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<title>小さな学級から大きな社会へ ～ 三間シュンの教育実践の源</title>
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<title>無神経なのか</title>
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<![CDATA[ 同僚から、無神経って言われた…。<br>そう平気で言えるあなたの方が無神経でしょ、と即座に思えなかった自分に腹が立つ。<br><br><br>ガラスのハート。
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<pubDate>Tue, 04 Sep 2018 20:54:06 +0900</pubDate>
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<title>子どもに罪はない</title>
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<![CDATA[ 子どもが万引きや暴力行為をしてしまったとする。<br><br>原因は子ども自身の心の弱さだと考え、指導する大人もいるだろう。<br><br>しかし、根本に見つめたいのは、子どもがそのような子どもに育ってしまった背景だ。<br>子どもはどのようにして、そのような好ましくない行為をはたらくようになってしまったのか、知ろうとすること。<br>それは、決して甘やかしではなく、子どもの生活の歴史を受け入れ、共に未来をつくり出そうとする覚悟である。<br><br><br>子どもに罪はない。この言葉をいつも胸に刻んで、子どもに接し続けていきたい。
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<pubDate>Thu, 20 Jul 2017 05:48:35 +0900</pubDate>
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<title>学校的な価値って？～その①</title>
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<![CDATA[ 廊下は走らない！<br>→と言いつつ、廊下を走る子どもの姿をビデオで撮る人権侵害は許される。<br><br>保健室には行ってはいけません！<br>→と言いながら、学校・学級から苦しんでいる子どもの居場所を奪っている。<br><br>時間を守りなさい！<br>→と言うも、１０分の休み時間のうち、最後の１～２分は着席、黙想のために権利としての休みを奪う。<br><br>あの子とあの子は仲良しだけど、学級を荒らすからクラスを分けた<br>→そこにしか居場所はなかったのではないか、教師自身が、荒れた子どもの心の内を読みとって、人間関係を広げる活動を組織したのか？<br><br>お母さん、無理にでも学校に来させてください。来てしまえば、あとは学校が何とかします。<br>→と言いつつ、不登校の子どもを放り出させる。母親と子どもを引き剥がす役になった教師の立場はどうでもよい、という考え。<br>→１年そこら学校に行かなくたって、その子が本気で好きになれること、夢中になれること、学習を取り戻したいと切に思えば、どうにだってなるのに…<br><br><br><br>結局、学校は誰のためにあるのだろうか…
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<pubDate>Thu, 13 Jul 2017 21:06:45 +0900</pubDate>
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<title>困っている子どもと学校</title>
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<![CDATA[ どれくらい学校が子どもにとって居心地のよい学校であるかを見極めるには、ある子どもの立場に立ってみるといい。<br><br><br>それは、<br>困っている子どもへの対応やとらえ方である。<br><br><br>とかく学校は、お国の定めたカリキュラムや、管理職のまなざし、保護者からの視線に沿った教育をしようとするがあまり、<br>困っている子どもに対して、<br>学校側のレールに乗せるための対応をしてしまう。<br><br><br>困っている子どもの立場に立って、教育を見つめ直したり、社会をとらえ直したり、学校にしかないような価値や枠組を広げたりしようとしているか。<br><br><br>それは一見、子どもの姿に戸惑い、慌てふためき、また、ありのままの姿を見せることを許すような、甘やかした対応に見えるかもしれない。<br><br><br><br>しかし、本来、指導とは、良好な人間関係の上に立って行うものである。<br><br><br><br>子どもの行動に慌てふためいたり、戸惑ったりしてしまう行為は、むしろ、その子の姿から学ぼう・理解しようとするものではないか。<br><br><br>それは、決して、全ての子どもを閉ざされた学校的価値観の中に閉じ込めることにはつながらない。<br><br><br>社会的にも立場の弱い子どもの姿から、生きやすい社会を創造しようとする、教師の懸命な姿である。<br><br><br><br><br>教師自身のそんなひたむきな姿を見出だしてもらいながら、共に生きやすい社会をつくるためのつながりを広げていきたい。
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<link>https://ameblo.jp/name8810/entry-12292342213.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Jul 2017 20:47:03 +0900</pubDate>
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<title>学校は変わるのか</title>
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<![CDATA[ 管理職という言葉が大嫌いだ。<br><br>上の人間はなぜ、校長のおかしさを追及できないのか。<br>上の人間はなぜ、校長の言った通りのことばかりするのか。<br><br>子どものことを第一で考えると、そういうおかしさばかりが目につく。<br><br><br>結局は排他的利己主義なんだよ。特に排他的なのは弱者に対して。<br><br>子どもはその最たるもの。<br>枠からはみ出てしまう子どものサインやメッセージこそ、小さな学級・学校・社会を変える、大きなうねりをつくり出すヒントだと信じたい。
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<link>https://ameblo.jp/name8810/entry-12292084214.html</link>
<pubDate>Wed, 12 Jul 2017 22:26:50 +0900</pubDate>
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<title>※講義を受けて～学生からの質問②</title>
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<![CDATA[ ｢トラブルが起きたと周りが認識しておらず、一人で悩んで泣いたりしている場合はどうするか｣<br><br>たとえば、鬼ごっこで、新しいルールを加えたいが、みんなに伝えることができずに立ち往生し、涙を流している場合を想定する。<br><br><br>相互理解の視点を考えると、今は周りの誰も困っている(泣いている)子のことに気づいていない状況。<br><br>この状況を開いていくには、<br>・教師の力でみんなを呼び、加えたいルールを伝えさせる。<br>→このやり方で、困っている子の気が晴れるなら、確かに有効な方法と言える。<br>しかし、この方法を続けると、反対に、困ったら教師を頼ればよいと安易に考え、すぐにヘルプを大人に出す子どもも育ってしまわないか。<br>確かに、周りに困っている状況の子を理解できる友達がいない場合は、教師が一番の理解者になることは大切だと思う。<br>だが、一番追求していきたい集団のあり方は、相互理解、加えて相互承認ができる子どもたちである。<br>つまり、大人に甘えてしまう困っている子のことも受け止め、手を差しのべられる集団の姿である。<br>そう考えると、次の方法が浮かんでこないだろうか。<br><br><br>・困っている状況に手を差しのべられる子を、教師が探す。<br>→つまり、困っている状況に気づき、打破できるリーダーを育てるという視点である。<br>そんな子を見つけ始めると、教師は既に、困っている状況を打破するために子どもたちと悩める相手になる。<br>教師が問題に一人であたっていない点に、特に注目してほしい。<br><br><br>集団を育てる視点は、常に集団のあるべき姿(理想となる考え)を理解できる者を増やしていく活動とセットである。<br><br>トラブルを解決するばかりが、トラブル指導の目的ではない。集団を育てるために、トラブルをどう生かすか。<br><br>その視点で子どもたちに関わり始めたとき、<br>初めて、トラブルの真ん中に立ち右往左往する状況から一歩抜け出して、子どもたちと手を取り、よりよい集団を育てる一歩を踏み出せるのかもしれない。
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<link>https://ameblo.jp/name8810/entry-12291483906.html</link>
<pubDate>Tue, 11 Jul 2017 06:59:12 +0900</pubDate>
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<title>※講義を受けて～学生からの質問①</title>
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<![CDATA[ ケガをさせた場合も謝らせないのか？<br><br>→｢謝らせない｣と考えるのは過ちである。<br>もちろん、形だけ謝らなければならないときもある。<br><br>たとえば、意図していないものの、相手にぶつかってケガをさせてしまった場合で考える。<br><br>子どもは、意図していないことを主張しがちである。<br>しかし、この考えは｢自分のことしか頭にない｣、とも言える。<br><br>このトラブルで、一番困ったのは、ケガした相手である。その困った気持ちを一先ず落ち着けてもらうために、謝りが先に出る場合もある。<br>もちろん、ケガをさせたという事実確認は先にするが。<br><br><br>周りの人とうまくやっていくための考え方、とも言えるだろう。<br><br>トラブル指導の視点として押さえておきたい。
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<link>https://ameblo.jp/name8810/entry-12291475927.html</link>
<pubDate>Mon, 10 Jul 2017 21:52:57 +0900</pubDate>
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<title>大学の講義で言えなかったこと</title>
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<![CDATA[ 子どものトラブルは、事実確認が先決であるということ。<br>それをやってしまった子、やられてしまった子相互を確認した上で、お互いの想いを聞き合うのである。<br><br>だからこそ、たとえ暴力をふるってしまった子とやられてしまった子がいても、相互理解をさせる＆集団の輪の中に戻すための方策を探る、という視点は外せない。<br><br>トラブルをきっかけとして自己理解、他者理解を図りつつ、行動に見通しをもてる子を育みたいのがねらいだからである。<br><br><br>謝りは促すものではなく、自然と申し訳なさが立つような指導を進めていきたい。<br><br>→謝りが自然に出たということは、子ども同士の相互理解が進んだということにもなるのではないだろうか。<br><br>そんな視点をもちつつ、子どものトラブルに向き合い続ける教師を追求していきたい。
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<link>https://ameblo.jp/name8810/entry-12291473863.html</link>
<pubDate>Mon, 10 Jul 2017 21:46:46 +0900</pubDate>
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<title>大学での講義を担当して</title>
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<![CDATA[ 大学で実地指導講師を務めました。相手は三年生90名。<br>自分が学んでいる｢生活指導｣という言葉を出さずに、指導の本質を語りたいと思ったけど、、、難しかったです…。<br><br>ただ、今の学生が教員になり、若手なりの悩みと向き合いながら、教師を続けていくために、<br>この時期に自分が大学という場所で、失敗をもとに経験を語らせてもらうこと自体に意味があると思いました。<br><br><br><br>今の学生は、附属小学校での実習や大学の実地指導で、附属小学校の先生方と出会う機会は多いようです。だからこそ、うまくいく話しか聞いていないという、偏った価値観が形成されているとも言えます。<br><br><br>それゆえに、うまくいかない場面を少しでも知ってしまうと、｢怖い｣｢自信がない｣などと、自分が右往左往してしまう姿を想像してしまうようです。<br><br>だからこそ、その違和感を大切にしてほしいし、実は実践はうまくいかないだらけの失敗から学ぶことの方が多いことを知ってほしくなりました。<br><br>つまり、学生はうまくいかなければならない、形どおりの教師になる｢べき｣と縛られてがち。<br>どのような思考や体験から、形どおりの教師になってしまうのか、そのメカニズムや学校生活・環境・状況を失敗談に乗せて伝えること、これこそが最も学校で自分らしく、かつ子どもを大切にしようという意識の芽生えに不可欠なのではないかと気づくことができました。
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<link>https://ameblo.jp/name8810/entry-12290722695.html</link>
<pubDate>Sat, 08 Jul 2017 11:20:15 +0900</pubDate>
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<title>それは、何に対する怒りですか</title>
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<![CDATA[ 昔のことを思い出して書く。<br>教育委員会から特別支援学級を無視した制度を押し付けられた。<br>詳しくは書けないが、その制度をもとに私を含めた数人が役割を分担することになり…。<br><br>｢この制度は特別支援にいる子どもや担任の今をないがしろにする制度ですよね？役割分担を変えるわけにはいかないものでしょうか？｣<br>とその制度の役割分担をしていた担当教諭に話すと、<br>｢それは俺の担当じゃねぇんだから、俺に言うなよ！じゃあ、どうすればいいとか！？｣的な言葉を返され、その役割分担の場の雰囲気は一気に悪くなった。<br>｢じゃあ、どんなでもいいです｣と言って、身を引いた私。<br>そのあと、｢先生の気が済んでいないんなら、それを言ってから決めようや｣となぜかなだめ始めた担当教諭。<br>いらっとして、｢別に大丈夫です｣<br>と返しただけで終わってしまった。<br><br>～後悔～<br>怒りをぶつけられた後に、｢それは何に対する怒りですか？制度ですか？それとも私自身ですか？｣<br>と問い返せばよかった。<br>苦しむ立場になる特別支援学級の担当のことを理解してほしいと、制度のおかしさを共有したいと思っただけなのだから、そのことに気づかせるチャンスを逃してしまったような気がしてならない。
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<link>https://ameblo.jp/name8810/entry-12278469355.html</link>
<pubDate>Sat, 27 May 2017 21:38:29 +0900</pubDate>
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