<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>人生送りバンド主義！</title>
<link>https://ameblo.jp/okuribando/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/okuribando/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>世の中に対する極めて個人的な考えを書いていきます</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>「隠し砦の～」に出てきたすすき林、あれ御殿場だら～！</title>
<description>
<![CDATA[ <p>今回はメディア関連の分野で活躍するＮＰＯのリポートです。</p><br><p>僕が紹介するのは「フィルム微助人（ビスケット）」っていうＦＣ（フィルムコミッション）。<br></p><p>初めてこの団体の存在を知ったのは、高校時代。<br>高校のＯＢで映画監督をしている原田眞人という人が、<br>高校の定期講演会に来たときにこの団体についてさらっと触れていました。</p><br><p>それ以来今日まで思い出すことはなかったんですが、<br>「ＦＣ」って聞いてそう言えば聞いたことがあると思って、調べてみました。</p><br><p>主な活動はロケーション撮影などの映像制作支援や町おこし、<br>また静岡県東部地域の地域資源（ロケができるような場所、エキストラ人員　etc）などの<br>蓄積や発掘をやっています。</p><br><p>地元民には常識ですが、御殿場や小山・須走地区はドラマや映画のロケで良く使われます。<br>大体バックに富士山が見えて、ススキがボーボー生えているような小高い丘のシーンが出てきたら、<br>御殿場ら辺で撮影している可能性が高いです。</p><br><p>普段は静かな地域だけに、そうしたイベントが起こるとかなり話題になったりもしていて、<br>「西遊記で香取慎吾が来たらしいよ」とか<br>「セカチューで綾瀬はるか来てたよ（これは富士市）」とか<br>高校時代はそうした山人（やまんちゅう）と呼ばれる、御殿場地区出身者の報告を聞いては<br>昼休みに無駄にテンション上げてたのを思い出しますね。</p><p>この「ＦＣ　フィルム微助人」はそのように、静岡東部地区でロケ撮影が行われる時に、<br>エクストラを提供するなどの撮影支援を行っています。</p><p><br></p><p>でももっと重要なのは、やはり「地域資源の保存・蓄積」という点です。</p><br><br><p>ちょっと話はそれますが、この前「となりのトトロ」を見ました。<br>あの作品で出てくるような日本の田舎の夏の風景は、<br>もうほとんど残っていないのではないかと思うと、とてつもなく切なくなりました。</p><br><p>我が地元沼津市もここ数年、駅前の再開発や沿岸部の整備なども進み、<br>急速にその姿を変えつつあります。<br>地元に帰るたびに新しいビルが増えているのは嬉しいような、悲しいような、<br>複雑な心境であるというのが正直なところです。</p><br><p>駅前のイーラde沼津にも行ってみたいけれど、その反面で牛臥、大瀬の海岸や<br>熱海のちょっとした石階段の裏道、函南の一面の田んぼなど無くなってほしくないものもたくさんあります。</p><br><p>観光地ではないけれど、いつまでも変えてほしくないちょっとした自然や町並みを守るのに<br>やはりその土地に根ざしたＮＰＯは最適だと思います。<br>また、そのような自分の愛しい景色がふとメディアに映ったら、<br>たとえそれが何でもないようなシーンであってもなんか嬉しいじゃないですか。<br>そしてそんなチャンスを増やしてくれているこの「フィルム微助人」にはいち静岡東部人としてホントに感謝。</p><br><p>海水面上昇で沈みゆく国の心配をすることも確かに大事、<br>でもそれを直接的に救える人はほんのごく一部なはず…</p><br><p>それよりも、自分が育った町や自然、祭りなどの文化をもう一度愛し、守っていこう。<br>地元を最後に救えるのは、なんだかんだでやっぱり「じもてぃー」（古い？）だけだと思うから。</p><br><p>「フィルム　微助人」　公式ＨＰ：<a href="http://www.befilm.org/index.html">http://www.befilm.org/index.html</a> </p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/okuribando/entry-10119077043.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Jul 2008 23:53:41 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>雑感</title>
<description>
<![CDATA[ <p>ブログを書いてみて思ったことは</p><br><p>①まず読まれなくては意味がない</p><br><p>②言葉だけでの表現は難しい</p><br><p>③自己顕示欲が出てくる</p><br><p>ということ。</p><br><p>①に関しては、ブログを書くことの意味は「不特定多数の人による意見交換から、集合知や合意を形成すること」<br>にあると思うので、その下地として多くの人が目を通し、コメントを書きこむという環境が必要不可欠。<br>そしてその下地を作るための努力が必要にもなってくる。<br>書き手が有名人である場合のように、何もしなくてもその人のプロフィールが読者を惹きつける場合を除くと<br>やはりその文章が面白いとか、ブログの内容（着眼点）が面白くないといけないってのをかなり感じた。</p><br><p>②は①の後半と少し被ってくるのだけれど、多くの読者を得るために面白いことを書かなくてはならないが、<br>誰にでもそのような文章が書けるわけではない。また、書いた内容が書き手の意図に反した解釈をされたりして、<br>非難の集中砲火（炎上）が起こることもある。そんな事態を避けつつ、物事の核心をつくような内容を書き、<br>尚且つそこにウィットも含ませようとすれば、かなり高度なリテラシー能力が求められてしまう。<br>この点から考えると、ブログによって意見を発信し、それによって何らかの合意形成を行えるのは一部の限られた人だけなのでは？と個人的には思ってしまう。</p><br><p>③に関しては、自分自身が書いていて最も感じたことです。特に授業内容に関連したレポートの為のブログであるため<br>個人的に文献やネットから資料検索などの下準備をしてから書くことも多かったのですが、普通のレポートだったら<br>省略したり、字数を抑えたりするところも、あえて文中に盛り込んで「俺はこんだけ調べましたよ」というのを<br>無意識にアピールしようとしてしまってました。<br>（見られるかどうかは別として、構造上は）たくさんの人の目に触れるものであるため、紙で提出するレポートとは<br>違った種類のプレッシャーを感じました。</p><p><br>半年間自身のブログを持った感想としては、ガバナンスという観点から考えると、ブログが合意形成に役立つかにはまだ疑問を感じる。ブログは見るだけで、実際にコメントを書き込んだりはしないという人も多く、参加者はネット上級者が多い中で、ガバナンスの万人参加という目的は達成されていないように思う。</p><br><p>ただ、ブログを書くことは人間が考えるようになるのには訳に立つかもしれない。というのは、例えば公開日記のようなジャンルの日記を付ける場合、そのネタを日々の生活の中に求める過程で、それまで気付かなかったようなものに着眼したり、当たり前にしていた習慣などをもう一度見直すようになったりなどのきっかけとしては、ブログを書くことは最適であると思う。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/okuribando/entry-10116190785.html</link>
<pubDate>Mon, 14 Jul 2008 17:50:50 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>みんな違って、みんないい！</title>
<description>
<![CDATA[ <p>図書館を指定管理者に委託するかどうか。<br></p><p>もちろん両者にはそれぞれ長所と短所が存在するのだから<br>どちらかに偏るのではなく、それぞれのタイプの図書館があっていいと思う。</p><br><br><p>指定管理者制度の導入によって最も危惧される問題は<br>蔵書の偏りだと思われる。<br></p><p>確かに指定管理者制度にすれば市民に迎合して、<br>ベストセラーなどに偏重した蔵書をすることは考えられる。<br></p><p>しかし、その対策としては</p><p>・それ以外の自治体運営下の中央図書館のような場所が<br>バランスのとれた蔵書をしておくこと。</p><br><p>・そしてそれぞれの図書館の蔵書のデータベースから<br>蔵書を検索できるようなネットワークを整備する。</p><br><p>・そして申請することでその本を取り寄せられるようにする。</p><br><p>これなら、多少めんどくさいが、知の公共財産が失われることはない。<br>現に城北図書館でも、市内全体の図書館の蔵書を検索することができる。</p><br><p>また、逆に市立図書館で人気の本がなかなか借りれない問題。<br>（現に城北図書館では、「ホームレス中学生」や「夢をかなえるゾウ」などを<br>寄付して下さいという張り紙がある。）</p><p>逆に人気の本を多く持つ図書館からの取り寄せができれば<br>長い順番待ちをしなくてもよくなるのではないか。</p><br><p>以上から、お互いを補完し合う存在としてそれぞれの制度が取り入れられれば良いと思う。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/okuribando/entry-10114119543.html</link>
<pubDate>Tue, 08 Jul 2008 14:09:06 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>パブリック・アクセス</title>
<description>
<![CDATA[ <p>もっぱらメディアと我々の関係は</p><p>新聞社やテレビ局が作ったものをほぼ一方的に受け取るという場合がほとんどだ。</p><br><p>しかし電波は一種の「公共財」であるため、</p><p>一方的に受け取るだけでなく、我々自身がそれを利用した発信者になる権利もまた存在する。</p><p>これがパブリック・アクセスという考え方である。</p><br><br><p>しかし、放送には素人である視聴者がテーマを立て、番組制作をするので、<br>その内容や構成が他人の関心を持つことができなかったことなどから、<br>国内では徐々に衰退していくことになり、<br>現状では地方のローカル局で、<br>その地域の生活や出来事などを取り上げた<br>一種の視聴者参加番組として引き継がれている。</p><br><br><p>このように、日本ではあまり受け入れらなかったパブリック・アクセスだが、<br>今後の発展にむけて、明るい兆しも見えてきている。</p><br><p>まず、You Tubeなどの動画配信サイトの普及によって<br>一般人でも、映像の制作・配信に触れる機会が多くなったことで、<br>一人ひとりの映像編集スキルが向上してきているということである。<br>もはやプロとアマチュアの間に、昔ほどの差は無いはずである。</p><br><p>さらに、2011年から始まる地上デジタル放送。<br>番組という限られた映像メディアだけで必要な情報を伝えることは困難だったが、<br>地デジ放送の技術で構成力の差を補完するような使い方ができれば<br>かなり完成度の高いコンテンツを制作できるようになるのではないだろうか。</p><br><p>パブリック・アクセスにここらでもう一度注目してみる価値は十分にある。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/okuribando/entry-10114100124.html</link>
<pubDate>Tue, 08 Jul 2008 12:42:17 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>主観　with ジャーナリズム</title>
<description>
<![CDATA[ <p>古森義久さんの「ステージ風発」<a href="http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/627332/#cmt">http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/627332/#cmt</a> を読んでみた。</p><br><p>読んでみた感想でまず浮かんできたのは</p><br><p>「この人は中国が嫌いなんだろうな…」</p><br><p>ということ。</p><br><p>たしかに純粋に見ればこの人は産経新聞の論説委員・編集特別委員だから、</p><br><p>産経の紙面上においても、自身の意見としてある程度主観を述べることもアリだとは思う。</p><br><br><p>しかし、このブログでは</p><br><p>全文を通じて、中国人がいかに日本人を嫌っているか。</p><br><p>そして現地の教育がいかにそれを作り上げたか。</p><br><p>そして中国当局が、いかにそれを放置しているか。</p><br><p>が辛辣に書きあげられている。</p><br><p>さすがに新聞というジャーナリズム上ではここまで一方的な立場では書けないのではないだろうか。</p><br><p>中国側をフォローする文も、ほぼないに等しい。</p><br><br><p>でもここまで一方的に言っているからこそ、</p><br><p>「ああこの人はここまで言いたかったんだな」というのも伝わってきた。</p><br><p>新聞のような公共の場では言えないコト</p><br><p>使えないような文体が</p><br><p>このブログでは許されている。</p><br><p>そして、これほどまでに厳しい口調だからこそ、</p><br><p>新聞の文法表現で書かれたものとは違って</p><br><p>読む側にもそれだけの迫力が伝わってくるのだと思う。</p><br><br><br><p>新聞とブログはそれぞれ長所短所を補完し合いながら存在する。</p><br><p>読み手の方がそれを頭に入れつつ、それらを利用・構成していくべきだ。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/okuribando/entry-10111735955.html</link>
<pubDate>Tue, 01 Jul 2008 13:17:07 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>バウリンガルはどこへ行った？</title>
<description>
<![CDATA[ <p>実家にいたころから、我が家の朝は「めざましテレビ」である。</p><br><p>いつから見始めたのかは分からないが、物心ついた頃には習慣になっていて、朝のテレビ番組の「めざましテレビ→とくダネ！」という流れはもはや不動のポジション。</p><br><p>成人を直前に控えた現在も、「今日の占いカウントダウン」のふたご座の順位に一喜一憂してから家を出るという朝のルーティンワークは変わらないし、クオリティがコンスタントに高いことで定評のあるお天気コーナー出身のアナウンサーを他番組で見かけるたび、そのアナがめざましテレビ時代の自分の私生活を思い出しては「あんなこともあったっけなぁ」などとノスタルジックな気持ちになるくらいである。</p><br><p>このように私の朝を語る上で（語ることなんてほぼないけれど…）切っても切れない関係にあるめざましテレビなのだが、１つだけ昔から好かないコーナーがあった。</p><br><br><p>そう「きょうのわんこ」である。</p><br><p>これは一匹の飼い犬をクローズアップし、その犬の性格や特徴、癖を紹介するコーナーであるのだが、</p><p>なぜ嫌いなのか…</p><br><br><p>とにかく胡散臭いからである。</p><br><br><p>１度見たことのある人なら分かると思うが、あのコーナーで最も多いパターンは「毎朝そのわんこに挨拶していく小学生たち」の映像だ。</p><p>確かに微笑ましい光景なのだが、ホントに毎朝その家の前で止まり、名前をみんなで呼び、出てきた犬をなでてやり…といようなことをしているのだろうか？まずないだろう。第一収録の日に、収録をしているほんの些細な時間帯にタイムリーに小学生の集団が現れて、みんなでそろって犬の名前をよぶなんていう都合のいいことはそうそうおこらないのでは？</p><p>自然に考えれば飼い主が事前に「○月○日にめざましテレビがくるから、みんなうちの犬とうつってみない」と言っているか、もしくは収録のクルーがそれこそ通りがかりの小学生を捕まえて出演交渉しているというのが妥当である。</p><p>それをあたかも日常１コマのように放送するのは「ヤラセ」であろう。</p><br><p>また、もう一つ多いのはコーナーの結びにナレーターが</p><br><p>「○○に幸せを感じる太郎（犬名）なのでした～」とか</p><p>「寂しさもへっちゃらになるポチ（犬名）でした～」といったように</p><p>あたかも犬の気持ちを代弁するかのようなコメントを残すことである。</p><br><p>めざましテレビには犬語（仮に言語ならね？）を解釈できるスタッフがいるのだろうか？</p><p>もしくはかつて、一大センセーションを起こした「バウリンガル」で犬の感情を読み取っているのだろうか？</p><br><p>第一、本来は野生のものである動物を人間世界で飼ってる時点で彼らが幸せかどうかなんてわからないはずである。</p><br><br><br><p>どんな些細な窃盗も罪であるように、このような小さなやらせも罪になるのではと考える私なのでした…(わんこ風）</p><br><br><p>フジテレビ系「めざましテレビ」（月～金）05：55～08：00　　07：54分頃　きょうのわんこ</p><p>今回参照した回　５月１９日放送　犬名：マル　　５月26日放送　犬名：ニコ</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/okuribando/entry-10100442003.html</link>
<pubDate>Mon, 26 May 2008 23:59:16 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>間違えるのも自由だ！</title>
<description>
<![CDATA[ <p>光市の母子殺害事件に関して<br>青学の准教授が書いたブログが炎上したという事件。</p><br><p>この教員は本当に間違ったことをしたのだろうか？</p><br><p>法律を違反した訳でもなく、誰か特定の個人を中傷したわけでもない。<br>ただ一つの事件に対する、私的な感想と考えを述べたに過ぎない。<br>その考えに対して、<br>裁判の当事者である原告側が訴えを起こしたのならまだ納得がいくのだが<br>おそらくそのブログにコメントした多くの人は、<br>そのような立場にはないはずである。</p><br><p>また<br>「彼女の考えが問題なのではなく、表現の仕方が不適切だった」<br>という主張に対しては特に違和感を感じる。</p><br><p>なぜなら真の意味での言論の自由には</p><p>～誤ったこと（表現）を述べる自由も含まれている～</p><p>はずだからである。</p><br><p>これは1979年に起きた「北方ジャーナル事件」</p><p>（北海道知事選に立候補を予定していた元旭川市長が、<br>自分に対する中傷ともとれる内容の記事が掲載された雑誌の事前差し止めを札幌地方裁に申請し、<br>その仮処分が認められたことに対して、原告である出版社側がこれを検閲にあたるとして起こした訴訟。<br>結果は一審、二審、最高裁判決のすべてで原告の訴えを棄却。</p><p>事前差し止めは検閲ではないという判断が下された。）</p><p>における最高裁判決の中で、裁判官の補足意見として述べられている。</p><br><p>「思うに真実に反する情報の流通が他人の名誉を侵害・毀損する場合に、<br>真実に反することの故をもって直ちに名誉毀損にあたり民事上、刑事上の責任を問われるということになれば、<br>一般の市民としては、表現内容が真実でないことが判明した場合にその法的責任を追及されることを慮り、<br>これを危惧する結果、いきおい意見の発表ないし情報の提供を躊躇することになるであろう。<br>そうなれば、せっかく保障された表現の自由も『自己検閲』の幣に陥り、言論は凍結する危険がある。</p><p>　</p><p>このような『自己検閲』を防止し、公的問題に関する討論や意思決定を可能にするためには、<br>真実に反した言論をも許容することが必要となるのである。<br>そして、学説も指摘するように、言論の内容が真実に反するものであり、<br>意見の表明がこのような真実に反する事実に基づくものであっても、<br>その提示と自由な討論は、かえってそれと矛盾する意見にその再考と再吟味を強い、<br>その意見が支持されるべき理由についての</p><p>より深い意見形成とその意味のより十分な認識とをもたらすであろう。<br>このような観点に立てば、誤った言論にも、<br>自由な討論に有益なものとして積極的に是認しうる面があり、<br>真実に反する言論にも、それを保護し、<br>それを表現させる自由を保障する必要性・有益性のあることを肯定しなければならない。（以上主文から抜粋）」</p><br><p>この見解の背景には米国の、ニューヨーク・タイムズ対サリバン事件（1969年）の裁判において<br>最高裁のブレナン判事が行った法理があると言われているが、</p><br><p>つまりは、人間に常に100％の真実を語ることを強要したら、<br>人間は誰しも息苦しくなって自由にものが言えなくなる。<br>人が何かを語る場合、少し息抜きをするためにも、<br>多少は事実でないこと（下品、攻撃的、侮辱的な内容の主張、誤った情報、中傷を含む）<br>を語ってもよしとされる空間を残しておくことが、<br>真の言論の自由を保障するためには必要だという判決である。</p><br><br><p>だからと言って、全くのでまかせによって他人を攻撃していいというわけではもちろんない。<br>もし、その表現や言論に現実的な悪意（プライバシー侵害となることを知っていて、<br>またはプライバシー侵害になることを無謀にも無視する態度でもって表現行為をすること）が<br>あった場合には、名誉毀損という形で犯罪として扱われる。<br></p><p>これは言い方を変えれば、表現の不適切性を成立させる要件として<br>この「現実的悪意」（口を滑らせたのではなく、意図的であったということ）を<br>訴える側が証明しなければならないということである。</p><br><br><p>しかし、今回のように<br>教員側が自身の考えを述べると同時に（あくまでも個人的な意見としてだが）その根拠も示している場合<br>実際の裁判においては第三者であるブログ閲覧者が、その現実的悪意を持ち出すことは無理だと思われる。</p><br><p>だからこそ、ブログ炎上後の大学側の対応には残念である。<br>青学ほどの伝統も実績もあるマンモス校なら<br>多少世間から叩かれたところで大学自体が潰れるとは考えにくいのだから<br>平身低頭で一方的に謝罪するのではなく<br>（最低でも、「一人の教員の私的な発言なので関与しかねる」程度には）<br>精神の自由の観点で何らかの見解を示すべきだったと思う。</p><p><br>前述したブレナン判事の判決文を読んで、<br>久々に「アメリカのカッコ良さ」みたいなものを感じた。<br>また、それと同時に思うのは<br>戦後60年を越えても尚、<br>自由や権利というものに不器用な日本人は<br>それらの新しいメディアに慣れていないだけなのか？<br>それとも使いこなす素質がないのか？</p><p><br>ブログは個人という、社会における最小単位で持てる、<br>きたるべき情報化社会の新しい情報発信のメディアである。<br>だからこそそこに自由闊達な主義・主張が期待されるし、<br>それこそがブログが持つ最大の魅力であると思う。<br>しかし、今回の事件を通して分かるように<br>まだまだ多くのユーザー側に、言論の自由に関して知っておくべき知識が欠けている。<br>どのようなシチュエーションでそれが脅かされ、壊れるのか。<br>そしてそれによってどんな弊害が起こるかという認識も足りていない。</p><br><p>他国の独立と人権を叫ぶのも悪くないが、<br>その非難されている対象と我々とには<br>言論や人権に対する理解に大差はないのかもしれない。</p><br><p><br>「宗教や政治の世界には、きわめて大きな見解の相違がある。<br>ある人にとって侵すべからざる最高教義が、他の人にとっては許すべからざる誤った見解だ。<br>人は、他人を自分の見解に従わせようとするときには、しばしば、誇張に奔るし、宗教指導者や政治指導者を中傷したりする。<br>虚偽を言ったりさえする。<br>　しかし、この国の人々は、言論表現の自由が、時に行きすぎや、悪用・乱用があっても、<br>長い目で見れば、民主主義社会に住む人々の考えと行いを、より良い方向に導いていくのに不可欠であったし、<br>これから先も不可欠であるということを知っている。」　（ブレナン判事　N・Y・タイムズVSサリバン判決　より）</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/okuribando/entry-10096028130.html</link>
<pubDate>Mon, 12 May 2008 05:47:41 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「私が考える成人の線引き」</title>
<description>
<![CDATA[ <p>現在、日本では満20歳以上が成人である。</p><br><p>しかしそもそも成人って何だろうか？</p><br><br><p>昔の中国では、男子は20歳前後になると「冠礼」という儀式をして「童子」から「成人」になったという。</p><br><p>この儀式の時に彼らは一人前の証としてまげを結い、儀式の仲介から字を（あざな）を賜った。</p><br><p>そして最後に社会的な身分を示す冠を戴き、晴れて社会の構成員として迎えられるわけである。</p><br><p>（ちなみに、現在も「弱冠○○歳での快挙！」」などと言う時に使われる「弱冠」は</p><br><p>　この冠礼を行う年齢を古代中国では”弱”といっていたことが由来になっているのです。）</p><br><br><br><p>またかつての日本での成人の儀であった「元服」はもう少し若く、</p><br><p>天皇家や貴族などの特権階級は12～14歳、</p><br><p>武士は13～15歳、</p><br><p>庶民は大体15歳以上で行われていた。</p><br><p>こうして成人になった後は</p><br><p>それ以前とは違って様々な権利を手にすることになり</p><br><p>上流階級では位が与えられ、官職に就けるようになっていた。</p><br><p>また身分に関わらず、</p><br><p>結婚や財産相続などが許されるようになったのも元服以降である。</p><br><br><p>（ちなみにpart2　　桜田門外の変で暗殺された井伊直弼ですが、事件が起こったのが3月3日なのに</p><br><p>　墓碑に刻まれている没日が3月27日なのは、後継者が元服をすませていなかったので、</p><p>　</p><p>　死亡の公表を遅らせたためであるという説もあります）</p><br><br><p>しかしそれらとは逆に、農民は元服することで人頭税の対象になったりと</p><br><p>成人には「権利」と同時に、「義務」もまた発生してもいるという点を見逃してはならない。</p><br><br><br><p>多少話はそれましたが、これらを踏まえた上で私が考える成人とは</p><br><p>「与えられた権利を正しく運用でき、尚且つそれに見合った義務を果たせる人」である。</p><br><p>具体的には、例えば参政権はもう少し若い年齢から与えても良いのではないだろうか。</p><br><p>建前上は、義務教育である中学校卒業時点で投票に必要な知識はだれにでも備わっている筈であり、</p><br><p>中学校卒業後すぐに社会に出て働くといったようなケースでは</p><br><p>なおさら政治的な権利を持ってしかるべきであると思う。</p><br><p>若者は政治的な興味や経験が浅いので扇動されやすいとか</p><br><p>学校などでの人間関係に左右されて投票するのではないかという懸念もあるとは思うが</p><br><p>アパシーは若者に限った話ではないし</p><br><p>会社や親族ぐるみでの組織票があることを考えれば、現状とて大差はないように思う。</p><br><br><p>ただ「飲酒」に関しては私は現在の20歳以上という現状据え置きで良いと思う。</p><br><p>なぜならこれは身体的な年齢に大きく関わってくる問題だからである。</p><br><p>こんなことを書くのは不謹慎かもしれないが、</p><br><p>20歳前に飲酒経験がある人も相当数いるのが悲しい現状である。</p><br><p>しかしかつてはアスリート（自称）のはしくれだった私に言わせれば、</p><br><p>10代の青年期は運動生理学的にはゴールデンエイジと呼ばれ</p><br><p>筋肉や骨格、そして神経系が著しく発達する時期である。</p><br><p>その重要な時期に中枢神経や内臓にわざわざ負荷をかけるようなマネをしては絶対にもったいない！</p><br><p>体力のあるうちは身体能力をできるだけ磨いてほしい！</p><br><p>肝臓の黄金期は20代から！絶対にそこからでも十分鍛えられる！　</p><br><p>はずなのだから…</p><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/okuribando/entry-10090262220.html</link>
<pubDate>Mon, 21 Apr 2008 22:33:19 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
