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<title>名古屋支部管理人のブログ</title>
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<description>まことに恐れ入りますが、ここは武道家のブログですので、ご投稿いただくときは姓のみで結構ですので本名で御願いします。</description>
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<title>爲政第二-05</title>
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孟懿子問孝。子曰、無違。樊遲御。子告之曰、孟孫問孝於我。我對曰無違。樊遲曰、何謂也。子曰、生事之以禮、死葬之以禮、祭之以禮。《訓読》孟懿子（もういし）孝を問う。子曰く、違（たが）うこと無かれと。樊遲（はんち）御（ぎょ）たり。子これに告げて曰わく、孟孫、孝を我れに問う、我れ対（こた）えて曰く、違うことなかれと。樊遲曰く、何の謂（い）いぞや。子曰く、生けるにはこれに事（つか）うるに礼を以てし、死せるにはこれを葬るに礼を以てし、これを祭るに礼を以てす。《訳》孟懿子が「孝」とはどうすればよいか問うた。孔
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<dc:date>2008-08-31T15:08:17+09:00</dc:date>
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<title>爲政第二-04</title>
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子曰、吾十有五而志乎學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而從心所欲、不踰矩。《訓読》子曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順（した）がう。七十にして心の欲する所に従って矩（のり）を踰（こ）えず。《訳》先生が言いました。&lt;&quot;ｍｓ&gt;私は十五才で学問をしようと思った(六芸の専門家になろうとした)。三十才になった時に(六芸の専門家として)自立できた。四十才の時には惑わなくなった。五十才になった時、私はこれ(六芸)で生かさ
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<dc:date>2008-08-29T16:05:11+09:00</dc:date>
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<title>六芸</title>
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論語時代からあり、江戸時代まで常識になっていた言葉で「士農工商」があります。日本では「士」のことは「侍」の事になってしまいましたが、古代の国家で基幹産業である農業に大多数の人が属していて、そごから税金を取り立てたり、戦争になると徴兵したりという国家の仕事をする公務員が必要になってきます。その公務員のことを「士」といいました。「士」は現代風にいうと、人の上に立って治める行政官のことです。「エ商」が江戸時代までは「士農」より下に来るのは、そんなに人数が多くないことと、工業をする人、商人、漁師、猟師、
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<dc:date>2008-08-28T14:31:43+09:00</dc:date>
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<title>爲政第二-03</title>
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子曰、道之以政、齊之以刑、民免而無恥。道之以徳、齊之以禮、有恥且格。《訓読》子曰わく、これを道びくに政を以てし、これを斉（ととの）うるに刑を以てすれば、民免（まぬが）れて恥ずることなし。これを道びくに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば、恥ありて且（か）つ格（いた）る。 《訳》先生が言いました。(人々)を導いてゆくのに法律と刑罰で国家を整えていこうとすれば、民衆は(法律と刑罰にふれなければ何をやっても合法だから)まぬがれれば恥としない。上に立つ人の人格で導いてゆき、これを整えるのに礼を以って
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<title>爲政第二-02</title>
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子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪。《訓読》子曰わく、詩三百、一言以てこれを蔽（おお）う、曰わく思い邪（よこしま）なし。《訳》先生が言いました。一言で詩三百(詩経)を蔽いつくすならば(表現するなら)邪(よこしま)な思いがない(どこまでも素直な想い) 。(それが詩経(古代の詩･民衆の心)というものだなぁ)五教の一つで『詩経』という古典が残されています。これは約３００編の古代中国の詩が集められていまして、編集したのが孔子だとされています。孔子の頃には古代の詩がたくさんあったようです。その中から孔子が
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<title>爲政第二-01</title>
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子曰、爲政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。《訓読》子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬（たと）えば北辰の其の所に居て、衆星のこれに共（むか）うがごとし。《訳》先生が言いました。政治をおこなうのにその政治家の徳というもので行なえば、例えば北極星だけが天の中央にいて周りのその他の星たちが北極星に向かって秩序正しく配置されているようなものです。北辰・・・北極星衆星・・・廻りの星孔子は、政治の効率や効果だけでいえば誰がやっても同じような政治になるのでしょうが、理想としているのは政治を行なう中心に立派な
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<title>学ぶことⅢ</title>
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論語に限らず漢学は子供の頃から『素読』をしました。素読とは原文(中国語･白文)を見ながら訓読(日本語読み)をする方法です。素読という勉強方法は、江戸時代から明治時代にかけて皆子供の頃素読をやってきて、子供のうちに素読をやっておくと漢文を読む訓練にもなりますし、ある年齢になると「身に付いたな」「意味が分かったな」ということになり、子供のうちに意味は分からなくても素読をやっておくと将来役に立つということを廻りの大人たちが分かっていました。ですから大人たちは子供に意味が分からなくてもよいので素読をさせ
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<title>学而第一⑯</title>
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子曰、不患人之不己知。患己不知人也。《訓読》子曰く、人の己れを知らざることを患（うれ）えず。人を知らざることを患（うれ）う。《訳》先生が言いました。人が自分のことを理解してくれないということを心配するな。自分が人を理解していないのではないかと心配しなさい。この言葉は論語で幾度も出てきます。論語は比較的若い世代の人々が、孔子の語った言葉をいろんな人・いろんなところから集めてまとめたものですから多少の重複があります。人はどうしても『自分のことを理解してくれない』と思いがちです。この章は千年の名言とい
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<title>学而第一⑮</title>
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子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如。子曰、可也。未若貧而樂、富而好禮者也。子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨。其斯之謂與。子曰、賜也、始可與言詩已矣。告諸往而知來者也。《訓読》子貢曰く、貧(ひん)にして諂（へつら）うこと無く、富みて驕（おご）ること無きは、何如（いかん）。子曰く、可なり。未だ貧にして道を楽しみ、富みて礼を好む者に若（し）かざるなり。子貢曰く、詩に云う、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如しと。其れ斯れの謂いかと。子曰く、賜（し）や、始めて与（とも）に詩を言うべきのみ。諸（
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<title>学ぶことⅡ</title>
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東アジアで伝統的な学問というものは、欧米の学問と少し違い「発見」より「発明」を重んじてきました。ここでいう「発見」は、いろいろな例を集めてきて、どういう原理で物事が出来ているのかということを見つけ出すことをいいます。それに対して一つのことの道理を、自分はどのように受け止め、社会・生活の中で生かしていくのかを気付くのを「発明」といいます。「発見」はある意味で聖人(釈迦や孔子)が世の中の原理・道理は発見しています。したがって人々は日頃の修養として、原理・道理をどう社会・生活の中で生かしていくのか考え
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