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<title>太陽恐怖症</title>
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<description>最近は前より空が怖くなった</description>
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<title>どちらかしか無い物は無いという事について</title>
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<![CDATA[ よく下〜中産階級の人々と接していると「私は優しいのか、性格が悪いのかわからない」だとか「私は夢に進むべきなのか、現実を見るべきなのかわからない」などの様に２つ存在する事象において両者の重要度を測りかねる/どちらが正解か決めかねる 不断を見るのだが、その際に人間が陥りやすい罠がある。それは「２つ事象があったとき、それらは常に排反である」と誤解する事だ。<div><div>この誤解をする人間たちはもっぱら家庭がそこまで裕福でなく、小さい頃から両親に「Aのお菓子か、Bのお菓子か、買えるのはどちらかだから選びなさい」などと言われ育ってきた傾向がある。なぜなら、今書いた通り裕福でない人間は経済的選択が制限された状態で成長して行くため、必然的に概念を選択する際の自由をも制限してしまうからだ。それに対し、<span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">裕福な人間は幼い頃より「どちらも」という選択肢を与えられていたため「どちらなのかわからない」という思考に至る前に"より"深い考察を可能とする。</span></div><div><br></div><div>それにしても、必ずどちらかに不正解が存在する≒どちらかしか選択ができない という考え方を単なる経済的選択に留めず、ましてや全ての排反である(と奴らは思っている)事象に適用してしまうのは些か早計でないだろうか。私にはそれが理解できなかった。</div><div><br></div><div>先の例を挙げると、「私は優しいのか、性格が悪いのかわからない」という不断がある。ここで得られる事象(命題)は、"私は優しい"と"私は性格が悪い"である。</div><div>ここで彼女はそれら２つの事象と自らの生活態度を照らし合わせる。1日に何回風呂に入るか、シャワーは含まれるか、友達は何人いるか、友達にはどう思われているか、どれくらい食べるか、酒は飲むか、居場所はあるか、親の性格はいいか、不断自分はどう言われているか、など無限のチェックボックスを埋めて行き結論を出そうとするのだ。ここには多くの思考の落とし穴がある。例えば優しい、優しくないなどでは表せない自分の性格もチェックボックスに入れてしまっている事だ。例えば、彼女が自分は大食いだと考えているのなら、それはそれで全く構わないだろう。しかしもし彼女が少しでも普段から「私は嫌われているのだ」と考えていたりしたら、大食いは不潔の証となるかもしれない。不潔は嫌われるきっかけとなるかもしれない。嫌われる人間は性格が悪いのかもしれない。そういった思考のみは、やめておけばいいものを、大変危険な思考の迷路を棍棒を持ち怖がるというよりはむしろ勇んで進んでゆく。それでは正常な評価などできそうにもない。</div><div>もう１つの落とし穴は、チェックボックスが文字通り「無限」であるということだ。多くの人間は無限個あるチェック欄を全てマークすることはできない。人生をかけて、朽ち果てても、半分も埋めることができないだろう。複雑な社会の中で自らの評価項目は本当に無限とある。"ごまんとある"という言葉よりも強調されるべき数存在する。それを脳内でチェックしきることは、我々にはできない。皆途中でやめてしまい、不完成のマークシートを見ながらものごとの評価をしてしまう。これでは正当な評価などあるわけがない。</div><div>このように、どちらだろう？とチェックボックスを２つに分けてしまうことは、早いように見えて非常に遅いのだ。</div><div><br></div><div>ではどうすればいいかというと、「排反な事象はそもそもそんなに多くないのだ」と考えるのが良い。例えば先の例で言うと「私は性格が悪く、かつ優しいのだ」と考えるということだ。人間は人間であるから、当然思考にもムラが生じる。それらがアウトプットされたとき、本人の人柄にもムラが生じるのは疑うまでもなく自明だ。人間らしいといえばらしいが、そういったところに本質がある。</div><div>このように考えることで悩みの多くは解決するだろう。「愛しの彼女は私のことを好いているのか、嫌っているのか」ではなく、「愛しの彼女は私のことを好いており、同時に嫌っているのだ」と考えるのだ。これは私の好きなところは好きで、嫌いなところは嫌いである。という言われれば至極当たり前なことを言葉にしただけである。本当に奴らはできそうでできない。可哀想である。</div><div><br></div><div>余談。私にも愛する女性がいるが、彼女は当分私のことを愛し切ってくれるだろう。嬉しいことこの上ない。この場合私の脳には「悲しい」だとかそういった要素はないので、排反どころかベクトルは一本である。こういうときに無理して２つの事を考える必要はない。そういうことをする奴はメンヘラと呼ばれたりするが、それはまた別の話。</div><div><br></div><div>一通り言いたいことは言い終えたが、この前「大丈夫でしょうか」と訊くのは所謂若者敬語であるため避けるべきだと聞いた。はて、若者敬語は本当に避けるべきなのだろうか？若者の立場からはっきり言わせて貰うが、そんなことは無い。</div><div>言葉というものは常に変形していく巨大な怪物のようなものであり、その姿形を形容することは誰にもできないのである。私が生まれた頃にはスマートフォンなんて言葉はなかったが、スマートフォンは言ってはいけない言葉なのだろうか。少なくとも私の周りではそんなことはない。老人にスマートフォンという言葉を使っても、相手がキチガイでなければ怒られることはない。キチガイなら怒られるが、多分そいつらには「電話」「こんにちは」「集団ストーカー」などと言っても普通に怒られるだろう。</div><div><br></div><div>寝る。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div></div>
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<link>https://ameblo.jp/ohyesiamy/entry-12281189519.html</link>
<pubDate>Tue, 06 Jun 2017 03:21:18 +0900</pubDate>
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