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<title>イギリス愛</title>
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<description>イギリス好きの人のためのブログ</description>
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<title>SONYのDOT SWITCHを体験してみて</title>
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<![CDATA[ 先ほど、テレビとソーシャルとのインタラクティブ体験を初めて経験しました。これが何年後かに当たり前になってるのかと想像すると何だかとてもワクワクします。<br><br>それにしてもこのDOT SWITCHの感動は強烈でした。久しぶりに今までに無い感動体験でした。まさに、<br>SONYのスピリッツを体で体感しました。こう考えるとインタラクティブというのは今後ますます可能性が広がっていくように感じます。僕は今日のこの体験でテレビとソーシャルの相性の良さ、インタラクティブコミュニケーションの素晴らしさを確信しました。<br><br>よく言われるのが今までのテレビは一方通行のコミュニケーションで視聴者はただ情報の受け手でしかありませんでした。そして、ソーシャルが発達して情報を発信するオモシロさやインタラクティブな関係性を築いていくことの重要さを感じるようになった我々生活者はインタラクティブでないテレビに対して感動しなくなりました。<br><br>そこで前回書いたネットテレビの登場が多くの人達に切望されているのが今の現状みたいです。<br><br>私は今回のこの体験で改めてコミュニケーションの可能性に惹かれました。私はいま就職活動まっ只中です。僕は今回のこのDOT SWITCHのように人々をワクワクさせるようなコトをやってみたいと強く思います。自分が最もワクワクするのは今まで体験した事がないものを体験する時であり、今まで見た事のないモノを聴いた事の無い音を感じる時です。<br><br>これは私に限ることではなく誰しもに当てはまるのではないでしょうか？人はワクワクする為に生まれてきたのだと私は思います。テレビにしろ本にしろ音楽にしろ社会にある全てのものは人に感動を創造する為にあるべきだと私は思います。そして、感動は与えるというよりも「共に創る」ものだと思います。今回のこのDOT SWITCHもインタラクティブに私たちとコミュニケーションを行いました。そして、私たちと共に感動を創り上げていきました。また、今回私が最も感動したのはこのイベントが予定調和でもなく、本気で生活者とインタラクティブであろうとしたことだと思います。<br><br>それは、イベントの中で全てが予定調和で終わらなかったことに見る事ができます。放送中にある仕掛けが発動するはずだったのですがなんと失敗してしまったのです。これは生放送ということもありとてもリアリティを感じとることができました。そして、この失敗が今回の「インタラクティブ」が作り手側「本気でやった」という何よりもの証だったと思います。<br><br>今までであれば、全てうまくこなし予定調和でおわるようなものが殆どでしだが、我々視聴者はその本質を鋭く見抜きすぐに「シラケ」てしまうのがオチでした。それだけ今までの企業のコミュニケーションがうわべだけの厚化粧をした「ニセモノ」であったのだと思います。<br>しかし、今回はこの「シラケ」が全く感じませんでした。なぜなら、作り手側の本気だという気迫を感じ取ることが出来たからです。<br><br>私も今回のこのDOT　SWITCHのようなインタラクティブなコミュニケーションによって本気で人々をワクワクさせるようなことをやってみたいと思いました。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/oasis2012/entry-11185287518.html</link>
<pubDate>Wed, 07 Mar 2012 02:21:53 +0900</pubDate>
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<title>ネットテレビと電子書籍は普及するの？</title>
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<![CDATA[ 昨今、テレビとネットが合体して好きな時に好きな番組コンテンツを見れる時代がすぐ近くに来ているといわれますが、果たしてそうでしょうか。海の向こうアメリカではGoogleTVなどが普及し、そのようなプラットフォームがだんだんと完成されつつありますが、未だ日本ではそこまで進んでいません。電通が民放と協力して２０１２～２０１４年の間に本格実施に向けてネットテレビのVODを推進する為の計画をしているとのことです。<br><br>しかし、このシステムは有料で、１番組３００円かかるみたいです。これは普及には大きな障壁になると考えられます。そもそもなぜ有料なのでしょうか？理由はVODにすれば広告がなくなっちゃうから。放送局としてはタダでコンテンツ提供するほど現在体力はありません。そして、電通が主導してこのプロジェクトをしている理由が’ここに隠れています。<br><br>日本の広告市場は今年も縮小し続け５兆７０９６億円でした。今後もマスメディアの力が衰えていく中で企業側も当然広告費を削減することが予想されます。しかし、マスの中でもテレビの力は今だに健在してるみたいです。しかし、実際に人々は以前よりもTVを見なくなっている現実があります。CM媒体を代理として売って主にメインとして収益を上げている電通としてはこの課題をクリアしないといけません。<br><br>また、昨今のソーシャルメディアの勃興によってますますその存在自体を脅かされているマス媒体は変化が急務という状態があります。そこで、ネットテレビによって状況を打開しようとしているのが今の現状です。そして、興味深い事にテレビとソーシャルの相性が良いということもここで述べておかなくてはなりません。<br><br>TVとソーシャル？どこが相性が良いの？<br><br>テレビの力はお茶の間が存在していた時代に比べると今は確かに弱くなっています。しかし、それでもTVの影響力はSNSが発達してきているとはいえ未だに最も大きな力を持っています。このような話題をするときによくいわれるのが、「TVは消える」だとか「これからはソーシャルメディアの時代だ」などの偏った主張がされますが、皆さんも周知の通り、どちらかだけが生き残るとかいうわけではないと思います。ここにソーシャルとTVの相性が良いと言われる所以があるのです。<br><br>テレビの醍醐味といえば、「共通体験」ができるというところだと思います。そう、多くの人と共感し、共に同時に同じコンテンツを体験することで翌日誰かと話すなかで感動をシェアできる、まさにソーシャルのような体験ができるのです。しかし、それはリアルタイムに見ることが最も価値があるとされるサッカーの中継や、ニュース、紅白などのリアルタイム性があるコンテンツに限られます。故に、リアルタイムである必要がない通常のバラエティー番組などの殆どのコンテンツはネットテレビによって生活者が観たい時に観たいモノだけを選択できる状態が求められてきます。<br><br>今でこそ、レコーダー技術の進化によって自分の見たい番組を自動録画することができます。しかし、録画となると広告が飛ばされ本来のマスメディアのマネタイズを支えていたものが壊されてしまいます。故に一刻もはやくネットTVによって何らかの打開策を打たなくてならないのです。<br><br>当然、今日の日本におけるネットTVが中々進まない理由としてネット化のマネタイズをまだ模索している状態があります。つまり、視聴率がとれなくなるのが一番の障壁となっているのだと思われます。<br><br>とここまで書いてじゃあどうすればネットTVが普及するのかといわれれば明確に答える事は当然できないですが、ひとつだけいえるとすれば、TVがネットと繋がる事でTVがよりソーシャルとなって生活者のTVの視聴体験が一方通行だったのがよりインタラクティブになってTV自体の価値が今よりもずっと高くなることだと思います。<br><br>電通が取り組んでいるこのVODのプロジェクトはこのような背景のもと実施されているのだと思います。しかし、有料という形ではなく別の形でマネタイズして欲しいものです。
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<link>https://ameblo.jp/oasis2012/entry-11180402204.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Mar 2012 00:51:41 +0900</pubDate>
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<title>ベンチャーの魅力</title>
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<![CDATA[ 月曜日に東京のベンチャー企業の説明会を２社ほど参加させて頂きました。２社のうちの本命は一つで残りは興味本位で見に行ったのですが、結果として本命の方は幻滅し、興味本位で受けた所がかなり素晴らしい企業だったのです。百聞は一見にしかずの大切さを痛感しました。<br><br>前者は行く前はかなり期待していたのですが、社長の話を聴いて少しがっかりしました。要因として「ビジョン」が魅力的でないのと「思いやり」がない行動が見ていて多々見受けられたからです。その時点でもうその企業では働きたくはないと思いました。実はその会社がやっている事は僕にとってみればまさに理想でしたし、これ以上ないくらいのマッチングでした。しかし、重要なのはやりたい事ができるだけでなく、「誰と働くか」ということも考えなくてはなりません。どんなにやりたいことが出来たとしてもそこでの環境が合わなければ楽しくないし、きっと良い成果を残す事ができないと思います。<br><br>その反面、二つ目に行った企業はまさに圧巻でした。こんな理想的な企業が本当に実在していたとは思いもしませんでした。その会社の理念は「宇宙一愛される会社」とおっしゃっていました。このような大きな「夢」志がある会社はやっぱり素敵です。その会社のまた凄い所は大きな夢を語るだけでなく実際にそれを限り無く近い形で実現しておられるのです。有言実行を実現出来ている所にも強く惹かれます。<br><br>同じベンチャーでもここまで違ってくると、実際に足を運んで行ってみないで企業を判断するのは非常にリスキーなことであると実感しました。そして、２社目に行った企業に出会うことができたことはこれからの僕の人生において非常に大きな影響を与えるであろうと思いました。なぜなら、その企業は真剣に「夢」を持つ事の素晴らしさを恥ずかしげなく語ってくれたからです。私は日本にこんなに素晴らしい企業があるという事実を知る事ができただけで希望を持つ事ができました。１０年後にはこのような企業がもっと多くできていたらと願います。しかし、今回の経験によって時代はまちがいなく新しい方向に向かってきていると感じます。<br><br>今まではどうせ「何も変わりはしない』という諦めのような空気で覆われていましたが、そんなことないということをこの企業によって気づく事が出来ました。考え方一つで物事は大きく変化するのだと感じます。Impossible is Nothing せっかく生きているんだから無理だと分かっていてもアクションを動かす姿勢をどんな時でも常に持っていたいです。結果はかり気にしすぎて何もアクションしないことはやめようと思いました。何度もチャレンジしていれば時には予想もしなかった偶然の発見があります。しかし、頭だけ考えて何もしなければ何も変わらないのは当たり前です。今求められているのはリスクを冒してでもアクションすることであり、敢えて言うなら本気で「夢を持つ事」ではないかと感じています。
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<link>https://ameblo.jp/oasis2012/entry-11140591198.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Jan 2012 00:38:37 +0900</pubDate>
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<title>実体験の可能性</title>
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<![CDATA[ マーケティングとは何か？私はマーケティングとは人を幸せにする為にあるものだと考えます。今まではマーケティングというのはただ商品をいかに多くの消費者に購入させるのかということが目的としてあったように感じます。しかし、これから先はもうこのような「売りつける」「利益最優先」という価値観は通用しなくなるような気がします。<br><br>これからのマーケティングに求められるのはいかに生活者をハッピーにさせる「体験」を創造することにあると思います。というのも人が最も最高潮に幸せを感じている時、楽しんでいる時というのは５感全てを使った「経験」をしている時ではないでしょうか。その時にこそ初めて生活者は心を開き、そのような素晴らしい経験をさせてくれたモノ・コトに対して深い関係を築いていこうと歩み寄るのではないでしょうか。<br><br>従って、広告という分野においてもこの発想、視点が重要な気がします。今までの広告はいかに生活者の注目を得られるかの為にインパクト重視の広告が打たれてきました。しかし、これからは如何にリアルな経験をさせることができるかということが最もコアな部分になってくると感じます。<br><br>勿論、そもそも広告というのは認知・理解だけが目的としてあるわけなのだから、これまで通りそしてこれからも依然として大きな情報伝達力のあるTVCMのような広告が一番効果的なのかもしれないと考える人がいるかもしれません。<br><br>しかし、広告というのはCMだけではありません。SNSを使ったネットメディアの役割も今後ますます大きくなっていくであろうといわれています。そして、私が最も注目しているのが体験型広告であるプロジェクトマッピング、ゲーミフィケーションといったイベント型広告が大きな役割を担っていくのではないかと期待しています。<br><br>また、広告だけでなく、全てのモノ・コト・サービスといったありとあらゆるものが５感を使った経験に基づいた演出が用いられるようになれば今よりもずっと人々は豊かな暮らしを送る事ができ、ハッピーになることができるのではないかと考えます。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/oasis2012/entry-11136110390.html</link>
<pubDate>Sun, 15 Jan 2012 01:02:38 +0900</pubDate>
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<title>コミュニケーションとは</title>
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<![CDATA[ 一般的に「コミュニケーション」という時、意思疎通や「伝達」ということに注目しがちでそのように認識されていると思います。しかし、元々のcommunicateの元々の意味は「共有」にあります。つまり、お互いがある情報を「伝達」するだけでなく「共有」できて初めて コミニュケーションが成立するのです。<br><br>一般的にコミュニケーション研究ではコミュニケーションというのを３つに分けることができるそうです。一つは「説得達成型」これはおそらくあくまで自分の見解ですが、マスコミュニケーションに見られる一方<br>向的なコミュニケーションのことを言っているのだと思います。<br><br>二つ目は「リアリティ形成型」といわれるもので、人がある情報を「理解」する時というのはあくまで他者との関わり関係性を持つ中で初めて理解するということだと思います。<br><br>三つ目は「情報環境形成型」といわれるもので、これは良く分からないので省略します。<br><br>これら３つがコミュニケーションの形でいづれかによって普段私たちはコミュニケーションという行為を無意識の内にやっています。<br><br>以上のことから、二つ目に挙げた「リアリティ形成型」のコミュニケーションは今日最も注目すべき点だと思います。最初にいったようにコミュニケーションというのは「共有」、「共感」できて初めて成り立つものなのです。また、今日のような情報過多の時代で生活者が情報を自ら取捨選択し能動的な姿勢で情報と向き合っている時代です。ブログやSNSのように今ではもう殆どの人が情報というものを「発信」することができます。そこにはもう「受け手」と「送り手」の明確な立場はなくなりつつあります。<br><br>従って、ある「情報」を人々に伝えようと思った時にこの「共有」ということがとても重要になります。ではこの「共有」をするにはどうしたらいいのでしょうか？<br><br>それはどれだけ「他者」という存在を理解することができるかだと思います。相手がどんな事を感じ、思い、考えているのか。それが理解できれば自分の伝えたい「情報」というものをうまく相手のコンテクストの中に溶け込ませる為に工夫して変容させることができ、牽いては「共有」できるのではないでしょうか？<br>
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<link>https://ameblo.jp/oasis2012/entry-11132543738.html</link>
<pubDate>Tue, 10 Jan 2012 23:56:25 +0900</pubDate>
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<title>象徴の貧困</title>
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<![CDATA[ 明けましておめでとうございます。２０１２年初めてのブログです。<br>今年は伊勢神宮に初詣に行きました。とにかく人が多くてビックリしました。そして、今日書かせて頂くテーマは「貧困の象徴」です。このテーマは以前から僕が思っていたことと非常にリンクしている面があったので書こうと思いました。<br><br>「象徴の貧困」とはなんぞや？と思った方が多いと思います。僕も最初に見た時はなんのことかさっぱりわかりませんでした。<br><br>この象徴の貧困はフランスの哲学者ベルナール・スティグレールが使い始めた言葉でして、現代社会は情報が溢れ、そのことによってより人々は一元的な考え方しかできずに想像力が貧しく、みんな同じようなものになり均質化、没個人化が横行していることを意味します。<br><br>なぜ情報過多であるとそのようなことが起きるのでしょうか？情報過多とは即ち私たちが処理できる許容範囲を超えている状態を指します。その為、キャパシティを超えているため私たちは自己防衛手段として情報のバリアを張ります。このバリアによって自分に有益な情報にしか興味を示さず、考え方がとても狭くなってしまいがちになります。その結果として、現代の人々は似たような考え方、同じような性格の人が多くなり没個性化が起こっているのでしょう。<br><br>象徴的貧困とは現代社会の負の産物というわけです。象徴の貧困では人は物事を一面的に考えがちです。そして、ありとあらゆるものが均質化し町中がコピーで溢れかえります。つまり、成熟社会の宿命でもあるわけです。高度経済成長のころの人々は希望に溢れていました。それはまだ日本にたくさんの多様性があったからで、皮肉なことに高度経済成長が終わると今度はその事により逆に均質化をもたらしてしまい、日本の町並みや人々の考え方はどれも均質化してしまいました。<br><br>象徴的貧困の時代、つまり今はハイパーインダストリアルの時代といわれています。日本はすでに工業化を遂げてしまいました。これがハイパーインダストリアルな時代です。この象徴的貧困の提唱者であるスティグレールはこの時代を支配しているのは人々の行動、感情を支配する「マーケティング」だといっています。<br><br>今日の我々の価値は「消費」「お金」というものから生じる貨幣価値が根本にあります。貨幣価値が今の所ですがまだ中心にあるようです。貨幣価値つまり、お金を稼ぐこと、経済が成長しお金持ちになることで人々の生活は豊かになり、それを目指し今日まで日本は頑張ってきました。しかし、人々の幸福度はOECD加盟国の中で極めて低い位置にあります。そして、自殺者数は先進国の中で２番目に高いのです。GDPが高ければ幸福になれるというのはウソであるというのはもう既に皆さんご周知のとおりだと思います。<br><br>この原因は多くあり、一概にはいえませんが前述したように人々を動かすマーケティングのやり方に問題があったからと考える事ができます。今の私たちの暮らしは「消費」ということから逃れることは一生出来ません。それくらいの影響力をマーケティングというのは持っています。故にマーケティングのやり方一つでつまり、マーケティングとは企業活動ですが企業の考え方一つで人々の暮らし、社会に与える影響力は計り知れないのです。企業の考え方次第では社会は色んな意味で豊かにも貧しくもなり得ます。<br><br>これまでの日本のマーケティングは大きく分けて３つの時代に分けることができます。まず、戦後直ぐの６０年代の頃は日本の製品は中国の製品のように「安かろう悪かろうの時代」でした。しかし、その内に品質が上がる様になり次の時代に進みます。これが企業側発想の時代です。良いもの、企業が創りたいものを売れば売れる「企業優位の時代」です。この時は企業は消費者より上の立場にありました。しかし、それもつかの間にあっという間に立場は逆転してしまいます。これが「お客様至上主義の時代」です。そして、その流れは今日まで続いています。消費者が一番偉くて、彼らのニーズこそが成功の秘訣であるわけです。そして、昔と今に変わらず共通しているのが「利益」こそが一番の目的であるというところです。<br><br>最近になってようやく社会貢献を叫ぶ企業が増えましたが、これも結局は今の企業にとってあくまで何かの手段でしかないように感じられます。<br><br>「応援したくなる企業の時代」という本でかかれている通りこれからのマーケティングのあり方というのは「企業発想」でもなく「お客さま至上主義」でもない「共創の時代」だということです。生活者と同じ目線ににたって、一緒に企業活動をやっていく姿勢が必要であると思います。貧困の象徴が起きたのも「企業」と「消費者」という枠組みの中でマーケティングをやっていたからだともいえます。どちら側に立ったとしても基本的には同じようなことで、そこからは出てくるものは結局は「利益」がどれだけ得られるか？というゴールしかありません。その結果として、効率化が最優先され本当に良いもの「本物」がなくなりコピーしやすいものしか市場に出さなくなります。そして、それは直ぐに捨てられまた新しいモノを企業は次々に出さなくてはならなくなります。その結果、町にモノが溢れかえり情報が溢れかえり「象徴の貧困」をさらに引き起こしているというスパイラルからずっと抜け出せない状況にあると思います。<br><br>故に、企業が「利益」をゴールとする限りそもそも人々は幸福になれることは一生ないのではないでしょうか？勿論、企業は「利益」を出さなくては活動する事はできないのは当たり前のことです。しかし、これからの時代は本当の意味で企業に求められているのはいかに「幸せ」を人々に感じさせることができるかだと感じます。<br><br>その為には、生活者と同じ目線になり、共に創り上げる視点を持つ必要があります。そうする事で自ずとやるべきことが見えてくるのではないでしょうか？つまり、生活者の真のニーズがみえるのではないでしょうか？<br><br>それは、おそらく質の高いモノへの欲求だといえます。つまり本物への憧れであり、そしてアップルの様にその製品がもつスピリッツが求められていると感じます。<br><br>従って、企業がやるべきことはただひとつ「生活者の幸せづくり」なのだと思います。象徴の貧困を生み出さない為にも、多様性を目指すべく、企業は独自の個性を出す為に「志」を持ち続けより質の高い価値を社会に生み出していかなければ生き残ることはこれからの時代難しいのではないでしょうか？<br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/oasis2012/entry-11127434124.html</link>
<pubDate>Thu, 05 Jan 2012 15:45:13 +0900</pubDate>
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<title>家政婦のミタのスゴさ</title>
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<![CDATA[ 皆さん、家政婦のミタ近年のドラマの中では一番面白かったのではないでしょうか？その証拠に最終回の視聴率は４０％でしたよね。このドラマが成功した理由はまさに生活者のインサイトをガッチリと掴むことができたからだと思います。昨今のほとんどのドラマはF３層といわれる４０代～くらいの女性達向けに作られていたそうで、これはこの層の人達が最も視聴率を左右するくらいの影響力があるからだといわれてるからです。しかし、実際はそのせいでウケ狙いの、手あかの着いたような脚本が殆どで誰もドラマを見なくなりました。昔のような社会を動かす程のドラマはなくなったのです。これはマーケティングの世界と似ていて顧客のただ欲しい物を与えるだけでは意味が無く、目に見えない潜在ニーズを掘り起こし、ニーズを新たに創造することが最も重要なのです。その為、大衆に迎合しすぎて作りたいものが作れない結果今のようなドラマが量産されてきているのだと思います。<br><br>しかし、この点家政婦のミタは違って脚本の方のスピリッツが見えました。つまり、自分が作りたいものを作る。これを貫いて一貫したメッセージを送り尚かつストーリーが今までにない革新的なものであったことから人々の心を動かしたのだと思います。成熟した今、人々は今までに無い体験を求めているのだと思います。<br><br>さて、もう一つ家政婦のミタがスゴいのはタイトルにあります。「家政婦は見た」というドラマと掛けているところです。これは推測ですが、何も文脈のないタイトルをつけるよりも生活者の頭の中にすでにある情報にフックをかけることによってうまく家政婦のミタというドラマまで引きつけたのだと思います。ドラマにとって一番大切なのはまずは見てもらうこと。その為にこのようなタイトルを付けた事は非常に戦略的であったと思います。<br><br>これは昨日はなした文脈づくりの大切さ、そしてローカリゼーションというものと非常にリンクしていることだと思います。ローカリゼーションとはいかに現地の文脈を把握することが企業の海外展開にとって重要であるかということです。キッコーマンはまずアメリカにしょう油を普及させるためにまず彼らの関心を向かせる為に彼らの生活習慣を前提に肉に合うソースとしてしょう油を売っていきました。これは家政婦のミタのタイトルを付けた理由と似ていると思います。<br><br>まずは生活者の文脈に沿うように自分たちの商品の文脈を変えていくということが求められるのだと思います。
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<link>https://ameblo.jp/oasis2012/entry-11122322464.html</link>
<pubDate>Sat, 31 Dec 2011 12:33:59 +0900</pubDate>
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<title>「文脈」の重要さ</title>
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<![CDATA[ 全ての感動は「文脈」があるからである。最近、この「文脈」というキーワードが頭から離れません。というのも私たちの暮らしの殆どは文脈によって支えられていると言えるからです。<br><br>例えば、私たちの何気ない行為、「笑う」「泣く」「怒る」「哀しむ」「楽しむ」といった喜怒哀楽はすべて文脈があるから起こる現象なのです。では、文脈とは何ぞや？という方もおられると思うので僕なりの考えを以下で書いていきたいと思います。<br><br>一番簡単な例は、「笑う」です。例えば、笑いのプロである芸人ですが、彼らは常に笑いを研究しています。そして、彼らは自分なりのキャラを造り出す事が一番の人気への近道であることを知っています。その為彼らは常に自分のキャラの範囲内で人々を笑わせようとします。そう、これが文脈の力です。<br><br>つまり、今流行っている芸人、少し前では小島よしおの「そんなの関係ねぇ～」は彼がやるから面白いのであってそのようなキャラ（文脈）でない人が同じ事をやったとしても笑う事は出来ないと思います。今となっては本人がやったとしても誰も笑いませんが笑。これはこれで、彼の文脈力が弱くなっているからなのです。彼が人気の絶頂にあったときは丁度、人々の笑いの文脈と彼の芸風がピッタリとハマったのでしょう。<br><br>要するに、発信者と受けての両方における文脈を考えないといけないということです。この視点を持つ事によってコミュニケーションはとても円滑になるのではないでしょうか？<br><br>マーケティングにおいて文脈を把握する事が出来ればどのタイミングで誰にどのようにコミュニケーションすれば最も効果的に影響を与える事、彼らの心を動かす事ができるのかが分かるのではないでしょうか？今、人々はどのような文脈にいてその中で何を感じ、どのような価値観を持つようになっているのか。生活者の方達は一体何を求めているのか？そして、その為には何が必要なのか？という本質を文脈を理解することで出来るのではないかと思います。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/oasis2012/entry-11122004201.html</link>
<pubDate>Sat, 31 Dec 2011 01:09:48 +0900</pubDate>
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<title>2011年と自分</title>
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<![CDATA[ 今年も残すところ、あと２日ですね。タイトルどおり今年を振り返ってみたいと思います。<br><br>２０１１年は僕にとってそして、何よりも世界にとって今までに無いくらいに「激動の時代」であったと思います。中でもやはり、3.11は日本の社会にいうまでもなく大きな影響を与えたと思います。まさに今年は過渡期になった年だと感じます。確かに、3.11以前から少しずつですが、何かが変わろうとしていた空気は流れていましたが、今年は一気にその流れに勢いがついたのではないかと個人的に感じています。おそらく、その「流れ」というのは既存の常識、価値観今まで当たり前とされていた前提というのがいかに軟弱なもので私たちにとってそれが「幸せ」を与えてくれるものではないということに多くの人が気づきはじめている「流れ」です。<br><br>話は変わりますが、僕にとってもこの2011年という年は非常にターニングポイントであったと感じています。それはまず、今までにないくらいにたくさんの色んな「人」「場所」「食べ物」「空気」「場所」<br>「考え」「音」といったものを「経験」をすることができたことにあります。<br><br>まず、何よりも年の最初に体験した「留学」は僕にとって非常に重要な経験の一つになりました。実は、お恥ずかしいのですが、約２０年生きてきて海外に行ったのはこれが初めてでした。なので、これまで経験したことのないくらいまでの感情の高まりがあり、「初海外」の自分にとってそれはもう不安と期待で本当に胸が張り裂けそうな感じでした。しかも、滞在先は僕の愛する「英国」です。実際に留学の選考に選ばれた時はこれ以上にないくらいの感動が込み上げてきました。とにかく、イギリスに行ったことは僕に取って色んな意味で素晴らしい影響を与えました。<br><br>というのも２０年という期間のなかで全ての時間を同じ空間過ごしていたということを今になって思うととてもそれはある意味恐ろしいことでもあると実際にイギリスに行ってみて感じた事の一つでもあったからです。確かに、日本にいれば間違いなく世界的にみてもある程度の経験はすることはできます。しかし、実際に日本を出てみて外から日本を見るということは日本にいる限り絶対に出来ません。出来るとしても想像すだけしか出来ません。実際に身体を外に移動させない限りは得る事が出来ない情報、経験、感覚があるのです。そういう意味では、日本という国を他国と比較して改めて日本を知ることができたのは非常に良かったと思います。改めて、日本の長所・短所というのをリアリティをもってより深く実感し、見つめ直すことができたと思います。<br><br>留学に行くまでの大学の最初の２年間で自分の中で一貫してあった問題意識というのは「どうすれば、人は幸せになれるのか？」というものです。一年生のころは割と以前から社会に対して問題意識というのが漠然とではあるのだけれども持っていました。そこで、運命的な出会いがノーム・チョムスキーとの出会いです。偶々、生協の本屋にいて手を伸ばしたのが彼の著書である「現代世界で起こっていること」でした。この本によって僕の世界観は大きく変わり、まさに自分の中でのパラダイムシフトが起こったのを今でも鮮明に憶えています。その流れで、世界の裏側の真実に今更ながらだけど、気づくことによってより「幸せ」への問題意識が形成されてきたのだと思います。なぜ、こんな豊かな暮らしをしていながら今の自分、そして日本や世界は「幸せ」を実現できないのだろうか？と。勿論、前提として貧困や紛争というものが無い状態つまり、ユートピアなるものが実際に実現しなければ本当の意味での「しあわせ』は成立しないというものがあります。リアルに考えなくともそんな世界は生きている限り存在しないことは子どもでもわかります。しかし、そうだとしても今の世界はあまりにも酷いと感じます。また、現状に甘んじて、諦めているようなシニシズムのような人があまりにも多いような気がします。僕はその状態が嫌なんだと思います。従って、敢えて「どうすれば今よりも多くの人が幸せを感じることができるのか？」という問題意識が常に自分の中にあったのでしょう。<br><br>前述したように大学の最初の頃は割と、社会学的見地から貧困や自殺問題、幸福度、のようなものを勉強していました。そして、2011年、僕は今入っているゼミによって「マーケティング」と出会う事になったのです。マーケティングの中でも僕はとりわけ、「ブランド」という分野に非常に興味を持ちました。キッカケとしてはおそらく非常にありきたりでただ単に「魅力的」だからだったと思います。なぜ、人はブランドというものに引きつけられるのだろう？ブランドって一体何なんだろう？という好奇心が僕のブランドへの関心を呼び起こしたのだと思います。つまり、ブランドというものに触れている時が最もワクワクする事ができ、幸せを感じる事ができたのだと思います。<br><br>しかし、ブランドに興味を持った背景としてもう一つ根本的なキッカケがあったことに今気づきました。それは「創造」したいという欲求が自分の根本にあったと思います。自分が創造するだけでなくそれによって何かの役に立つ、人の心を動かすことが出来たらこれ以上の幸せは無いと今でも感じています。つまり、創造する手段はブランディングにしろ、商品企画にしろ広告コピーでも何でも構わなくて、それが自分のアイデアによって何か人の為になり、結果として人々の喜ばれるような仕事がやりたいのだと思います。<br><br>大学の最初のころは常にジレンマの連続でした。自分に出来る事は何一つなく、社会をどうしたら変えることができるのか？といった青臭い事ばかり考えているだけで、実際に行動をする術を知りませんでした。しかし、今年は自分でいうのはおこがましいですが、素晴らしいゼミに入ることができたお陰で自分に出来ることは何かということに気がつけたと思います。それは、マーケティングを通して社会に出て少しでも人々にとって良い影響を与えることです。少しでも良い影響とは、究極的に言えば「幸せ」を感じてもらえるような感動、経験を提供することです。<br><br>今述べたことは自分の実体験を通して、色んな経験をして自分なりに思ったことから来るものだと思います。なので、これは自分の生きてきたコンテクストを通して出てきた現時点における一つの自分の人生の大きなテーマであると感じています。これから就職活動が始まりますが、周りに流される事無く常にこの原点を忘れる事無く、また、１０年経ってもこの自分のテーマを歩んで生きたいと思います。<br>
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<link>https://ameblo.jp/oasis2012/entry-11120639258.html</link>
<pubDate>Thu, 29 Dec 2011 17:48:30 +0900</pubDate>
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<title>クリエーティブと人</title>
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<![CDATA[ クリエーティブという言葉を聴くと普段の私たちとは少し距離があるように感じられる人が多いのではないでしょうか？クリエイティブとはアーティストや芸術家などの人達にしかあてはまらないような気もしますよね。しかし、人は本来誰しも「クリエーティブな生き物」なのではないかと思います。必ずしも画家やアーティストだけがクリエーティブというわけではないのではないでしょうか？<br><br>確かに、普段の仕事などでクリエーティブさを求められているという人はごく少数だと思います。また、ここ日本は特にそのようなクリエーティブ「創造」という事に対して他国に比べて圧倒的に歴史的に見ても軽視しているところがあります。少し前のsonyのウォークマンはそういう文脈から考えるととても革新的な非常に創造的な素晴らしい商品であったと思います。しかし、それ以外で見てみると私たち日本人は「創造」の大切さというのをないがしろにしているように感じます。<br><br>遡ること、戦後間もなく日本は廃墟と化した町を一刻もはやく再構築しようとしていました。そして、人口がベビーブームとともに急激に上がり住む家が一刻も早く必要でした。そこで、国は効率を最優先にし景観の創造性を無視した都市計画が推しすすめられていきました。確かに、当時は「生きる」ことで精一杯だったのかも知れません。それ故、創造よりも効率、合理性というのが優先されたのは仕方の無い事なのかもしれません。しかし、その代償はやはり僕は大きいかったと感じます。今、私たちの住む環境は何処も殆ど同じようなものです。今まで、地方それぞれに色があり、特色がありました。つまり多様性がありました。多様性があることはクリエーティブにとって非常に重要な要素だったと思います。しかし、今日では殆どの都市が代替可能な存在になってしまいました。つまりどこも似たような非個性化が起こりました。<br><br>ではなぜ、今クリエーティブが大切なのか？ということです。意識してみればわかることですが、普段の何気ない私たちの一つ一つの行為は実はクリエーティブの要素が見られます。例えば、人が音楽を聴いたりするのもクリエーティブへの欲求があることの表れだといえると思います。また、何か些細な問題に直面した時にあれこれアイデアを考えることもクリエーティブなことといえると思います。そう考えるといかに効率よく仕事をするのかということもクリエーティブなのかも知れません。しかし、これからのクリエーティブというのはもはや「効率」だけでは通用しない、必要とされないと思います。これかのクリエーティブはいかに人々の心を豊かにするのか、如何にいままでにない体験をさせてくれる創造性が求められているのだと感じます。<br><br>以前かいたかも知れませんがやはりこれからの時代は「効率重視からくる損得中心の価値観から『質』を求める時代」だと思います。そのためにもやはりクリエーティブというのが益々人々に求められてくるのではないでしょうか？<br><br>今までにないような感動、体験を可能にする創造性が必要とされる時代が来ると言いましたが、果たしてそれはどのようなものなのか？１＋４→５という価値を与えるのは簡単ですが、０→１という価値創造はとても難しいです。しかし、もしそれができれば、たとえ最終的に１という価値であったとしても０→１に変換できれば人は１＋４＝５の時の感動よりも大きい感動を与える事ができるのではないでしょうか？つまり、０といううのは未知数であり、言語化できないものがつまったものなのです究極的に言ってしまえば、言語化できない感動というのが今までに無いものだともいえます。例えば、デイビット・リンチの映画などはとても理解し難いものがあります。しかし、何度も見たくなる中毒性、何か分からないけど気になる感じというのが究極的な０→１だともいえます。しかし、この価値が普及するのはまだまだ先のことだと思います。このキャズムはそう簡単には超えられないと感じます。つまり、アートの世界での感動がビジネスの世界で通用する時代はまだまだ先に思えます。なので今求められているのは既存の情報の中でつまり人々の生活文脈の中で通用する範囲での「アイデアの今までにない組み合わせ」が必要なのだと思います。アイデアとは本来既存の組み合わせでしかないという宿命があるのもこのことから分かります。なので、既存の組み合わせでしかないアイデアを如何に化学反応を起こさせる事ができるかが成功の分かれ道になるのではないでしょうか？<br><br>まとめると、これから先ますます人々は今までに無い感動を必要とします。そうなってくるとクリエーティブの力が求められます。従って、日頃から常に創造的であろうとする姿勢が重要です。
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<pubDate>Wed, 28 Dec 2011 00:42:48 +0900</pubDate>
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