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<title>塩、コショウ、生しょうゆ</title>
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<description>料理の味は調味料で決まる。人生の趣は・・・・で決まる</description>
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<title>内と外</title>
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<![CDATA[ 「魔物は、僕の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感を煽り、あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて踊りをさせているかのように僕を操る。それには、かつて自分だったモノの貴信のごとき「絶対零度の恐怖」を感じさせる」　　　　　　　　　　　　　　　　　懲役13年（酒鬼薔薇　聖斗）より抜粋<br><br><br><br>外部がその”正当性”を訴え、またその”正当性”を解しないが故に”我”を否定しようとする。<br><br>あたかもそれが”我”の能力の欠如、不完全性の証拠を付きつける絶対正義の守護者の如くに。<br><br>外部はまた、その”正当性”に賛同しない者の存在に恐怖し、賛同するものと徒党を成す。<br><br>外部は”孤独”を恐れるあまり、”孤独”を享受している者の存在を恐れ、憎しみ、迎合を促すか、さもなくば”正当性”の名の下に”我”の排除を実行する。<br><br>外部はまた、みずからが掲げる”正当性”の”自明性”の崩壊を何よりも恐れる。<br><br>それゆえに、その”自明性”を疑うものを蛇蝎の如く罵り、”大勢”の敵として汚名を負わせ、自らの”正当性”をさも”論理的”かつ、”神聖”かつ”自然発生的”であることを示そうとする。<br><br>これらの状況において、外部が選択する行動は、「真実に目を向けさせないこと」である。<br><br>それは、人から”考える力”と機会を奪い、自分たちの主張する”正当性”こそが絶対であり、他の方法は存在しないという押し付けであり、洗脳であり、支配である。<br><br>”考える力”を失ったものには”隷属”を、”考える力”を持っているものには弾圧を。<br><br>それこそ、外部が自らの”王国”を守るために編み出した苦肉の策だ。<br><br>しかし、これらの事を知っても何も変わらない。<br><br>人は本質的にエゴ（利己的）な生きものである。<br><br>あらゆる事象を、自分の都合に最も適した形で分析、解釈し、組み立てなおす。<br><br>ゆえに、自らの行動を否定されようが、それが自分の利益を損なうものであれば、本性的に受け入れるべきではない、と考えるのだ。<br><br>”我”が”我”で、この"我"を生きるしかないように、”外部”もまた、たまたま”外部”であるだけなのだ。
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<pubDate>Thu, 28 Oct 2010 09:37:11 +0900</pubDate>
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<title>意思の力</title>
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<![CDATA[ <br><br><p>与えることも、与えられることも好きではない。</p><p>それよりも一緒に考え、一緒に行動し、一緒に作り上げ、一緒に共感したい。<br></p><br><p>既存の物事を操作するよりも、新しい何かを作りだしたい。<br></p><br><p>言葉を尽くして語るよりも、選び尽くした言葉で語りたい。</p><br><br><p>憐れみの言葉をかけるよりも、更なる高みへと導く言葉をかけたい。<br></p><br><p>最善の選択肢を追い求めるよりも、最悪の事態に対処するシナリオを用意しておきたい。<br></p><br><p>起こったことを後悔するよりも、同じことが起こらないように出来ることを考えたい</p><br><br><p>正しさを教えるよりも、正しさとは何かを考える事を教えたい。<br></p><br><p>欲望をひた隠し欲望を忌み嫌って生きるよりも、欲望を自覚し欲望に忠実に生きていたい。<br></p><br><p>愉しい事を見つけるよりも、愉しみを探す事を愉しみたい。<br></p><br><p>移り変わるものよりも、永遠に変わらないものを大切にしたい。<br></p><br><p>他人に認められる努力よりも、自分に認められるために努力したい。<br></p><br><p>明日死ぬとしても、変わらずの自分でいられるような今日を生きたい。<br></p><br><p>自分の世界を代弁してくれる言葉を探すよりも、自分の言葉で自分の世界を表現したい。<br></p><br><p>偽善の幻想に浸るより、己の矮小さを自覚した偽悪者でありたい。<br></p><br><p>自分の無知を嘆くよりも、今まで知らなかった事に出会えた事に感謝したい。<br></p><br><p>他人の世界観を尊重するよりも、他人の世界観を広げる事に力を尽くしたい。<br></p><br><p>好きだから閉じ込めて何者からも守ろうとするよりも、好きだから何者にも犯されないように鍛えてあげたい。<br></p><br><p>行動の結果を積み重ねるよりも、行動から得られたものを積み重ねていきたい。</p><br><br><p>思考の外の面白さに感動するよりも、思考の中の面白さを豊かにしたい。</p><p><br></p><p>他人に命令してもらうよりも、自分で命令を作りたい。<br></p><br><p>支配を否定した自由を気取るよりも、自分も含めたあらゆる行動が力の支配によってなされている事を自覚して生きていたい。<br></p><br><p>例え他人の期待を裏切ることになろうとも、自分の意思は決して裏切りたくない。<br></p><br><p>例え真摯に他人のために尽くしてあげているのだとしても、他人のために尽くしたいという自分の欲求が含まれていることを一時でも忘れて生きたくない。<br></p><br><p>行動の理由を自分の外に求めるよりも、自分の中から発した意思によって行動したという自覚を持ち続けたい。<br></p><br><p>自分にしか出来ない事があることを認めたいように、他人にしか出来ない事があることも認めたい。<br></p><br><p>自分に考える力があることを自覚しているように、他人にも考える力があることを認めたい。<br></p><br><p>今という時間よりも良い時間悪い時間は訪れるだろうが、同じ時間は二度と来ないという事実を認識して生きたい。<br></p><br><p>物事についての考えを深めるのと同じように、物事を感じとる範囲を広げたい。</p><br><br><p>物事はどう伝えるかよりも、何を伝えるかが先にあることを常に自覚しておきたい。<br></p><br><p>考えの善悪を指摘するよりも、考えの甘さを指摘したい。</p>
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<pubDate>Tue, 17 Aug 2010 10:09:42 +0900</pubDate>
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<title>絶対</title>
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<![CDATA[ <br>この世で絶対だと、少なくとも限りなく絶対的であるといえるものは、確かに存在する。<br><br><br><br>あくまで‘生きている’ことを前提とするのであれば、「１日が同じ時間、つまり24時間の繰り返しであること」。そして、「個性、魂など呼び方は多数あるが、‘私’が‘私’である、ということ」だ。<br><br><br><br>これまで、昨日まで、‘今’という瞬間が訪れるまで、万事快調に過ごしてきたことが、明日の存在の確立を何一つ保証しうる材料でないという事実。未来の幸福、腐敗した現実の改革、数多の努力と敗者の上に築かれる成功、死後の楽園。これら不確定かつ、何の前触れもなく消え去るかもしれない夢という理想であり、幻想でもある価値のため、‘今’というこの瞬間の充実を犠牲にするに足るいかなる理由も存在しない。<br><br><br><br>‘今’、このとき、この世界を、‘私’が間違いなく立っているこの世界を、愛することなくして未来の理想に酔いしれることは、‘逃亡’と呼ばれるに他ならぬ。それはまた、自分の世界に対する‘敗北’であり、「現実から目を背け、現実を冒涜する行為」に他ならない。<br><br><br><br>今に目を向けろ。決して目をそらすな。私の存在していないかもしれぬ世界より、今確実に私が地面を踏みしめることの出来るこの一瞬こそが全てであると肝に命じよ。<br><br><br>明日死ぬと思って今日を生きろ。永遠に生きると思って夢をみろ。<br><br><br>外部の‘強制’に身を委ねるな、内部の‘命令’によって自己を確立せよ。<br><br><br>忘れるな。自分の思考、行動は自分の魂が全て記録している。魂を汚すも、魂を昇華させるも、全ては自分が全てを知っている。<br><br><br>自分は自分を欺き、自分から逃れることは出来ないのだから。<br><br><br><br><br>今日はこれまで<br><br><br>それでは～
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<pubDate>Fri, 06 Aug 2010 23:23:46 +0900</pubDate>
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<title>快楽、とは何か？</title>
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<![CDATA[ <br>この問いは、同時に”快楽”は許容されるべきか否かを考える必要がある。<br>すならち、”快楽”は善、もしくは悪という区分が可能のだろうか、ということだ。<br><br><br>どちらでもないし、どちらでもある。<br><br><br>つまり、その善悪を問う必要もなければ、答えもない。<br><br><br>また、快楽は自然発生的かつ、それを求める人間の欲求が存在することについては、疑いようがない。<br><br><br>快楽に溺れる、快楽を正当化する、快楽を至上目的とする。<br>これらいずれも、それらを取り締まる正当な理由は存在しない。<br><br><br>それが法的に間違いなく、他者に迷惑をかけるものでないのであれば、という限定条件下ではあるが。<br><br><br>また、快楽の性質についても考えてみよう。<br><br>これについてニーチェは、<br>「快楽は永遠である」と、ツァラトゥストラの中で述べている。<br>正確には、快楽は、いつまでもその状態でありたい、という”超人”の志向するところの性質を有している、ということを意味している。<br><br><br>そのことに疑いはない。<br><br><br>が、しかし、”超人”に至る要素は一過性かる永遠の”快楽”だけではない。<br>何よりも、”創造”し、自己を超越することにある。<br><br><br>そのための、創造するための、”自己内省”。<br>これも重要な要素である。<br><br><br><br>今日はここまで<br><br>それでは～<br><br><br>
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<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 14:13:57 +0900</pubDate>
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<title>無限連環</title>
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<![CDATA[ <br><br>”自己超克”　歴史は繰り返す。<br><br><br>人は同じ過ちを繰り返し、時と共に忘却し、無意識下に押し込め、そして再び、まるで初めてそれに相対したかのように同じことを繰り返す。<br><br><br>人生、社会、歴史、惑星、太陽系、銀河系、原始、分子、極大、極小に至るまですべてを内包し、かつそれらをつなげるネットワーク、連続性を有する、”無限連環永久機関”、もしくはその構造として、この世はここに”在り”、”今”私もそこにいる。<br><br><br>そこにいることに”意味”は無く、確率、偶然であり、また必然でもある。自分が気づいたときにはこの世に”いた”ことは偶然だが、”生まれた”ことは何らかの意志による”必然”であるからだ。<br><br><br>人は、少なくとも私が認識しているところの人は、自己を超克し、他者の存在の認識に至る。<br><br><br>「人のために何かをする」とは、すなわち自己に囚われない、自己の殻を破ろうとする一つの働きであるかもしれない。<br><br><br>しかし、他者との関係性に迎合が混じると、堕落し、永劫に再び囚われることになる。<br><br><br>”自己超克”はこれゆえ、”停滞”を嫌い、”成長”や”進化”に類する概念であるかもしれない。<br><br><br>しかし、”成長”や”進化”に囚われると再び永劫の軸に組み込まれる。<br><br><br>このような「超克→虜囚→超克」の繰り返しも、見方によっては永劫に落ちた状態であるかもしれない。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>ニーチェの思想について思考していたときの文章です。<br><br>今回から「です・ます」調の使用は取りやめにしました。<br>こちらの口調のほうが厳密に考えれるような気がしたからです。<br>とはいえ、気まぐれに、その時々に応じた形をとろうと思っています。<br><br><br>今日はこの辺で<br><br>それでは～<br><br><br>
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<pubDate>Fri, 30 Jul 2010 11:49:36 +0900</pubDate>
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<title>孤独は恐怖か？</title>
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<![CDATA[ 孤独は恐怖でしょうか？<br><br>仮に恐怖としましょう。その場合でも、孤独から逃れることはできません。なぜなら、”私”は”私”以外の存在に成り代わることは出来ないからです。つまり、他人の気持ちがわかる、ということはあくまで絶対ではなく、観察・想像の域を超えることはできない。<br><br>よって、”わかる”と言い切ることは誤りとなり、真実から外れた逸脱、つまりフィクションやファンタジーにおいてのみ達成を見るしかない、ということです。<br><br><br>また、”共感”について考えてみましょう。この場合の”感じる”とは、味覚や触覚などの主観的なものではなく、あくまで”精神的”なものです。つまり、「”概念”を共有できる（できた）」ということだろうと思います。<br><br>例えば、リンゴや蜜柑という言葉からは、容易にその意味を理解し、その概念、その言葉が示す像を頭に浮かべることは難しくはないでしょう。<br><br>では、”向自有”という言葉はどうでしょうか。漢字の意味からなんとなく意図するところを推測できなくもないですが、正確にそれが指し示す概念を共有するのは容易では無いでしょう。しかし、仮にこの”向自有”の概念を共有できるものが2人、ないしは3人以上いたとすれば、そこで初めて”共感”という状態がなされる、ということになるでしょう。歴史的に見ても、共産主義や社会主義、ヘーゲル学派や大陸合理論など、様々な思想が生まれてきましたが、それらはつまり創始者の考え方に”共感”した者の集まりであったということです。ただし、共感したという者達の全てが、創始者と同じレベルまで考えることが出来ていたのかというのは、キリスト教の変遷を見る限り疑わしい部分も残ります。<br><br><br>話が逸れましたが、ではどのようにすればこの概念というものを共有することが出来るのでしょうか。単純なことです。考え続ければいいのです。というより、考える他に手段は無いのです。自分を頭を使って。言葉を論理やその真偽の理解の次元で押し留めるのではなく、その大元の基礎の基礎たる概念を掴み取って初めて言葉を発する意義というものがあり、伝わるのです。<br><br>では、考える以外には絶対に概念を伝える方法は無いのでしょうか。上記と矛盾するようですが、確かにあります。しかも、ありふれています。TV、アニメ、動画など、つまり概念を具現化したものです。しかし、これらは概念を簡単に伝えるため、自ら考える機会を奪います。つまり、考えに考え続けた結果として人と繋がる”共感”を得ることが出来なくなってしまうのです。私はここに人間の堕落を見ました。<br><br><br>今日はここまで<br><br><br>それでは～<br><br><br>
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<pubDate>Mon, 05 Jul 2010 11:57:31 +0900</pubDate>
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<title>自分の軸を持つとは？　己に倫理を問え</title>
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<![CDATA[ よく人は自分の”軸”を持て、といいます。<br><br><br>曰く、人生は選択肢の連続であるから、なんらかの”判断基準”に照らし合わせてその選択肢を検討する必要がある、と。<br><br><br>もしくは、その人の”価値観”を図り、その人が信用に足る人物なのかを見定めるために、その大元となる考えを知る必要があるのだ、と。<br><br>では、この軸というものはそもそもどういうところから発生するものなのかを考えましょう。前述したとおりこの軸というものは、判断基準や価値観と置き換えて考えることが出来ます。では、具体的にどのような場面が想定できるでしょうか、具体的な例を挙げて考えてみます。<br><br><br><br><br><br>まず、「自分は社会全体の利益や幸福につながる選択肢をとり続ける」という考えを持った人がいるとします。平たく言うと、「世のため、人のため」を地で行くパッションに満ち溢れた人というイメージでしょうか。<br><br>さて、そんな彼は「1,000,000円」が自分の手に入る仕事よりも、一方でそのお金を使い「1,000,000人の人のためになる」選択をすることでしょう。しかし、極端な例ですがその「1,000,000円」を自分のものにして研究費用とするほうが「10,000,000人」の将来のためになる、そう思えばあっさりお金を自分のものにするでしょう。<br><br>さてさて、そんな彼ですがある時デパートの倒壊事故に巻き込まれたとします。偶然彼は無事でしたが、目の前には「将来難病に苦しむ人々を救う可能性を秘めた、才能あるゲノム科学者」と「典型的な主婦である、彼の母親」が建物の下敷きになり、いき絶え絶えです。片方を救えば、その間に片方は息を引き取るでしょう。<br><br>さあ、彼はどうするでしょうか。一瞬のためらいも、わすかな同情も、親子の愛情さえもなく、あっさりとその科学者を救います。なぜか。それが彼の判断基準であり、価値観。つまるところの彼の”軸”だからです。<br><br><br><br><br><br><br>もう一つの場合を考えみましょう。次の登場人物は、「決して嘘をつかない」という考え方をもっています。警察官や軍隊には最適な人材ですが、残念ながら政治家と経営者にはなれません。また、日本ではごくありふれた人材ですが、アメリカやインドではこれ以上ないくらいに煙たがられます。<br><br><br>さて、ある日のこと、そんな彼の自宅の玄関に若い女性が駆け込んできました。鬼気迫る表情で、息を切らしながらもやっとのことで搾り出したような声で言うには、「危険な人から追われています。匿って下さい」とのことです。とりあえず、彼はその女性を押入れに隠しました。<br><br>30秒ほどして、恐持ての中年男性が同じく玄関に駆け込んできます。そして、彼は「あの女はどこや！ここの家に入り込んだのはわかってるんや。隠していたら痛い目にあうで！！」とわかりやすい脅しをかけます。<br><br>さて、彼（家主）はどうしたでしょうか。特に考えるそぶりもみせず、中年男性に、<br><br>「その女性でしたら、30秒ほど前にあなたと同じように玄関に駆け込んできて、怖い人から逃げているのでかくまってほしいと頼んできましたよ。それで、さきほどから私の家の押入れに息を潜めて隠れています。よろしければそこまで、ご案内しましょうか？そのかわり、私の家の畳を赤い色で染めるのは勘弁して下さいね。」<br><br>ということを淡々とした口調で述べました。これも彼の”軸”から出た答えです。別にこの中年男性が怖かったからでも、かくまった女性に対して食指が動かなかったからでもありません。彼なりの判断基準と価値観から導き出された、彼にとっては当たり前の回答でした。<br><br><br><br><br>さて、具体的に2つの例を考えてきました。”倫理学”的に言うのなら、前者の「できるだけ多くの人が幸福になりますように」という考え方は”功利主義”と言うようです。有名な「最大多数の最大幸福」という言葉に代表される考え方で、ベンサムやミルという人達が祖です。<br><br>対して、後者の「決して嘘はつかない」という考え方は、”誠実さ”にその行為の基礎をなすという”模範主義”的な考え方にあたります。これを唱えたのはカントさんですが、彼の考え方はとっても理解が難しいのでさわりだけにしておきます。なぜなら、「自分だけ得するのは間違い（エゴイストの否定）」と言いながら、「自分だけ損するのも間違い（自己犠牲の否定）」といったことを話しているからです。これを”定言命法”と呼んでいるらしいのですが、私がもっと理解できるようになれば、また詳しく考えたいと思います。<br><br><br>要するに、私が言いたかったのは、個人の”軸”というものは「自分が自分に堅く誓う”約束”」だということです。そして、その約束を考えるには、自分が大切にしている価値観を考える必要がある。では、その価値観を考えるにはどうすればいいのか。そこで、私は”倫理観”、つまり自分が「人としてあるべき（ありたい）姿」を考えることによって導き出されるだろう、と考えました。なぜなら、価値観とは人間の根本に関る問題であるので、自分という人間の存在を考えることなしに考えることの出来るものでは無いからです。<br><br><br>余談ですが、私も自分なりの軸（倫理観）というものがあります。<br><br>「手が後ろに回るような事に関与しない」<br>「人との約束（期限、契約）は必ず守る」<br><br>あともう一つあるのですが、あまり人前が話せるようなものでも無いので伏せておきます。できることなら、年を経るごとに「人として」成長することが出来れば、と思います。死んであの世というものがあるのなら、少なくとも物質や外面での成功を持っていくことは出来ませんので。<br><br><br>今日はこの辺で<br><br><br>それでは～<br><br><br><br>＊備考＊<br>倫理学；一般に規範や道徳的な根拠について考察する学問である。あるいは”道徳哲学”とも呼ばれる。（wikipediaより）<br>
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<pubDate>Sun, 27 Jun 2010 15:13:58 +0900</pubDate>
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<title>生命の段階</title>
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<![CDATA[ 人間を人間たらしめる要素とはなんでしょうか。<br><br>生命というくくりで考えたときに、この地球上には人間以外の生命が数多く存在します。<br><br>例えば鳥、魚、牛、馬、サル、ライオン、トカゲ、豚、シーラカンス、犬、猫、蟷螂、蜘蛛、トカゲ、貝、フナ虫、鮫、ヒトデ、、、、、、などなど。<br><br>これらの生物と人間を隔てているものはなんでしょうか。<br><br>僕は「理性と欲望（感情）を併せ持つこと」だと思います。<br>言い換えれば、決して”理性”があるから人間だということではないということであり、”感情”を捨て去さり合理的になることが人間としてあるべき姿では無い、ということです。<br><br><br>考えてみれば人間というのは不安定になるべくして生まれた存在なのかもしれません。”欲望（感情）”のままに生きることも、”理性”だけ優先して合理的に生きることもできません。あくまで、2つを兼ね揃えているからこその人間なのです。<br><br><br>人間として、人間らしく、人間を極めようとするならば、「感情豊かで理性的な人物」というのが一つの答えなのではないかと思います。<br><br><br>さて、ここからが実は本題なのですが、私はそうした人間の次の段階に興味があります。そして、おそらくその段階にあるものは「理性のみの存在」であるはずです。人間はまだ感情を有しているので動物の一種、もしくは動物の範囲に存在しているといえます。しかし、感情を完全に排した存在は動物という範囲を抜け出した「何か」です。<br><br><br>私はコンピューターやAIに次の段階への進化の可能性があるのではないかと睨んでいます。理由は単純で、その動作の根底に感情を必要としないからです。合理的に計算を行い、最善の（上手くいく確立が最も高い）方法を選ぶようになります。そこに感情や人情が入り込む必要は無く「自動回答演算装置」として喜怒哀楽どころか疲れも感じず、淡々と機械的に（というか機械かもしれないが）一部の無駄なく一心不乱（実は全ての選択肢を考慮しているので”一心”では無いが）に作業を行います。<br><br><br>まだ私は”進化”については結論を保留していますが、仮に生命の段階が進化と密接に関係があるのであれば、「合理性」はその進化を強力に推し進めるでしょう。感情があるゆえの”迷い”や””混乱”が少ない（もしかしたらある、もしくは間違う）からです。個人的に今私たちが見ているこの世界を超えた世界を目の当たりにしてみたいという気持ちがあります。しかし、残念ながら私の寿命が尽きる前に、その世界の到来はおそらく間に合わないでしょう。結局自分は、少なくとも人間を超えた存在にはなれそうもありません。人間として生きるしかないようです。少なくとも物質的には。<br><br><br>残念です。言葉で言い表せないくらいに。<br><br><br>今日はここまで<br><br><br>それでは～<br><br><br>追記<br><br>生命の定義；”自己増殖”を繰り返す生命体<br>よって、車やPCなでの物質は自分で増えているわけではないので生命には含まない。都市や国などのように人間が集まってできたものは検討中。
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<pubDate>Fri, 04 Jun 2010 15:26:01 +0900</pubDate>
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<title>幸せへの第一歩それは、要求</title>
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<![CDATA[ 例えばここに2つのオアシスがあったとします。それはとても簡素なオアシスで、両方とも一本のヤシの木と湖があるだけでした。そして、それぞれのオアシスをAさんとBさんが所有していました。あるときBさんはAさんにお願いしました。<br><br>「Aさんお願いがあります。私のオアシスの水量を増やすのを手伝ってもらえないでしょうか？」<br><br>Aさんは快く引き受けました。そして、1週間協同してオアシスの井戸を掘り続けた結果新しい水源を見つけ出すことに成功し、結果的にBさんが所有しているオアシスの水量は元の2倍になりました。<br><br>その後、Bさんはお礼とばかりにAさんのオアシスに新しいヤシの木を1本プレゼントしました。これにはAさんも大喜びで、そのおかげで以前にも増して多くの旅人が訪れてくれるようになりました。<br><br><br><br><br><br>さて、上の物語を少し突っ込んで考えてみようと思います。まず、この話から確実にわかること（表面的な価値）は、<br><br>①Bさんのオアシスの水量が2倍に増えた<br>②Aさんのオアシスのヤシの木の本数が2倍に増えた<br><br>という価値が生まれたということです。しかし、もっと重要でかつ今回考えたいのは、お互いに相手の”課題を解決”することで生まれる精神的な価値。つまり、表面的な価値を生み出すための行動が”自己価値の認知（再確認）”あるいは”肯定”につながる、ということです。<br><br>詳しく説明すると、つまり、Bの”要求”に端を発したこれらのプロセスの中でAさんとBさんは、「他者のために価値を提供した（できる）という”事実”」を互いに手に入れたことになる、ということです。<br><br>言ってしまえば「俺は困っている人を助けることが出来たんだ～。つまりおれって”価値”がある人間なんだ～」ということです。<br><br><br>また、この「要求→課題解決→お礼→課題解決」のプロセスがすんなり進めば、それは即ち「ヤシの木や水の増加」と「自己肯定の理由付け」という2つの価値を高める機会を作り出すことになる、ということです。<br><br><br>こうやって考えると適切な要求は”迷惑”ではなく、”互いにとって価値を生み出す行為”であると言えなくもないでしょうか。多少こじつけた感はありますが、全くの理想論でも無いと思っています。何より、適切な要求は「良好な人間関係の構築」に繋がります。その理由は前述したとおり、お互いに「課題解決をする機会」を作り出し、頼られた人は「（自分は頼られるに値する人間だという）精神的な充足」を得ることが出来るからです。<br><br><br>これを考え付いたとき同時に、お願い下手な僕は一体どれだけのチャンスをフイにしてきたのかと自己嫌悪に陥ったものです。この失敗をバネにして、これからはお願い上手として第二の人生を歩む所存です。<br><br>今回も抽象的な話になりました。<br>もっとわかりやすく説明できるように精進します。<br><br><br><br>今日はこれまで<br><br><br>それでは～<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Fri, 28 May 2010 02:20:55 +0900</pubDate>
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<title>”完全性”から感じる美</title>
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<![CDATA[ <br>”美しさ”はあくまで個人の価値観（美的歓感覚）に左右されるものなので、絶対的な基準などは存在しません。ですので、あくまで僕個人の意見として美についての考えを書いておこうと思います。<br><br><br>私はパルテノン神殿や正倉院などの建築物を見て美しいと感じます。理由は恐らく「整っているから」だと思います。理路整然としたもの、不純物を交えていない（清潔な）もの、無駄のないもの、均整を保っているものが美しさに繋がっていると感じているからです。<br><br><br>「眉目秀麗」という人の様子を表す言葉があります。似た表現としては「端正な顔つき」がありますが、要するに「整っている」ということを表現しています。美男美女、イケメンなどと呼ばれる人たちにはこうした「均一性」や「整合性」が共通していることがわかります。もう少し厳密に言うとこれらにはそれ以上手を加える必要がないという性質、つまり「完全性」が備わっているのではないかというのが私の考えです。<br><br><br>もっとわかりやすい例を挙げると数学の「証明式」でしょう。理路整然としていて、それでいて無駄もなく、明確に一つの解を導き出すという目的にも表現にも強烈な「美」を感じます。とはいっても、数字や言葉が羅列された式を見て美しいと感じる人とそうでない人がいるのは重々承知しているので、あくまで僕の美的感覚として捕らえてもらえれば十分です。<br><br><br>同じように一風変わった図形にもそこに「法則」が備わっていれば、完全性ひいては美しさを感じることもあります。例えば、この<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:SierpinskiTriangle.svg" target="_blank">フラクタル図形</a>なども見ていて素晴らしく綺麗だと見入ってしまいます。<br><br><br>これまで述べてきたように私は「整合性」や「完全性」に強い美を感じます。そして今考えていることは、まさにその「完全性」についてです。まだ完全に考えがまとまっているわけではないのでボヤっとした表現にはなりますが、「環境を利用する」もしくは「環境を取り込む」ことで初めて完成するものが最も美しいのではないか、ということです。<br><br><br>具体的にこれといった例を示せるわけではないので本当に表面的なことしかいえないのですが、例えば今何かを製作しているとします。その製作が完了した時点で「完成」とするのではく、製作が完了してからも「完成」に向かっていくような製作物。それはもしかしたら絵や建造物、プログラムのような物質的なものかもしれないし、はたまたアイデアや思想、ノウハウのように精神的なものかもしれません。いずれにしても、製作する対象がなんであれ「製作完了＝完成」ではなく「製作完了＜完成」であるものです。それこそが、より高い次元の「完全性」を有するのだと思っています。<br><br><br>以上、今日は「完全性」という観点から美について考えてみました。その他にも美の要素して考えたいのは、爆発や壊れることに起因する「崩壊性」による美。汚らわしいものや荒んだ物が癒されることで獲得される「浄化性（浄化作用）」です。これについてはまたいずれ考えがまとまったときに。<br><br><br>それでは～<br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nru35540/entry-10544603262.html</link>
<pubDate>Tue, 25 May 2010 16:41:24 +0900</pubDate>
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