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<title>東京都・25歳・男性</title>
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<description>自分の心に映った世のあれやこれやの「からくり」を、一歩引いたところから、それでいて「自分の思い」とからめて記していきます。人間全体にとってよりよい「システム」、そういうことを軸としながら書いていく方針です。</description>
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<title>抽象的なことと空想のあいだ</title>
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<![CDATA[ 昨日は久々にこびけんの後輩に出くわした。来週から日本を発つことになるから、しばらくは顔を合わすことはなくなるだけに、ありがたい偶然だった。<br><br>やっぱり彼と話をするときにはいつも話の抽象度が上がる。理系の人間と話をするときは大抵話が抽象的になる。<br><br>技術と政治の話、コンピュータの設計原理の話、質量保存やホメオスタシス、フィードバック構造の話など、それはもう多岐にわたる面白い話ができてまた一段と有意義な時間を過ごすことができた。<br><br><br>今回の記事のきっかけは彼との別れ際にちょろっと話したことにある。<br><br>自分「俺の話って大体いつも抽象的になりがちなんだよね」<br>後輩「というか、空想っぽいところがありますね」<br><br>というやりとりだ。そのやりとりをちょっと前に思い出し、「抽象的なことと空想的なことの違いってどう把握すればいいのだろうか」という疑問が生まれることになった。<br><br>内容のスケールに関していうのであれば、抽象的なことも空想的なことも大きなスケールを取り扱うことができる。抽象的なことの方はその言葉の定義上、小さなスケールの物事を扱うことはできないだろうけど、さしあたりここではその点については措くことにしようと思う。<br><br>二つの本質的な違いはなんだろう。<br><br>たぶんそれは、その考えを成り立たせる根拠があるかないか、あるいはその根拠がしっかりしたものであって、その考えの正当性、妥当性を立証するに十分なものかどうかにあると思う。<br><br>そしてさっきから読んでいる、『シャーロック・ホームズの記号論』という本に思わぬ形でヒントがあった。<br>そこでは具体的な個別の事象から一般的・普遍的な事柄を導き出す「帰納」という行為に関して、それと反対の行為としての「演繹」、そしてその両者と区別される形で提示される第三の知的行為としての「推論」が示される。<br><br>ホームズが相手の些細な特徴からその人間の特徴を見事に推理して見せるとき、ホームズ自身は「当て推量」を避けるべきものとして退けてはいるけれども、実際には純粋な帰納と演繹からは導き得ない帰結を得ていることから、そこには確かに無意識のうちに行う「当て推量」の作用が効いていることが指摘されている。<br><br>そして「当て推量」は、医者たちが患者の病状を診断する際に日常的に用いられるものであること、その理由は医学という分野がその本性において統計的に乏しいサンプル数を元に病状を診断しなければならないという事情に求められるとされる。<br><br><br>事実の集積とその抽象だけでは新しい事実は生まれることはない。それは演繹にしても同じだ。<br>新しい発見、新しい事実の解明にはいつも多かれ少なかれ「当て推量」ということが関わっているということ。<br><br>抽象的なことと空想的なことの間に何らかの優劣関係を設定しようというわけではないけれども、二つのことがらの間にはホントはすごく微妙な関係が確かな形で存在しているように思えてくる。<br><br>空想だけでは他者を説得することはできない。そうかといって純粋に抽象化だけでは新しい発見が得られない。<br>この持ちつ持たれつのような関係が大事なんだろうな、きっと。<br><br><br>はあ、今回の文章はひどいな、なんか。<br>
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<link>https://ameblo.jp/nhnonym39/entry-11255334651.html</link>
<pubDate>Sun, 20 May 2012 02:57:01 +0900</pubDate>
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<title>ファブリーズとつけ麺とマック</title>
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<![CDATA[ バイト先は風通しが悪い。風が入るようにしても風が「流れて」いってる感じがない。<br><br>だから校舎の中には匂いがこもる。それが「<span style="color: rgb(0, 190, 255);"><b>いいにおい</b></span>」なら問題ないんだけど、「<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><b>悪いにおい</b></span>」のときは気持ちも悪くなる。<br><br>そこで教室長は<span style="color: rgb(96, 191, 0);"><b>ファブリーズ</b></span>を買った。ダウニーの香りは強力だ。そしてファブリーズを手にした自分は校舎の隅から隅まで「シュッシュシュッシュ」と吹きつけながら歩いて回った。<br>効果は抜群で、すぐに匂いは劇的に変わり、校舎にいた全ての人はボトル一本のファブリーズと引き換えに少しの幸せを手に入れた。<br><br>そのとき思った。「ああ、いいにおいは人をいくらか幸せな気持ちにしてくれるものだなあ。」と。幸せについて何時間も頭を悩ませているよりも、ただその時においしそうなビーフシチューの匂いがしたり、柔軟剤のいい香りがしたり、近くにいる人から香水のいい匂いがしてきたら、それだけで幸せになることだってある。そんなときに幸せを感じ取っているのは「<span style="color: rgb(127, 63, 0);"><b>鼻</b></span>」だ。<br><br>「<b style="color: rgb(255, 127, 0);">幸せ</b>」という価値はとても感覚的なもので、それは頭で理解するものではなくて「感じる」ものだ。<br>実際、「<b>幸せを理解した</b>」なんていう言い方をすることはなくて、「<b>幸せを感じた</b>」と言う方が一般的だ。<br>とにかくそれは「感じる」ものだ。論理で理解するものじゃない。だから機械には「幸せ」が理解できない。<br><br>校舎を改善するためにこれまでいろいろなところに投資をしてきた。改善することを通して実現しようとしたのは、その場にいる人たち（講師、生徒、保護者の方々、そのほかの様々な訪問者など）の「<b style="color: rgb(255, 127, 0);">幸せ</b>」だった。<br><br>「<span style="color: rgb(239, 130, 239);"><b>匂い(smell/scent/odor)</b></span>」を通して実現する幸せが確かにあることを感じた。鼻という器官が生まれた理由は「幸せを感じるため」ではもちろんない。それは生物の生存競争に「匂いを感じること」が必要だったからだ。<br><br><br><br>校舎を後にして、自分と教室長は行きつけのラーメン屋でおなじみの「<span style="color: rgb(178, 124, 81);"><b>つけ麺(cold Chinese noodles)</b></span>」を食べた。おとといも食べたけど、作ってる人が違うからチャーシューの味もつけ麺の固さもつけ麺のスープの味もいつもと違ってた。だから「いつものあの味」を求めて改めて昨日、店に入った。<br><br>同じ店に何度となく、しかも頻繁に通ってると、同じ店で作っていても人によって味が違うなんてことが分かるようになる。あの人の味はこう、この人の味はこう、みたいな。<br><br>「<b style="color: rgb(255, 255, 0); ">マクドナルド(McDonalds)</b>」は対照的だ。誰が創っても味は同じ。それがマニュアル化の意義であり、チェーン展開に必要なことでもある。全国どこにいっても同じ味。いつ作っても、誰が作っても同じ味。<br><br>まさしく「<span style="color: rgb(0, 0, 255);"><b>科学的な味(scientific taste)</b></span>」だ。実験と同じだ。条件が同じなら結果は変わらない。「<span style="color: rgb(0, 190, 255);"><b>同質性（homogeneity）</b></span>」と言い換えてもいい。<br>そしてそれがある意味、マクドナルドの価値ですらある。その科学的な味こそがマクドナルドを世界中に拡大させ、時代を超えて続く企業にした。<br><br>だからマクドナルドは本質的に機械化(automation)可能なんだ。その<span style="color: rgb(0, 0, 255);"><b>科学性</b></span>ゆえに。<br><br><br>そのつけ麺の店は機械化できない。それはその店のつけ麺の味が科学的じゃないからだ。その味が「ローカルさ（locality）」と結び付いているからだと言ってもいい。ラーメン二郎も同じだ。店の名前は同じでも店舗によって味が違う。そしてそのことはそれぞれの店の価値につながっている。「それぞれの」ってところがマクドナルドとは違う点だ。「渋谷のマックはケチャップがやたら効いてて、新宿のマックはパテがやたらあぶらっこい」みたいなことはあってはならないんだ。「そんなのはマックらしくない」とさえ言える。<br><br>「幸せ」が「<span style="color: rgb(0, 255, 128);"><b>感覚（sense）</b></span>」と分かちがたく結びついてるとき、それは「同質的な価値（homogeneous value）」から遠ざかる。それぞれの人が感じる「幸せ」は、まさにその人だからこそ感じることができるというところにその幸せの価値の源泉がある。<br>マクドナルドがうまくいってるのは、それが「そういうもの」としてすでに「感覚」的に浸透しているからだ。その浸透具合は価値の同質性の欠点を補って余りあるほどの価値を生み出すことができている。コカコーラも、吉野家の牛丼も、ナイキのスニーカーもiPhoneもその意味では同じ。だからそのどれも機械生産が可能だ。<br><br>でも機械生産が可能であるからこそ、生み出せない価値がある。たとえば大森駅の改札の横に。その店のつけ麺の味は人によって味が違う。それがその店のつけ麺の「価値」だ。「人間にしか出せない味」、もっと言うと「人間にしか作れないもの」を作ることによって成り立っている店なんだ。<br><br>その店に何度もやって来る客たちは意識的にせよ無意識的にせよ、あるいは多かれ少なかれそんなことを感じとっているだろう。<br><br>機械生産は人間よりはるかに大量な財の生産を可能にした。しかしそれが犠牲にしたものは「異質性」、「ローカル性」、そして何より「感覚」なんだと感じた夜だった。<br>
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<link>https://ameblo.jp/nhnonym39/entry-11252745688.html</link>
<pubDate>Thu, 17 May 2012 05:37:04 +0900</pubDate>
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<title>均一化と差別化</title>
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<![CDATA[ <span style="color: rgb(0, 191, 0);"><b>均一化</b></span>（同質化）と<span style="color: rgb(255, 127, 0);"><b>差別化</b></span>（異質化）について考えた。<br><br>ビジネスの言葉では均一化は「<span style="color: rgb(0, 190, 255);"><b>コモディティー化</b></span>」とも言われ、高付加価値化、あるいはブランディングの妨げになるものと位置付けられることが多い状態だ。&nbsp;<br><span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>有形財</b></span>では機械を使った生産が中心になるから、その生産様式からの必然的な帰結として<span style="color: rgb(0, 190, 255);"><b>コモディティー化</b></span>に陥りやすい。<br><br>A：経済成長が「<b>GDP</b>（国内総生産）を増やすこと」<br>と定義され、<br>B：GDPとは「ある国において一年間に生産され取引の対象となった<b>付加価値</b>の合計」<br>と定義されるということから、<br><br>C：「<i>付加価値を増やすことが経済を成長させるための重要な行動だ</i>」<br>という言明が導ける。<br><br><span style="color: rgb(115, 115, 115);"><b>機械</b></span>の生産が中心の<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>有形財</b></span>よりも、<span style="color: rgb(239, 130, 239);"><b>人間</b></span>によって生産される<span style="color: rgb(0, 0, 255);"><b>無形財</b></span>の方が付加価値は高くなりやすい。<br><br>だから経済の中で生産される財の中心が有形財から無形財（<span style="color: rgb(148, 113, 222);"><b>サービス</b></span>）に移ったことは必然だ。<br>「<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><b>脱コモディティー化</b></span>」という言葉がよく使われるけれども、機械による生産を行う限り、本質的に<span style="color: rgb(0, 191, 0);"><b>同質化</b></span>は避けられない。<br>そもそもミスなく安定的なクオリティーの財を大量に生産することを目標に生まれたのが機械だからだ。<br>もちろんここでの「脱コモディティー化」とは、他者の製品と比べての話ではあるけど、機械によって生産された製品は国際展開するときにどこでも同じように機能するための「<span style="color: rgb(64, 255, 255);"><b>標準規格</b></span>」が求められやすい。<br><br>だから必然的に、どの企業の製品も、その供給の規模を拡大させるにつれて標準規格に沿うようになり、同質化していくことになる。<br>あるいは<span style="color: rgb(127, 63, 0);"><b>ボーン・グローバル企業</b></span>ならば初めから国際規格を意識して生産を始めるから、同質化はもっと早い段階から顕著な形で現れることになる。<br><br>一方で<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>有形財</b></span>であっても、ひとつひとつ人間の手によって作られた製品は、同質化の程度は低く、スーツやかばんなどで採用されることの多い<span style="color: rgb(128, 0, 0);"><b>オーダーメイド</b></span>はもっとも同質化から遠い有形財だ。<br><br>でも有形財は人の手で生産しようとすると規模の拡大には限界があるから、機械生産に敵わず、価格を引き上げることによって生き残りをかけるようになる。<br><br>一方で<span style="color: rgb(0, 0, 255);"><b>無形財</b></span>は基本的には人の手による生産が中心で高付加価値化が比較的容易であり、なおかつ多くの人に同時に消費してもらうことが原理的に可能だ。それは学校の講義やセミナーだけでなく、ソフトウェアなどの情報関連の無形財についてもあてはまる。<br><br>サービスは相手に応じて内容を変えることも比較的容易だ。<br><br>貿易の理論における<span style="color: rgb(64, 0, 127);"><b>比較優位</b></span>の概念は企業間の競争においてもその威力を発揮するけれども、あれは<b style="color: rgb(0, 191, 0);">同質財</b>について妥当する話であって、<span style="color: rgb(255, 127, 0);"><b>異質財</b></span>に当てはまるものではない。<br><br><span style="color: rgb(0, 191, 0);"><b>同質化</b></span>は規模の拡大が簡単な一方で、技術進歩の有無によらず価格の低下をもたらしやすい。<br><span style="color: rgb(255, 127, 0);"><b>差別化</b></span>は規模の拡大が困難な一方で、価格は比較的高い水準で安定しやすい。<br><br>「<i><b>機械が人の仕事を奪う</b></i>」というのは、その後に生じやすい<span style="color: rgb(0, 190, 255);"><b>低価格化</b></span>という現象を通じて、一人当たりの所得水準を下げる方向に働くのではないか。<br><br>仮に一国全体の所得（GNP）水準が上昇しても、一人あたりの所得がそれに伴って上昇していなかったら意味がない。機械が高給取りになって発展する経済では人間が置いてけぼりをくうばかりだ。<br><br>機械による高付加価値化は難しいということ、GDPの増加というのは<b>高付加価値化の促進</b>という、人間の得意な行為を通してなされるものであるということを再認識し、「<b>脱所有</b>」とか「<b>成熟</b>」という形容に甘んじることなく、先進国における低成長を脱する活路を「<span style="color: rgb(239, 130, 239);"><b>人間中心の生産様式</b></span>」に求める時期が来ていると感じる。<br>
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<link>https://ameblo.jp/nhnonym39/entry-11247459192.html</link>
<pubDate>Fri, 11 May 2012 04:45:46 +0900</pubDate>
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<title>流行とコンサバ</title>
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<![CDATA[ 次から次へと出てきては人々をその中心へ向かわせる力をもつ、<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>流行</b></span>。<span style="color: rgb(255, 130, 115);"><b>ブーム</b></span>。<br><br>夏ならさわやかなマリン・コーデ。冬なら今期はモノクロのIライン。<br>色、素材感、シルエット、組み合わせ方など、流行を構成する要素はさまざまだ。その個々の要素の組み合わせ方、特に強調される要素の移り変わり、新しい組み合わせ方、捉え方の中で流行は広まっていく。<br><br>それが一番明確な形で意識される分野は<b>ファッション</b>だろう。毎年毎年、流行のスタイルは変わる。<br><br>でも一方で、<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>流行</b></span>を追いかけていて気がつくことがある。それは流行は<span style="color: rgb(0, 191, 0);"><b>アレンジ</b></span>とともに繰り返されるということだ。<br>５年前に流行ったスタイル、80年代後半に流行ったスタイル、海外で流行ったスタイルなど、それは地理的、時間的な隔たりを通して他の地域・時代の流行として使いまわされるようなことがよくある。<br><br>いや、あえて言うならばその様にして流行が生まれる側面が確かにある。<br><br>それは「<span style="color: rgb(239, 130, 239);"><b>移り変わるもの</b></span>」、「<span style="color: rgb(148, 113, 222);"><b>移ろいゆくもの</b></span>」、あるいは「<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><b>絶えず変化を続けるもの</b></span>」としての「<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>流行</b></span>」がもつ、逆説的な性質だ。<br><br>言い換えるなら、「<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>移りゆくもの</b></span>」の生みの親は「<span style="color: rgb(0, 0, 255);"><b>変わらない価値をもつもの</b></span>」であるという逆説性をはらんだものとしてファッションなどの<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>流行</b></span>を捉えることができる。<br><br>流行が次々と新しく生まれる一方で、「昔ながらの手堅い格好」として「<span style="color: rgb(0, 190, 255);"><b>コンサバ</b></span>」がある。<br><br>でも「<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>流行</b></span>」を取り入れる人の数と、「<span style="color: rgb(0, 190, 255);"><b>コンサバ</b></span>」を取り入れる人の数を比べると、皮肉なことに「<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>流行</b></span>」を意識してる人の方が多数派だという現実がある。<br>それはある意味で、流行の方が相対的な意味で普遍性をより大きくもっていることの証左と考えられないだろうか。<br><br>変わらないもの、ほぼ確実にウケるものとして取り入れられる「<b style="color: rgb(0, 190, 255);">コンサバ</b>」が、実はその反対にあると考えられているところの「<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>流行</b></span>」よりも特殊なものであるという実態。<br><br>そういう意味では「<b><i>流行はコンサバ以上にコンサバらしく、コンサバは流行以上に流行らしい</i></b>」と言えるのではないだろうか。<br><br>変化させること、次々と新しいものを生み出していくことによって、その中から変わらない価値が生まれるようなプロセスとしての<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>流行</b></span>。<br><br>変化しないことによって、一定以上の普遍性を獲得できないという皮肉を抱える<span style="color: rgb(0, 190, 255);"><b>コンサバ</b></span>。<br><br><span style="color: rgb(96, 191, 0);"><b>万物は流転する</b></span>とか、<span style="color: rgb(96, 191, 0);"><b>諸行無常</b></span>とか、古今東西にいろんな表現をもって「移ろいゆくもの」が形容されてきた。そしてそれこそが人間社会、世界の真実だみたいな解釈がなされてきた。<br><br>ファッションという<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>流行</b></span>の一形式を通して、こうした「<span style="color: rgb(96, 191, 0);"><b>無常</b></span>」に対して新しい光を当てることができるかもしれない。<br><br>それは無常であることによって普遍性を獲得していくという逆説性、普遍性を獲得したと信じ、それをかたくなに守ることによって普遍性が損なわれるというアイロニー。<br><br><br>流行って面白い。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nhnonym39/entry-11247414632.html</link>
<pubDate>Fri, 11 May 2012 01:57:09 +0900</pubDate>
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<title>産業の発展と物理学</title>
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<![CDATA[ 馬から蒸気機関車、自動車、電車、飛行機と、<span style="color: rgb(127, 63, 0);"><b>交通機関</b></span>の発展によって人間が移動する方法はより幅広くなった、それぞれの交通手段は互いに代替関係にあり、利用時間の短縮化を通じて人間の生活において効率化をもたらしている。<br><br>今のところ、後に出るものほど、移動にかかる費用が高いという傾向があるのは、後に出るものほど技術的な水準が高いせいだろう。<br><br>交通機関の発達の歴史を振り返ると、それぞれの交通機関の誕生が<span style="color: rgb(0, 191, 0);"><b>物理学</b></span>の発達と分かちがたく結びついていることがよくわかる。<br><br>ただ移動手段の多様化と効率化が進んでも、移動の必要性がそれに伴わない限りはその市場のパイは拡大しない。<br>もちろん効率化によってより安く海外に行けるようになったなら、海外旅行が増えるだろうって考えることもできるけど、海外旅行の必要性は今のところはほとんど娯楽として位置付けられてるのが実体だろうから、そのための時間のある時にしか利用されることはない。<br><br>新しいものが生み出されるためには、その前に<span style="color: rgb(255, 130, 115);"><b>学問的なブレイクスルー</b></span>が必要になる。<br>でも新しくとれる資源の量がもうそろそろ限界って状況になると、「<b>ものづくり</b>」は「<span style="color: rgb(255, 127, 0);"><b>サービス</b></span>」に置き換わる。<br><br>こうして経済は「<b style="color: rgb(255, 127, 0);">サービス化</b>」の流れに移行することになる。<br><br>サービス化のトレンドがずっと続いているのは、学問分野の研究成果が民間の経済活動に還元される割合が、以前に比べて減ってきているからではないか。<br>還元されてる分野ではサービスとも結びつきつつも、どちらかというと製品に近い形で新たな市場が生まれ、パイが拡大していく。<br>科学技術研究の方向が軍事に向かっているときには、産業の発展は<b>軍事産業</b>に集中する。<br>戦争が終われば軍事研究に注がれていた科学研究はそれに変わる新しい「稼ぎ口」を求めて「<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><b>金融</b></span>」へと軸を移した。<br><br>そうして<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><b>金融業</b></span>が発展することになった。<br><br>現在のところ、科学技術の研究のうち、民間の活動と密接に結びついている印象が強いのは<span style="color: rgb(0, 0, 255);"><b>発電技術</b></span>。<span style="color: rgb(148, 113, 222);"><b>エネルギー産業</b></span>。<br><span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>情報技術（IT）</b></span>の研究も進んではいるけど、基本的には技術が還元されているというよりはアイデア勝負というトレンドの方が支配的な実情を見ていると、やっぱり限界というかうまく活用しきれていないんだろうなという感じを受ける。<br><br>物理学の動向を追ってると、次にどの産業が発展することになりそうなのか、大まかな予測ができる。<br><br>かなり雑な文章だし、正確さを欠くところも多いけど、とりあえず備忘録的に書いてみた。<br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nhnonym39/entry-11240952381.html</link>
<pubDate>Fri, 04 May 2012 05:03:14 +0900</pubDate>
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<title>生物進化と経済発展って似てるなあ。</title>
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<![CDATA[ 久々に経済学のテーマで。<br><br>数日前から「<span style="color: rgb(0, 191, 0);"><b>バイオノミクス</b></span>」っていう本を読み始めたんだけど、これが半端なく面白い。<br><br style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: 'lucida grande', tahoma, verdana, arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 11px; line-height: 14px; text-align: left; background-color: rgb(237, 239, 244); ">人間の経済発展の歴史を24時間に縮めて考えると、初めの23時間は発展ゼロで、次の45分で<span style="color: rgb(127, 63, 0);"><b>農業経済</b></span>に移行して、最後の15分ってところで<b style="color: rgb(255, 0, 0);">産業革命</b>が起きて現在に至ってる。<br style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: 'lucida grande', tahoma, verdana, arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 11px; line-height: 14px; text-align: left; background-color: rgb(237, 239, 244); "><br style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: 'lucida grande', tahoma, verdana, arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 11px; line-height: 14px; text-align: left; background-color: rgb(237, 239, 244); ">一日でいえば最後の15分の間で生じた現象が今の世界が機能する根本原理であるかのように、機能し、その舞台での成功者がイコール人生の成功者の様に扱われている。<span style="color: rgb(0, 0, 255);"><b>資本主義</b></span>は<span style="color: rgb(0, 191, 0);"><b>生物進化</b></span>のアナロジーとして出現した、<b>お金</b>を媒介とする進化の原理なんじゃないかとすら思える。<br style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: 'lucida grande', tahoma, verdana, arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 11px; line-height: 14px; text-align: left; background-color: rgb(237, 239, 244); "><span style="text-align: left; background-color: rgb(237, 239, 244); "><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: 'lucida grande', tahoma, verdana, arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 11px; line-height: 14px;"><br></span></span>生存競争とその結果としての敗者の淘汰、適応、環境の変化による市場内部の環境変化。<br style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: 'lucida grande', tahoma, verdana, arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 11px; line-height: 14px; text-align: left; background-color: rgb(237, 239, 244); "><br style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: 'lucida grande', tahoma, verdana, arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 11px; line-height: 14px; text-align: left; background-color: rgb(237, 239, 244); ">生態系と資本主義は考えてみれば似ているところがすごく多いのも、おそらく人間が生物として経験してきた生存競争というシステムのアナロジーとして資本主義っていうシステムが生まれたことの証拠なんじゃないかと思ったりもする。<br style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: 'lucida grande', tahoma, verdana, arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 11px; line-height: 14px; text-align: left; background-color: rgb(237, 239, 244); "><br style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: 'lucida grande', tahoma, verdana, arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 11px; line-height: 14px; text-align: left; background-color: rgb(237, 239, 244); "><span style="color: rgb(255, 127, 0);"><b>アダム・スミス</b></span>を資本主義の父とするのが標準的な経済学史の解釈で、それに基づいて経済を考えると、市場は政府という外部の力を借りなくても「<span style="color: rgb(255, 127, 0);"><b>神の見えざる手（God's invisible hand）</b></span>」によって、内部で長期の間に適切に調整されながら機能・発展していくというロジックになる。<br>マルサス、リカード、ミル、ベンサム、ワルラス、マルクスなど、ここから先で登場する様々な学説も基本的には長期を対象として経済の運行を説明する。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>ケインズ</b></span>の登場で経済学は短期の作用を重視するようになった。確かにケインズの言うとおり、「<b style="color: rgb(255, 0, 0);">In the long run, we're all dead. （長期ではわれわれはみんな死んでいる）</b>」というのも一面では正しい。経済が「<span style="color: rgb(0, 191, 0);"><b>運命論的（deterministic）</b></span>」にではなく、起こりうる様々な変化の中から「<b style="color: rgb(0, 0, 255); ">確率的（stochastic）</b>」に変動するというのも本質を捉えていると思う。<br><br>ただここでもう一度、生物の進化という観点を導入し、進化にかかるスピードを再認識し、そんなに焦って先に進もうとせずにじっくり進化を遂げようとする姿勢が必要ではないだろうか。実際問題、本当に重要な進歩は経済の歴史を振り返ってみてもそうそう短期間の間に生じたわけではない。世俗的な理解では短期間に集中してるっていうだろうけど、そうした表面に出てくる明らかな「進化」の陰には長きにわたって蓄積されてきた先人たちの努力が存在している。<br style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: 'lucida grande', tahoma, verdana, arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 11px; line-height: 14px; text-align: left; background-color: rgb(237, 239, 244); "><span style="font-weight: bold; "></span><br>だから経済の中で生まれる競争の結果として生まれる、「勝者」と「敗者」、あるいは「強者」と「弱者」の二分法についても、今みたいに短期的に決定するのではなくて、もっと長い目で評価する方が経済の機能の点でより適切なんじゃないかと思う。仮に経済への参加者全員の間でそんな合意ができたならば、おそらく経済主体全員にとってより望ましい発展が達成されるように思える。<br><br>「弱者」とされる人々をどう機能させるか、そもそも「弱者」を規定する基準は正当なものか、そしれ弱者を排除することが本当の意味で全体にとってプっらすかってことを考え直す必要があると思う。<br><br>たとえばA社とB社が同じ業界の中でシェアを巡って競争して、A社が買ってB社が負けたとする。そこでB社がつぶれたらB社の社員の所得はゼロになる。競争が避けられないものなら「勝敗」がその結果として生じるのは必然だけど、負けた方のロスが大きすぎる場合、当該経済全体の規模でみたときに縮小した富は勝者の側にとっても間接的な意味でのロスになっている。<br><br>提携ならば「<b>Win-Win</b>」がありうるだろうけど、競争ならば少なくとも最近ではほとんどパイが拡大していないから「<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><b>ゼロサムゲーム</b></span>」になってしまい、誰かにとってのゲインは別の誰かにとってのロスになっている。<br><br>経済の中をマネーが駆け巡り、それは「<span style="color: rgb(239, 130, 239);"><b>信用創造</b></span>」のメカニズムを通してその規模を膨張させ、経済の血液としてそこかしこを駆け巡っていても、そのマネーに対応した実体のところで生じている「勝敗」は血液の流れを変え、敗者の元から血液が奪われ、勝者の下に流れ込み、膨張していく。<br><br>原理的にはすべての人を信用できる状態だありうるはずだし、それが望ましいはずなんだけど、経済の中では「<span style="color: rgb(239, 130, 239);"><b>信用</b></span>」はいつでも色々な選択肢の中で比較検討され、どれかひとつ、あるいはいくつかの少数に「<b>選択</b>」される。<br><br>そこでは信用は相対的なもので、全てを信用することはできない。なぜならば「<span style="color: rgb(239, 130, 239);">信用</span>」が有限な「<span style="color: rgb(255, 255, 0);"><b>お金</b></span>」というチャネルを通して評価されるからだ。<br><br>「<span style="color: rgb(239, 130, 239);"><b>信用</b></span>」はそれを評価するチャネルとして機能する「<span style="color: rgb(255, 255, 0);"><b>貨幣</b></span>」を通じて決定されるため、信用の解釈方法は貨幣を対象とする研究を通じてなされるようになる。それは「<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>金融</b></span>」と呼ばれる。<br><br>金融は理論的なほころびを生んでいることは2008年に生まれたリーマンショックよりもずっとずっと以前からわかりきっていたことだ。<br>それはそもそも「<b>信用を貨幣で測る</b>」という根本原則自体がおかしなものだからだ。<br><br>「<span style="color: rgb(239, 130, 239);"><b>信用</b></span>」はいつのまにかエンジニアリングの対象になり、数学的・機械的な解釈のもとで「<span style="color: rgb(148, 113, 222);"><b>アルゴリズム</b></span>」を通して評価されるようになった。<br><br>本当にこれが人間が生きていく上での最適な「<b style="color: rgb(0, 191, 0);">系（system）</b>」なのか。その答えをずっと考えている。<br style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: 'lucida grande', tahoma, verdana, arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 11px; line-height: 14px; text-align: left; background-color: rgb(237, 239, 244); "><div style="text-align: left;"><font color="#333333" face="'lucida grande', tahoma, verdana, arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif"><span style="font-size: 11px; line-height: 14px;"><br><br></span></font></div><br>
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<link>https://ameblo.jp/nhnonym39/entry-11239978957.html</link>
<pubDate>Thu, 03 May 2012 02:29:11 +0900</pubDate>
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<title>推理小説の「作品」というフィルター</title>
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<![CDATA[ 名探偵コナンのアニメを見ていて思ったことがある。<br>アニメにせよマンガにせよ、あるいは小説にせよ、「<span style="color: rgb(0, 0, 255);">推理もの</span>」というのはその中で起きる展開・出来事、登場人物の行動一つ一つが事件の真相を解くための手がかりになってる。<br><br>逆に言えば、事件の真相の解明には直接関係のない要素は省略されることが多い。もちろん作品は作者の考え方、感性、あるいは何らかのテーマに基づいて生まれるものだから、事件とは直接関係がなくても作品世界を構成するのに重要と思われる要素については作品の中に留まることにはなる。<br><br>作品世界における事件は、考えてみれば当たり前なんだけど、作者というフィルターが存在していて、そのフィルタリングを行う作者は作品の中に登場する名探偵以上に優秀な「<span style="color: rgb(127, 63, 0);">探偵</span>」として機能している。<br><br>これは面白い構造だ。作品中のどんな名探偵も作品そのものを生み出す「<span style="color: rgb(0, 191, 0);"><b>超・名探偵</b></span>」的、あるいは「<span style="color: rgb(148, 113, 222);"><b>メタ・名探偵</b></span>」的な存在としての作者には原理的にかなわない。それは「作品」という一つの企てのなかに身を置いた瞬間から構造的・外生的に決まっている、「<span style="color: rgb(255, 0, 0);">厳然・明白な事実</span>」だとすら言えるかもしれない。<br><br>その「<span style="color: rgb(255, 0, 0);">厳然・明白な事実</span>」は作中で名探偵が明らかにするいかなる事実にも先行してその世界―作品―そのものを規定する「<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><b>装置</b></span>」として機能する。そんな構造が推理ものには存在する。<br><br>ここで考えたいのは、現実の事件と作品世界の事件とでは、それに触れて考え、真相を導き出そうとする人間にとって極めて決定的な違いがあるということだ。<br><br>現実の事件では、その真相に何が関係していてなにがそうでないかを前もって知ることはできない。思わぬところで思わぬ要素が真相と結び付いているようなこともありうる。<br><br>一方で作品世界における事件では、事件とは無関係な要素は予め作者によってふるいにかけられ、作品の中から姿を消しているため、読者はその作品の中に書かれている個々の事実に意識を集中し、観察と分析を続けていれば事件の真相に到達することができる（こともある）。<br><br>仮にここで現実の事件と作品世界の事件がまったく同一だとしよう。どちらも全く同じタイミングで発生したとする。<br><br>そうすると現実の事件では作品世界における捜査に比べて難航をきわめることになる。個々の要素の事件との関係/無関係の判別が難しいためだ。<br><br>現実の事件には真相を突き止めるための「<span style="color: rgb(0, 190, 255);">最適なフィルター</span>」が存在しない。そこにあるのは現実に向き合う個々人の「<span style="color: rgb(255, 255, 0);">固定観念</span>」や「<span style="color: rgb(255, 255, 0);">偏見</span>」、「<span style="color: rgb(255, 255, 0);">思い込み</span>」など、およそ作品に対する作者のフィルターとは比べ物にならないほどの精度の低いフィルターだ。<br><br>「推理もの」というのがテーマだから「<b>事件</b>」という言い方をしたけど、それは「<b>事象</b>」とか「<b>現象</b>」と言い換えてもいい。そうすると「推理もの」という一つのオブジェクトを見つめることで見えてきた上記のような「<span style="color: rgb(0, 0, 255);"><b>フィルター構造</b></span>」が、もっと広汎な領域で妥当する一つの原理として浮かび上がってくるように思える。<br><br>コーヒーのフィルターは、豆の香りを引き出すのに一役買っている。<br>推理ものにおける作者というフィルターは、作品世界を生み出すのに一役買っている。<br><br>それではこの現実世界で自分たち一人一人が意識的・無意識的に利用している「<b>自分自身</b>」という名のフィルターは、自分たちの生きる世界の中で何に一役買っているのだろうか。<br><br>興味深いことだ。<br>
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<link>https://ameblo.jp/nhnonym39/entry-11238172781.html</link>
<pubDate>Tue, 01 May 2012 03:06:56 +0900</pubDate>
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<title>生活のサイズ</title>
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<![CDATA[ <span style="color: rgb(17, 17, 17);">最近たまに考えているテーマがある。それは、</span><br><b style="color: rgb(0, 190, 255); ">「人間の生活にとって本来もっとも適切なサイズとはどのくらいの大きさなんだろうか？」<br></b><br>ということだ。<br><br><a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC" target="_blank" title="">ロビン・ダンバー（Robin Dunber）</a>が指摘するところでは、人が把握することのできる集団の規模の認知的な限界は約150人ということになる。いわゆる「<a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Dunbar%27s_number" target="_blank" title="">ダンバー数</a>」だ。<br><br>人間の生み出した「言語」をもちいたコミュニケーションの機能する範囲はグーテンベルクによる活版印刷、シャノンの情報理論などに代表されるような情報技術の進歩とともに拡大し、ソーシャルメディアによってこれまで以上に多くの人々と「<span style="color: rgb(255, 0, 0);">つながる</span>」ことが可能になった時代。<br><br>かつて6.6人と言われていた世界中の人間の相互的な結び付きの次数（「<span style="color: rgb(255, 0, 0);">６次の隔たり（the sixth degrees of distance）</span>」）は、Facebookの世界中での普及によって4.7人にまで減少した。（→参考記事：<br><a href="http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1111/23/news011.html">http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1111/23/news011.html</a>&nbsp;）<br><br>ネットワークの効果はIT産業において示された「<span style="color: rgb(255, 127, 0);">メトカーフの法則</span>」によるまでもなく、今も時時刻刻と世界中で明らかな形で機能・更新し続けている。<br><br>人間の生活する集団の規模に関する考察は、何もこうしたネットワーク理論やITだけの独壇場というわけではなく、それは「政治学」や「経済学」においても見受けられる。<br><br>今では自明のものとして世界中で機能している「<span style="color: rgb(148, 113, 222);">主権国家</span>」という一つの概念。<br><br>歴史的に見ればそれは外側へと拡大していこうとする人間の本能的な領土欲の産物として始まり、「<span style="color: rgb(255, 0, 0);">絶対王政</span>」という思想の下で「<span style="color: rgb(0, 191, 0);">官僚制</span>」と「<span style="color: rgb(0, 191, 0);">常備軍</span>」という二つの極めて重要なシステムを構成要素として機能し始めた。<br><br>絶対王政は「<span style="color: rgb(239, 130, 239);">王権神授説</span>」や「<span style="color: rgb(239, 130, 239);">社会契約</span>」という思想的な後ろ盾を得ながらそのプレゼンスを強化し、今日グローバル化した世界においても存続し続けているシステムだ。<br><br>一方で「<span style="color: rgb(0, 0, 255);">資本主義</span>」という生活形態に関する思想が生まれた。<br><br>そこでは「<span style="color: rgb(255, 130, 115);">分業</span>」によって集団全体の生産量が大きく増加することが指摘され、生産に関する最適な資源配分の方法が次々に理論・モデルとして考案されてきた。<br><br>人間がものを生産し始めた当初の「<span style="color: rgb(127, 63, 0);">農耕社会</span><span style="color: rgb(17, 17, 17);">」</span>では、集団の規模は主権国家のそれに比べて極めて小さかった。<br><br>それが都市国家、領邦国家、国民国家といった歴史的な人間の集団のサイズの拡大に伴って、人間の分業の規模もどんどん拡大していって、今ではそれは地球全体で行われている。<br><br>農耕社会であった当初は自分の食べるものは「自分が所属する集団の中の誰か」といった、極めて身近な人間が行う活動によってもたらされていた。<br><br>そんな「自分の生活を支える誰か」は分業の規模の拡大につれてどんどんと自分から地理的に遠ざかるようになっていき、「グロ―バル世界」という現在のアーキテクチャの中では、今まさに自分が着ている服を中国のどこかの工場で、名前も顔もわからず、話したこともない誰かが生み出しているという現実がある。<br><br>『君主論』において君主による統治の方法と妥当性を示したマキャヴェリは、次の点に対してどのように答えるだろうか。<br>つまり、「<span style="color: rgb(255, 0, 0);">そもそも君主による統治というのは人間が生活する上で必要ないし必然的なものと言えるのか。それは人間社会における適切な集団の規模と言えるのか。</span>」ということだ。<br><br>ここで再び当初の疑問に立ち返ってみよう。<br><br>人間の生活にとって本来もっとも適切なサイズとはどのくらいの大きさなんだろうか？<br><br>人間は言葉をつかって他の人間とコミュニケーションを行うことによって今日まで進歩してきた生物だ。集団で共通言語を通して「意味」ないし「価値」を共有し、お互いに役割を決めることによって、よりよい生活を享受するのに必要な基礎としての「コミュニケーション」が生まれる。<br><br>顔の見えない相手とも「<span style="color: rgb(0, 191, 0);">機能的な分化</span>」という形で間接的に相互の結び付きを形成し、それが「ヒト」という生物種全体の発展につながるという命題のもとで機能し続けるITに支えられた「グローバル社会」。<br><br>ただやっぱりどうしても思ってしまうのは、「これってホントにヒトが生活するのに適切なサイズなの？ちょっと拡大しすぎじゃない？」ということ。<br><br>世界中の人間がお互いにどんなことを感じ、考えているのかを知ることができるということにはすごく大きな意味があることはわかる。<br><br>ただ、少なくとも現行のシステムではこの規模のヒトの集団が最もよく機能するようなことはないように思える。<br><br>新しいシステムを生み出すか。あるいは集団の規模を縮小するか。<br><br>世界中のことを知ることが何故必要なのかを世界中の人間が納得したわけではないまま結びついていくありさまは、なんだか何の共通点ももたない無差別に選ばれた人々がたがいに名刺交換を行う異業種交流会みたいだ。<br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nhnonym39/entry-11237183140.html</link>
<pubDate>Mon, 30 Apr 2012 03:35:28 +0900</pubDate>
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<title>ネットとミームの関係</title>
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<![CDATA[ 『利己的な遺伝子』を記したリチャード・ドーキンスには多くの功績があるけど、中でもさっきからずっと気になってるのは「文化的遺伝子」、いわゆる「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A0" target="_blank" title="" style="color: rgb(0, 190, 255);">ミーム（meme）</a>」と、ネット上で次々に登場する新たなアプリケーションソフトの流行との関係だ。<br><br>例えば何故ソーシャルメディアはこれほど世界中で流行しているのかについては、すでに多くのもっともらしい説明がなされてきた。<br><br>古代ギリシャの哲学者に根拠を求めて、「人間は社会的な動物」（アリストテレス）であって、他の人とつながろうとするのは本能的な欲求であるから、つながりを作ることを中心に作られたソーシャルメディアが人間の間で発展するのは必然なんだ<br><br>とか。<br><br>文化の伝播に関して、それをいろんな側面から捉えることができるのは直感的に納得できる事実であるし、実際問題そうするのが実態に近いというのもうなずける。<br><br>でも敢えて文化の定義を「ある個体から別の個体への情報の伝播」という観点から捉えることで、本質的な意味が見えてくるのがオンラインにおける文化のケースではないか。<br><br>ネットは情報伝達がその本質的な機能だ。<br><br>だからそこでは、「情報の伝達」という点では、仮にそれがリアルな世界における情報伝達にくらべてきわめて限られた形での伝達であるにせよ、ミームそれ自身にとっては都合のよい、「望ましい」とすら言いうる環境が構築されているとはいえないだろうか。<br><br>ネット上ではリアルに比べてはるかに速いスピードと正確さで、情報は生成され、記録され、ユーザーの間を伝播していく。<br><br>そこでは次から次へと新たなアプリ、絵文字、特定の集団にのみ通じる独特の言語空間の形成などなど、それはもうホントに多様な次元で次から次へと文化が生まれ、互いに競い合い、ユーザーの間を駆け巡る。<br><br>ネット空間ではリアルタイムでミームが活発に活動し、それは現実の人間の生活における文化の伝染よりもはるかに強力に、はるかに早く、そしてはるかに正確に伝播していく。<br><br>まだまだこれから考えることが山のように出てくるけど、「ネットとミームの関係」、じっくり考えてみる価値は十分にあるテーマだなあ、これ。<br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nhnonym39/entry-11230967691.html</link>
<pubDate>Mon, 23 Apr 2012 01:14:43 +0900</pubDate>
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<title>「涙」の価値</title>
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<![CDATA[ 「涙」の価値について書いてみようと思う。きっかけは一冊の本だった。<br><br><a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E4%BA%95%E5%AE%88" target="_blank" title="">押井守</a>の『<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AF%E3%80%81%E8%A6%81%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%8A%BC%E4%BA%95-%E5%AE%88/dp/434498255X/ref=sr_1_1?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1334332680&amp;sr=1-1" target="_blank" title="" style="color: rgb(0, 0, 255);">コミュニケーションは、要らない</a>』（幻冬社新書）っていう本を読んだ。<br><br>情緒によってお互いの感情をただ共有することで満足するのではなく、論理的思考によって問題の本質を考え、解決策を出していくこと。<br><br>その中の「情緒」とか「感情」とか「同情」っていう言葉から「涙」を連想した。<br><br>感情に由来する「涙」にはそれ自体に価値はないと思う。<br><br>他の意味での「涙」で考えるならば、例えば玉ねぎを切ってて涙が出るのは、眼球の保護という意味がある。<br><br>でも感情の高ぶりや悲しみ、喜び、共感から得られる「涙」には、それ自体に価値があるわけではなくて、涙を流させた感情に対して、その原因に対して、その人が「涙」の後で起こした対応に価値があるのであって、決して涙それ自体に何か特別な価値が与えられるということはないと思う。<br><br>「涙」は生理学的なリアクションにすぎなくて、人間の流した「涙」をそれ以上の意味で捉えようとするのであれば、その人の「その後」に価値を求めることが本当だと思う。<br><br>例えばだけど、もし「涙」それ自体に価値があるのならば、多くの涙を流す「泣き虫」や「同情真に富む人」たちにより多くの価値があることになる。<br><br>そうではなくて、多くの涙を流したのならば、その涙から何を受け取ったのか、何に気付いたのか、何を失ったのか、何を感じ、考えたのか、そしてそこから自分は何をしたのかでその涙の「意味」（「価値」ではなく）が決まってくるはずだ。<br><br>「意味」と「価値」は違う。<br><br>「意味」はある対象について認識された符号であって、それに価値があるかないかは判断する主体に依存して決まるから、「意味」と「価値」ではそもそもの次元が違う。<br><br><br>自分に翻って、自分が流した涙の「意味」は何だっただろうか。<br>ここ一年の間に、何度となく涙を流した。同じことに対して。同じ人について。<br><br>流した涙の量が1リットルか5リットルかで自分の成長が決まるのではなくて、それぞれの涙から自分が何を考え、学んできたのか、どう行動するべきだと考えるようになったのか、もっと本質的にはどう生きるべきだと考えるようになったのか、価値を求めるべきなのはそっちの方だ。<br><br><br>これから先、感傷的な理由から卑屈にならないようにしよう。<br>卑屈になることによって自分の人間関係をめちゃくちゃなものにしてしまうようなことはもうやめよう。<br>「涙」を流すことよりも、自分が向き合うべき現実に対して自分をごまかさずにきちんと向き合い、自分に責任をもとう。<br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nhnonym39/entry-11222476226.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Apr 2012 00:53:15 +0900</pubDate>
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