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<title>nugmineのブログ</title>
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<title>ntr</title>
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<![CDATA[ 私は、NTRが好きだけれど「愛する女性 が他人に奪われる」って、確実にマイ ナー性癖だから、NTRスキーは大声だし ちゃいけないんだよね。何か、妙に「Ｎ ＴＲ」ってワード流行って勘違いしてる 奴多いのだけれど。<br>　考えてみると、スカトロに似てるかもし れない。気持ち良くて小さいほう漏れ ちゃうことに文句言う人は少ないけれ ど、リアルに大きい方まで描かれると 「いや唐突にコレは気持ち悪い」って人 いるでしょう。<br>　寝取り寝取られも、彼氏持ちの女の子が 主人公になびく「寝取り」は抵抗少ない だろうけれど、やっぱり急な「寝取ら れ」は気分悪くする人いるだろう。急だ からこそ「寝取られ」の衝撃おおきいの だけれど、それはまた別の話。<br>　所詮、性癖なんて千差万別であって、 様々あって良いものだ。悪趣味なのかも しれないけれど、私は他人の性癖を聞く ことを、全く嫌いではない。もっと聞き たいと思うこともあるし、その性癖に なった所以などを聞くことが出来るのな ら、色々考えられるしきっと暇ではない かもしれない。<br>　しかし、性癖とはあくまで主観的なもの だ。好き嫌いの批評はともかく、他人に 自分の性癖や尋常とは言えない趣味を強 要しようとするのは、見ることさえ好き ではない。自分勝手な正義感を振り翳し たりしていると、目も当てられない。児 ポの二次規制とかと印象が被ってみえて しまう。<br>　個人的な趣味として、NTRは有ったら あったで勿論嬉しい。しかしずっとイ チャラブでもいいけれど、描きたくない 事なら強要したくもないし、べつに望む 物を描かなかったから望むも物と違う物 を描いたからといって怒る理由も無い。<br>　でも自分の望む展開では無かったからと 言って、作者をこき下ろすとか蔑むのを 見るのは、ストーリーで自分の望まない 展開が始まるより見ててずっと嫌な気分 になる。以上。<br><br>久々に書いてみたけれど、面倒。そもそもTwitterのを暇だから写しただけだし。
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<pubDate>Sun, 07 Jul 2013 18:36:00 +0900</pubDate>
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<title>白河夜船に昏々と。</title>
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<![CDATA[ <p>　私は、すぐ隣の暖炉から熱を感じつつ、揺り篭に静謐と横たわる彼女に、下手な子守歌を聴かせている。</p><p>　静かに寝息を立て始めた彼女を確認した後、ゆっくりと体を伸ばしている。すると、背中に柔らかく冷たい塊が当たる。</p><p>振り返ると、そこには彼女の姉が凝然として立ち上り、脇には聳える雪玉の山が見えた。どうやら、雪玉を丸めて待ち構えていたらしい。ただ投げ返せば、仕返しされるだけだと確信した私は、立ち上がり近づこうとする。それを見て彼女は逃げ出すが、距離はゆっくりと縮まる。</p><p>　そんな追走劇も束の間に、突然こちらを振り返った彼女は、その手を広げ私を待ち構えるのだ。勢いをなんとか抑えつつ、彼女に優しくぶつかると、二人の距離は思いがけないほどに近づく。荒い息と、朱の差した顔。彼女と見つめ合う。　彼女の顔に覆い重なるように、ゆっくりと顔を近づけ・・・あと少しで彼女に触れることが出来る。</p><div>　その間際、両頬に白河夜船に昏々としていたはずの、彼女の妹の冷えきった手を添えられた。</div><div>　妹の怒り狂った妙なる音色の中、姉は、私にあの暖かい笑みを向けている。</div>
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<link>https://ameblo.jp/nugmine/entry-11430253462.html</link>
<pubDate>Wed, 19 Dec 2012 11:23:37 +0900</pubDate>
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<title>近況2</title>
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<![CDATA[ <p>　教習所に通っている。高校を卒業してからもう数年、最早、講習前後の煙草なしでは、まともにつまらない話を聞いていることなんて、出来い体になってしまった。教習所内の、限られた喫煙スペースで煙草を吸うのだけれど、年配のおっさんのや、教習官の方々と適当な世間話を交し合い、煙を散らす。</p><br><p>　何気なく振り返ってみると、私が煙草を吸うようになってから、もうしばらく経つ。思えば、吸う随分前くらいから、急に社会の煙草に対する風当たりが厳しくなった。公共施設はもちろん、店も屋外でも禁煙になり、喫煙者は肩身の狭い思いをすることになった。確かに、煙草の美味しさを味わうことの出来ない禁煙者が、嫉妬にとち狂って、そんなことになっているということは、私もわかっている。同情に堪えない。かわいそうだね。あと、複合的に無関係の人の健康を脅かす側面も鑑みられるところもあるのだけれど、そこまで目の敵にしなくても良いだろう、世の中にはもっともっと害のあるものが多いのではないか、と思えてしまう。</p><br><p>　例えば、酒は煙草よりも危険だろう。酔っ払いのために事故が起こり、無関係の人の命が奪われてしまう例は、煙草の比ではない。健康的には、飲んだ本人にしか害がないし、また販売しているのが多数の民間会社であることも規制ができない理由の一つだろう。煙草のように極端に制限されてはいないが、それでも、昔と比べれば、酔っ払いに対する風当たりは大いに厳しくなっている。特に飲酒運転に対するペナルティは極限にまで達した感が強い。恐らく、そうまでしないとやめられないということだろう。</p><br><p>　以前から考えていることなのだけれど、飲酒運転をした者からは、運転免許を取り上げるのではなく、そもそも飲酒免許を発行し、飲酒免許を取り上げれば良いと思う。飲酒免許が無ければ、飲酒が出来ない、というルールだ。どうしてかというと、酔っ払ったら運転してはいけないことは誰でも理解しているが、酔っ払うとその理解が消えてしまうからだ。従って、素面の人間にいくら説得をしたり教育をしても無意味であって、ようは飲ませないことが効果的だろうという主張である。現に、覚醒剤なんてこの理屈だろう。錯乱した状態の人間にはルールが及ばない。だから、錯乱すること自体を禁止するのだ。</p><br><p>　だけれど、飲兵衛のクズ共は、覚醒剤と酒は違うだろう、覚醒剤は明らかに健康に悪い、という主張で対抗してくるだろう。よく考えてみろこの野郎。それは、酒も同じである。酔っ払うほどの量の酒ならば、健康に良いはずがない。肝臓を労われ死ぬぞ。</p><p>　</p><p>　日本の社会は、そもそも酔っ払いに対して比較的慣用だった。酔っ払ってふらふらの人を微笑ましく見ていた歴史がある。これは日本以外ではありえないことらしく、呂律が回らないだけで眉を顰められる。そこまで酔う人間は、当たり前のことであるがたちまち軽蔑の的となる。酩酊し千鳥足の人間が公道を歩いたり、電車に乗ったりするなんてことは、許されないのだ。日本もそれに近づきつつある。今後、煙草同様にさらに厳しくなるだろう。</p><br><p>　対して近況じゃねえ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/nugmine/entry-11367163507.html</link>
<pubDate>Sat, 29 Sep 2012 21:54:43 +0900</pubDate>
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<title>近況</title>
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<![CDATA[ <p>　最近飲むヨーグルトが好きで、毎日1本は飲むことにしている。風呂上がりだとか、バイトに行く前とかに。けれど、ヨーグルトは滅多に食べない。別に嫌いというわけでは無いのだけれど、何故か縁遠い。</p><p>　ところで、普通のヨーグルトも、飲もうと思ったら飲める。形状を保つことが出来るので、ぎりぎり固体と言えるのかもしれないけれど、噛んだりはできない。口に入れたら飲み込むしかない。従って、液体状になったヨーグルトを、よくも「飲むヨーグルト」なんて命名したものだ、と感心を覚えざるを許さない。「液状化ヨーグルト」くらいが、普通に思いつくくらいかな。</p><br><p>　つい最近、「飲むフルーチェ」というものを飲んだ。缶入りのヤツだった。よく振ってから飲めと書いてあったので、よく振ってから開けて飲んだ。ここでもやはり、普通のフルーチェも飲めると思っていたので、どれほど液状化しているのか、と期待したけれど、ややどろんとした程度で、普通のフルーチェのほうが美味いと思った。飲むヨーグルトほど、私の生活には食い込む余地はないだろう。</p><br><p>　「歩く辞書」という言葉がある。これは一般に博学な人を指す言葉で使われる。辞書は普通は歩かないから、「辞書のような人」を「歩く辞書」と洒落て表現した言葉だ。恐らく日本の洒落ではなく、英語の表現から来ている言葉のようだ。</p><p>　大学に、学生なのに専門知識が豊富で、友人達の間で「歩く教授」と渾名で呼ばれるヤツがいるけれど、普通の教授は歩くから、これは変だと思う。同じ違和感が飲むヨーグルトや飲むフルーチェにもあるが、「飲む」か「食べる」かは人によって意見が分かれるから、とりあえずOKとするか。教授も歩くかどうか、人によって意見が分かれる場合はOKだ。</p><br><p>　そういえば、「食べるラー油」ってものがあったと気付く。食べられないラー油がそれまでに存在したのだろうか、とやはり違和感を覚えた。そういうことに拘っていては、世間は渡れないのかもしれない。小難しいことは置いておいて、なんでも受け入れる精神があれば、「渡れる世の中」になるのだろう。</p><br><p>　ああ、あと「とろけるチーズ」もあったと思う。でも、チーズは大体熱を加えておけばとろける。そんなことを言い出したら、「燃えないゴミ」というのもおかしい。ほとんどのものは燃える。「使える英単語」というのも変だぞ。</p><p>　人間の場合には、「できる人」という誉め言葉がある。しかし、大抵の人は、何かはできるし、時間をかければできる。結果がお粗末であっても、一応はできる。「できるけどしない人」かもしれないし。</p>
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<link>https://ameblo.jp/nugmine/entry-11366326100.html</link>
<pubDate>Fri, 28 Sep 2012 21:51:28 +0900</pubDate>
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<title>八目鰻ってうまいのな。</title>
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<![CDATA[ ■八目鰻の蒲焼<br>幻想郷の新名物と言えば、人間を鳥目にする能力を持った妖怪ミスティア・ローレライの八目鰻屋である。<br>八目鰻にはビタミンAが豊富に含まれていることから、古くは夜盲症(鳥目)や疲れ目などの症状改善に用いられた。<br>店主の能力で鳥目になってしまった人間が鳥目改善のために食べる他、事前に鳥目予防のために食べておく人間も増えているという。<br>しかし、八目鰻は肉が固く、レバーのような独特の風味もあり最初は食べにくい。が、そのクセの強さが日本酒にとても合い、酒の肴としては無類の相性を誇る。<br>酒飲みの多い幻想郷で、この料理が受け入れられている理由と言えるだろう。
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<link>https://ameblo.jp/nugmine/entry-11327175992.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Aug 2012 06:53:29 +0900</pubDate>
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<title>いやー、最近いいことしかねえわ。</title>
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<![CDATA[ というのも、ここ2週間程度で起こった、他愛もない世間話を取り持つ、所謂話のネタとしてならば特筆可能なことという、大変個人的且つ小規模な出来事であるけれど。<br>とりあえず現在の状況において、自分の精神的な支えを限りなく失っているので、こうして携帯電話のキーを叩いている次第なのだ。暇です。そこで、こんな本題などないという正に人間の思考、人間の会話、人間の会議、人間の委員会、人間のワーキンググループ、人間の国会、すなわちほとんどの人間関係を象徴するような、全く、具体性も、客観性も、論理性すらも損なう文章を書いている。書いていて思ったのだけれど、一文一文がやたらと長くなるのは何でだろう。読み手にとっては、不愉快極まりないでしょう。文章を書くことにおいて、絶対的な決まり事の一つである『語尾の均整』すらも無視しています。きっと執筆後の内容確認の際、イライラするんだろうなあ、という今後訪れるであろう幾分かの自分に対して、憂い、懸念を指し示すのもきっとシンプルで、ナチュラルなフィーリングなんだろうなあ。缶コーヒーのジョージアがアメリカンフィーリングだと言い張ると同じくらいナチュラルといえる。陸上競技というのは、陸上で行われるごく僅かな競技にしか示さないことに対する不満と同じくらいナチュラルだろう。ここでお気付きだろうか。何と改行すらされずに、形式段落第二段のこの文章が、羅列を許されていることを。面倒になったのだろう。その癖、文章表現の掟に縛られない、真綿で首を絞められるような、全く的を射ない句読点のラッシュは怠らないという、凡そ考えも及ばない自己矛盾。いいじゃない、だって人間は、矛盾を食べて生きているようなものなのだから。<br>国境の長いトンネルはなかった。大変唐突で、恐縮極まるのだけれど、ここで何となく耽美なセンテンスを思いついたので、何気なく書いておく。どこかで耳覚えがあるけれど、少しこのセンテンスの考察をしてみよう。おそらく国境に山がなかったものと推察される。山がなかったら地下鉄にするしかトンネルを掘る道はないが、地下鉄にすると、『地下鉄の長いトンネルを抜けると駅であった』になり、タイトルは『駅』にせざるを得ないだろう。<br>今更書き出しのことを思い出して、そのことに微塵も触れていないのだけれど、なんだかもういいでしょう、この辺で。やたらと精細を書くこの文章の区切りにぴったりな締めじゃないかと思います。いいよね。タイトル『駅』。
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<link>https://ameblo.jp/nugmine/entry-11326391288.html</link>
<pubDate>Sun, 12 Aug 2012 08:04:15 +0900</pubDate>
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<title>自由について</title>
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<![CDATA[ <p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><font size="3"><span lang="EN-US"><font face="Century">哲学　前期課題自由論文　法学部　1060218　名前:ぬぐみん　土曜3限履修</font></span></font></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><font size="3"><span lang="EN-US"><font face="Century"><br></font></span></font></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><font size="3" face="Century"><span lang="EN-US"><br></span></font></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><font size="3" face="Century"><span lang="EN-US"><br></span></font></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><font size="3"><span lang="EN-US"><font face="Century">1.</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin">はじめに</span></font></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3">　私が何故、この度「自由」という、キーワードについて、書こうと考えたのか。それは、以前より、少しずつ自らの中で思考を巡らしている大変に小規模な事柄の内の一つである「自由とは」ということに対しての、論述を多少ではあるが展開し、思考の言語化、つまりはアウトプットをしたいと考えたためである。そして、何故、人間は自由を求めるのか、ということを本論文の結論として示して行く。</font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3"><br></font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span lang="EN-US"></span></p><p><font size="3" face="Century"> </font></p><p></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><font size="3"><span lang="EN-US"><font face="Century">2.</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin">「自由」という言葉の弊害</span></font></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3">「自由」について、律儀に書こうとなると、どうしても胡散臭くなってしまいがちになる。とても懸念されることである。何かの怪しい宗教の類ではないか、と限りない勘違いされる恐れもあるかもしれない。でも、これは「自由」という言葉にある程度の容量で堆積されている宿命のようにも感じる。現代と比較して、どのように考えても自由ではなかった過去ならば、もっと説得力のあるキーワードの一つであったかもしれないこの言葉の鋭さを、今の日本の中で「自由」が、最早失ってしまったと考えても良い。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><font size="3"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin">さて、一体自由とは、何か。辞書を引いてみる。この言葉の意味を存じない日本人は極めて少ないだろう。英語では、</span><span lang="EN-US"><font face="Century">free</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin">や</span><span lang="EN-US"><font face="Century">freedom</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin">である。</span><span lang="EN-US"><font face="Century">free</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin">は「無料」などの意味も持ち、つまりは「制限を受けないこと」と解釈できる。けれども日本語の「自由」は、英語で示されるそれとは若干の語感の精妙さを持ち、「自在」と解せるように思う。つまり、「意の通り」という意味である。「言葉を自在に使いこなす」というように使用される。</span></font></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3">よりわかりやすくするのなら、「自由」というよりは、「不自由」ほうが理解を得やすいのかもしれない。つまりは、自らの目論見から阻害を受けるような、何らかの圧力によって制約を受けている、換言するのなら「支配」を受けている状態である。フィジカルな圧力に起因するものに始まり、指図や原則などによる支配まで、メカニズムは洋々にしてあるのだけれど、そういうもの達に、妄執に駆られる時に初めてわかるのが「不自由」であり、その「支配」から解放された状態が「自由」と言える。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3"><br></font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span lang="EN-US"></span></p><p><font size="3" face="Century"> </font></p><p></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><font size="3"><span lang="EN-US"><font face="Century">3.</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin">一般の「自由」</span></font></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3">慨されているところの、自由とは如何なる解釈をなされているのだろう。一般の使用のなされ方を考察してみるに、代表的な所なら、自由行動、自由時間、というカテゴリにおいて、策定のスケジュールの白紙状態を成している。多数は「自由」という言葉を、「余裕が」だとか、「手持無沙汰な」というような有様を思い描くのだろうか。しかし、だからといって「自由」は優れた意味合いとして使用されてはいない。仕事や勉強に忙殺されている中、思いがけずに休息が欲しくなる。「惰眠を貪りたい」というような渇望が、「自由」から条件連鎖的に導かれる個人本位の希望であることが少なくない。これが、自由の真相なのだろうか。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3">論を待たずとも「支配からの脱却」であることは理解できるだろう。そうは言っても、多数には脱却そのものが、自由への価値に繋がっている。脱却により何が可能なのか、といった「自由の活用」へは思考が行き渡っているとは言えない。それでは、何なのか。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3"><br></font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span lang="EN-US"></span></p><p><font size="3" face="Century"> </font></p><p></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><font size="3"><span lang="EN-US"><font face="Century">4.</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin">「支配」からの脱却</span></font></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3">自由というのは、「自らの思考でそのように自在に周りを描いていくこと」である。自由であるために、第一に「思考」が必須である。そして、思考の赴くままに「行動」すること、この帰着において「することができた」という幸福感を得る。この感情こそが「自由」である。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3">子供は、あれもこれもと欲求の「思考」を巡らすけれど、往々にしてそうはならない。大人が制約をかけることもあるし、自らのフィジカルな限界という要因で不可能なことも多数ある。つまり、そういう理由で、好奇な欲求を有してはいたところで、子供は決して自由であるわけではないと考える。むしろ不自由である。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3">動物についても、解釈を同じくすることが出来る。私が考察できるのは、ペットの犬程度の範囲でしか無いけれど、生まれたばかりの少しの間は、自由になりたがって、無茶なこともしたがる。けれど、成長して大人に近づくにつれて、分別が付き始めたのかは定かではないにしても、無茶は減っていく。生死に関わるようなことを別としたら、興味の矛先もほぼ無くなる。目新しい玩具を与えても、目を輝かせるのは幼い時期までだ。野生の動物は、空腹になったら食料を求め、外敵からは体を震わせて生存をしている気がする。時たま、憩いを求める一瞬はあるけれど、自分のやりたいように思考を巡らす様子も無い、新たな挑戦もしていないように感じる。詰まる所、外敵からの視界を避けつつ、食料に体良く有りつくのが一般の動物の行動であろう。日を繰り返して同じ行動に倣う。更に、かように動物達を見做してしまうのも、私が人間なのだということで、動物は最初から不自由だと思考を巡らすことはしていないだろう。自由な生き物である人間のみが、こんな思考をめぐらすのだ。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3"><br></font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span lang="EN-US"></span></p><p><font size="3" face="Century"> </font></p><p></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><font size="3"><span lang="EN-US"><font face="Century">5.</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin">「自由」は人工的</span></font></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3">　人間が、「自由」を意図する要素を有するということは、人間固有のものであるし、そもそもの人間というものを示す大きな側面といえることは、前述から解することができる。他種の動物と比較するまでも無く、その差別化は明瞭になっているだろう。様々な動物の中で、人間が際立って自由を渇望している。更に突っ込んで展開をするのなら、自由を欲するだけの思考が可能であったのだ。偏った言い方であったら、支配は動物的であって自然なものえあるが、自由は人間的であり人工である、とも論ずることもできる。科学というのは、自然の支配より人間を脱却させるためのものだ。人間によって活用されていく、或いは活用されている、現在の様々なテクノロジーは数多の自由を人間に還元し、人間をより自由にしてきたのだ。現代での私達の獲得した「自由」は、唯一の思考を持ち、自由を渇望した人間たちの知恵の恩恵に他ならない。</font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3"><br></font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3"><br></font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><font size="3"><span lang="EN-US"><font face="Century">6.</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin">おわりに</span></font></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3">　不可能であると、考えられていたものを、人間は矢継ぎ早に、実現させてきた。超能力のような力が、今や現実のものとなっている。人体を透視することもできるし、どんな動物よりも陸上を走ることも、空高く飛翔することも可能だ。全部人間が考え、発明し、手中に収めてきた自由である。このように考えると、近年口々に叫ばれる、自然回帰や懐古の心理は極めて浅慮な思考であると思えてしまう。「不自由」や「支配」への後戻りであると、換言したくなる。懐古主義について安穏を得られることは、私も否定は出来ない。しかし、それでも、動物的思考からの脱却を成功した人類が、自由を目指すのは、今までも論じてきたように種としてあるべく姿であろう。</font></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;,&quot;serif&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><font size="3">　そうは言っても、安穏を引き換えとして、突き進み続けるのも危険を孕むことは言うまでも無い。けれど、危険だからと後戻りをするのは、よろしくはないだろう。自由を前に逡巡するのは、これは動物的な人間の本質の一欠けなのかもしれない。それでも、人間固有の自由を求めて、突き進むことができることが、「自由」を求める思考を持つ道筋ではないかと私は考える。【了】</font></span></p>
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<link>https://ameblo.jp/nugmine/entry-11324732875.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Aug 2012 09:44:09 +0900</pubDate>
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<title>「大正野球娘。」</title>
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<![CDATA[ <p>原作は、2007年に刊行された娯楽小説だけれど、今回は2009年夏に、深夜アニメとして放送されたものについて。</p><br><p>個人的にこのアニメの評価は、背景である大正時代という時代設定の中で、空気観、小道具など矛盾無く非常に丁寧に作られていて、野球という部分においても大正時代の女学生が、紳士に取り組み、且つその描写ももちろん積極的に描かれていて、文字通り完成度の高い作品だったと思う。</p><br><p>悲しいことに、何故か一般的な評価として、例えば2chのアニメスレなどにおいて、自分以外に話題にを挙げる人が全くいない、という空気アニメの烙印を押されている。非常に悲しい。けいおんの後番で、キャラもかわいいのになあ。何でだろう。</p><br><p>まあでも、何故空気アニメになっちゃったかとか、そういうことはおいといて、この作品の魅力についてだけ。</p><p>ちなみに、原作の小説とは、アニメの話は多少流れが異なるので、アニメのみの留意点ていう形です。</p><br><p>話は、大正時代、資産家の令嬢である主人公の友人である「小笠原晶子」が、許婚の男にある種の軽い女性差別的発言に対して反発し、その時代その地域で盛んで、男がすなるスポーツであった「野球」において、その許婚も所属しているチームを負かし、その発言を取り下げさせるというもの。</p><p>その後、主人公の「鈴川小梅」を始め、女学生の仲間を募りつつ、練習を経て男性チームに勝利を収めるんだ、というある意味で、ベタで取っ付き易くよくある感じの話の流れだ。</p><br><p>テーマは、いわゆる、その実はわからないけれど、現代に蔓延していると言われる、「男尊女卑」に対抗する女性を描いた作品であると言える。</p><p>発端である、チームの投手を務める晶子が令嬢としての上品さも持ちつつも、非常に勝気で負けず嫌いな性格として描かれており、表立つことは無いが、周りの仲間を間接的に鼓舞していくという、影ながらではあるが狂言回しという役である。</p><br><p>こんな中、このテーマや、晶子の役柄、性格において、最終的に言葉面で、ステレオタイプを矢面に出して、男性社会を捻じ伏せるような作品にならないかと思っていた。</p><p>しかし、蓋を開けて見たらそれは全くのお門違いの懸念で、こちら側のそういう心理を制作側で察して、小手先の言葉などではなく、徹頭徹尾、自分達の能力を磨き、態度で男に鼻を空かすという非常に気持ちの良い作品だった。</p><p>上にも描いたけれど、勝気で負けず嫌いな晶子が、行き過ぎた政治的の話などをベラベラ喋り出さず、あくまで「野球」という点においてのみ、大正時代の女性らしく上品に取り組み努力するのがいい。</p><p>どんなに論理的な正論よりも、それ以上に応援したくなる。</p><br><p>敵役である男もまた良い。一方的な悪役として描かれるわけではなく、この時代ながらの誠実さを感じさせつつ、きちんと敵自身の立ち位置である「男性は男女性を養うもの」を義務として、それをきちんと全力で「俺は出来る男だ」というPRも交えて晶子に示している。</p><br><p>また、この時代のシステムである「許婚」にも、しっかりと向き合い受け入れつつ、それを反対や破談を願っているという風でもなく、そのシステムの中で、自分を一人の人間として認めてほしいという姿勢にも好感がもてる。</p><p>話の本筋として、主人公である小梅にも、小梅の実家である食事処に働く従業員がフィアンセとして存在している。この二人の話は、やはり大正時代というシステムの中においてだけれど、その中で純愛を貫き、お互いにつかず離れずを繰り返し、確かめ合っていくというものだ。</p><p>そういった、主人公側の恋の話との対比で、精一杯に部分的ではあるが、時代に反旗を翻している晶子側の恋の話を描いているのも見ていて興味が持てる。</p><br><p>今の価値観で、みる大正時代という人物や背景を描き楽しむのはももちろんだけれど、精一杯この時代に生きるこの人物、それらの価値観描いた作品として、非常にリスペクトを持ちつつに織り成す話が好意的だ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/nugmine/entry-11181384092.html</link>
<pubDate>Sat, 03 Mar 2012 03:18:31 +0900</pubDate>
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<title>来年の話。</title>
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<![CDATA[ 来年は辰年なんだってね。<br><br>原字は蜃、振や震の意味も持つこの字。<br><br>現在では龍となっているけれど、どう考えても干支の中で仲間はずれな我らが龍さん。<br><br>ぼっち諸君！来年は安心だ！龍さんと遊ぼう。
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<link>https://ameblo.jp/nugmine/entry-11110468167.html</link>
<pubDate>Sun, 18 Dec 2011 18:14:59 +0900</pubDate>
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<title>家族に会った話。</title>
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<![CDATA[ 先日、従兄弟の結婚式が福島で行われた。<br><br>その際に、鳥取県に住んでいる母親と次男の兄貴が我が家に泊まることに。<br>さあ、母親兄貴の来る前に色々としなければならないことがあります。主に物を隠す作業です。<br><br>自分の趣味というものは、もちろん家族には黙っています。<br>恐らく気付いているでしょうが、これは礼儀でもあり、いわゆる最後のセーフティネットと言った意味で表向きは何とも無く装っています。<br>今日までも、そして明日からも。<br><br>幸い、最も危険と思われるパソコンは修理に出していたため、最悪の事態は回避。<br><br>次に風呂場にある、例のアレ。気持ち良くなるアレです。ついんてーるず。<br>非常に困りました。何しろ母親は掃除が好きなので、家を文字通りひっぺ返すことでしょう。<br>そうなると、押し入れやら棚の奥やらに隠したところで、見つかる可能性はやはり高い。<br>可能性はゼロに押さえなければならない。何故なら不安だからだ。家の状態を案じながら学校に行ったり、働いたりなんか絶対に嫌だ。<br>そこで考えついたのが、持ち歩くという手段。家の中でも流石にカバンの中までは探らないだろう。そして持っているという点で、安全性はバツグン。<br>これは非常にいい案でした。ただ、持ち歩いて学校に行くので、少しおかしな気持ちになっちゃいましたね。(ﾆｯｺﾘ<br><br>あとは、マンガやらフィギュアやらDVDやらブルーレイやらがありますが、この辺でもの凄く面倒になったので、そのままでいくことにしました。<br>多分大丈夫だろうと。<br><br>結果まあ普通に大丈夫でした。<br>家も綺麗になりましたし、母ちゃんありがとう。
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<link>https://ameblo.jp/nugmine/entry-11085877013.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Nov 2011 13:32:31 +0900</pubDate>
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