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<title>にこの虹色定期便</title>
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<description>ブログに自分のありのままの思いを綴り始めて、はや17年に・・・。いやはや歳もとりましたが、人生かけめぐり、尚これからもゆるされる限り精一杯、まっすぐに行きたいなあ。</description>
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<title>困難を乗り越えるとき</title>
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<![CDATA[ <p>私の身におこったこの2か月の出来事は、生涯忘れえない、また忘れてはならない信仰体験ともいえる。</p><p>&nbsp;</p><p>主に導かれた一つ一つであったと、心から思う。</p><p>&nbsp;</p><p>心の中には、疲労と怒りと葛藤が渦巻いて、私を不安にひきずりこもうとしていたし、心身の弱さに幾度も負けそうになった。</p><p>&nbsp;</p><p>身体が動かないことも、呼吸が苦しいことも、頭痛にさいなまれることもあった。言い知れぬ不安感の中で、自分はこのまま死に向かっていくのかもしれない、あるいは、大病に襲われるのかもしれない・・・そんな焦りの中で、思わず、愛する家族の一人一人と、地上で出逢わされた信仰の先輩である牧師夫妻に対して、メモ書きのような遺書さえ書いた。涙を流した・・・。それらが</p><p>すべて、臨在くださる主の前であったことを想う。</p><p>&nbsp;</p><p>その状態によって、私は自分で心療内科に向かうことができ、</p><p>傾聴と診断と投薬によって、安定に向かうことができた。</p><p>&nbsp;</p><p>職場の上司の理解を得て、最大の配慮をされて、あらゆる手続きを静観のうちにすすめることができた。</p><p>&nbsp;</p><p>私という個人が、倒れて、休職から退職に向かったという事柄の中には、主の大きなご計画があったと思われる。</p><p>&nbsp;</p><p>私が、悩みつつも心がいつも支えられて、その時々に成すべきことや、方向性を示されていったのは、生けるご聖霊の導きであった。その証拠には、倒れたその時から、常に、心に満ち溢れてくる讃美や、みことばが次々と与えられたことである。</p><p>&nbsp;</p><p>時宜にかなった助けが与えられる・・・と聖書に約束されている。その、体験をさせていただいた。</p><p>&nbsp;</p><p>このことが起きる前にしっかりと備えられていた、新しい職場に私は向かう。『私』という存在をたいへん歓迎してくれている。</p><p>ありがたいこと、この上ない事である。</p><p>&nbsp;</p><p>主が開いてくださった新しい道を、感謝と謙遜の思いで進みたいと思う。すべてのことを、主にゆだねて・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>この信仰を私の心に与えて下さった、主の御霊によって私は、</p><p>救いの喜びを胸に、地上の命を生かされていきたい。</p><p>&nbsp;</p><p>ハレルヤ！救い主イエスキリストの十字架と復活のみわざを信じ、永遠の命を感謝します！</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/nicochan1040/entry-12795055282.html</link>
<pubDate>Thu, 23 Mar 2023 17:35:47 +0900</pubDate>
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<title>迷いの最中に</title>
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<![CDATA[ <p>心がとても疲れている。壊れかけている。苦しい・・・</p><p>&nbsp;</p><p>主が共においでくださることはわかっている。この状態を味わっておられることもわかっている。</p><p>&nbsp;</p><p>すがり求める者に、必ず応えて下さることもわかっている。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>けれども、今は眠れず、食べられず、何もしたくない。気力が失われている。</p><p>&nbsp;</p><p>昨夜は、眠れないまま過ごす。夫には申し訳ないけど、真夜中に突然の愚痴を吐く・・・泣く・・・</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>少し目を覚まして寄り添ってくれたけど、応えは出ない。</p><p>&nbsp;</p><p>主の歩みの描かれた本をむさぼり読み、『インマヌエル』の主というところにさしかかった明け方、</p><p>&nbsp;</p><p>突然、夫が後ろから私を抱きしめてきた。そして、おいおいと声を上げて泣き始めた・・・。私も一緒に泣いた。</p><p>&nbsp;</p><p>これは、私の夫でありながら、主のご臨在ではないか。今まさに、私の心に寄り添い共に悲しんでくれている・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>なんともいえない、不思議な気持ちを感じながら、「ありがとう・・・」と私の口は言っていた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>今朝、私は夫に連絡を頼み、仕事を休んだ。私が望んだ事だった。夫は最大限の思いやりと努力で、それを行い、</p><p>&nbsp;</p><p>上司に直接、話をしてくれた。このまま辞めるのか、続けるのか・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>私もわからない。わからない。わからない。わからない。どうするべきなのか、べきはわかっている。忍耐すること、</p><p>&nbsp;</p><p>職務を全うすること。だけど、それが、いままでのように　できるのかがわからない。自信が無い。不安である。</p><p>&nbsp;</p><p>怖い・・・もうアクションをおこしてしまった。おこすべくして、おきたのか・・・忍耐が足りなかったのか・・・</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>わからない。何もかもがわからない。</p><p>&nbsp;</p><p>一つだけ、私は本来は、主が導いたように歩みたい。そして、感謝と努力をして、職務を全うしたい。それだけ。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/nicochan1040/entry-12787434275.html</link>
<pubDate>Fri, 03 Feb 2023 11:34:20 +0900</pubDate>
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<title>人生の成熟期？もう？そっか～・・・（汗）</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size: 22.4px;">ひとつひとつ、計画されている事柄がすすみ、無我夢中で駆け抜けていけば、</span></p><p><span style="font-size: 22.4px;">時間が経過するのもあっというま・・・</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">振り返れば早いもので、もう今年も３週間をきった。誰もがそうであろうが、いろいろなことがあったこの１年。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">特に、『ありのままの自分』がそのままで通らない経験をした。そして、そのことをなかなか受け入れられずに悶々としたけれども、この過程にいつも主が伴っておられたので、結果的に、多くの学びと実りをいただけたと思い、感謝をする。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">『苦しみに会ったことは私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの掟を知りました。』と聖書にあるように、まさに、私には信仰を深めるための時間であった。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">現実は、大した変化はないとも言えるし、変化を感じないわけでもない・・・</span></p><p><span style="font-size: 22.4px;">物事の見方や、感じ方、受け取り方によって様々な感想は微妙に異なる。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">さて、次に与えられようとしている環境に向かうまで、心身を整えて穏やかに過ごしたいと願う。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">『ありのままの自分』を大切にできることの喜びと感謝を胸に刻みつつ・・・。</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">さて、ありのまま・・・というものの、私も人間的には成熟期になるべく年齢になってきた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">仕事柄、また、教会ではいつまでも若手扱いで、なんだか時間が止まったような</span></p><p><span style="font-size: 22.4px;">感覚で日々を過ごしているのかもしれない。１０年前に専業主婦から、社会復帰した時はまだ「若い」うちだったかもしれないが、もはや、現在の自分が、社会的にそうとう「大人」であらねばならないことは、ごまかしようのない事実。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">先日、一つ歳を重ねた母と久しぶりに連絡をとった。正月の過ごし方についての相談だったが・・・</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">母曰く、「もう、あなたに交代したいのよ。」という弱弱しい声だった。（正月に家族が集まっての、食事の用意は負担である・・・ということらしい）</span></p><p><span style="font-size: 22.4px;">「何言ってんの？そんなに年寄ぶらなくてもいいじゃない。」</span></p><p><span style="font-size: 22.4px;">あまりの弱気に内心、戸惑いと若干の苛立ちを覚えつつ、「私がやるから、場所を提供してよ。子供たちも、ゆっくり過ごしたいだろうから・・・」</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">始めのうちは、年に数回あるかなしかの家族の団欒さえ、面倒だと言う母の言葉に寄り添うことができずにいた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">けれども、珍しく涙声で訴えてくる母の心情をくみ取ろうとしているうちに、</span></p><p><span style="font-size: 22.4px;">ハッとさせられた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">私はいつまでも、母の娘として、母に頼っているけれども、自分が主立って仕切る年齢には確かに達している・・・。達してしまったのだ・・・。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">「あ～、そういうことね。わかる。わかったよ。確かにね。」</span></p><p><span style="font-size: 22.4px;">電話口で私自身も納得して返答していたのが伝わったのか、母の声からは安堵を感じた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">いろいろと、自分中心でいては気が付かないことや、変わって行かねばならないことがあるものだな・・・。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 22.4px;">少し身の引き締まる思いがした。</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/nicochan1040/entry-12778835381.html</link>
<pubDate>Sun, 11 Dec 2022 16:39:25 +0900</pubDate>
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<title>主の備える道のり</title>
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<![CDATA[ <p>転職を決心しての日々。早速、不思議な導きが次々とあって、新しい仕事場が与えられた。</p><p>&nbsp;</p><p>それに伴って、私には重要な『気づき』をも与えられた。それは、『自己承認欲求の強い性質』があるから、あくまでも『謙虚であれ』ということ。自分は、こんなにできる！もっとできるはず！こんなにやれている！やっているつもり！は、結局、『高ぶり、傲慢』へと導く。毎日を対人関係の中で過ごす場合、互いの言葉のやりとりや態度というものは、直接、心に響いてくる。自分に疑問が生じる時にも、直球(自分中心の思い）で相手に接した場合、相手が受け止めきれないこともある。自分の気持ちをリセットして謙遜に臨んだつもりの謝罪に対して『拒絶』という、私にとっては堪える体験を通して、主は語られた。</p><p>&nbsp;</p><p>周りがどうであれ、それを正しく裁くのは主であって自分ではない。自分自身が、主の御前にどうなのか？これに尽きるのである！今回、一見、かたちの上で『謙遜』になったつもりの謝罪の奥底には、「自分の正しさ」へのこだわりがつきまとっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>そんなにうまくはいかない・・・この体験を通して、主は私に教えられる。</p><p>&nbsp;</p><p>愛しがたい相手を愛することの難しさ。そして、自分の中に或るどこまでも自己中心の罪の性質を明るみにされた。『きよめられたい！主に従いたい！』そう思わされ、祈らされていく中で、</p><p>その求めに応じるべく、主は、『ならばこの壁を越えてみよう』と提示されたのだ。そして、『一人で越えてみろ！』ではなく、共に越えて下さるのだ。だから私は信頼して、従っていく。</p><p>&nbsp;</p><p>自分の未熟さや罪の性質をいつも覚えて、自分はきよいなどと決して思わぬように、主は私に必要な事柄を与えられている。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、ご計画は絶望ではなく、将来と希望を与えて下さるもの。</p><p>&nbsp;</p><p>一歩一歩を、主に信頼してすすんでいこうと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/nicochan1040/entry-12777521581.html</link>
<pubDate>Sat, 03 Dec 2022 10:01:13 +0900</pubDate>
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<title>どこまでも自己中心の自覚</title>
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<![CDATA[ <p>神様に対して、素直な心で、真摯に向かおうという願いをもって、心からそれを求めていく時、聖霊なる生ける神様は働いてくださって、万事を益としてくださることを、これまでもたくさん実感してきた。神様に心を満たしていただき、励まされる時に、まさに他には得難い『喜び』『平安』な気持ちにされる。そして辛いと思う状況や、見えない先の不安に対して、大きな力に支えられて、立ち上がって一歩をすすめる勇気をもつことができる。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、確かに聖書にも書かれているように、そのように『真理なる方、生きて行き廻り御心のうちに導いてくださる愛なる神』に召されて、信仰が与えられた者（命の書に名前が刻まれた者）であっても、罪ある性質の肉体をもつ『人間』としては弱く、もろく、自我によって、何度も『罪』をおかしてしまい・・・その自覚ゆえに、繰り返し『自己嫌悪』に陥ったり、自分自身にがっかりしたりする。これを、常にサタン(悪魔）がつけねらい、嘲笑って、私を神様から引き離そうとするのだが・・・</p><p>&nbsp;</p><p>そうはいかない。サタンよ！私は、自分の弱さを自覚しつつも、がっかりしつつも、そうした『弱さ』まるごと受け止め愛してくださっている(現在進行形）愛なる神様を知り、信じている。イエスキリストの十字架に示された神様の救いを信じている。だから、また、万事を益としてくださる神様に聴き、従っていく。</p><p>&nbsp;</p><p>私が、今、示されているのは、『自分は一生懸命に、まじめに、真摯に、良かれと思って、自分にもてる力を尽くして、より早く、計画的に物事を進めていこうと思っている。』『これまでの経験を活かして、より良い仕事をしようと願い、努力をしている。』これらの思いや実際の努力は、あくまでも自分自身のための計画や準備であって、（仮に、結果的にそういう努力が周りの役に立つ場合もあるが・・・）あくまでも、結局は『自分自身がこうしたい！こうすれば、後が楽だろう。』という自己の思いであって、いつのまにか、『このやり方や努力は、きっと(絶対に）より良いものになるだろう。みんなの為になるだろう。』という押しつけになる可能性を帯びていること・・・そして、この無意識の『高ぶり』が、周りが自分のしていることに対して無理解だったり、思い通りにいかなかったり（反応がなかったり）、した時に、『思い描いていた計画にそぐわない現状をじっと我慢して受け止めている自分』がいつのまにか、『自分は正しい。善いことをしているのだから。一生懸命によかれと努力しているのだから。』という自己中心な思いがふくらみ、我慢からふくらんだ怒りの思いが、思わぬ形で結果的に傲慢な態度をとってしまう、という自己分析である。</p><p>&nbsp;</p><p>誰もがみんな罪びと。聖書の(神様の）教えの究極。</p><p>&nbsp;</p><p>それは、尊敬する敬愛する牧師も、教会の人々も、愛する家族も、親切な友人知人も、そして、私自身も！なのである。</p><p>&nbsp;</p><p>神様に従って、自己価値を高め、自信を持って生きていくことは大切な事。そして、自分の罪をいつも認め、それらをもまるごと愛して赦して救ってくださった大きな愛を信じて頼り続けることも大切な事。</p><p>&nbsp;</p><p>罪ある自分は、クリスチャンだからと言っても、本当に「相変わらずの自己中心」に翻弄され、失敗して、怒ったり落ち込んだりすることもあるけれど、こうしてまた、（早朝に目覚めさせられて・・・）本来あるべき道（心の状態＝素直に神様に向かって、悔い改める心）に戻されることは、なんと幸いでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>勝手な自己憐憫からの自己完結と思われるかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>でも、私自身は、この心の状態の変化が、『生ける聖霊なる神さま（イエスキリストが天に昇られた時に、地上に生きる私たちに『助け主』として与えられた方）の働き』だと、思うのです。</p><p>&nbsp;</p><p>私の人生にとって、一つの転換期にある今、次の転職先が示されつつある中で、私が～したいということ以上に、神様のみこころがなるために、導いていただきたいと祈りつつ。小さな一歩を進めていきます。</p><p>&nbsp;</p><p>結論。『笛吹けど踊らず・・・』私がこう思ってこうしたのに、思うようにならなかった、という周りの反応に一喜一憂する弱さを自覚しつつ、大切なことは、一期一会、その時、その時に、自分が最優先すべきはなんだろうかを『神様の愛』に満たされていることによって、御心にかなう選択ができるように。そう願う気持ちを忘れないようにしたいということ。</p><p>&nbsp;</p><p>すべてのことは、善いことも、試練も、神様の恵みの内に或る。</p><p>&nbsp;</p><p>すべての(善い事）ことは、神からでて神によって保たれ、神にかえる。</p><p>&nbsp;</p><p>神様に反するすべての(人道的悪事）は、人間の『罪』による結果である。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちは、神様に立ち帰って、本来の『平和』を求め続ける存在である。『神の愛』『神の義』を信じ続けて生きたい。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/nicochan1040/entry-12776351296.html</link>
<pubDate>Sat, 26 Nov 2022 05:37:30 +0900</pubDate>
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<title>神様からの試練</title>
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<![CDATA[ <p>私にとって、大きな試練が与えられている。それは、『自分』という存在がとある相手にとって</p><p>『苛立つ、受け入れがたい、疎ましい存在』となり、厳しい目で見られ、もはや言葉を交わすことも</p><p>避けたいという状態に陥ってしまったことである。</p><p>&nbsp;</p><p>私はこれまで、保育の仕事を自分なりの誇りと、ある程度の実績と自信を持って務めてきた。子育てによるブランクはあったが</p><p>再就職の際にも、当たり前に時代の変化に慣れない戸惑いや苦労はあったものの、その時々に、主に祈り支えられて乗り越えてきた。数年間の積み上げの上、最終的には、生涯の思い出にもなる素晴らしい出会いや、何より、保育そのものの喜びと手ごたえを味わうことができた。私は、『自分』の全人格、もてる技術、経験に基づいた自信をもって、仕事の上でやりがいを得た。</p><p>&nbsp;</p><p>その後、職場が変わり、私はその『喜び』と『やりがい』を得にくい立場となり、毎日はまったく色褪せてしまった。それでも、《置かれた場所で咲こう》の思いで、目の前の子どもたちに接し、自分なりに小さな実績を積んだ。けれども、たったの一年で、そこを去る決断をした。職場のトップの姿に辟易し、怒りを覚え、「自分を発揮する場所は他にもあるはずだ」と求めた。</p><p>&nbsp;</p><p>その思いに対して、主が開かれたのはキリスト教主義の保育園で、住まう地域の中でクリスチャンとして働くには最適な場所だと、自分では思えた。また、知人も働いており、園舎環境が素晴らしく新しかった。これまでは、予算関係で、また、保育そのもののポリシーで、扱えなかったような高価な玩具や遊具が、しかも、つぎつぎに与えられるような、見た目に素晴らしい現場である。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが・・・神に導かれ開かれたその場所は、私にとって、思い描くような楽園ではなかった。(私にとって、である）</p><p>長年勤めた人々の、自信の溢れたふるまいは、時に、新しく加わった者に厳しく冷たい視線や態度を与えた。また、そこに慣れて受け入れられた人々は、新しい者が、力ある人々に受け入れられない様子を、関係無い者として遠巻きに見ている。なるべく、親しい接触は避ける。よく観察すれば、その組織をしっかりと支えている正規職員は互いに絆を結び、実際に立場上の任を負っている。</p><p>組織を構成する職員は、それぞれに自分の分を担い、務める時間も短いほどに、とても謙遜に決して意見などせずに腰が低い。</p><p>&nbsp;</p><p>組織に対して、5年10年と務めている者たちは、その継続の中での実績と信頼ゆえに、正規職員たちの『仲間』のごとくに、立ち振る舞う。</p><p>&nbsp;</p><p>私の前にも、何人もの人が『耐えられない』理由で去って行った。その人間関係の空気に、自分が受け入れられないという哀しみに耐えがたく、去って行った。そして、私自身も今、その立場となった。</p><p>&nbsp;</p><p>「こんなとこ、最低！やめちゃえ！他にも働き場はあるのだから。」と、啖呵を切ればすっぱりとこの環境から離れることは可能。しかし、私は、しない。できない。それは、３年前の転職の決意の時に、祈り求めて示された場所がここであったこと。</p><p>そして、何よりも現在、自分の「働き場」として「役割」として、かわいい数名の子供たちの担当保育士という立場が与えられていること。大人の状態がどうあれ、子供たちは本当に天使の如くに、愛おしく、『私と言う存在』を慕い頼り求めているからである。</p><p>&nbsp;</p><p>私は年度いっぱいを務める。祈りつつ、させていただく。</p><p>&nbsp;</p><p>「何故、自分がこんな目に？」周りが変だ、非情だ、いびつだ、</p><p>と思っても、それを声高に共感してもらうことはできない。それでも、心ある(自分を受け入れてくれる人々）もいて、そっと共感してくれたり、さりげなく親切に教えてくれたり、助けてくれることもある。（暗闇の中の灯である。）けれども、その人にもその人の立場や、自分の身を守る必要があって、カメレオンのように相手に応じて、生き抜いている・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>私は、今回、自分がこんなにも『嫌われ、疎まれ、苛立たせ、怒らせ』ていることの現実に、晴天の辟易、そして、戸惑いと不安、怒りと悲しみ、・・・和解を、望んでいる。しかし、どうも</p><p>簡単ではないようだ。私は、主の教えに従い、涙と謙遜をもって</p><p>理不尽な相手に頭を下げて、和解を申し出たが、すっぱりと拒絶された。そして、鎮まったかに思える時間経過の中で、ふと、自分が（だんだんと相手の怒りは鎮まり、冷静になって、赦され、</p><p>私を受け入れるようになるだろう・・・）という甘い期待を抱く自分が、この勝手な(自分モード）で、相手にふと言葉を掛ければ、烈火の如くに感情を逆なでしてしまう・・・という経験をしている。</p><p>&nbsp;</p><p>神様は、こんな経験を通して、私に必ず「教えよう」としていることがある。辛い現実だが、逃げたり戸惑うばかりでなく、心静めて思い巡らせる。</p><p>&nbsp;</p><p>昨日の祈祷会では、ダビデが自分の罪を指摘された時に、それを神様の前に認め、悔い改めたことを学んだ。聖書に示される教えは、現実の自分の姿を投影し、みことばに従うとは、実際の自分にはどういうことなのか・・・を示されていく。まさに、闇の中の灯である。</p><p>&nbsp;</p><p>ふと、気が付かされた。主イエス様は、ご自分の『全人格』『神としての位格』を、命がけで和解の道を開かれようとしていたイスラエルの民に、全否定されたのだった。一時、「ホザナ！」と歓迎されたかにみえても、時の指導者たちの態度や、偏見、怒りに触れた時、人々は一瞬で心変わりをして、その勢いにのり、主イエス様を十字架につけて殺してしまった・・・。（もちろん神である主は復活されるけれども）</p><p>&nbsp;</p><p>人の罪の冷たさと、恐ろしさである。</p><p>&nbsp;</p><p>イエス様は、神様ご自身としてその愛を伝えに来られたのに、人々は偏見と時の勢力に支配されて、真理を掴むことはできなかった。イエス様は、何ひとつ悪を行わず、全き人であったのに、疎まれ、さげすまれ、嫉妬され、攻撃され、死に追いやられた。</p><p>&nbsp;</p><p>イエス様は、理不尽なすべての状況に言葉を発せず、相手のされるがままにされ、ご自分のなさるべきことを全うされた。</p><p>蔑まれれば心は傷つき、信頼していた弟子たちが去れば悲しみ、鞭打たれれば痛み苦しみ、理不尽なことのすべてに耐えられた。そして、十字架で釘打たれた・・・神様が、離れてしまわれた恐怖にみまわれた・・・。どんな苦しみだったか・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん、主の栄光の御業は、そこを経たことで全人類救済の福音が完成したのだから、今となっては輝かしい栄光のほかない。</p><p>&nbsp;</p><p>私など、小さな一人の人間に過ぎず、イエスキリストと比較などおこがましいことであるけれども、『自分』というものの、これまでの実績、自信、プライド、やり方、立ち居振る舞いに対しての否定は、『人格否定』であって、本当に傷つき戸惑うけれども</p><p>&nbsp;</p><p>今、私の主はおっしゃる。</p><p>&nbsp;</p><p>『この経験をしっかりと味わい通し、人の罪を黙って受け止めること。じたばたと、自力で和解を試みたり、そうなるはずだと自分を正当化することなく、この『罪』を、我がこととして、しっかりと受け止めよ。全ての事には意味がある。そして、つねに、神様を求めなさい！私の助けは、主からくるのだから！』</p><p>&nbsp;</p><p>「私はあなたをゆるしてあげます。もうゆるしていますよ。だから、あなたも早く、わたしのゆるしを受け止めて、仲良くしましょうよ。神様はそれをのぞんでおられますよ。」</p><p>&nbsp;</p><p>こういう思いは、一見、神様に従う善きことであるかのように思ってしまう。けれども、今回私が通らされている状況の中で、それこそが『自己中心の奢った心』であって、相手を見下す態度につながるのであって、真の意味での『謙遜』ではない。それは、神様にはお見通しである！ということ。私は学んでいる。</p><p>&nbsp;</p><p>相手にへつらったり、態度を変えてもらうことが真の目的ではなく、神様の前に、『自分を砕いて、へりくだり、自己中心で傲慢な罪というものを、相手の姿も自分自身の姿も通して見つめる。』そして、心を練りきよめていただく。</p><p>&nbsp;</p><p>3月までの毎日を、この心で過ごしていけたらと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>主の導きに感謝をし、これからの一つ一つをゆだねます。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/nicochan1040/entry-12772569233.html</link>
<pubDate>Thu, 03 Nov 2022 07:08:31 +0900</pubDate>
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<title>私の暗唱聖句と証</title>
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<![CDATA[ <p>主の憐みにより、その枝教会へ導かれ、信仰を与えられた恵みに感謝を捧げます！</p><p>&nbsp;</p><p>渇いた心に泉の水が溢れる如くに、聖書のみことばが染み渡り、2000年前のイエスキリストの十字架が</p><p>&nbsp;</p><p>自分自身の為であったことを、信じることができるようになり、受洗の恵みにあずかってから15年がたちました。</p><p>&nbsp;</p><p>熱しやすく冷めやすい私の性格上、家族は心配もしたようですが、私自身のこの15年の歩みの中で、日曜日の主日礼拝を義務とし</p><p>&nbsp;</p><p>てではなく、自らの心が欲し求めて守ってこられたことは、聖霊なる神様の内側からのお働きかけというほかありません。時に</p><p>&nbsp;</p><p>は、悩みや疲れを抱えていても、「主日礼拝」を通して、私の必要を与えて下さる神様の御導きを疑うことはありませんでした。</p><p>&nbsp;</p><p>実際に、日常生活の中に次々と起こってくる諸問題や、自分自身の身勝手さ、甘え、高慢といった弱さに対して、必ず、主が</p><p>&nbsp;</p><p>何らかの方法や時を与えて、解決へと導いてくださったことばかりです。私自身が、「神様・・・」と祈る時には勿論ですが、</p><p>&nbsp;</p><p>思い掛けない事柄に出くわして、心外だったり苛立ったりして、自分では冷静になれず、祈ることもできないような心境の時にも</p><p>&nbsp;</p><p>周りの状況の中で、自分への励ましとなるような小さな事象を通して、「私の事を全て知っていてくださっているのだな。」「心</p><p>&nbsp;</p><p>が落ち着いた。」ということを実感するのでした。人間関係で心が傷ついていたある日、自分の感情ではとてもそう思えないよう</p><p>&nbsp;</p><p>な祈りをなぜか、自分の口がしていることがありました。（これは神様に喜ばれる祈りなのか？これが私の本心なのか？いや私の</p><p>&nbsp;</p><p>感情ではない、私は傷つき失望して怒りと悲しみでいっぱいではないか。では、これは何だろうか・・・）『私を傷つけたあの人</p><p>&nbsp;</p><p>を、愛する心を与えて下さい。』と求めていた時に、自我に縛られて祈ることができないで悶々と苦しさを抱えていた私を、確か</p><p>&nbsp;</p><p>に導いてくださった見えざるとも生きて働かれる聖霊のみわざなのだろうと思ったことでした。</p><p>&nbsp;</p><p>その祈りからまもなく、主は、その相手との接触の機会を早速与えられ、そこに会話を与えて、私が実は求めていた『和解』『赦</p><p>&nbsp;</p><p>し』へと導き出された不思議を忘れられません。祈り求める者に、神様は応えて下さることを信じることができる体験の一つで</p><p>&nbsp;</p><p>す。心が悶々とする時には、自分自身が飢え渇くように求めることを通して、多くのみことばにより、励ましをいただきます。</p><p>&nbsp;</p><p>近日のことでしたが、これまで健康が当たり前だった自分が、精密検査を受けることとなりました。未知に対する不安はあるもの</p><p>&nbsp;</p><p>の、いかなる結果や道のりにも主が共にいて下さることへの信頼があることにより、また、教会の兄姉の祈りの援護により動揺す</p><p>&nbsp;</p><p>ることなく落ち着いて過ごせたように思います。私の不安をすっと包み込んだみことばは、『あなたには、やみも暗くはなく、夜</p><p>&nbsp;</p><p>も昼のように輝きます。』詩編139編12節(口語訳）でした。神様の光は、闇と思う状況にも届くことを確信でき安堵しました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>私の暗唱聖句は、『わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。』詩編103編2節(新共同訳）で</p><p>&nbsp;</p><p>す。私の人生のすべてに愛をもって計らい、導いてくださっている神様に対して、いつも、いつまでもこの気持ちを持ち続けてい</p><p>&nbsp;</p><p>きたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/nicochan1040/entry-12763664670.html</link>
<pubDate>Sat, 10 Sep 2022 23:13:00 +0900</pubDate>
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<title>確かに私を支えたもの</title>
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<![CDATA[ <p>今月の出来事。突然につきつけられた『子宮がんの精密検査』。紹介状を持って、総合病院へ行く。</p><p>&nbsp;</p><p>頭はぼーっとする。けれども、心の芯の方はしっかりと支えられている。「どうなるんだろう・・・」と思う。</p><p>&nbsp;</p><p>けれども、「どうであれ、神様が伴われる。」とも思う。正直に言おう。仕事の現状に、心身疲れていた私は、内心思う。</p><p>&nbsp;</p><p>「もしも悪くても、これを正当な理由に辞める道が開かれる・・・。それが、みこころであれば、そこに向かおう。」と。</p><p>&nbsp;</p><p>命にかかわるような重大な事なのに、「現状から脱したい！」逃げ道にしようなんて・・・そんなにひどい職場なのか？</p><p>&nbsp;</p><p>（理想には遠く、立場は弱く、プライドなどひとかけらでも握りしめたらそこに居ることはできない。現状に、感謝すべきを見いだし、これまでの導きを思い返し、自分自身の余計な部分を、神様がそぎ落とされる為、そして、練られて磨かれるために私は今ここに居る。そして、実際に、与えられているいくつかの（たくさんの）恵みというべき出会いや働きの尊さに思いを馳せる・・・）</p><p>&nbsp;</p><p>さて、お盆休みを挟むこともあって、検査結果を知るまでに3週間を要した。長いはず。それでも、この間に私の心は、不思議と</p><p>&nbsp;</p><p>『謙虚』にされていたように思う。あくまでも、されていた、のである。じたばたはしなかった。ただ、「どちらなんだろうか？」</p><p>&nbsp;</p><p>という問いは心の中で繰り返していた。「わからないものはわからない・・・。でも、主のみこころがなる。それは、私にとって</p><p>&nbsp;</p><p>災いではなく、必ず最善に導いてくださるものになる。痛みにも、耐えうるだろう・・・。耐ええなくても、主が共にいて下さ</p><p>&nbsp;</p><p>る。」</p><p>&nbsp;</p><p>私のお気に入りのみことばの写真集があり、特に、心が飢え渇くときに貪るように読む。その中で、『あなたには、やみも</p><p>&nbsp;</p><p>暗くはなく、夜も昼のように輝きます。』詩編１３９、１２節　が示された時に、私の不安を大きく包み込んで下さった生ける神</p><p>&nbsp;</p><p>様（聖霊さま）を感じることができた。「主は、私の内臓の細胞にまで届きそこにいてくださるのだ。」「その痛みを共に感じて</p><p>&nbsp;</p><p>おられるのだ。」「神様の光は、闇の中にある。」その事の理解がぐっと私の心を支えた。</p><p>&nbsp;</p><p>日々を過ごすうちに、私の内面に微妙に変化が起こる。(神様・・・与えられた仕事や職場について、弱音を吐き、放棄するよう</p><p>&nbsp;</p><p>なことを言ったことを・・・悔い改めます。願わくば、この子たちに年度末までしっかりと仕え、この職場を全うさせてくださ</p><p>&nbsp;</p><p>い。）と祈っていた。(保育士をしている。）</p><p>&nbsp;</p><p>それは、何か急に周りの様子が変わったわけではなく、何ら変わらない、日常ではあったけれども、私の心に『今、放棄すること</p><p>&nbsp;</p><p>はできない。したくありません。』という願いが生まれ、明確になったということ。</p><p>&nbsp;</p><p>もう一つの心の思いは、（もしも、余命が限られるものになるとしたら・・・私は何をすべきなのか。）ということ。そして、</p><p>&nbsp;</p><p>何をしたいか？という素直な求めについてだった。自分では勝手に、年齢を重ねて、子供らにも新しい家族が与えられて、孫に会</p><p>&nbsp;</p><p>えることを、近い将来像としていたが・・・（これは実に、勝手な思い込みでもあることにも気付かされた。）</p><p>&nbsp;</p><p>わたしという『おばあちゃん』が、まだ見ぬ孫に伝えたいことは何か？・・・心を込めて、のこしたいことは何か？・・・</p><p>&nbsp;</p><p>私なりの方法で、私に与えられた賜物で、精一杯に『聖書のみことば』を、『イエス様』を、『福音』を『天国の希望』を伝える</p><p>&nbsp;</p><p>事！だった。それが、どんな手法で何をするのかは、今ぼんやりとベールがかかっているけれども、私はこの生き方の中で、</p><p>&nbsp;</p><p>まだ、時間が与えられるのならば、そのことに尽力したい！そう、思わされたことである。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>今週の初めに、夫に付き添われて結果を聞きに行った。そこには、笑顔の医師が明るく伝える姿があった。</p><p>&nbsp;</p><p>私は、これまでの道にもどされた。「大丈夫でしょう。」安堵すると同時に、心の引き締まる思いも同時にした。</p><p>&nbsp;</p><p>私はまた、生きる。生かされる。弱い罪ある心は、身勝手に揺れ動くだろうけれども、この人生の歩みの中の事実をここに記し</p><p>&nbsp;</p><p>これからの原点としたい。</p><p>&nbsp;</p><p>ハレルヤ！愛する天のお父様！聖書に示され残され、今なお生けるあなたの御聖霊によって、この小さい私を用いてくださいますように！感謝をして、救い主イエスキリストの御名によってお祈りします。　アーメン　　　　　２０２２・８・２７</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/nicochan1040/entry-12760985040.html</link>
<pubDate>Sat, 27 Aug 2022 09:16:30 +0900</pubDate>
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<title>魂の救いのギフト</title>
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<![CDATA[ <p>先日、郵便局の不在通知を忙しさにかまけて放置しておき、保管期限を過ぎてしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>何となく、『1週間程度の保管期限、そろそろだったかな・・・面倒だけど、再配達依頼しなきゃ・・・』と思いついて、出勤前の朝に、慌てて、問い合わせようにも・・・</p><p>&nbsp;</p><p>既に過ぎてしまった荷物は、もう自分の物として保管されず、機械的に送り元に戻ってしまう。</p><p>&nbsp;</p><p>私の心情。『そりゃあ、確かに、わかりきっていて放置しておいた自分が悪い。だけど、気が付いて翌朝、必死で問い合わせようとしてるのに、音声ガイダンスも、ようやく通じた電話対応も、私の思い通りの答えはくれない。ひどいじゃないの。仕事に、家庭の事情に、忙しい現代人が、不在通知に気付かなかったり、</p><p>つい手続きを延ばしてしまうことは、十分にありうることでしょ。人間なんだから・・・。忙しいんだから・・・。面倒くさいんだから・・・。』</p><p>&nbsp;</p><p>そして、こうも思う。『システム化されて、便利な世の中になったのも事実。だけど、そのシステムの中で確実な手続きが出来なければ、例外の対応はない。なんだか、人情味のない冷たい世界だなあ…。』</p><p>&nbsp;</p><p>ルールにのっとれなかった私自身の問題であり、身勝手な思いであることは自覚している。けれども、私の心にはこんな甘えがあった。『あの～昨日期限過ぎちゃった荷物ですけど、まだ、局内にあればとっておいてくださいますか？できれば、再配達をお願いします~』『わかりました~』って。勝手に、人間が相手をしてくれると思ったけれど、そうはいかなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>もしかしたら？昼間に自分の足で郵便局に出向けば、あるいは、その荷物がまだあって、受け取ることは可能なのかもしれないが・・・私は仕事に行かねばならない。その時間は難しい。</p><p>&nbsp;</p><p>今回、こうなった理由はもう一つある。その荷物が自分に身の覚えのないもので、（つまり自らが欲して注文した品で待っていたものではなく、ただ『ペイペイ』とだけ記された、興味のないものであったということ。）それでも、自分宛てに来ているのだから何だろうかと気になりはする。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、こんなくだらない事柄で少し苛立ち、心を乱されて、自分の弱さが溢れそうになり、聖霊なる主に祈りつつ、次に与えられたのはこんな思い。『え・・・？神様からの救いのギフト（主イエスの十字架の贖いを信じ、自分の罪がそこに張り付けられたことにより「神様との和解」を得られた！という『救いの道』=福音）について、</p><p>&nbsp;</p><p>聞いても信じがたい心、馬鹿にする心、聞こうともしない心・・・伝道の難しいこの国の中で、家族伝道すら難しい現実。</p><p>&nbsp;</p><p>ああ、「聞いたことがある、それ、何となく気にはなってたし、確かに自分あてに何度も何度も案内が来たけれども、そもそも自分が求めたものではなかったし、面倒くさくて放置していたんです。だけど、私宛のものだったんですよね？なんとかなりませんか？・・・天国に行きたいんですけど・・・。」</p><p>&nbsp;</p><p>その時になって、神様はなんとおっしゃるのか。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちを愛して、十字架にかかるほどに私の罪の身代わりとなってくださった方は、すべての人間のために、救いの為にそうして示してくださったけれども、それを受け入れない者たちは、その時がきたら、「私はあなたを知らない」と言う。とはっきりと、示されてもいる。義（神の真実の正しさを貫く）なる方でもあるからだ。</p><p>&nbsp;</p><p>聖書に基づいて生きる私には、重い言葉である。</p><p>&nbsp;</p><p>願わくば、多くの人々が、この福音に素直に心を開いて、確かに『あなた宛て』の個人的な救いのギフトを受け取ってほしい。</p><p>&nbsp;</p><p>昨日まで当たり前に飲み食いしていても、その日は突然やってくるということも、また、神様のみことばであるから。</p><p>&nbsp;</p><p>それでも、毎日を、今日を、生きていかねばならないので、この真理がベールに包まれて、自分自身も周りの人々も、世界中の人々も、新しいこの日を、生きるしかないのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ちっぽけな私の口はありったけ叫んでも、何の力もない。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、ちっぽけな心に聖霊のご支配を求め、その力と導きを信じて、ゆだねて、一日を過ごしてゆく私なのです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/nicochan1040/entry-12750108911.html</link>
<pubDate>Sat, 25 Jun 2022 10:34:19 +0900</pubDate>
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<title>２０２２年聖霊降臨日によせて</title>
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<![CDATA[ <p>ハレルヤ！久しぶりの投稿。今日は、キリスト教会ではペンテコステ(聖霊降臨）を記念する日である。</p><p>&nbsp;</p><p>イエス様が復活後に昇天されたあと、お言葉通りに集まり祈っていた信徒たちの上に、「聖霊」（現在において、私たちの心に住まわれて、求めに応じて満たしてくださり、時宜にかなった助けや悟りを与えられる、世の終わりまで私たち一人一人と共にいてくださる神様）が降り、その後の歴史において『御心にかなうすべての事』は祝福され広がり、今もなお、世界中に『聖霊の働き』による、『善きこと』『希望』『魂の救い』をもたらし続けている。</p><p>&nbsp;</p><p>この人間の歴史が、その罪（神を必要とせず自己中心に生きる的外れ）のゆえに、愚かな悲惨を繰り返し、今も、あらゆる悲惨がはびこり続けていることは現実である。しかし、その絶望と諦めと空虚の中に、一筋の光を見いだすとしたら、それは『神の憐み』にすがり、立ち帰ることでしかない。人間を、本来、神が</p><p>『良し』とされた被造物で最も神ご自身に近いものとして存在せしめた原点に返るなら、『人間愛と絆』『平和の希求』『命の尊厳』といった、罪ある人間社会が飢え渇き求めているところに、たどりつく唯一の道ではないかと、私は信じる。</p><p>&nbsp;</p><p>たくさんある宗教の中で、なぜキリストを？</p><p>&nbsp;</p><p>私自身が、『神の憐み』を受けて、『聖霊』の働きにより、主イエスキリストの『罪の贖い』を理解することができたから。それは、やはり、私が選んだのではなく、神様が、『選んで』くださったのだろうということを、思いめぐらす。</p><p>&nbsp;</p><p>弱く、愚かなるものではあるが、聖霊様の満たしを求めて、日々を生かされていきたい。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/nicochan1040/entry-12746610643.html</link>
<pubDate>Sun, 05 Jun 2022 13:22:17 +0900</pubDate>
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