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<title>心理カウンセリングすこやか</title>
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<description>東京・銀座にある心理カウンセリングすこやかは、アルコール依存症の改善、薬物依存症からの脱出、認知症の改善、人間関係の改善等の心理的な問題についてのカウンセリングを行います。</description>
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<title>甲斐駒ヶ岳</title>
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<![CDATA[ 甲斐駒ヶ岳<br>１９９９年７月１０日（土）新宿から特急あずさに乗って甲府で下車。<br>甲府から他の登山者３名とタクシーの乗り合いで甲斐駒登山口の竹宇駒ケ岳神社に着く。<br>ここから標高差２，２００ｍの黒戸尾根経由で甲斐駒ヶ岳の山頂を目指すのであるが、途中、鎖のついた刃渡りを登る。岩山がむき出しの刃のように見えるところである。<br>肝を冷やすような崖を渡り切って黒戸山の右側を巻き終えると、鞍部の手前に５合目小屋があるが、ここは避難小屋なので通過して七丈小屋に泊まる。<br>小さな小屋であるが、２０人位が泊まれる。食事は山小屋では珍しくマグロの刺身がついていた。大変美味しいしくいただいた。<br>翌朝は曇天で霧がかかっていた。<br>危険な個所を梯子と鎖場を登って、小雨で霞んで見えた甲斐駒ヶ岳頂上に着く。見通しが悪く遠方は見えなかった。<br>雨で濡れて滑る岩場を注意しながら駒津峰に着く。<br>岩場を下って双児山経由で北沢峠に着く。<br>北沢峠からバスで広河原、さらにバスを乗り継いで甲府に戻り特急あずさで新宿に帰る。<br>黒戸尾根は日本三大急登の一つで、広大で素晴らしい尾根であった。<p>詳しくは <a href="http://nobunedachi.com/75017/?p=832&amp;fwType=amb">http://nobunedachi.com/75017/?p=832&amp;fwType=amb</a></p>
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<pubDate>Sat, 26 Sep 2020 14:55:46 +0900</pubDate>
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<title>滑落しかけた大菩薩峠</title>
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<![CDATA[ 思い出の登山「大菩薩峠」<br>台風で登山道が欠落した崖で、あわや滑落！と思ったとたん・・・左手に弦が！<br>１９９７年７月５日（土）一人で早朝に新宿から中央本線で塩山に行く。<br>塩山駅からバスで大菩薩峠登山口の裂石に行く。<br>裂石から上日川峠経由で「福ちゃん莊」に着く。「福ちゃん莊」の前で弁当を食べ、「福ちゃん莊」から４０分位登ったところの大菩薩峠で記念写真を撮る。<br>大菩薩峠から雷岩に行き、富士山の見える雷岩で缶ビールを呑み、写真を撮る。ここは天気が良いと３６０度見える最高のスポットである。<br>雷岩でくつろいだ後、林の中を歩いて最高峰の大菩薩嶺に着いた。<br>大菩薩峠では沢山の登山者がいたが、雷岩では数人となり、大菩薩嶺では殆どいなかった。そこは林の中という感じで周りの景色はよく見えない。<br>最終バス（１７時１０分）に間に合うように丸川峠経由で下山することにした。<br>駆け足で下山を始めて１０分位したとき、数日前の台風で登山道が欠落して崖になっていた。<br>安全を選ぶなら、崖の手前を左に迂回して藪漕ぎして行けばいいのですが、何分最終バスの時間を気にして急いでいたので崖を横切ることにした。<br>その崖の部分（約１５ｍ）を３点確保で渡っている途中で、左足、左手に掛けた出っ張ったところが同時に欠落した。<br>あぁ！滑落すると思ったとたん、崩れた土を被ったが、土の中で水平に張っていた弦が偶然にも左手に入っていたので、５０ｃｍ位落ちたところで止まった。<br>ピーンと横に張った弦につかまっていたのです。<br>太さが５ｍｍ位の弦であったが、しっかりと土の中で根を張っていたので助かった。<br>慌ててほかの出っ張りに手足を置いて、恐る恐る渡り切った。<br>落ちていたら２０ｍ位下の出っ張りで止まるか、そこでバウンドして更に１００ｍ位下の谷まで滑落したと思った。<br>それも、急いでいたので三脚につけた一眼レフをザックにしまわず、ベストに挟んで抱きかかえるカッコウであった。<br>カメラとベストが泥をかぶっただけですんだ。<br>下山途中の「まるかわ莊」に着いたとき、男性の登山者が３人「まるかわ莊」に泊まるところであったので、頂上近くの登山道が先日の台風で欠落しているところがあり、そこで滑落しかけたので、回り道して行くことを薦めた。<br>バス停の避石には１７時前に着いたので最終バスにはなんとか間に合った。<br>今回の登山は「急がば回れ」の教訓通りにしなかったことから起きたのであるが、偶然にも弦が左手に入っていたので奇跡的に助かった。<br>山で弦は見かけることがあるが、うるしの弦であったら被れると言われているので触ったことがなく、避けて通っていた。<br>大菩薩峠は１５回ほど登っており、また、その他の山で何度も危険な思いをしたが、実際に滑落しかけたのは今回が初めてであった。<p>詳しくは <a href="http://nobunedachi.com/75017/?p=804&amp;fwType=amb">http://nobunedachi.com/75017/?p=804&amp;fwType=amb</a></p>
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<pubDate>Mon, 24 Aug 2020 14:54:40 +0900</pubDate>
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<title>思い出の登山「雲取山」</title>
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<![CDATA[ おもいでの登山・・・雲取山<br>　　　　　　　　　　　　２０２０年７月３０日　　根立進康<br>曇天の真夜中に前後左右上下の見えない山中で、ドッキリしたことがあった。<br>１９３５年５月４日（火）単独で新宿からＪＲで奥多摩駅に行く。<br>奥多摩駅から丹沢行バスでお祭りで下車。ここから３時間ほど歩いて山小屋「三条の湯」に着く。<br>この山小屋はほぼ満員であったが入浴して汗を流す。<br>夕飯を食べた後、ラジオを聞いたところ、前日に４０代の男性が近くの沢に転落して死んでいたとの放送があった。<br>２１時頃から３時間位仮眠し、ご来光を見るために１時頃から曇天の暗闇の中を１人で雲取山山頂に向かった。<br>月も星も何も見えなかったが懐中電灯を頼りに登り始める。<br>ラジオで放送のあった沢の近辺を懐中電灯で照らしながら登っているとき、近くの笹薮からキキキキーと大きな鳴き声が聞こえた。<br>びっくりして懐中電灯を向けたが、登山道の左側の笹薮の中を猿ると見られる動物がサササササーと逃げていく音が聞こえた。<br>大変驚いたが、気を取り直して山頂目指して登る。<br>４時３０分頃に雲取山荘に着いた。山荘には沢山の登山客が宿泊していた。<br>ここから３０分ほど登って雲取山頂上に着いた。<br>日の出の時間になんとか間に合うことができた。<br>すぐに一眼レフでご来光を撮ろうとしたが、あいにく雲が多くてご来光は拝めなかった。<br>雲が多かったが晴れ渡ってきて、雪をかぶった富士山が綺麗に見えた。<br>そして、標高２０１７ｍの雲取山の看板の前で記念撮影をした。<br>下山は七ツ石山、鷹ノ巣山を通って日原鍾乳洞に降りた。<br>ここで一休みしてら鍾乳洞に入ったところ、狭くて長い洞窟は大変涼しく、洞窟の奥は大きな空間になっていた。<br>まるでちょっとしたホールを思わせた程の大きな空間であった。<br>鍾乳洞には富士山麓の鳴沢氷穴ほか数か所見たが、日原鍾乳洞は大きさからしても立派なものである。<br>東日原からバスに乗って奥多摩駅に帰ったが、この日は夜中の１時から夕方１８時までの１７時間の行程で歩数は４５，０００歩となっていた。<br>私の生涯で、１日としては最も長い山行であった。<p>詳しくは <a href="http://nobunedachi.com/75017/?p=759&amp;fwType=amb&amp;blog=7372">http://nobunedachi.com/75017/?p=759&amp;fwType=amb&amp;blog=7372</a></p>
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<pubDate>Sun, 16 Aug 2020 11:17:31 +0900</pubDate>
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<title>初めての富士山</title>
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<![CDATA[ 思い出の登山　初めての「富士山」<br>初めての富士登山で、山小屋で知り合ったスウェーデン人と登頂する。左が私、右がジョハンソンさん<br>１９９３年７月１０日（土）早朝に新宿から中央本線で大月に行き、大月から富士急行で富士吉田駅（現、富士山駅）に到着した。<br>この年の富士山の山開きは残雪の影響で７月１日でなく１週間ほど遅れていた。<br>富士吉田駅から１時間ほど歩いて富士浅間神社に着き、神社で参拝してから神社の裏手の登山口から登りだす。<br>吉田口登山道を２時間ほど登って馬返に着く。馬返しから暫く登って１合目となるが、近年は５合目までバスで走るようになってからすたれてしまった。<br>そのため５合目までの途中の茶屋と山小屋は廃屋になっていた。<br>一般の登山者は少なく、行き交う人は富士山マラソンのトレーニングで走っている人であった。<br>５合目の佐藤小屋から上は営業しているが、予約している６合目の雲海莊に午後６時３０分頃到着した。<br>ここで同宿したスウェーデン人のジョハンソンさんと仲良くなり、ジョハンソンさんが山小屋の主人に注文することなど、私は片言の英語で通訳してあげた。<br>山小屋の主人は通訳のお礼として、販売している５００ｍｌの水をプレゼントしてくれた。<br>ジョハンソンさんはスウェーデンの電気関係の会社の副社長で、東京電力に出張にきたついでの登山であった。<br>歳は４８歳で、身長１８３㎝、体重８０㎏の立派な体格である。<br>かつては、９０㎞スキーマラソンに出たり、エベレストにも登頂した模様である。<br>私がクーラーボックスに入れて持ってきた缶ビールでジョハンソンさんと乾杯し、ウィスキーを飲み交わした。<br>翌朝、山小屋で朝食した後、ジョハンソンさんと一緒に登りだす。<br>途中、アメリカ人、イギリス人、フランス人等の外人さんと会って挨拶したが、ジョハンソンさんの英語が流暢なので会話が弾んだ。<br>吉田口登山道の頂上の久須志神社で参拝し、茶屋で昼食してからお鉢を左回りで剣ヶ峰に登った。<br>剣ヶ峰の富士山測候所前の日本最高峰３７７６ｍでジョハンソンさんと記念写真を撮る。<br>そして、浅間大社奥宮に参拝した後、ジョハンソンさんと別れて私は御殿場口方面に下る。（ジョハンソンさんは所持品を預けてある６合目の雲海莊に戻る。）<br>下山をし始めてすぐに２０歳位の青年と出会って一緒に駆け足で砂走を下る。（この青年は国体のマラソンに出たと言われ、とても早いフットワークであった。）<br>青年は軽装でザックはなく、靴も登山靴ではなく普通の運動靴であった。<br>足は速いが、所々で止まって靴に溜まった砂を捨てていたので、なんとか一緒に御殿場口まで下りた。<br>御殿場口登山口に友達を置いて、一人で駆け足で上り下りした模様である。（この青年は静岡から乗用車で出て富士山の日帰り登山を行っていた。）<br>ここで青年と別れて、御殿場方面に下っているとき、後方から軽四輪が走ってきたので、手を挙げて乗せてもらい、御殿場駅近くで二千円をお礼に渡して降りた。<br>ここからタクシーで温泉会館に行って入浴して帰りました。<br>ジョハンソンさんとは、お互いに取った写真を後日、郵送しあいました。<br>富士登山は今までに、この吉田口から登って御殿場口に下山したのをはじめとして、その後、須走口、また吉田口、それに７０歳で妻と一緒に登った富士宮口からの登山で計４回登頂しましたが、この初回の富士登山が、６合目からスウェーデン人と登頂したこと、下山道の長い御殿場口を国体のマラソン選手と駆け足で下りたことで、大変思い出深い登山であった。<p>詳しくは <a href="http://nobunedachi.com/75017/?p=773&amp;fwType=amb&amp;blog=7372">http://nobunedachi.com/75017/?p=773&amp;fwType=amb&amp;blog=7372</a></p><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fwww.mng.at-ml.jp%2Fcache%2F75017%2F2020%2F08%2F16%2F1597543949.jpg" contenteditable="inherit" style="max-width:250px; max-height:400px">
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<pubDate>Sun, 16 Aug 2020 11:12:31 +0900</pubDate>
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<title>思い出の登山</title>
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<![CDATA[ 思い出の登山　初めての「富士山」<br>初めての富士登山で、山小屋で知り合ったスウェーデン人と登頂する。<br>１９９３年７月１０日（土）早朝に新宿から中央本線で大月に行き、大月から富士急行で富士吉田駅（現、富士山駅）に到着した。<br>この年の富士山の山開きは残雪の影響で７月１日でなく１週間ほど遅れていた。<br>富士吉田駅から１時間ほど歩いて富士浅間神社に着き、神社で参拝してから神社の裏手の登山口から登りだす。<br>吉田口登山道を２時間ほど登って馬返に着く。馬返しから暫く登って１合目となるが、近年は５合目までバスで走るようになってからすたれてしまった。<br>そのため５合目までの途中の茶屋と山小屋は廃屋になっていた。<br>一般の登山者は少なく、行き交う人は富士山マラソンのトレーニングで走っている人であった。<br>５合目の佐藤小屋から上は営業しているが、予約している６合目の雲海莊に午後６時３０分頃到着した。<br>ここで同宿したスウェーデン人のジョハンソンさんと仲良くなり、ジョハンソンさんが山小屋の主人に注文することなど、私は片言の英語で通訳してあげた。<br>山小屋の主人は通訳のお礼として、販売している５００ｍｌの水をプレゼントしてくれた。<br>ジョハンソンさんはスウェーデンの電気関係の会社の副社長で、東京電力に出張にきたついでの登山であった。<br>歳は４８歳で、身長１８３㎝、体重８０㎏の立派な体格である。<br>かつては、９０㎞スキーマラソンに出たり、エベレストにも登頂した模様である。<br>私がクーラーボックスに入れて持ってきた缶ビールでジョハンソンさんと乾杯し、ウィスキーを飲み交わした。<br>翌朝、山小屋で朝食した後、ジョハンソンさんと一緒に登りだす。<br>途中、アメリカ人、イギリス人、フランス人等の外人さんと会って挨拶したが、ジョハンソンさんの英語が流暢なので会話が弾んだ。<br>吉田口登山道の頂上の久須志神社で参拝し、茶屋で昼食してからお鉢を左回りで剣ヶ峰に登った。<br>剣ヶ峰の富士山測候所前の日本最高峰３７７６ｍでジョハンソンさんと記念写真を撮る。<br>そして、浅間大社奥宮に参拝した後、ジョハンソンさんと別れて私は御殿場口方面に下る。（ジョハンソンさんは所持品を預けてある６合目の雲海莊に戻る。）<br>下山をし始めてすぐに２０歳位の青年と出会って一緒に駆け足で砂走を下る。（この青年は国体のマラソンに出たと言われ、とても早いフットワークであった。）<br>青年は軽装でザックはなく、靴も登山靴ではなく普通の運動靴であった。<br>足は速いが、所々で止まって靴に溜まった砂を捨てていたので、なんとか一緒に御殿場口まで下りた。<br>御殿場口登山口に友達を置いて、一人で駆け足で上り下りした模様である。（この青年は静岡から乗用車で出て富士山の日帰り登山を行っていた。）<br>ここで青年と別れて、御殿場方面に下っているとき、後方から軽四輪が走ってきたので、手を挙げて乗せてもらい、御殿場駅近くで二千円をお礼に渡して降りた。<br>ここからタクシーで温泉会館に行って入浴して帰りました。<br>富士登山は今までに、この吉田口から登って御殿場口に下山したのをはじめとして、その後、須走口、また吉田口、それに７０歳で妻と一緒に登った富士宮口からの登山で計４回登頂しましたが、この初回の富士登山が、６合目からスウェーデン人と登頂したこと、下山道の長い御殿場口を国体のマラソン選手と駆け足で下りたことで、大変思い出深い登山であった。<p>詳しくは <a href="http://nobunedachi.com/75017/?p=773&amp;fwType=amb">http://nobunedachi.com/75017/?p=773&amp;fwType=amb</a></p>
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<pubDate>Fri, 14 Aug 2020 13:22:00 +0900</pubDate>
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<title>思い出の登山</title>
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<![CDATA[ おもいでの登山・・・雲取山<br>　　　　　　　　　　　　２０２０年７月３０日　　根立進康<br>曇天の真夜中に前後左右上下の見えない山中で、ドッキリしたことがあった。<br>１９３５年５月４日（火）単独で新宿からＪＲで奥多摩駅に行く。<br>奥多摩駅から丹沢行バスでお祭りで下車。ここから３時間ほど歩いて山小屋「三条の湯」に着く。<br>この山小屋はほぼ満員であったが入浴して汗を流す。<br>夕飯を食べた後、ラジオを聞いたところ、前日に４０代の男性が近くの沢に転落して死んでいたとの放送があった。<br>２１時頃から３時間位仮眠し、ご来光を見るために１時頃から曇天の暗闇の中を１人で雲取山山頂に向かった。<br>月も星も何も見えなかったが懐中電灯を頼りに登り始める。<br>ラジオで放送のあった沢の近辺を懐中電灯で照らしながら登っているとき、近くの笹薮からキキキキーと大きな鳴き声が聞こえた。<br>びっくりして懐中電灯を向けたが、登山道の左側の笹薮の中を猿ると見られる動物がサササササーと逃げていく音が聞こえた。<br>大変驚いたが、気を取り直して山頂目指して登る。<br>４時３０分頃に雲取山荘に着いた。山荘には沢山の登山客が宿泊していた。<br>ここから３０分ほど登って雲取山頂上に着いた。<br>日の出の時間になんとか間に合うことができた。<br>すぐに一眼レフでご来光を撮ろうとしたが、あいにく雲が多くてご来光は拝めなかった。<br>雲が多かったが晴れ渡ってきて、雪をかぶった富士山が綺麗に見えた。<br>そして、標高２０１７ｍの雲取山の看板の前で記念撮影をした。<br>下山は七ツ石山、鷹ノ巣山を通って日原鍾乳洞に降りた。<br>ここで一休みしてら鍾乳洞に入ったところ、狭くて長い洞窟は大変涼しく、洞窟の奥は大きな空間になっていた。<br>まるでちょっとしたホールを思わせた程の大きな空間であった。<br>鍾乳洞には富士山麓の鳴沢氷穴ほか数か所見たが、日原鍾乳洞は大きさからしても立派なものである。<br>東日原からバスに乗って奥多摩駅に帰ったが、この日は夜中の１時から夕方１８時までの１７時間の行程で歩数は４５，０００歩となっていた。<br>私の生涯で、１日としては最も長い山行であった。<p>詳しくは <a href="http://nobunedachi.com/75017/?p=759&amp;fwType=amb">http://nobunedachi.com/75017/?p=759&amp;fwType=amb</a></p>
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<pubDate>Thu, 30 Jul 2020 19:59:30 +0900</pubDate>
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<title>思い出の登山</title>
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<![CDATA[ <br>右から２番目が私です。<br>&gt;思い出の登山　　　　　　根立進康<br>私の本格的な登山は冬山の八ヶ岳が初めてです。<br>今から６０年前の登山は、今とは比べ物にならないくらい不便で危険なものでした。<br>１９６０年１１月１９日（土）新宿駅発の夜行列車で友人３人と一緒に小淵沢に向かった。車内は大半が若者の登山者で満員になっており、座席はとれなかった。<br>当時は、夜行列車による登山が流行っており、登山と言えば夜中に登り始めるものと思っていた。<br>小淵沢駅に未明につき、編笠山登山口の観音平まで２時間ほど歩いた。<br>まだ暗い中を懐中電灯を点けて登り始め、編笠山の中腹でご来光を見た。<br>編笠山は登りやすい山であったが、そこから青年小屋を通って権現岳に向かった。<br>権現岳は積雪になっており、馬の背になっているところを恐る恐る登った。馬の背の両側は数百メートルの崖である。<br>そして、馬の背を通り過ぎた辺りは、いたる所で「キケン」と赤いペンキで書かれた立札があり、なんども怖い思いをした。<br>近年は鎖、ロープ等が施されており、危険な個所は少ない。<br>頂上の手前で、登山道が途切れた危険な崖を５ｍくらい横切らなくてはならないところがあった。<br>３点確保しながら、一部ガクガクしている岩につかまりながら横切っていたが、途中で軍手が雪で冷たくなって手の感覚がなくなってきた。<br>しかたなく、軍手を歯で噛んで外して捨てたところ、数百メートル下へ落ちていくのが見えた。<br>もし、滑落したら完全に命はないところである。<br>権現岳を登頂し、下山は前三ツ頭経由で駆け足で下りたが、途中で木株に躓いて転んだりした。若かったせいか怪我もなく無事に甲斐大泉駅に暗くなって着いた。<br>列車の乗り継ぎが悪く、駅前の簡易旅館に４人で泊まったが、翌朝早く一番電車で東京に帰った。<br>近年と違って交通機関が少ないことから、登山口までのアプローチに時間がかかり、その上、危険な場所も未整備で「キケン」の看板があるだけで、危ない思いをしながらの登山であったが、大変いい経験をした。<br>「日本百名山」の著者である深田久弥氏の時代は昭和の初期であり、交通機関が少なく、登山口までのアプローチに時間がかかり、その上、近年とは比べものにならないくらい危険な登山を強いられながら、百名山を踏破したものと思います。<br><p>詳しくは <a href="http://nobunedachi.com/75017/?p=723&amp;fwType=amb&amp;blog=7372">http://nobunedachi.com/75017/?p=723&amp;fwType=amb&amp;blog=7372</a></p><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fwww.mng.at-ml.jp%2Fcache%2F75017%2F2020%2F07%2F28%2F1595941908.jpg" contenteditable="inherit" style="max-width:250px; max-height:400px">
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<pubDate>Tue, 28 Jul 2020 22:11:51 +0900</pubDate>
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<title>思い出の登山</title>
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<![CDATA[ <br>右から２番目が私です。<br>&gt;思い出の登山　　　　　　根立進康<br>私の本格的な登山は冬山の八ヶ岳が初めてです。<br>今から６０年前の登山は、今とは比べ物にならないくらい不便で危険なものでした。<br>１９６０年１１月１９日（土）新宿駅発の夜行列車で友人３人と一緒に小淵沢に向かった。車内は大半が若者の登山者で満員になっており、座席はとれなかった。<br>当時は、夜行列車による登山が流行っており、登山と言えば夜中に登り始めるものと思っていた。<br>小淵沢駅に未明につき、編笠山登山口の観音平まで２時間ほど歩いた。<br>まだ暗い中を懐中電灯を点けて登り始め、編笠山の中腹でご来光を見た。<br>編笠山は登りやすい山であったが、そこから青年小屋を通って権現岳に向かった。<br>権現岳は積雪になっており、馬の背になっているところを恐る恐る登った。馬の背の両側は数百メートルの崖である。<br>そして、馬の背を通り過ぎた辺りは、いたる所で「キケン」と赤いペンキで書かれた立札があり、なんども怖い思いをした。<br>近年は鎖、ロープ等が施されており、危険な個所は少ない。<br>頂上の手前で、登山道が途切れた危険な崖を５ｍくらい横切らなくてはならないところがあった。<br>３点確保しながら、一部ガクガクしている岩につかまりながら横切っていたが、途中で軍手が雪で冷たくなって手の感覚がなくなってきた。<br>しかたなく、軍手を歯で噛んで外して捨てたところ、数百メートル下へ落ちていくのが見えた。<br>もし、滑落したら完全に命はないところである。<br>権現岳を登頂し、下山は前三ツ頭経由で駆け足で下りたが、途中で木株に躓いて転んだりした。若かったせいか怪我もなく無事に甲斐大泉駅に暗くなって着いた。<br>列車の乗り継ぎが悪く、駅前の簡易旅館に４人で泊まったが、翌朝早く一番電車で東京に帰った。<br>近年と違って交通機関が少ないことから、登山口までのアプローチに時間がかかり、その上、危険な場所も未整備で「キケン」の看板があるだけで、危ない思いをしながらの登山であったが、大変いい経験をした。<br>「日本百名山」の著者である深田久弥氏の時代は昭和の初期であり、交通機関が少なく、登山口までのアプローチに時間がかかり、その上、近年とは比べものにならないくらい危険な登山を強いられながら、百名山を踏破したものと思います。<br><p>詳しくは <a href="http://nobunedachi.com/75017/?p=723&amp;fwType=amb&amp;blog=7372">http://nobunedachi.com/75017/?p=723&amp;fwType=amb&amp;blog=7372</a></p><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fwww.mng.at-ml.jp%2Fcache%2F75017%2F2020%2F07%2F28%2F1595940073.jpg" contenteditable="inherit" style="max-width:250px; max-height:400px">
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<pubDate>Tue, 28 Jul 2020 21:41:16 +0900</pubDate>
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<title>思い出の登山</title>
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<![CDATA[ 右から２番目が私です。<br>&gt;思い出の登山　　　　　　根立進康<br>私の本格的な登山は冬山の八ヶ岳が初めてです。<br>今から６０年前の登山は、今とは比べ物にならないくらい不便で危険なものでした。<br>１９６０年１１月１９日（土）新宿駅発の夜行列車で友人３人と一緒に小淵沢に向かった。車内は大半が若者の登山者で満員になっており、座席はとれなかった。<br>当時は、夜行列車による登山が流行っており、登山と言えば夜中に登り始めるものと思っていた。<br>小淵沢駅に未明につき、編笠山登山口の観音平まで２時間ほど歩いた。<br>まだ暗い中を懐中電灯を点けて登り始め、編笠山の中腹でご来光を見た。<br>編笠山は登りやすい山であったが、そこから青年小屋を通って権現岳に向かった。<br>権現岳は積雪になっており、馬の背になっているところを恐る恐る登った。馬の背の両側は数百メートルの崖である。<br>そして、馬の背を通り過ぎた辺りは、いたる所で「キケン」と赤いペンキで書かれた立札があり、なんども怖い思いをした。<br>近年は鎖、ロープ等が施されており、危険な個所は少ない。<br>頂上の手前で、登山道が途切れた危険な崖を５ｍくらい横切らなくてはならないところがあった。<br>３点確保しながら、一部ガクガクしている岩につかまりながら横切っていたが、途中で軍手が雪で冷たくなって手の感覚がなくなってきた。<br>しかたなく、軍手を歯で噛んで外して捨てたところ、数百メートル下へ落ちていくのが見えた。<br>もし、滑落したら完全に命はないところである。<br>権現岳を登頂し、下山は前三ツ頭経由で駆け足で下りたが、途中で木株に躓いて転んだりした。若かったせいか怪我もなく無事に甲斐大泉駅に暗くなって着いた。<br>列車の乗り継ぎが悪く、駅前の簡易旅館に４人で泊まったが、翌朝早く一番電車で東京に帰った。<br>近年と違って交通機関が少ないことから、登山口までのアプローチに時間がかかり、その上、危険な場所も未整備で「キケン」の看板があるだけで、危ない思いをしながらの登山であったが、大変いい経験をした。<br>「日本百名山」の著者である深田久弥氏の時代は昭和の初期であり、交通機関が少なく、登山口までのアプローチに時間がかかり、その上、近年とは比べものにならないくらい危険な登山を強いられながら、百名山を踏破したものと思います。<br><p>詳しくは <a href="http://nobunedachi.com/75017/?p=723&amp;fwType=amb&amp;blog=7372">http://nobunedachi.com/75017/?p=723&amp;fwType=amb&amp;blog=7372</a></p><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fwww.mng.at-ml.jp%2Fcache%2F75017%2F2020%2F07%2F28%2F1595936976.jpg" contenteditable="inherit" style="max-width:250px; max-height:400px">
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<link>https://ameblo.jp/nedachi5841/entry-12614040774.html</link>
<pubDate>Tue, 28 Jul 2020 20:49:38 +0900</pubDate>
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<pubDate>Tue, 28 Jul 2020 20:44:47 +0900</pubDate>
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