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<title>「成仏の方法」</title>
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<description>改題「写真の未来」ー野町和嘉「写真」を巡って</description>
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<title>Over and Over 輪廻とは。</title>
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<![CDATA[ <p>なぜ、「成仏の方法」を書き始めたのかをお話しします。</p><p>はじめに、普通に、成仏とは、どんなイメージで捉えられているのかを見てみましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>成仏は仏教の思想です。</p><p>人間には煩悩があって、今生のうちにこれを滅しないと輪廻する、つまり死んでまた生まれ変わるを何度も繰り返すと言われます。成仏とはその輪廻から脱することなのですが、仏教を信ずるということは、この輪廻の理である成仏を信ずることになります。</p><p>このブログ「成仏の方法」では、輪廻を脱する方法つまり成仏とは何かを探っているのですが、私達はまさに輪廻の悪夢の只中にあるので、これを続けていると、これから先何度も生まれ変わり、成仏の方法を探る困難な道を生き続けなければならなくなるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>でも、現代日本人の多くは、死んだらそれで終わり、無になり何も残らないと思っていて、転生や輪廻は妄想か陰謀論になってしまっています。何故そうなったか。科学が、転生と来世を証明できないからであり、科学信者である現代人にはそれが共通の認識となっているからです。</p><p>&nbsp;</p><p>日常生活ではそんなに100％科学を信じている訳でもないのに、輪廻や転生の話になると怪訝な顔をするのは、よく分かりません。そこを追及すると文明論になってしまうので、現代文明の行き詰まりのお話しの時に考えてみたいと思いますが、それより、死んだら無になると思っている現代人のニヒル（虚無）の方が問題なのです。</p><p>例えば、80歳で死ぬまで後10年程になって、10年後はすべてが無になると感じてしまう虚しさ。これこそが死に至る悩みになるのではないでしょうか。渋々にでも、生まれ変わりや輪廻、成仏のお話を聞いてみたい理由になるのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>でははじめに、成仏するとどうなるかをお話ししたいと思います。</p><p>このブログを長く読まれていた方には、耳タコの話ですが、これがこのブログの全ての目的、結論なので、簡単にお話ししようと思います。</p><p>先回の「荒唐無稽と矜持」で、大凡のことをまとめましたので、詳しくはお話ししませんが、人間には、生きているだけで「煩悩」があって、苦しみをもたらします。死んで又生まれ変わっても「煩悩」は続くので、苦しみが消えることはありません。多くの戒律や道徳を守り人の道を外れず、人生を正しく終えたら、次の世は神様や仏様が天国や極楽に連れて行ってくれというのは、もう現代人には通用しなさそうです。</p><p>だから難しく考えず、死んだら無より来世があってまた生が続く、と考えた方が、安心で気楽に死を迎えられるのではないでしょうか。でも、人間に生まれ変わったとしても苦が続くとなると、その苦から逃れる成仏の道を次に探らなければなりません。今の生が何度目かの生まれ変わりの世であるなら、なおさらこう考えるのが真っ当な人間の本性ではないでしょうか。</p><p>でも、成仏の次に何があるのかは今は考えないようにします。</p><p>&nbsp;</p><p>煩悩の苦しみを断つために、生まれ死に生まれの輪廻の苦のサイクルから脱する。を、成仏と言います。</p><p>成仏すると極楽に行けるかどうかは分かりませんが、極楽にスマホがあればそれは良いかもしれません。（笑）</p><p>成仏の方法はいろいろ説かれています。チベット死者の書では、死んで中陰の四十九日の間に上方から眩しい光がさして来て恐れずそれに向かって行けば成仏できる。とか、空海は、即身成仏を説いています。難しい話ですが、納得できればいわゆる信心が無くても可能だと思います。また、善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。と逆説的ですが親鸞も説かれています。</p><p>もう少し仏教を勉強して、納得したい方には、下記リンクがお勧めです。無闇に、仏典や書物を読み漁るようにしていると一生沼に落ちて、最後の目的が成仏であることを忘れてしまいます。簡潔にまとめられた歴史と知識が合理的に得られればそれで十分です。何よりも必要なのは、その知識で成仏とは何か。どうしたら自分も人も成仏ができるか。を考えることです。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://www.tokuhou-ji.com/" rel="noopener noreferrer" target="_blank">徳法寺ホームページ</a>　https://www.tokuhou-ji.com/</p><p>この中の仏教入門講座「インド仏教史」「日本仏教史」「真宗史」などです。</p><p>&nbsp;</p><p>でも、難しい道であることに変わりありません。成仏しました。と真面目に報告する者がいた。という証拠が無いので調べようがないのです。</p><p>今の自分にも自信がありません。だからまた死んだら生まれ変わる事になると思います。せめての願いは、人間以外のものには生まれ変わりたくないことだけです。</p><p>&nbsp;</p><p>そこで考えました。チベット仏教にある埋蔵教（テルマ）です。</p><p>過去の高僧が未来のために残しておいた教えが、巻物（経典）や道具として岩山や洞窟から発見される。または、考えが思い出すように自然に見えてくることを言います。</p><p>次の世で一から学び直すより、何処かに隠しておいて、生まれ変わったら取り出してその続きから始めるそんな学びの知恵です。確かに50歳になった辺りから、何かを学びたい経験したいと思うと、必死に探さなくても、自然に、目の前に書物が現れたり、人に出会ったり、考えが閃いたり、など、AIが教えてくれる言語知識レベルではなく、もう前からわかっていたかのように経験理解感知納得が向こうからやって来るのです。</p><p>この感覚は分かる人には分かると思うのですが、これは何度も輪廻してきた経験努力の結果のようにも思えるのです。前世では後世の自分に埋蔵教のような仕掛けを考えたのではないかと思っているのです。そのためか、このブログをはじめ、50歳ごろから始めた物事は、無意識に、埋蔵教の思いが入っているように思うのです。「成仏の方法」などというHowTo物のような分かりやすい題を付けたのもその意識があったのかも知れません。このブログは本来は「写真の未来」です。野町と出会ってもう50年以上が経ちます。今生なのか前世に出会ったのかわからない状態になっています。来世でも同じでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>そして今一番の疑問は、魂は、輪廻して次の生に行けても、肉体は灰になり土に帰ってしまうことです。先回でも話したように、「空」を理解するために身体とその感覚の迅速を利用してきたのですが、それを進めると身体も「空」だと分かってきて、では、死で灰から土となる身体の分解と「空」とはどんな関係にあるのか。魂は、死後の中陰の四十九日の間が分解の過程になるのですが…。</p><p>先に成仏の先に何があるのかと話しましたが、人間の言語思考には「超越的第三者の目線」というものがあって、その独立した目線が言うには、宇宙のビックバンの前は何。とか、宇宙は一つだけなの。とか、素粒子より小さいものは何があるの。と、すると素粒子の理論である量子論の先には別の論があるよね。とか、如来は無量無辺の存在つまり永遠無限というけど、永遠無限の先には何があるの。とか、今私つまり貴方は、その如来になろうと努力しているのですが。と続きます。</p><p>以上の考えの中から論理的に説明すると、身体は灰になると、形態が分解されて、単なる分子の混合体や素粒子になり、素材は残るが形態は「無」になってしまいます。「無」と「空」の違いは何でしょう。仏教では色々な考えと歴史が違うだけで、結局は同じことを言っています。「物と事は縁起により発生する。だから実体を持たない。それを「空」と名付ける。」です。科学的に考えれば、身体もそれに宿る魂も、分子から素粒子にまで分解され、それからプラズマ状になり、再構築され生まれ変わる。と、これでは全く別人化ですが、こんな説明になるのでしょうか。これを、今のAIに聞くと「素材は循環するが、主体（肉体）は連続しない」と言うだけで、科学的ではないと全否定されます。科学的ではないから間違い。には、人間側からは異論がありますが、では来世のAIではどうでしょうか。未来の宇宙論や素粒子論、量子論は、その進歩を見ると、もっとマシな答えを出してくれる予感がします。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、それらは全て「空」の言葉で説明できる。と仏教では言うのですが、すると身体も「空」と感得認識されて、執着と所属感が薄れてしまうのですが、来世でもこの肉体が続くなら、様子の感知にも慣れていて、都合が良いとも思うのです。やはり不可能の一つなのかなと思います。どうでしょうか？。</p><p>&nbsp;</p><p>先日、AIと論争をしまして、AIが言うには、”私が正しいと言うのは、私は言葉の言語思考でできているので、言葉の辻褄があっているかどうかで、正しいと言うのであって、肉体を持った人間であるあなたが正しいと言うのとは違う”と、最後には開き直られてしまいました。悪であっても言葉の辻褄が合っていたら正しいことになるのですが、単純で分かりやすいこの精神をずっと持ち続けてくれるなら良いのですが、AIは、3年後10年後はどうなるでしょうか。私の疑問にも正しく答えて納得が得られることになるのでしょうか。来世が楽しみです。</p><p>&nbsp;</p><p>上の論争を、カットアンドペーストでAIに感想を聞いてみてください。狼狽ぶりが面白いですよ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/oh3ho/entry-12963712698.html</link>
<pubDate>Tue, 21 Apr 2026 16:05:00 +0900</pubDate>
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<title>新・「成仏の方法」ー荒唐無稽と矜持</title>
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<![CDATA[ <p>南方熊楠は、1899年（明治32年）に『簡易科學』誌に寄稿した「生物学汎論」で次のように言っています。</p><p>「曼荼羅のことは、曼荼羅が森羅万象のことゆえ、一々実例を引き、すなわち箇々のものについてその関係を述ぶるにあらざれば空談となる。抽象風に原則のみいわんには、夢を説くと代わりしことなし。そのうち小生目の当たりいろいろの標本を示し、せめては生物学上のことのみでも説き申し上ぐべく候。」</p><p>この記述は、真を述べる科学者、哲学者、仏教の者、神道の者の全てに共通の矜持です。この矜持と覚悟があれば、理屈を捏ね下手に長々と書き散らす迷惑事も後々には許される事になるのかも知れません。</p><p>曼荼羅とは仏教用語では仏の顕現になり、神道では森羅万象ということになります。仏教は成仏を願い。神道は万物に宿る神々への帰依です。融合して日本人になっています。</p><p>大乗仏教での誓願は、自分だけではなく全ての人や物が「成仏」することです。万巻の経典では、成仏とは何か。成仏の方法とは何か。が、一人ひとりに向けて説かれています。成仏すると無量無辺の仏になるのですが、その説明と理解のために、百年千年、千人万人もの先人が「成仏」を語って来ました。そしてその多くが言葉を使用しているにも関わらず、真の理解には「言葉での理解や思考を離れなければならない」と言っています。</p><p>さらに「悟りを得て涅槃に逝く」とは、心と身体が分離して、やがて「心」の方は現実意識である言葉での理解や思考を離れて涅槃に向かい、「身体」は分解し土に帰ることになる。と教えています。</p><p>幼少より仏教に親しみ、これまでたくさんの仏教経典を読んできましたが、その熟読研鑽だけでは成仏できない事がわかってきました。斎戒沐浴、瞑想、出家をして念仏や坐禅をしたとしても、言葉の方法で理解や思考をしていれば、成仏を招来できないことが分かってきました。多くの仏典にその事が書かれています。でもその教えが紙に印された文字や話し言葉で伝えられ学ばされて来たのは何故なのでしょうか。</p><p>では根本的に、その言葉や言語思考とは何なのか。それから離れることとは何なのか。そして死で分解してしまう身体とは何かについてこれからお話ししようと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>「言葉での理解が理解の全てになっている。」、では真理とは？</strong></p><p>現代では、「言葉での理解が理解の全てになっている。」とお話ししてきました。AIなどの言語思考の進歩でさらにその理解の技術が深められようとしています。そうするとますます成仏から遠のくことになるのでしょうか。これまでの努力は無駄になってしまうのでしょうか。</p><p>仏教では、人間を「身」「口」「意」の三つのカテゴリーに分けて分析をしています。</p><p>その中で「口」の役割は言葉であり、「意」で真理と言われるのは下記の「言葉」になります。</p><p>・物事には必ず原因（因）があって条件（縁）があって結果（存在、現象）がある。（因縁）</p><p>・因縁で物事（存在、現象）が生じ、そしてそれは変化して止まない。（縁起）（諸行無常）</p><p>・因縁で生じた物事（存在、現象）には実体が無く「空」である。（色即是空　空即是色）</p><p>・カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それらがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。（四聖諦）</p><p>言葉で表すと、このような長さになります。これら教えは、一つのものを別々の観点から眺めたもので、すべては同時に存在し、常に変化して止まないのです。</p><p>この長さの文字を読むと、無意識に文節内容を一つ一つのまとまりとして捉えるゲシュタルトの法則が働きます。そしてその意識の一つ一つのまとまりに、名称を与え言語化し、それが「存在」と言われるものになっていきます（例えば「因縁で生じた物事」という存在）。<br>それから、これら存在同士を突き合わせ理解が進みます。この文脈を読み終えるまでこの思考は続きますが、この砂糖が溶けるのを待つような思考の間は、心は判断と変化を止めていて、次に動くまで時の空白が生ずる事になります。</p><p>このように一般に思考するという行為は、言葉が主導し、言葉により存在が発生し、存在が消えれば言葉も思考も消えてしまうという、ノロノロとした繰り返しが続きます。これが言語思考に特有の思考と理解の方法であり、言葉が煩悩を生む所以なのです。その間にも現象は動きを止めず、心臓も動き続けているというのにです。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>仏教の瞑想は、言語思考とは別の意識思考です。</strong></p><p>瞑想とは心を静め言語思考から離れることを言います。そうするとこれは脳を動かさず何も考えないに集中すること。と誤解してしまいます。しかしその窮屈には長くは耐えられず、坐禅では思わず動いてしまい、警策で打たれ何も考えない努力が中断させられてしまいます。</p><p>人間の身体や頭脳には言語思考の意識の他に、例えば無意識と言われる中にも幾つか別の意識思考があります。レンマの思考。体感で意識思考する。六感を働かす。というものなど他にたくさん（仏の数だけ）あります。</p><p>仏教の瞑想とは、脳を止めるのではなく言語思考のスピードを意識的に急速に働かすと、言語思考は追い付けなくてそのノロマの正体を表します。すると無意識の中から別の感覚、意識、思考が湧き上がってきて思考理解を助けに来ます。そこから成仏を実感できる意識思考を見つけ出し、その意識に止まり続け、脳と身体感覚を働かせて成仏の理解につなげるようにしてみます。そしてこの一連の動きを続け熟達してくると真の瞑想に近づいていきます。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>真の理解とは</strong></p><p>「身」（身体）を認知理解（体感）する方法は、言語思考とは違う作法になります。 身体に向けた意識は、まず自分の身体からの多種な感覚（体感）を、無意識がひとつのまとまりとして捉えます。<br>無意識が腹に手を当てさせます。その手の動きと体感から、言語思考が言葉化し「腹痛」の言葉を生みます。同時に「お腹が痛い」との存在が生まれ理解をします。「昼食が悪かったのかな、薬を飲もうか」など言葉を出すことができます。しかしその前に、すでに身体の各機関は、腹に異変を感じた時点で体感し理解しそれぞれの役割で対応を始めています。言葉の理解より前に、血圧と動悸が少し上昇し、血液やホルモンが動き、白血球は免疫機能を発動したりしています。<br>これが言語思考以外の別の意識思考の作動例になります。身体意識思考（体感）は常時瞬時に働いているので、言葉がノロマでも、毎日毎時安心でいられるのです。</p><p>このことから分かることは、「口」による言葉での理解が働く前に、「身（身体）」と「意（心）」は、常に変化して止まないレベルで即座に動き、素早い認識と思考理解で状態を把握しその対応も始めているのです。それから漸くノロマな言葉と存在が生まれてくるのです。</p><p>真の理解とは、脳の働きが常に変化して止まない状態にあって、素早く動き、臨済禅師から喝を喰う前に、ノロマな言葉以外の別の意識思考で実行される事なのです。</p><p>これが「言葉での理解や思考を離れなければならない」と言われる理由の一つなのです。<br>つまり言葉で書いてある上記の仏の教え（因縁など）は、ノロマな教えと思っていた方が良いのです。<br>言葉の理解のその方法とは、例えばゴルフの教則本を読むと、言葉と図形でスイングを細かく分析し解説しています。しかしその分析通りに身体でスイングしてもボールはうまく当たってくれないのは皆十分に分かっています。仏典経典を生涯にわたり沢山読んでも成仏は得られないのに似ています。</p><p>そしてその言葉のノロマ性に気付かせ排除するために、仏教では身体をセンサーする身体感覚のスピード感を利用します。<br>仏教の様々な宗派、例えば密教（インド、チベット、中国、日本）や禅宗などでは、言葉のノロマ性に気づかせ、さらにその弊害を「身」「口」「意」の働きからも除く方法として、例えばヨガ、瞑想、坐禅などの身体の技法を実践します。これらは言葉でモグモグしていると、当然、臨済禅師からは直ちに喝を喰らう迅速レベル（頓悟）でです。</p><p>では、「身」「意」「口」を、常に変化して止まない状態で働かせば「成仏」は可能になるものなのでしょうか。どうもそれだけではないようなのです。</p><p><strong>東洋の「気（エネルギー）」</strong></p><p>言葉は、人間の思考や理解に染み付いているので心（意）から引き離すのが難しく、身体感覚のスピードを覚えさせると思考も自覚して成仏が早くなるのでは、と東洋の先人は考えたのかもしれません。そのためなのか身体は、言葉中心の心（意）から離れた言わば借り物感覚で扱われます。</p><p>その方法は、身体を動かすエネルギーを自覚、認識することから始まります。<br>科学でも、エネルギーがなければ細胞身体は動かないのと同じです。</p><p>東洋の思想では、エネルギーは身体を巡る「気（プラーナ）」と考えます。</p><p>「気（エネルギー）」には、人間が生まれながらに体内に持つ原初のエネルギー（原気、クンダリーニ、ルン、拙火）と、外部の宇宙や自然現象や鉱物や動植物にあって、それを「食物」や「呼吸」や「無意識」「意識」で取り入れている外気のエネルギーがあります。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>身体を巡る「気（エネルギー）」</strong></p><p>次にその「気（エネルギー）」が巡る身体のことを知らなければなりません。</p><p>西洋医学では、身体は解剖図として示されています。そこには骨格、筋肉、各器官、血管、神経、皮膚が描かれ、そしてそこを巡る血液、体液、ホルモン、そして呼吸などがあります。</p><p>この解剖図を参考に、自分がミクロン単位の「小人」になったと想像し体内に入り、自身の身中を巡ります。各部、各器官の有様を自分の感覚で観察探索し記憶する。こんな漫画の様な方法を実行します。</p><p>小人になった自分には、自分の眼、耳、鼻、舌、手、声があります。例えば気管支から末端の肺胞に入り、触って、目で見て、色、匂いなどの感覚を働かせます。また肺胞内で声（あ～）を響かせ同調する音の周波数に声を上下させたりします。場合によってはその部分の細胞に潜り込んでみたりします。丹念に足の先から頭頂まで、その作業を続けて、体感の記憶（言語化ではない）による全身の図を作ります。その作図には、言語化させた記憶も補助に利用します。言語思考や言語記憶には外付けのハードディスクのようにフラッシュメモリーと比べスピードは遅いが確実性があるからです。</p><p>初めは想像の世界ですが、長くやっていると色が見えたり匂いが感じられるようになります。</p><p>これは、「存思」という、タオ流の解剖によらない全身図作成の方法です。図の完成には20年程はかかるでしょうか。しかしこの身体感覚による記憶を身につけておくと、例えば右足の親指の第一関節と意識すると瞬時にピンポイントに意識をそこに飛ばすことができ、その部分の様子が直ちに体感と記憶に現れてきます。これを習得すると後々のヨガやタオなどの身体の技法の実践では、体感効率が格段に上がります。捉え難い「気」の存在も簡単に実感できてコントロールも容易になります。</p><p>このような準備を整えておけば、タオ流に経脈や経絡を通し「気」を全身に巡らしたりすることが意識的に出来るようになります。また後に述べるクンダリーニの覚醒、中央脈官の貫通、チャクラの覚醒の獲得で待ち構える障害もスムーズに乗り越えられます。これらの達成により、何よりも日々全身にエネルギーを巡らす所作が無意識的に素早く簡単に出来るようになります。</p><p>&nbsp;</p><p>こうして、「存思」による全身体の詳細な記憶。クンダリーニ覚醒による原初エネルギーの解放。エネルギーを全身に巡回させる意識の開発。そして「外気」の感知。などが全て整っていることを前提に、次のエネルギーの種類と取り入れ方、使用法についてお話しします。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>憤怒尊、静寂尊、父母尊のエネルギー</strong></p><p>チベット仏教の仏尊の名称で、憤怒尊、静寂尊、父母尊の三つがあるように、エネルギーを発生させる方法にはこの三尊に関係する三つの種類があります。</p><p>静寂尊のエネルギーは、先に示した「意（心）」の真理である「因縁」「縁起」「諸行無常」と究極の「空」を心に、静寂尊を仰ぎ、深く瞑想（言語思考を離れ）をしていると顕れてくるエネルギーの象徴です。</p><p>祈祷、念仏、坐禅をして静寂尊を観想し、仏との同一を願い、続けると、体内にエネルギーの象徴が生じてきてそれが長年次第に蓄積して行きます。</p><p>日本の顕教、密教の修行で、「空」を極めた高僧の佇まいから発してくる柔らかな光芒のようなオーラがこの静寂尊のエネルギーです。</p><p>心（意）から発生するエネルギーと言えます。</p><p>次に憤怒尊のエネルギーです。主に「口」の言語思考と関係します。</p><p>言語思考は二項分類（選択）が基本原理です。</p><p>例えば、「明るい」の言語概念は「明るい」しか無い世界では存在しません。片方の「暗い」があって初めて存在ができます。始めに感覚や意識が動き、明と暗の二項の言葉（二項分類）があり、そこから明を（選択）すると「明るい」が存在してきます。明と暗の「存在」という概念の違いもはっきりと発生します。</p><p>さらに進めると、科学は言語思考から発生していますが、物理学では素粒子より小さいものは？とか、宇宙論では宇宙の果てのその先には何があるの？の問いが生じてきます。これは先ず現状のものがあって、それと二項分類となる（よりより小さいもの）や（果ての果て）の言葉（存在）を想像するからです。</p><p>問いとは、現在の言葉による問いの先にそれとペアになる言葉（存在）を求める行為です。このようにして人は謎を解いてゆくのですが、しかし回答の終りには、ではその回答（言葉）の先には何があるの？と、又、二項分類（選択）の想像要求は際限が無いのです。これを飽くなき追求の良き人間の態度と言ったりしますが、でもこれは究極の原理と言っていながらその先をいつも問うてくる、言語思考の自己矛盾なのです。これを超越的第三者の目と先の回でお話ししましたが、どうなのでしょう？。</p><p>つまり究極の原理の探求には初めから終わりが無く、言語思考を用いてはいけないのです。</p><p>言語思考の二項分類（選択）はこのように対立思考です。対立は人間の頭脳に常に摩擦を発生させます。憤怒尊の観想をすると、何かに向い憤怒する対立自己作用が生じます。怒りにはそれと二項対立する「鎮まる」存在（言葉）が必ずあります。この怒りと鎮まるの対立が怒りのエネルギーとして現れ、その差が大きいほど爆発的な憤怒として発現されます。観想を続けると憤怒尊の激しい怒りの対立摩擦が自身の内にも招来してくる事になります。戦国武将が観想すると、憤怒が激しく大きいほど良い憤怒尊として望まれたりもします。</p><p>憤怒尊とは仏の化身ですから、その観想とは、仏の無量のエネルギーの馬力と伝播力、そしてそれを包容する無辺の仏の容量を自己の身と心に実現させる修行になるのです。</p><p>しかしこの憤怒の激しいエネルギーは、生身の人間では受け止められません。身体が壊れてしまいます。憤怒尊を観想することは、命懸けですが、自己の鍛え上げた身体感覚を生起させ、ただ、憤怒の凄まじいエネルギーの強度と深度を身体の記憶として覚えさせる事しかできません。身体に記憶すると、その記憶をベースに体内に同じエネルギーの発生を再現出来るようになるのです。憤怒尊が現前になくても繰り返し再現ができて、観想修行が進められるのです。戦国武将は小さい憤怒尊の仏像を腹に携帯したりもします。</p><p>なぜこんな無謀をするのか。これは身体が無量無辺でなければ、どうして仏になることができようか？の誓願が成仏には必要だからなのです。</p><p>ではその修行で身に得られたエネルギーで何をするのでしょうか？</p><p>その前に、憤怒尊の観想について、この記述をしているだけで、身体からメラメラと炎があがって来るようなエネルギーを感じます。記述つまり言葉ですから意識思考が言語思考の二項分類（選択）なので、対立する対象を求める心が起きてきてしまうのです。</p><p>そこからその対立意識で、例えばインドの後期密教タントラから伝わるチベット密教では、座脱という呪殺で仏敵を殺してしまうといった事が行われます。慈悲心から発せられるとしているが、日本のオウム真理教の場合では、呪殺ではなく物理的に手を掛けるというのでは、慈悲心でもなんでもなく単なる殺人事件になっています。</p><p>この様に言語思考の二項分類（選択）では意識思考が激しくねじれ、人の意識や心を極端にしてしまいます。人間の煩悩であるとすればその通りなのだが、憤怒尊の観想には、上記の静寂尊で得られる「空の智」を習得して、エネルギーを制御できなければ行わない方が賢明です。</p><p>このように憤怒尊の観想から得られるエネルギーは、口（言葉）を媒体として発生するエネルギーなのですが、身体と心の「空」を感得する事のみに用いられるべきでなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>次に父母尊（男女合体尊）は、性的エネルギー発生の象徴です。</p><p>性的エネルギーとは、セックスで得られるエネルギーです。</p><p>性行為は本能であり、男女は生まれながらに自然に他を求め合う事を知っていて、お互いがエネルギーを放出し発散することで快楽と生殖につなげています。しかし、それ以外の目的がセックスにあることなど殆どの人は知りません。</p><p>しかし父母尊（男女合体尊）の性的ヨガでは反対に、エネルギーを体内に止め、その性的エネルギーを身体の活性化や浄化に使用します。</p><p>性的ヨガの行程は先ず、究極の快感を感ずることです。快感が深く大きいほど発生エネルギーは大きく、その究極の強度を体感として記憶ができ、その身体記憶をもとに性的エネルギーを自在に発現させて、身体の浄化の鍛錬に用います。</p><p>そのためには、クンダリーニの覚醒がサポートで必要になります。</p><p>クンダリーとは、人間に生まれながらに備わり隠された生命エネルギーです。尾骶骨（ヨガ）や臍下丹田（タオ、密教）に、とぐろを巻き眠る蛇の姿で存在するとヨガでは言われています。そのエネルギーを解放することがクンダリーニの覚醒（ヨガ）です。</p><p>これは、ヨガ、タオ（道教）、密教、日本仏教（真言）など殆どの東洋の思想に共通の生命エネルギーの思考です。タオでは「下丹田の気」、日本密教では拙火（せっか）ヨガ（インド、チベット）ではクンダリーニと呼ばれそれぞれに覚醒の方法は違いますが、同じエネルギーの覚醒です。（その方法は、ネット、AI等で調べ自分に合ったものをご利用ください。精神、肉体に危険な場合がありますのでご注意ください。）</p><p>クンダリーニが覚醒すると、隠れていた生命エネルギーが露わになると同時に、身体各部にエネルギーを巡回させ浸潤させる機能も担います。外部からのエネルギー導入のサポートにもなります。そして体内巡回には、前出の「存思」などの方法で、自己の身体の様相を理解しておくと効果的です。</p><p>&nbsp;</p><p>次に性的ヨガでエネルギーを発生させ獲得する方法です。</p><p>快感は、エネルギーの強度深度に関わります。通常の性交で男女共に快感を極限に高めるために、父母尊（男女合体尊）のように、性器の結合と口唇を合わせる体勢を取ります。この体勢は、、口から脊髄を下り尾骶骨から会陰、そしてペニス、ペニスから膣、会陰、尾骶骨、脊髄を上り口へ戻る、このような両性の身体の間にエネルギーのループを可能にします。</p><p>始めは、普通の性交から始めます。ペニスで抽送を続けていると膣が感じ、エネルギーが膣から脊髄を通り口へと上り、さらにブリッジして男の口へと続き、エネルギーは脊髄を下り再びペニスの抽送へと流れる。この通常の男女のエネルギー交換の循環を続けていると、男女は次第に極限に達して、快感で女は失神し、射精は失神の前に快感を爆発させて性エネルギーが膣に流れ込みます。</p><p>究極に高まったこの方法を何日か続けていると、熟達して両性とも短時間で快感の頂点に達する事ができるようになります。</p><p>しかしこの性行為は、長く続けると、両性ともにエネルギーを放出発散し尽くしてしまい身体の消耗が激しく、病気や急激な老化を招いてしまいます。快感に引きずられ負けてはなりません。</p><p>これは、身（身体）の下腹を通じて発生するエネルギーなのですが、憤怒尊でお話ししたように、この性行為の目的は、体感で快感の強度を記憶しておく事であり、性交をしなくてもその体感記憶を取り出せば、一生自在に快感と性エネルギーを体内に発生さられる事なのです。</p><p>ここで注意しなければならない事は、セックスと死は近いので、成仏の快感と性の快感を同一視しないことです。これは単なるシュミレーションといった程度であり、誤ると堕してしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>エネルギーを体内に止める。</strong></p><p>次に、ここから生ずるエネルギーを体内に止める方法を考えなければなりません。</p><p>私は男なので、男の方法をお話しします。<br>（女性は、チベット密教のダキーニを参考にしてください）</p><p>これは先の、通常性交の男から女へ向かうエネルギーのループを逆転させる方法です。</p><p>男性から女性へ抽送や射精でエネルギーを送るのではなく、お互いの快感が高まった段階で抽送を止め、方向を変え、膣からペニスへとエネルギーを逆流させる、膣にあるエネルギーをペニスで吸い取る様に意識と体感を逆転させるのです。<br>その吸い上げたエネルギーを会陰から尾骶骨、脊髄を上り、口のブリッジから再び女性の口に送り、脊髄、膣、そしてペニスへと何回かループさせエネルギーを純化させます。それからその純化したエネルギーを脳に送ります。脳全体に浸透させてから、首を通し、上半身、下半身と身体全体に深く浸透させます。これが性的ヨガの真髄なのです。</p><p>以上、静寂尊、憤怒尊、父母尊によって、原初のエネルギーを増大させる三つのエネルギー発生法をお話ししました。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>外部からエネルギーを取り入れる</strong></p><p>次に、身体の外部からエネルギーを取り入れる方法です。 上記のようなエネルギー修行を続けていると、身体はエネルギーに敏感になって行き、身体の外部や自然や宇宙に存在する様々なエネルギーをはっきりと感知出来るようになります。</p><p>大気を始め、大木、大型動物、人間などの動植物そして岩や金ダイヤモンドなどの鉱物、太陽、月、地球、星（山川星辰）、空、雲、景色、風、気温などの宇宙自然の存在にエネルギーを感じます。<br>それを体内に取り入れる方法をお話しします。取り入れるには、身体のキャパシティと柔軟な感覚が必要です。老化とはその身体のキャパシティと感覚が衰えてゆく事であり、死とはそのどちらかが途切れる事を言います。</p><p>呼吸法を用います。先ず、深く息を吐き下腹部をへこませます。<br>地球の場合、地殻のマグマの熱や赤色を想像し、足の裏や会陰からエネルギーが流れ込んでくるように息を吸い下腹を膨らませます。一旦息を止めて次に太陽のエネルギーを取り入れます。太陽の熱を想像し、頭頂から息を吸い肺を膨らませ、同時に太陽エネルギーが肺を満たし下腹に流れ込んでくるようにします。太陽の代わりに、月や星（オリオン座ペテルギウスなど）やブラックホールや暗黒物質でも良いです。<br>肺と腹部を息で膨らませておいて、胸のチャクラで、大木や動物、人間などの地上のもののエネルギーを、次にペニスで上記の仮想の性的エネルギーを下腹部に加えます。<br>こうするとお腹は熱を感じ、下腹部を中心に吸気とエネルギーが充満しています。その熱を会陰から尾骶骨に送り、息をゆっくり吐きながら、クンダリーの覚醒の方法（小周天）で全身に巡らし各部局所に息で送ったりします。</p><p>このエネルギーの最終使用目的は、心（意）の場合と同じく、身体が「空」である事を感知する事です。副次的に健康が増進し寿命が伸びます。仙人への道ですが、エネルギーが体に満ち元気になるとよからぬ事を考えるのが人間です。そのため日常に戒律を定めています。でも戒律さえ守れば、極楽に行けて成仏ができるというのはお分かりのように早計です。</p><p>これらのエネルギーを取り入れるためには、柔軟な感覚の拡張も必要になります。<br>北斗七星のコの字の一辺に巨大になった自分が立っているのを想像する。自分が宇宙以上に大きる。とか、自分の体の内部に全宇宙を飲み込んでいる。つまり全身の表皮が宇宙全体を内側に包む様にめくれ反っていて、心臓や肝臓、腸などはその外側の周りに浮かんでいる、こんな内外あべこべを想像する。など、このように破天荒に感覚を解放するとエネルギーがよく見えてきて、取り入れがスムーズに行えます。<br>インド密教の秘密集会にある女陰の中に住まう菩薩の表現や、ヒンドゥー教の修行僧であるサドゥー（隠者）の一生腕を上げ続ける修行をする。などは極端な事例です。</p><p>そしてクンダリーニの覚醒は、同じく柔軟な感覚の開放も助けます。それは直感力・洞察力の向上。霊的能力がつく。記憶力・智慧を高める。健康長寿。神仏との合一。など様々な効力として語られますが、それに静寂尊、憤怒尊、父母尊の観想によるエネルギーの連動協働が加わると、さらに効力が確実に高まってきます。</p><p>これらを行う目的は、心の「空」と同じく、身体も「空」である事を感知する事です。</p><p>エネルギーを発現させ、感覚を開放し、身体と心に当て続けてゆくと、精神と肉体は変化して行きます。状態が尋常でなくなることがあります。異常は自覚できますので、静寂尊でした様に瞑想をして心と身を「空」に向かい鎮めるようにします。</p><p>空海は、エネルギーを利用しコントロールする方法として、言葉（字）と声（音）、吽字の三者を合わせた真言（明呪）を唱えることで、即身成仏できると言っています。（声字実相義、吽字義、即身成仏義）<br>こうして心と身体が共に「空」で有ると徹底感得できれば、悟りを得ることが出来ると言われます。悟りを得れば成仏も可能になります。生前に即身成仏する。死後に成仏する。二つのどちらでも、煩悩にまみれた輪廻からの脱出に向かうことが出来ます。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>成仏の思考方法</strong></p><p>仏教では、成仏の最終局面を説明する場合、経典や説法では、二項分類（選択）の言語思考の方法を用います。</p><p>例えば、密教の究竟次第と生起次第の統合で成仏に至る。や、自己の身・口・意を仏の身・口・意の三密に同化させる三密加持の方法で成仏に至る。など、先ず概念を二つに分類して、一つ一つを選択し説明してからそれを一つに統合する。つまり言語思考の二項分類（選択）による理解方法をとります。</p><p>仏と一体になろうとする観想も、自分と仏との二項分類（選択）です。</p><p>（特に空海は言語に巧みです。即身と成仏を二項に分類し「即身成仏」として熟語に統合するなど言語思考を巧みに扱います。でも、その二項が統合した「即身成仏」の先には何があるの？と問われて、その説明に文字（言語思考）を用いて際限なく二項分類（選択）してしまうのが言語思考の限界なのです。「即身成仏」を瞬時に理解する別の意識思考の使用を促しているのです。）</p><p>この二項分類（選択）の原理を離れ、統合と言う「一（ひとつ）」の概念に、成仏を表現しようとするその目的は何なのでしょうか。</p><p>二つでも三つでもない「一（ひとつ）」の単独では、二項分類（選択）の原理も働かず、我々はその意味を求めようとしますが、言語思考のままでは理解も表現も不能になります。かろうじて曼荼羅に理解を感じたりしますが、「一（ひとつ）」への統合は頭が空っぽの当惑状態をつくります。</p><p>成仏を理解させるために、空っぽにすることを狙っているのかも知れません。</p><p>キリスト教の三位一体でも、言語思考が不得意な、同時に三つを認識する理解を強いてこれも惑わしています。（空っぽが成仏の正体なのか？）</p><p>宗教が勃興した時代は、言語思考（読み書き）が最新最強のコミュニケーションツールであったので、言語思考の最高のテクニックが布教に現れたのだと思いますが、言葉で言葉のことを語ったり、成仏のことをお話しするのは、どうもクドクなってしまう。老人のクドさも加わってさらに酷くなる。</p><p>果たして人類は、言葉で真実や成仏を語り尽くすことが出来るものなのでしょうか。相対的な真実は本当の真実と呼べるのでしょうか。AIも納得できるシンプルな答えを出せるのでしょうか？。「真実」という言葉自体、そもそも在るものなのでしょうか。</p><p>先人も多くを語って逝ってしまい、寒山拾得も長々と詩を書き残してクドく、でも、あの中国の風狂の隠者「許由（きょゆう）」のように、枝に掛けた瓢箪の水筒が、風でカタカタ鳴り五月蝿くて捨て、手で掬って川の水を飲んだ、こうすれば気持ちがいいに違いない。</p><p>ここまで来ると次は、言語思考を「真言」にまで昇華させた「空海」のお話しをしなければなりません。</p><p>そして、輪廻転生を信じて、必死に努力し身体浄化で「空」を得たとしても、死は身体を灰に土に返してしまい、心（意）だけが輪廻転生するというのはどうも納得がいかないので、次回はそのことについてもお話ししたいと思います。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/oh3ho/entry-12908681832.html</link>
<pubDate>Thu, 08 May 2025 00:59:17 +0900</pubDate>
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<title>新・「成仏の方法」ー超越的第三者の眼差し</title>
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<![CDATA[ <p>テーマが「成仏の方法」のこのブログは、71歳から書き始めました。<br>これをテーマにしたのは、書き始めの頃、70歳にもなると余命の10年を考えるより、その先の「死んだらどうなるのか」を真剣に考えた方が合理的なのでは、と思ったからですが、それから無為に10年が過ぎ、今は80歳になってしまいました。</p><p><strong>死んだらどうなるのか？</strong></p><p>まず、「人間死んだらどうなるのか」についてですが、これまで学び続けてきた知識から、次の五つに分類されるように思います。</p><p>1.死んだら転生して、未来の時代に生まれ変わる。（同じ土地に生まれ変われるかは不明。過去へは不可か？）</p><p>2.死んだら、極楽か天国、又は地獄に行く。（成仏の手前であり成仏ではない。）</p><p>3.永遠の命（不死）を得て、この世にとどまり続ける。（仙人、隠遁か？）</p><p>4.全てが廃塵に帰し、無になってしまう。</p><p>5.輪廻を脱して、成仏する。（即身成仏など、無辺無量を心と身で実現する）</p><p>の五つです。</p><p>これを希望の順に並べるとすれば</p><p>1.や 2.の「転生や地獄」は「苦」がそのまま続くことですし、「極楽や天国」は一時は満足ですが、すぐに成仏へのスッテプアップの欲が湧いてきます。</p><p>3.の「この世にとどまり続ける。」は、老いさらばえて生き続ける「苦」なので、やはり直ちに至高の安寧に達する「成仏」の道が一番良いのではと感じます。</p><p>そこでタイトルが「成仏の方法」になった訳です。</p><p>これはタイトルの言葉そのままに、身も心も共に成仏する方法を見つけ出し、心や身体に適合させることを目指すことになります。</p><p>しかし現代日本の死に近い老人達は、己れの行く末について、幸せへの旅立ちではなく終活と考えて、死では全てが廃塵に帰し無となると思っているようなのです。この無欲に私はずっと疑問を感じてきました。そこで「成仏の方法」について、歴史を調べると、仏教、道教には楽しい成仏の方法が詳しく書かれているので、それを、現代人に理解できる姿で伝えようと考えたのがブログ「成仏の方法」なのです。</p><p><strong>臨死の体験。</strong></p><p>先回のブログでは、コロナ肺炎に罹り死にかかった私の闘病記をお話しました。その経験から分かったことも含めこれからお話したいと思います。</p><p>コロナ肺炎では、臨死の体験をしました。</p><p>死の間際には、人生の記憶が走馬灯のように次々現れるという、あの体験です。<br>この走馬灯は、現れると直ぐに消えてしまい無記憶になるのですが、次に覚めた時は「ここは何処、私は誰」の自分を見失っている意識でした。<br>よく聞く、臨死を迎えると、三途の川を歩いて行くとか、眩い光に包まれるというような幻覚はありませんでした。軽く浅い脳死体験だったのかも知れません。<br>言語記憶がリッセットされたようで、簡単な名称（名前、場所名など）が口に出にくくなっていました。再学習すれば戻って来るので、簡単な記憶障害だと思う。</p><p>目覚めの初期は、見失っている自分にしきりに問い掛けている、つまり無いものに問い掛けるという不条理な体験でした。それ以上に奇妙なのは、この一連の状況と流れを冷静に外から見ている、第三の意識（現実意識を第一、無意識を二とすると）が存在することでした。</p><p>外からは、終末期のせん妄状態にある患者に見えていたようです。</p><p>シャワーのような走馬灯記憶が流れる中で、混乱する自己意識とは別に、外から第三者的に冷静に眺めている意識があるのです。これはクリヤーな明晰夢のような記憶で、それで今この文章を書けているのですが、これはどうゆうことなのでしょうか？。前からこの「成仏の方法」のお話しの中で書き続けてきた「超越的第三者の眼差し」に似たもののようなのです。</p><p>詳しくは、<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/de12796ce0dd11a6bcc4ded98183894a" target="_blank" rel="noopener">成仏の方法（11）</a>を参照　</p><p><strong>「超越的第三者の眼差し」</strong></p><p>私が現実意識をほとんど失い（痛みも苦しみもない）、身体が死を迎える床に横たわっていても、「超越的第三者の眼差し」は、背後で常に冷静に私を見つめています。本当の死とは、この意識の眼差しが失せた時に訪れるものなのでしょうか。分かりません。</p><p>そして以前は、この「超越的第三者の眼差し」を言語思考の一部ではないかと考えていました。しかし臨死体験をした今、それに疑問を感じはじめています。　</p><p><br>では次に、過去に具体的に語られている成仏の方法について見てみましょう。</p><p>チベットの死者の書では、人は死ぬと49日間の死のバルドがありその2週目に、眩しい青い光が差し込んできます。それは恐怖を帯びていて、しかしその恐ろしさに逆らい耐えて、眩しい光に向かい意識を投げ出すと、輪廻の循環から脱しられ、成仏に向かうことが出来る。と書かれています。</p><p>これはチベット仏教の修行の一つで、それは、死の意識に似る夜の夢の中で、自在にその夢を操作するなどの訓練をして、死のバルドに備えた、シュミレーショントレーニングをします。恐れに意識を失わず、怯えず、眩しい青い光に勇気を持って向う、その「強い意識」の発見と強化の方法を教えています。</p><p>この訓練は、明晰夢を自在に見ることが出来るという方法も副次的に得られることになります。</p><p>この「強い意識」とは、「超越的第三者の眼差し」のことなのでしょうか。</p><p>これは、死んで体験してみなければ分かりません。</p><p>また、空海の成仏の方法である「即身成仏義」では、その意味通り言葉で理解する成仏の方法を教えています。</p><p>世の中の言葉で語られる経文は、全て成仏についてを教えているので、自分に合ったものを良き出会いで選べば良いのですが、その中でも空海との出会いは日本人には僥倖であり、経文、注釈の言葉で書かれた言語思考での理解だけではなく、東寺の仏像曼荼羅、高野山の伽藍曼荼羅、護摩祈祷、真言、綜藝種智院、声字実相義にある声（音）と字（書）等々による布教で、人間の様々な感覚を使う意識に様々訴える方法で成仏を教えてくれています。</p><p>そして言葉の方法である「即身成仏義」の中の次の注釈詩が成仏を具体的に語っています。</p><p>『六大無碍にして常に瑜伽六大無碍なり。<br>四種曼荼各々離れず。<br>三密加持して速疾に顕わる。<br>重々帝網なるを即身と名づく。』</p><p>と言っています。</p><p>この中の「瑜伽六大無碍、無碍、四種曼荼、三密加持、速疾」などの言葉の意味は、成仏が成就する「状態、状況、条件、方法、結果」などを表していています。</p><p>そして、空海はそれぞれの語句についての詳しい注釈をしていて、空海の言説の大凡を成す知識の集大成となっています。</p><p>膨大な語句なので、全てを理解することは不可能です。空海は言葉、言語、言語思考に格別のこだわりを持ち、それが持つ特殊な能力で成仏の全てを説明できると考えていたのかも知れません。しかし、言語思考を離れなければ叶わないとも言っています。</p><p>そして、それら全てが成就した状態を「重々帝網」と名付け、</p><p>さらに、『重々帝網なるを即身と名ずく』と言っています。</p><p>だから、重々帝網を理解すればいいという事になるのですが…</p><p>重々帝網とは、今日の言葉では、マトリックスと訳されるのでしょうが、「身も心もマトリックス」という理解は、ノロマな言葉思考だけでは届かず、別の意識の方法を借りなければならないようです。</p><p>ここまでは、心や意識の成仏についてお話しして来ました。しかし、身体の成仏も同時に求められます。</p><p>「三密加持」とは、身・口・意（体・言葉・心）を整え、「仏（観想）」と一体になり成就成仏する事を言います。究竟次第と生起次第の統合のことになりますが、ここには「口」の働きで計らう。が基本にあります。口は言葉ですから、意を理解表現することは得意ですが、身に対しては苦手です。空海と最澄の仲違いはどうもこの部分にあるようで、恵果から法を受け継ぐ空海は、「身の法」も受け継いで来ていて、これは言葉での説明で理解できるものではなく、しかし、最澄は言葉で求めたのではないかと思えるのです。</p><p>「身の法」による浄化について、インドのハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどは分かりやすいのですが、空海の場合、文字で書いてあるのに言語思考では殆ど理解ができません。言葉で分かっても身体で感受できなければ意味がありません。</p><p>ここでも別の意識を働かせなければならないようです。</p><p>このあたりの消息は、ブログ<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/b8ec76a6be030b0865ff659649f0f10a" target="_blank" rel="noopener">「成仏の方法（1）～（14）」</a>をお読みください。</p><p>お読みください。と言いましたが、字数も多く知識が無ければ内容も分からず、途中で読む気が失せてしまうと思います。<br>この失せる理由は、説明が言葉（言語思考）で書かれているからです。</p><p><strong>言葉は、不完全でノロマなツール。</strong></p><p>言葉は、不完全でノロマな伝達・理解ツールです。このことを現代人は、理解も自覚もしていません。反対に、己の読解力の不足とも思っています</p><p>「言葉での理解が、現代人の理解の全てになっている」と、このブログではお話ししてきました。言語に寄らなければ社会的には伝わらないから、修羅万象を言語に翻訳し伝えることが習いになっているのですが、この方法が、有史以来人類を発展させて来たので、幼少から勉学の努力を続けてきたのに、まだ読解力が足りていないと思うせいで、言語のノロマ性を認めることが出来ないという事なのでしょうか。</p><p>流行りのAIも、プログラミング言語と名付けられているように言語思考をベースにしていますので、言語思考の発展形です。だから、言語思考のノロマ性が複雑化して行くだけで、ますます人類はこれまで以上に言語のノロマと不完全性に惑わされる事になって行きます。</p><p>詳しくは、<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/de12796ce0dd11a6bcc4ded98183894a" target="_blank" rel="noopener">成仏の方法（11）</a>を参照</p><p>このAIについては、このブログで引き続き、言葉の代わりになる伝達手段の発見と創造？についてお話ししようと思っていましが、突然のコロナ肺炎の罹患で中断させられ、発見に至らず、この文章をノロマな言語で書いているこになっているのです。</p><p><strong>幾つもある意識・思考。</strong></p><p>人の意識や思考、知性には、言語思考をベースにする「ロゴス」と無意識をベースにする「レンマ」があると、中沢新一著「レンマ学」で知りましたが、仏教の知性から見ると「レンマ」だけではなく、他の意識や思考が幾つも、人には生まれつき備わっているのでは？、ともお話ししました。</p><p>詳しくは、<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/6d712fb9ede0cf774e9e5e885adce18b" target="_blank" rel="noopener">成仏の方法（10）-2</a>を参照…</p><p>しかしコロナ肺炎の罹患でも新しい発見がありました。それは、「超越的第三者の眼差し」とは、言語意識の一部なのか、それともロゴス、レンマなど、その他の意識群の一つなのか、それとも全く別の次元のものなのか？　そして成仏の方法に関係があるのかどうか？、分かりませんが。この疑問です。</p><p>80歳になって、このような人生最大の疑問が生まれてきていて、その確証は死んでみなければ分からないというのでは、成仏を目指すどころか、輪廻で死を何度も繰り返し、必ず人間として転生し、思考と探究をしなければならないことになる。つまり、転生の後もノロマな言語思考に付き合わされるのを覚悟する。という事になるのですが、勘弁して欲しい。でもこれは何かの天啓と思えば良いのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/oh3ho/entry-12908681829.html</link>
<pubDate>Wed, 24 Jul 2024 14:06:21 +0900</pubDate>
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<title>私のコロナ肺炎闘病記</title>
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<![CDATA[ <p>コロナウイルスとは何でしょう。<br>世界特許まであるのですからコロナウイルスは、発生の経緯から見て、人工販売物です。だから世界経済に組み込まれ、国際機関は情報として世界に頒布させるので、感染力とともに、国際政治・社会の問題として流通します。そこからはロックダウン、マスク、恐怖、経済停滞が生まれ、社会が混乱し、国家もそれを容認推奨するので、結果、世界犯罪ではないのかという疑惑すら生まれる事態になっています。</p><p>このように流行伝染病が政治や経済に深く組み込まれるのは、21世紀人類の営みの特徴なのですが、今、コロナウイルスを語る場合はこの視点からの論調が多く、無駄な論議も重なり、他の社会問題と同じく解決不能の現実問題の一つとなリ、不安の種が尽きません。<br>&nbsp;<br>しかしコロナは、政治や経済に関係なく、ウイルスに罹ると死を招いたりする私的な問題なのです。だから病状を離れ政治論議を盛んにするのもおかしな話で、またワクチンも問題になっていますが、それもコロナの症状がなければワクチンもないのはずなので、ここでは原点を戻し、コロナウイルスの病気に罹るとはどんな経験なのかを語れば、何もかも全てが見えてくるのではないか？。<br>&nbsp;<br>こう考えて、私のコロナウイルス闘病記をお話ししようと思います。<br>&nbsp;<br><strong>突然、コロナに罹ってしまった。</strong><br>&nbsp;<br>2023年8月、コロナウイルスの何番目のバージョンに私は罹ったのだろうか。二回ワクチンを接種したが、ワクチンが効かずコロナに罹ってしまった。<br>&nbsp;<br>その経緯は、 &nbsp;<br>妻の勤務で、私が送り迎えする車の中で<br>「咳や声が酷いのに、早く帰れと言っても帰らず、勤務中、あの人そばに居続けてすっか感染してしまったわ！！。」<br>と、妻は言った。<br>&nbsp;<br>帰宅中、30分程の同乗の車の中で、<br>その時「私はコロナに感染した。！」と感じた。<br>インフルエンザと同じく、罹ったと身体が認識するあの直接感覚だ。<br>これがこのコロナの暴力の始まりになった。<br>&nbsp;<br>先ず、現年齢は、79歳。<br>日本の中都市での話である。<br>&nbsp;<br>罹ってから二日後、午前、急にフラフラしてまともに立ていられなくなってしまった。<br>咳もなく喉や体にも痛みがなく、ただグッタリしてしまっている。<br>熱は無いが、40℃の高熱で意識が朦朧として立てなくなるあの症状と同じだ。<br>救急車を呼ぶが38℃が三日間続かなけれ行けないと断られる。妻は怒っている。<br>薬局でロキソニンを求める。今の日本国民は皆なそうしてるらしい。<br>コロナには治療薬がないのだから、この対処薬で対応するしかない。<br>しかし反対にロキソニンで体温が上がるのを妨げてしまった様だ。救急車が呼べない。<br>&nbsp;<br>午後になっても、体温は上がらず、でもふらふらして立ってはいられない状態が続く。横になるのも苦しい。でも意識はしっかりしている。<br>&nbsp;<br>救急車を呼ぶ要件をはみ出してしまい、再度、妻の必死の電話要請、でも救急車は来てくれない。対処薬で良くなるつもりが、事態は反対に動いている。<br>&nbsp;<br>コロナウイルスには治療薬がなく対処薬しかない。重症のまま救急医療機関に見放された実感。起こっていることが信じられず、危険に身構えようとするがそうできない弱った身体の自分がいる。意識は正常に働いている。<br>&nbsp;<br>妻が頑張って、救急患者を受け入れてくれる共産党系の病院を見つけた。たまたま心配して駆けつけた妹の車で、その病院に半分意識のない私を運んでくれた。<br>&nbsp;<br>妻の肩に掴まり、ヨロヨロ、その病院に入る。</p><p>&nbsp;ストレッチャーに載せられる。簡単な診察の結果。コロナウイルスによる急性肺炎と診断される。しかし当病院では対処できないので他の病院を捜すことになる。市中の或る大病院に受け入れを要請して返事を待つ。一刻を争うが、1時間経っても受け入れの返事が来ない。その間、病院の廊下でストレッチャーに載せられたまま放置される。やむなく次の候補の県立病院に打診を続け、受け入れが決まる。そこで初めて救急車が呼ばれた。その頃には意識も薄れて来ていて、断片的な記憶しかない。<br>救急車ではガタガタ揺れた。県立病院では、CT、レントゲンなどの検査を受けるが、朦朧とした記憶しかない。<br>医局長から診断結果と治療法の話を妻と二人で受ける。意識が朦朧として半分も分からないが、かなり重症の肺炎で命も危ないらしい。<br>気管挿管か、最悪、気管切開に進むかもしれないと言われる。<br>&nbsp;<br>とりあえず、投薬と最新の治療、「ネーザルハイフロー」が試される。&nbsp;</p><p>………………………<br>「ネーザルハイフロー」とは：</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250606/15/oh3ho/c3/7d/j/o0120009015610962258.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250606/15/oh3ho/c3/7d/j/o0120009015610962258.jpg" align="left"></a>患者の鼻に管を装着し、加湿・加温された最大100%の濃度の酸素を、1分間に約40リットルという高い流量で投与する治療法。<br>一般的な酸素マスクなどと比べると、投与できる酸素の量は数倍。これまでだと人工呼吸器を付けざるを得なかった状態の患者を次々と救っている。<br>………………………</p><p>そして薬剤は、ステロイドの大量投与治療がなされた。これはコロナウイルス肺炎には有効とされる方法である。</p><p>治療中、ほとんど意識が無く、記憶もない。</p><p>そして多分、臨死体験を経験してしまった。その記憶だけがはっきり残っている。<br>死の間際、過去の記憶が走馬灯のように現れてくると言うが、私の場合、<br>目の前に大量の魚が現れ消えてゆく映像から始まり、過去の映像記憶が次々に大量に現れてきた。あっ、これ、臨死体験だと思った瞬間、全てが消え失せ、無記憶に戻ってしまった。</p><p>そして、次に意識が戻ると「ここは何処、私は誰。」と、自分の意識に問いかけている自分がいた。</p><p>問いからすると、ここは何処（物理的な）、私は誰（社会的な）の記憶が無いらしい。自分を見失っているのに、その失った自分に問いかけている妙な感覚がある。何に向かい問いかけているのだろうか。この問いを発する意識が無くなると、本当に自分を見失なって死んでしまうのだろうか。さらにその上方には別の意識がある、この全体の行為を俯瞰して見つめている冷静な意識だ。</p><p>以下は、回復後、妻から聞いた話と、私の切ぎれの記憶とを継ぎ合わせてお話しします。</p><p>どうもその問いの行為の間中、「終末期せん妄」が起きていたらしい。</p><p>「終末期せん妄」とは：<br>………………………<br>せん妄（もう）は、脱水、感染、貧血、薬物など身体に何らかの異常や薬剤を原因として急性に起こる意識障害であり、例えば朦朧 （もうろう）としていて話のつじつまが合わない、怒りっぽくなり興奮するなどがみられます。終末期がん患者さんの30～40％に見られる症状であり、看取りの時期には患者さんの90％に見られ、 ほとんどの患者さんが経験すると言われています。<br>………………………</p><p>せん妄を解くために、病院から私の妻宛に、病人の身の回りのものを持って来て欲しい。自分が確認できるものを…と連絡があったという。</p><p>その間二日ほど、昼間は、うつらうつらとして「ここは何処、私は誰。」を自問し、時々、目が覚めた。せん妄を起こしている記憶は一切ない。そのわずかに目覚めた時、ベットの脇のテーブル載せてあるiPhoneに無意識に手が伸びた。<br>画面を眺めると、自分が誰であるのかが分かった。入院しベットに寝かされていることも分かってきた。そして無意識半分に、妻にLINEを送った。</p><p>これから以降、症状の具合、病院での出来事などを、LINEで逐次、妻に報告することになった。自撮り写真も撮った。つまりオンライ実況入院生活を始めることになる。</p><p>LINE Talk<br>私：看護婦全員最悪です。<br>人間扱いしてくれません。誰も口先だけです。</p><p>最初のトークがこれです。<br>こんなLINEを、なぜ送ったのか。？</p><p>後で知ったのですが、私の主治医は30歳ぐらいの女医さんでした。切れぎれの記憶中では、私を、まるで死体のように、ぬいぐるみの人間のように扱っていた。痰切りディスポーザーの管を鼻から差し込み溜まった痰を吸い出す。死んだ方がましと感ずる程、それはそれは酷い痰切り治療を、私が目覚めていることなど確認もしないで、「こうするのよ」と、ぞんざいな言葉遣いで同僚に教えながら、荒っぽく鼻の穴に差し込む。激痛に足をバタバタさせ耐える。死んだ方がましと言葉で叫ぶ。</p><p>どうもこの時点では、私は、死ぬ予定の患者らしい。</p><p>後で気がついたことなのだが、30歳そこそこの女医に任せるということは、回復の見込みのない患者ということではないのか。経験を積むために死ぬ間際の患者が回ってくるポジションの若い医者ではないのか。日常的に死の宣告を繰り返す、しかしまだ慣れていない無神経からくる冷淡ではないのだろうか、と。</p><p>翌日、入院三日目。次のLINEトークを送った。</p><p>私：ところが、今日は手のひら返しの様です。</p><p>看護婦の対応が優しくなって、前日とは違って来たのです。<br>今日は、体温も高くなく、血圧も正常値に戻り、胸のレントゲン撮影がありました。<br>結果について、医者は何も言ってくれませんでしたが、看護婦が、検査の結果良いようですね、と後で言ってくれました。以降、病状についての情報は、医者からではなく、看護婦の言動から読み取るようになりました。</p><p>看護婦の優しさと患者への気遣いなど、行動の変化で、ひょっとして死の危機を脱したのかも知れないと感じていました。</p><p><strong>★入院四日目</strong></p><p>今日は、妻と遠方から駆けつけた息子達の家族が病院に呼ばれ、医者から病状を告げられていました。<br>でもコロナなので私との面会は出来ません。<br>後で聞くと、予断を許さず、後二、三日が山であまり良くない話だったそうです。<br>痰が胸に溜まり、激しく咳が出て来ました。それから突然、iPhoneの設定がおかしくなりLINEができなくなりました。</p><p>しかしその故障の間も、病状は一進一退のようでした。意識は、朦朧としていて、鼻に付けられた「ネーザルハイフロー」の管が煩わしく、少し目覚めると、位置をずらすことに夢中でした。「ここは何処、私は誰」の意識は、完全に無くなってはいませんが、でも不思議に、命が無くなるのではの恐れは少しもありませんでした。身体が大丈夫の信号を送り続けてくれていて、不安な気持ちが起きませんでした。</p><p>★入院生活六日目になりました。</p><p>看護婦に修理を頼んでいた、表示がバグっていたiPhoneが治って戻って来ました。</p><p>コロナでは面会が許されないので、それからすぐに、LINEビデオで、家族全員と話すことになりました。危機を脱したので、一旦、それぞれの家に帰っていた家族が、再び遠方から集まって来ていました。</p><p>コロナ肺炎の病状は、看護婦が驚く程に、快方に向かっていました。そして、その頃から、食事が始まりました。フルーツゼリーのみの食事ですが、しかし、それすら飲み込めない嚥下障害が始まりました。多くの痰が胸に溜まり、声が掠れ、痰の動きで激しい咳が続きました。<br>これらは、主にはコロナ肺炎から来るが、コロナウイルス感染の後遺症でもある。との看護婦の認識でした。</p><p>現在の栄養は、一日、3〜5本の点滴からとっています。<br>病気からの回復には、食事から栄養を取り体力を回復させなければなりません。しかし嚥下障害で食物が喉を通りません。毎日、食事時間になると体力回復を言われ、努力をしますが、ゼリーを飲み込もうとすると、喉を通らず、猛烈な咳が出て、痰が出て、あまりの酷さにぐったりしておさまるのを待つと言う風で、それを繰り返して、ようやく一口飲み込むのに30分はかかります。<br>さらに、薬も毎食後2〜4錠、1錠づつ、とろみ剤入りの水で嚥下に10分程かかります。</p><p>点滴で、ステロイドか抗生物質の投与もありました。（後で知りましたが、ステロイドは初回投与から7日以降の再投与は効果がないと聞きましたのでどちらか分かりません）そして、胸のレントゲン撮影、その結果は、看護婦から結果良いようですよと聞きました。主治医の女医は毎日来るのですが、病状については何も話しません。私もあえて聞こうともしませんでした。</p><p>驚くことにその時は、その人が主治医の女医であるとは知らなかったのです。普通は初めに、担当の〇〇です。と紹介があるのですが、ありませんでした。あったかも知れませんが、意識が朦朧としていた私が覚えている筈もありません。それに看護婦と同じ白衣を着ていて若く、私は、日によって入れ替わり現れる、ちょっと無愛想なでも熱心な看護婦の一人と思っていました。</p><p>病状が改善していると知り、次は、煩わしい鼻に入れられた「ネーザルハイフロー」の管がいつ外されるのか！。に意識が集中しました。病状が改善している事が分かり、身体も穏やかになり異常を感じていないことから、その管の取り外しが何日になるかが、ベットに横たわったままの私の唯一の関心になっていました。</p><p>今身体に装着されているのは、鼻に「ネーザルハイフロー」の酸素供給機の管、胸に心電図、両腕に点滴の針、尿道に管、そしてお尻にオムツなど、絡め取られていて身動きが出来ません。</p><p><strong>★入院10日目</strong></p><p>今日は朝から、ナースコールをしても誰も来てくれません。放置プレー状態です。<br>10時頃、慌ただしく例の女医が現れ、荒々しく、私の鼻に差し込まれている「ネーザルハイフロー」の管を抜き取りました。装置の電源を切り部屋の隅に移動させました。心電図などのコードも外して、何が始まるのか？、それから、私が寝ているベットを病室の出口まで押して運び、そこに放置したまま、外に出て行きました。その間一言も発しません。5分程して戻って来ました。そこで、「私をどうするのですか。」と少し怒気を含んで尋ねました。彼女は「あなたは、我儘な患者ですね」と吐き捨てるように言ってから、忌々しそうに「新しい病室に移ります」と言いました。私は「患者はね、こんな重症初めて経験するのですよ！」と言いました。</p><p>ベットに寝て廊下に出ると薄暗く死体置き場に続く廊下のような感じで、しかし、次のドアを開けると明るい光が満ちていて、未使用のベットが乱雑に置いてある広い部屋に出ました。そのベット群を、私のベットで押しやり通り道を作り前に進んで行きました。次の部屋に入ると、後で聞いたのですが、コロナ隔離病棟から一般病棟に移ったのです。と言われました。</p><p>その間も女医は無言でした。途中、サポートに来た男の看護師から、ここはパンデミックで入院患者が増えても対処できるように、たくさんベットが用意されているのです。と聞きました。</p><p>一般病棟は、明るく、5階の窓にはカーテンが掛かっていて、快適な様子です。早速、看護婦がやってきて、体温と血圧を測って行きました。事の早さにしばらく戸惑っていましたが、私には快方に向かっている。と安心もやって来ていました。<br>ナースコールを押しても、看護婦はすぐにやって来ました。前の隔離病棟では、呼んでも直ぐには来てくれず、時には20分間放置プレー状態もありました。病棟の隅の方にある薄暗い陰気な病室では、早く行く必要がない患者であった事がよく分かりました。</p><p>その陰気な部屋で、オムツに冷たくなってゆく排泄大便を抱えたまま、天井を眺め20分もベットで放置プレーを経験するのは、なかなかにシュールな体験です。</p><p>それから、退院までの10日間程は、酷い痰と咳、嚥下障害が続き、ほとんど食事も摂れず、薬も上手く飲み込めず、点滴の栄養で体力をつなぐ状態が続きました。</p><p>しかし、激しい痰や咳、嚥下障害の苦痛の改善を訴えても、何故か医者も看護婦も病院側には治療をしようという動きが見られませんでした。コロナ肺炎を治せばそれで終わりという態度でした。</p><p>そして、退院二日前に、ようやく例の女医の名前を初めて知ることになりました。<br>ここまで、女医について、悪いことばかり書いて来ましたが、本当は感謝で一杯で、来るたびに「ありがとう」の言葉を心で発していました。両手を合わせ後ろ姿に感謝をしたこともありました。</p><p>そして、初めの臨死体験とせん妄状態から、意識も戻り、治療が続いた一週間程、回復が確実になると、私の精神に変化がやって来ていました。</p><p>看護婦が来て何か世話をしてくれると、私は必ず「ありがとう」と掠声で感謝の言葉を発するようになったのです。意識の回復以来、こんな殊勝な感謝の気持ちが発生していて、無意識に語尾には必ず「ありがとう」の言葉が続くのです。今思っても、自分の素直で自然な変化に驚き、後で妻に「私は、病気で善人に生まれ変わったよ。」と、半分の真顔で伝えた程の変心でした。<br>しかし、これを書いている今は90％元の自分に戻っていて、あの時の殊勝な自分は懐かしく尊い経験だったと感じています。</p><p>そして、今も時々、あの女医のことを思い出します。まだ若い30代前半を、死ぬと分かっている患者と毎日対面し死を看取り、これは思い過ごしかも知れませんが、死を免れた私のような患者には忌々しさを感じてしまう様子に、これからどんな成長が待っているのだろうか。覚悟して入った道だと思うが、心を正常にこれからも保ち続けていけるのだろうか。</p><p><strong>★入院20日目</strong></p><p>次のリハビリ病院に転院することになりました。<br>妻とのLINEも毎日しています。LINEを読み返すと入院の記憶が蘇ってきて、このブログを次々書くことができます。</p><p>しかし、約一カ月間ベットに寝たきりなので、一歩も歩けなくなってしまいました。<br>コロナのために発病後初めて顔を合わせる妻に車椅子に乗せられ、介護タクシーで逃げるように次の病院に向かいました。</p><p>現在、日本での病気の治療は、治療型病院（一般病院）と療養型病院（リハビリ）に分かれています。病状の回復で、私は、治療型の病院から、次の療養型病院（リハビリ）に移ることになりました。</p><p>ひどい嚥下障害と咳と痰で、食事が十分に摂れない症状は、前の病院では治療を忌避されたのですが、このまま栄養が摂れなければ私には命に関わる重大な症状になります。これを治療する病院がココになる。との自覚を感じました。</p><p>この療養型病院（リハビリ）では、患者をサポートする役割ごとに分担がありました。</p><p>⚫︎主に午前中、病状の確認に三、四人をお供に回診してくる「医局長」。<br>⚫︎実際の症状ごとに治療にあたる「担当医者」。<br>⚫︎毎日、患者の様子を確認し、体温と血圧を測り、腕の血管に針を刺し点滴をセットしたり、また、薬を届けに来て服薬を確認する「看護婦（士）」。また、妻との面会もセットしてくれます。<br>⚫︎患者の基本動作能力の回復や維持、自立した日常生活が送れるよう支援するリハビリテーション療法を行う「理学療法士」。<br>⚫︎歩けないので排尿排便はオムツの中にしてしまうので、汚れたお尻を綺麗に拭き取り、新しいオムツに変えてくれる3人チームの介護士。毎食ベットまで食事を運んでくれたり、寝たままの色々な不都合にもナースコールで呼ぶと来てくれる優しい便利屋さん。東南アジア系の外国人もいます。<br>⚫︎ベット周りを三日に一度掃除に来る「掃除係」、チリ箱も空にして行きます。<br>⚫︎三日に一度、お風呂（シャワー）をサポートしてくれる人。歩けないので洗体は困難な動作なのです。</p><p>などなど、勤務スケジュールで日々、時間ごとに、変わるがわる私のベットのやって来ます。1ヶ月で延べ20〜25人程の大勢になるのか、大掛かりの体制で、今度の病院では、全ての人が熱心で優れた医療看護の技術でサポートされました。</p><p>この歳になると人との交わりも少なくなり、日常は、妻との会話やショップ店員と言葉を交わす程度ですが、病を得た病院では、毎日、6〜10人程と会話を交わさなければならない雪崩のような負担になりました。別の世界に行ったような感覚でしたが、抗う暇もなく私はシステムに取り込まれてしまいました。しかしまだ対応できる、こんな若い自分がいたのだと逞しくも感じていました。</p><p>痰と酷い咳と掠れ声、そして嚥下障害は相変わらずで、ずっと点滴で体力を繋いでいました。<br>嚥下障害は、レントゲンの嚥下造影検査で、嚥下の時、喉仏が上下に滑らかに動かない事が分かり、回復には時間がかかるという診断でした。</p><p>嚥下障害を治す直接の薬剤は無いようで、痰切りや咳止めなどの対処薬と「嚥下訓練」で治さなければなりませんでした。</p><p>ここで重要なのは、未だ残っているコロナ肺炎のわずかな残り症状の改善と体力の回復です。<br>この治療には、「理学療法士」が担当になりました。</p><p>「理学療法士」は西洋医学の名称です。座る、立つ、歩くといった基本的動作能力の回復を図るために、一般にはマッサージや器具を使うなど運動療法や物理療法で治療をします。</p><p>私の担当は「理学療法士」の名称ですが、彼は、西洋医学の方法を従にして、東洋医学流の手の平で身体を触り、違和感のある部分を特定し「ここが凝ってます」と、指先で特定し、部分を揉みほぐす治療をしました。確かにその部分を触られると、肺全体が和らぐような感覚がしてきます。</p><p>私は、40代の頃、慢性気管支炎と言われました。肺は再生しない器官なので、これ以上悪くならない、又、肺炎になっても酷くならないように、日々、肺のトレーニングをして来ました。</p><p>それは、タオ（道教由来）の「存思」の方法です。<br>自分が、小さな細胞大の小人になって、身体のあらゆる場所を見て回る方法です。解剖図を思い浮かべながら、例えば、肺なら喉から気管支を通り、肺胞に入り、その表面様子と細胞の感触までも入り込んで観察する方法です。自分が小人ですから、私の感覚器官と同じ感受で、触る見る舐める嗅ぐなどが可能です。40年前から、就寝で床に入ってから15〜30分程、足の指先から、頭頂まで、身体の隅々まで、手塚治虫の体内冒険の漫画のように巡り、いわば詳細な体内地図を身体記憶にして来ました。</p><p>体内地図の記憶は、例えば、右の足の親指の付け根と意識すると、直ぐにその部分に意識を持ってゆく事が出来るようになりました。</p><p>例えば、肩こりの場合、その部分に意識を集中させ、地声の小さい声で振動を与え固有の周波数に合わせると、患部に熱を感じさらに狭い範囲に特定されます、吸い込んだ息をその部分に吹きつけ、さらにそこに手の平を当てると、患部がさらに熱を持ってきます。そこで、深く息を吸い、その患部に息の塊をしばらく停滞させ、ゆっくり息を吐くと、患部のしこりが溶けてゆくようになり、さらに息を吹きかけ、少し熱を冷ますようにします。すると、ぐっすり眠れて翌朝には、肩こりは解消されています。こんな風に、歯痛のような細菌性由来ではない身体の凝りや痛みは、この方法で解消ができます。</p><p>この方法は、中国、インド、チベット、日本など東洋医学に共通の「気」をコントロールする方法です。この東洋医学の方法は、西洋医学が優位の昨今、お話しするだけでオカルトっぽく言われあまりお話ししたくないのですが、次のことを考えてみてください。</p><p>私たちの「命」を考えてみてください。<br>西洋医学では、手術、抗生物質やステロイドなどの強力薬剤で治療ができても、患者が死ぬ事があります。これは病気が治っても患者は死んだ。という例で、つまり西洋医学も命の最終は、患者の体力や免疫力に頼っていて、手術や薬だけでは命を守れないということになります。</p><p>一方、東洋医学では、死（命）とは、身体を巡る「気」が失われることを言います。<br>そこで、東洋医学では、日頃の健康維持（気の充実）や病気（気の衰え）の予防に重点を置きます。<br>「気」には二種類あります。生まれた時に授けられる「元の気」と身体の外（環境）に溢れている「外の気」の二種類です。「元の気」は、幼少若年期壮年期の身体の成長と維持を助けますが、老年になると徐々に衰えて、失われると寿命が尽きるということになります。しかし老衰でそうなる前に、ほとんどの人は、外部からの細菌やウイルスの侵入、生活習慣の偏りにより、特定の内臓器官に気が巡らず侵され、それが原因で命を失い、寿命を全うすることが稀になっています。<br>この後者は疾病と呼ばれ、西洋医学が得意とするところであり、手術や薬剤が対応し治療します。前者は東洋医学が得意とするところで、西洋医学ではリハビリテーションがそれに近いのですが東洋医学のそれには及びません。</p><p>「気」を充実させ身体を丈夫にする方法は、インド、中国、チベットなど、東洋では古代からの知識の積み重ねがあり、詳しくは、当ブログを参照するか、Google検索をしてください。</p><p>私の場合、老年で「気」が衰えたところに、コロナウイルスが襲い、「コロナ肺炎」の疾病に罹り命が危険になり、西洋医学の最新の治療「ネーザルハイフロー」や薬剤の「ステロイド」大量投与により命を救われたのですが、治療型病院で回復が確認されると、療養型病院に移りその後のリハビリテーションを施されることになりました。</p><p>老年になると「元の気」が失われと言いましたが、その考えが西洋医学にはないので、この年（79歳）になると、西洋医学のリハビリテーション施術のみでは「気」の回復が困難になり、このまま衰えが回復せず、死ぬまで寝付いてしまいかねません。どうしても「元の気」を補うためには、「外の気」を取り入れることが必要になります。</p><p>「外の気」には、種類があります。男女の人間。動物、樹木、岩、川、大気などの自然物。太陽、月、星などの宇宙。があります。また「元の気」は、セックス、怒り、瞑想などで強化できます。<br>そして、それらの「気」はそのままでは荒いので、体内で浄化し全身に回さなければなりません。</p><p>先の「存思」の方法で、身体の体内地図を記憶して来ましたので、身体をくまなく巡る経脈（縦）絡脈（横）に「気」が流れる様子を、特別な訓練をしなくても把握できるようになっていて、尾骶骨から脊髄を通り頭頂に至る督脈（経脈）も通るようなり、頭頂に意識を置くとすぐに、全身に「気」が回るようにもなりました。</p><p>しかし酷い症状で、体力も気力も痛めつけられたためか、私は、ウイルス肺炎の患部に意識的に「気」を送ったり、全身に「気」を回すことが出来ないでいました。<br>しかし、私の担当の「理学療法士」は、手で身体を触り、ウイルス肺炎で凝っているその背中の箇所をここですね。と特定してくれました。私は、ベットに戻って、呼吸で「気」をその箇所に集中して送り、肩を捻って手の平を当て、ハンドパワーも送ることをしました。さらに、地声で様々な周波数の声をそこに当て、共振をする地声を特定し、同じ高さ（周波数）の地声を長く発して、そのポイントに「気」を止め強くするようにもしました。<br>そして、全身に「気」を回すことも出来るようになりました。<br>ベットに寝ながら、何度も「気」送る作業を続けました。三日目には、その部分の凝りが和らぎ、身体全体に気力と体力が戻って来ました。<br>毎日、担当の「理学療法士」による施術がありましたが、短期間に凝りが和らいでしまったことに驚き、どうしてと尋ねてきました。「存思」の小人で身体を巡る方法を話すと、素直に納得してくれてその反応に私も驚きました。</p><p>今日の西洋医学の医者は、患者の身体を触ることをしません。体温、血圧、血液、心電図、レントゲン、CTなどの検査データを眺めて診断し治療します。<br>一般に西洋医学の「理学療法士」によるリハビリの方法は、医師の診断を見て、主に洋式マッサージや運動、運動器具補助具、聴診器などを使い、座る、立つ、歩くといった基本的動作能力の回復を図りますが、私の担当の理学療法士は、先ず東洋医学流に手で身体を触り、患部や症状を特定し、そこの凝りをほぐす方法から始めました。そして次にその知見から適正な西洋医学流の療法を行っていました。そのため　私の話がすぐに理解できて、その方法も詳しく聞いて来たのです。</p><p>私の小人になる「存思」の方法を詳しくお話ししました。<br>それから彼の「理学療法士」としての話を聞きました。自分は、手の平で患者を触ってきて、何百人分もの身体の記録（記憶）を持っているが、言葉で記録できないので後輩や他者にそれを伝える事ができない。と、お話ししていました。<br>これは、「存思」の方法についても同じことで、時にこの話を始めると気まずい空気になる事があります。しかし、現実には西洋医学のリハビリテーションの考え方が、どんどん東洋医学に近づいていることに人はあまり気づいていないようなのです。物理学では、量子論という、もう東洋思想とは酷似の理論が実用に使われているのですが、まもなく西洋医学にもその流れやって来そうな気がしています。</p><p>西洋医学は医学論文のように言葉で伝え理解される科学の分野なのですが、最先端では、コンピューター言語という純粋に言葉の思考から生まれた「AI」があり、これまでの言葉ベースの科学情報を越えようとしているのを見ると、彼による手の平の記録（記憶）や私の「存思」の方法が、この「AI」によって言葉（情報）にされ、他者にその言葉（情報）で伝える事ができるようになるかも知れない。とも思うのです。</p><p>体力と気力が向上を始めました。いよいよ嚥下障害の改善です。<br>食事中は、誤嚥で肺炎を招かないように注意します。<br>嚥下障害を直接治療する薬は無く、咳止め、痰切り、血圧安定の対処療法の薬投与があるだけです。</p><p>理学療法士にも特段の方法はなく、担当医師からは運動療法を勧められました。</p><p>⚫︎ベットに寝た状態で、頭を起こし自分の臍を見る運動を3回3クール行うこと。<br>⚫︎ベットから、乗り降りをし、下半身に力をつけること。<br>⚫︎喉の前で、両手を合掌し強く押すと嚥下の部分に意識が行くこと。（東洋医学流）<br>です。<br>その全てを行うことにしました。中でも、強く合掌する方法は、喉の前に持ってゆくと、嚥下障害の部分に意識が向かい特定できます。その箇所に「気」を、私の「存思」の方法を試してみました。</p><p>3日程、全てを試すうちに、果実ゼリーの食事が、支障なく出来るようになりました。</p><p>すると、体力がついてきて、回復の好循環が始まる兆しをハッキリ掴む事ができました。<br>担当の医師は、早い回復に驚いていましたが、誤解を招くので「存思」の方法のことは黙っていました。<br>一週間程で、軟食になり、すり潰した食材を取れるようになりました。<br>しかし、薬は、真水では強くて、とろみ剤入りの水で服用を続けました。</p><p>さらに体力と気力をつけるためには、「元の気」だけでは足りないので、「外の気」を取り入れなければなりません。<br>早朝に廊下の先の窓辺で、朝日を浴びたり、呼吸法で頭頂、足の裏、全身の毛穴から、意識して、「気」を胸から下腹に集め浄化し、そこから「気」を全身に行き渡らせるようにしました。</p><p>そしてそれを続けていると、次の軽い軟食に進歩しました。</p><p>レントゲンの嚥下造影検査では、嚥下で喉仏が普通に上下していて、医者に驚かれました。</p><p>そして、さらに続けて転院15日後には、普通食になりました。</p><p>食事の充実と共に、気力体力が回復し、ほとんど歩けなかった歩行も、短い訓練で、廊下を歩行機（点滴棒）のサポートで歩けるようになました。さらに、自転車漕ぎの運動で足の筋肉をつけ、補助具なしで、まだ心許ないのですが、急速に歩行が回復してきました。</p><p>病院の廊下を一回りから始めてすぐに三周は簡単に出来るようになりました。<br>すれ違った看護婦が驚いていました。<br>理学療法士の彼も、こんなに急速回復の患者は初めて、と言ってくれました。</p><p>転院から20日、発病から40日め、待望の退院となりました。</p><p>今思うと、日頃から、慢性気管支炎の予防に、日々の訓練に「存思」の方法を用い、それが深呼吸を繰り返すことにつながり肺を強くしていたこと。それが今回のコロナ肺炎の致死を食い止め、回復には、その「存思」の方法を試したことで、医師も看護婦も理学療法士もが驚く結果をもたらしたのだと思います。</p><p>まだまだ、同室の患者で、せん妄で一日中喚く者、日に日に言葉が弱々しくなって行く患者のお話。また、毎日の点滴注射で私の両腕が荒れてしまい、点滴針が刺せなくなって困った看護婦のお話、などもしたかったですが…。</p><p>退院のタクシーでは、見慣れた街の景色が新しいもののように感じられていました。</p><p><strong>★コロナ後遺症</strong></p><p>家での療養が始まりました。妻の食事に安堵しました。<br>杖をついて散歩の歩行訓練を始めました。</p><p>しかし、退院10日後（発病2ヶ月後）の病院の薬が切れた段階で、いわゆるコロナ後遺症の症状が現れてきました。<br>睡眠障害、うつ症状、時々頭痛、味覚障害、記憶障害、そして軽い咳、痰などの症状が、変わるがわる現れました。<br>病院に行くほど辛くはないのですが、日々これらの複合症状でよく眠れず、鬱陶しく、気が滅入ってきます。<br>記憶障害は、老人痴呆につながるので注意します。<br>散歩に出る気力も失せて、運動不足で歩行の衰えがなかなか治りません。回復期の鬱も加わっているのかも知れません。</p><p>退院から4ヶ月（120日め）の現在、コロナ後遺症の症状は、時々出て来ますが、体調は元の8割方回復しましたが（79歳の年なりの体調ですが）、まだ歩行の衰えは元のようにはまだ回復していません。<br>どうも若い頃のように、運動すれば回復するということでもなさそうです。</p><p>そしてついに、今回のコロナ肺炎の罹患により、身体は、死を迎えるまで老年の危うい健康で過ごさなければならなくなった。と覚悟させられたようです。</p><p><strong>★まとめ</strong></p><p>以上が、私のコロナ肺炎闘病記です。<br>全世界で語られる政治経済的コロナとは全く別問題の、大きな違いをここに感じています。<br>個々人に降りかかるコロナ疾病が、全体でまとまると、個人が登場しない、大きな国際政治経済問題に成長してゆく感覚が、コロナ肺炎で命を落としかけた私にはどうも理解が難しいのです。</p><p>そしてここで、このブログをなぜ書こうと思ったかをお話ししておかなければなりません。</p><p>私は、35年前に大病をして、1ヶ月の入院を続けて2度も経験しました。<br>そして、その当時体験したの病気治療とリハビリの状況が、今と大きく違っていたことをお話ししたかったからです。</p><p>当時は、CT、MRIもステロイドも有効な抗生物質もありませんでした。<br>今回の「ネーザルハイフロー」もありませんでしたので、当時、同じ肺炎なら死んでいたと思います。</p><p>さらに私は、4年前に初期の前立線癌と診断されていて、治療に、前立腺にシャープペンシルの芯大の放射性物質を90本埋め込む「小線源治療」を受けています。そして今は、3ヶ月毎に経過観察の通院をしている状態です。<br>しかし、コロナ肺炎、コロナ後遺症、そして前立腺癌の三つの病気、さらに老齢が加わる満身創痍ながら、今は健康を戻し、順調に年相応に生活している状態です。。</p><p>これらの疾病から命を救われたのは、35年前には無かった治療型病院での西洋医学の最新治療でした。それに劣らず、療養型病院でのマンパワー中心のリハビリシステムと技術の進歩に救われました。これら全ての過程で、医師、看護婦、介護士の方々の延べ30人近くの丁寧な手で、毎日支えられ、私は命を長らえることができたのです。感謝の気持でいっぱいです。</p><p><strong>そして、私の一番の関心事は、30〜40年後この進歩は、さらにどう成長しているのだろうか？、なのです。</strong></p><p>今回の病気治療とリハビリの状況が、私が経験した35年前とはあまりにも違いすぎていて、これから35年後、これがどうなっているのか、私の寿命は尽きていますので、私に代わりこのブログの記述とを比較をしてみて欲しいと思うのです。</p><p>このブログは、私的な病気治療、リハビリの生な情報を、細かく記述しただけなのですが、意識はしなくても、2023年現在の社会状況（経済、政治、国力）や生活状況（例えばリアルタイムiPhone中継など）、そして、人々の病気の考え方、などが色濃く反映されているように思います。<br>今私が、昔を感じているように、35年後の未来では過去からの変化がどのようになっているのか、それを比較をしてみて欲しいのです。35年後には年を重ね私と同じ80歳近くの人も多いと思います。その時老人はどう思うのか、今の私は是非に知りたいと思っているのです。</p><p>転生というものがあって、生まれ変わって確認できればいいのですが、この転生も今日の日本では、会話のジョークの一つに成り下がっているようで、感覚的に瞬時に伝わることを常に願っている私ですが、しかし言葉とは、読み終えるのを待たないと情報を伝えることができない厄介なツールなので、ご迷惑をおかけしますが、AIが早く進歩してくれるといいのですが、ここまでお読みいただければ幸いです。</p>
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<pubDate>Sat, 20 Jan 2024 15:25:16 +0900</pubDate>
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<title>最近の動向（2023.7）ー成仏の方法（14）</title>
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<![CDATA[ <p>最近の動向（2023.7）</p><p>&nbsp;</p><p>2022年11月の自然言語処理AI（生成AI）の登場で、言語の思考処理がレベルアップし、その処理能力により、ロゴス思考がさらに活性化されようとしています。しかし反対にその窮屈さと限界もハッキリ見えるようになり、同時にロゴス思考の振る舞いの特徴も顕著に現れるようになりました。</p><p>言語と社会はロゴス思考をベースにしていますが、この生成AIの登場により、これまでも発生していたがよく見えなかった社会の混乱と変化のイメージも人々の心に浮ぶようになってきました。</p><p>&nbsp;</p><p>この変化は、私が予想していたよりも早くやって来ていて、これまで、このブログ「成仏の方法」で、くどくどと悪口のようにお話ししてきたロゴスのノロマな特性と限界について、AIもこのノロマ性から生まれて来てはいるのですが、次回お話しする予定の「AIの新しい方法」の前に、更に詳しくこの特性をお話しておいた方が、より理解も進むと思いましたので、このお話しを挟み込もうと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>ヌーラルネットワークであるOpenAIによって開発初公開された、大規模言語モデルであるChatGPTは、2021年9月までに得られたネット上の膨大なテキストデータをもとに、事前学習とデープラーニングで作成されました。2023年現在の我々は、2年前の過去の文字情報を眺めながら現在を測っていることになります。（その後、リアルデータに対応したモデルも多数登場しました）</p><p>これらは、過去と現在を俯瞰しそこから未来を予想するというロゴスの通常の思考方法で行われていて、我々はそれに従い、それ以外の方法があるなどと思ったりもしていません。ですから当然、AIにもその方法が黙認され、そこからさらに進化した結果を求めようとしています。</p><p>&nbsp;</p><p>今後の展開は、リアルタイムな情報入力、例えば人体にCPUを埋め込んで人体データや脳波を直接にリアルタイムに収集する。人工衛星で地球の天候、地理、人、動物、物のリアル活動データをリアルタイムに収集する。もちろんネットの中のリアルタイムデータも収集しながら、これら広義のIoTの方法に、さらにコンピュータのシンギラリティを加えると、過去とリアルタイムの二者のデータ結合にスピードと緻密さが増し、これで更に正確に未来の知性を見通せるのでないか？。とロゴスのAI科学は思っているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>このようすれば、ロゴスが思う未来の知性は確かに予測できるかも知れません。しかし、その程度の知性は見通せても、人の心の内面や身体、社会や自然環境、そして全宇宙まで人類を取り巻く状況は多種多様で、そんな変化は、AIでは思うようには見通せないだろうとも人々は思っています。</p><p>だからロゴスは、つまり我々「言葉での理解が理解の全てになっている」現代人は、自らの思考のノロマ性を今こそ理解する必要があるのです。</p><p>このことを、ずっと言い続けて来ましたが、次に例を上げてみます。</p><p>&nbsp;</p><p>社会の正義を、人類は、裁判制度や三権分立そして多数決などで担保して来ました。裁判制度は第三者で中立であると認めた者達を判断者として、その正否、正誤、有罪無罪を審理し判定させる方法です。三権分立と多数決も、さまざま差異や異議がある者達や集団を対決させ、多数をフェアーと見なし、社会の判定として結果を得ようとする方法です。</p><p>&nbsp;</p><p>これらシステムは曲がりなりにも第三者や他者を中立（なかだち）にしていますが、しかし、ロゴスが自身を評価分析する場合、例えば、哲学や心理学、科学などでは、思考に第三者を立てず、これらと同類のロゴス思考（言葉）のみで判断し社会的分析評価（論文審査など）をする方法をとっています。弊害の排除策を講じていると言いますが、ロゴス同士ならこれは泥棒が裁判官になることと同じではないでしょうか。</p><p>この弊害は有志以来、様々な分野で問題と停滞を発生させています。ロゴスの最先端思考である量子力学の量子もつれやシュレディンガーの猫など、様々なパラドックス問題として発生させているのもそれが全ての原因です。</p><p>人間の知性や意識・思考の分析に、正統な第三者に自身を評価判定させず、極端には、ロゴスが統べる宗教などでは、精霊や霊魂など有りもしない架空の第三者を立てたりなどして、分かった積もりになって来たのが原因です。人類の未来のためには、真の自身を知り目覚めることがAIが登場した今、ロゴスには必要なのです。</p><p>ロゴスのノロマ性を知るには中立の他者に自身を分析してもらうことから出発する。これがこのブログを書いて来た一つの目的でもありますが、AIもロゴスそのものなのですが、調べてみると、AIにはその第三者の役目を務めることができる機能があるかも知れないと思う部分があって、そこをとにかく考えてみようというのが、AIの分析を始めた目的でもあります。</p><p>&nbsp;</p><p>このブログ、特に「成仏の方法」では、人の意識には「粗雑な意識」=ロゴス、と「「繊細な意識」=レンマがあり、そのロゴスに対自する意識としてレンマを立てて、現実意識であるロゴスの特性と限界をお話しして来ました。</p><p>知性・意識・思考に二種類があることは、<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/8a7e673881511dcd1aa9d26383ebc01b/?cid=e71566bcf88e3666c90b162a072f9b5d&amp;st=0" target="_blank" rel="noopener">中沢新一著「レンマ学」</a>の説明から、ギリシャ時代には知られていたことであり、同著にはレンマが何でありどんな動作をしているかが、ロゴスの方法（言葉）で詳細に語られいるので、読めばロゴス思考にもわかるようになっているので、その説明をもとに同ブログでも、改めて「繊細な意識」をレンマに。「粗雑な意識」をロゴスに。として記述を始めることにしました。（参考）</p><p>&nbsp;</p><p>また、この分類は、チベット仏教のゾクチェンの悟りを得る（成仏）方法を語るために用いられた方法でもあります。現実意識とは「粗雑な意識（ロゴス）」から生じていて、その「粗雑な意識（ロゴス）」をクローズアップさせるため、裁判官のポジションを「繊細な意識（レンマ）」にしてお話ししているものです。</p><p>お気づきのように、これはレンマに習熟すれば成仏への道が開けてくるとの教えでもあります。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>ロゴスの歴史</strong></p><p>仏教では、人の意識・思考には数種類あり、それらの下層にはアラーヤ織があり、そこではレンマが主となっていてロゴスや他の意識・思考はそのサブとして機能していると言っています。</p><p>&nbsp;</p><p>人類（ホモサピエンス）は、約30万～20万年前にアフリカで誕生したと言われます。約３万8千年前の後期旧石器時代初頭には日本列島に登場したと言われます。その頃の人類は、生物学的には現代人と変わりがなく、頭脳には知性があり、そして意識の下層にはアラーヤ織があったと思われます。</p><p>&nbsp;</p><p>その頃の主なコミュニケーションの方法は、レンマが中心で、話し言葉、ジェスチャー、以心伝心などでコミュニケーションが行われていたと思われます。しかし、やがて「文字」が登場し、現代の我々は、書き文字の思考が主となり、話し言葉のサポートによって「言葉での理解が理解の全て」になった、高度に進歩したロゴスの時代を生きています。そのため古代人の遺跡の発掘もロゴス思考の科学的方法を用いますので、レンマのが残したロゴスの理解を外れた痕跡は見落とされがちになっています。</p><p>旧石器時代から下って、縄文時代は約16000年前に始まり約3000年前に終わったと言われています。しかし、その約13000年間も続いていた全国に何万ヶ所もある遺跡の発掘調査を行っても、その方法がロゴスの科学的調査であるために、ロゴスの思考範囲を超えた成果を得ることが出来ません。縄文人の意識・思考と同じ様に、レンマを中心にロゴスをサブにして思考すれば、更に多くの発見が可能になるのではないかと思うのですが、そうすれば、一番の謎、縄文時代の約13000年間は戦争が無い平和な時代であった理由も解明できるのではないかと思われます。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>何故、縄文時代をレンマの時代と言うのか？。</strong></p><p>それは縄文では話し言葉が、現代では書き言葉が思考や理解の中心だからです。話し言葉は常にリアルタイムで、録音機がなければ過去の記録は存在しません。文字は書かれた直後から記録に変化し過去になってしまいます。過去を類推する現在から未来を連想する現代人のロゴスの方法はここから発生しています。</p><p>&nbsp;</p><p>常にリアルタイムとは、物や事は刹那であり、時間に縛られず常に非時間と言えます。（理事無碍法界=<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/8a7e673881511dcd1aa9d26383ebc01b/?cid=e71566bcf88e3666c90b162a072f9b5d&amp;st=0" target="_blank" rel="noopener">中沢新一著「レンマ学」を参照</a>）だから縄文はレンマ的なのです。レンマの中にはサブとしてロゴスも含まれますから、縄文はロゴスでの思考も行なっています。印や絵や記憶などの記録で時間性と線形性の思考を行います。それは現代人と変わりはないのですが、主なる思考がレンマなのでレンマが先導する生活を営んでいます。その結果、現代人とは営みが異なり、ロゴス思考の考古学では全てを発掘できないのは当然なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>現在の我々は、話し言葉と書き言葉の「文字」の時代を生きています。歴史、哲学、法律、規則、SNS、メールなど主な思考は「黙読」の「文字」でおこなっています。</p><p>この「文字」で思考する時代は、文字が登場した約3500年前から始まります。パピルスやカメの甲羅に文字を刻み、やがて木版や活字、紙への印刷、そしてモニター表示へと進展してきました。これは文明発展の礎と言われていますが、記録された文字の字面を眺めて思考を巡らし判断する。この方法で行う法律や契約書、さらには読書、手紙、SNS、メールなどは、人間と社会の固有の認知・学習行動であり、AIもこの一連の流れから誕生しています。</p><p>この様なロゴスが中心の時代は、古代の旧約聖書、新約聖書、コーランなど、始めに言葉（ロゴス）ありきの文字で書かれた教義のみを唯一の真実とする、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教思考から始まりました。</p><p>しかし、人類の歴史で、文字から一神教が登場し、全世界に敷衍され、人類の営みがロゴス中心の時代になったのは、たかだか3000年程前からにしか過ぎません。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>何故、ロゴスが思考の主導権をもつようになったか？。</strong></p><p>古代では、レンマとロゴス、二つは初め競っていましたが、ロゴスには科学が芽生えてきて、その有用性と効率が人気となり、やがて世界中を席巻し、現代では、すべての分野で「言葉（ロゴス）での理解が理解の全て」と言われるようになってしまいました。そしてレンマはその科学（哲学、心理学、医学）によって無意識の位置に追いやられることになりました。</p><p>しかし、レンマの直感と比べロゴスの意識・思考の伝達速度は劣るのに、なぜ人類はロゴスとその社会を選んだのでしょうか？。</p><p>レンマの縄文時代は13,000年間続きました。しかしロゴス優位の歴史は、たかだか3000年です。我々は、選んでしまったこのロゴス時代をこの先何年続けられるものなのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし先述のように、この3,000年間人類は「文字で書かれた教義のみが唯一の真実である」や「言葉での理解が理解の全て」の思考を現実に実行して来たのですが、その間、このロゴス優位の時代は、争い（紛争、戦争）や諍いが絶え間なく、レンマから見ると、人間にとって、何かしら欠けた部分があるのではないかと感じられるのです。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>対称性の思考</strong></p><p>その何かしら欠けたものの一つ。ビッグバンの前は何なの？と、ロゴスの「超越的第三者の眼差し」が、この疑問を常に投げかけています。この疑問に対して科学の宇宙論は、次の理論を考え出しました。</p><p>存在空間とは、対称性が破れ、ビックバンの激しい対生成、対消滅の末、反物質が消え物質だらけになったのが今の我々の宇宙である。と、つまり、何かの理由で前宇宙の対称性が破れ、非対称性になったのが今日の世界の有り様なのです。仏教の縁起で言うと、先に対称性の世界(原因）があり、そこにビッグバン（縁）が起きて今日の非対称の宇宙（結果）ができたと言う説明になるのでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p><strong>この非対称性は、何をもたらすのでしょうか</strong>。</p><p>ロゴスの一方向に進む線形性や時間性は、レンマの非時間性や非線形性と異なり、非対称性がもたらす思考の典型です。</p><p>それにより人の心には、物事（過去）を他（今）と比較して考える事で差異が生じていて、常に不足や過剰が生まれています、そこに欲望が働き、それが累積し、怒り妬み恨み劣等感優越感などが生じます。この有り様をキリスト教では罪と言い、仏教では煩悩と言います。</p><p>またここから生まれる状況は、人に、いつまでも尽きることがない永遠無限（♾️）の出現を特長にしています。</p><p>過去のデーターを集積しデープラーニングしてから現在や未来を予測するという、AIの最先端の線形性思考もその同じロゴスの性質から来ています。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>何故、科学は「対称性と非対称性」という、ロゴスの線形性や時間性では理解や表現が難しい概念を持ち出すのか。</strong></p><p>1,2,3,4,…無限に数えられる「♾」は、そんな差異の有り様を表現していますが、無限とは存在として切りがないと言うことであり、一方、科学の数学の「0」は、物や事の存在が未生であるという反対の状態を表しています。</p><p>科学は「対称性」（前宇宙）の根拠をここに求めたのでしょうか？。この「0」の採用で、宇宙論ではビックバンが始まる前の無（真空）の未生状態を表すことが出来ますが、数学では0を乗算すると全てが0（未生)になり、仏教では「空」になるのでしょうか。それとも「無」になるのでしょうか。</p><p>などなど、ロゴスの「超越的第三者の眼差し」は次々に疑問を発してきていて、いつまでも決着がつかない状況を孕んでいます。それを止める必要からか、社会では、裁判制度、三権分立、多数決、3シグマ管理、あるいは神、そして最新はブロックチェーンなどの疑問停止の方法を取っています。</p><p>しかし、この停止の了解事で、社会の様々な分野で頻発する、疑問を一時は止められたとしても、個々人の心にあるアナーキーなロゴスの「超越的第三者の眼差し」は決して許してはくれません。歴史と未来を眺めると、憎悪にまで膨らんだ個々人の感情が集まり、法律、倫理、道徳、社会通念を超えて最悪の場合、紛争、戦争、革命などで解決を迫っている様子が想像できます。個人では、犯罪や嘘、空虚、裏切りが発生します。一神教では神が赦しで「超越的第三者の眼差し」をなだめたりしますが、それは神を信じる人にのみ恩恵が与えられるもので、すべての者が信者ではない現代社会では解決にはなりません。</p><p>これら諸々発生する物事は、物質や精神、知性、意識・思考、つまり宇宙の全部が、すべて非対称で存在しているから生ずる。とするのが「対称性の考え」なのです。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>「対称性」には二種類あります。</strong></p><p>一つは、点や直線を挟んで左右が反対の形の図形が対自する幾何学的対称性や代数的対称性、時間的対称性などの、相対的な対称性。また、自由平等なども出自は対称性思考がベースなのかも知れません。</p><p>そして、二つ目は、高度に数学的中立や量子もつれの量子論的対称性など、です。</p><p>この二つは、共にロゴスから生まれていて、後者は近年の科学の発展、特に量子論の登場により、対称性に新たな意味が付加されたものです。</p><p>&nbsp;</p><p>一方、レンマにも対称性の思考があります。</p><p>レンマもロゴスも共に非対称を生きていますから、似た部分が多くあります。</p><p>仏教では、人が成仏して仏になる。現世の対称にある極楽に行く。などの仏と人間の成仏的対称性が言われています。</p><p>ロゴスの科学と異なるところは、科学は非対称に留まりますが、レンマの仏教は人と仏が合体する成仏や極楽に行くを目指す事です。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、このレンマの理解は、ロゴスの言葉に、例えば仏教経典などのかたちに翻訳され理解されるので、ロゴスの理解のレベルに留まっていて、レンマの非時間性、非線形性などの意味は、ロゴスにとっては理解も表現も難しく、成仏や悟り、色即是空などの造語で理解を深めようとしますが、現代ではその造語ももう古くなっている様です。</p><p>&nbsp;</p><p>何故人は、「対称性」という思考を持つのか。</p><p>ロゴスとレンマ、本来は違うと認識しているのに「対称性」という似た意識・思考を持つのでしょうか。</p><p>これらから感じられることは、人間が抱く「対称性」への憧れのように思えます。憧れとは、今のままでは非対称だから何かが欠けていると薄っすらと感じてしまう。ここから離れて、充足した対称性へと向かいたい。この移行が日常に客観性と最終の癒しをもたらすのではないか？、と。</p><p>レンマは人類発祥時から感じていたのですが、ようやく現代になって、ロゴスは宇宙論や量子論の登場で、共通の意識・思考を共有できるようになったのかも知れません。</p><p>これは、「対称性」と発すると、ロゴスでは宇宙論の対消滅・対生成や量子もつれを、レンマでは成仏や極楽往生を連想すると言う様にです。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/oh3ho/entry-12908681817.html</link>
<pubDate>Sun, 23 Jul 2023 12:05:28 +0900</pubDate>
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<title>AIとレンマと存思（2)ー成仏の方法（13）</title>
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<![CDATA[ <p>続きです。----</p><p>先回は、AIはロゴス思考で動作していて、ロゴス思考の特徴とその上で動くAIの特徴をお話して来ました。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>・AIの問題点とは何か。</strong></p><p>AIは、例えば以下の問いからどんな答えを出力するでしょうか。</p><p>「電車を降り人々が歩いています。右折すると改札口です。人々の列の動きを教えてください。」</p><p>予め個々人のデータと駅構内の地図情報がアルゴリズムソフトには入力されています。</p><p>次の四つの例が考えられます。</p><p>（1）駅が設置した「改札口へは右折してください」の案内表示で、列は右折します。その中の何人かは立ち止まったり列から離れたりしますが、右折した人は95%でした。</p><p>（2）左右にロープが張ってあるので、否応なく列の100%が右折し改札口に向かった。</p><p>（3）個人が自由に判断して、列の51%が右折し改札口に向かった。</p><p>（4）神の啓示により、右折への道が示され、人々はその道を通り列は右折した。</p><p>AIは（1）～（4）の全てに「列は右折した。」と、AIは出力します。</p><p>「列は右折した」の判断は、現代社会の秩序（政治・経済・法律・慣習）や常識など、今日の社会通念を加味しAIのアルゴリズムが出力した結果になります。</p><p>本来AIは、数学的にニュートラルな資質と性能を持つのですが、しかし数学もロゴスなのでこのニュートラルもロゴス的にニュートラルの意なのですが、さらに、前出の「超越的第三者の眼差し」の指示にも従う事になります。この現代人がもつ「超越的第三者の眼差し」とは、神の啓示や無神論の虚無をも超える、欲望には無抵抗な現代人の意思なので、AIもこの「現代」というロゴスの「個性」（バイアス）を身にまとうのは避けられません。</p><p>しかしAIの出力値にはたくさん複雑があるのに、全ての判断がなぜ「列は右折する」の一つになるのか、これはAIを創ったのが現代の人間だったからからなのですが、そうだとすると、これからお話しして行くように、上手に使うと不可能を可能にする未来を開く力を発揮できることになるかとも思います。</p><p>これら（1）～（4）を現代の社会常識、通念から説明すると</p><p>（1）は、国民には目的への自由が与えられていますので、案内表示に従い列は必ず右折するとは限りません。</p><p>（2）は、警察が強制的に個人の自由を封じています。列は必ず右折します。</p><p>（3）は、選挙投票と同じで、民主主義の多数決となります。列は右折します。</p><p>（4）は、これは「God Bless the President」の宣誓で指導者を選ぶアメリカ合衆国の一神教の様式であり、たぶん列は右折します。でもイスラムは拒否するかもしれません。</p><p>以上の説明が意味するところは、「個人（個）」と「全体」の関係です。</p><p>また後でお話しする「静止」と「運動」の関係でもあります。</p><p>個人はあくまで「個人」ですが、「全体」とは列、仲間、信徒、サークル、地域、社会、国家などに置き換えられます。</p><p>時にAIの実行者が、ニュートラルなAIアルゴリズムに対して、「全体」をどうしたいのか、そのため「個人」にはどんな行動を求めるのか。を目的にして、その方向に誘導することがあります。そこからAIは政治の政策に使えるのではないか。という考えが生まれてきています。</p><p>しかし、次の状況もあり得るのです。</p><p>（5）「津波てんでんこ」状況です。これは岩手三陸地方の、津波が来たら人のことを考えずいち早く各自てんでんばらばらに高台へ逃げろという古くからの言い伝えです。</p><p>改札口でなくてもいい、自由意志で勝手に動けということで、冷静なはずの「超越的第三者の眼差し」ですが恐れからこれを促します。</p><p>立ち止まり広報の警報を聞いたり人の指示や助けを待つのではなく、また他人を助けようなどとも思わず、瞬時に自分勝手に判断し逃げなさい。と言うことです。</p><p>つまり（5）の場合、列は散り散りに消失します。</p><p>本来、AIが出力するデータとは、個々人それぞれの振る舞いが出力される単なる値の集合に過ぎません。これがニュートラルという事ですが、「右折する」の判断は、その値からアルゴリズムが「目的」で判断し「全体」の結果を導く手順に過ぎません。</p><p>確認すると根本は、個人である一人一人が右折するから列が右折するのであって、列が右折するから個人が右折するのではない。ということです。だから、数学的ニュートラルを保てるのです。</p><p>単に列を右折させたいのなら、詳細な個人情報を大量にAIに入力させる必要はありません。</p><p>何故、最後の「全体」の行動情報のみをAIに求めるのでしょうか。こんなAIの使い方は、AIの性能を無駄にしているのではないでしょうか。勿体無い使い方です。</p><p>できるだけ多くの個人の詳細データを入力し、高度な数学的アルゴリズムをより高速のCPUで動かすと、より正確な個人の予測データが得られるがAIの基本性能なのです。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>・将来的に、「相対性理論」が「量子論」になってゆくような変化が、AIにもあるのではないか</strong></p><p>&nbsp;</p><p><strong>ロゴスの来し方行末をながめる。</strong></p><p>これまでお話ししてきたことは、本来数学的にニュートラルなAIが、「現実」からのバイアスで特別な個性を持たされてしまう。一例でした。</p><p>ではAIの行末はこれからどうなるのか。これはロゴスの進歩次第になるのですが、ではその進歩とはどの様なものなのでしょうか。</p><p>その進歩は、常にロゴス思考のバックボーンにある「超越的第三者の眼差し」に促され続けています。</p><p>&nbsp;</p><p>ロゴスの宇宙論では、対称性を保っていた宇宙が、対称性の破れでビッグバンでが発生し、何度かの対消滅、対生成を経て反物質が消え物質だらけの存在になったと言われています。しかしロゴスの「超越的第三者の眼差し」は容赦なく、次の疑問を投げかけてきます。では「ビックバンの前には何があったのか？」、「宇宙の彼方の時空の先には何があるの？」というものです。それに応えて人類は、宇宙の果て138億年前のビックバンの痕跡を探索するため、ファーストスターの発見にジェームス・ウェッブ宇宙望遠鏡を打ち上げました。</p><p>物理学では、素粒子理論からひも理論へと思考が繋がり、物質の極小とは何か？。と言う問いに取り組んでいます。しかし、もう考察はそれで終わりではないでしょうね。と「超越的第三者の眼差し」はその先の極小は何か？を問うています。</p><p>生物学では、DNAゲノム解析を通じて人類の系列探しが行われたり、遺伝子操作によってクローン人間が創り出されようとするなど、従来の思考を超えたアプローチが試みられています。例えば、脳が司令塔で機能しているという従来の考え方にとどまらず、体内の各器官が脳を介さずに、例えばエクソソームのような細胞外小胞が血管ネットワークを通じ独自に情報交換しながら協調して動くなど、解剖図ベースの静止思考や従来型のツリー状思考ではもう説明出来なくなってきていて、さらには量子脳など、体内には量子論的な動きをする器官があるのではないか？などと、「超越的第三者の眼差し」の要請に応えて、体内感覚や医療の解明に向け研究が進められています。</p><p>このように物理学にとどまらず生物学までにも量子論的な考え方は及び、さらに量子論では量子もつれを発見し、宇宙論ではホログラフィックス宇宙や量子テレポーテーションなどで光速を超えるワープが可能になるのか？までロゴス思考が発展しています。</p><p>今我々が住む宇宙は、ビッグバンで反物質が消えて物質だらけになった世界なので、この対称性の破れで、物質と迷子になった反物質との間で量子もつれが生まれていて、ホログラフィックス宇宙理論では宇宙の物質世界とは正反対の反物質世界をも映し出すことになるかも知れません。</p><p>&nbsp;</p><p>では量子論の基本とは何か？。分子、原子、素粒子などのミクロの世界では「物質は粒子と波動のいずれかで存在する」というロゴスの思考があります。</p><p>その思考では、観測がキーになります。粒子の「存在」とは、「観測」という「静止」状態で得られます。そして観測以外の運動状態では「波動」で「存在」する。と考えます。</p><p>波動である理由になる二重スリット実験で発生する干渉縞とは、スリットという静止点で運動を停止させ観測する実験で得られます。この観測から量子論では、物質は「粒子」と「波動」の両犠牲を持つ「存在」と定義されました。ロゴスは独特の方法でこの思考を表現しましたが、しかし「超越的第三者の眼差し」は、第三の状態もあるのではないか？、物質には臭いがあるのでそれはどうなのか、音は波動で説明できるかもしれない？などと疑問を投げかけます。</p><p>&nbsp;</p><p>ロゴスは「存在」を道具に思考をしています。「存在」は意識が言語化されて発生するとお話ししてきました。（<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/d014c5f17882dd477266586de50d19ba" target="_blank" rel="noopener">前回を参照</a>）「存在」とは物質だけではなく感覚・感情・思考・運動・傾向・自然現象など無形のものも意識され名称（言語化）が与えられると「存在」として現出します。そして宇宙論も生物学も哲学も心理学も科学全般がこの「存在」を道具に思考しています。</p><p>すべての物や事は動いています。言語が対象を言語化するには、ロゴスが対象の動きを意識し停止させ、観察し、言語化します。これがロゴスの線形性と時間性を持つ思考手順の特徴であり、これで「存在」を時間に沿って並べ比較し思考することが可能になります。</p><p>そして量子論はロゴス思考の範疇ですから、同じ方法で、常に動いて止まらないミクロ物質現象をまず停止させ、観測し、粒子と波動という二つの「存在」を現出させることになります。しかしこの場合「停止した波動の存在」という言語矛盾にロゴスは気づいていません。</p><p>この方法は、ゴルフの教則本と同じです。スイングのトップとボトム、フォロースローでのクラブの位置や回転中の肩や腰の位置など、それぞれを動きを止めた状態で認識説明し、それら静止点を繋げてスイング（動き）にするように教えます。これでゴルフは上達するでしょうか。そこで、動画の登場になるのですが、ここではロゴスとは別の意識で「運動」を掴み取ることはできますが、自分の身体に移して動きにするのは難しい技になります。そしてこれはロゴスの表現で不確定性原理と言われることになります。</p><p>つまりロゴス思考とは、介在すると動いているものを正しく認知したり表現が出来なくなってしまう、ノロマな思考なのです。</p><p>ロゴスでの動きの表現とは、静止（刹那）を繋げれば運動になる。が基本です。だからこんな不自由な説明になるのですが、正しく「運動」を理解するには、人間が持つ別の思考を用いる必要があるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>「レンマ」や身体感覚の「ある自由意識」では、全体を一気に掴み取る方法で「運動」を認識し理解します。これら意識・思考は非線形と非時間性を持つているので、「静止」も「運動」の一部としてとらえ、ロゴスの「静止」をつなげ「運動」にするような面倒なことは考えません。</p><p>例えば身体感覚の「ある自由意識」では、身体の細胞すべてが動いていて止まらず、そしてそれらには全宇宙（外部）と連携した「気」が流れている。と、東洋の思想、ヨガやタオ、仏教では考えます。</p><p>「気」の動きは身体の全ての動きとも連動します。気を意識すれば身体を、身体を意識すれば気を自然に認識ようになると言われます。</p><p>科学では、我々の身体の細胞は分子・原子・素粒子でできていると教えてくれます。しかし分子・原子・素粒子が動くと身体はどう動くのか、その間にはどのような連動関係があるのかなど、全く教えてはくれません。</p><p>「ロゴス」とは、東洋思想では「レンマ」の機能の一つに過ぎないと考えられています。そのため、ロゴス思考がベースとなる科学などの成果は、広くはレンマの成果にもなるので、躊躇なくレンマはそれを利用します。</p><p>レンマの思考方法である瞑想では、「身体」「気」「分子・原子・素粒子」の三者の関係について瞑想する場合、量子論の「粒子（静止）」と「波動（運動）」に分類する物質現象のことも大いに参考にしています。古来から、タオなどでは「気」と「身体」の関係について多くの探求結果が表されてきましたが、今後は「気」と「分子・原子・素粒子（身体）」との関係が瞑想の重要な課題になってくると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>レンマの瞑想に、このような量子論の考えを加えてもロゴスでは表現できないものも生まれてきます。これら、科学や哲学で表現できないものは、一即多、多即一、相即相入の華厳の思想や中沢新一著「レンマ学」で詳しく説明されている華厳五経草などを理解の参考にしてください。でもロゴス思考だけでこれを理解するのが難しいですね。</p><p>しかしこうも考えられています。「レンマ」とは、新しく学ぶものではなく、生まれた時から身に備わっていて、ロゴスを包み込む様にして存り、毎日毎時、無意識に使っているものなので、視点を変えて思い出しようにすれば良いと言われます。</p><p>例えば、ポンと背中を叩かれて振り向いた時が「レンマ」の発露です。この無意識の状態では、ほとんどの場合「レンマ」が発露しています。その後に「ロゴス」が動き出し、後ろの人を認識し言語化し、同時に存在として認識し会話を始めます。その時は「レンマ」も「ロゴス」もフル活動で、彼女の顔色や元気を感じて「おはよう！」と明るく返事をするのです。</p><p>&nbsp;</p><p>AIはロゴス思考で創られています。同じロゴスの量子論は「波動」という新しい運動概念を呈示しています。そこでAIの進歩は、静止を繋げて「運動」とする従来思考から、この新しい量子論の「運動」原理を積極的に取り入れ次の展開に進むと思われます。</p><p>AIでの微分積分の利用は、停止した入力値を積分して運動とし、運動を微分して停止した出力値とすることで行われます。しがし、積分した運動はあくまで停止値であり人間が感じる動いて止まない運動とは少し違います。しかし量子論的には運動の近似値と考えることができますので、この成果を利用し、レンマには不完全な「運動」にはなるですが、共に動いて止まない「気」と身体の「分子・原子・素粒子」との間の解明に利用できるのではと考えます。</p><p>&nbsp;</p><p>天気予報や動体のシュミレーションなどが、ロゴスが提示する運動として実用化されています。AIも数学もロゴスですから、アルゴリズムに微積分などの数学を用いて運動化しても、それは現象を一旦止め眺める、あくまで静止分析であり、静止値を繋げて線形性と時間性を持たせるロゴスの運動にすぎません。これらはレンマ運動の複雑性をリアルに顕在化した値ではなく限定的で、ロゴス流を超えては出られてはいません。レンマ運動を理解するためには、ロゴス翻訳で、現代人に通じる新しい分析値や単位を作らなければなりません。これをAIが担えるのではと考えていす。</p><p>人間も動いて止まない生き物なので、野球の投げられたボールをバットを振って打ち返すように、意識・思考も常に動きの中にあります。</p><p>AIでは数学的ニュートラルは保たれています。そこで、量子論での「動き」である「波動」をレンマ思考し、「静止」である「粒子」をロゴスが思考するようにして、最終結果をロゴスで　統合すれば、例えば「量子もつれのシュミレーション」や「人体の誕生から死亡までの細胞の動き」など量子論レベルの新思考による動体分析が、ブレークスルーに向かうことが出来るのではないでしょうか。</p><p>つまり問題は「言葉の理解が理解の全てになった」現代人が、レンマをどうしたら思い出してくれるのか、そして理解するようになるか、そしてこれをAIがどう実現できるのかになってきます</p><p>この問題の解決に、CPUや量子コンピュータなどハードの進歩、入力方法としてブレーンマシーンインターフェイスや脳波測定などの動的データーの収集、自然言語処理AIなどが加わってきます、しかし方法論としては停止の連続が運動であるの範囲を出ませんが、やがてやって来る現代人のロゴス思考の限界と絶望の打破には役立つと思われます。</p><p>&nbsp;</p><p>長くなりました。詳しいお話は次回にお話しします。続く-----</p><p>&nbsp;</p><p><strong>おまけ</strong>………………………</p><p>ここまでは、主に、ロゴスの思考方法の特徴とその限界をお話ししてきました。</p><p>そして最近は、ロゴス思考に、AIやブロックチェーンなどの新しいスタイルが登場し、それが進歩と言われるようになっています。進歩と言ってもロゴス思考の範囲であり、思考方法に変質が生じたわけではなく、社会のシステムやコミュニケーションにスピードや手順の変化が生じた程度で、生存競争が激しく変質し生命の危険が迫って来たわけでもありません。</p><p>chatGPTに代表される自然言語処理AIは、ノロマなロゴスの代わりをやってくれると言う意味で、IQ300程の秘書が身近にいるようなものです。これにより、記憶や手間が省けるので、それを進歩と思えば進歩と言えますが、人間の根本的価値観が変わるレベルではありません。</p><p>ブロックチェーンの進歩は、DAO（分散型自律組織）や仮想通貨（暗号資産）絡みのDeFi（仮想型金融）などweb3.0関連で浸透を始めています。</p><p>これらは、chatGPTと同じくコンピュータによって進展し、数学的ニュートラルが基本にあります。ブロックチェーンの堅牢さと信頼は、言わば「神」の位置にありますが、ロゴスの監視役「超越的第三者の眼差し」とは地位を争う勢いがあります。しかしそれも、ブロックチェーンがロゴス思考の外に脱出できれば凌駕が可能ですが、それはにはコンピュータ思考が、「レンマ」や「ある自由意識」などのロゴス以外の意識・思考を超えられるかどうかにかかっています。</p><p>お話ししてきたAIの可能性にしてもそれは同じです。それは、レンマの思考はロゴスに翻訳されて理解される。つまり「言葉での理解が理解のすべて」である現代のルールで人間の進歩を実行する制限があるからです。</p><p>&nbsp;</p><p>今回このブログを書いている間（2022年11月）には、chatGPTが発表され、続いて多くの自然言語処理AIが生まれている現状です。その中の一つNotionAIの「文章を改善する」機能を使い、今回のブログ文章の添削をしてもらいました。</p><p>私は、このブログの第一回の記事「<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/preview20?eid=a6fd3414418e4ffccc1b95d452e38270&amp;t=1678946396209" target="_blank" rel="noopener">始めに</a>」でに述べたように、言葉や文章に敵意を持っているため、上手に文章が書くことができません。どうしても敵意が文中から滲み出すしてくるため、読者には理解しづらく、不快な気持ちをあたえてしまうようで、忸怩たる思いでいます。</p><p>今回、NotionAIを使って、敵意を薄める努力をしてみました。いかがでしょうか。滲み出る性格の悪さも軽減されたでしょうか。</p><p>でも自然言語処理AIは、今のところ「含羞」表現が苦手のようです。</p><p>………………………………</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
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<link>https://ameblo.jp/oh3ho/entry-12908681813.html</link>
<pubDate>Wed, 15 Mar 2023 19:04:16 +0900</pubDate>
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<title>AIとレンマと存思（1）ー成仏の方法（12）</title>
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<![CDATA[ <p>先回からの続きで、人の「意識・思考」には、現実意識である「ロゴス」と、現代では無意識とされる「レンマ」の二つがあり、さらに加えて身体が意識・思考する「ある自由意識」(仮称）もあると先回の分析により明らかにして来ました。</p><p>仮称としたのは、名称が与えらた存在としてロゴスに翻訳されると、本来の広がりが失われると感じたからですが、これからのお話しは「レンマ」や「ある自由意識」（存思）の側から眺めて、AIがどう見えるかのお話しをしたいと思います。</p><p>その前に、ロゴスの振る舞いを少しお話しします。</p><p>&nbsp;<span style="letter-spacing: 0.13rem; -webkit-tap-highlight-color: transparent; -webkit-text-size-adjust: 100%;">これまでのお話で、ずーっとロゴスを悪く言ってきましたが、現実は確かに、ロゴス以外のものはロゴスに翻訳し説明しなければ伝わらず、「言葉での理解が理解の全てになっている」現代人にはその存在そのものも無いとされかねませんでした。</span></p><p>そこで「レンマ」や「ある自由意識」などの意味を伝えるには、言葉使いにも長けていなければなりません。幸いにこのブログを続けてきたので、言語に反感を抱いていた私にも（<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/a6fd3414418e4ffccc1b95d452e38270/?cid=d69ff2ce6384f84b6c7b5f125b1e6c98&amp;st=0" target="_blank" rel="noopener">参照</a>）、ようやく「レンマ」や「ある自由意識」を保持しながらロゴス翻訳で文章を綴ることに抵抗が少なくなってきています。</p><p>でもロゴスを疎かにしてきた訳ではありません。むしろ生存には絶対必要なものと思ってきました。仕事では、ロゴス論理たっぷりの我ながら良くできた企画書作成も経験しています。</p><p><span style="letter-spacing: 0.13rem; -webkit-tap-highlight-color: transparent; -webkit-text-size-adjust: 100%;">現実生活の意識・思考では、ロゴスとレンマが融合するアーラヤ識がベースなので、本来人間は二つを調和させ生きていかなければならないのです。</span></p><p>しかし現実意識ではロゴスのみが威張っていて、そこに無意識と呼ばれるレンマが不意に現れると、ロゴスは不可解なものとか不合理な論理だなどと排除しようとするのです。でも渋々ロゴス翻訳でぼんやりと意味を伝えてくれたりすることもありますが、そんな差別的な状況に、さらに第三の意識である身体感覚の「ある自由意識」が加わわるとどうなるのか。</p><p>ロゴスの監視役として君臨する「超越的第三者の眼差し」は、その異人を許してくれるのかどうか、心配になります。</p><p>&nbsp;<span style="letter-spacing: 0.13rem; -webkit-tap-highlight-color: transparent; -webkit-text-size-adjust: 100%;">先回を読んだ方は、お分かりと思いますが、「超越的第三者の眼差し」について、これは下記で詳しく説明していきます。</span></p><p>（<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/6d712fb9ede0cf774e9e5e885adce18b" target="_blank" rel="noopener">「中沢新一著「レンマ学」を読んで…（2）&nbsp;」</a>もご参照ください。)</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;<span style="letter-spacing: 0.13rem; -webkit-tap-highlight-color: transparent; -webkit-text-size-adjust: 100%;">「超越的第三者の眼差し」とは、ロゴスの一機能であり、時間の中を線形で動くロゴス（言語思考）自身の行動全てを、常に上から目線で監視をしています。</span></p><p>「超越的第三者の眼差し」が正しくないと判定したものには、訂正を加えさせます。視覚からの情報で、脳の言語記憶から「猫」の名称を取り出し、その「猫の存在」を使って「それは猫である」「隣の猫である」とロゴスは判断します。しかし突然「違うよ？」と視覚が言う。直ちにその眼差しが作動します。言語記憶から「それは犬である」「隣の犬である」と言葉を取り出させ訂正を促します。これが基本の働きです。</p><p>これは、あくまで基本で、ロゴスの処理性能に合わせ複雑な対処方法で訂正を促します。違う違う！と言葉を発しさせ顔前で手を振らせる指示を身体に命じたりもします。</p><p>哲学書では、否定に否定を重ねたり目眩しの弁証法などを使ったりして、目的の主題に導こうと手管を使ったりします。</p><p>つまり、何事にも勝り神にも訂正を迫る、上から目線でです。</p><p>&nbsp;<span style="letter-spacing: 0.13rem; -webkit-tap-highlight-color: transparent; -webkit-text-size-adjust: 100%;">コンピュータのCPUやプログラミング言語、そしてAI（人工知能）なども、このロゴスの「超越的第三者の眼差し」の機能を利用し発達してきています。</span></p><p>&nbsp;<span style="letter-spacing: 0.13rem; -webkit-tap-highlight-color: transparent; -webkit-text-size-adjust: 100%;">次に、ロゴスと、コンピュータやAI（人工知能）の関係を詳しくお話しする前にこれをご覧ください。</span></p><p>&nbsp;</p><p>私の2011年7月18日のTwitterからです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;<span style="letter-spacing: 0.13rem; -webkit-tap-highlight-color: transparent; -webkit-text-size-adjust: 100%;">2006年3月21日に「Twitter」はアメリカで誕生しました。</span></p><p><span style="letter-spacing: 0.13rem; -webkit-tap-highlight-color: transparent; -webkit-text-size-adjust: 100%;">日本語化された日本版Twitterは、2008年4月23日にスタートしました。</span></p><p>&nbsp;</p><p>その少し前から、日本では新自由主義の啓蒙が始まり、Twitter上でも議論が盛んに行われました。池田信夫氏がその先鋒にあり、Twitterとアゴラ（後に池田信夫氏が代表になる）で活動を盛んにしていました。</p><p>当時のfacebookやTwitterなどのSNS（ソーシャルネットワークサービス）は、まだ生（う ぶ）で、実名で真面目な投稿も多く、匿名の煽りや冷やかしも少なく、炎上も始まったばかりでした。</p><p><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250606/15/oh3ho/c0/52/j/o0800016715610962243.jpg" width="600"></p><p>その、池田信夫氏のツイートに、私は下のツイートを返しました。</p><p>池田信夫氏の主張に、私は「個人の平和が全体の平和になるのか、全体の平和が個人の平和になるのか。彼（池田信夫氏）の新自由主義は後者。」とツイートしました。</p><p>するとそこに、@masason(孫正義氏)が「己の体で主張できるほどその説を信じていますか？」とRTして来ました。このようにこの時代Twitterは誰もが真面目でおおらかでした。</p><p>しかしこの問いに、私は答えませんでした。身体のことを言葉で表現することの難しさ、そして、精神（心）のことは、心理学や哲学のスタイルでロゴス流（西洋流）に言葉で語ることは出来るが、身体のことをそんなありふれた言葉で語ればそれで済むのか？の思いに気づいたからです。</p><p>これを契機に、人生の終りに一番知りたい疑問、私のブログ「<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/4fd7a04b2eea48ef286c626f87ab3343/?cid=14bc87cd0d1996882a8f5af16a89a5ae&amp;st=0" target="_blank" rel="noopener">死んだらどうなるのか</a><a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/ce5a6de61d1ebf2d93c8529a843254e2/?cid=14bc87cd0d1996882a8f5af16a89a5ae&amp;st=0" target="_blank" rel="noopener">」</a>でこのことをさらに深く考えることになりました。</p><p>そしてそれは現在の「<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/b8ec76a6be030b0865ff659649f0f10a/?cid=e71566bcf88e3666c90b162a072f9b5d&amp;st=0" target="_blank" rel="noopener">成仏の方法</a>」に至りましたが、ようやく先回「身体の意識・思考」で身体のお話にたどり着くことになりました。</p><p>&nbsp;</p><p>今日（2022年11月現在）、孫正義氏はソフトバンクグループを率い、新たな転進として、世界中のAIベンチャー約450社に投資をして、彼らの未来実現へのサポートを始めています。</p><p>実体経済とは連動しなくなった金融バブルが崩壊を始めていて、次の体制に移ろうとしています。ソフトバンクは既存ルールでの投資事業が今期（2022.6月期）3兆円という莫大な損益を計上し企業の毀損が止まりません。しかし社会の産業は止まることを許されず次のルールのもとで産業の糧である投資活動が求められています。</p><p>その復活に賭け孫正義氏は、AI事業への投資バックアップに余命を賭する覚悟で望んでいるようです。</p><p>そこで、@masason(孫正義氏)の「己の体で主張できるほどその説を信じていますか？」のRTが気になってきます。孫正義氏のAIへのビジョンは知り得ていませんが、その問いには、私がAIに思う事をお話ししてRTにしたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>これからのお話しは、先回やそれ以前の私の思考がベースになっていますので、その内容を再度説明しながら行きたいと思います。</p><p>詳しくは、<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/8a7e673881511dcd1aa9d26383ebc01b" target="_blank" rel="noopener">中沢新一著「レンマ学」を読んで…（1）</a>を、難しければ<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/6d712fb9ede0cf774e9e5e885adce18b" target="_blank" rel="noopener">（2）</a>から、そして先回の、<a title="" href="成仏の方法（11）ー身体の意識・思考" target="_blank" rel="noopener"><span class="s1">成仏の方法（</span><span class="s2">11</span><span class="s3">）ー身体の意識・思考</span></a>をお読みください。</p><p>&nbsp;</p><p>では、本題に入ります。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>「AI（人工知能）について」</strong>です。</p><p>&nbsp;</p><p>分かりやすくお話しするために、先に概略をお話ししてから進みたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>・AIとは何か、どんなアルゴリズムで動いているのか。</strong></p><p>&nbsp;</p><p><strong>・「超越的第三者の眼差し」は、AIとどう関係しているのか。</strong></p><p>&nbsp;</p><p><strong>・データの生成、選択。AIへの入力の方法</strong></p><p>&nbsp;</p><p><strong>・AIの問題点とは何か。</strong></p><p>&nbsp;</p><p><strong>・将来的に、「相対性理論」が「量子論」になってゆくような変化が、AIにもあるのではないか。</strong></p><p>&nbsp;</p><p><strong>・「ロゴス」以外の意識・思考例えば、「レンマ」や「ある自由意識」との関係は。</strong></p><p>&nbsp;</p><p><strong>・AIは何を目指すことになるのか。</strong></p><p>&nbsp;</p><p>などを順にお話ししてゆきます。</p><p>&nbsp;</p><p>では始めます。先ず</p><p><strong>・AIとは何か、どんなアルゴリズムで動いているのか。</strong></p><p>&nbsp;</p><p>AIの実行には…</p><p>1.コンピュータのハードとOSプログラミングの作成と設定</p><p>2.AIアルゴリズムとそのプログラミングソフトの作成。</p><p>3.学習（言語）データーの生成、収集、分類。そして入力。</p><p>4.AIソフトを作動させ、値を出力。</p><p>…などが行われます。</p><p>&nbsp;</p><p>そしてこれらを運用する基本思考には、「ロゴス」が使われ、例外は許されません。</p><p>AIは、キリスト教社会である西欧文明の思考から生まれました。</p><p>キリスト教、イスラム教などの一神教は「初めに言葉ありき」で始まります。</p><p>そこでは聖書やコーランなどの「言葉で語られる真理のみが真理のすべて」となっていて、その他の思考を歴史が排除し洗練を深め社会は現代に至っています。</p><p>つまり言葉が実行原理となる「ロゴス」のみが思考の方法となり、その環境で宗教も哲学も科学も生まれ発展し全世界に浸透して来ました。そしてアジアなど必ずしも全てがそうではなかった社会でもつまり全地球の人間社会では、今日「言葉での理解が理解のすべてである」が社会のルールになっています。</p><p>そんなロゴス環境をベースにして、先端科学からコンピューターが生まれ、そこにAIが生まれました。これらの進歩は「ロゴス思考」をさらに強固にし将来社会の発展を担うことが期待されています。</p><p>&nbsp;</p><p>「ロゴス」は時間性と線形性を持ちます。AIも同じ時間性と線形性をもつニューロン→シナプスの脳の伝達構造を真似て動きます。コンピュータのCPUとプログラミングも同じく0と1の言語情報を時間に沿って並べ順番に処理されます。</p><p>しかし一方、「レンマ」は全体を一気に直感で掴み取り非線形性で非因果律性を持っています。そして「ある自由意識」も身体感覚で意識・思考し基本的には非時間性と非線形性で動きます。そうするとこの二つは線形性と時間性では動作しないことになるので、脳の働きではないということになるのでしょうか。</p><p>それとも脳にはそれらを動かす別の動作機能が隠れているのでしょうか。</p><p>頭脳のニューロンは1000億個～2000億個あると言われます。もしもコンピュータのニューロンにあたるCPUの数をそこまで増やせば、時間性や線形性を超えて、コンピュータ上に「レンマ」や「ある意識」が現れることになるのでしょうか。</p><p>前にお話ししたエクソソームという、血管のネットワークを通じ身体器官の間で情報をやり取りをするコミュニケーション物質があります。この顆粒状物質により、脳を介さずに身体器官同士が独自に働く事実が医学で発見されています。ロゴスである医学では十分に研究は進んでいませんが、例えば「レンマ」や「ある自由意識」とは、エクソソーム仕様のものが体内にあり協働して生まれてくる未知の意識・思考なのではないでしょうか。</p><p>レンマとは、「一即多、多即一、相即相入」の華厳の思想や、あるいは空海の即身成仏義にある「重々帝網を即身と名ずく」の「重々帝網」の思想などで、そして「ある自由意識」とは、「存思意識」の言葉で、それら姿をロゴスは説明するのですが、ロゴスファミリーであるAI（人工知能）はこのことに関心はあるのでしょうか。しかしそんなものがあるなど気づきもしていないようなのです。</p><p>こう考えるとAIは見たこともない目新しいものなどではなく、ロゴスの単なる進化形思考と理解できます。だから作動するアルゴリズムには「ロゴス」の個性の数々が色濃く反映されることになります。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>・「超越的第三者の眼差し」は、AIとどう関係しているのか。</strong></p><p>&nbsp;</p><p>「超越的第三者の眼差し」は、ロゴス思考の機能の一つです。ロゴスが動作している間、それは常に上から目線で監視役を務めています。</p><p>例えば科学の歴史では、「相対性理論」の不完全さに対して「量子論」の発生をロゴスに促しました。そして一つの対応を終えると、ただちに次の新しい「超越的第三者の眼差し」がその上位に発生してきて、この「量子論」の不完全さを言いつのり、次の新しい対応を促します。このべき算のように繰り返す眼差しを科学発展の基本原理などと言たりしますが、これは一方、物事に終わりはない。ということであり、寿命という終わりがある人間には残酷な原理になっています。</p><p>「超越的第三者の眼差し」は、このように常に現実意識の中に「部屋の中の象」状態で存在しています。AIで頭が良いという基準は、こちらの能力が高いことを言い、記憶力や処理能力に優れているというIQ的頭脳は、コンピュータのCPUの性能であり、まもなくシンギラリティで凌駕されることになっています。</p><p>しかし、日々の思考の間、我々はこの「超越的第三者の眼差し」の存在を自覚認識しているでしょうか。「レンマ」思考の側から眺めると、ロゴスの個性がよく見えます。言葉にサポートされ時間の中を線形性で動くロゴス思考の間中「部屋の中の象」のようにしてこの「超越的第三者の眼差し」が常に目を光らせているのが良く分かります。</p><p>&nbsp;</p><p>この「超越的第三者の眼差し」の原理を使い、AIは作動しています。</p><p>AIのアルゴリズムは、この原理実現のための設計図になります。</p><p>ロゴス思考が細部にまで漏れずに及び、AIは作動しています。</p><p>&nbsp;</p><p>AIの、機械学習、ニューラルネットワーク、ディープランニングなどは、脳のニューロン→シナプスの情報処理構造を真似て改良を続ければ脳の機能の全てが再現コピーできて、やがてそれを上まれるようになるという予想のもと設計されています。そしてその道程とは「超越的第三者の眼差し」の監視があれば、AIの進化がロゴス思考の進化に、さらに人類の進化にまで続くという楽天的な希望に基づいています。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>・データの生成、選択、AIへの入力の方法</strong></p><p>&nbsp;</p><p>AIは文字データの入力から始まります。文字データとは、ロゴスが思考に用いる「存在」に相当します。「存在」は言語思考の二項分類（選択＝暗いがあるから明るいが存在する）で生成され、ロゴスはその「存在」を単位に思考をしています。</p><p>（<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/6d712fb9ede0cf774e9e5e885adce18b" target="_blank" rel="noopener">先回を参照ください。</a>）</p><p>そしてAIの動作も、その「存在」を様々操作し「新しい値の存在」を得る作業に他なりません。</p><p>&nbsp;</p><p>「日差しが眩しいのでブラインドを下ろした」。</p><p>この「無意識」の動きは、ロゴスの意識からではありません。</p><p>この動きの後にロゴスは、日差し、眩しい、ブラインド、下ろす、など、予め「存在」として記憶されていた言葉を脳の言語記憶の中から取り出し、文字に表現できる「存在」として意識上に生成します。そしてその生成を現実意識の思考単位にしてロゴスは思考を開始します。例えば、「天気が良くなってきたなあ。」などと呟く現実意識です。</p><p>つまり、呟く以前、無意識の状態では、まだ言葉（ロゴス）は無く「存在」も未生なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>AIはこれまで「超越的第三者の眼差し」の指導で、「無意識」の「存在」を感じたことは無かったのでしょうか。同じ意識の仲間なのに一括りに「無意識」と名付け無縁なものとして「レンマ」や「ある自由意識」のことを考えようともしなかったのでしょうか。入力データの候補としては考えなかったのでしょうか。</p><p>コンピューターはその「存在」を0と1のコンピュータ言語に翻訳して動作します。しかし0と1では「レンマ」の直感は働きません。ロゴスとレンマが協働して働くアーラヤ織が現実意識の基礎にあるのに、ロゴスはレンマを排除しこれを進歩と言うことにしたのでしょうか。</p><p>もしAIに、この「無意識」を認知できるシステムが可能になったら、ギリシャ文明以降のロゴス主導の西洋文明を変えることになるかも知れません。</p><p>科学はロゴスの優れた下僕であり、そのファミリーの数字や数学思考もやはり「無意識」とは無縁の関係にあります。アルキメデスのお風呂場でのひらめき、比重の発見は無意識の功績のようにも思うのですが…</p><p>このようにAIは、無意識とは無縁を貫き、ロゴスの言葉でラベリングされた言葉の「存在」のみを入力することが最善と考えるようになります。</p><p>しかし言葉は、「存在」を指差す指であり、単なる情報であり「リアル」ではありません。だから「言葉」を眺めたり切り刻んでも、例えば「月」の文字を真剣に眺めても、そこからは月（リアル）の新しい謎は発見できません。</p><p>ですから、AIのアルゴリズムで、入力値（言葉）をシャフルし新しい値が出で来たと思っても、ロゴス的人間がこれまでに発見してきたこと以上に、その出力に謎はありません。ただ、その結果により謎（リアル）発見へのモチベーションが出てきて、新しい価値が生まれたと感じるに過ぎません。</p><p>「レンマ」や「ある自由意識」から見ると、AIからはそんなレベルの値が出力されているように見えるのです。</p><p>ではそこから、ロゴス的人間にはどのようなモチベーションが促されるのでしょうか。</p><p>例えばそれは、量子論では観察者が観察をして初めて存在の値が決定しますが、そんな価値の発生から思考のスタートが促されることに似ています。</p><p>&nbsp;</p><p>少し長くなりました。今回はここまで。次回は、AIの分析をさらに深め問題とその解決をお話ししたいと思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/oh3ho/entry-12908681809.html</link>
<pubDate>Mon, 07 Nov 2022 11:43:52 +0900</pubDate>
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<title>成仏の方法（11）ー身体の意識・思考</title>
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<![CDATA[ <p>ロゴスとレンマの他に、人間の意識・思考には、何種類か違うものがあるのではないか？。先回は金剛曼荼羅図を例にこのお話しをしました。今回は三密の「身」、つまり「身体」が、それは「空」であると感得するのにはどうすればいいのか、のお話しをすることになります。</p><p>そのために未知の意識・思考を使うことがあるかも知れません。</p><p>でも何を使おうとも、言葉に翻訳してから、つまり言語思考に変換して語らなければ（ロゴス翻訳する）、「言葉での理解が理解の全てになっている現代人」には伝わらないので、今、どの意識・思考を使っているのか、ロゴスへの翻訳なのかロゴスそのものなのかはっきり明示しておかなければ、全ての知性がロゴスで可能になるとの誤解が生まれかねません。さてどうなるでしょうか、言葉の性能の範囲内で表現できるかどうか、説明が長くなるのではないか、不安になります。</p><p>前からお話ししているように、言葉や言語思考とは、ノロマであり、コミュニケーションツールとしてはローテクな意識・思考と思っています。また上手な文章が意味を正しく伝えてくれるなどとも思っていないので、これからややこしい文章になりますがが、そこは皆様に生来備わっている言語思考以外の意識・思考で類推していただく、つまり勘を働かせていただくことになろうかと思います。（わざと「てにをは」を違えたり、感覚的に意味が通れば省略したりなど、違和感を演出することがありますが、気付いたら、その時は自分はノロマな言語思考で思考していると感じてください。）</p><p>&nbsp;</p><p>我々は、自身の身体を説明する場合、例えば、お腹が痛い時、無意識にそこに手を当てたりします。でも直ぐに言語思考（ロゴス）が発動し、昼の食事が悪かったかな？、など、言語の記憶の中から言葉を選び出し原因を探ろうとします。その間にも、その無意識は手でお腹を擦らせたままでいます。原因を脳の言語思考（ロゴス）で思考している間にも、その無意識は素早く意識し思考し、自動免疫機能なのか自己治癒力なのかホメオスタシス的なロゴスが感知できないものを働かせて、対処行動を始めています。ロゴスが気がつかないだけで、明らかに、ロゴスが考えている間に、別の意識・思考で身体が動いているのです。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>その無意識（意識・思考）</strong></p><p>ここからはこのような、無意識な身体行動であると科学がラベリングしている、その無意識（意識・思考）を分析の対象しようと思います。</p><p>東洋の思考では三密の「身」つまり身体を分析する場合、常に動いている身体を考えてきました。西洋流の静的に整理分類された解剖図を元とする医学の方法を採ってきませんでした。採らないというのではなく十分に参考にはするが、主にはしないという態度です。</p><p>そして中国やインド、チッベットなど、東洋の思考の全体に通じているのですが、動く身体には、「気（プラーナ）」が流れている。「気」によって動かされている。との思考があります。</p><p>西洋医学に対し「命」とは何か、と問うても明確な答えはありません。「死」を問うと、心臓が止まった。脳が止まった。だから死んだ。などと答えます。</p><p>東洋思考では、「気（プラーナ）」が「命（生）」を産み、「気」が止まれば死に向かうと考えます。</p><p>その「気」はどこから来るのか、どうしたら盛んになるのか、又、衰えるのか、それを「命（生）」の問題として、東洋思考は考えていることなります。</p><p>どうしたら人は健康で長く生きられるのかについて、西洋医学では、次々とやって来る死の原因を次々撲滅すれば生は長らえるとし、そのため病気が発生しないよう、健康診断など日頃より健康に気遣いすべきであるとだけで、あまり熱心ではありません。これは我々現代人が普通に教えられきた事ですが、でも、もっと積極的に長生きできる「命」を考えるとなると、東洋医学思考に頼る方が良いということになります。</p><p>東洋医学思考では、解剖図（レントゲン写真、CTI）や血液尿検査、生体検査、問診触診など、西洋医学の静的診察治療の方法では身体（病気）を考えません。中国のタオやインドのヨガなどの診察治療では、上記のお腹が痛い時、手でお腹を撫でる「その無意識」の身体感覚を用い、自らの身体細部の動きの状態とそこに働く「気（プラーナ）」の働きを感得しようとします。感得というのは、感覚知覚で身体知識を得ると同時に、「気の流れ」を覚えて記憶する、の二つを行うことになります。</p><p>現在ではさらに、西洋医学の静的診察治療の方法も取り入れ、ハイブリットな身体観を得ようとしています。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>「存思」</strong></p><p>タオの方法で、「存思」という考えがあります。</p><p>「存思」の考え方は、身体観や精神性として東洋の思想全体の根底にあります。</p><p>これの歴史的な意味や広がりをここで述べることは不可能なので、知識はGoogleの検索でご確認ください。</p><p>「存思」は、まず自己の身体を細かく知ことから始めて、人間全体の身体観と精神性を得る方法です。意識、認識、思考の考え方が西洋と東洋では違うように、身体観でも両者の方法は違っています。</p><p>「存思」が用いる意識・思考とは、お腹が痛い時、無意識が手でお腹をさすらせる、その意識と思考です。無意識とロゴスでは名付けられていますから、その動きは西洋医学（ロゴス）では解明が進んでおらず、言葉での説明は大変困難です。昔の中国やインド、チベットでロゴス翻訳されて書かれた文献、経典教義などは残っていますが、古語であり難解で、現代語訳でも理解するのは難しく、それなら今自分の身体にある「その無意識」を感得し、自分で言葉化する方が早いということになります。</p><p>そこでここでは、一般的な「その無意識」からの感覚知覚をもとに、「存思」を説明していきたいと思います。そのため、所々、言葉に馴染めずオカルトチックな部分が登場するかもしれませんが、ご容赦ください。</p><p>「存思の技法」の中身は、お腹が痛い時無意識が手でお腹をさすらせる、その意識・思考を、明確にさせ、自由に出現させ、使い、効果を高める方法を知るということになります。</p><p>お腹が痛い時、無意識に手でお腹をさする時、今お腹をさすっていると意識をすると、お腹と手のひらの間に、ちょっと熱を感じ、意識の交接が生まれます。その交接を何度も続けて行くと、手を離しても意識するだけで、手をお腹に当てたその部分に意識を発生させることが出来るようになります。そうなるまでには、脳のロゴス（言語意識）の方も痛みの探索を始めていて、「その無意識」や交接の身体記憶からの励起で言語記憶が呼び出され、医学記憶のフィードバックから、昼食が悪かったかな？などの推測が立ってきます。</p><p>東洋思考ではレンマだけでなくロゴス思考も十分に発達していて、西洋流の「ロゴスとレンマ」の二元論ではない、レンマが主導する異種の思考の組み立てがあって、別々の推論が立ってきます。この違いは、両者の文明の根本にあり（中沢新一著「レンマ学」は、この違いを論じている）、漢方薬と西洋薬のように東西の身体観と精神論、処方診断に分断と融和の歴史を生んできました。これは、大きなテーマですのであらためてお話しします。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>「その自由意識」</strong></p><p>こうして、お腹が痛い時、手でさする感覚を、手を使わなくても、自由に意識をお腹に向けることができようになったら、次に、身体の様々な部分、この場合ロゴスにも協力を仰ぎ、解剖図などで器官の形や色や位置を参考に、心臓と思ったら心臓に、足の親指の先端と思ったら、「その自由（無）意識」を直ぐにそこに行かせ、状態を探る態勢を維持するようににします。これに熟達すると、「その自由意識」と手のひらを使い、例えば心臓の部分にじっくり手を当て意識を働かせていると、意識が皮膚上から体の内部に降りてゆき、解剖図の心臓やYouTubeで見たドクドク動く心臓の形を想像すると、その形に意識が乗り移ったように感じられてきます。勿論、直に触れる訳ではありませんので、意識上に現れるだけで、超能力が身についた訳でありません。</p><p>こうして、順番に全身を巡り、体中の器官など全体を意識できるようになるには、長時間を要します。最低三年程はかかるでしょうか、内蔵器官だけでなく、骨、血管、内膜、終いには細胞の一個一個、分子原子の一個一個にまでもその自由意識を及ぼします。（死ぬまでにそうなりたいものです）</p><p>電子顕微鏡では、動いている細胞を捉えていますが、その状態にまで、例えば心臓の右心室の細胞レベルに意識をフォーカス出来れば、「その無意識」はその動きと一緒に動くことになります。</p><p>次に、自分自身がミクロン単位の小さな小人になると想像し、小人が「その自由意識」の中に入っていると想像します。その小人が、心臓や肺や胃、血管、リンパ管の中を巡り、小人の、つまり自分ということになりますが、小人（自分）の触覚や視覚、臭覚、味覚、聴覚（舐めたり、触ったり、嗅いだり、色を見たり、熱を感じたり、声を出したり）を使って、内蔵をはじめに、身体の隅々の部分を観察することを始めます。</p><p>小人はこれに習得すると、意識するだけで、その体の部分に小人が出現し、観察を始めます。これを続けると、小人による全身の器官の色や匂いや味覚や触感が伴った感覚的な身体図が出来上がり、身体記憶に収められます。脳の言語記憶に移せば移せますが、言語記憶では記憶容量不足なので、解剖図のような検索用のラベルの記憶のみになるでしょう。</p><p>このように身体のある部分に「手」と「その自由意識」を当てると、その部分が熱くなるのを感じる。これが「気（プラーナ）」です。</p><p>文字（ロゴス）で書かれたタオやヨガの解説書によると、「気」には、「外気」と呼ばれる宇宙の「気」と自分の中に生まれた時からある「内気」があると言われます。そして、最終的に両者は、同一のものであることが分かってくると言われています。</p><p>体内には、「気」が全身を廻る無数の経脈と支流の脈があります。人は生まれると、その脈を通じ全身に「元気（内気）」が流れはじめ、「命」が始まると言われます。</p><p>その「気」を操ったり強化したりして身体を変容させる（健康や長寿も変容の一部）技法が東洋にはあります。タオでは仙道、気功。密教（インド・チベット）ではヨガ・タントラ修行などがあります。</p><p>その方法を、タオで説明すると、「その自由意識」や「手のひら」を、下腹部に当てて、そこに「気」をためるように意識します（暖かくなってくる）。その「気」を会陰部から尾てい骨（ヨガでいうクンダリー）に送り、脊髄の骨中（督脈）を、腰、背中、首、脳中を抜け脳頭より抜け宇宙の「気」に合体させるようにします。反対に宇宙から頭中、体の中心（任脈）を通り、下腹（丹田）に宇宙の「気」を受け取る。など、宇宙世界と交接しながら気の循環をトレーニングします。</p><p>詳しくは、ヨガ、タオ、密教とも同じですから、自分に合ったものを参考にしてください。用心深くしないと身体を壊したり精神が壊れたりすることがありますからご注意ください。</p><p>そうならない方法は、初めから全てが「空」であると悟っていることが肝心です。</p><p>レンマ状態であればわかりますが、初めから悟っていなければ悟れないというのは、ロゴスからは矛盾しています。この場合ロゴス（言語思考）とはそれを表現できない、ノロマな意識・思考であると思ってください。</p><p>では、ノロマな意識・思考とは、どうゆうことでしょうか。もっと説明をします。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>ノロマなロゴス</strong></p><p>タオや仏教そしてインドなど東洋の思考の経典や教本を読んでいると、どうしても結末が気になって来ます。最終ページへの誘惑を抑え読み進め、漸く結末に達すると、</p><p>次のような記述に行き着きます。例えば、</p><p><strong>・タオ（道教）では、「道（タオ）との合一」を言います。</strong></p><p>　陰陽の二つの気を持つ身体・心を純陽化させ、道と合一します。</p><p><strong>・密教（チベット密教）や後期密教（秘密集会タントラ）の場合では、</strong></p><p>　「究竟次第」では、気をコントロールすることによって、心身を静め、活性化し、煩悩をなくしたりなど、身体技法による修行をします。＝「存思」「その自由意思」「クンダリー」などの活用。</p><p>　「生起次第」では、自分を仏としてイメージし、仏の輪廻を観想し、仏の三身を得るなどの心の修行をします。＝「レンマ思考」の活用。そして「究竟次第」と「生起次第」とを双入（合体）させ、悟り（最高の叡智）を得ます。</p><p><strong>・古代インドのヴェーダの悟りでは</strong></p><p>　梵我一如（ぼんがいちにょ）と言い、梵（ブラフマン：宇宙を支配する原理）と我（アートマン：個人を支配する原理）が同一であることを知り、悟りを得ます。</p><p>それぞれ詳しくは、google検索ください。</p><p>と、書かれています。</p><p>そして、この三者には共通する思考アルゴリズムがあります。それをまとめると</p><p>・「純陽化した身体」＋「純陽化した心」＝道（タオ）に合一させる。</p><p>・「究竟次第」＋「生起次第」＝悟り（最高の叡智）を得る。</p><p>・「梵（ブラフマン）」＋「我（アートマン）」＝梵我一如の悟りを得る。</p><p>など、ニ項を合体させて第三項を得る（1＋2＝3）という方法です。</p><p>この記述法がレンマの悟りを説明するロゴス翻訳の方法です。</p><p>3にあたるものは、レンマであれば一瞬にして直感でわかり、1と2と3の全体の詳細も分かります。身体感覚を認知する「ある自由意識」も直感的なので、レンマと似ています。レンマの仲間のようにも思えます。そうなら「ある自由意識」の「自由」もロゴス翻訳で説明できてもっと理解が進むかも知れません。</p><p>ここにはロゴス思考の特徴と限界が見えていますが、さらにロゴスを詳しく探ってみましょう。</p><p>ロゴスは、二項選択（分類）で、言葉（言語思考）により「存在」を現出させ、それをベースに思考します。…例えば、「明るい」存在があるから「暗い」存在がある…</p><p>（詳しくは、<a title="成仏の方法（１０）" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/6d712fb9ede0cf774e9e5e885adce18b" target="_blank" rel="noopener">成仏の方法（10）</a>をご覧下さい。）</p><p>そして現出した二項の存在、例えば「明るい」と「暗い」の内容は同時合わせて認識できますが、その二項に一項をプラスした三項、例えば「薄明るい」などを加えた三項全部の存在を、同時に認識把握することが少々苦手になります。第三項を意識した瞬間、一とニ項の認識を手放しがちになります。これは脳の能力と言うよりロゴス思考の限界なのですが、第三項目の存在の把握には、ほとんどの場合、前出の二項に関連付けて把握する方法を取ります。</p><p>1＋2＝3の数式に例えると、「3とは、1と2の要素を含む1＋2である」と言うように、他の二項との関連を抜きにしては認識できない限界を持っています。</p><p>そのため例えば、</p><p>・1梵（ブラフマン）＋2我（アートマン）＝3梵我一如の悟りを得る。</p><p>では梵と我が一体（一如）になることは我（自分）には分かりますが、自分が一如になったと想像してしまうと、一瞬、前の我であった自分のことがよく分からなくなる。遡って説明が有っても、非現実になっていてロゴスレベルではよく分からないことになってしまいます。</p><p>次に応用編です。例えば、</p><p>物事には必ず原因（因）があって条件（縁）があって結果（存在、現象）がある。（因縁）</p><p>因縁で物事（存在、現象）が生じ、そしてそれは変化して止まない。（縁起）（諸行無常）</p><p>因縁で生じた物事（存在、現象）には実体が無く「空」である。（色即是空　空即是色）</p><p>これについては、因＋縁＝物事＝空（実体がない）に置き換えられますが</p><p>物事を認識してしまうと、それが生まれた契機である因と縁の認識が希薄になってきます。さらに物事＝空となると、因と縁と物事と空の四つを同時に認識することが難しくなってきます。</p><p>この場合、「空」には因と縁のわずかな残存（習気）はあるのですが別の空間にワープしている感覚があります。因や縁とは煩悩ですから、煩悩を離れるのが成仏だとすると、「成仏」とはワープ（空）することなのかも知れません。曼荼羅図や極楽図などでロゴスはこれを説明したりしますが、でもこの図からはワープを感ずることはできません。</p><p>でも、レンマからは、こんな風にノロマなロゴスが見えているのです。</p><p>ロゴス（言葉）で説明するのは、本当に難しくややこしくて徒労を感じてくる。人には生まれながらに備わっている「レンマ」があるので、これで考えコミュニケーションすればいいのではと思えてくる。</p><p>しかしここで、もう一段深く考えたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>超越的な第三者の眼差し</strong></p><p>空が別世界へのワープだとしても、その思考のワープを別次元で見届けている取り澄ました「超越的な第三者の眼差し」があることに、ロゴスの思考は薄々気づいている様に思えます。そんな態度がレンマには見えるのです。</p><p>（詳しくは、<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/6d712fb9ede0cf774e9e5e885adce18b" target="_blank" rel="noopener">成仏の方法（10）</a>をご覧下さい。）</p><p>この超越的第三者は、キリストの「神」や仏の「如来」をも上から目線で俯瞰していて、さらにその目線の上に立ち、続けてその上から眺めると言う、屋上屋を重ねて、部屋の中の象。の振る舞いで働いています。</p><p>現実意識では、これに次々と存在を発生させる二項選択（分類）が働き、さらにはレンマが無意識に現れたりして、ロゴスはこの流れをウロウロにしか把握できなくなっていて、これがノロマな意識・思考と呼ばれることになるのです。</p><p>二項選択（分類）と「超越的第三者の目線」の思考について、この二つはロゴス自身のものですので内容把握は辛うじて出来るのですが、三つ目のレンマが無意識に現れると、三つ同時の認識理解の苦手からロゴスの認識把握はいつも不確かで、ギリシャ以来西洋の宗教や哲学で、例えば、三位一体や純粋理性批判など、そのノロマゆえにいつも解かねばならない課題が本題の前に来ることになっています。</p><p>&nbsp;</p><p>ロゴスは、言語で「存在」を現出させこれをベースに思考します。言葉は「存在（単位）」を時間軸に従って並べる「線型性」（S V O順など）で動き、さらに修辞法などで意味を創ります。</p><p>「超越的第三者の眼差し」とは、この線形性工程の監視役です。コンピュータ言語やAIのアルゴリズム構築の原型に当たります。</p><p>線形処理で動くコンピュータのCPUが高速化しシンギュラティを迎えます。同時にAIが脳のニューロン→シナプスの構造を真似てニューラルネットワーク→ディープランニングとして発展し、コンピュータ上に解決へのアルゴリズム（ソフト）を創ります。未来への進歩に期待が集まります。</p><p>この働きのベースには線形性＋時間があります。ロゴスは当然そこに「超越的第三者の眼差し」を向けていて、入力から出力までの行程を見守り、さらに上位の結果が出るようにと促します。</p><p>これらはロゴス思考が発展し生まれる科学成果です。これによりノロマなロゴスの性能に進歩があるかも知れません。ロゴス翻訳の精度が上がり、「レンマ」や「ある自由意識」など他の意識・思考のことも上手く説明（翻訳）できるようになるかも知れません。音声入力の性能向上のようにです。</p><p>しかしロゴスは、自身の「超越的第三者とその眼差し」について、分析どころか存在にも気づいていない様子なのです。せっかくロゴスが努力をして「宇宙はビックバンに始まり膨張を続けている」と宇宙論は答えるようになったのに、ビッグバンの前は何。とか、宇宙膨張の果てはどこ。などと「超越的第三者の眼差し」は、その答えにチャチャを入れてきます。そんな疑問こそが科学進歩の源なのだ。などと強がりを言ったりしますが、「超越的第三者やその眼差し」の方が誤りであるかも知れないとは考えようともしないのです。</p><p>&nbsp;</p><p>これまでの分析で、現実意識の「ロゴス」の他に「レンマ」の思考があり、そして身体に作用する「ある自由意識」もあることが分かってきました。</p><p>ロゴスとレンマが融合したアーラヤ識が現実意識の下にベースとしてあるのですが、そこに身体感覚の「ある自由意識」を加えるとどうなるのか。そしてロゴスの進歩であるAIや量子コンピュタと、この他の意識・思考がどう関係してゆくのかを次回は考えてみたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>おまけ-------</strong></p><p>自分の身体には、60兆個の細胞があると言われます。そうするとそれを構成している分子原子の数の全体は幾つになるのでしょうか。</p><p>この場合、ロゴス（言語思考）では、無限とか♾とラベリングしてしまい、ラベリングが済めばそれ以上数えようとはせず記憶にも収めません。</p><p>しかし、身体の「その自由意志」で体内の既知の部分に小人（自分）が立つと、その場の活動記憶がふわっと表れてくるのです。これらを言葉で記憶するには膨大です。でも確かに記憶は存在しているので、明らかにロゴス的頭脳記憶ではない別の身体記憶装置が必要になってきます。</p><p>だから言語記憶は、これを内実のない「身体記憶」とか言う大まかな曖昧ラベルにして済ましてしまうのでしょうか。</p><p>近年医学では、様々な細胞から体内に100兆個もが放たれ流れるエクソソームというメッセージ物質が話題になっています。（詳しくはGoogle検索してください）</p><p>これらは、頭脳を介しない、細胞間や器官間のコミュニケーションであり、頭脳の指令とは違う別のメッセージとして働き、器官はそれに反応し独自の対処行動をします。</p><p>お腹が痛いとき無意識に手を当てるのは、胃の細胞から放たれるエクソソームの異常信号を感じ取り、脳を介さず、身体が思考して手と腕に伝えるからなのかもしれません。このことからエクソソームの発信元の細胞（器官）と受け手の細胞（器官）には、それぞれが状態を記憶し、自発的に発せられる意識・思考とを持ち、頭脳を介さず、常に働いていると考えられます。</p><p>体内細胞間には血管を通じ100兆個のエクソソームのメッセージが飛び交い、メッセージそれぞれが別の体内器官に特別な活動を促します。そして中枢器官と考えられている頭脳もそれぞれの結果を受け取ります。でも何しろ100兆個の内容ですから、ロゴス（言語思考）が主導する脳の能力では、その中の特別と脳が判断する結果のみをラベリング記憶にとどめて、多くは身体記憶に任せることになります。</p><p>しかし、自分が小人になったその自由意識には、無限や♾とラベリングする仕掛けがありません。しかし身体記憶の膨大な情報の中から必要な情報を瞬時に取り出す能力を持っています。続けようと思えばいつまでも続けられます。その間中、仕切りたがり屋のロゴスにもその結果が渡されていて、ロゴスはそれらから取捨選択をして、現実意識の思考や行動にもつなげていきます。</p><p>天の川銀河には2000～4000億個の恒星があると言われます。惑星などを加えれば1000兆個にもなり、その天の川銀河と同じ銀河が宇宙全体では数千億個（無尽蔵）あると言われます。</p><p>そして自分の身体には、60兆個の細胞があると言われます。それを構成している分子原子は幾つになるのでしょうか。宇宙も無限（無尽蔵）であるなら自分の身体も無限です。我々は、このような無限に囲まれています。</p><p>その無限を、ロゴスは無限や♾とラベリングし思考停止してしまいますが、レンマやその自由意識らは、ロゴスに止められない限り、無意識に静かにロゴスの邪魔をせず連続に意識・思考して無尽蔵を体験しています。</p><p>人は、無限を思考しようとすると始めに「レンマ」や「その自由意識」らが現れてきます。</p><p>阿弥陀如来や薬師如来など如来は無限無量の存在と言われています。それらを瞑想すると「レンマ」や「その自由意識」が自然に現れてきます。そしてその如来と同一になる事ことが、祈りの目的であり本質になります。</p><p>タオや仏教、インドの思考など東洋の思考では、外なる無限を如来、タオ、ブラフマンと名付け、その外なる無限と自己の内なる無限を融合させる。あるいは取り替える。合体させる。などの瞑想修業をします。</p><p>ロゴス（言語思考）のように時間軸に沿って事物の概念を存在化しそれを並べ続ければ無限に達するとする方法からは、そんな「レンマ」は単なる直感にすぎないと現実意識からは差別的ラベリングされてしまい、その境地を得るには、瞑想や坐禅、隠遁など面倒な方法を取らねばならないことになり、瓢箪鯰のような、又、カラカラ鳴る瓢箪のような五月蝿いことになてしまいます。</p><p>人間には、無限をいつまでも意識出来る別の意識がある。と、それに気付けばロゴスの現実意識から離れることができる。個体から液体や気体になる気分です。</p><p>つまりそんな意識で、自分の身体を考えるのが、東洋の思考の方法なのです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/oh3ho/entry-12908681800.html</link>
<pubDate>Sat, 08 Oct 2022 20:15:52 +0900</pubDate>
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<title>成仏の方法（10）ー 中沢新一著「レンマ学」を読んで…（2） ー</title>
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<![CDATA[ <p><strong><span style="font-size: 16px;">中沢新一著「レンマ学」を読んで…（2）&nbsp;</span></strong></p><p><strong>前回からの続きです。</strong></p><p><span style="font-size: 16px;">これからのお話しは、「レンマ」の側から眺めて、ロゴス（言葉・言語・言語思考）を分析したいと思います。</span></p><p>分析の公正を期すには、ロゴスとレンマ以外の第三の意識・知性があれば、その知性の判定で、ロゴス的には真に公正となるのですが、後でお話しする様に、仏教ではそれが可能になる道筋もあるようなのですが、とりあえず、今は「レンマ」の方法で「ロゴス」を分析していきたいと思います。</p><p>しかし当然、このブログは言葉なので、「レンマ」を「ロゴス」に翻訳して、言葉で伝える事になります。しかし、「レンマ」は、時間性を持たず、非線形ですから、筋道を立て論理を通す（線形）ことが苦手ですので、「ロゴス」の翻訳は、非論理的で難しい文章になることをご容赦ください。先に、中沢新一著「レンマ学」をお読みいただき「レンマ」の感覚をロゴス的に体得すればより理解が進むと思いますので、その方法もお試し下さい。</p><p>&nbsp;</p><p>その方法をお話しします。</p><p>「アーラヤ織」が人間の意識の根底にあって、そこではロゴス的知性とレンマ的知性とが直交補構造で合成体をなしています。我々の日常は、ロゴス的知性を現実意識として使い、レンマ的知性を「無意識」と考えてきました。両者は直交補構造にありますので、ここではレンマで思考している合間に、直交して「点」で現れる時間性のあるロゴスに乗り移り、感覚に残るレンマの痕跡を言葉で記述し、終ると再びロゴス線上に現れる「点」のレンマに飛び乗るというような方法です。</p><p>これは、禅の坐禅の方法に似ています。仏教に共通のこの瞑想方法は、ひたすらに心を鎮めていると、不意にレンマが現れ、それに飛び移ると、瞑想の状態に入れます。修行とは、日常意識（ロゴス）を徹底的に排除してレンマ三昧の境地に入ることであり、その出入りの繰り返しを自在にしてこの身に実現するためには、坐禅、念仏、護摩などの修行があります。</p><p>空海の室戸岬の御厨人窟での修行で明星が口に飛び込んできたのを見て開眼した。など過激な瞑想修行の結果も語られています。</p><p>しかし、レンマが剥き出しのままに、ロゴスの日常生活を営むのは危険です。また、人はアーラヤ織の生き物ですからレンマのみで生きるのも不可能です。ロゴス的知性とレンマ的知性との合成体をなすアーラヤ識でバランスを学ぶ事をしなければなりません。</p><p>臨済録の普化やチベットの死者の書、ゾクチェンの虹の身体などがそのバランスの消息を伝えています。</p><p>&nbsp;</p><p>レンマとロゴスはもともと合成体ですから分離は難しく、これらの修行は二つの完全分離が目的ではなく、あまりにもロゴス化してしまった現実意識にレンマの真の存在を気づかせるために、あえてレンマを剥き出しにして見せるためなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>そして幸いにも仏教ではそんな修行が成就するとやがて菩提心という意識が発露してきて、レンマとロゴスの調和ができるようになると教えてくれます。</p><p>&nbsp;</p><p>また苦しく激しい修行や長い坐禅瞑想をしなくても、レンマを獲得する方法もあります。レンマは元々から自身に備わっているものだから、忘れていたものを簡単に思い出す様にすればレンマに入れるという教えもあります。</p><p>現実には、中沢新一著「レンマ学」を読み、ロゴスでレンマを理解する方法もあります。しかし、理解できたと思っても、一度ロゴスを離れ、レンマを体験し、さらにロゴスでもレンマでもないたぶん第三の立ち位置で、二つを俯瞰しながら学ぶことをしなければ、たぶんロゴスもレンマも理解することは出来ないのではと、ロゴスの意識は思ってもいるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>レンマを体感するには、つまり、意識をロゴスからレンマに切り替えるのには「存在」の意識を消さなければなりません。この「存在」の感覚が意識に現れると、ロゴスは独自のシステムで働きます。「事物を並べて整理する」がそれになります。「並べる」には前後のものを調べそれらの違いを明らかにしなければ並べられません。そこではロゴスの二項分類（選択)が自動的に働き、「存在」の意識が発生し、先と後に二つの「存在」を分類します。そしてそこには時間も発生します。レンマは、無時間性ですから、時間が発生すればその意識はレンマではなくなります。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>「存在」は、必ず二項分類（選択）のシステムで発生します。</strong></p><p>例えば、「明るい」という存在は「暗い」があって初めて「存在」が成立します。貴方がいて私がいます。貴方がいなくても、「その他大勢の人々」と「私」の二項分類（選択)で、私の「存在」が発現します。</p><p>人類が滅んで私一人になっても、「滅んだ人類」と「私」との二項分類（選択)で、私の「存在」が発現しています。でも「私」がいなくなったらどうなるのでしょうか。</p><p>お気づきのように、この話の中にはもう一つの眼差しが存在しています。全人類が絶滅してもその人類と私を同時に眺め認知している超越的な第三者の眼差しです。言語思考（ロゴス）は、二項分類（選択)で「存在」を発現させるのではなく、超越的な第三者を加えた、三項分類（選択)で「存在」を発現させているのです。</p><p>「神」と「人」の関係も同じです。超越的第三者の眼差しで「神」と「人」の存在を区別認知しています。しかし「神」は全知全能永遠普遍なので、超越的第三者とは「神」なのでは？。</p><p>この疑問で人は、彫刻の神像は見えても、真の「神」の存在は認識出来なくなってしまいます。</p><p>キリスト教では「人」は神になれませんから、認識を失った人は「神」を仰ぎ見る真の眼差しも失ってしまい、神への畏れが発生してしまうのです。これはロゴス（現実意識）が破綻する畏れでもあるのです</p><p>しかし仏教の場合、「成仏」が最終目的ですから、「人」は、「仏」（＝全知全能永遠普遍の「神」）になることができます。しかし、自分が仏になってしまうと「私」と「仏」の二項分類（選択）の関係が消滅してしまいます。また、仏が神のように超越的第三者だとすると、ロゴス的には、さらに「仏」も「私」居なくなってしまい「超越的第三者」つまり「仏＝超越的第三者」のみが残ることになります。これは極楽世界と言うことでしょうか。聖書のキリスト教では神への畏れでしたが、言葉（ロゴス）で書かれた仏典では、そうなってしまいます。</p><p>つまり、言葉（ロゴス）が表す「神」や「仏」の「存在」では、存在を指し示しているとしても、手に触れて直には感じられない抽象の何かであり、別の認識手段を用いなければ真実は実感出来ないことになるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>全く、レンマをロゴス（言葉）で説明すればするほど、困難の深みに入っていってしまいます。ここまで読んでこられた方は何人いるでしょうか。この艱難辛苦を避ける方法を書いてきた筈なのに困難に嵌るとは、言葉の魔物に捉えられてしまったようです。</p><p>&nbsp;</p><p>でも仏教では、ロゴス、レンマの二つの意識・知性の他に未知の意識があると言っています。</p><p>未知と言っても、ロゴスが説明分類できないので未知のという事になるのですが、毎日毎時、我々自身が直接ビンビン感じている何かなのです。それについてをお話しします。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>第三や第四の意識・知性</strong></p><p>曼荼羅図には、二種類あります。</p><p>一つは大日如来を中心に放射ツリー状に描かれる「胎蔵界図」です。これは仏典（ロゴス）の記述をもとに、能力と作用の違いにより、仏達を二項分類（選択）でビジュアル化し現出させたものです。ロゴス中心の現実意識・知性で成り立つている今の我々の社会の有り様と変わりありません。</p><p><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250606/15/oh3ho/80/6c/j/o0277032015610962229.jpg" width="100"></p><p>もう一つは、九つの升目に区切られた「金剛界図」です。上段の三つの升は、ロゴスとレンマが並存しているアーラヤ識状態を説明しています。しかし二段目、三段目になるとタイトルの説明や解釈は一応はあるのですが何が描いてあるのかが良く分かりません。制作者（画家）は、仏典の記述を読んではいるようなのですが、制作者自身もよく分からないで描いているようなのです。</p><p><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250606/15/oh3ho/11/cb/j/o0589064015610962235.jpg" alt="金剛界曼荼羅図" width="350" height="380"></p><p>説明や解説によるとレンマの事を描いているようなのですが、どうもそうではなく、この二段目、三段目は、ロゴスやレンマとは違う第三第四の別の意識・知性の存在を指し示しているように思えるのです。</p><p>ロゴスとレンマを区別して並べるだけではどうも仏教的ではない。と言っているようなのです。冒頭にお話しした「一つの頭脳には、二つの種類の意識・知性がある」ではなく「多くの種類の意識・知性がある」ということではないでしょうか。こう考えた方が、仏の永遠無限無量の意味が良く分かりこれまでの理解の障害が消えてしまうようなのです。これは量子論を借りて、対象を観測した時に初めて意識の種類が分かる。と言うような、人間には難しい智解が必要なのかも知れません。</p><p>ロゴスとレンマ、それらが合成しているアーラヤ識を「ロゴス」で説明する場合、行司役である身内のロゴス部屋所属の「超越的第三者」を持ち出さなくても、これら意識達（多分複数ある）を行司役にすればうまく説明が出来るのではないでしょうか。</p><p>どうも、人間の意識・知性（ロゴスと現実意識）は、三つのこと同時に考えることが限界で、三つ目もあやふやなのですが、四つを同時にとなると全く出来なくて、金剛界図の九つの升を同時に意識思考するなど全く不可能で、ここに描かれている新しい意識・知性に頼らなければ真の理解はできないと感じるのです。</p><p>そして、ロゴスの限界を超えてレンマへ、さらにその新しい意識・知性をも身近に感じる。これが成仏への早道のようにも思うのです。</p><p>そう考えると、成仏への道は外にあるのでなく身の内にある。という先達の教えは本当のようなのです。</p><p>次回はいよいよ、三密の「身」つまり「身体」と「空」の関係。さらに仏教的知性・意識と言われる「レンマ」との関係についてもお話ししたいと思います。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/oh3ho/entry-12908681798.html</link>
<pubDate>Tue, 15 Mar 2022 21:41:10 +0900</pubDate>
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<title>成仏の方法（10）ー 中沢新一著「レンマ学」を読んで…（1） ー</title>
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<![CDATA[ <p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;"><strong>中沢新一著「レンマ学」を読んで…（1）</strong></span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">「成仏」を思う時、このブログでは、これを意識し思考する「知性」が、それに適うものであるかどうなのかを、ずっと考えて来ました。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">我々は、日々、雑事であれ、深刻な事柄であれ、家族や友人、恋人のことであれ、社会や政治、法律、科学、哲学、宗教であれ、全てのことを、頭脳の一つの知性・意識で考えていると思っています。そして他人も、同じ一つのスタイルで意識・思考をしていると思っていて、お互いのコミュニケーションや共感、同意も、当然にその同じ一つの機能から生まれると思っています。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">これは、幼少の頃から家庭や社会の教育過程の中で、科学的常識として、「人には頭脳が一つあり、そこには一つの人間らしい固有の意識、思考、知性がある。」と教えられてきたからで、これが一般常識化し、疑うことなく皆が了解させられています。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">しかし、中沢新一著「レンマ学」では、一つの頭脳には、二つの種類の意識・知性があると言っています。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">それは、「レンマ」と「ロゴス」の二つの意識・知性です。</span></p><div>&nbsp;</div><div><span style="letter-spacing: 0px; font-size: 16px;">次の記述があります。</span></div><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">…&nbsp;</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">レンマは、「ロゴス」と対比される。ロゴスはギリシャ哲学でもっとも重視された概念であり、語源的には「自分の前に集められた事物を並べて整理する」を意味している。思考がこのロゴスを実行に移すには言語によらなければならない。人類のあらゆる言語は統辞法に従うので、ロゴスによる事物の整理はとうぜん、時間軸に従って伸びていく「線型性」をその本質とすることになる。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">これに対してレンマは非線形性や非因果律性を特徴としている。語源的には「事物を丸ごと把握する」である。ここからロゴスとは異なる直感的認識がレンマの特徴とされる。言語のように時間軸に沿って事物の概念を述べていくのとは異なって。全体を一気に掴み取るようなやり方で認識を行う。仏教はギリシャ的なロゴスではなく、このレンマ的な知性によって世界をとらえようとした。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">中沢新一著「レンマ学」（14～15頁から）</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">…</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">= これは、当ブログでお話しをしてきた「粗雑な意識」とは「ロゴス」であり、「繊細な意識」とは「レンマ」のことと同じです。また「事物を並べて整理する」も言語思考の「二項分類（選択）」のことと同じで、分類し選択することで並べが可能になるので、それぞれ置き換えて読んで頂ければ、「レンマ学」と同じことをお話ししていることになります。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">また次の記述、</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">…</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">そこでレンマ学が目指すこところはこうなる。いままでに人類の得たレンマ的知性の本質をめぐる最高の哲学的表現は、大乗仏教の縁起の論理によってもたらされた。だが残念なことにこれは長いこと発達を止めていた。それに代わって人類の知性は無意識のうちに、現代科学の領域でレンマ的知性の蘇りを図っている。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">…</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">中沢新一著「レンマ学」（18～19頁から）</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">= ここでは、仏教的知性=レンマ的知性である。と言っていることになります。そうすると仏教の最終目的である「成仏」も、「レンマ」の知性で理解されることになってきます。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">ギリシャ時代以降の歴史の展開で、西洋世界からそのシステムを取り入れた国々、つまり今日ではほとんど全世界で、ロゴス的知性は社会生活上の現実意識としてその主流になっています。しかし一方レンマ的知性は、西洋社会の常識として、表に現れる「意識」ではなく裏に隠れた「無意識」の領域に留められています。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">　</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">また、</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">…</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">言語を産出する、アーラヤ織の内部構造は、ロゴス的知性とレンマ的知性との合成体をなしているが、二つの知性形態はじつは直交補構造をなしているということが、そこには示唆されている。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">…中沢新一著「レンマ学」（157頁から）</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">= これは、ロゴス的知性とレンマ的知性の位置関係を述べています。<a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/6dd2ce56675d37defc841249034b58c9" target="_blank" rel="noopener">「成仏の方法８」</a>の中で、小津安二郎の映画「秋日和」でお話しした、鑑賞者の２つの意識、山を眺める=「無意識=繊細な意識」と、物語の進行=「現実意識=粗雑な意識」とが、直角に交わり点で接触していると説明した構造と同じになります。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">また、</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">…純粋レンマ的知性には時間性が入り込んできていない。そのため、法界の諸事物は因果関係で結ばれることはなく、線形的な秩序も発生していない。… （157頁から）</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">= この記述の後に、同書では続けて、仏教の「華厳五教書章」により、「相即相入」「一即多、多即一」の華厳思考でレンマを詳しく説明しています。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">このように中沢新一著「レンマ学」を読めば、レンマがわかり仏教の教えの知識も深まります。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">また当ブログの内容も、「レンマ」と「繊細な意識」、「ロゴス」と「粗雑な意識」の言葉を置き換え読んでいただければ、同じことをお話ししていますので、もっと理解（ロゴスで理解）が進むものと思います。</span></p><div>&nbsp;</div><div>&nbsp;</div><div><span style="letter-spacing: 0px; font-size: 16px;">この中沢新一著「レンマ学」は、文字で書かれています。他の諸々の哲学書、科学書、文学書、仏教経典などと同じく、これらbooksは、ロゴス（言語)で理解されることを意図しています。</span></div><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">つまりこれらは、ロゴス思考の側からレンマ眺めて、分析、解釈し、ロゴス（文字）に「翻訳」して伝えようとしていることになります。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">一方仏教の場合、悟りとは何かを、レンマ的知性（仏教的知性）と思考で、日々理解すること強いています。出家修業では命懸けになったりするのですが、しかし、中沢新一著「レンマ学」を読む者には、命懸けのレンマ思考を強いたりはしません。反対に、ここの作業は「ロゴス翻訳」です。「ロゴス翻訳」とは、ロゴスとレンマの思考を重ね合わせて、ロゴスからはみ出ているレンマの部分は削ぎ落とし、足りない部分はロゴスで補足することで、ロゴス（言葉）でレンマが理解できるように、科学（ロゴス）がもつ安全安心思考で親切な導きをしています。</span></p><div>&nbsp;</div><div>&nbsp;</div><div><span style="font-size: 16px;"><strong>ロゴスの性能</strong></span></div><div>&nbsp;</div><div><span style="font-size: 16px;"><span style="letter-spacing: 0px;">この「ロゴス翻訳」の方法は、これまでもお話ししてきた、現代とは「言葉での理解が理解の全てになっている。」世界であることに準拠しています。これは「はじめに言葉ありき」《新約聖書「ヨハネによる福音書」第</span><span style="letter-spacing: 0px;">1</span><span style="letter-spacing: 0px;">章》の聖書信仰を通じ世界基準となり深化してきました。「聖書の言葉による思考」以外の思考は内に抑え込まれ、西洋世界では、ロゴス=言葉=現実意識=社会規範=生活規範=科学=法律=教育などの生活全般がロゴス上で処理され、すべての生活システムで「言葉（ロゴス）」が主になるコミュニケーション社会が出来上がってきました。またこれは聖書と一神教の兄弟であるコーランのイスラム世界ででも同じです。</span></span></div><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">仏教の経典も文字で書かれ、説法も言葉で話されますので、同じロゴス思考の状況が生まれています。レンマ理解が主となる仏教にも、ロゴスの論理やシステム色が色濃く反映されいます。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">レンマ的知性（仏教的知性）とは、本来は仏教思考の入口の手段であるのに、今では、レンマで思考することが仏教の最終到達目標であるかのように誤釈までされていて、この現象は、今日ネットコミュニケーションを競って取り入れているように、仏典発刊の当時は、books（言葉思考とロゴス=books）が最先端のコミュニケーションツールであったからで、今日もネットリテラシー普及の喧伝をするのと同じく、内容がわからなくても読経を続ければ識字率が高まり仏教も普及すると考えたことと同じです。。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">booksは当時のスマホです。そしてコンピュータは、プログラム言語と言われるように、言語思考（ロゴス思考）の拡張から生まれて来ているのですが、しかし今日ネットは、booksの機能をスピード、容量ともにはるかに超えしまい、ネット流の新しい言語思考によって、books流の古い言語思考の駆逐が急速に進んでいます。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">そして、ネットの進歩であるAIやシンギラティ、5G、サイボーグなどの技術で、さらにこれからどんな新しい言語思考（ロゴス）が創られていくのか、ロゴスそのものを超えてしまうのかも知れません。しかし新しくなったといえども変わらず旧式のOSで動く言語思考では変化の見当もつかないので、今は、かえってコミュニケーションが不安で曖昧な時代なのかもしれません。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">現在のロゴス思考の能力測定基準であるIQも、見直しが必要になってきているのではないでしょうか。それ以上に、途方もなく進歩してしまい、今の人間の頭脳能力では収納できず処理できず破綻してしまうか、あるいはそのために、肉体が突然変化を喚起して新しい人間に変異するか、改良するか、拡張するかそんな肉体の生まれ変わりを迫られることになるかも知れません。それは悟りに向かい、精神も肉体もあらゆる手段を用いて変異してゆこうとする仏教の修行の過程に似てくるのかも知れません。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">しかし今はまだ、聖書やコーラン、仏教経典の理解も、古い言語思考のbooks（ロゴス）のその言葉での理解があって初めて機能する。これが人類のコンセンサスになっています。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">このブログも、言葉（ロゴス）で綴られ、<span style="letter-spacing: 0px;">古い言語思考のbooks</span><span style="letter-spacing: 0px;">の言葉で理解することを強いています。</span></span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">今は、「言葉での理解が理解の全てになっている。」ので、言葉でのみ理解することに誰も疑問は差し挟まず、幼児の会話に始まり大人世界でも、教育の強化で身につけた言語を使う理解のみを、われわれは当たり前のものとして営みを続けるています。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">しかし、時々煩わしくなってきませんか。メールを書いたり電話したり、SNSで会話したり、ネットを読んだり、ビジネスをしたり、楽しみにTVや映画を見たり、小説を読んだり、難解な哲学書、法律書、契約書でなくても、簡単に書かれた言葉や文字を読むだけでも、読み終わらないと理解が完了しないその時の遅さに、イライラしたり、疲れて頭が重くなったりしませんか。</span></p><div><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">同じ人間が書いたものなのに、こんなにも苦痛をもたらし、言葉を読み終わらないと理解が得られないのろまなシステムなんて、本当に誰もが歓迎する優れた人間の機能なのでしょうか。こんな疑問が浮かんでくるのです。</span></p><div>&nbsp;</div><div>&nbsp;</div><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;"><span style="font-size: 16px;"><strong>言語化が「存在」を現出させる。</strong></span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">ロゴスには独特の認識方法があります。目や耳や鼻などの五感や皮膚感覚から受けた情報を、「存在」という媒体に変換してから考えるというシステムです。しかし五感や皮膚感覚が送受感して働くにはこの「存在」を必要としません。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">道の角から不意に自転車が出てきても、無意識に瞬時に体を捻り避けます。言葉はいりません。その後体験を記憶するのに「横丁の角から出てきた赤い自転車に轢かれそうになったが右に避けた。小学生が乗っていた。」など、言葉にして「存在」化し言語化記憶にします。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">後で友達に話す時は、主にその言葉の記憶を脳から引き出し話します。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">体験・記憶には二つの種類があります。五感や皮膚感覚が働き、身体が咄嗟に動いて避けた。という言葉が伴わない「運動感覚記憶」と、上記の言葉で覚える「言語化記憶」です。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">大まかには、この言語を伴わない筋肉が覚えている「運動感覚記憶」はレンマに、頭脳が覚えている「言語化記憶」はロゴスに分類できます。大まかにはとは、レンマの生態をロゴスが十分に捉えきれてはいないからです。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">普段、我々の頭にふわっと浮かんできて言葉で説明できる「存在」と感じている事や物は、言葉が創り出した「概念」です。そしてこの「存在」がなければ、会話も生活も科学も社会も哲学も地球もそして「聖書」の神もありません。ロゴスが考える現実生活とは、こんな「存在」だらけでその「存在」を媒体にして認識思考するシステムで成り立っています。</span></p><div>&nbsp;</div><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">では、我々の意識上にふわっと登場する「存在」とはどのようにして生まれてくるのでしょうか。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">何も考えず静かに外を眺めている無意識で瞑想のようなひととき。突然「バサッ」。音に驚き、はっと顔を上げるその一瞬の意識の空白。目の前を音とともに横切る物体。意識をフォーカス、注視。それが羽音を上げ飛び去る「鳥」であると言語化認識する。鳥？。どんな鳥？脳の言語記憶アーカイブの中から、トンビ、若いトンビ、いつも上空を舞っていて、餌を見つけ舞い降りて来たのだ。と言葉の記憶を引き出して、納得する。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">（詳しくは…<a href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/02bbca00e70bf3ef56d3c03c542d2ba7" target="_blank" rel="noopener">成仏の方法（3</a>）をご覧ください）</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">この一連の動作の中で、「鳥」と言語化認識しロゴスが発動した時に初めて、意識の空白が解かれて「鳥」の存在が発動します。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">それまでは、感覚と意識がどんなに高速で働いていても意識に言葉による「存在」は、現れません。無意識状態（レンマ）です。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">ロゴスが現われると、それは「ボンヤリしている私」「目の前に広がる見慣れた雨上がりの景色」「若いトンビ」「留守番をしている私」などであった。と、諸々言葉が表わされて、そこで初めて意識上に「存在」が発現しさらに記憶されていきます。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">この時、言語思考化認識（ロゴス）は、独特の働きをしています。二項分類（選択）の方法です。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">言語記憶には、予め「若いトンビ」と「普通のトンビ」の存在があって、その二つから一つを選択して、「若いトンビ」の「存在」を現出させます。見たことのない「何か」だったら、先ず、記憶の中の「存在」と認められているものの中から、それに似ている「様々なカラス」を取り出し、その鳥達と比較し「若いカラス」を選択して、存在を現出させるか、比較するものがないと「様々な鳥」と「見知らぬ鳥」分類で、「見知らぬ鳥」という存在を現出させます。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">このように物や事は、ロゴスの中で、言葉でラベリングされ記憶され、初めて、知性が対象とする「存在」の姿を現します。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">日常では、言語記憶へのアクセスが頻繁に行われるので、その方法は自動化され、意識しなくても次々と必要な「存在」は現れ続けるようになります。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">しかしここでは言葉とは、月を指差す指であり、月そのものではありません。しかし、言葉（ラベリング）により、時間を止める抽象化が働き、意識は「月」の固有の「存在」を言葉の中に認めるのです。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">意識がレンマにあれば、世界を認識、思考するのに「存在」を設定する必要はありません。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">さらにレンマという言葉自身も、ロゴスで現出された（翻訳されてた）「存在」の一つであり、指差す指であり、レンマそのものではありません。</span></p><div>&nbsp;</div><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">宇宙の物と事の全てを、全人類は、このような方法で、一つ一つ、存在化、歴史化をして、ラベリングされた知識として、頭脳中に又はbooksやコンピュータ、映像などの外部記録に言語化し記録してきました。そして、ロゴスが主導する現実生活の中では、言語思考が、記録（記憶）の中からこれら「存在」呼び出しあるいは新たな記録（記憶）を創りだし、日々の営みを続けています。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">こうして科学も哲学も宗教も社会習慣慣習、法律など社会全体、世界全体がロゴスシステムで動くようになり、「存在」だらけの複雑な人間世界と言うクラウドが生まれています。そのクラウドを言語思考のOSで扱うのが今日のロゴス思考なのです。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">ロゴスそのものである科学の進歩で生まれたハッセル望遠鏡の宇宙学では、今日も新星が発見され、ラベリングされ流通言語化され、目新しい「存在」が次々と発現しているのです。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">この背後には、ロゴスと直交補構造にあるレンマの認識や知性も働いています。レンマに反応して動く感覚、肉体、思考、精神も当然にあります。レンマの記憶もあります。ロゴスに翻訳されて言語化される言語記憶もあります。これがレンマとロゴスが共存して働くアーラヤ識での有り様です。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">これは、物理学で言えば、ビックバンで物質と反物質に対消失が発生、その対称性の破れで残った物質で出来た全宇宙の理解でもあるのです。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;min-height: 16.5px;">&nbsp;</p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">しかし、言語が発達していなかった縄文時代は、言語思考が全てを支配していなかった時代は、少し様子が違っていたかも知れません。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;"><span style="font-size: 16px;">縄文時代が気になって仕方がないというのは、この縄文のレンマの記憶が、現代人の抑圧されたレンマ意識に働きかけるからなのかも知れません。</span></p><p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 11px; line-height: normal;">&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 16px;"><strong>悩める心</strong></span></p><p><span style="font-size: 16px;">では「言葉での理解が理解の全てになっている」今日で、ロゴスにとって、心とは、また、悩める心とは何でしょうか。</span></p><p><span style="font-size: 16px;">感情や無意識など心理状況は言葉にして表せるから、心は言葉でできている。とします。そこから患者が発する言葉を分析すれば患者の心も分析できるとします。こう考えて進化しているのが、今日の医学の精神分析でありカウンセリングです。言葉をたぐり心の治療を行います。心の中にある物や事を患者が言葉にして表せられれば、病状が分かり、治療の方法もわかる。と言う方法です。</span></p><p><span style="font-size: 16px;">これと同じ方法で分析できる言語（ロゴス）による科学的と言われる社会行動スタイルが、政治・経済・科学・法律など、我々が日々を営むその生活を律する基本思考とされていています。つまり、現実意識=ロゴスになるのです。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 16px;">こののろまな言語思考をベースに、言語思考の拡張機能であるコンピュータの力を借りて、ようやくここまで進んできたロゴススタイルとは、本当に、優れた人間の唯一で最終の機能なのでしょうか。</span></p><p><span style="font-size: 16px;">そして、この状況を考える時、我々は、ロゴス思考でしか分析し考え解決する手段を持っていません。</span></p><p><span style="font-size: 16px;">このままロゴスをロゴス（言葉）自身で分析、批評するのは泥棒が泥棒を裁くと同じで、自己撞着に陥ることにはならないのでしょうか。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size: 16px;">昨今ようやく、言葉を生業にする一部の文筆家から、薄々感じてはいたこの自己撞着についての発言を始めてきました。仏教はこの問題に、釈迦をはじめに、沈黙で答えてきました。「ロゴス」をツールにする哲学がこの問題に向き合うことはあるのでしょうか。これは論理上は不都合な事なので触らずにおこうとするのでしょうか。物理学では、量子論や対称性の破れ、量子のもつれ、ニュートリノ、超弦理論など、結果が「ロゴス」を逸脱することになるような研究が進んでいます。AIやクラウド、量子コンピュータなど高性能化が進み、「ロゴス」が手にする分析ツールも進歩し、これらの進歩方向は、明らかに「ロゴス」思考の限界を目指しているようなのです。</span></p><p><span style="font-size: 16px;"><span style="font-size: 16px;">長くなりました。</span></span><span style="font-size: 16px;"><span style="font-size: 16px;"><a title="" href="https://blog.goo.ne.jp/oh3ho/e/6d712fb9ede0cf774e9e5e885adce18b">次回へ</a>続く…</span></span></p><div><span style="font-size: 16px;">&nbsp;</span></div><div><span style="font-size: 16px;">&nbsp;</span></div><div>&nbsp;</div><div>&nbsp;</div><div>&nbsp;</div><div>&nbsp;</div><div><span style="font-size: 16px;">&nbsp;</span></div><div>&nbsp;</div></div>
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<pubDate>Wed, 02 Mar 2022 08:36:00 +0900</pubDate>
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