greville, Lord Brooke "Cælica-Sonnet CIV"<br><a target="_blank" rel="nofollow" href="http://www.luminarium.org/renlit/caelica104.htm">http://<wbr>www.lum<wbr>inarium<wbr>.org/re<wbr>nlit/ca<wbr>elica10<wbr>4.htm</a><br>（これらは校正が不充分で、"u"と"v"の間違いなどが多数あるようだ。）<br><br>著作の冒頭に他人の言葉を引用することを「エピグラフ」（題句、銘句、題辞、epigraph）などと呼んだりするが、ケインズのように最後に引用するのを「エピローグ」と呼んでいいのかどうか、僕には分らない。ただ、引用した意味合いは、エピグラフと同趣旨のものだろう。<br><br>このソネットは、<br>The Anchor Anthology of Sixteenth-Century Verse.<br>に掲載されているようだから、１６世紀の作品なのだろう。だとすれば、その古めかしい言葉遣いも理解できる。<br><br>当然のことながら、ケインズは、このソネットの全文を読み、その上で自身の力作（第一の主著）の最後を飾るものとして選んだのであろう。<br>だとすれば、「ケインズの生涯を貫く哲学・思想・人生観」を理解しようと思えば、１６世紀から１７世紀にかけて生きたFulke Grevilleという人と彼の詩作についても調べてみなければならないのかも知れない。<br><br>と言うわけで、僕のケインズ研究は、またしても泥沼にはまるのである(笑)。<br><br>ちなみに、酒井氏の『ケインズ対フランク・ナイト』という本は、「経済学の巨人は『不確実性の時代』をどう捉えたのか」という副題を持つもので、現代における「不確実性」について考えてみたいという方には示唆するところの多いであろう名<font size="2">著だ(と思う)</font>。<br>酒井氏は、(元)日本リスク研究学会の会長で、筑波大学と滋賀大学の名誉教授。<br><br>なお、１６世紀における「Probability」という言葉の意味について考えるならば、以下の必読文献がある。<br><br>『確率の出現』（慶應義塾大学出版会）<br>Ian Hacking, The Emergence of Probability, Cambridge University Press, 1975; 2nd ed., <br><a target="_blank" rel="nofollow" href="http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/kakuritsu/">http://<wbr>www.kei<wbr>o-up.co<wbr>.jp/kup<wbr>/sp/kak<wbr>uritsu/</a>
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<pubDate>Thu, 04 Feb 2016 21:08:33 +0900</pubDate>
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<title>一期一会</title>
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<![CDATA[ <font color="#0000FF"><font size="2">「赤いもみじの葉が<br>川を流れて行く<br>そこに岩があれば<br>そう少しとどまって」<br>「出会いは別れの始まりなのでしょうか<br>浮いては沈み行く<br>ことも覚えた」<br></font></font><br>三浦徳子の作詞「一期一会」の歌詞より<br><br>.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・<br><br>チャオ・ベッラ・チンクエッティ（旧称：The ポッシボー）の新曲「一期一会」という曲を聴いていて、その歌詞に和風の、というよりも和歌的なテイストを感じて驚いた。<br>上の歌詞から、たとえば僕は、次のような歌を連想した。<br><br><font color="#0000FF"><font size="3">「山川に風のかけたるしがらみは<br>流れもあへぬ紅葉なりけり」</font><br></font>（「古今和歌集」秋下・３０３）<br><br><font color="#0000FF"><font size="3">「瀬を早み岩にせかるる滝川の<br>われても末に逢はむとぞ思ふ」</font></font><br>（崇徳院「詞花集」恋・２２８）<br><br>冒頭に引用したのは２番の歌詞だが、１番では「桜」も出てきて、和歌の春秋の題を読み込んでいる。<br><br>作詞者を調べてみたら、三浦徳子（みうら よしこ）という人だった。<br>この作詞者、主な業績としても以下のようなものがあり、それなりに大御所であるようだ。<br><br>杏里「CAT'S EYE」<br>岩崎宏美「万華鏡」<br>吉川晃司「モニカ」<br>郷ひろみ「お嫁サンバ」<br>沢田研二「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」<br>永井真理子「ミラクル・ガール」（亜伊林名義）<br>中森明菜「アサイラム」<br>松田聖子「青い珊瑚礁」<br>八神純子「みずいろの雨」「想い出のスクリーン」<br><br>それよりも驚いたのは、この三浦徳子の兄が、「文芸評論家の三浦雅士」だとウィキペディアに書かれていたこと。三浦雅士の評論は、高校・大学時代に何冊か読んでいる。三浦雅士が『ユリイカ』や『現代思想』の編集長を務めていたことは、ご存知の方も多いだろう。<br>しかし、彼が２０１０年に「紫綬褒章」を受章しているとは（僕は）知らなかった。<br><br>ＰＶも「和」な背景を使っている。 <br>（見てみたい方は、Youtubeで「一期一会」「チャオベッラ」と検索してみいください。）<br>
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<link>https://ameblo.jp/murayama-denbay/entry-12123299646.html</link>
<pubDate>Sun, 31 Jan 2016 00:38:44 +0900</pubDate>
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<title>映画「白鯨との闘い」</title>
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<![CDATA[ 『白鯨との闘い』という映画を観て来た。<br>以下、「ネタバレ」とならない範囲で、この映画に関連する情報を記す。<br><br>タイトルはメルヴィルの『白鯨』を連想させるが、この映画は『白鯨』そのものの映画ではない。<br> メルヴィルが『白鯨』を書くにあたって参考とした実際に起きた海難事故、捕鯨船エセックス号の遭難について描いた映画であった。ただ、映画の中には若き無名の作家としてメルヴィルも登場する。<br><br>米国の捕鯨史を専門とした歴史家に Nathaniel Philbrick という人がいて、彼に「In the heart of the sea」（邦題『復讐する海－捕鯨船エセックス号の悲劇』集英社）という著作がある。これがエセックス号の遭難について書かれている本なのだが、映画はこの本を原作としている。<br>映画の原題も「In the heart of the sea」（海の真ん中で）となっている。このタイトルには、コンラッドの『闇の奥』（The heart of darkness）を意識したところがあるかも知れない。<br>（『復讐する海－捕鯨船エセックス号の悲劇』は、最近になって『白鯨との闘い』と改題され、集英社文庫から出版された。）<br><br>.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・<br><br>１０年ほど前にメルヴィルの『白鯨』を読んだときには、本当に深い感銘を受けた。<br>その後、何度か読み返しているが、そのたびに興味深い発見がある。<br><font size="3" color="#0000FF">僕にとって『白鯨』とは、リスクというものに立ち向かう男たちの物語である。その意味で、この物語には時代を超えた普遍性があり、読み継がれるべき名作だとも思っている。</font><br><br><font size="3" color="#0000FF">奇妙なことに、四方を海に囲まれた日本の文学の歴史の中には「海洋文学」というジャンルが無い。<br></font>これは、我が国に大航海時代というものが無く、また英米などが捕鯨に乗り出していた時期に「鎖国」をしていたせいではないかと僕は思っている。<br>だから、今でも日本人は、英米人に比べて「リスク」というものに向き合うのが不得手なのではないかと思ってもいる。<br><br>ご存知のとおり、１８５３年にペリー提督が率いる「黒船」が日本にやってきた理由のひとつは、捕鯨船への補給のための港が必要だったことだった。１８５１年に刊行された『白鯨』の中には「Japan」という地名も何箇所が出てきており、その「開国」の可能性に言及しているところもある。メルヴィルの時代のアメリカの捕鯨について描いた映画『白鯨との闘い』は、我が国の「開国」の向こう側にあった「歴史的状況」も描いている。<br><br>.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・<br><br>ともかく壮絶な映画だった。そして、日本人には創れない映画だとも思った。<br>日本人が、これの真似事をしたら、「クジラ」ではなく「ゴジラ」になってしまうだろう。<br>史実としての「捕鯨船エセックス号の悲劇」（原作の『復讐する海』）に忠実とは言えないところもあったが、この事件の核心的な部分を上手くストーリーに仕立てていたと思う。そして、メルヴィルの『白鯨』には描かれなかった部分にも踏み込むことによって、一種の『白鯨』論にもなっていた。<br><br>監督は、「ビューティフル・マインド」のロン・ハワード。人間の心情を上手に描く監督だと思った。<br><br>■映画 『白鯨との闘い』特別映像1<br>https://www.youtube.com/watch?v=pg2vsQAxkd4<br>■映画の公式サイト<br>http://wwws.warnerbros.co.jp/hakugeimovie/about.html<br>■Nathaniel Philbrick（原作者のFacebook）<br>https://www.facebook.com/nathanielphilbrick/<br>■In the heart of the sea（映画のFacebook）<br>https://www.facebook.com/IntheHeartoftheSeaMovie/
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<link>https://ameblo.jp/murayama-denbay/entry-12123188396.html</link>
<pubDate>Sat, 30 Jan 2016 19:34:03 +0900</pubDate>
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<title>大晦日（おほつごもり）</title>
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<![CDATA[ <font size="3" color="#0000FF">■数ふれば わが身につもる 年月(としつき)を 送り迎ふと なに急ぐらむ</font><br><br>平兼盛の歌。<br>兼盛は百人一首の歌人でもあり、勅撰集にも９０首が入撰している。三十六歌仙の一人だけれど、歌は素直で分かり易いものが多いような気がする。<br>この歌は『拾遺和歌集』（巻第四冬）に採られているが、「和漢朗詠集」の上巻の最後にも載っている。それだけでなく、大納言藤原公任（ふじわらのきんとう）の歌論書「新撰髄脳」でも「よき歌のさまなるべき」ものの一つとして挙げられている。公任は、<br><br> 「<font size="2" color="#0000FF">凡そ歌は心ふかく姿きよげにて心にをかしきところあるをすぐれたりといふべし。こと多くそへくさりてやと見たるがいとわろきなり。一すぢにすくよかになむ詠むべき。</font>」<br><br>と論じているから、兼盛の歌もそのような歌として評価されていたのだろう。<br>角川文庫版の『和漢朗詠集』（三木雅博=訳注）では、次のように訳している。<br><br>「数えるだけでいやでも自分の身に積み重なっていく年月だというのに、それを送ったり迎えたりするといって（人はこの時期）なぜ忙しく立ち働くのだろうか。」<br><br>ある人は、「年月」を「疾し尽き」と解していた。なかなか面白いと思う。<br>http://blog.goo.ne.jp/s363738n/e/62d3e72fb9602a940543e4a28eab1421<br><br>『和漢朗詠集』では、この歌の前に、次の歌がある。<br><br><font size="3" color="#0000FF">■あらたまの 年も暮るれば 作りなむ 罪も残らず なりやしぬらむ</font><br><br>年末には仏名会(ぶつみょうえ)が行われるので、年内に為した罪も消えるだろうという歌。<br>『和漢朗詠集』では兼盛の歌とされているが、『兼盛集』に見えず典拠も未詳で、兼盛の作であるかどうかは疑問があるようだ。<br>三世の三千の仏名を唱えることは出来ないけれど、初詣の前に、今日のうちにお寺に行って念仏でも唱えておこうかと思った。掃除をサボって(笑)。<br><br>歌は新潮日本古典集成版の『和漢朗詠集』に拠った。
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<pubDate>Thu, 31 Dec 2015 14:48:37 +0900</pubDate>
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<title>なめりたい</title>
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<![CDATA[ 「アイスクリームをなめたい」<br><br>というときの「なめたい（舐めたい）」は、<br>マ行下一段活用の動詞「舐める」の連用形である「舐め」に、希望の助動詞「たい」が付いた形<br><a target="_blank" rel="nofollow" href="http://www.weblio.jp/content/%E8%88%90%E3%82%81%E3%81%9F%E3%81%84">http://<wbr>www.web<wbr>lio.jp/<wbr>content<wbr>/%E8%88<wbr>%90%E3%<wbr>82%81%E<wbr>3%81%9F<wbr>%E3%81%<wbr>84</a><br>なのだそうだ。<br><br>動詞の「舐める」または「嘗める」は、「あなどる」という意味の「無礼(なめ)」が動詞化した言葉とのこと。<br>マ行下一段活用は、次のように活用する。<br><br>「未然形」「連用形」「終止形」「連体形」「仮定形」「命令形」<br>「な-め(ない)」「な-め(ます)」「な-める」「な-めれ(ば)」「な-めろ・な-めよ」<br><br>ところが、先日、北海道の道南地方（具体的には北斗市）の出身の女の子が、とあるネット配信番組の中で、<br><br>「アイスクリームのフタを<font size="5" color="#0000FF">なめりたい</font>」<br><br>と言ったものだから、視聴者たちが「変な言い方だ」と騒いだ。<br>方言のようでもあるが、北海道出身の僕でも、「なめ"り"たい」とは言わない。<br>ただ、そういう言い方を聞いたことがあるような気がした。<br><br>その女の子の友達も含め、道南地方では複数の人が「なめりたい」と言うことも分った。<br><br>色々と調べてみたら、「なめる」には「滑る」という字を当てる動詞もあった。<br>（ネジの溝がつぶれてドライバーで回せなくなることを整備士などが「なめた（滑た）」というのはよく聞く言葉だ。）<br>こちらは「ラ行五段活用」で、次のように活用する。<br><br>「未然形」「<font size="2" color="#0000FF">連用形</font>」「終止形」「連体形」「仮定形」「命令形」<br>「なめ-ら(ない)」「<font size="4" color="#0000FF">なめ-り(ます)</font>」「なめ-る」「なめ-れ(ば)」「なめ-れ」<br><br>こちらだと、連用形に希望の助動詞「たい」を付けて「<font size="5" color="#0000FF">なめりたい</font>」となる。<br><br>一種の方言として、動詞の活用形が標準語とは違うということは時々ある。<br>「来ない（こない）」という言葉を「きない」と読む老人が、首都圏の某県などでも少なくない。<br><br>ところで、「舐める」の命令形について、標準語では「なめろ」「なめよ」となっているが、僕も子供の頃は、よく「<font size="5" color="#0000FF">なめれ</font>」と言っていたような気がする。というよりも、北海道では多くの大人たちが「なめれ」と言っていたような気がする。だとすると、北海道における「舐める」は、必ずしも標準的な「マ行下一段活用」ではなかったのかも知れない。「舐める」を「ラ行五段活用」させた「なめります」も、それほど変な表現ではないような気がしてきた。<br><br>「なめりたい」は立派な方言だ。<br><br>「<font size="3" color="#800080">故郷の訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聞きに行く</font>」（石川啄木）<br><br>僕の場合、ネット配信でも北海道出身者の番組を見ることが多い。<br>それは、懐かしい話題も多いし、やはり「なまり」を含めた「言葉」に懐かしさを感じるからだと思う。<br><br>余談だが、最近、そのネット配信の視聴者の中には「なめり隊」を名乗る変なオジサンたちが増えているようだ(笑)。<br><br>■相馬萌花の「エガオノオスソワケ」(Showroom)<br><a target="_blank" rel="nofollow" href="https://www.showroom-live.com/soumamoeka">https:/<wbr>/www.sh<wbr>owroom-<wbr>live.co<wbr>m/souma<wbr>moeka</a><br><a target="_blank" rel="nofollow" href="http://ameblo.jp/hysmoet0313/">http://<wbr>ameblo.<wbr>jp/hysm<wbr>oet0313<wbr>/</a><br><a target="_blank" rel="nofollow" href="https://twitter.com/moet0313">https:/<wbr>/twitte<wbr>r.com/m<wbr>oet0313</a><br><br>■ネジをなめる<br><a target="_blank" rel="nofollow" href="http://www.shift-up.net/180maintenance/post_44.html">http://<wbr>www.shi<wbr>ft-up.n<wbr>et/180m<wbr>aintena<wbr>nce/pos<wbr>t_44.ht<wbr>ml</a><br><a target="_blank" rel="nofollow" href="http://kumiko-jp.com/archives/46062.html">http://<wbr>kumiko-<wbr>jp.com/<wbr>archive<wbr>s/46062<wbr>.html</a><br>
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<pubDate>Sun, 20 Dec 2015 22:03:22 +0900</pubDate>
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