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<title>nn-cthのブログ</title>
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<title>小学生時代③</title>
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<![CDATA[ <p>ある日、仲の良かった子が急に学校に来なくなった。もともと体が弱い子ですぐに熱が出たりとする子ではあったけれど、勉強もできたし学校が苦手だったわけでもない。そんな子が突如として全く来なくなってしまった。</p><p>私は隣のクラスではあったものの学童が一緒に遊んでいたりゲームの趣味が同じだったことから交流をもっていた。親同士もある程度面識もあったし、お互いの家を知る中でもあった。そんな子が急に来なくなるのはやはり心配になるものだ。</p><p>当時はまだ不登校な子は周囲にはいなかったし学年全体で仲が良かったため誰かが病気など以外で、休みをとることに不自然さを感じていた。そして私は調査に出た。なぜ学校に来なくなったのかを。</p><p>&nbsp;</p><p>同じクラスの子や親を通して情報収集をした結果わかったのは、隣のクラスの担任がその子をいじめていたからだと分かった。</p><p>体が弱く休みがちだったことから標的とされてしまったようだった。もともと少し高圧的な面があり、口調が少し粗かったり声が大きく威圧的ではあった。けれど私はこの人はそういう人だと特に気に留めることもなかった。もちろんほかの子でも苦手意識をもっている子はいたとは思うが。</p><p>学校を体調不良で休んでしまうことは致し方ないことのはずだし、休んだからといって遊んでいたわけではなく頭もよかった。</p><p>けれど、その人はその子の存在を目の前で否定したりと散々な対応をしていた。「体が弱いなら鍛えてやる」と持久走の授業でほかの子よりも追加で走らせていた。結果的にその子はその持久走のあと三日間寝込んでしまっていた。</p><p>本来であれば学校側から配慮を受けていたはずなのにそれすらも全て無視していた。</p><p>その子の親もその状況を認識しており、無理に行かせる必要はないと思っていたようだし最初は本人が学校にまた行きたがるまで見守っていた。しかし、最終的にその子は家族ごと引っ越しをし転校していった。</p><p>&nbsp;</p><p>その後、また別の子がターゲットになった。その子も私と交流のある子だった。</p><p>ほかの子よりも体が小さく性格もおとなしい子だった。ご飯を食べることが少し苦手だったその子は頑張って給食を食べていたはずなのに強制的に下げられてしまったりとこちらも散々な対応をされていた。その子もまた不登校になってしまった。</p><p>この後に関して後述しようかとも思うが、相談室登校になりだんだんと学校に復帰してくるようになったのはうれしい話だ。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>その後、学年が変わるころにはその人も学校からいなくなっていた。後から聞いたが教職もその時やめていたそうだ。</p><p>きっとその子の親が学校や教育委員会などに訴えてやめさせたのだと思う。</p><p>そりゃそうだと思う。一年で二人も不登校者を作り、ほかの子にも高圧的な態度を続けクラスを独裁国家のようにしていたのだから。</p><p>もう少し早く気づき行動をなにか起こすことができていればと考えることも少なくない。その子たちにも今後会うことはないだろうが元気に暮らしていてほしいと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>私はこの時くらいから教員になることを夢見るようになった。児童や生徒一人一人と誠実に向き合い、成長を見守れるような教員になりたいと思うようになり目指し始めていた。</p><p>その子たちの二の舞をつくらないような教員環境を作りたいとさえも思った。それが私のできることだと考えていた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/nn-cth/entry-12961996710.html</link>
<pubDate>Sun, 05 Apr 2026 04:25:30 +0900</pubDate>
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<title>小学生時代②</title>
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<![CDATA[ <p>私はいつからか嘘をつくのが当たり前になっていたのかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>自分が嘘をつく人間だと自覚した出来事があった。小学校二年生のことだ。</p><p>同じクラスにある男の子がいた。その男の子はいつからかその場に似つかわしくない言葉を使うようになった。</p><p>その言葉は誰かを傷つける言葉ではないものの人を不快にさせるような言葉を授業中や給食中なども言葉にするようになっていた。</p><p>声も大きく席も近かったため私からしてもものすごく不快だった。</p><p>そのことを本人に直接言ったこともあった。やめてくれと何度も言った。けれどその子はやめなかった。やめてくれなかった。</p><p>しびれをきらした私はその子のお道具箱に「気持ち悪い。」など相手を傷つける言葉を書いた紙を入れた。</p><p>一番最初に入れたときはその子は何も気にしていないようなそぶりだった。その発言が止むこともなかった。</p><p>私はいつか止めてくれるようにと数日間入れ続けていたと思う。</p><p>そしてある日、先生に呼び出された。先生がどこまで状況を知っていたのかはわからない。けれど、先生は私が犯人だと知っていたのだろう。</p><p>これはなんだと、相手を傷つける言葉が書かれた紙を先生から突き付けられた。その時私は噓をついた。「知らない六年生にその男の子の道具箱に入れろ」と言われたと。</p><p>そのあとどうなったかはそこまで覚えてはないが、結果的にその嘘もばれて男の子に誤った記憶がある。その男の子からも不快にさせたことへの謝罪もあった。そのあとはそこまでけんかになることもなく、お互いの中で納得がいったように思う。</p><p>今思えば、もっとやり方はいくらでもあったと思う。それでも当時の自分にはその方法しか思いつかなかった。自分なりに正義を通して生きていたかったはずなのにそこで過ちをおかしたんだな、と思う。</p><p>&nbsp;</p><p>きっと記憶はなくとも小さな嘘はいくらでもついていただろう。けれど人を傷つけかねない嘘をついたのはそれが初めてだったのかもしれない。</p><p>今でもここだけは記憶に残っているということはそれだけ後悔しているということだろう。今となってはその男の子に会う機会もないし昔の記憶だからどこまで覚えているのかもわからない。</p><p>けれどこれも私の中での「後悔」の一つだ。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/nn-cth/entry-12961229914.html</link>
<pubDate>Sun, 29 Mar 2026 03:51:16 +0900</pubDate>
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<title>小学生時代①</title>
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<![CDATA[ <p>まあなんだかんだ保育園時代は楽しく過ごせていたと思う。</p><p>父方の実家にも毎年の夏に必ず行っていとこたちと仲良くしていたし、そんな記憶は今でも残っている。</p><p>小学生時代の一番最初といえば、その記憶である。</p><p>小学校一年生。</p><p>私は父方の実家。福島の広大な農地が広がる平屋の一軒家にいた。</p><p>何坪というのかはそこまでわからないが昔ながらの家でかなり大きかったように思う。そこには普段からひいばあちゃんからいとこまで合わせて10人ほどが住んでいた。夏の時期になると全国にいる親戚たちが一同に集まる。まるでサマーウォーズのようだった。</p><p>総勢でいうと30人くらいいるんだろうか。いとこだけでも15人くらいいただろうからそのくらいかな。</p><p>まあこんな曖昧な書き方をしている時点で気づく人は気づくだろうけど、この時以降私は二度とこの家に訪れたことはない。</p><p>最初で最後の福島での記憶だ。</p><p>ここまで時期が鮮明なのは「進撃の巨人」のアニメが開始した当初だったからだ。大きなテレビで一つ下のいとこと釘付けになりながら見た記憶がある。ほかにもそのいとことそのお母さん(おばさん)とスーパーに行ったときにお菓子を買ってもらいそれをほかのいとこにとられないようにトイレに駆け込みながら食べた記憶もある。</p><p>同年代の子と何よりも楽しく走り回った記憶かもしれない。いとこは15人近くいたが女の子は私とそのひとつ下の子だけだったためか結束力も高かったように思える。いまでも連絡を取り合える中であれば仲がいいのかなともたまにも考えることもある。まあ、連絡先も知らなければ住所も最寄り駅も覚えていない。会えることもきっとないのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>その出来事からほどなくして東北を中心に悲劇が起きた。「2011年3月11日東日本大震災」</p><p>この影響は福島の農家にも大打撃を与えた出来事となった。福島第一原発が火災したことにより放射能の流出、それにより世界的に福島の農作物は劇薬だと言われるようになった。地震の被害もそうだが津波も起きず、本来であれば原発の影響などもほとんど受けていなかった農作物まですべて破棄せざるを得なくなってしまった。私が福島に行かなくなった最初の理由もこれが影響していた。</p><p>&nbsp;</p><p>地震が起きたその時のこともよく覚えている。幼馴染の友達と一緒に学童で向かっている最中だった。学童まで残り100mほどのところで大きな揺れに襲われた。立つことも困難でその友達と支えあいながらただその場で揺れが収まるのを待つしかなかった。</p><p>揺れが収まった後、急いで私たちは学童へと走った。中に入るとすでに停電状態で室内は混乱状態だった。</p><p>ここから記憶はまた途切れるがおそらく私の母は仕事していたのもあって帰ってくることが困難だったと思う。幼馴染のお母さんが迎えに来てくれてその子の家で母が帰ってくるのを待っていた。</p><p>その時はまだ津波の情報もなかったためそれほど大きくはとらえていなかった。次の日になり、津波の映像が全国のニュースでも流れ初めて事の重大さを知った。次の日は学校に行ったか、行ってないかはわからないが一時停電状態だったことは覚えている。</p><p>それから節水や節電をしていたはず。</p><p>地震が起きた瞬間の記憶が強すぎてその前後の記憶は定かではない。けれど、人生で何よりも日本がなくなってしまうという「恐怖」を感じた瞬間だった。</p><p>&nbsp;</p><p>これより先に同じような「恐怖」を感じるとしたら南海トラフのときなんだろうな。</p>
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<link>https://ameblo.jp/nn-cth/entry-12961021041.html</link>
<pubDate>Fri, 27 Mar 2026 04:07:54 +0900</pubDate>
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<title>保育園時代</title>
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<![CDATA[ <p>保育園のころは印象的な出来事はいくつか覚えている。</p><p>正確な年齢まではわからないけれど多分４，５歳くらいからだと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>自分でいうのもなんだが、とても子どもらしく可愛かった。</p><p>好奇心の塊で、ある時保育園のエントランスにアリが大量に侵入してきたことがあった。そんなアリたちを不思議におもったのか素手で触りにいっていた。アリに指をかまれて大号泣していた記憶がある。</p><p>あの時はじめてアリは人をかめることを知った。それ以来アリを見つけても素手で触りにいくことはしないでいる。</p><p>このころからだいぶ泣き虫だったんだと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>今にもつながる趣味的なものもすでにあった。</p><p>当時からゲームがすごく好きで、特に当時はDSが大流行しているときでもあった。何としてでも兄に勝ちたくて保育園でもDSができないかと模索したものだ。</p><p>カセットを洋服の中に忍ばせていたりしたものだ。まあ入れたことを忘れてそのまま遊んでよく落としていた気もする。</p><p>&nbsp;</p><p>もう一つ、趣味といえば山登りだった。</p><p>母が会社のサークル的なのに所属をしていて休日にはよく山登りをしにいっていた。</p><p>私自身が行きたくてというよりは連れられてで今では自分一人では登る気にもならないが。</p><p>もう一生分登ったんだと勝手に思っている。</p><p>&nbsp;</p><p>この当時で一番記憶に残っている出来事がある。</p><p>保育園特有の本来の預かり時間を超えた先の延長保育制度を母はよく利用していた。</p><p>母は産後も現場に復帰し、正社員として働きに出ていた。勤務先もそんなに近い場所でなかったためかお迎えに来る時間はいつもぎりぎりだった。遅くなる時は同じ保育園の幼馴染のお母さんが代理でお迎えに来ることも日常茶飯事だった。</p><p>特に一個上の兄の幼馴染のお母さんと仲が良く、よく一緒にお迎えをしてもらっていた。</p><p>しかし、その出来事が起きたときはすでに兄が卒園していた時だった。</p><p>ある日、いつもと同じように延長保育をしていた。</p><p>普段であれば同い年の子や下の年齢の子も何人か延長保育しているはずだった。しかし、その日は違った。</p><p>延長保育をしていたのは私一人だった。何かのタイミングだったんだと思う。</p><p>誰も悪くないし責める相手もない。なぜけれど私はすごく悲しく、寂しくなった。</p><p>見守りの先生がすぐそばにいたし、一人だからとおやつもすごく豪華だった。でもそれは逆に私は一人なんだと自覚させられているような気がした。</p><p>周りに子どもはもう誰一人いなくて、大人だけしかいなくてすごく孤独を感じた瞬間だった。</p><p>おやつを食べながらただただ泣いて。</p><p>いまほど言葉も達者ではなかったから先生たちからしても困惑しかなかったと思う。</p><p>母が恋しくて。とかそんな理由で泣いているのかなと思われていたんだろう。</p><p>それも間違いではなかったけれど一番の理由は「孤独」だったからだと今ではそう言える。</p><p>&nbsp;</p><p>このころからきっと世間から隔絶された「孤独」に苦しめられていたのかもしれない。</p>
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<link>https://ameblo.jp/nn-cth/entry-12960920864.html</link>
<pubDate>Thu, 26 Mar 2026 05:11:31 +0900</pubDate>
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<title>始まり</title>
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<![CDATA[ <p>言葉を紡ぐことはそんなに得意ではないけれど書いてみるのもありなのかなとふと書いてみることにする。</p><p>私の人生はそんなに順風満帆とは言えないものかもしれない。</p><p>けれど私自身が歩いてきた道のりだしそこに後悔が残らないように生きようと生きてはきた。</p><p>今となってはあのときこうしていれば、という後悔がないわけではないがまあこれを書いている今は十分幸せに生きていると思う。</p><p>ただ、いろんな人にこんなことがあったと話しているうちに自分の中でも記憶の改変が入るような気もして覚えているうちに書き留めておこうと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>一番最初の記憶は幼児期にまで遡る。</p><p>「灰色のカーペット、青みがかったカーテン、そこから差し込む太陽の光そしてそこを両手両足で駆け回る私」</p><p>これが正しい記憶なのかも今となってはわからない。けれど物心がついたころにはすでにあった記憶ではある。</p><p>&nbsp;</p><p>私は物心がついたころには父と一緒に住んではいなかった。そしてその頃の家には灰色のカーペットも青みがかったカーテンもなかった。</p><p>あとから知ったことにはなるが生まれてすぐの頃は病院の近くのマンションに住んでいたそうだからきっとその記憶なんだと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>そこから記憶はとび、次の記憶は保育園になる。</p><p>ここら辺からは印象的な物事に対する記憶はある。物心がついたころだといえるだろう。</p><p>父とはもう一緒に住んではいなかったところからの記憶だ。</p><p>幼いころは父は単身赴任をしているという話だった。まあ東京と千葉の距離感でしていたから早い段階から離縁状態ではあったんだと思う。いわゆる別居というやつだ。</p><p>&nbsp;</p><p>世に言う「父」という存在は私の世界には存在していなかった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/nn-cth/entry-12960919749.html</link>
<pubDate>Thu, 26 Mar 2026 04:26:23 +0900</pubDate>
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