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<title>弘の手紙</title>
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<description>1921年（大正10年）に1年をかけて世界を回った＜弘＞の足跡を＜バカ息子＞辿ります。＜弘＞の足跡は旅先から妻＜安子＞に送った手紙からかなり詳しく解り、90年前の世界の変化を検証する旅でもあります。</description>
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<title>&lt;弘の手紙&gt;88</title>
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<![CDATA[ <span tag="span" style="font-size: 14px; "><span style="font-size: 16px; "> 　1995年1月に起こった阪神大震災では97年12月までの推定で延べ187万人のボランティアが活動したという。この中に私は入っていない。そしてついこの間岩手でボランティアに2日間参加するまで経験がなかった。そういう人間が「広島から東北へ」と呼びかけても全く説得力を持たないのは、自覚している。ただこれまでの経緯をもう一度書いてみたいと思う。<br><br>　3月11日に震災が起こり、津波が人や町をのみ込む凄まじいとしか形容のしようがない映像が遠く離れた広島でも流れる。ところが私の場合あまりにも映像が凄すぎて事の重大さを上手く想像できなかった。この時点でボランティアのボの字も思い浮かんでいない。それだけではなく、水さえないのはわかったが、物資はとても送れないだろと思い、結局行動に移せなかった。これは後から、人づてに聞いたのであるが、地震の一報を聞くや否や、2トントラックに詰めるだけのものを詰めて、宮城へと支援物資を届けた人が広島にいる（直接の知り合いではない）。彼は昼夜走り続け、制止する警察官などを振り切って、13日早朝に現地に入ったという。全く持って頭が下がる。<br><br>　徐々に事の重大さがわかってくると、さすがにせめて募金をしなければという気になった。問題はいくら寄付をするかということである。私の場合、募金＝小銭という感覚であるが、今回はそれではまずいだろう。メディアでは大口の寄付が話題になっていて,1千万、1億、10億という金額が喧伝されるがこういう大金は全く参考にならない。<br>　そんな時、近所のコンビニ行くと，募金箱にたくさん千円札が入っていた。それを見た私は「やっぱり札だよな」ということになり、募金＝小銭は卒業（？）した。ところがその日の夜他県でOLをしている娘から℡があって「今日会社で募金箱が回ってきたら1万円札しか入ってなかったので、私も2万円を入れた」と言われてしまった。こうして千円札も卒業し、1万円札に突入（？）する。そうすると、近所の募金箱に入れるのは抵抗がある。「やっぱり銀行振り込みかなあ」と思っていたところへ一つの情報が入ってくる。義援金にの代表的な振込先である日本赤十字社は公平な分配方法が決まるまで、お金をプールしておくという（周知のようにこのルールはその後変更された）。<br>　そうなるとすぐにお金を渡してくれるところへ寄付したいと思うようになった。そんなときツイッターを眺めているとジャーナリストの日垣隆氏が「最低100万円を持って被災地を回り、静かに置いてこい」とつぶやいていた。彼は続ける。<br>「100万円は一つの目安。これより少なくてもよい。ただお金は直接自分で届けるのが基本」。<br>　金額もさることながら、「直接自分で届ける」に強く反応した。そして銀行に走り、東北への切符を手配して、広島を後にしたのは既に書いた。そしてお金を上手く渡せなかったことも書いたし、余ったお金で、ボランティア隊を結成し、今度は団体で岩手へ目指していることも書いた。<br>　これまで一度もボランティアを経験したことがなく、その気もなかった私が、曲がりなりにも活動しようと思い立つきっかけを作ってくれたのが日垣隆氏だ。まあ、我ながら単純すぎるような気もするが。<br>　<br>　ところで日垣氏とは浅からぬ因縁がある（彼は感じてないでしょうけど）。<br>　私は広島のある勉強会に参加していて4人でも細々と活動していたのだが、「何かイベント企画を！」ということになった。今年の1月である。相談した結果ジャーナリストの日垣隆氏を広島に呼び、講演会を開催しようということになった。恐る恐るオファーを出すと（正確に言うと他のメンバーに出してもらうと）幸い快諾してもらった。それが2月である。テーマは彼の著作「こう考えれば、うまくいく」（文藝春秋社）をたたき台にして地方都市で真に自立して生き延びる方法を講演してもらう予定であった。ところが3月11日の震災だ。テーマはそのままながら、震災や原発問題に重きを置いてもらうことにした。<br>　日垣氏は現場で考える主義だ。今回の震災でもいち早く現地入りし、精力的に東北各地を回った。それだけではない。この日を前後して、チュニジア、リビア入りし、一連の革命の実情を目で確かめている。それだけでない。その後原発問題が浮上すると、チェルノブイリへと入り、改めて原発事故の総括をしている。その過激なまでの現場主義と行動力には全く頭が下がる。<br>　そんな日垣隆氏の講演会が広島である。行かない手はない(自爆）。以下に日程等を記載する。<br><br>・日垣隆講演会<br>日時　　6月25日（土）13時～<br>場所　　広島県立総合体育館（グリンアリーナ）地下1階大会議室　広島市中区基町4－1　<span class="Apple-style-span" style="line-height: normal; font-size: medium; color: rgb(51, 51, 51); "><span class="Apple-style-span" style="border-collapse: collapse; font-size: 13px; "></span><span class="Apple-style-span" style="border-collapse: collapse; font-size: 13px; "><a href="http://www.sports.pref.hiroshima.jp/" target="_blank" class="detail_hall_information_url" style="display: inline !important; max-width: 500px; word-break: break-all; overflow-x: hidden; overflow-y: hidden; color: rgb(0, 102, 255); text-decoration: underline; ">公式HP</a><br></span></span><font style="font-size: 18px; ">テーマ「</font><span class="Apple-style-span" style="line-height: 18px; font-size: 12px; color: rgb(102, 102, 102); font-family: 'Trebuchet MS', Helvetica, sans-serif; "><font style="font-size: 24px; "><font style="font-size: 18px; ">作家・ジャーナリスト　日垣隆氏に聞く。</font></font><strong style="font-size: 16px; "><a href="http://www.kamigaki.jp/pdf/higaki01.pdf" style="text-decoration: underline; color: rgb(109, 176, 243); "><font style="font-size: 18px; ">何が起きるか分からない今……「こう考えれば、うまくいく。</font></a><a href="http://www.kamigaki.jp/pdf/higaki01.pdf" style="color: rgb(109, 176, 243); "><font style="font-size: 18px; ">」</font></a><font style="font-size: 18px; ">　</font><br>　<br>※チュニジア・リビア・チェルノブイリ報告や東日本の復興・原発問題などに重きを置いて講演してもう予定です。質疑応答のコーナーも設けています。<br><span class="Apple-style-span" style="font-weight: normal; font-size: 12px; "><font style="font-size: 24px; "><br>詳細は</font><strong><font style="font-size: 24px; "><a href="http://www.kamigaki.jp/pdf/higaki02.pdf" style="text-decoration: underline; color: rgb(109, 176, 243); ">こちら</a>　　</font></strong></span></strong></span>チケット代：4500円<span class="Apple-style-span" style="line-height: 18px; font-size: 12px; color: rgb(102, 102, 102); font-family: 'Trebuchet MS', Helvetica, sans-serif; ">　</span><br><br>◎申し込み方法　下記アドレス宛にて件名を「6月25日イベント申し込み」としてメールにてお申し込み下さい。その際、①氏名　②性別　③メールアドレス　④申し込み枚数を銘記下さい。複数枚申し込まれる場合はお名前等は代表者で結構です。折り返し振込先をお知らせします。　　<br>メールアドレス：credohiroshima@gmail.com<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br></span></span>
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<link>https://ameblo.jp/nikki147/entry-10907811190.html</link>
<pubDate>Mon, 30 May 2011 13:47:38 +0900</pubDate>
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<title>&lt;弘の手紙&gt;87</title>
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<![CDATA[ <span tag="span" style="font-size: 16px; "><span><font style="font-size: 18px; "> 　</font><font style="font-size: 14px; ">昨日のブログで被災者の方が受け取ることの出来る金額が自治体によって異なると書いた。まだすべてを理解しているわけではないが、調べてみると少しわかったこともあるので、訂正を兼ねて記事にしたい。<br><br>　今回の支給は「被災者生活再建支援法」「災害弔慰金の支給等に関する法律」に基づいている。前者は阪神大震災を教訓として作られた法律だという。<br>　私は法律家ではないので、条文を読んでもわからないことも多いが今回の震災で全壊した家屋について最高100万円が支給されるのは「被災者生活再建支援法」に基づいている。そして新たに住宅を購入・建築した場合、最高200万円の追加支援があるのもこの法律に基づくものだ。この法律に基づいて支給される金額には自治体による差異はないようだ。<br>　問題は「</font></span></span><span class="Apple-style-span" style="line-height: 24px; font-size: 14px; "><font style="font-size: 14px; ">災害弔慰金の支給等に関する法律」の方だ。<br>　この法律の条文に目を通すと、第三条1項に「</font></span><span class="Apple-style-span" style="line-height: 24px; font-size: medium; "><font style="font-size: 14px; ">市町村（特別区を含む。以下同じ。）は条例の定めるところにより、政令で定める災害（以下この章及び次章において単に「災害」という。）により死亡した住民の遺族に対し、災害弔慰金の支給を行うことができる」とあり、さらに3項に「</font></span><span class="Apple-style-span" style="line-height: 24px; font-size: medium; "><font style="font-size: 14px; ">災害弔慰金の額は、死亡者一人当たり五百万円を超えない範囲内で死亡者のその世帯における生計維持の状況等を勘案して政令で定める額以内とする」とある。つまり釜石市で遺族に最高500万円が支給されるのはこの法律に基づいている。そして釜石市で弔慰金が支給されるのは「条例の定め」があったことを意味するだろう。一方で山田町では50万円でなっているのは、そのように条例が定められているのかもしれない。（未確認）<br>　ところでこの災害弔慰金は二分の一を国が負担し、四分の一を都道府県が負担するが、まずは市町村が立て替え払いをし二三ヶ月後に市町村に交付される仕組みであるという（典拠は<span class="Apple-style-span" style="line-height: 30px; font-family: sans-serif; ">Wikipedia「災害弔慰金の支給に関する法律」）。</span><br>　つまりこの法律に基づき弔慰金を市町村が支給するには多額の立て替え費用が必要ということになる。財政規模の小さい自治体にとってこの立て替え費用は大きな負担のはずで、そのために満額が支給ができないのかもしれない。山田町も立て替え費用の算段がつかないため、「50万円」となっているのだろうか。<br>　そもそも山田町の「50万円」はこの法律に基づく支給でないのではないか。というのは、釜石市市役所のホームページを見ると、前述の法律に基づき支給される弔慰金とは別に災害義援金交付についての説明あり、日本赤十字社などからの義援金に基づき交付される旨が銘記されている。以下に転載する。<br><br>義援金の名称り災事実<div>交付金額<a href="http://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryinsertinput.do?editor_flg=2#"> </a></div><div>(1)死亡または行方不明見舞金</div><div>死亡または行方不明　対象者1人当たり55万円(国35万円、県15万円、市5万円)</div><div>(2)住宅損壊等見舞金</div><div>①居住している住宅が全壊または全焼1戸あたり50万円(国35万円、県15万円)</div><div>②居住している住宅が半壊または半焼1戸あたり25万円(国18万円、県7万円)<br>（釜石市災害対策本部情報　「災害支援金の交付申請」）<br><br>　上記から山田町で支給される「50万円」は日本赤十字社などからの義援金に基づき交付されている可能性が高い。そうだとすると、何らかの理由で山田町では「災害弔慰金の支給等に関する法律」が機能していない可能性がある。その理由が立替金が捻出できないということであれば、やはりここは国・政府の力に頼らざるを得ないだろう。<br>　それにも関わらず昨日テレビ番組を見ていたら、自民党の町村氏は「たとえ1ヶ月くらい国の機能が止まっても、選挙を！」と主張していた。民主党政権の情けなさは目を覆いたくなるが、自民党も現状を認識しているとは思えない。<br>　兎にも角にも被災者支援のための財源確保が急がれるという事だろう。<br><br>※連日のお断りで恐縮ですが本記事の内容に誤りがある場合はご一報頂けると有り難いです。</div><div><br></div><br><br><br></font></span>
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<link>https://ameblo.jp/nikki147/entry-10903430274.html</link>
<pubDate>Thu, 26 May 2011 09:03:16 +0900</pubDate>
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<title>&lt;弘の手紙&gt;86</title>
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<![CDATA[ 　<font size="3">以前のブログに書いたが、釜石市では「生活支援の申請手続き」のお手伝いをした。そこで釜石市では被災者は申請により下記の金額が支給されたり、貸し付けられたりすることを知った。<br>１遺族には見舞金として250万円～500万円支給<br>２家屋の全壊・大規模半壊には37万円～300万円支給<br>３災害援護資金として150万円～350万円貸し付け（3年～5年間据え置き）<br>　家族や家をなくし、思い出さえなくした被災者にとってはお金では埋められないことはたくさんあるだろう。と同時に阪神大震災の時、被災者が受け取った金額は平均40万円程度と聞いていたので、十分とは決して言えないけれど、比較的大きな金額を受け取ることができると知り、少しだけ安堵した。だから「釜石では、お金もまだまだ足りないが、一番足りないのはお手伝いをする人だ！」と思い今回ボランティア隊の派遣を企画したのである。そして上記の金額をどの自治体の被災者も受け取ることが出来ると思い込んでいた。<br>　ところが山田町役場災害対策本部の5月23日付公表資料に目を通して愕然とした。山田町では受け取ることができる金額は以下の通りである。<br>１死亡または行方不明者見舞金　対象一人当たり　50万円<br>２住宅損壊等見舞金　　　　　　　２５万円～５０万円<br>３被災者生活再建支援金　　　　　５０万円～３００万円<br>　それぞれの人口は釜石市が39600人、山田町が18625人。釜石市は新日鉄もあるので、両者の財政規模は見かけ以上に大きいのかもしれない。また交通事故死などで、対象者の収入などによって支払われる金額に多寡があると聞いたことはある。しかし今回は同じ震災で受けた被害について受け取ることの金額が違う、特に弔慰金の額が異なるのは多くの人に疑問があるのではないか。私もその一人である。それだけではない。例えば山田町では３「被災者生活再建支援金」として受け取ることの出来る300万円の要件として１自宅が全壊し、２新たに住宅を建設・購入する場合なのである。この点でも両者の違いは大きい。<br>　しかし誤解の無いように書けばこれは当然ながら釜石市への批判ではない。被災地全部について調べたわけではないがせめて釜石市で受け取ることの出来る金額に合わせられないだろうか。こういう違いがあることを管首相はご存じなのだろうか。<br>　兎にも角にも、6月11日から釜石市に入る予定であるができれば山田町にも寄ってお手伝いをしたいと思っている。<br><br>※釜石市と山田町の金額についてはホームページで確認しました。実際に申請する場合は受け取る金額に違いはないのかもしれません。また今後追加の支援金があるかもしれませんが、全く知らなかったことなので、書きました。無知をさらけだしているかもしれません。記述に誤りがある場合、ご一報頂けると有り難いです。</font>
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<link>https://ameblo.jp/nikki147/entry-10902350765.html</link>
<pubDate>Wed, 25 May 2011 07:24:37 +0900</pubDate>
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<title>&lt;弘の手紙&gt;85</title>
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<![CDATA[ 　<font size="3">震災以後、朝日新聞の「いま伝えたい　被災者の声」という新コーナーに、なるべく目を通すようにしている。掲載の段階で取捨選択があり、記事は口述筆記の体裁をとっているので、内容・ニュアンスに相違があるかもしれないが被災者が何を考え・何を望んでいるか知る上で貴重な情報源となっている。<br>　既読の方も多いかもしれないが、あえてここ数日の記事をいくつか紹介してみる。<br></font><br>　<font size="4"><font color="#0000FF">石巻市　高橋タマ子さん（73）<br>「震災直後から避難所の図書館で暮らしています。本が自由に楽しめるから、他の避難所より恵まれているほうだろうねえ。日本の歴史ものを中心に、もう20冊読破しました。今は卑弥呼の話を読んでいます。仮設住宅を希望していますが、抽選に全然当たりません。本をあと何冊読まなきゃなんないのかしらね。避難所の周辺のヘドロがすごい臭いで、体を壊しそう。早く普通の生活に戻って、温泉旅行でも行って山菜をたべたいもんだねえ」＝同市の市図書館　（5月23日付）</font></font><br><br>　<font size="3">避難所が足りないということは、よく耳にしていた。映像で目にする避難所は学校の体育館である場合が多いので他施設の避難所の実態に思いが至らなかった。遅ればせながらこの記事により図書館までも避難所となっていると知る。多くの公共施設が本来の機能を発揮できないでいることを改めて知ることで、まだ復興は途端にも付いていないことを痛感するのである。それにしても「本をあと何冊読まなきゃなんないのかしらね」というつぶやきをどんな風に受け止めれば良いのだろう。また「臭い」というのは、映像から全く体感できない要素で、嗅覚の欠如は想像力の欠如に繋がりやすいことを肝に銘じなければならない。<br>　高橋さんが母と同じ年齢であるので、余計に言葉が身に沁みた。温泉旅行に招待したいと思うのは不遜だろうか。あっその前に母を温泉にですね････。<br></font><br><font size="4"><font color="#0000FF">大槌町大槌　八幡亜希子さん（２６）<br>　「肉や果物など新鮮な食べ物がなかなか食べられず、子ども服も支援物資では着られるサイズがなかなか見つからず困っています。歯科助手をしていましたが、それもできなくなりました」＝釜石市上中島町4丁目のコンビニエンスストア（5月20日付</font>）<br></font><br>　<font size="3">一般に避難所への物資は一応足りているということになっている。避難所によって「量」の差は大きいし、「質」という面ではどこも十分とは言えない。調理方法・器具などが制限されるいるから仕方のない面はあるが、2ヶ月以上経過した現在でも食事の中心は缶詰やインスタント食品であるという。<br>　政府は8月までに避難所をすべて解消する方針らしいが、識者によると、補正予算の骨格が固まっていないなど、実現はかなり難しいらしい。そうであるならばあと数ヶ月は避難所生活が続くことになるから、「新鮮な食べ物」というのは、健康面からも精神衛生上からも目の前にある大きな課題の一つであると思う。<br>　またこれはこれは一度書いたが、衣類は「新品またはそれに準ずるモノ」が基本だ。それに加えて、上記の記事から、サイズという発想も加えなければならないだろう。後述するが、避難所では洗濯が制限されているのでこれからの季節、下着類などは余るということは考えなくてもよいのかもしれない。<br></font><br><font size="4">大槌町大町　道又直衛さん(61）<br><font color="#0000FF">「母のキン、弟の康志が行方不明で、遺体安置所を回りましたが見つかりませんでした。避難所には洗濯機が2台ありますが、水も足りず、場合によっては洗濯するのに釜石市まで行かなければなりません。とにかく避難所にもっと洗濯機を置いてもらい、せめてすぐ服を洗濯できるようにして欲しいです。」＝同町城山体育館</font></font><br>　<br>　　<font size="3">私がボランティアとして活動した山田北小学校も避難所になっており、体育館前に確か2台の洗濯機が置いてあった。その時点で山田北小学校は100名を超える被災者の方がいらっしゃったから、2台ではずいぶん不都合であっただろう。その時点で山田町もまだ給水は完全ではなく、至る所で漏水が起こっていた。現在では通水箇所は拡がったが、漏水が頻発している状況は変わらないらしい。（山田町役場ホームページ5月23日公表資料）。この記事を読んでまず山田町での風景が思い出された。<br>　洗濯一つとっても非常に不自由で、そのことが被災者の方の気持ちを中々前向きにさせない大きな要素になっているのだ。インフラが完全に復旧していない以上、このような問題はどの被災地でもあるのだろう。<br>　二人の肉親が行方不明の中で、道又さんの洗濯に対する気苦労だけでもせめて解決することはできないだろうか。</font><br>　<br>
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<link>https://ameblo.jp/nikki147/entry-10901496317.html</link>
<pubDate>Tue, 24 May 2011 12:24:34 +0900</pubDate>
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<title>＜弘の手紙＞84</title>
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アメンバー限定公開記事です。
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<link>https://ameblo.jp/nikki147/amemberentry-10897278143.html</link>
<pubDate>Fri, 20 May 2011 10:41:17 +0900</pubDate>
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<title>＜弘の手紙＞83</title>
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<![CDATA[ <font size="3">本日の話題は広島でボランティア隊を結成して、被災地で活動しようという件。<br><br>　個人で被災地ボランティアに参加したが、かえって足手まといになったような気もする。<br>多くの被災地はいまだライフラインさえ十分ではないし、避難所生活をされている方も少なくないから<br>ボランティアを受け入れる余裕のないところもある。山田町も釜石市もボランティア対応の職員の方々がニーズをマッチさせるために奮闘していらっしゃった。各地区のボランティアニーズを把握し、そこへ人を派遣する場合、団体の方がいろいろな意味でスムーズに行く。山田町では定期的に盛岡からボランティアバスを出している。個人であってもこのようなシステムであれば団体として活動できる。ただしこのバスの費用はおそらく岩手県社会福祉協議会から出ているのだろう。そうだとすれば、ボランティアのシステムとしては少し広がりに欠けるように思うが如何であろうか。<br>　私としては東北からは距離がある西日本に住む個人が集まって、5名～10名くらいの団体となって東北へとボランティアに駆けつけられるシステムを作りたいと思っている。<br>　<br>　少し考えればわかることだが、「山田町・釜石市」といっても広いのである。基本的に車での移動となるが、その車自体が足りないので、各自治体とも個人対応はとても出来ない。しかも県外から車で多くの個人が駆けつけたら、限られたルートであるから、肝心の支援物資や工事関係車両に支障をきたす可能性がある。また個人であると日々のボランティア人数が読めず、仕事の割り振りも難しくなる。だから多くの被災地が基本的に5名以上の団体（ただし10名以下という人数を制限する条件を出している所も少なくない。少なくても多くてもいけない）で、出来れば長期（1週間以上）という条件を出しているのである。寝袋と食事を持参すれば宿泊場所を提供するという自治体もあるが「宿泊場所は近隣に自前で確保」がほとんどである。<br><br>　前回のブログにも書いたが釜石市や山田町で「もう一度ここへ来る」と誓った。今度は足手まといにならず、そして少しだけでも役に立つよう、5名～8名くらいのでと考えた。そこで旧知の一文字弥太郎氏に相談すると、自身が運営する<font size="5">「<font color="#FF0000">ついツイ生だし広島ラジオ</font>」</font>（http://www.ustream.tv/channel/ついツイ生だし広島ラジオ　毎週火曜日23時～）で告知してあげるとのことだったので℡をつないでもらった（17日、46回目）。<br>　その時点で、ほとんど何も決まっていなかったので、私のささやかな体験と思いを話し、ボランティア隊を結成したい旨を宣伝してもらった。大変有り難かったが、何も決まっていないのに、思いだけを語って視聴者の方も困惑されたことと思う。申し訳なかった。<br>　反省を込めてそして何とか実現するために本ブログで企画を練り、そしてボランティアを募り、アイディアや意見も募りたいと思う。どうぞよろしくお願いします。<br><br>　1回目は現段階で考えていることを書き連ねたい。<br><br><font color="#0000FF">１　企画内容</font>　　広島から岩手（釜石）でボランティア活動。主な活動は被災家屋の清掃・泥だし、仮設住宅への引っ越し手伝いなど。基本的に力仕事。応募者の資格などによってはその能力を発揮できる内容にニーズがあるか釜石社会福祉協議会に打診します。また皆さんからの「こんな事出来る」や「こんなことやってみたら」の意見も受け付けます。番組の許可が下りれば、名称は「つい生ボランティア隊」としたい。<br><font color="#0000FF">２　目的</font> ・被災地でのボランティアを体験することにより、抽象的思考になりがちな「自分できること」を具体的に実現させる契機とする。<br>・番組を通じて呼びかけることで幅広い人達の支援と英知を結集させる。<br>・広島から被災地へボランティア派遣のための仕組み作りに少しでも寄与する。<br>　　　　　　　　　<br><font color="#0000FF">３　移動手段</font>　　<br>　車。バルコムＵＳＴスタジオ（西区大芝）から釜石のボランティア受付所があるシープラザ釜石まで1374km。土日の高速道路特別料金を利用する。通常26250円 →5510円（片道）　往復11020円<br><font color="#0000FF">４  日程</font>　　　　6月中。出来れば6月11日（広島発）～6月19日（広島着）※予定<br><font color="#0000FF">５  宿泊</font>　　　　釜石周辺の格安施設を考えています<br><font color="#0000FF">６ 人数</font>　　　　5名～8名募集<br><font color="#0000FF">７ 応募資格　 </font> <br>・18歳以上の男女（原則男性）<br>・健康で体力に自信がある方<br>・期間内は同一行動の出来る方<br>・交通費や宿泊費・食事代などを一部負担できる方.<br>・広島市社会福祉協議会などでボランティア保険「天災Aプラン」（490円自己負担）に加入すること<br>・誓約書を提出できる方（後述）<br>・応募者は必ず事前に面接します。応募多数の場合はお断りすることもあります。<br><br><font color="#0000FF">８　その他　</font>　　<br>・ボランティア派遣に掛かる費用として私が50万円を提供する。<br>・このお金は参加者の交通費等にも使うが、出来るだけ節約し、余剰金は釜石市に寄付する。<br>・上記の理由によりボランティア参加者にも2万円を目安にして負担をお願いしたい。ただし特別の理由があれば負担金を免除することもある。<br>・ボランティアを不特定募集する際は、多くの場合誓約書の提出を義務づけている。ただし、本ボランティアでは応募者・参加者と話し合いながら誓約書の内容を決めたい。<br>・ゴールデンウイークが終わり釜石市のボランティアはかなり少なくなっている。一方で、被災した個人住宅での泥だし・後片付け、仮設住宅への引っ越し手伝いなどの需要は高まっている。釜石市社会福祉協議会からの条件として「5名以上の団体・　1週間程度・自家用車で移動・宿泊は近隣で各自」が出ている。この条件に合うよう1～5について配慮した。<br><font color="#0000FF">９　お願いなど</font>　　<br>・本企画に参加する意志のある方は本ブログのメッセージを使って連絡を下さい。その際、１お名前　性別　連絡先（メールアドレス）　2　ボランティア経験の有無　３運転免許の有無、その他資格・得意分野など　4　応募動機　などをお願いします<br>・「自分に出来ること」はボランティアをするだけでありません。経験談やアドバイスなどもお願いします。<br>・差しあたりヘルメットやスコップ出来れば一輪車なども自前で用意したいと思っています。提供してくださる方や貸して頂ける方も本ブログのメッセージで問い合わせ下さい。こちらから返信します。<br><br>　以上。　　　　　</font><br>　　　　　　　　　<br>　　　　　　　　　　<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nikki147/entry-10896344518.html</link>
<pubDate>Thu, 19 May 2011 12:15:19 +0900</pubDate>
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<title>＜弘の手紙＞82</title>
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<![CDATA[ 　<font size="3">続いて釜石でのボランティア活動について少し<br><br>　岩手県内陸部から三陸海岸沿いに入るための交通手段が限られている。公共交通機関に限定するならまずはバスだ。盛岡発のバスが一日数本三陸方面に向けて出ている。しかし元々ルートは限られるているし、道路は基本的に1車線であるから、平時であっても三陸方面に行くのに2時間は優にかかる。現在は復興のための車両で交通量が増えているから、一部区間では渋滞となり、3時間くらいにはなる。さらに本数も限られているので、盛岡を拠点にして往復するのは簡単ではない。<br>　列車の場合はさらに制限をされる。山田線は盛岡-宮古間が復旧しているが、運転本数は限られているのでスケジュールが上手く立てられない。そもそも宮古-釜石間は、復旧の目途さえ立っていない。山田町に入ったとき山田線の状況を目撃したが、大きく歪曲した線路が散乱し、どこかに流された線路もある。駅（陸中山田駅）も駅の体をなしていないという（http://ameblo.jp/taku14/entry-10884871112.html　参照）。ここの復旧に手を付けるには素人目にも（或いは素人目には）相当の時間とお金が掛かると思った。また三陸各地を結ぶ三陸鉄道も大きな被害を受けていて、一部が営業運転をしているに過ぎない。<br>　唯一釜石線だけは全線再開し、平常運転をしている。盛岡6：05分発の始発列車に乗れば、9時前に釜石に到着する。帰りは17時40分釜石発の列車があるので、盛岡を拠点にして釜石へ日参することも一応可能だ。そこで山田町の翌日は釜石線に乗って釜石へ行くことにした。ボランティア活動の内容については前々回のブログで触れたので省略するが、考えた事を記しておきたい。<br>　<br>　釜石のボランティア受付の横にプレハブの施設があり、そこはボランティアの休憩場所になっている。昼時にはカップラーメンなどのインスタント食品が提供される。私もここでカップ麺を啜った。普段カップ麺を食することは皆無ではないけれど、避難所の方々は長くこういう食事が続いたのだと気づかされた。こんなものを（失礼！）3食続けていれば、体がおかしくなると思うのは不遜だろうか。その時点では物資の調達は進んだと聞いていたが、避難所での調理方法は限定されているだろうから、好きな品を自由にというわけにはいかないだろうことに今更ながら思い到ったのだ。<br>　<br>　ボランティア活動が終わり、釜石駅に向かった。少し時間があったので、待合室に腰をおろす。すると30代と覚しき男性がビールを飲んでいた。当然ながら（？）触発された私も少し飲もうと、近くのコンビニ（駅前のコンビニは営業していた）へ行き、ビールを買い、グビグビやっていた。すると先ほどの男性が声を掛けてきた。話を聞いてみると家が流されたので、避難所暮らしだという。「避難所では飲酒が禁止なんですよ。だから夕方はここに来てちょっとやってます」と照れながら話してくれた。つまみとして、竹輪を頂いたので、お返しにビールを追加で買ってきて提供した。心ならずも（ウソ）酒盛りとなり、色々と話をすることになった。<br>　彼の名は仮にAさんとしておく。メートルが上がるにつてAさんの話は深刻になる。今回の震災で自宅が流されただけでなく、同居していた両親が犠牲になったという。両親を助けられなかったことを相当後悔しているようで、自分を責めている。別の場所に住む弟からは「兄貴がいながらどうして助けられなかったんだ！」と責められることも自責の念を強くしている。掛ける言葉がない。しかし途中で気が付いた。Aさんにお酒を飲ませてはいけないのだ。お酒がAさんの自責の念を強くしているように感じた。楽しいとまでは言えないまでも気分転換になるお酒になるならそれもよいだろう。しかしこの飲み方は良くない。私自身にも酒にだらしない方だからわかるのだ。<br>　列車の出発時刻になったので、挨拶して別れた。広島にいるときには「被災地のためになにができるか」と考えていたが、この時以来「例えばAさんのために何ができ、何をするのがよいのか」と発問が変わった。そして盛岡へと帰る車中であれこれ考えた。上手く考えはまとまらなかったが少なくとももう一度ここに来ようと決めた。幸い（？）解約した定期のお金はまだ残っている。釜石市に支援金として一部を寄付したが、被災者の方に直接お金を渡すことはできなかった。例えばAさんにお金を渡せば、アルコール代となるのは目に見えている。それでは彼のためにならない。最初はお金を渡せば何かの足しになると思っていたが、お金の渡し方一つにも芸というか技がいることに気が付いたのだ。<br>　<br>　被災地復興のためには様々なモノ・コト・ヒトの支援が必要だし、場所によって、段階によってその内容は変わっていくだろう。現地の方が口にするのは一応食料品や生活支援物資は揃ったという。場所によってはインスタント食品などは2年分もあり、保管場所に困っているほどある。<br>　支援物資については岩手福祉協議会職員の方（佐々木さん）から聞いた話を特に附記しておきたい。　品数は揃ったが生活物資の質は十分ではない。協議会では支援物資として「新品またはそれに準ずるもの」と呼びかけている。それにも関わらず、ボロボロになった衣類などがクリーニングもせず送られてくる。衛生面を考えてもこういったものは、廃棄処分にせざるを得ない。それでなくても足りない人手が足らなくなる。さらにひどいのは「靴が片方だけとか、壊れたオモチャとか」も送られてくるそうだ。佐々木さん曰く「衣類は原則新品で（特に下着類）。最低でもクリーニングしたモノを」。肝に銘じたい。<br>　<br>　被災地共通の悩みは瓦礫の撤去だ。瓦礫を撤去した後は泥だしが待っている。機械である程度は片付けられる。しかし最後は人海戦術となる。スコップで泥を書き出し、一輪車で運ぶ。そしてスコップででもすくえなくなったら、手で書き出し、一輪車へ。他に仕事はたくさんあるから、工事関係者（プロ）にこんなこと（しかし大事な仕事だ）をやらせるわけにはいかない。よっし、決めた。残ったお金でボランティア隊を結成しよう。屈強な若者（自称可）をスカウトして少なくとももう一度ここに来るのだ。<br>　待合室で飲んだビールが盛岡へと向かう気動車の振動で増幅され、あれこれと妄想していると、列車がある駅で停車した。車窓から見るともなくホームに目をやると「土沢駅」の看板が見える。これは後から調べたのだが、この駅は花巻駅の管理下にあり、駅員は常駐していない。<br>　そんなローカル線の寂れた駅に過ぎないが、「当駅の周辺施設案内」の看板を見て思わず声をあげてしまった。「萬鉄五郎記念館　徒歩8分」とあったからだ。</font><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110518/14/nikki147/6f/bc/j/o0080013311235576611.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110518/14/nikki147/6f/bc/j/o0080013311235576611.jpg" alt="弘の手紙-萬鉄五郎" style="clear:both;float:right;" border="0"></a><font size="3">萬の絵を最初に見たのは、東京竹橋にある国立近代美術館で。特別展として「ゴーガン展」（それにしてもいつの間にゴーガンに？私の学生時代は「ゴーギャン」だった）を開催中の折、会場2階の常設展で目にしたのだ。正直言うとゴーガンよりも萬の方が印象的だった。大好きなマティスの影響が明らかであるのも好ましいと思った。その萬の出身地が岩手県だとは不覚にも知らなかった。記念館は彼の生地に建てられたものだ。昼間だったらこの駅で飛び降りるところだが、すでに夜も8時を廻り、そうもいかない。しかしこれでここにやって来る理由がまた一つ増えた。</font>
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<link>https://ameblo.jp/nikki147/entry-10895358533.html</link>
<pubDate>Thu, 19 May 2011 00:10:25 +0900</pubDate>
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<title>＜弘の手紙＞81</title>
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<![CDATA[ <font size="3">もう少し被災地ボランティアの話を。<br><br>　意気込んで広島からやって来たが5日間の滞在中ボランティアに参加したのは、山田町と釜石市の各１日のみ。役に立ったというレベルではなく、仕事に慣れる間もなく、広島に帰ったので、単なる足手まといである。それでも現地に分かったこともあるので、少し書き連ねてみたい。<br><br>　まずは山田町から。山田町は今回の震災で行方不明者を合わせると800人以上の犠牲者を出した。いや現時点での正確な数字を出しておこう。山田町役場のホームページによると死者は566名、安否不明者は266名である。平成22年の国勢調査では町の人口は18625人だから、町の約5％の方が犠牲になられたことがわかる。数字だけを出すとかえって上手く想像できないかもしれないが、これは大変な数字だろう。<br>　ボランティアバスが山田町に入ると今までの風景画一変する。沿岸部は瓦礫の山が散乱し、住宅地と覚しき場所のほとんどの住宅が流失している。少し大きな建物は辛うじて残っているが骨組みがむき出しになっており、とても施設としては使えない。今更ながら津波の激烈さを痛感した。ところがバスが沿岸部を通りすぎ、一旦高台の方へ入ると、再び風景は変わる。外観からは、全く被害を受けていない家々が続くのである。当たり前のことであるが同じ被災地と言っても被害は一様ではないのだ。　しかし被害を受けていない家屋であってもそこに住む人達が平穏無事というわけではない。電気水道などのライフラインはまだ完全には復旧していない。途中落雷などもあり、一旦電気が通ったところも再び停電になった地区もあるようだ。水道にしても漏水が多発しているようで、現段階ではとても元の生活というわけにはいかないだろう。さらにいえば、町の中心は沿岸部にあったから、生活物資が手に入らないという状態が長く続いたという。5月17日の段階で山田町の避難場所は29箇所、2594人の方が避難している。その他食事の支援を受けている方が1004名。避難している方々はもちろん、その支援に携わっている方の披露はピークに達しているだろう。430名の自衛隊の方が復旧に向けて努力されていることも附記しておきたい。<br><br>　バスは再び沿岸部に入り、目的地である山田北小学校へと到着した。校舎は少し高い場所にあるので、津波の被害は免れた。しかしグランドには様々なものが流れ込んできたという。私が来た段階ではグランドの大きな瓦礫は全て片付けられ、後は細かいゴミや泥出し作業をするという段階であった。最初からここのボランティアに参加していた人達によると、最初は校庭の木にイカが引っかかっている状態だったらしい。ここは海からは数キロ内陸部に入った場所であるにも関わらずである。また学校前の住宅地はほとんどが跡形もなく流されているが、川伝いに津波が押し寄せこのように大きな被害となったのだった。<br>　私が山田町に入ったとき山田北小学校は避難場所になっていた。校舎裏の体育館には被災者の方が避難されていて入り口前には洗濯機が数台稼働していた。その横にはなんと土俵があった。相撲の盛んな地域なのだろうか。ただし、その土俵は被災者の方の洗濯干し場になっていて本来の役目を果たしていない。まずは土俵が相撲を取る場所になること。そのためにも何度でもここに来ようという思いを強くするのであった。</font>
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<link>https://ameblo.jp/nikki147/entry-10895248643.html</link>
<pubDate>Wed, 18 May 2011 09:42:03 +0900</pubDate>
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<title>＜弘の手紙＞80</title>
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<![CDATA[ <font size="3"><font size="3"><font size="3">メチャクチャ久しぶりの更新。言い訳をしていたら、それだけで終わりそうなので、早速始める。<br><br>　更新が滞っている間に、震災があった。地震の自体ももさることながら、それに伴う津波の被害が特に甚大で、原発事故が被害を更に大きくしている。戦前生まれの人達は東北の現況を終戦直後の焼け野原になった日本の状況になぞらえる。その比較が正しいかは「もはや戦後ではない」時期に生まれた私には判断できない。しかしテレビから映し出される被災地の映像があまりにも凄惨なので、年配の人達がその種の発言をするのが理解できるような気になる。私の母も義理の母も戦前の広島生まれであるが、東北の現況から原爆直後の広島を思い出すようで、映像を正視できないという。<br><br>　とは言いながら、西日本の現状は同じ日本とは思えないほど平穏である。テレビの映像は我々の胸を痛めるけれど、テレビを消した後は、何も変わっていない。もちろん同じ日本人として心を痛め、何が出来るかと自問自答して支援物資や支援金の準備をしたりした。しかしテレビから流される映像が凄惨であればあるほど、かえって人間の想像力を奪うような気がする。私には何をどうすれば良いか、上手く考えがまとまらなかった。一方でテレビや新聞では「自分たちにできることをやる」の大合唱だ。私もその一人だから偉そうなことは言えないのだけれど、多くの人の「自分たちに出来ること」はあまりにも矮小ではないだろうか。例えば震災直後にチェーンメールで「節電を」が飛び交ったが、東日本ならいざ知らず、西日本での効果は疑問である。もっと出来ることがあるだろうと思いつつ、何となく3月が過ぎていった。<br><br>　4月になってあるジャーナリストの文章を目にする機会があった。その人は震災直後にすぐに東北に入り各地にを廻って被害状況を確認し、文章を物している。その際、旧知の零細企業の経営者複数にかなりの金額を提供したという。本人の言によれば「預金残高が8万円になった」という。その後そのジャーナリストがツイッター上で「100万円持って東北を廻り、肉親も家も、思い出も失った人達に静かに置いてこい」「お金は直接届けるのが基本」とつぶやいているのを目にした。丁度その頃日本赤十字社の義援金分配方法が問題になっている時だったので、「自分に出来ることはお金を直接届け、少し片付けのお手伝いをすることだ」と思い込んでしまった。<br>　一旦思い込むと私の行動は早い（しかし冷めやすい）。早速銀行に行き、定期を解約し、色々調べて飛行機で秋田へ飛び、岩手へ移動することにした。4月18日広島空港を出発し、4泊5日の日程である。まだ東北新幹線も全線復旧しておらず、行動範囲は限られるから盛岡から岩手各地へ出ているボランティアバスに参加することにした。<br>　盛岡に着いてみると既に落ち着きを取り戻していて、広島と何も変わらない。駅には人が行き交い、市内至る所に散見される「がんばろう、東北」の幟がなければ、地震の痕跡を探すのは難しい。震災直後は盛岡市内でも数日間電気が止まり、4月上旬の余震でもかなりの被害があったそうだが、私の行った時期には、日常を取り戻していた。岩手県は北海道についで面積の広い県だそうで、内陸部の盛岡から三陸海岸各地にはどこへ行くにも2時間以上掛かるという。地震の被害は決して小さくはないが、今回は津波が沿岸部に大きな被害をもたらしたことを改めて痛感した。<br>　到着翌日からは山田町、釜石市のボランティア活動に参加した。山田町へは盛岡から出発するボランティアバスに乗り釜石へはJR釜石線を利用した。滞在期間が短いので、活動は限定される。それでも山田町では山田北小学校のグランド整備を担当した。4月21日の学校再開に向けてグランドに積もっている泥を掻き出すのだ。スコップで一輪車に泥を盛ってグランド脇へひたすら運ぶ。その繰り返しだ。その日は午後からみぞれ交じりになるほど、気温の下がった日であったが、わずか5分の作業で目に汗が入る程になった。単純作業だが、この種の経験がほとんどない私には非常にきつい作業だった。それでも始まる前に、校長先生から「明後日の学校再開に間に合わせてほしい」という要望があったので、張り切らざるを得ない。フーフー言いながら、不慣れな</font>非常にきつい作業だった。それでも始まる前に、校長先生から「明後日の学校再開に間に合わせてほしい」という要望があったので、張り切らざるを得ない。フーフー言いながら、不慣れな手つきで一輪車を操っていると、</font>も始まる前に、校長先生から「明後日の学校再開に間に合わせてほしい」という要望があったので、張り切らざるを得ない。フーフー言いながら、不慣れな手つきで一輪車を操っていると、同じボランティアの参加者で阪神大震災を経験した大阪の植木職人のおじさんが私の肩に手をかけた。そして言った。「<font color="#FF0000"><font size="5">おまえ、張り切り過ぎや。そんなペースで運んでいたらすぐ倒れるで。倒れたら何しに来たんかわからんようになるで</font></font>」。<br><br>　　釜石へは列車で移動した。盛岡市発でも釜石へは9時近くに到着。山田町で泥出しのコツも少しわかったので、ヘルメットをかぶり、長靴を履き、スコップをというフル装備でボランティア受付所へ行く。<br>ところが運悪く、泥出しの割り当ては既に満杯だという。しかしこのまま帰るわけにはいかない。そこで臨時釜石市役所となっている「シープラザ釜石」で事務手伝いという私の格好からしたら、最も遠い仕事を割り当てられた。<br>　しかし結論から書けばここでの経験も非常に勉強に（こういう書き方が適当であるかは迷うが）なった。私の担当は被災者の生活支援のための申請書類や必要書類をコピーしたり、申請の順番を待っている被災者の方の案内をすることである。釜石市では肉親を亡くした方には250万円～500万円、家の被害についてはその状況に応じて、300万円までの支援金が支給される。お金ですべてが解決できるわけではないが、少しでも早く、お金を支給したいと思いからか、釜石市職員の方はその時点で1ヶ月間休日なしで、申請手続きを受け付けていた。しかも自身も被災者なのである。申請内容も非常に重たいものだから、書類をコピーする私がヘラヘラしているわけにはいかない。申請書類に必要な預金通帳のコピーも私の仕事であったが、二つに一つの割合で、通帳は泥で汚れ、水をかぶっていることが明らかだ。そのことが私を更に緊張させる。格好はともかくとして、私なりに姿勢を正して仕事を続けた。<br>　結局ここには8時間いたが、30分の昼食休憩を取った他は約8時間立ちっぱなしであった。泥出しならば、自分のペースでやっても誰も咎めないが、ここでは気を抜くことは出来ない。見た目よりもずっときつい仕事だし、そしてまた大事な仕事でもあることがわかったのだった。<br>　</font>
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<link>https://ameblo.jp/nikki147/entry-10894479976.html</link>
<pubDate>Tue, 17 May 2011 14:59:35 +0900</pubDate>
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<title>＜弘の手紙＞７９</title>
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<![CDATA[ 　また更新の間隔が空いてしまった。これついてあれこれ言い訳をしていると、本題に入れない可能性があるので、早速ｋ氏のメッセージについて始めることにする。<br><br>　私のブログである＜弘の手紙＞をみたＫ氏からメッセージを頂いたのは、昨年末。調査に行き詰まっていた頃で、更新は1ヶ月以上滞っていた。そんなとき思いがけないメッセージを頂いたのだから、とても有り難かった。<br>　頂いたメールの件名には「＜弘＞さん渡米記録にご興味ありませんか？」とあった。興味がないはずがない。むさぼるように内容を読み進める。Ｋ氏は西洋音楽史に関心があり、船上のオーケストラを一つのテーマに掲げて、長年研究されているとの由。＜弘＞が乗船した＜春洋丸＞も守備範囲で、多くの資料をお持ちだという。＜春洋丸＞には、デビュー当時から楽団が乗船していたのである。さらにＫ氏は続ける。大正10年10月13日出港の＜春洋丸＞（この便に＜弘＞は乗船した）には、5名の楽士が乗船しており、それはワシントン公文書館の米国入国資料で確認できるという。それならば当然＜弘＞の入国資料も見つかるはずだから調べてみましょうかというのがＫ氏のメッセージの要旨だ。<br>　調査が行き詰まっていた頃だったので、渡りに船とばかり早速お願いをした。年末でお忙しい時期にも関わらず、すぐに調査結果の返信を頂いた。米国入国記録と英国入国記録が見つかり、それらの記録の画像を添付してくださった。<br>　画像を参照して頂きたい。資料のタイトルには<br>「ＲＩＳＴ　ＯＦ　ＭＡＮＩＦＥＳＴ　ＯＦ　ＡＬＩＥＮ　ＰＡＳＳＥＮＧＥＲ　ＦＯＲ　ＴＨＥ　ＵＮＩＴＥＤ」とある。タイトルの下に「Ｓｉｎｙｏ　Ｍａｒｕ，Ｐａｓｓｅｎｇｅｒ　ｓａｉｌｉｎｇ　ｆｒｏｍ　Ｙｏｋｏｈａｍａ，Ｏｃｔｏｂｅｒ　１３，　１９２１」とあり、＜弘＞が乗船した春洋丸の入港記録であることがわかる。果たして「８」に「<font color="#FF0000">Ｔａｋｅｇｕｃｈｉ　Ｈｉｒｏｓｈｉ</font>」の名前がみえる。職業欄には「Clerk Ry Manchuria」とあり、「Ry」は「railway」の略号であるし、「Manchuria」は「南満州」の英名であるから、この記録が＜竹口弘＞のものであるのは間違いない。既に分かっていることだが、年齢は「29歳と3ヶ月」であることがこの記録からも確認できる。興味深いのは、「the name and complete adress nearest relative or friend in country whence alien came」の欄に妻の「安子」ではなく、本家の当主（＜弘＞の叔父）である「礼三」の名を記していることである。<br>　本家「竹口家」は江戸時代から深川永代橋近くに「ちくま味噌」という商店を構え、現在に至っている。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110226/16/nikki147/91/8d/j/o0800038011076059934.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110226/16/nikki147/91/8d/j/t02200105_0800038011076059934.jpg" alt="弘の手紙" width="220" height="105" style="clear:both;float:right;" border="0"></a>聞きかじりなのだが、「ちくま味噌」は由緒正しい商家だという。明治18年初演の歌舞伎狂言「四千両小判梅葉」の中で「<font size="5"><font color="#FF0000">道理で味がいい 。味噌は ちくまにかぎるのう</font></font>」と言う台詞場面が登場するほどだ。<br>　＜弘＞はアメリカに旅立つ前日から、「麹町1番町」の「竹口本家宅」に宿泊した。出発当日は朝8時に本家を出て、東京駅を経由して、横浜港に向かうことになるが、東京駅まで、当主の見送りを受けている。そして入国記録では一種の保証人として、本家の当主の名を記す。本家に対する＜弘＞の複雑な思いを読み取るのは穿ちすぎであろうか。<br><br>　多くの人にとってこの入国記録は何の価値もないだろう。＜弘＞の足跡を追っている私にしてもたった1行の一資料に過ぎないともいえる。しかし、この一見無味乾燥に思われる1行から確かに＜弘＞が現れ出るのだ。例えば年齢。30歳を前にして「欧米への留学」の夢が実現した＜弘＞。出発の日には本家の当主の見送りを受け、米国入国に際しては保証人（？）の欄にその当主の名を記す＜弘＞。この一枚の記録から、＜弘＞の気負いが読み取れるように思うのだ。そしてさらなる空想が広がっていき、横浜港を出港した日に港まで見送りに来た親友堀木克三のことに思いが至るのである。<br><br>　＜弘＞がアメリカへと旅だった1921年より先立つこと8年前。1913年（大正2年）＜弘＞は満鉄に入社した。勤務のため満州に赴く前に、宇治山田中学校以来の親友である堀木克三と横浜に遊んだことがあった。克三とは中学時代に同人誌を発行した仲である。外地へ赴けば気軽には会えなくなるので、旧交を温めつつ、痛飲しようという魂胆である。果たしてへべれけになった二人であるが、酔い覚ましに港へと足が赴く。千鳥足で港へ辿り着いてみると、アメリカへと向かう商船が丁度出港するところであった。先程までろれつが良く廻らなかった＜弘＞であるがその船をジット見つめると、急に正気に戻ったかのように「いつかアメリカというところに行ってみたいなぁ」とつぶやくのであった。その言葉に「そうだな」と短い言葉で応じて頷く克三。その後二人の間に沈黙が流れたのは、その実現がかなり難しく、＜弘＞の言葉を借りれば「夢のまた夢」であることをよく知っていたからだった。<br>　それが8年後「思いもかけず」実現したのである。上記の入国記録は単なる年齢の数字ではなく、行間から、長年の夢を実現させつつある、鼻息の荒い＜弘＞が登場するのだ。一度紹介したが、その有頂天ぶりは＜弘の手紙＞の中で次のような記述にあらわれている。<br><br><font size="5"><font color="#FF0000">＜これで初めて米大陸の土を踏んだわけだ。幾年も以前より夢に見ておった亜米利加、其アメリカの土を今ふむのかと思ふとうれしくて靴のかゝとがおどる様な気がする＞</font></font>　<br><br>　
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<link>https://ameblo.jp/nikki147/entry-10813925942.html</link>
<pubDate>Sat, 26 Feb 2011 16:39:10 +0900</pubDate>
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