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<title>エーテルの会（仮）</title>
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<description>エーテル（生命体・生命エネルギー）を虚妄ではなく、限りなく物質に近い存在として実験研究します。整体、気、フォース、仙道、房中術、セックス、ヨガ、神秘学･･････。人間の探求。</description>
<language>ja</language>
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<title>エーテルの会（仮）スタートします。</title>
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<![CDATA[ 今日から「エーテルの会（仮）」をスタートします。<br><br><br><font size="3"><strong>●エーテルとはなにか？●</strong></font><br><br><br>エーテルとは、古来日本で「気」や「生命」と呼ばれていたもの。<br><br>簡単にいうと、人間のなかに流れている「電気」と呼ぶに近いものです。<br><br><br>充電が無くなればiphoneもただの箱になるように、<br><br>人間という存在も、このエーテルなくして生きることが出来ません。<br><br><br>エーテルがなくなれば･･････<br><br>もとい、エーテルというエネルギーが少なくなるだけで、人間は<strong>「気力」<u></u></strong>が出なくなります。<br><br><br><u>「気力」は、精神論の話ではないのです。</u><br><br><br>やる気、勇気、根気、活気･･････<br><br><strong>実はこれらは、エーテルという、人間にとっての「電気」があることではじめて湧き出るものなのです。</strong><br><br><br>中国における気功、インドにおけるヨガも、<br><br>このエーテルという「電気」を身体に発生させるためのものなのです。<br><br><br>日本では「整体」と呼ばれるものがあります。<br><br>いま「整体」と聞いても、ほとんどの人はただのマッサージを想像するかもしれません。<br><br>しかし、いまから約５０年ほど前までは、整体といえば「手当て」を主な技術とするものでした。<br><br><br><font size="3"><strong>●手当とはなにか？●</strong></font><br><br><br>手当てとは、<strong><u>自らのエーテルを、手を当てることで相手へと流す</u></strong>ことを意味します。<br><br>もう少し具体的にいうと、<br><br>怪我や病気をしてエネルギーが消耗してる人に、自らのエネルギーを流し入れ、その人の自然治癒力を発揮させるというものです。<br><br><br>現代では気功やレイキ、または絶滅寸前の整体師や、どこぞの新興宗教･･････で、その手当てがなされています。<br><br><br><strong>しかし、それらは本当に効果があるのでしょうか？</strong><br><br><br>怪しいのは、とことん怪しいのがこの世界です。<br><br><br>事実、この「手当て」をするのに、実はそんなに特殊な方法など存在しないのです。<br><br>言ってしまえば、誰でもちょっとの訓練をすれば、エーテルを扱える手になってきます。<br><br><br>なのに、<strong>高額な授業料を払えなきゃ、この「手当て」をすることは出来ない</strong>と説く人がいます。<br><br>また、<strong>この神様を信じなきゃ、この「手当て」をすることは出来ない</strong>と説く人がいます。<br><br><br>こういう人達がいたために、「手当て」は次第に世間から敬遠されるようになってしまいました。<br><br>怪しい、お金をとられる、宗教だと言われるようになってしまったのです。<br><br><br>本当は、誰でも使えるし、誰もがそのエーテルがなきゃ生きていけないのにです。<br><br><br><br><font size="3"><u><strong>でも、いまさら、どうやってそれを信じられるようになるのか？</strong></u></font><br><br><br>これが、この会のテーマです。<br><br><br><strong>信じる必要はありません。実際に実験し、経験をすればいいのです。</strong><br><br><br>この会は、お金を要求することはありません。<br><br>信じることを強要することもありません。<br><br><br>この会で求めることは、<strong>他に頼らず、自らの感覚で真実をつかむ</strong>、それだけです。<br><br>それぞれが実験し、これまでの虚妄を捨てて本当のエーテルをつかむのです。<br><br><br><font size="2"><strong>・強いエーテル　弱いエーテルとはなにか？<br>・熱いエーテル　冷たいエーテルにはどういった違いがあるのか？<br>・どうすれば、より強いエーテルを出せるようになるのか？<br>・どうすれば、自分のエーテルを強くすることが出来るのか？</strong></font><br><br><br>セミナーやなんかで、人に教えてもらうばかりじゃダメなのです。<br><br>知識ばかり増やしたところで、そこに現実を動かす力がなきゃ、なんの意味もありません。<br><br><br><strong>それぞれが自分の力に責任を持ち、<br><br>それぞれが自分の力を一歩ずつ知っていくことに意味があるのです。</strong><br><br><br>まるで科学者のように、冷静に検証を重ねるのです。<br><br><br>そうして妄想を少しづつそぎ落とし、そこで初めて、自分の力を確信を持って使うことが出来るはずです。<br><br><br>気功や、ヨガや、レイキといった名前を捨てて、自分の体から人間の探求をはじめるべきなのです。<br><br><br><font size="3"><strong>●人間の探求●</strong></font><br><br><br>自分というものを本当に考えた人が、一体どれだけいるのでしょう？<br><br>考えただけじゃなく、実際に知ろうと努力した人が、一体どれだけいるのでしょう？<br><br>また、人の話を鵜呑みにせず、自分の体験を頼った人が一体どれだけいるのでしょう？<br><br>あんなの嘘だと突き放す前に、実際に試してみる人が一体どれだけいるのでしょう？<br><br><br><br>そう考えると、この世界は妄想ばかりな気がしてきます。<br><br>もし一人ひとりが、自らの体験を頼る人間になれば、この世界はどれだけ変わるでしょうか。<br><br><br>まずは、自分を知ることを始めましょう。<br><br><br>エーテルについて僕は決して教えません。<br><br>一緒に考え、お互いに試し、結果を共に導くだけです。<br><br><br>共に探求をしていきましょう。<br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nagarauhiko/entry-11976853562.html</link>
<pubDate>Tue, 13 Jan 2015 20:02:03 +0900</pubDate>
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<title>「思い出のマーニー」を読み解く 超ネタバレレビュー</title>
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<![CDATA[ 「思い出のマーニー」を見てきたのですが･･････見終わった瞬間、「これ、リアリティのダンスと同じ話じゃん」とボンヤリしてしまいました。<br><br>時代は･･････僕はこの言い方が好きなので良く使いますが、時代は、いま“この無意識”を表象しようと躍起になっているみたいです。だから、同じようなテーマの映画がよく作られる。そして僕ら一人ひとりも、実はそのテーマを無意識に求めている。<br><br>なぜなら、それがいまのすべての人にとって必要なテーマでもあるからです。<br><br>では、その、いまの時代のテーマとは一体何なのか･･････？<br><br>それは･･････家族です。いや、もっと言うと「一族」であり、もうちょっと激しい言い方をすると、それは「一族の呪い」と呼べるものかもしれません。<br><br>前にホドロフスキーの話の中で書きましたが、僕たちには両親がいて、その両親にはそれぞれの両親がいるわけです。そして、その一族の関係を根気よく見直してみると、僕らは少なからず両親の･･････もっと言えばその両親、そのまた両親の「影」を受け継いで、その「影」に“取り憑かれて”、いまここにいるのです。<br><br>では、それが一体どういうことなのか･･････ということを、「思い出のマーニー」のレビューという形を取って、ここで説明していきたいと思います。もちろん、超ネタバレ。<br><br>ーーーーー<br><br>「この世には目には見えない魔法の輪がある･･････」<br><br>冒頭のシーンで、人とうまく付き合えない杏奈がこんなことを言います。<br><br>「輪には内側と外側があって、私は外側の人間･･････。でもそんなのはどうでもいい。私は、私が嫌い」<br><br>このシーンを簡単に解釈すると、杏奈はある種の疎外感に苛まれており、「人の輪」に入ることが苦手だと見ることが出来ます。けど、実はこの言葉の持つメッセージはそれだけじゃないのです。するっと聞き流してしまいそうですが、この言葉はそれ以上に、この映画全体のテーマとなる非常に大事なメッセージをいくつも持っています。<br><br>ひとつは、すなわち「この世には、魔法の輪が“ある”」ということです。<br><br>では、「魔法の輪」とはなんでしょう？ <br><br>同好会を「サークル」と呼んだりしますが、「魔法の輪」とは、仲の良い人の集まりや、同じ考えを共有している人たちを、ただ言葉で概念化したもの･･････では、ありません。これは、まるでハリボテなただの言葉ではなく、誰もが“実感”したことがあるだろう、「空気」や「雰囲気」と呼ばれる、あの壁に似た、あの集団を包み込む“見えない力”のことを言っているのです。<br><br>つまり、概念ではなく、“見えない実質的な力”として「魔法の輪」がある。<br><br>そして･･････この「魔法の輪」は空間だけじゃなく時間をも超えて、集団に、ある特定の人格をもたらす。大きく言えば「日本人」なんて括りは、時間も空間も超えた非常に大きな「魔法の輪」になります。「家族」や「一族」というのも･･････つまり、この実質的な力によって、僕たちは一族の“影”を自らの運命に背負っていまここにいるのです。<br><br>他のクラスメイトから外れ、ひとり黙々と絵を描く杏奈に「絵を見せてみろ」と男性の教諭が声をかけます。杏奈は照れながら絵を見せようとしますが･･････ここで騒ぎが起こり、男性の教諭はそちらの方へ行ってしまい、杏奈はまたポツリとひとり取り残されてしまいます。<br><br>「私をひとりにしないで･･････」<br><br>こんなセリフはありませんが、杏奈はこうした心の叫びを噛み殺します。そして、その行き場のない叫びは人への憎しみとなり、自分への苛立ちとなり、喘息の発作となって杏奈自身を苦しめるのです。<br><br>この喘息が杏奈の背負う“影”です。<br><br>杏奈はまだ幼い頃に両親に先立たれた過去があり、そのことで「自分が置いて行かれること」に特別な悲しみを持っています。そしてその「置いていかれる悲しみ」は、物語が進むにつれ、ある登場人物もまったく同じ悲しみを抱えていることが分かってきます。<br><br>「なんだろう、あのお屋敷･･････。知っている気がする」<br><br>療養で訪れた地で、杏奈は地元の人が「湿っ地屋敷」と呼ぶ古い屋敷に強く心を惹かれます。そして七夕のお祭りで、「普通に暮らせますように」と書いた短冊と“青い目”が見つかり「あなたは普通には生きられない。あなたはあなた通りだもの」と地元の子に言われ･･････その場から涙ながらに向かったその屋敷で、杏奈は“目の青い”不思議な女の子に出会います。<br><br>「私の名前はマーニー。私の名前は知ってると思ってた」<br><br>夢なのか、現実なのか･･････この子は一体何者なのか。　<br><br>そうして杏奈はよく分からないままマーニーのことが好きになり、それから満ち潮の時間になるたびにマーニーに会いにいくようになります。そしてあるとき、自分の持つ両親への憎しみをマーニーへ打ち明けると、マーニーも同じように自らの秘密を杏奈へ打ち明けはじめます。<br><br>「忙しい両親に屋敷に置いてかれて、屋敷では、ばあやとメイやにいつも虐められているの」<br><br>それを聞いた杏奈は「こんな酷い話は聞いたことがない！」と怒り、マーニーを助けたいと思います。そして、マーニーが特別に怖れる「サイロ」へ「私がそばにいるから」と一緒に行くことを提案します。<br><br>「あなたがいれば･･････きっと大丈夫」<br><br>ここでちょっと想像して貰いたいのですが、もし誰かが、自分が最も怖れる場所でずっとそばにいてくれたら･･････一体それは、どれだけ人の心を温かくするでしょうか？ そんな怖ろしいときに「大丈夫だよ」と、ずっとそばで言ってくれる人がいるということが、一体どれだけ人の孤独を溶かすのでしょう？<br><br>そうして杏奈は、豪雨の中、サイロでうずくまるマーニーのそばにい続けます。<br><br>「大丈夫だよ･･････！ 私がそばにいるよマーニー･･････！」<br><br>･･････いつのまにか眠っていた杏奈が目を覚ますと、もうそこにはマーニーの姿はどこにもありませんでした。「マーニーどこなの！ なんで私を置いていってしまったの？！」<br><br>･･････では、マーニーとは一体何なのでしょう。<br><br>その後、療養の地に来た育ての母に杏奈は一枚の写真をもらいます。その古い写真には例の湿っ地屋敷が写っており、「杏奈のおばあちゃんが大事にしてた写真で、杏奈は小さいころずっとその写真を握りしめていたのよ」と言われます。杏奈は驚いてその写真を受け取り･･････そして、おもむろに写真を裏返すと、そこにはおばあちゃんの手でこんな言葉が書かれていました。<br><br>「わたしの大好きなお家　マーニー」<br><br>実はマーニーは、杏奈のおばあちゃんだったのです。<br><br>しかし、じゃあどうして少女のマーニーが杏奈のそばに現れたのか･･････また、現れたマーニーが持っていた「置いてかれる悲しみ」と、杏奈の持つ「置いてかれる悲しみ」は、一体どうしてこんなに共通しているものがあるのでしょうか？ <br><br>更に言えば、マーニーと幼なじみだったという久子さんによれば、マーニーは杏奈の母にあたる自分の娘を、やむを得ない理由から全寮制の学校に入学させました。親から引き離された娘は、そのとき母のマーニーに一体なにを思ったでしょう･･････？ <br><br>つまり、マーニーの「置いてかれる悲しみ」は、娘に、そして孫の杏奈に深く遺伝しているのです。そしてこの遺伝の原因こそが、この一族の持つ「魔法の輪」であり、この一族が取り憑かれている“影”になるわけです。<br><br>実際、よくよく根気強く見つめると、僕たちは多少なりとも親の“影”を背負って生きています。違う言葉で言うと、親の背負っていた“呪い”を、無意識に、自らも実現させるべく生きているのです。自由だとか、ありのままだとか言う以前に、僕たちはおよそ一族の「魔法の輪」に縛られています。<br><br>しかも、親にはその親がおり、その親にはまた親がいるというように･･････この“呪い”は親から偶然受け継ぐレベルの話じゃなく、一族へ、まるでその血に刻まれたもののように根深く働きます。杏奈の目が青いのは、この一族と血を象徴したものなのです。<br><br>でも、そうは言っても、この“呪い”も解く方法があるはずです。そして、その“呪い”が“呪い”じゃなくなる様子が、まさにこの映画の結末に描かれています。<br><br>このことに関連して、２人が初めて出会ったときにこんな約束を交わすシーンがあります。<br><br>「私たちのことは秘密よ、“永久に”」<br><br>つまり、この一族の「見えない魔法の輪」は、そう簡単に切れるものじゃないというのです。親子の縁を切れば“呪い”も切れるかといえばそうじゃなく、例え親の顔を知らなくてもこの「魔法の輪」は“永久”にいつまでも続いていく･･････。<br><br>ただだからと言って、永久に“呪い”が続くわけではありません。続くのは一族の見えない繋がりであり「魔法の輪」であって、その輪に染みた“呪い”は、いまを生きる僕たちが、一族の過去にどう関わるかによって変えることが出来ます。<br><br>どういうことかと言うと、もし杏奈の喘息が“呪い”だとしたら、そこでいくら今の杏奈自身を治療してもこの“呪い”は解けないということです。この“呪い”を解くには、杏奈を越えた一族の過去に杏奈自身が飛び込まなくてはなりません。親やその親と再会し、いまはまだ“呪い”としか見えないものを理解し、受け止め方を変えて“祝福”し、そうしてはじめて“呪い”は“呪い”という姿を変え喘息という現実も変わりうるのです。<br><br>「どうして私を置いていってしまったの？！ どうして私を裏切ったの？！」<br><br>「杏奈お願い。許してくれるって言って！」<br><br>「･･････もちろんよ！ 許してあげる！ あなたが好きよ、マーニー！！」<br><br>先に述べた、杏奈のマーニーを助けたいという想いと行動。そして、この杏奈がマーニーに伝えた最後の言葉には、その理解と“祝福”が温かく込められています。<br><br>親の友となること。親の親となることで、僕たちはその“呪い”をただ受ける側から“祝福”する側へ変わることが出来るのです。<br><br>最後に、杏奈はその後どうなっていくのでしょうか？<br><br>育ての母を、「おばさん」じゃなく「母」と言えるようになった杏奈は、それまでの「一族の輪」から、新しい「家族の輪」を受け入れるまでになりました。<br><br>僕たちの人生も同じです。一つの輪に、いつまでも繋がれててはそれは“呪い”と同じなのです。僕たちは輪に振り回されるだけじゃありません。新しい輪と出会えるし、永久に消えない輪に自分の色を付け足すことも出来る。<br><br>人生とは、消えない輪に繋がれつつ、新しい繋がりと出会うことです。<br><br>それにただ呪われるのか、それとも祝福するのか･･････僕たちの中に過去が生きるのではなく、僕たちが過去を生きる。そうして、新しい未来も生まれるのです。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nagarauhiko/entry-11904808540.html</link>
<pubDate>Mon, 04 Aug 2014 19:18:38 +0900</pubDate>
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<title>「アナと雪の女王」は、実はありのままの自分を全否定している</title>
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<![CDATA[ <br><br>「アナと雪の女王」を見ましたので、壮大にネタバレ・レビューをしたいと思います。<br><br>というより見る前は「レリゴーなんて、へっ！！ どうせヒットしたのはマーケティングのおかげでしょ･･････？ そのマーケティングの魔法も、僕が見るからには『曇りなき眼』よろしく、もうメッタンメッタンのギッタンギッタンにこの映画の素を暴きだしてやるからね。切り刻んで素っ裸にしてやるからよお･･････覚悟しとけよレリゴ～」<br><br>なんて、「おまえ何様？」って感じの悪態をつきながらTSUTAYAでレンタルしたのですけどね。で、家に帰ってから、さっそくテレビの前に正座して見たのですが･･････<br><br>「うん。なるほどね･･････」<br><br>見終わるや、僕のアマノジャクが思わず閉口。というか、メッセージのいっぱい詰まった、いまの世の流れに非常にマッチした面白い映画でした･･････。<br><br>けど、ちなみにこの映画を見た人は、見て一体なにを感じるのでしょうね？<br><br>レリゴー、つまり「ありのままの自分」がフューチャーされてばかりのこの映画ですが･･････。なにかこの映画を「女性が、抑えていたものを解放させるための映画」みたいな捉え方をされてる人もいるようですが、見たらぜんぜん違いましたし。<br><br>いや、少しはそうだったかも･･････いや、やっぱ断じて違うな。<br><br>確かに映画は、エルサが「隠しなさい」と言われ続けた自分の『力』を「私は自由よ～！」と、ドバっと解放するシーンが印象的ですが･･････次の瞬間、「ああ、私はなんて愚かなの･･････！」って、さっそく後悔をはじめますしね。<br><br>つまり、ただ「抑えていたものを爆発させろ！ 世界に自らを重んじさせよ！」って、そんなバカなことをこの映画は言ってるわけじゃないのです。平和運動なんかでよく言われますが、暴力に対し暴力で対抗したところで、更なる暴力を呼ぶだけです。抑えていた力を突発的に解放させるなんてのも、言ってみれば暴力です。エルサはその力の暴発させる余り、国を滅亡の危機にしてしまったわけですから。<br><br>そして、この映画のエルサとアナは、言ってみれば少女の「内向的な面」と「外向的な面」の表裏を象徴しているように思われます。<br><br>もう一度いうと、エルサが少女の内向的な面を、そしてアナが外向的な面を現しているようです。<br><br>エルサが自分の世界を作りあげるのに必死だとしたら、アナは“一般的な”夢や理想を叶えるのに必死なのです。つまり、アナは「よくある･･････」って言っちゃダメですが、「白馬の王子様願望」が強い、流行やなんかに乗りやすくては、自分を見失っちゃう･･････そんな少女心を象徴しているようです。<br><br>僕は男子なのでよく分かりませんが、これまでのディズニー映画の刷り込みかなんかで、世の中には「白馬の王子様症候群（シンデレラコンプレックス）」なんてのもあるみたいですしね。どんなコンプレックスかというと、「いつか私の運命の人が私を迎えに来てくれる･･････」と思い込んでは身近な運命に気付かなくなるような。もしくは、「この人が私の運命の人だわ！」って思い込むや、なりふり構わず、まるで雌牛の如く暴走しちゃうというような。<br><br>で、アナもまさに「白馬の王子様症候群」で、「パーティで素敵な人に出会っちゃったらどうしよう～」なんて道を歩いてるところで、まさに「白馬の王子様」がアナにぶつかってくるわけです。そして、歌って踊ってと楽しい時間を過ごしたあとに、突然結婚を決意しちゃう。けど、映画を見た方ならご存じのように、この王子様は言ってみれば「結婚詐欺師」なんですね。ただアナは･･････もっといえば“多くの少女”は、自分の夢という名の「嘘（思いこみ）」で世界を見てしまっているため、そのことに気づけないわけです。エルサの城に着く直前、アナが果敢にもロッククライミングに挑むシーンがありますが･･････あれも、アナは高い場所まで登ったと思い込んでますが、実は1メートルも登っていない。つまりアナは、思いこみが強く現実が見えていないわけです。<br><br>そして、そのことこそが、この「アナと雪の女王」の鍵なのだと思います。<br><br>つまりこの映画の核心は、「自らついている“嘘”から、少女自身を解放する」そのことにあるのです。<br><br>エルサは散々魔法を使ったあとにこう言います。<br><br>「解き方が分からないの！」<br><br>エルサもエルサで、自らの“魔法”に逆に翻弄されてしまいます。これも現代ではよくある光景で、まるで自分を世界で解放するために得た力（社会的地位や、鉄壁のそとづら）に、自分自身がいつの間にか振り回されているようです。<br><br>そしてアナは、エルサの魔法をハートに受けてしまい･･････凍りつくハートをどうすれば？ と、トロールの長老に相談をします。すると、長老は深刻な様相でこう言います。<br><br>「ハートを溶かすのは、真実の愛じゃ･･････！」<br><br>まあ、そう言われても「ですよね」としか言いようがないありきたりのセリフですね。けど、少し考えると、このセリフには二重の意味が込められているのが分かります。<br><br>つまり、「真実の愛と共に、真実じゃない愛がある」ということです。<br><br>そして、これがこの映画の裏の核心部分になると思います。真実じゃない愛を信じたら大変なことに･･････まあ言ってしまえば、白馬の王子様願望なんてのはもってのほかで、“自分に尽くすための愛”つまり「ありのままの自分」も、ここで無意識に真実じゃない愛に貶められているのです。<br><br>では、じゃあ一体なにが真実の愛なのか･･････<br><br>それを存在として語っているのが「オラフ」ですね。<br><br>彼は、雪だるまでありながら、自分を溶かす夏を愛おしみます。そして、ピンチのときは「僕がオトリになるから逃げて！」と言い、アナが寒さに震えるなら自分が溶けるのも構わず暖炉に近づき火をおこす、言わば自己犠牲の塊のような存在です。<br><br>「真実の愛とは、自分より相手のことを想うことだよ」<br><br>つまり、ありのままの自分どころか、自分を犠牲にしろということです。ここが大事なのですが「自分を犠牲に出来る相手」こそが、本当の王子様だということです。「自分のために犠牲になってくれる相手」ではないのです。もちろんそれも「真実の愛」には変わりないですが･･････でも、それならアナのハートはオラフやクリストフの愛で溶けているはずで、じゃあなぜ溶けないのかと言うと、その愛はアナから湧き出た真実の愛じゃないからなのです。愛を受け取るだけじゃダメなのです。愛を受け取るではなく、自ら真実の愛を生み出して、そこではじめてアナの魔法は解けるのです。<br><br>ハンス王子に裏切られたアナは、オラフの言葉を聞くや「私のために自分を抑えたクリストフこそ私の王子様だったんだ！」と、白馬の王子様とは真逆なクリストフに向かって吹雪のなかを走りだします。<br><br>クリストフは、彼が白馬じゃなく臭いトナカイに乗って登場するあたりに、夢の欠片もない、欠点だらけの現実の男性像を見ることが出来ます。<br><br>ただ、アナがクリストフに「私はここよ」と叫ぶ時点では、まだアナは愛は与えてもらうものだと思っている。確かに白馬の王子様願望は消え、現実的な愛に気付けるようにはなりましたが･･････まだ自分自身が愛になってはいないのです。<br><br>そして、クライマックスです。ここで愛を知るための最後の試練が訪れます。<br><br>アナはクリストフを発見すると同時に、いまにも殺されそうなエルサを見つけてしまいます。アナは、クリストフに口づけされたら自分の命が助かると思っています。つまりこのシーンは、一見「王子様をとるか、姉をとるか」といった構図にも見えますが、実はそうじゃないのです。<br><br>本当は「自分の命をとるか、姉の命をとるか」という、究極の自己犠牲への問いがこのシーンなのです。<br><br>そして、アナは自分を捨て、エルサの命を選ぶのです。案の定、エルサは助けられたものの、アナ自身は凍りつき･･････それを見たエルサが泣き崩れます。<br><br>「私のせいで死の途にあったアナが、私を恨むどころか、自分を犠牲にしてまで私を守ってくれた･･････」<br><br>エルサは自分が愛されていたことに、ここでようやく気付きます。これまで自分の犯した罪（魔法）を背負い、傷つけないよう、まるでハリネズミのように人と距離をとっていたエルサが、このアナの捨て身の愛によって、「自分は許されている」ことに気付くのです。<br><br>そして、アナは魔法が解けます。これも一見、エルサの愛によって氷が溶けたようにも見えますが･･････けど実は、アナ自身から生まれたエルサへの愛によって魔法が解けたのです。白馬の王子様から、身近な愛の気付きをヘて･･････とうとうアナ自身が真実の愛となったのです。<br><br>もうアナは待ちません。最後にクリストフが「もう、キスしたいくらい嬉しいよ！」と言うと、シャイなクリストフにアナが自分からキスをします。<br><br>エルサも、まるで自らの心を溶かすように、世界の氷を溶かしはじめます。そしてまた昔のように城から出て、魔法を使ってアナや人々と関わることをはじめるのです。<br><br>･･････これでストーリーはお終いです。<br><br>「魔法を解くのは、自分より相手を大事にする愛であり･･････それによって人は自らを許し、自らもまた人を愛せるようになる」が、簡単に言えばこの映画のメッセージなのでしょう。<br><br>けど、ここは簡単にじゃなく、よくよく考えてください。<br><br>僕たちは大事な人を本当に自分から愛せているのかと。<br>自分はアナのように求めてばかりじゃないかと。<br>自分のプライドを捨てて、自分から相手に寄り添ったことはあるのかと。<br>「ありのまま」と言いつつ、本当は怖くて氷の城に隠れてるだけじゃないかと。<br>もしくは大事な人が氷の城に篭もってるときに、自分はそこにノックし続けることが出来るのかと。<br><br>そして、自分の夢（思いこみ）が本当に必要なものなのか、その夢で自分を騙していないかと、よくよく考えてみるべきです。<br><br>例えばこの映画にしたって、「ありのままが素晴らしい」なんて一言も言ってません。「男なんていらない」なんてことも言ってません。もしこの映画を見てそれを思うのだとしたら、それは見る人が自分の中にある夢や呪いを再生してるに過ぎません。心に巣くう悪魔に騙されているのと同じなんです。<br><br>物事をよく見てください。物事の真実を、よく知ろうとしてしていきましょう。<br><br>自分で自分を騙している限り、“本当に”人を愛することも出来ません。いつまで氷の城に閉じこもってる気ですか？
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<pubDate>Thu, 24 Jul 2014 21:55:35 +0900</pubDate>
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<title>ホドロフスキー１００人坐禅会 全文 4/26 （非公式）</title>
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<![CDATA[ ラストの文字起こしは、世田谷区の龍雲寺で行われた「ホドロフスキー１００人坐禅会」（4/26）での氏の説法からになります。<br><br>ちなみに<a href="http://www.webdice.jp/dice/detail/4185/" target="_blank">webDICEがこの説法の全文を掲載している</a>とのことですが、最後の達磨大師の話など不明なことが多かったので、自分でも文字起こしすることにしました。<br><br>※ちなみに文章は、通訳さんの言葉をもとに、ホドロフスキーの意を汲み再構成したものになっております。なにか気になる点などありましたらコメントください。<br><br>○●○●○●○●○●○●○●○<br><br><strong>お元気ですか？<br><br>私はいまなぜここにいるのか、みなさんに何を話せばいいかを知りません。<br><br>なぜなら私はみなさんの師ではないからです。唯一、私を師だと言えるのは、私自身しかいないのです。ですから、いま私は、とても恐怖を感じています。胸がどきどきしています。私はここにいるのです。<br><br>私はメキシコで、高田慧穣という禅の師に5年間師事しました。彼は私の人生の中で出会った、最も誠実な5人のうちの1人でした。彼は日本から1ドル札だけを持ってメキシコにやって来ました。そこには2000万人のメキシコ人がいましたが、メキシコに来たとき彼はなにも持っていませんでした。しかし、彼は信頼を持っていました。<br><br>彼が歩いていると、精神分析医のエーリヒ・フロムが、偶然彼をみつけました。彼はそのとき、ひとつの小さな箱を持っていました。そこには冬服が入っていました。なぜなら彼は、二着の洋服しか持っていなかったのです。一着は夏服、一着は冬服でした。そしてフロムの弟子たちに迎えられ、彼はメキシコで暮らし始めました。彼は禅を教え、たくさんの精神分析医たちが彼の弟子となりました。この弟子たちは、とてもよく座禅をしました。彼らはまるでロバのように平気な顔で座禅をしていました。<br><br>しかしある日、弟子の一人が、瞑想するためにドラッグを使っていたことがわかりました。高田先生は、それを知ると怒ってみんなを追放しました。彼はそのことによって家を失くしましたが、私はメキシコに小さな家を持っていたので、瞑想ができるよう、その家を高田先生に貸しました。その後、また彼にはたくさんの弟子ができ、弟子たちが彼に住む場所を提供し、彼はそれらを転々として過ごしました。彼がなにを食べていたかというと、市場でみんなが捨てるものを食べていました。彼は、一度もお金を持ったことがありませんでした。<br><br>彼はメキシコの田舎で、メキシコ人たちに大豆の植え方を教えました。そこで彼はブタンガスの作り方や、草鞋の編み方、そして大豆から300もの製品を作れるよう指導しました。そして、とても貧乏だったメキシコ人を豊かにした伝説の人になりました。<br><br>彼が亡くなる前に唯一希望したことは、メキシコに仏教徒の地をつくることでした。でも宗教的な対立もあり、どうしていいか分からぬまま、その願いが叶うことなく彼は亡くなってしまいました。<br><br>私は彼と会って人生が変わりました。『エル・トポ』には彼の影響が大きく表れています。ここにいると、彼のことを思い出します。<br><br>彼は一度、私に彼自身の師のことを話してくれました。彼の師は、いつも同じ場所で彼ら弟子に説法をしました。ある日、説法の前に一羽の小鳥が鳴きました。彼の師は、そのまま黙って小鳥の歌声を聞いていました。そして小鳥が鳴くのをやめると、「これが私の説法だ」と言って、師はその場から立ち去ったのです。<br><br>今日ここには、歌ってくれる小鳥はいません。もし歌ってくれれば私はここから立ち去れるのに、と思います。ですから私が歌わなければならないのだと思います。<br><br>高田先生にこの話を聞いたとき、これはいったいどういう意味なのだろうと考えました。小鳥はなにも言いません。自然に歌っただけです。ですから私も歌います。いま、私は歌っています。いま、私が歌えるように歌っています。みなさんは、どのように歌うのでしょうか。<br><br>まず、言葉の黒い雲が風によって流れていって･･････そのあとの静寂の中で、みなさんは歌うのです。言葉の中には知性があります。私の思考の中に言葉が浮かばないときは、私の精神は歌っているのです。私の心に否定的な感情がないとき、私の心は歌っています。私の性的な力に過度な欲望がないとき、私の性は歌っています。私の肉体に不必要な動きがないとき、私の肉体は歌っています。<br>私は思考であり、心であり、性であり、肉体であり、カルマです。魂も歌います。自由な時に。名前がないとき、年齢がないとき、国籍がないとき、定義がないときに。これが私の魂が語る小鳥の歌です。<br><br>私の思考は、もっと知りたいと思っています。なぜなら全ては常に変化しているからです。私の心は、もっとなにかに属したいと思っています。現実と共につながりたいと心は思っています。そして私の性的活力は、もっと創造したいと思っています。創るということは与えるということです。私の肉体は、もっと生きたいと思っています。<br><br>小鳥が歌声の美しさや楽しさは、それを聞くみなさんを良い気持ちにします。そしてその小鳥が木にいると、そこに木があるということがわかります。もしそこに木がなければ、木はどこにもないのです。みなさんがここにいるとき、みなさんの完璧な全体がここに存在するのです。いま、みなさんは、どこでもない、ここにいます。ですから、ここには無限に広がる感性と思考があります。なにも批判しない心があります。創造的な性があります。そして、無駄なことをしない肉体があります。私たちの中で最も無駄なことというのは、それは「期待」と「恐怖」なのです。いま持っていないものを欲しいと思うとき。いま持っているものを失いたくないと思うとき･･････ここに座って「期待」も「恐怖」も持たなければ、みなさんは素敵な気持ちになれるでしょう。<br><br>いま、神とはなんでしょうか？ それはお金です。エホバや、キリストや、マホメットといった、神というのはいろんな名前をもっています。お金もそうです。ドルや、円や、ペソといった、たくさんの名前をもっています。でも、みんな同じです。それは私たちが社会の中で生き残るために必要なものなのです。いまの科学技術が支える社会の中で必要なものなのです。でも幸せというものは、小鳥の歌にある幸せは、お金にも科学技術の中にもありません。･･････でも、お金も科学技術もないなら、そこには幸せもないのです。<br><br>人生というのは、一本の川のようなものです。何の「期待」も「恐れ」も持たずに、その川に飛び込むということです。お金を稼ぐために働きましょう。でもお金を稼ぐのは、決して物を持つためではありません。稼いだお金は、みなさんの魂をよりよくするためにあるはずです。ですから、生きるのに必要なだけ稼げばいいのです。それで十分なのです。そうすれば、みなさんの「恐れ」は、いまよりとても少なくなると思います。そして、必要なものだけを持っているということで、「期待」を抱かなくても済むようになります。<br><br>そして、お金というものは分かち合うものだということがわかります。もし私がお金を持っていて、あなたが持っていないのなら、それは私も持っていないということです。私が食べているものを分かち合わなければ、それは私が食べていないのと等しいのです。私が自分の中に閉じこもっていると、それは私は生きているとは言えないのです。ですから、開かなければなりません。そして、愛で結びつく人を探さねばなりません。私個人の人生の目標は、人生そのもの（生命）の目標と同じであるべきなのです。もし全ての人たちがみんな自分の殻の中に閉じこもってしまえば、それは、自分たちが住む地球を破壊していることと同じことです。ひとつの名前の中に閉じ込めたり、年齢の中に閉じ込めたり、国籍の中に閉じ込めたり、古くて間違っている偏見や考えの中に自分を閉じ込めてしまうこと。それは、地球を破壊することなのです。<br><br>他に何があるでしょうか？ いま私が話せる事は、これで全てです。私は師ではありません。もし師であるなら、私はこのまま立ち去ることも出来るでしょう。そしてみなさんは、いまあるような腕もなく、きっと片手で合掌をしていることでしょう。なぜかというと、達磨大師の最初の弟子は、達磨大師に教えを請うため、自らの腕を切り落としたからです。つまり、禅の弟子というのは、腕が一本ない人のことなのです。そして弟子は、“ない”ものじゃなく、“ある”ものだけで座禅を組んでいたのです。片腕だけで坐禅を組んで、弟子たちは悟りを開くのです。私も常に両腕両脚を落としたらどうなるかと考え続けています。もし頭を落としたら、私の顔は笑ったまま落ちるでしょう。私にとって禅とはそういうものです。<br><br>ありがとうございました。</strong>
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<link>https://ameblo.jp/nagarauhiko/entry-11843971295.html</link>
<pubDate>Fri, 09 May 2014 20:02:34 +0900</pubDate>
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<title>ホドロフスキーのDOMMUNE 4/23　その３（完）</title>
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<![CDATA[ ４月２３日に配信された「ホドロフスキーのDOMMUNE」の文字起こし、その３です。この「ドン・ホセ」のくだりなど、当日の配信では「？」だった部分も、うまく構成し直せたと自画自賛です。<br><br>※ちなみに文章は、通訳さんの言葉をもとに、ホドロフスキーの意を汲み再構成したものになっております。なにか気になる点などありましたらコメントください。<br><br>○●○●○●○●○●○●○●○<br><br>ヴィヴィアン「DUNEではポールが人類の精神になって他人と個人がなくなりますけど、リアリティのダンスではホセがその役になっていますね。その人物たちの特殊性が気になるのですが･･････？」<br><br><strong>ホドロフスキー「つまり、DUNEでポールが死ぬと、みんながポールになるのです。リアリティのダンスでは、私の父が「ドン・ホセとは誰だ？」と拷問を受けますが「ドン・ホセは私の父だ！」と答えます。それから「ドン・ホセは私だ」「ドン・ホセは私の子だ」「ドン・ホセはお前だ」と私の父は答えるわけですが、つまりドン・ホセは私であり、あなたであり、みんなであるということなのです。私はドン・ホセを愛しています。その愛が全体性にまでたどり着いたときには、あなたがみんなを愛さずに、ただ一人のみを愛するということは有り得なくなるのです。こんな物語があります。ある人が自分の影に恋をし、毎日、自分の影が一番長いときに会いたいと待っていました･･････。でも、影を愛するということは、その人のただの一部だけを愛するということです。しかし、それは幻想なのです。それが全体性の愛になって、はじめて崇高な愛になるのです」</strong><br><br><br>観客から質問「監督は、世界の学生運動から影響を受けたことはありますか？」<br><br><strong>ホドロフスキー「たとえどんなときも、あなたはそのとき起こった歴史の影響を受けています。恐らくあなたは、６８年にメキシコで起こったトラテロルコの大虐殺のことを言ってるのかもしれませんが、私はそのときメキシコで演劇を作ってました。それは1000人も2000人もの人が亡くなった三文化広場で上演する予定でした。この日、劇場に行くために私たちはすごい少ない人数でバスで移動していたのですが、突然、道路一体が奇妙な静けさにつつまれました。メキシコシティはとても大きな街ですが、なのに辺りから物音の一つも聞こえなくなったのです。まるで、なにか恐ろしい沈黙が漂っているようでした。なにが起こったのか分からぬまま、私たちはそのままバスに乗っていました。この苦しみの沈黙の中にいたのに、私たちにはいま何が起こっているのか分からなかったのです。その後に、軍のバスや警官が出てきて、私たちは迂回しながら劇場に着きました。<br><br>私は、とても恐ろしかったです。なにが起こったか分からなかったからです。その後で分かりましたが･･････そのときに、人にも動物みたいな感覚があるのだと思いました。自分では説明できない感情があると分かったのです。みなさんは人は見たことしか分からないと思うかもしれませんが、人は目で見るよりもっと見えるし、聞こえるよりもっと聞こえているはずなのです。なぜかというと、私たちの無意識には限界がないからです。大きな災害や大きな悲劇に見舞われたときに、この感覚が分かるはずです」</strong><br><br><br>宇川直宏「私はライブストリーミングという行為自体をアートだと思って日々行っているのですが、果たしてアートとは何なんでしょうか？」<br><br><strong>ホドロフスキー「アートとは、光る虫を飲み込んだカエルの光るウンコです」</strong><br><br>「なんですか、その比喩は？！」<br><br><strong>「カエルは大きな口を持ち、暗いところに住んでいます。そして、月を見て月に憧れをいだきます。すると、そこに蛍のような光る虫が現れ･･････光っているが故に、思わずカエルはそれを飲み込むのです。まるで光を求めるアーティストのように飲み込み、それを消化して･･････うんことして光る作品を出すわけです。それは決して月ではありませんが、月のように光っている、とても謙虚なうんこです。つまり、アートとはその光るうんこなのです。<br><br>いまあなたのやってることが誰にも理解されなくても、それは心配しなくて良いと思います。例えば、ここにブタがいても、そのブタを馬鹿にはしませんよね？ あなたはそのブタに、消化できないような“種”をあげるのです。その“種”は、このブタにはなんの役にも立たないかもしれませんが･･････長い時間をかけ消化されて出たこのブタのうんこは、もしかしたら土壌を豊かにするかもしれません。ですから、いろんなところに“種”を蒔けばいいのです。誰かが分かろうが分かるまいが。･･････どうですか？」</strong>
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<link>https://ameblo.jp/nagarauhiko/entry-11843950579.html</link>
<pubDate>Thu, 08 May 2014 22:20:56 +0900</pubDate>
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<title>ホドロフスキーのDOMMUNE（4/23）　その２</title>
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<![CDATA[ ４月２３日に配信された「ホドロフスキーのDOMMUNE」の会話文字起こし、その２です。今回は主にタロットについての話です。ああ、誰かホドロフスキーのタロット本を日本語に訳してはくれないかなあ。。。<br><br>※ちなみに文章は、通訳さんの言葉をもとに、ホドロフスキーの意を汲み再構成したものになっております。なにか気になる点などありましたらコメントください。<br><br>○●○●○●○●○●○●○●○<br><br><br>サスケ「質問なのですが、監督の宗教的立ち位置とはなんでしょう？」<br><br><strong>ホドロフスキー「私は、どの宗教にも所属していません。すべての宗教には価値があると思いますし、強さや神秘を与えてくれるのが宗教だと思います。けど、強さというのはすべての宗教が持つもので、一つの宗教のものではありません。そしてその力は外にはなく、あなたの中にあります。みなさん自身の内に、その強さや神秘というのはあるのです。（ペットボトルを持ち上げ）このボトルの中にもその強さはあります。ですから、あなたの内にその力があるのだから、べつに他の誰かに癒してもらう必要は本当はないのです。神父もいらないし、神殿もいりません。あなたの身体が神殿であり、心臓は神として“ここに私がいる”“ここに私がいる”“ここに私がいる”･･････と、脈打っています。私は神を信じてはいません。なぜなら神を知っているからです」</strong><br><br>「わたしは『エル・トポ』の名セリフ、“ソイ・ディオス”（私は神だ）を胸にこれまで生きてきました。これからもそのように生きていきます。ありがとうございます」<br><br><strong>「プロレスは、私が思うにですが誰かを殺すためのものではありません。“私は神だ、あなたが神だということも私が示そう。もしあなたが私に神を見つけられたら、私はあなたに跪くだろう。もしあなたが見つけられなければ、私はあなたに勝つだろう”そういうように私はプロレスを見ます。どうでしょうか？」</strong><br><br>「もう、まったくその通りです」<br><br><strong>「“サンタ・サングレ”のときの私は非常に革命的だったのですが･･････メキシコの人たちはみんなサント（聖人の男性系）が好きです。映画の中で、“デ・マス・サンタ”という登場人物がいますが彼女は両性ですね。つまり私はメキシコに対して一つの挑発をしたわけです。“サント”（男性系）はあっても“サンタ”（女性系）はないからです。タロットには教皇がありますが、女教皇もあります。ですから私は、聖人にも女の聖人があってもいいはずだと思うのです。私はいつも頭の中でイエス・キリストと聖母マリアの戦いをイメージしています。あなたはもし聖母マリアに戦いを挑まれたらどうしますか？」</strong><br><br>「逃げますね･･････」<br><br><strong>「逃げる？ あっはっはっ！！ それはお母さんが怖いということですね。どうもありがとうございます」</strong><br><br><br>久保玲子「数年前にお会いしたときと、監督はほとんどお変わりないように見えるのですが」<br><br><strong>ホドロフスキー「いや、ちょっと歯が減りました。ウエストも太りましたし、腰にインプラントも入っています。変わりましたよ、いくつかの部分で。ただ、内面は同じです。もしくは少し開いたかなと思ってます。なぜかというと、人生とは経験だからです。生きていれば、毎日新しい経験が増えていきます。ですから、年をとるというのは、とても素晴らしいことだと思っています。ある人がミケランジェロにこう尋ねました。『あなたにとって、完璧な彫刻とは？』ミケランジェロは言いました。『彫刻を一番高い丘の上から落とし、転がって、余分なものが削られたら、削られずに残ったそれが完璧な彫刻だ』･･････これは年齢と同じです。みなさんは若さからどんどん転がり落ちていくわけですが、落ちていくことで、幻想や、間違った考えが、どんどん削られ落ちていくことと思います。社会はこうだと思っていた概念も壊れて落ちていくかもしれません。あなたの中の“私”という部分も落ちていくかもしれません。最後に残るのが、あなたそのものなのです。<br><br>人生というのは、いつも何かを追っているものです。でも、あなたが追っているものは、実はあなたがすでに持っているものなのです。つまり、犬が自分の尻尾を追いかけ回しているようなものです。それを追うのをやめたときが前進なのに。ですから、年をとるということは、そのためにとても良いことだと思います。経験から、追うのをやめても大丈夫だと分かるのです。しかし、困難はあります。困難は、あなたをもっと強くするためのものです。つまりそれも良いものなのです。それが私の答えです」</strong><br><br><br>久保「前に伺ったときに、タロットカードを作ったんだという話を聞いて、あのあと早速そのカードを買って日本に帰ったのですが･･････」<br><br><strong>ホドロフスキー「たぶん、見てらっしゃる方は、タロットがどんなものかご存じない方もいると思います。タロットというのは、将来を見るための道具ではありません。現在のことは見えるかもしれませんし、過去も少し見えるかもしれませんが、でも“占う”ためにタロットはあるのではないのです。タロットというのは、あなたの意識をより開発するためのものなのです。全７８枚のカードが一枚いちまい何を意味するか･･････それをどう当てはめることが出来るのか、恐らく知らないと思います。ですから、テレビゲームのようなもので、どのボタンを押せば何が起こるかをまず探さなければいけないのです。タロットも同じです。<br><br>私はタロットを一つの部分としてではなく全体として、７８枚の全体像で見ることが出来ます。全体の中の、とても小さな一つのサインが、あなたを導いてくれるのです。それがなにかということは、あなたが自分で発見しなくてはなりません。私はそのために２０年間かかりました。私も初めはタロットを部分的に見ていましたが、そのうちにタロットを全体として見れるようになったのです。タロットの真ん中には大アルカナの“世界”のカードがあり、その東西南北の四方向に四つの要素あります。私は、その要素に合うように、大アルカナや小アルカナのカードを日々いろいろな仕方で並べたりしました。するとある日突然、ぱっと、まるでマンダラのように全体像が見えて分かったのです。ただ、それが分かるまで、何年も何年も何年も･･････という長い時間が必要でした。タロットというのはまるでオーケストラのようなもので、楽器一つひとつが集まって初めて意味があるのです。一つひとつバラバラに見ていくのではなくて、全体で奏でる音楽としてタロットを聴くのです。そうすると、タロットはとても面白くなると思います。それがタロット全体で見るということです。<br><br>･･････ただ、そうは言っても、人はいろいろな部分を持っています。例えば、考えて話す人。そして、感じて相手を愛する人。そして、欲してそれを手に入れようとする人。そして、戦いという行動に出る人･･････つまり知性と、感情と、性と、肉体という４つの部分があるのです。その４つの部分が、魂によりすべて繋がっているわけです。知性は考え、心は感じ、性は欲し、肉体は行動する。ただ、この４つの部分は、互いには理解できません。意識が知性と関わり、知性が感情を解釈し、感情が欲望を解釈し、欲望が肉体を解釈するのです。すると突然、私は私の目の前にいる人も理解できるようになります。<br><br>たとえば、いま前にいるあの方･･････。（観客を指して）私が見る限り、彼にはメガネをつける頭があります。その頭の中で一体なにを考えているのか？ 次に彼が着てるジャケット、シャツを見ると･･････とても“普通”です。いま私の隣にいるサスケさんやヴィヴィアンさんに比べると、彼はとても普通です。彼がヴィヴィアンさんのような、白いカツラをつけている所を私は想像できません。サスケさんのようなマスクをつけるところも想像できない。そして彼は、性が混ざってもいません。でも、あなたの中には女性がいます。ただ、それは見えないので、どこにいるかは分かりません。そして手を見ると、話を聞きながら手が少し動いている。とても繊細なんでしょう。また、彼はなにを愛し、なにを愛さないのか？ そうやって、彼がなにを考えるかではなく、彼がどのように愛するのかを考えます。彼がどのように愛し、誰とセックスするのかを考えます。彼が前屈みになっている姿が動物のように見えるのですが、彼のセックスは野蛮な面もありつつ繊細なのかもしれない。そして彼はパワフルな肉体を持っていますが･･････もうちょっと筋トレしたほうがいいかもしれません。（笑） 次に靴を見ると、彼はとてもいい靴を履いています。つまり彼は、自分の足下をとても気にしているのでしょう。<br><br>･･････このように、私が目の前の人を見る場合、なるべく関係ないものを見ないようにします。そしてそれは、タロットのおかげなのです。タロットは大アルカナが２２枚ありますが、その中に唯一数字を持たない“愚者（０）”というカードがあります。それは、トータルのエネルギーであり、カルマのないエネルギーです。その“愚者（０）”から最後の“世界（21）”に向かって、そのエネルギーが進むのです。つまり、その間の人（カード）は、すべて“世界”でもあるのです。そのエネルギーが“世界”に向かっている流れ、その並べ方から、タロットのあと２０枚のカードが真っ直ぐ進むのか横道に逸れるのかを見ることが出来ます。そしてこの２０枚は、１０枚の２セットと見ることも出来ます。最初の１０枚（１～１０）は、とても分かりやすいカードです。しかし、２セット目の１０枚（１１～２０）は、とても見えづらいカードのようになっています。最初の１０枚のカードが手の１０本の指だとしたら、次の１０枚はまるで足の指のような１０枚なのです。･･････エトセトラ！！ つまり、タロットは占いの道具なんかではないのです」</strong>
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<pubDate>Wed, 07 May 2014 15:22:29 +0900</pubDate>
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<title>ホドロフスキーのDOMMUNE　4/23　その１</title>
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<![CDATA[ 今回から３回に渡り、４月２３日にUstream番組「DOMMUNE」で配信された、ホドロフスキーと出演者の会話をお届けいたします。当初は氏が考案したサイコセラピー（サイコマジック）を披露するとのことでしたが、氏の体調を考慮しトークのみとなりました。<br><br><br>※ちなみに文章は、通訳さんの言葉をもとに、ホドロフスキーの意を汲み再構成したものになっております。なにか気になる点などありましたらコメントください。<br><br>○●○●○●○●○●○●○●○<br><br><br>久保礼子「監督は、まるで死んで生まれ変わったかのように、新しい生が始まったことが何回かあると仰ってましたが、今回もこの作品を通して新たに生まれ変わられた感じはあるのでしょうか？」<br><br><strong>ホドロフスキー「もう一度生まれるというよりは、いまの人生を違う角度から見るようになりました。両親と絶縁すると、両親の精神からも切り離されます。私にとって、私たちの一族がなにを表しているかということは、ずっと変わっていくのです。そして、内なる自分も常に変わっていきます。タロットも同じです。たとえば、初めはあまり好きじゃないというカードや、恐怖感を抱くようなカードでも、研究していくと、そのカード自体が寛容や優しさを示してくれることがあります。ですから、あなたの家族へのイメージというのは鏡のようなものなのです。理解し、許していくことで、家族がどんな人だったかというのを発見していくのです。あなたが人間として個人的な傷を持って苦しんだのなら、家族もきっと苦しんだのです。あなたがなにか価値を持っているのなら、あなたの両親もきっと価値を持っているのです。なぜかというと、彼らはあなただからです。だから生き直すというよりは、他の方法でもう一度作ったという感じなのです」</strong><br><br><br><strong>ホド「（ザ・グレート・サスケに）先に質問をしていいですか？ プロレスはあなたの職業としてのものですか？ それとも人生が戦いだと思っていますか？」</strong><br><br>サスケ「はい、仰るとおりで、人生が戦いだと思っています」<br><br><strong>「ということは、人生と戦っているということですね」<br></strong><br>「その通りでございます」<br><br><strong>「そうすると、いつ人生を愛するんですか？」</strong><br><br>「･･････うーん、すごく難しいですね。それをいま探しているのかもしれません」<br><br><strong>「私にもいろんなときがありました。とても困難な人生です。それはアートのせいなのですが、メキシコでは刑務所に入れられましたし、本当にうまくいかないときもありました。でも最終的に、良くなるためにそれらの問題は起こったのだということが分かりました。だから、もしあなたが戦いに負けても、それも素晴らしいことなのです。どう思いますか？」</strong><br><br>「なぜ監督は、私のこれまで生きてきた人生の中身をすべてご存知なんですか･･････？ 全部、お見通しにされています」<br><br><strong>「（笑）　メキシコにとても有名なルチャドール（プロレスラー）がいました。ブルーデーモンと呼ばれ、でも、いつもマスクをしていたため、誰も彼の本当の顔を知りませんでした。彼は、ほとんど政治的な人間になっていました。しかし彼について本当に私が感動したのは、彼が亡くなったときの写真を見たときです。彼は亡くなってもマスクをつけてたのです。息子が最後のお別れをしに来たのですが、その息子も彼と同じマスクをつけてました。そして、息子も父と同じように戦っています。（彼が死んでも）彼が誰なのか、本当の姿は誰も知りません･･････。あなたはどうですか？ マスクを取ったときはどのように感じますか？」</strong><br><br>「うーん･･････自分自身じゃないような気がします」<br><br><strong>「マスクはとても魔術的です。そうじゃないですか？」</strong><br><br>「ですからたぶん、メキシコ人の多くの方が被っているんだと思います･･････」<br><br><strong>「あなたのマスクについて説明していただいていいですか？」</strong><br><br>「これは日本の伝統の歌舞伎のメイクです」<br><br><strong>「それは、どんな人物なんでしょう？」</strong><br><br>「この化粧は、歌舞伎の中でも主人公のものになります」<br><br><strong>「素晴らしい。そういう姿を見るのはとてもうれしいです。あなたはマスクをしたら神ですね･･････。マスクをつけるあなたは神なので、私は話すことが出来てとても幸せです。彼女（ヴィヴィアン佐藤さん）も、エンジェルのような頭をしているので神だと思います。なぜかというと、それをべつに誤魔化すためにしているわけではないからです。あなたたちお二人は、その姿が魂のマニフェストなのだと思います。ですから、マスクというのは洋服の理想系なのだと思います。すべての人間性というのを、そのマスクが食べてしまうのです。私はそういうことを指人形で学びました。このように人形を動かすと･･････『こんにちは！』『元気ですか！？』『ぷっぷ～！』･･････私の魂は人形のある指に宿るわけです。つまり、この指が私以上に存在感があるものとなるのです。それは魂の投影といえます。そして、あなたが誰かを愛するとき、その愛する誰かはあなた以上にあなたかもしれません。分かりますか？ ですから私にとって私の妻は、彼女は私以上に私なのです。私は彼女なしでは生きられません。（私も！と奥様。会場拍手 笑）だから、あなたはマスクなしでは生きられないと思いますし、彼女はカツラなしでは生きられないと思います」</strong><br><br>ヴィヴィアン佐藤「カツラは、あたし以上にあたしだし、化粧をすればするほど裸になって皮膚を裏返す感じなんです。本来の自分に戻るんです」<br><br><br>つづく･･････
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<pubDate>Tue, 06 May 2014 21:57:19 +0900</pubDate>
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<title>ホドロフスキー「リアリティのダンス」プレミア試写会にて</title>
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<![CDATA[ 先日来日したホドロフスキーの話を、一部文章に起こしてみました。<br><br>まずは4月22日の「リアリティのダンス」プレミア試写会での質問と回答から。<br><br><br>※ちなみに文章は通訳さんの言葉をもとに、ホドロフスキーの意を汲み再構成したものになっております。なにか気になる点などありましたらコメントください。<br><br><br>○●○●○●○●○●○●○●○<br><br><br><em>ー今作では、家族の再生が描かれていました。そして、演じられているのもご家族ですよね。</em><br><br><strong>「そうです。私の息子たちが俳優として出ていますね。私の妻も衣装を担当しました。そして私の父の役は、息子のブロンティスが演じました。<br>不思議なことですね。私の息子が、私の父を演じるなんて。<br>あと行者の役を演じたのも、私の息子です。私の師（マスター）として息子が出てきたわけです。<br>髪の毛の長いアナーキストを演じた彼は、この映画の音楽を担当しました。彼も私の息子です。そして父親役の息子によって、彼（アナーキスト）は死に追いやられます。つまり兄が弟を殺すということが行われているのです。<br>普通現実では、長女が次女を殺すとか、長男が次男を殺すということはほとんどありません。･･････でも、心の中ではどうでしょう。心の中でそれが行われているのは、自分が兄弟に侵略されていると思っているからです。そして子供は皆、父親の師になりたいと思っています。父親の父親になりたいと思わない息子もいないと思います。私はそれを、この映画の中で実現しました。ときどき私は、愛する息子が演じる父親を見ていたたまれなくなります。まるで父親を憎むように、息子を憎む気持ちになるのです。息子の中に父親を見たからです。･･････エトセトラ」</strong><br><br><br><em>ー映画をご覧になったみなさんの中にも、家族の関係で葛藤を抱えている方もいらっしゃるかもしれません。私たちは、そんな家族とどう向き合えばいいのでしょう？</em><br><br><strong>「･･････お気づきじゃないかも知れませんが、その質問はとても深い質問です。それに答えるには、５センチはある分厚い本が必要です。私はその本を書きました。サイコ・マジックという分野で家族を分析する本を書いています。<br><br>　それぞれの人は一人ひとり、少なくとも１４人の家族の一員になります。まず私とパパとママで３人･･････４人の祖父と祖母、そして８人の曾祖父と曾祖母。ですから、私はそこから数えて１５番目ということになり、私の上には１４人の家族がいるのです。その上、叔父や叔母がいます。私の兄弟姉妹、親戚、そして国の人間もいて、すべての歴史上の人物もいます･･････ですから私は、一つの大きな文化の一員というわけです。<br><br>　そこでいま何が必要かというと、少なくとも自分の祖父母の代まで研究すること。でもそのためには系図の授業をしなくてはいけません。なので、いま言えることはそれだけです。それを言うために、私はこの映画を芸術として昇華させました。そうでなければ近親相姦やサドマゾ、ナルシストや、反社会的な生き方などの問題というのは、すべて解決出来ません。とても複雑なのです」<br></strong><br><br><em>ー記者会見の場などで、「この４つの問いに答えられれば、その答えはあなたの存在の師となるでしょう」と監督は言われました。その４つの問いとは、<br><br>１、あなたの人生の目的はなにか？<br>２、人生そのもの（生命）の目的はなにか？<br>３、あなたの人生の目的と、人生そのもの（生命）の目的に違いはあるか？<br>４、もし違うなら、あなたの目的そのものを変えなさい<br><br>ということでしたが、監督ご自身はこの目的をどのようにお考えですか？</em><br><br>　<strong>「･･････それも大変深い質問ですね。それに答えるには、哲学の授業をしなくてはなりません。<br><br>『ホーリーマウンテン』（1973公開）を撮った直後、私はメキシコで数々の問題に直面していました。“殺す”と脅されたこともあったので、私は映画の素材と共にアメリカに逃げたのです。人々は、そんなことがあるのか？！ と驚いていました。当局ですらも驚きました。<br><br>それで、『ホーリーマウンテン』をニューヨークで上映することになるのですが、その間、私はずっと苦痛に苛まれていました。夜は眠れず、汗をかいては一晩で７回も着替えをしたこともあります。･･････その苦痛の中、あるとき私はニューヨークに住む中国人の賢者といわれる方に会いに行きました。<br><br>彼は美しい老人で、武術や詩や占いといった様々なことを知っていました。彼はお金を要求しませんでした。タダなんです。ですから私は、彼からタロットをタダで学べたのです。私もセラピーをしますが、精神分析医ではないのでお金はとりません。<br><br>私の順番になると、彼はまず私の脈を取りました。なにがあるか、なにが問題なのかと観察し･･････そして、私の目を見ました。そのときに、こう聞かれたのです。<br><br>『あなたの人生の目的はなんですか？』<br><br>そう言われて「いや、別に哲学を学びたいんじゃなくて、この恐怖から解放してほしいだけなんだけど」と私は答えました。すると彼は言いました。<br><br>『もし、あなたに人生の目的がないのであれば、私はあなたを癒すことは出来ない』<br><br>そこで私は考えました。そのときに初めて考えたのです。私の人生の目的はなんなのかと･･････。この映画が成功することか、金持ちになることか、理想の愛を見つけることか･･････。なにが一番大事なのかということが、そのときの私には分かりませんでした。そして、その答えが見つかったときに、私の人生は変わったのです。<br><br>自分の人生の目的は？ と考えるとき、その答えはすべて自分の思考の産物です。このとき私は個人なのです。人生は私のものだと思っています。それが、“私の”人生という意味です。<br><br>では、人生とはなんなのか？ “私の”人生の目的というのと、人生そのもの（生命）の目的 というのは違います。<br><br>「私の人生の目的」というとき、人はエゴイストになります。良くも悪くも。それより、「私たちの人生の目的はなにか？」と問いかけるほうがいいのではないでしょうか？ なぜなら私たちは、個人ではなく、集団なのですから。私たちは、文化であり、歴史であり、家族なのです。<br><br>人類の目的とはなにか？ それは、私の人生の目標と同じなのか？ <br><br>つまり、「私自身の人生の目的」から「人類の人生の目的」と考えるときに、人は本当の幸福とはなんなのかと考えるわけです。<br><br>私はなにを変えたいのか？ 私は“私の”人生を大事にしたいのか？ それとも人生そのものの目的を大事にしたいのか？ そもそも集団が人生と言えるのか？ <br><br>そのように、私とあなた、そして集団的ということを頭で考えている間は、まだその幸福との間に差があるわけです。<br><br>私は死にます。ですが、別にそれは残念なことではありません。私もみなさんと同じように死にたいとは思いませんが、でも、集団ということを考えたとき、人類というのは不死なのです。私には、大きな好奇心があります。でも、すべてを知ることは出来ません。すべてを認知することも出来ません。しかし、人類がいつか、私が知りたかったことを知るし、それをみんな知るようになる日も来るでしょう。これから先、何百万年も人類が続いていけば、それもいつかは解明されるのです。<br><br>ですから、私の目的はなんなのか？ 楽しむことか？ 美味しいものを食べることか？ 満足するセックスをすることか？ ･･････まあ、それもそうですが、けどそれだけでは十分ではありません。私のすべてを愛に打ち込むこと･･････それには限界がありません。私が生きてる限り出来ることです。そしてそれは、私と私の愛する人が次の世代に繋げば不死になります。<br><br>私は正しいのか？ いますべての思考が変化しているときに、私は正しいとどうして言えるのか？ では、私の目的とはなんなのか？ ･･････それは、私の意識を広げることです。なぜ宇宙が膨張しているのか？ それは宇宙が一つの意識を形成しているからです。誰が宇宙の意識となるのか？ それは人類です。私たちはその宇宙の意識に向かって進んでいます。その精神的、精神的、精神的精神に向かって行くことで物質まで精神にしてしまうのです。<br><br>すべてが精神だとしたら、人生に目的はありますか･･････？ ･･････NO！！ ないのです！ なぜかというと、人生そのものが目的だからです！ だから、個人が不死になる必要もないのです！ すべてを知る必要もないのです！ なぜかというと、人類の意識の中にはそれらがすべてあるからです。ですから私たちは、その大いなる宇宙の媒介者として、その意識へと向かうべきなのです。<br><br>これは一人ひとりのことを話しているわけではありません。私が話しているのは宇宙の話です。私が話しているのは、神経のニューロンの10とか20だとかのそういうレベルのものではありません。みなさんの中には、何千万、何億というニューロンがあります！ そのみなさんのニューロンを合わせたら、それは無限大になるわけです！ つまり私たちの頭の中のニューロンというのは星の数ほどあるわけです！それがどんどん繋がっていくのです。成長していくのです！ <br><br>しかし、いまその成長を拒んでいるのが文化であり、社会であり、家族なのです！ 世界のシステムは、私たちが“私たち自身”になることを拒んでいます。世界が望んでいることは、私たちが“私たち自身”じゃなく、“世界が望む私たち”になることなのです！！ 私はあれではなく、これでもなく、それでもないのです。私は私自身、私は人類、私は地球なのです！！ <br><br>ただ、愚かなために（意識が未熟なせいで）この地球を汚しているかもしれない。 愚かなために戦争を起こしているかもしれない。そして、愚かなために私たちは自分自身を閉じこめているかもしれない。でも本当は、私には国籍はないのです！ 年齢もありません！！ 名前もありません！！ なにもありません！ なにも私のものではありません。なにも私のものではない限り、それはすべて私のものなのです！ なぜかというと、私はすべての人だからです！ あなたはすべての人だからです！ あなたはすべてであり、全体なのです。そしてここに、みなさんが一緒に集まっているわけです。ここにすべてがあるのです。ここに無いものは、どこにもありません！･･････以上です」</strong>
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<pubDate>Mon, 05 May 2014 13:45:25 +0900</pubDate>
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