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<title>cobyの音楽ブログ</title>
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<description>気になる動画を紹介しています</description>
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<title>しばらくおやすみします</title>
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<![CDATA[ 最近アクセス増えたけど<br><br>のんびりします<br><br>ゆっくり旅へ<br><br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/r51nht0DRZ4" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>
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<pubDate>Wed, 17 Apr 2013 06:47:26 +0900</pubDate>
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<title>akko - Man &amp; Woman</title>
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<![CDATA[ 可愛い声だよなー<br><br>(´▽｀)<br><br>癒されます<br><br><br>akko（あっこ）／ボーカル 1973年1月10日、東京都で生まれ、神奈川県伊勢原市で育った。<br><br>血液型はAB型。<br><br>本名は赤松 亜希子（あかまつ あきこ）。<br><br><br>My Little Lover - Man &amp; Woman<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/U_rvA2HAR1I" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>akko（あっこ）／ボーカル、結成時から在籍する唯一のメンバー。<br><br>中学から神奈川県立有馬高等学校にかけて新体操に打ち込んでいたが、怪我や才能の限界により断念。<br><br>5歳の頃からピアノを習っていたこともあり、国立音楽大学へ進学した。<br><br>テレビ番組『トシガイ』で、弾いたことのないアコースティックギターを35万円で衝動買いした。<br><br>その後猛練習し、2008年12月のコンサートで披露していた。<br><br>趣味は墨絵、散歩。<br><br>1996年に、MY LITTLE LOVERのキーボードを担当していた小林と結婚したが、2008年元日に離婚した。<br><br>離婚後、女手ひとつで娘2人を育てており、スケジュールもそれに合わせて組んでいる。<br><br><br>My Little Lover - Hello, Again ～昔からある場所～ <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/IcJGXREQJ1I" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>小林武史（こばやし たけし）／キーボード 1959年6月7日生まれ。<br><br>山形県新庄市出身。血液型はB型。<br><br>1stアルバム『evergreen』からメンバーに加入。<br><br>ほとんど全ての作詞作曲、編曲を行い、バンドの音楽プロデューサーだった。<br><br>PVや音楽番組ではベースを演奏していたこともある。<br><br>2006年にエイベックスへ移籍した際、メンバーから脱退しているが、MY LITTLE LOVER の公式ホームページ上には小林のプロファイルが記載されており、脱退後も楽曲提供、アレンジ、プロデュースを行っている。<br><br>所属事務所（烏龍舎）の社長でもある。<br><br><br>藤井謙二（ふじい けんじ）／ギター 1969年3月8日生まれ。<br><br>広島県福山市出身。血液型はA型。2002年に脱退。<br><br>ギターの演奏力も高く、小林からの評価も高い。<br><br>また、作曲も行っていた。<br><br><br>My Little Lover - Yes ～free flower～ <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/5X0sUsQNL4U" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>小林武史が、知人に紹介され関心を持ったakkoと、かねてよりデビューさせたかったというギタリストの藤井謙二の2人組ユニットをプロデュースする形でMY LITTLE LOVERとして、1995年5月1日にデビューさせた。<br><br>曲は小林がほぼ全て作詞、作曲、アレンジした。二人はテレビにも出演したこともあり、『Man &amp; Woman／My Painting』（最高位7位）（1995年5月1日）、『白いカイト』（最高位11位）（1995年7月3日）はいずれも50万枚を超え、新人としては高セールスを見せた。<br><br>さらに翌月『Hello, Again ～昔からある場所～』（1995年8月21日）を発売。ドラマ主題歌でもあったこの曲が大ヒット。<br><br>180万枚を超え、トップミュージシャンとして認知されることになる。また、小林はMr.Childrenのプロデューサーとしても大ブレイクしている最中で、その手腕の高さが評価された。その冬には1stアルバム『evergreen』をリリース。約280万枚を売り上げた。<br><br> また、アルバム発表時から小林がMY LITTLE LOVERの一員、キーボードメンバーとして正式加入し3人になった。<br><br>1996年、akkoと小林が結婚したことを発表、同時に妊娠もしており出産のため活動休止に入った。<br><br><br>My Little Lover - Private Eyes<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/VIOgRszFiPE" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>この後は長期でシングルを単発的に出すこととなった。<br><br>その中で1stアルバムで提示した世界観とは異なった様々なスタイルが発表される。『ALICE』（1996年4月22日）が100万枚を超える大ヒット。<br><br>同年中に『NOW AND THEN ～失われた時を求めて～』（1996年10月28日）、『YES ～free flower～』（1996年12月2日）とシングルを発表。<br><br>『ANIMAL LIFE』（1997年6月25日）ではMY LITTLE LOVER featuring AKKO名義で発表され、akkoと3人の女性という奇抜な編成でメディアに登場した。<br><br>『Shuffle』（1997年8月20日）はCMにも使われヒット。<br><br>その後も『Private eyes』（1997年11月12日）（初の12cmシングル）、『空の下で』（1998年1月21日）とシングルリリースが続いた。<br><br>そしてようやく2ndアルバム『PRESENTS』（1998年3月4日）が発売される。<br><br>しかしアルバムのコンセプト上、約2年にわたって発売されたシングル曲の半数が収録されず、次作へ見送られたものとなった。<br><br>アルバムからわずか2ヶ月後には早くも新曲としてシングル『DESTINY』（1998年5月13日）発売。<br><br>ドラマに使われ、50万枚のヒットとなる。小林も「このヒットがすごく嬉しかった」と語っている。<br><br>さらに『CRAZY LOVE／Days』（1998年7月23日）を両A面シングルとしてリリースした。<br><br>3rdアルバム『NEW ADVENTURE』（1998年9月2日）を発表。前アルバムから5か月という、異例の早さであった。<br><br>収録の半分以上がシングル曲が占めるこのアルバムは80万枚程度と大きなセールスをみせる。<br><br>さらに同年末に、既発曲のアレンジ違いなどを収録したコンセプトアルバム『The Waters』（1998年12月9日）を発売した。<br><br>ここまで、ちょうどMr.Childrenの休止期間とも重なっていたが、この年はリリースラッシュとなった（また、小林はこの年にラジオのパーソナリティもしていた）。<br><br>そして、ここで再び活動休止期間に入る。<br><br><br>My Little Lover - ANIMAL LIFE<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/PiEl_H0-ZfM" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>休止期間のうちに、小林夫妻はニューヨークへ移住、専用の録音スタジオも現地に作った。また2人目の娘が生まれ、akkoは育児に追われる日々を過ごすことになる。<br><br>そうした2年半以上の沈黙を経て、2001年2月28日、アルバムからの先行シングルとして『shooting star ～シューティングスター～』を発表。<br><br>続く2001年4月18日に『日傘 ～japanese beauty～』が発売される。 <br><br>翌月2001年5月16日に4枚目のアルバム『Topics』が発売。<br><br>積極的な宣伝を行い、小林は「最高傑作ができた」と自信をうかがわせたが、ブランクの長さや大きなヒットシングルがなかったこともあり、売り上げは10万枚に届かなかった。<br><br><br>2002年、正式に藤井が脱退し、小林とakko2名の形態となった。<br><br>2人での最初のシングル『Survival』（2002年9月4日）を発売。曲の内容は前年にニューヨークでテロが起こったことも関連している。<br><br>2004年にアルバム『FANTASY』を発表。<br><br>シングル曲を一切含まない、すべて書き下ろしのオリジナルアルバムで、大規模な宣伝は行われず、メディア露出も雑誌インタビュー程度と少なめであった。<br><br>その後、同名映画の主題歌「深呼吸の必要」を収録したシングル『風と空のキリム（2004年4月28日）』を発売。その後はまたしても長い沈黙期間に入る。<br><br><br><br>My Little Lover - Shuffle<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/EgVZopDOOXY" frameborder="0" allowfullscreen></iframe> <br><br>2006年7月、小林が脱退し、akkoのソロプロジェクトへと形を変えavex traxへの移籍が発表される。<br><br>さらにグループの正式名称をMY LITTLE LOVERからMy Little Loverへ改めた。<br><br>11月8日にシングル『り・ぼん（c/w インスピレーション）』、12月6日にアルバム『akko』を発売。<br><br>小林は作詞、作曲、編曲に関わっていないが、キーボーディストとして数曲参加しており、アルバムにはエグゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされている。<br><br>2007年度から週刊誌でも度々噂は流れていたが、2008年1月に小林とakkoが離婚したことが正式に発表された。<br><br>小林は「自分はメンバーではないが、ただ、マイラバの事務所の社長としてマイラバとの付き合いはずっと続きます」と語っている。<br><br>2008年3月から5月までシングルを2曲、小林武史の作曲で出すと発表し、3曲目はアルバム作品として5月に発売された。<br><br>デビュー日の5月1日に1夜限りのアニバーサリーライブを決行。<br><br>ゲストで小林が出演。<br><br>同日に7枚目のアルバム『アイデンティティー』を発売。<br><br>7月21日に、小林武史と櫻井和寿が主催の野外フェスティバル、ap bank fes '08に初出演。<br><br>数日後にはHIGHER GROUND 2008やSETSTOCK'08、8月にはa-nationと、立て続けに野外フェスティバルに出演した。<br><br>近年は歌番組やトーク番組にもときおり登場し、iTunes Store限定配信のアコースティックアレンジアルバム『acoakko』でもストア内ランキング1位を獲得した。<br><br>2009年には烏龍舎のレーベル“OORONG RECORDS”移籍第一弾シングル『音のない世界/時のベル』を発売。<br><br>「音のない世界」はTBS『ラブレター』主題歌、「時のベル」はダイハツ・ミラCMソングと両A面2曲のダブルタイアップ。<br><br>同年11月に8枚目のアルバム『そらのしるし』を発売。<br><br>2010年はMy Little Loverがデビューして15周年目の節目に当たり、愛知、大阪、東京の3ヶ所でのツアーを開催。<br><br>同年4月15日には宝島社より、kitsonのオリジナルストラップが付属したデビュー15年記念CD（雑誌サイズCD）『MY LITTLE LOVER×kitson ハーモニー』を書店流通商品として発売。CDには新曲「ハーモニー」と、自身の代表曲をメドレーにした「15th anniversary digest」を収録。初版発行部数は20万部だったが、発売3日目にさらに10万部の重版が決定した。<br><br>同年5月5日にはベストアルバム『Best Collection』が発売された。<br><br><br>My Little Lover - DESTINY acoakko debut Ver.<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/1n2vWgl_FMo" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>小林は、知人から「音大の子で将来の進路について悩んでる子がいるんだけどアドバイスしてくれない？」とのことでakkoを紹介され、初めて対面している。<br><br>小林は「akkoより歌がうまい子はいくらでもいたが、akkoの持つ透明性に惹かれた。」と話している。<br><br>小林は1stアルバム『evergreen』の完成度、売上げがあまりに良かったため、これで解散したほうがいいんじゃないかと考えもあったという。<br><br>だが、「自分は誰かに『やめてくれ』、って言われるまでは作曲を続けていきたいと思っているんです」と語るように、そもそも作曲が好きだとのことである。<br><br>ブレイクし続けていた『ALICE』に続く重要なシングルに、自身作曲で、とてもレベルが高いと感じていた『あいのうた』をakkoに歌わせシングルにするか迷った、という。<br><br>その結果『NOW AND THEN ～失われた時を求めて～』が作られる。これまでの曲に比べるとやや地味な印象、暗い歌詞が目立つが、コード進行などもかなり斬新で、力が入っているのがわかる。<br><br>akkoと藤井の2人で出演していた頃は『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』に出るとダウンタウンから「デートの帰りですか?」と冷やかされていた。<br><br>小林との対談で、小室哲哉は女性シンガーと、男性ギタリストという組み合わせに「その手があったかー、と感心した」と斬新だったと話している。<br><br>シングル『Shuffle』（1997年8月20日）でテレビ出演するときはサックス担当に女性ダンサーを使っており、そのパフォーマンスが話題になった。<br><br>初期シングルの作詞クレジット「KATE」は「Kenji Akko Takeshi Ensemble」の意味で、女性が作詞しているイメージを作るために小林が付けた名前であるが、実際には3人での作詞は行っておらず、小林のMY LITTLE LOVER加入を機に作詞者名は「小林武史」に変わっている。<br><br>多くの楽曲でAKKOの声はオーバーダビングで収録されている。<br><br><br>My Little Lover with Bank Band - 白いカイト<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/yutJFwYcWQ8" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
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<pubDate>Sun, 14 Apr 2013 20:18:03 +0900</pubDate>
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<title>本田 美奈子 - 1986年のマリリン</title>
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<![CDATA[ 今日はなんかさみしいので<br><br>悲しい感じで<br><br>初期のロックの時が好き<br><br>レコード買ったな<br><br>(/ω＼)<br><br><br>本田 美奈子（ほんだ みなこ、1967年（昭和42年）7月31日 - 2005年（平成17年）11月6日）は、日本の歌手、女優である。本名:工藤 美奈子（くどう みなこ）。<br><br>アイドル歌手で、1990年代以降は主にミュージカルで活動した。<br><br>2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーに挑戦する。<br><br><br>本田 美奈子 - 1986年のマリリン <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/DSYWR6jKjpA" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1967年（昭和42年）7月31日午前11時17分、東京都板橋区上赤塚町（現成増）の成増産院にて、体重2860gで生まれ、ラジオの全国放送のその日生まれた新生児を紹介するコーナーで取り上げられる。<br><br>家族は東京都葛飾区柴又に在住していたが、幼いうちに埼玉県朝霞市に移住し、朝霞白百合幼稚園に入園した。以来、生涯の大半を朝霞市で過ごした。<br><br>歌手になる事を夢見ていた母親の影響で、美奈子も幼い頃からいつも歌を歌っていた。朝霞市立朝霞第六小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と書いていた。<br><br>朝霞市立朝霞第一中学校時代に『スター誕生!』のオーディションを受け、決戦大会にまで進出した。しかしプロダクションからのスカウトはされなかった。<br><br>1983年（昭和58年）4月、東京都北区の東京成徳短期大学附属高等学校に入学。同年7月に初めて原宿を訪れた際に、少女隊のメンバーを探していたボンド企画のスタッフにスカウトされ、芸能界に入った。<br><br>社長の高杉敬二とはこの後ボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることとなった。<br><br>高校2年生の1984年（昭和59年）9月に第8回長崎歌謡祭に本名で出場し、「夢少女」（作詞：深田尚美、作曲：安格斯）という楽曲を歌ってグランプリを受賞。<br><br>このことがレコードデビューのきっかけとなった。<br><br>1985年（昭和60年）4月20日に東芝EMIから「殺意のバカンス」でデビューした。同期デビューに、斉藤由貴、中山美穂、南野陽子、森口博子、橋本美加子、芳本美代子、井森美幸、浅香唯、石野陽子、松本典子、森川美穂、おニャン子クラブなどがいる。　　<br><br>キャッチフレーズは「美奈子、あなたと初めて♥」と「好きといいなさい!」の2パターン。その後、4枚目のシングル「Temptation（誘惑）」をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては松本伊代、岩井小百合に続いて武道館コンサートを成功させた。<br><br>また、同年の数多くの新人賞を受賞した。<br><br>1986年（昭和61年）2月5日に「1986年のマリリン」をリリース。<br><br>へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って大ヒットとなった。<br><br>1988年（昭和63年）に女性だけのメンバーによるロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成、シングル「あなたと、熱帯」、アルバム『WILD CATS』などを発表した。<br><br>同年9月11日SHOW-YAが企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『NAONのYAON』に出演。<br><br>翌1989年（平成元年）秋に解散した。<br><br><br>本田 美奈子 - 恋人よ<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/uWRY3mQ0g74" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1990年（平成2年）、ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。<br><br>1992年（平成4年）5月5日『ミス・サイゴン』日本初演。以来一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力を高く評価された。<br><br>1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。<br><br>1994年（平成6年）、『屋根の上のバイオリン弾き』にホーデル役で出演。<br><br>9月24日にアルバム『JUNCTION』を、翌1995年（平成7年）6月25日にはアルバム『晴れ ときどき くもり』をリリースし、レコーディング・アーティストとしても復活を果たした。<br><br>1996年（平成8年）、『王様と私』にタプチム役で出演。<br><br>1997年（平成9年）、『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役で出演。<br><br>以後も繰り返しこの役で出演した。<br><br>1998年（平成10年）にはエイズチャリティーコンサートで「ある晴れた日に」（プッチーニのオペラ『蝶々夫人』より）を歌い、2000年（平成12年）3月20日サリン事件チャリティーコンサートではラフマニノフの「ヴォカリーズ」を歌った。<br><br>同年6月19日シドニーオリンピックを記念して開かれたシドニーのオペラハウスでの日豪親善コンサートに服部克久の推薦により出演した際には「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」や「ある晴れた日に」を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。<br><br>同じく2000年（平成12年）10月13日にはデビュー15周年記念コンサート『歌革命』を開催、自身のシングル・メドレーのほか「天城越え」や「ある晴れた日に」などを歌った。<br><br>2002年（平成14年）、『ひめゆり』にキミ役で出演。日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。<br><br><br>本田 美奈子 - Memory <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/EhZYDeRoELA" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>2003年（平成15年）5月21日、初のクラシックアルバム『AVE MARIA』をリリース。ソプラノ的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。<br><br>同年東宝によりシェイクスピアの戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。<br><br>原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために特に作られたものだった。<br><br>2004年（平成16年）、地球ゴージャス制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。<br><br>同年8月29日『N響ほっとコンサート』でNHK交響楽団と共演し「新世界」と「シシリエンヌ」を歌った。11月25日アルバム『時』をリリース。<br><br>12月1日武道館での『Act Against AIDS』に出演、38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。<br><br>この頃からすでに病気の兆候が表れていた。<br><br><br>本田 美奈子 - Tsubasa<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/kLJByp8SBI8" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>2004年（平成16年）末頃から風邪に似た症状や微熱が続いた。<br><br>本田は翌2005年（平成17年）1月12日、急性骨髄性白血病と診断を受けて緊急入院、その翌日にはその事実が公表された。<br><br>その後、2度に渡る化学療法を受けるも、寛解（癌細胞が十分に減った状態）は得られなかった。<br><br>急性骨髄性白血病の中でも極めてまれな予後不良の治療抵抗性の白血病であったという。<br><br>治療として骨髄移植が考慮されたものの、骨髄バンクでドナーが見つかるまでの猶予すらない病状であったことから、同年5月、臍帯血移植を受けた。<br><br>同7月末には一時退院したが病気の再発が認められ、同年9月8日に再入院し、輸入新薬による抗癌剤治療を受けた。<br><br>翌月には再度一時退院、その間には白血病患者支援のためのNPO法人 『Live for Life 』が設立されたが、同月末には再入院となった。<br><br>その後肺への合併症から容態が急変し、同年11月6日午前4時38分、家族らの見守るなか、死去した。38歳没。<br><br>法名は、長らく『釋 優聲（しゃく ゆうしょう）』であったが、納骨されている寺の住職の厚意によって2011年より位が上がり、現在は『澄光院（ちょうこういん） 釋 優聲』となっている。<br><br><br>本田 美奈子 - Time To Say Goodbye<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/PTKyk6j3Jf8" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>当初は演歌歌手志望で、事務所のオーディションのために準備してきた楽曲は演歌だった。<br><br>所属するボンド企画に演歌歌手を育てた経験がなかったためにアイドルとしてデビューすることになったものの、本人の強い意向で「殺意のバカンス」をデビュー曲とすることになったのはこうした志向によるものと考えられる。<br><br>またロックバンドを解散し再びソロに戻った頃には、新たな方向性として演歌歌手への転向が真剣に模索されていたと言われている。<br><br>実際この時期に出演したテレビ番組では着物を着て演歌を歌ったほか、演歌歌手として活動する方針であることがマスコミでも報じられており、この計画はある程度具体化していたらしい。<br><br>この後にもアルバム『JUNCTION』にオリジナル演歌とも見做し得る楽曲（「風流風鈴初恋譚」）を収録したほか、コンサートでは度々演歌をカバーしていた<br><br>1985年（昭和60年）4月20日に「殺意のバカンス」でデビュー。<br><br>4枚目のシングル「Temptation（誘惑）」（同年9月28日発売）のヒットは本田にこの年の各種歌唱賞の新人賞を数多くもたらした。<br><br>翌年の2月5日に発売された「1986年のマリリン」は爆発的なヒットとなり、“へそ出しルック”で激しく腰を振って踊る姿は世の中の注目を集めた。こうした演出の意図について、本田自身は「Temptation（誘惑）」が各種ランキングの10位以内に届かなかったのが悔しくてより強く個性を出そうとした、と語っている。<br><br>作詞の秋元康と作曲の筒美京平はこの後もこのコンビで本田の楽曲を数多く手がけた。<br><br>同年7月23日発売の「HELP」は公共広告機構（現:ACジャパン）のいじめ防止キャンペーン「しらんぷりもいじめ」のテレビコマーシャルで使用された。<br><br>1987年（昭和62年）放送のドラマ『パパはニュースキャスター』には本人役で出演し、主題歌に採用された「Oneway Generation」（同年2月4日発売）はドラマ自体の好評にも支えられ人気を博した。<br><br>同じ年の映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』も歌手の役ということで引き受け、劇中事故で亡くなったレーサーの兄に捧げて「孤独なハリケーン」（9月9日発売）を歌った。<br><br>この3曲で本田にとってオリコンランキング最高位である2位を獲得した<br><br><br>本田 美奈子 - My Heart Will Go On <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/Bob1v0k4dSE" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>元々は洋楽にはあまり詳しくなかったのだろうと見られている。<br><br>しかしデビュー後は事務所社長の高杉に薦められてマリリン・モンローやマドンナなど外国のスターの映像をくり返し見て演出の参考にしていた。<br><br>デビュー翌年の「1986年のマリリン」における衣装や振り付けはその影響でもある。<br><br>この1986年（昭和61年）にはゲイリー・ムーアから楽曲提供を受け、彼のギター・ワークをフィーチャーした「the Cross -愛の十字架-」をガイ・フレッチャー（ロキシー・ミュージックの元メンバー）のプロデュースにより制作した。<br><br>ムーアとフレッチャーはこの年にロンドンで録音されたアルバム『CANCEL』にも参加している。この時にフランクフルトでのクイーンのコンサートに招かれ、メンバーとの交流を深めた。<br><br>この年には再びロンドンを訪れて、ブライアン・メイのプロデュースによりシングル「CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS」を制作した。<br><br>本田は武道館でのコンサートでフレディ・マーキュリーの「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」をカバーしており、このコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてメイに送ったところ、彼の方から申し出がありコラボレーションが実現した。<br><br>シングル「CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS」は翌1987年（昭和62年）に発売され、英語版もイギリスをはじめヨーロッパ20箇国でリリースされた。<br><br>ラトーヤ・ジャクソンの来日公演のプロモートをボンド企画が手がけた縁で1987年（昭和62年）に彼女とのジョイントコンサートを行い、ジャクソン・ファミリーとも親しくなった。<br><br>ロサンゼルスのマイケル・ジャクソンの自宅にも招待され、彼らのスタッフのプロデュースにより全曲英語詞のアルバム『OVERSEA』を制作した。このアルバムはアメリカでも発売された。<br><br>またこの年の7月にはジャマイカを訪れスライ&amp;ロビーのライブにゲスト参加し、「HEART BREAK」と「EYE言葉はLONELY」（アルバム『Midnight Swing』収録）を歌った。<br><br>このようにデビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田の歌手活動の際立った特徴ともなっていた。<br><br><br>本田 美奈子 - 星に願いを <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/wbLrRLWl6H4" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>本田はその後女性だけのメンバーでロックバンドを組むことを思い立ち、東京と大阪でオーディションを行い1988年（昭和63年）1月に“MINAKO with WILD CATS”を結成した。<br><br>彼女がこうした試みを行った背景には自身の脱アイドルへの志向のほかに、海外のロックスターと共演した経験や、当時の国内でのバンドブームの影響があったものと考えられる。<br><br>ツインドラムという特異な編成や、バンドとしてのデビュー曲「あなたと、熱帯」の作曲を忌野清志郎が手がけたことなどは話題となった。<br><br>この時期の人気や評価は概ね低調だったが、ロックバンドのリーダーを務めた経験は本田にとってアーティストとしての自己を確立する上で欠かすことのできない過程だったものと思われる[独自研究?]。<br><br>SHOW-YAの提唱で開催されプリンセス・プリンセスなどとともに出演したNAONのYAONはこの時代の女性ロッカーたちの活躍の記念碑でもある。<br><br>初めて自ら作詞を手がけたのもこの時期だったことは特筆される。<br><br><br>本田 美奈子 - Amazing Grace<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/XEpH9PKv5zY" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>ロックバンドとしての活動は少なくとも商業的には成功したとは言えず、1989年（平成元年）秋に解散してソロに戻った後も人気は回復しなかった。<br><br>本田にとってこの頃は最も苦しい時期で、自身「歩いてきた道が突然、ガケっぷちになって行き止まりになっていた」と回顧している。<br><br>それでも歌へのこだわりの強い本田はバラエティー番組への出演を断り続け、ドラマや映画の仕事も最小限に絞っていた。<br><br>東宝のプロデューサー、酒井喜一郎から『ミス・サイゴン』のオーディションの話を聞かされた時も初めは関心を示さなかったが、全編歌で構成されたミュージカルであることを知ると目の色を変えて意欲を示すようになった。<br><br>1990年（平成2年）秋に始まったオーディション（応募者は女性1万1503人、男性3584人、合格したのは女性20人、男性38人）の選考は6ヵ月間7次に渡り、翌1991年（平成3年）1月13日にキム役に決定すると3月以降の全ての予定をキャンセルして公演に備えた。<br><br>開幕にあたっては「私は舞台では、演じないからね。生きるからね。強く生きてみせるからね」と抱負を語っていた。<br><br>アイドル出身の彼女の力量を危ぶむ声もあったが、本田は後述の事故も乗り越えて一年半に及ぶロングランを務め、ヒロイン、キムの内面に肉迫した歌唱と演技を高く評価された。以後も『屋根の上のバイオリン弾き』、『王様と私』、『レ・ミゼラブル』と人気ミュージカルに相次いで出演し、実力派女優としての地位を揺るぎないものにした。<br><br>沖縄戦におけるひめゆり学徒隊の悲劇を描いたミュージカル座制作の『ひめゆり』ではヒロインのキミを演じた。<br><br>東宝以外の制作によるミュージカルは初の出演だったが、作曲、編曲、音楽監督を担当したのは『ミス・サイゴン』で本田のボイス・トレーナーを務めて以来縁のある山口琇也だった。<br><br>プログラムに掲載されたメッセージでは「会場に足を運んでくださった方々に、戦争の恐ろしさ、平和でいられる事のありがたさを、少しでも感じて頂けたら嬉しく思います」と述べていた。<br><br>シェイクスピアの『十二夜』を原作とするミュージカル『十二夜』ではプロデューサーの酒井がセリフに苦手意識のある彼女のために原作にないネコの役を用意した。<br><br>本田は自分に割り当てられた役が人ではなかったことにとまどいつつも、言葉を喋らない代わりに人間の会話は理解できるという設定を自分の中で用意して真剣に役作りをした。<br><br>この作品が制作されたのはすでに本田がクラシックの楽曲を歌い始めていた時期で、彼女のパートはソプラノ的な唱法を想定して作られている。<br><br>没後の再演では彼女が歌ったナンバーはアンサンブルによる歌唱や器楽演奏に置き換えられていた。<br><br>サザンオールスターズの楽曲をベースに桑田佳祐による書き下ろしを加えて作られた『クラウディア』は岸谷五朗と寺脇康文の主催する演劇ユニット、地球ゴージャスによる初めてのミュージカルで、彼女がそれまで出演してきた作品とはスタッフの顔ぶれも制作手法も異なるものだった。<br><br>しかし本田は稽古の際のマット運動でむち打ちになるなどのトラブルに遭遇しながらも、仲間意識を最も大切にする岸谷の方針を共有しつつ役柄を作り上げていった。<br><br>「可憐であり、けなげであり、強さも持っている」と岸谷が評したヒロイン、クラウディアの演技が彼女にとって最後のミュージカル出演となった。<br><br><br>本田 美奈子 - 六本木心中<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/i2ggZAZo4og" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>本田は1996年（平成8年）に出演したテレビ番組の中で「最近初めてオペラの『蝶々夫人』を歌った」と語っている。<br><br>彼女が初めてクラシックの楽曲を歌ったのがいつだったのかははっきりしないが、ここで言及されたコンサートがそうである可能性も考えられる。<br><br>前述の通り2000年（平成12年）前後にはクラシックへの志向を強めていた本田だが、本格的にクラシックの楽曲を歌うようになったきっかけは2002年（平成14年）8月31日に東京オペラシティコンサートホールで開催された『グラツィエ・コンサート』だった。<br><br>クラシックの楽曲を現代人に受け容れやすいスタイルで歌える歌手を探していたコロムビアのプロデューサー、岡野博行はこのコンサートに足を運び、終演後に楽屋を訪れてアルバムを制作することを申し入れた。元よりそうしたアルバムの制作を望んでいた本田は即座に快諾し、企画が進行することとなった。<br><br>コロムビア内には本田がアイドルの出身であることで抵抗もあったが、岡野の懸命の説得で実現の運びとなった。<br><br>『ミス・サイゴン』以来の本田の恩師である岩谷時子が日本語詞を書き下ろし毎回歌入れに立ち会って、場合によっては言葉が旋律に乗りやすいようにその場で変えるなど全面的にサポートした、編曲は井上鑑が担当した。井上を起用した理由について岡野は、のめり込み過ぎない一歩引いたクールさがあり、ホットでのめり込みやすい本田とのバランスが絶妙だろうと考えたと述べている。<br><br>一方本田が岡野に大事にしたいと申し出たのは「手作りでやりたい。自分で料理を作るように、丁寧に打ちあわせをして作っていきたい」ということだった。<br><br>収録曲は100曲以上の候補の中から実際に歌いながら彼女自身の心に響く曲が選ばれた。本田は歌入れ以外の録音にも全て立ち会い、必ず一緒に歌って演奏者が歌の呼吸を掴んで弾きやすいようにしていた。<br><br>そのまま歌を録り直さずOKになった曲もあった。クロスオーバー歌手としてのデビュー作『AVE MARIA』はこうして完成し、2003年（平成15年）5月21日にリリースされた。<br><br>翌2004年（平成16年）11月25日には2枚目のアルバム『時』が発表され、没後に公表されたものも含めるとアルバム2枚強の音源が制作された。<br><br>そこに共通する考え方は、クラシックの名旋律を歴史的背景にとらわれず現代の感覚で歌うこと、しかし決して奇を衒うのではなく素直に楽曲の素晴らしさを大切にするということで、特にこだわったのは日本語で歌うことだった。<br><br>こうしたクラシカル・クロスオーバーでの活動により、本田は従来のファン層とは異なる新たな聴衆からの支持を獲得した。
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<pubDate>Sat, 13 Apr 2013 23:22:22 +0900</pubDate>
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<title>相川 七瀬 - 夢見る少女じゃいられない</title>
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<![CDATA[ ぜんぜん変わないなー<br><br>(´▽｀)<br><br>昨日は寝れなかったよ<br><br>ネムーーー<br><br><br>相川 七瀬（あいかわ ななせ、1975年2月16日 - ）は、日本の歌手、カラーセラピスト。婚姻前の本名は、佐伯 美咲（さえき みさ）。<br><br>大阪府大阪市東淀川区出身。<br><br>ファウンテン所属。<br><br>マネジメントは株式会社フォーミュラエンタテインメントと業務提携。<br><br>所属レコード会社はエイベックスで、所属レーベルはcutting edgeのmotorod。<br><br>ビーイングとつながりの深い織田哲郎のプロデュースによる楽曲が多いことや、初期の一部の曲でビーイングのエンジニアを起用したりビーイングのスタジオを利用しているために誤解されやすいが、ビーイング所属ではない。<br><br><br>相川 七瀬 - 夢見る少女じゃいられない<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/17A4WJTWlPg" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1990年、15歳（中学3年生）の頃に受けたソニー主催のオーディションで、不合格ながらも、後にトータルプロデューサーとなる織田哲郎と出会う。<br><br>この時審査で歌った曲は、工藤静香の「嵐の素顔」。<br><br>1992年、高校を中退しアルバイトをしていた17歳の頃、DREAMS COME TRUEやQUEENなどの音楽を聴きあさり、歌手になる決心をする。<br><br>織田に連絡をして上京し、歌手デビューのためにボイス・トレーニングを開始する。<br><br>1995年11月、織田のプロデュースによる「夢見る少女じゃいられない」でエイベックスのmotorodレーベルから歌手デビュー。<br><br>織田は相川七瀬をトータルプロデュースをするにあたって、今までの「前向きなガール・ポップ」に対して、「前向きじゃないダークなロック」を全面に打ち出した。<br><br>1996年、ファーストアルバム「Red」をリリース。オリコンのアルバムチャート初登場で一位、現在までに270万枚を超すダブル・ミリオンヒットを記録している。<br><br>年末には第47回NHK紅白歌合戦に初出場、「夢見る少女じゃいられない」を披露した。<br><br><br>相川 七瀬 - 六本木心中<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/hNIXlRFfe1A" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1997年、7月にアルバム「paraDOX」発売、この作品もオリコン初登場一位獲得、現在までに180万枚を売り上げている。<br><br>自身初の全国コンサートツアー“Live Emotion '97”20公演を敢行、チケットは発売後1時間でソールドアウトになり、6万5千人を動員、最終の9月9日 - 10日には日本武道館で公演。デビューからわずか1年10か月での日本武道館ライブであった。<br><br>同年も紅白出場が有力視されたが、アルバムジャケットの海外撮影と日程が重なったことなどから見送られた。<br><br>1998年、7月にアルバム「crimson」（このアルバムもオリコン初登場1位）を発表後、全国で40公演の“Live Emotion '98 crimson”コンサートを行なった。<br><br>最終の大阪城ホール公演が終って間もなく髪の毛をばっさりと切り、一人で約2か月、ドイツに旅行。<br><br>1999年“第2期相川七瀬”と銘打って、トレードマークだった赤いロングヘアーをショートカット、金色に変え、イギリスで撮影した写真が「Jealousy」のジャケットに反映されている。<br><br>ベスト・アルバム「ID」が第12回日本ゴールドディスク大賞「ベスト・ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」受賞。<br><br>「FOXTROT」を製作中、年末年始にかけ雑誌取材のためカナダ旅行。<br><br>2000年にはプロデューサーを布袋寅泰に変え、それまでとは異なる曲調のロックを歌うようになった。<br><br>2月から5月にかけて全国ツアーライブ“Live Emotion 2000 "FOXTROT"”（32公演、ラストは沖縄）。<br><br>8月12日には台北市の西門町で予告無しのゲリラライブを敢行、雨天にもかかわらず3000人を集めた（MTVのイベントに参加した際のエピソード）。<br><br><br>相川 七瀬 - ひとつになって<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/oGYlrWR01nA" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>2001年、シングル2枚同時発売。自身の誕生日でもある2月16日に入籍。<br><br>その後もスタジオ作業は継続し、出産直前まで制作に携わったミニアルバム「The Last Quarter」を発表。<br><br>各方面で活躍するミュージシャンとのコラボレーションによる初のバラードアルバム。<br><br>2002年、出産後、ほぼ2年振りのライブハウスツアー「THE GIG 03 LIVE IT NOW」により全国のファンに向け相川七瀬"完全復活"を印象付けた。<br><br>音楽活動以外でも2002年7月に小学館より絵本「ぼくはくじら」を発表。12月にも絵本の第二弾「くじらサンタ」を発表する。<br><br>2003年デビュー以来共にしてきた織田のプロデュースを離れ、新たに岡野ハジメをプロデュースに迎える。<br><br>12月31日は、ナガシマスパーランドにて初のカウントダウンライブを行う。この頃、前世医療法で自身が深く癒されたことをきっかけに、独学でセラピーに関する勉強をして、11月にはイギリスの団体からカラーセラピストの最高位免許「ティーチャーレベル3」を当時最年少で取得。<br><br>翌年には、セラピーや占星術に関連する学校を設立するなど、多方面に進出。<br><br>2004年2月には、2年半振りのアルバム「7 seven」をリリース。同月22日にNHKホールで行なわれた「日中友好歌謡祭」に出演、「愛ノ詩 -マジェンタレイン-」を歌う様子が中国でも実況された。<br><br>3月にはカラーセラピー本「恋のダイス&amp;ルーレット」と不思議体験を綴った「バリコワ」を出版。<br><br>また、5月8日からは、約4年振りとなる全国ホールツアー「Live Emotion "7 seven"」を、7月から毎年恒例のライブTOUR AIKAWA NANASE "7 seven" THE GIG '04を行う。7月には、イギリスやアイルランドでジェニファー・エリソン（Jennifer Ellison）による相川の「バイバイ」をカバーした“Bye Bye Boy”がヒット。イギリスのチャートでは13位となった。<br><br>9月にはライブのDVD「Live Emotion 2004 SEVEN」をリリース。11月8日にデビュー10年目となる。12月31日は長崎ハウステンボスにて、2回目のカウントダウンライブを行う。<br><br><br>相川 七瀬 - 恋心<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/uFlqjYzFcaE" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>2005年、2月に自らプロデュースしたアルバム「THE FIRST QUARTER」発表。<br><br>フュージョン系のマイルドなサウンドが中心。テレビドラマ『87%』にレギュラー出演（ドラマ出演は初めて）。<br><br>この年から「七瀬の日」と題して7月7日にSHIBUYA-AXでライブを毎年開催。サポートメンバーにはPATAや真矢、D.I.E.、CRAZY COOL JOE、マーティ・フリードマンらが参加。<br><br>11月11日に韓国の釜山で第2回アジア・ソング・フェスティバルに出演。アルバム「R.U.O.K?!」は韓国、香港でも発売された。<br><br>年末には、翌年から全国展開する洋服ブランド「VAL VALENZA」の春夏イメージキャラクターを委嘱され、ファッション雑誌の広告、各店舗で1日店長などを務めた。<br><br>この年から年末ライブをキリスト品川教会グローリアチャペルで行う。<br><br>2006年、1月1日にライブアルバム「7.7.7.」（DVD,CD2枚の3枚組）発売。6月にはシンガポールで第20回“Singapore Arts Festival”に出演、7月に台湾で“Formoz Festival 2006”に出演などアジア地域でも活動を行う。<br><br>2007年、妊娠9か月の時期もライブを普通に敢行し、後で助産師に叱られたというが、無事に第2子を出産。<br><br>この頃から音楽雑誌の他に、主婦・子育てをする母親を対象とする育児雑誌にも活動の場を広げ、インタビューが掲載されるようになる。<br><br><br>相川 七瀬 - トラブルメイカー<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/VY3V4PYwPiM" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>2008年5月、2年振りの新曲「PRISM」が限定配信リリースされた。<br><br>2009年2月、4年振りのアルバム「REBORN」をリリース（2008年のライブの模様を収録したDVD付きの「REBORN ＋DVD Edition」もあり。）<br><br>とともに、自身初となるクラブツアー、AIKAWA NANASE CLUB TOUR '09 REBORN -STYLE-を2月16日 - 3月3日まで全国7箇所で行う。<br><br>8月25日にはパチンコ台「CR相川七瀬～時空の翼～（藤商事）」が発表される。9月に小説「ダリア」（書籍でも）発売。<br><br>11月に、久々に織田哲郎作品のシングル「tAttoo」発売。<br><br>2010年、2月16日に渋谷のduo music exchangeにてバースデイライブを行なった。同日，デビュー15周年ベスト・アルバム「ROCK or DIE」を発売。<br><br>9月29日，アルバム「稲垣潤一 ／ 男と女3-TWO HEARTS TWO VOICES-」の冒頭でデュエット「愛がとまらない」を発表。<br><br>11月3日にライブDVD「AIKAWA NANASE Live Emotion 999」をリリース。12月8日にガールズバンド，Rockstar Steady として「Fine Fine Day」を発売。<br><br>2011年、2月16日に、渋谷のduo music exchangeにてバースデイライブを行なった。<br><br>同日、Rockstar Steady としてアルバム「Gossip」を発売。<br><br><br>相川 七瀬 - 夢見る少女じゃいられない<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/xhNIBw1IkQs" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>芸名の「相川」は、地元近くにある阪急電鉄の相川駅に由来。<br><br>エアロスミスのスティーヴン・タイラーを尊敬しており、「Sweet Emotion」もエアロスミスの同名作品に感化されている。<br><br>ほかにリチャード・マークス、クイーン、また良く聴いた女性ロックバンドとしてプリテンダーズの名前を挙げることがある。<br><br>椎名恵、工藤静香のファンでもある。<br><br>一方、学校で歌った「エーデルワイス」やアニメ「魔女っ子メグちゃん」を懐かしむような面も持っている。<br><br>霊感が強い。真矢らとの共著「バリコワ」の中で様々な霊感エピソードを公開。<br><br>また、1997年に『うたばん』ゲスト出演時に心霊エピソードを紹介したところ、あまりの怖さに司会の中居正広と石橋貴明を震え上がらせた。<br><br>テレビ番組、ライブ等で頻繁にパフォーマンスを披露。<br><br>例としてマイクスタンドを軽く蹴り上げて1回転させる、ステージ下に蹴り落とす、投げ捨てるなど。<br><br>「彼女と私の事情」ではクロールで泳ぐような振り付けで始まり、最後の決めでは笑顔になって顎の下で親指と人差し指を直角にして、ポーズをする。<br><br>楽器は滅多に演奏しないが、ブルースハープを「彼女と私の事情」の中で演奏している。<br><br>大好物は酢豚であり、自分ではあまり作らずに外食する時に食べている。<br><br>自らの子供のことは長男を「こにゃおん」、次男を「ちびにゃおん」と紹介している。<br><br>愛猫家。ファンクラブ名が「Risky Cat」であるうえ、会員証やグッズでも猫のイメージが多用されている。<br><br>ビデオ「radio active」の冒頭では、白猫の着ぐるみ姿で車から降りて登場。「CAT on the Street」などでは、ミュージカル「キャッツ」のような猫耳、尻尾をつけて歌うことがあった。<br><br>雑誌「Girl POP」1997年vol.24 の中でも猫の話をしている。<br><br><br>相川 七瀬 - Live Emotion 2000 FOXTROT Full-Live <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/JNYeIx2FFSs" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br><br>多くの曲で自ら作詞している。デビュー前から織田哲郎の指導で多数の作詞を試みており、織田との共作の詩も多い。<br><br>CDアルバム「The Last Quarter」初回盤には、特典として相川七瀬の詩集がついていた。詩を書くことの苦しさや責任について、「オリコンウィーク[The Ichiban]」1997年6月23日号で語っている。<br><br>また彼女は、中学時代から日記を書き続けており、そこから歌詞が生まれることもあるという（『メントレG』ゲスト出演時の発言）。<br><br>コミック「パタリロ!」のマニア（「バリコワ」より）であり文庫版では解説を執筆。作者の魔夜峰央夫妻とも親しい。<br><br>若い頃は少数の友人と交流し、群から離れて1人読書を楽しんでおり、学生時代には図書委員だった。<br><br>高校を中退し、ガソリンスタンドでアルバイトして自立。<br><br>そこで店長に信頼されてリーダーに抜擢されるなど、早くからリーダー的素質があった。<br><br>その頃、すでに給料の半分をCD代に投資していた。<br><br>『クイズ!ヘキサゴンII』（2010年2月3日放送）にミュージシャンチームとして出演した際、点数は21点で9位と、高校中退とは思えない点数だった。<br><br>『踊る!さんま御殿!!』（2009年6月23日放送「元ワルマジメ大乱闘祭」）では、カンニングの話題になった時、周りの高校生徒のレベルが低く、カンニングできる状況では無かったと語っていた（さんまが、この話題のオチを奪ってしまう）。<br><br>髪色の変化が大きい。デビュー時から茶→赤→金→赤茶→ピンクと変化し、2008年頃からは黒。黒にしたのは、子供の参観日に行った際、あまりに浮いてしまったから（CLUB TOUR「REBORN-STYLE-」内MCにて発言）。<br><br>家具店で、タンスを万引きしたことを『HEY!HEY!HEY!』ゲスト出演時に告白したことがある。<br>東京MX「5時に夢中」にゲスト出演した際に、パフィーを〆たことがあると告白。飲み友達のミッツ・マングローブから喧嘩に関する話が多数暴露され、武闘派であることが判明。<br><br>左の首筋にLove or Dieと刻まれたタトゥーを入れている。「tAttoo」のジャケット写真やミュージックビデオの中で、露わにされている。また、左手首にもタトゥーを入れている。
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<pubDate>Fri, 12 Apr 2013 20:36:01 +0900</pubDate>
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<title>寺田 恵子 - 限界LOVERS</title>
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<![CDATA[ 頭振って観よう!!<br><br>再結成までの道のりは<br>大変だったと思うけど<br><br>このパワーと演奏の高度な技術も<br><br>凄いなー<br><br>ヾ(＠°▽°＠)ﾉ<br><br><br>寺田恵子（てらだ けいこ、1963年7月27日 - ）は、千葉県船橋市出身のシンガーソングライター、ロックバンド『SHOW-YA』のボーカル。<br><br>影響を受けた歌手はカルメン・マキ、アン・ルイス。<br><br><br>SHOW-YA - 限界LOVERS<br><br><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/84m5_XZu7PI" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1982年 - YAMAHA Light Music Contest '82 レディス部門ベストボーカリスト賞を受賞。<br><br>1985年 - SHOW-YAのボーカリストとして、「素敵にダンシング」でデビュー。<br><br>1991年 - SHOW-YAを脱退。<br><br>1992年 - シングル「PARADISE WIND」でソロデビュー。<br><br>1997年 - SHOW-YAの五十嵐美貴らと「全日本女子プロバンド」を結成。<br><br>1998年 - 公共広告機構「骨髄バンク」テーマソングを担当。<br><br>2004年 - ROCK’N JAM MUSICALにてミュージカル初舞台を踏む<br><br>2005年 - 自身の呼びかけでSHOW-YAを再結成。<br><br>2006年 - NHK-FMで「私の名盤コレクション」MCを担当。<br><br>2008年 - LOUDNESSの二井原実、EARTHSHAKERの西田昌史と「西寺実」を結成。<br><br><br>SHOW-YA - 流星少女～Shooting Star 196X～ <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/3UaXWn5VzCE" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>SHOW-YA（ショーヤ）は、日本の女性5人組ガールズロックバンド。<br><br>1980年代からのバンドブーム、特に女性だけのバンドとしては先駆け的な存在であり、それを牽引してきたバンドの一つである。<br><br>ボーカル寺田とキーボード中村の所属していたバンド『メデューサ』が前身。<br><br>のちにバンド名を『SHOW-YA』に変更する。<br><br>1982年、全国規模で開催された音楽コンテストで最優秀グランプリに輝くものの、6人のメンバーの内、寺田と中村を除く4人が音楽以外の道に進むために脱退する。<br><br>その後、メンバー募集によって、角田、仙波、五十嵐が順に加入する。<br><br>1985年、『素敵にダンシング (Coke Is It)』でメジャーデビューを果たす。<br><br>しかし、当時は女性だけのロックバンドは珍しくて一般になじみが薄く、ミニスカートを履かせられたり髪を刈り上げられたりと、アイドルバンド路線で売り出されることになった。<br><br><br>SHOW-YA - 私は嵐<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/oJ_5Gv3vFjQ" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1980年代後半、ハードロック路線に戻って自分たちの音楽を追求していたものの、セールスは伸び悩んでいた。<br><br>それまで主に作詞を担当していた寺田はそれが自分のせいだと思い、7枚目のアルバム『Outerlimits』制作時、音楽家の安藤芳彦に作詞を依頼する。<br><br>その際、寺田は自分の日記を安藤に渡し、それを基に詞を書いて欲しいと頼んだ。<br><br>また、このアルバムから笹路正徳がプロデューサーとして参加する。<br><br>その結果、アルバムは約60万枚のセールスを記録する。<br><br>シングル『限界LOVERS』や『私は嵐』のヒットも相まって、SHOW-YAのライブ本数やテレビ出演回数は激増する。<br><br>さらに1987年から企画・主催を始めた女性アーティストのみを集めた野外イベント「NAONのYAON」では、ガールズバンドの認知度を上げることに貢献する。<br><br><br>SHOW-YA - 限界LOVERS <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/V0XmIj2hX3s" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1991年、ボーカル寺田がバンドを脱退する。<br><br>多忙を極めたスケジュールにより引き起こされた喉を潰すなどの体調不良と精神的ストレスが原因であった。<br><br>残されたメンバーは新しいボーカルにステファニー・ボージャスを迎えて活動を続けるが、1993年頃から活動が凍結状態になり、1997年にボーカルがYoshinoに代わったものの、1998年に解散。<br><br>2005年、91年に脱退した寺田がバラバラになったメンバーたちのもとを訪れて一人一人に頭を下げ、再結成を果たす。<br><br>以降は数々のライブ活動、寺田恵子はNHK-FMの「私の名盤コレクション」のパーソナリティを務めるなど、精力的に活動を続けて今に至る。<br><br>寺田恵子 - ボーカル、作詞、作曲（第1期、再結成期）<br>1963年7月27日生まれ。千葉県出身。血液型A型。<br><br>中村美紀 - キーボード、コーラス、リーダー、作詞、作曲<br>1961年9月27日生まれ。千葉県出身。血液型AB型。<br><br>五十嵐sun-go美貴 - ギター、コーラス、作曲<br>1962年11月21日生まれ。神奈川県厚木市出身。血液型A型。<br><br>角田mittan美喜 - ドラム、コーラス、作曲<br>1963年12月7日生まれ。東京都出身。血液型O型。<br><br>仙波さとみ - ベース、コーラス、作曲<br>1963年8月28日生まれ。東京都出身。血液型A型。<br><br><br>西寺実 - あゝ無情<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/zV9lPwYN4VY" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
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<pubDate>Thu, 11 Apr 2013 21:16:33 +0900</pubDate>
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<title>椎名 林檎 - 歌舞伎町の女王</title>
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<![CDATA[ 懐かしく新しい<br><br>♪～(´ε｀　)<br><br><br>椎名 林檎（しいな りんご、Sheena Ringo、1978年11月25日 - は、日本のシンガーソングライター。<br><br>2004年から2012年まで活動していたロックバンド・東京事変ではボーカリストを務めていた。<br><br>有限会社黒猫堂、EMIミュージック・ジャパン/Virgin Music所属。<br><br>2009年芸術選奨新人賞受賞。<br><br>2003年頃までは「新宿系自作自演屋」を自称していた。<br><br>シンガーソングライターの椎名純平は実兄。<br><br>イラストレーター・ブックデザイナーの辰巳四郎はおじ（その娘であるイラストレーターの藤森玲子はいとこにあたる）。<br><br><br>椎名 林檎 - 歌舞伎町の女王<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/MC5CyBwoo9E" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1978年、埼玉県浦和市（現・さいたま市）に生まれる。<br><br>外資系石油会社に勤める父親の転勤により2歳のとき静岡県清水市（現・静岡市清水区）に移り住み、約10年間を過ごす。<br><br>母親は広島県東広島市の出身。<br><br>1991年、12歳の時に父親が福岡支店の勤務となり、福岡県福岡市早良区へ引越す。<br><br>幼少時からピアノとクラシック・バレエを習うが、 先天性食道閉鎖症の手術の後遺症で体の左右均等に力を入れることができなくなり、10年以上続けていたバレエとピアノを断念したという。<br><br>中学時代、友人とバンドを結成。<br><br>学園祭等で何度か活動をするも解散。<br><br>その他、学内外含めて合計20以上のバンドの全ての楽器パートを掛け持ちで担当していたという。<br><br>中学・高校と、ピザ屋や警備員等のバイトをしながらも、デモテープを作る日々を送る。<br><br>西新の某音楽教室にも通っていて、その時のギターの講師に「りんご」か「林檎」を相談した結果、芸名が「椎名林檎」で決定したという。<br><br>初ライブをした会場は福岡市西新の西新JAJAというところだったという。<br><br>1994年、高校一年生の時にホリプロタレントスカウトキャラバンに出場。<br><br>しかし、本人はアイドルを発掘するイベントだという認識がなく、“全国大会に進むまで、水着審査があるなんて知らなかった”と、ある地方局のラジオ番組で述懐している。<br><br>1995年、高校二年生の時にヤマハ「第9回 TEENS' MUSIC FESTIVAL」に、Marvelous Marble（マーベラス・マーブル）というバンドで全国大会に出場し、奨励賞を受賞する。<br><br>この時のティーンズ大賞・文部大臣奨励賞（グランプリ）はaiko。同年秋、長崎歌謡祭に出場してファイナリストとなっている。<br><br>また、高校二年の三学期が終わると同時に高校を中退している。<br><br>1996年、バイトをしながらヤマハ「The 5th MUSIC QUEST JAPAN」の福岡大会に再びバンドで出場するが、関係者にソロ転向を勧められて「FINAL」には『椎名林檎』として出場、「ここでキスして。」を歌って優秀賞を獲得している。<br><br>地方予選の段階でいくつかのレーベルから声がかかり、その中から東芝EMI（現・EMIミュージック・ジャパン）を選んで契約する。<br><br>また、この大会にも出場し、同じく優勝賞を受賞したaikoや、グランプリを受賞した谷口崇とは音楽活動やプライベートを通じた交流をするようになる。<br><br>同郷の谷口とは宇宙アンテナというバンドを組んでいた。<br><br>1997年、1月から3月までの間、知人のつてを頼ってイギリスへ2カ月間ホームステイする。レコード会社のスタッフと衝突したので、一人になって自分を見つめ直すためだった。<br><br>そこで思い悩み、デビューを決意して帰国する。<br><br><br>椎名 林檎 - 丸の内サディスティック<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/6kUCKaEdgBo" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1998年 - 1999年<br><br>『無罪モラトリアム』まで1998年5月、東芝EMI（当時）からシングル「幸福論」でデビュー。<br><br>9月発売のシングル「歌舞伎町の女王」をリリース。<br><br>渋谷系をもじった新宿系を名乗り、話題になる。<br><br>1999年1月、アルバム先行シングル「ここでキスして。」がヒット。同年2月に発売されたアルバム『無罪モラトリアム』は、先行シングルのヒットを受けてミリオンヒット（オリコン）。<br><br>この頃には「シーナ・リンゴ」名義で広末涼子やともさかりえに楽曲提供も行っている。<br><br>同年4月より、初のライブツアー「先攻エクスタシー」が福岡公演を皮切りに全国6都市で行われた。<br><br>また、仙台公演は体調不良のために順延となった。6月、それまで出演していたCROSS FMの最後の公開放送を、北九州スタジオで行う。8月、「RISING SUN ROCK FESTIVAL 1999 in EZO」に出演。<br><br><br>1999年 - 2000年<br><br>『勝訴ストリップ』まで1999年10月、四枚目のシングル「本能」を発売。プロモーション活動を、ナースのコスプレで行う。<br><br>このシングルがミリオンセラーになり、幅広く認知された。 11月には学園祭ライブツアー「学舎エクスタシー」（東海大学、昭和女子大学、西南学院大学、立命館大学）を行った。<br><br>2000年1月、二作目のアルバムからの先行シングルとして「ギブス」と「罪と罰」を2枚同時発売。<br><br>3月に発売された二作目のアルバム『勝訴ストリップ』はオリコンで230万枚を記録する大ヒット、このアルバムで、日本ゴールドディスク大賞ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤー、第42回日本レコード大賞 ベストアルバム賞[14]を受賞する。<br><br>二度目のライブツアー「下剋上エクスタシー」は、4月17日の栃木県総合文化センターを皮切りに、全国14都市で行われた。<br><br>6月21日には「シーナ・リンゴ」名義でともさかりえに提供したシングル「少女ロボット」が発売。<br><br>またこの頃、ガールズバンド「発育ステータス」としてライブハウスツアーを行った。7月30日、福岡県飯塚嘉穂劇場にて一夜限りのライブ「（稀）実演キューシュー 座禅エクスタシー」が行われた。<br><br>また、同年11月には、ギタリストの弥吉淳二と結婚。妊娠5か月であった<br><br><br>椎名 林檎- ここでキスして<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/iVBbyTqT4S8" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>2001年 - 2002年<br><br>『唄ひ手冥利～其ノ壱～』まで2001年3月、七枚目のシングル「真夜中は純潔」発売。このシングルのPV撮影中に妊娠が発覚、アニメーションのPVとなった。<br><br>以降出産のために一時活動を休止、男児を出産する。<br><br>2002年1月、弥吉淳二と離婚。<br><br>同年5月、2枚組のカバー・アルバム『唄ひ手冥利～其ノ壱～』発売。10月発売のスピッツのトリビュート・アルバム『一期一会 Sweets for my SPITZ』に参加、「スピカ」を歌う。<br><br>2003年<br><br>『りんごのうた』まで2003年1月、久々のシングル「茎（STEM）～大名遊ビ編～」を発売。<br><br>このシングルはオリコンシングルチャートで自身初となる1位を獲得した。<br><br>2月、三作目のアルバム『加爾基 精液 栗ノ花』を発売。<br><br>2月21日に、このプロモーションの為「筑紫哲也 NEWS23」の「金曜深夜便」に出演。活動休止後、初の地上波出演となり、話題となった。<br><br>3月26日にテレビ朝日系「ニュースステーション」にも生出演、久米宏と対談。<br><br>8月より、ライブツアー「実演ツアー 雙六エクスタシー」を敢行（東京事変はこのツアーのバックバンドとして結成された）。<br><br>9月27日には、追加公演として初の日本武道館公演を行う。<br><br>また「小学校時代に女優の沢口靖子やマドンナのように口元にほくろのある女性に憧れて、ペンで書いていたら本物になった」と話していた鼻の下のほくろは、夏の間に手術によって除去されていた。<br><br>同年11月25日、9枚目のシングル「りんごのうた」を発表。この楽曲は10月から11月にかけてNHK「みんなのうた」で放送された。<br><br>2作目のアルバム『勝訴ストリップ』インタビューの際の“椎名林檎をアルバム3枚で閉じる”といった発言の通り、ソロ活動を停止する。<br><br><br>椎名 林檎 - 本能<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/obZEgVARMBY" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>2004年 - 2005年<br><br>ソロ活動の停止以降2004年5月31日に「東京事変」としての活動を宣言。神戸でのライブイベントを皮切りに「MEET THE WORLD BEAT」、「FUJI ROCK FESTIVAL '04」、「SUNSET LIVE 2004」に参加。同年9月にシングル、11月にはアルバムも発表する（詳細は東京事変参照のこと）。<br><br>2005年7月8日に、ソロ時代から親交のあったZAZEN BOYSの向井秀徳と、フジテレビ系「僕らの音楽」にて共演。<br><br>12月に行われた公式ファンクラブ「林檎班」の会員限定イベント「第1回林檎班大会 アダルト・オンリー」では、久々にソロでのライブを行った。<br><br>2006年 - 2007年<br><br>『平成風俗』2006年、2003年のライブツアー「雙六エクスタシー」から東京事変を結成して以来、3年ぶりとなる椎名林檎としての新曲「カリソメ乙女（DEATH JAZZ ver.）」が、11月11日より配信限定で発売。<br><br>この楽曲は、フォトグラファー・蜷川実花初の監督作品であり、椎名が初の音楽監督を務める映画「さくらん」の主題歌。劇中には、様々な複数のバージョンが挿入されており、本バージョンは椎名とSOIL&amp;"PIMP"SESSIONSとの共演作品。<br><br>2007年1月、「椎名林檎×斎藤ネコ+椎名純平」名義で「この世の限り」を発売。<br><br>この楽曲は「さくらん」のエンディング・テーマに起用された。さらに2月には、椎名林檎としては実に4年ぶりのアルバム『平成風俗』（椎名林檎×斎藤ネコ名義）を発売。<br><br>また、2月23日の『僕らの音楽』（フジテレビ系）では、米大リーグマリナーズのイチローと対談を行った。<br><br>2008年 - 2009年<br><br>デビュー10周年2008年、映画「さくらん」で第31回「日本アカデミー賞」にて、音楽賞・優秀賞を受賞。また、香港国際映画祭が主催するイベント、「アジアン・フィルム・アワード」にも、作曲賞にノミネートされる。<br><br>5月27日には、デビュー10周年企画が始動。同日に、10周年特別サイト『椎名林檎10周年記念特設サイト ringo10th.com』を開設する。<br><br>7月には、デビュー10周年企画の第1弾として、これまで発売したシングルのカップリング曲やアルバム未収録曲を集めた2枚組の10周年記念アルバム『私と放電』と、全シングルのミュージックビデオを収録した10周年記念クリップ集「私の発電」を2作同時に発売。<br><br>また「私の発電」には、2000年発売のシングル集「絶頂集」より「メロウ」の新撮ミュージックビデオが収録された。<br><br>8月には、北海道で開催された「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2008 in EZO」に出演。8月15日は東京事変名義、16日には椎名林檎名義で出演した。<br><br>9月には、デビュー10周年企画の第2弾として、2000年7月福岡県飯塚嘉穂劇場で行われたライブ「（稀）実演キューシュー 座禅エクスタシー」の模様が収録されたDVD『座禅エクスタシー』が発売。 また、この頃TOKIOに「雨傘」と「渦中の男」の2曲を、楽曲提供した（別項参照）。<br><br>11月25日にはデビュー10周年企画の第3弾として、過去に発売されたオリジナル・アルバム3枚とシングル1曲をリマスタリングして収録したCD-BOX『MoRA』と、DVD-BOX『MoRA』（高音質音声トラック）も同時発売。<br><br>その他『無罪モラトリアム』と『勝訴ストリップ』のアナログ盤を初回生産限定で同時発売。<br><br>11月28日・29日・30日には、デビュー10周年を記念したソロライブ「椎名林檎 (生)林檎博'08 ～10周年記念祭～」を、さいたまスーパーアリーナで開催。その模様は、2009年3月発売のDVD『Ringo EXPO 08』 に収録された。<br><br>2009年3月6日、芸術選奨文部科学大臣新人賞の大衆芸能部門に選ばれる。<br><br>2009年 - 現在：ソロ活動の再開、東京事変の解散2009年5月2日・3日に開催された亀田誠治総指揮によるライブイベント「亀の恩返し」の一日目に出演。<br><br>5月27日、純粋なソロ名義としては約5年半ぶり（2003年11月に発売された「りんごのうた」以来）のシングル「ありあまる富」を発売。この楽曲はTBS系列のテレビドラマ「スマイル」の制作スタッフからの依頼と要望を受け、ドラマのために書き下ろされたものである。<br><br>ソロ名義での連続ドラマのタイアップはこれが初である。<br><br>同年6月、約6年4カ月ぶりに四作目のオリジナル・アルバム『三文ゴシップ』を発売。<br><br>オリコンアルバムチャート初登場1位を獲得[23]。このアルバムには、6月放送のみんなのうたに書き下ろした「二人ぼっち時間」や「椎名林檎 (生)林檎博'08 ～10周年記念祭～」で初披露された、書き下ろしの新曲「余興」などが収録されている。<br><br>同年8月、6年ぶりにミュージック・クリップ集「性的ヒーリング」シリーズの第四弾『性的ヒーリング～其ノ四～』が発売。<br><br>11月には、江崎グリコの「ウォータリングキスミント」のイメージキャラクターに選ばれ、11月17日からは本人が出演しているCMも放送が開始した。椎名がCM出演するのはこれが初である。<br><br>またCMソングは東京事変の楽曲が使用されることになった（詳細は「東京事変のタイアップ一覧」を参照）。<br><br><br>Tokyo Jihen - Odaiji ni<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/jKWnPFFf3Cw" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>2011年11月2日、ソロ名義では約2年半振りとなるシングル「カーネーション」を発売。この楽曲は同年10月から放送が開始されたNHK連続テレビ小説「カーネーション」の主題歌として依頼を受け、書き下ろされた。<br><br>11月30日にはNHK紅白歌合戦（第62回）に初選出された。本番では東京事変のメンバーも出演し、「カーネーション」と東京事変でリリースした「女の子は誰でも」を『カーネーション - 紅組なら誰でも』としてメドレーで披露した。<br><br>2012年1月11日、東京事変が解散を発表。本人による解散声明文に「事変は来（きた）る閏日（うるうび）解散致します」とあり、2012年2月29日に解散。<br><br>2月14日より、最後のツアー「東京事変 Live Tour 2012 Domestique Bon Voyage」を開催。ツアー最終日となる2月29日をもって東京事変を解散した。<br><br>東京事変解散後、初となる楽曲「自由へ道連れ」を発表。<br><br>同曲はTBS系ドラマ「ATARU」の主題歌として書き下ろされたもので、5月16日に配信限定でリリースされた。同年8月にはSMAPに楽曲を提供し、アルバム「GIFT of SMAP」に収録された。<br><br>9月から10月にかけて東京芸術劇場のプレイハウスにて上演された野田秀樹の第17回公演NODA MAP「エッグ」では、野田の依頼により劇中の音楽を担当した。
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<pubDate>Tue, 09 Apr 2013 21:18:36 +0900</pubDate>
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<title>アン・ルイス － あゝ無情</title>
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<![CDATA[ 引退するうだな全盛期の映像で!!<br><br>ワイルドだろー<br><br>♪～(´ε｀　)<br><br><br>アン・ルイス（Ann Lewis、1956年6月5日 - ）は、兵庫県宝塚市出身の歌手。<br><br>本名アン・リンダ・ルイス。その楽曲は多くの音楽家にカバーされている。<br><br><br>アン・ルイス － あゝ無情<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/t_vfT8JZ0PE" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>父親がアメリカ人（アメリカ海軍の軍人）で母親が日本人のハーフ。兵庫県宝塚市に生まれ、横浜市中区本牧に在った米海軍の住宅街ベイサイドコートで育つ。<br><br>子役として活躍。当初はグラビアアイドルやアイドル歌謡を中心に活動し、1974年に「グッド・バイ・マイ・ラブ」がヒット。<br><br>ロック（歌謡ロックと言われる場合もある）に転向し1970年代から1980年代にかけて「ラ・セゾン」や「六本木心中」「あゝ無情」などヒット曲を放った。<br><br>かつての所属事務所は渡辺プロダクション（ザ・タイガース時代より沢田研二の熱烈なファンだったことも遠因する[要出典]）。<br><br>ファッションにこだわりを持ち、自身でステージ衣装のデザインを手がけることもしばしばある。キャンディーズの「やさしい悪魔」のステージ衣装のデザインも手がけた。<br><br>記者会見で自ら「パニック障害」であることを打ち明け[要出典]、しばらく父親の母国アメリカに在住していたが、2005年11月23日にセルフカバーアルバム『REBIRTH』を発売と同時に音楽活動を再開させた。<br><br>その後はファッションやペットグッズなどのデザイン、プロデュースも手がけている。<br><br>もともとソフトな声質でバラードに向いていたが無理にロック調なナンバーを歌うことで喉を酷使して声を潰してしまったと告白している[要出<br><br><br>アン・ルイス - 六本木心中<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/esJ-NZhe-hQ" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1971年2月25日発売のシングル「白い週末」でデビュー。<br><br>1974年、「グッド・バイ・マイ・ラブ」がヒット。<br><br>1980年、ロック歌手の桑名正博と結婚。<br><br>1981年、長男・美勇士を出産。この頃、育児に専念するため音楽活動をしばらく休業する。<br><br>1982年、活動再開。結婚を機に芸能界を引退した三浦百恵（旧姓・山口百恵)作詞の「ラ・セゾン」がヒット。<br><br>1984年、桑名正博と離婚・「六本木心中」がロングヒット。また、同年大塚食品の「アルキメンデス」のCMにも出演。<br><br>1995年頃、パニック障害を患い、音楽活動を再び休止する。<br><br>2005年、活動再開。<br><br>2007年、ニューギンからタイアップパチンコ機「CR アンルイスと魔法の王国」がリリース。<br><br>2009年3月、フジテレビ系の番組『独占!金曜日の告白SP』に出演。10数年ぶりのテレビ番組出演<br>となり、近況を語るほか活動休止となったときの思いを語った。<br><br>この番組内で「現在もパニック障害の影響で人前で歌うライブができない」「（在住するという意味で）日本に行くことはもうないと思う」と告白した。<br><br>2010年5月4日、フジテレビ系の番組『カスペ!・芸能界の告白大ヒットに隠された壮絶人生SP!』にVTRで出演。<br><br>一時音楽活動を休止する原因となったパニック障害や、元夫の桑名正博・長男の美勇士らの話をそれぞれコメントしていた（インタビュアーはかつての歌手仲間だった研ナオコ）。<br><br><br>アン・ルイスから島田紳助へのメッセージ <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/Eq76ATIgd5I" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1985年：「女・Tonite」を「Tonight」とタイトルを変更して早見優がシングルとして発売。<br><br>1989年：「グッド・バイ・マイ・ラブ」を坂上香織がシングルとして発売。<br><br>1991年：「恋のブギ・ウギ・トレイン」を、ZOOがミニアルバム「Present Pleasure」に収録して発売。<br><br>1993年：「グッド・バイ・マイ・ラブ」を松崎しげるがシングルとして発売。<br><br>1996年：日本テレビ系アニメシティーハンター ザ・シークレット・サービスのEDで「WOMAN」が使用される。<br><br>2002年：相川七瀬が「六本木心中」をカバー。<br><br>2006年：フジテレビ系列のドラマ「不信のとき～ウーマン・ウォーズ～」で自身のヒット曲「あゝ無情」が再び使用され、「グッド・バイ・マイ・ラブ」が挿入歌として福田沙紀にカバーされた。<br><br>2007年：「六本木心中」をデーモン小暮閣下がカバー。<br><br>2010年：「あゝ無情」をmisonoがカバー。<br><br>2010年：「六本木心中」をSCANDALがカバー。アルバム『R-GIRL's ROCK!』に収録。<br><br><br>アン・ルイス - グッバイ マイ ラブ<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/OthJRnL6wXQ" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
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<pubDate>Sun, 07 Apr 2013 17:59:51 +0900</pubDate>
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<title>浜田 麻里 - Don't Change Your Mind</title>
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<![CDATA[ ハイトーンで圧倒的な歌唱力と<br>ヘビメタとのコラボ<br><br>今日はメタルに<br><br>(^^♪<br><br>カラオケで挑戦してみて下さい!!<br><br><br>浜田 麻里（はまだ まり、1962年7月18日 - ）は、日本のシンガーソングライター。<br><br>東京都出身。血液型はA型。<br><br><br>浜田 麻里 - Don't Change Your Mind 1985<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/KWyM-OmEeMg" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>中学生の頃からコマーシャルソングの収録に参加していた。<br><br>都立武蔵丘高校入学後はパンクロックバンド「麻里バンド」を結成、のちに青山学院大学に進学し「Misty Cats」のヴォーカルとして活動。<br><br>1983年「麻里ちゃんはヘヴィ・メタル」のキャッチフレーズでメジャーデビュー。<br><br>1980年代に女性ロックヴォーカリストの旗手として注目を集め、当時のハードロックジャンル<br><br>としては異例ともいえるアルバム売り上げを誇っていた。<br><br>1985年には初のシングル盤となる「Blue Revolution」を発表。この頃からプロデューサーとしての活動も行うようになる。<br><br><br>浜田 麻里 - Nostalgia<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/pWeODl7WIGQ" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1987年発表の「In The Precious Age」からスタジオを海外へ移し、著名なプロデューサー、ミュージシャンを起用してアルバムを製作するようになる。<br><br>この頃から初期にみられたハードロック色の強い曲調からポップさも取り入れた幅広い音楽性を表現し、ファン層をさらに広げる。<br><br>1988年にはソウルオリンピックのNHKのテレビ・ラジオ中継のイメージソングとして「Heart and Soul」が採用された。<br><br>翌1989年の『Return to Myself ～しない、しない、ナツ。』がオリコン初登場5位。<br><br>その後、プリンセス・プリンセスの「Diamonds」や工藤静香の「嵐の素顔」などと熾烈な1位争いの末、登場6週目にして1位を獲得した。<br><br>同タイトルのアルバムも1位を記録した。<br><br>また同年に行われた日本武道館での単独コンサートも成功させた。<br><br><br>浜田 麻里 - Time Again<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/X3L5u9fVCoA" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1990年代に入るとアジア、ヨーロッパなど海外でもCDデビューを果たした。1993年にはチャリティーグループ「USED TO BE A CHILD」に参加。<br><br>1996年にはアルバム「Persona」を発表するが、以降ライブ活動はしばらく休止する。2002年、赤坂Blitzにて9年ぶりとなるコンサートを行った。<br><br>以降はほぼ隔年ペースでオリジナルアルバムを発表、年1回のペースでライブツアーを行ってきた。<br><br>2010年、アルバム『Aestetica』の発表後のライブツアーはBSで放送され話題をよび、同ツアーの中野サンプラザの最終公演をDVD化した『Mari Hamada Live in Tokyo "Aestetica"』は2011年、9月9日付けオリコンDVD音楽デイリーチャートで1位(週間2位）<br><br>総合チャートでも3位(週間8位）にランキングされた。<br><br>2012年2月に最新作『Legenda』は、デイリーCDアルバムチャートで9位にランキングされ、リリース後のコンサートを収録したDVDはリコンDVD音楽デイリーチャートで5位（週間8位）<br><br>総合チャートでも8位（週間12位）と再び評価が高まっている。<br><br><br>浜田 麻里 - Return To Myself<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/kIOr1VAY_SI" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>デビュー当時はバンド名として『AX』や『ZEUS』と名乗っていたが90年代以降はバンド名は無い。<br><br>現在のサポートメンバー<br><br>Guitar <br>増崎孝司（DIMENSION）<br>藤井陽一<br><br>Bass <br>山田友則<br><br>Drums <br>宮脇“JOE”知史（44MAGNUM/ZIGGY）<br><br>Keyboards <br>増田隆宣<br>中尾昌文（Sound Effectsも担当）<br><br>Chorus <br>ERI（浜田麻里の妹）<br><br><br>浜田 麻里 - Heart And Soul<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/wa0FWRoLDKQ" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>浜田 麻里 - Don't Change Your Mind <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/pgeqqMOcMb4" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
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<pubDate>Sun, 07 Apr 2013 00:21:01 +0900</pubDate>
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<title>森高 千里 - 雨 〜 私がオバさんになっても</title>
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<![CDATA[ 初期のバリバリロックが好き!!<br><br>ぜんぜん変わんないなー<br><br>新しい楽しい音楽を目指してるところがいいね!!<br><br>（´(ｪ)｀）くまもん<br><br>森高 千里（もりたか ちさと、1969年4月11日 - ）は、日本の歌手・作詞家・作曲家・ドラマーである。<br><br>本名：江口 千里（えぐち ちさと、旧姓：森高）。<br><br>実父はロカビリーバンドで活動していた森高茂一、夫は俳優の江口洋介。<br><br><br><br>森高 千里 - 雨 ～ 私がオバさんになっても<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/0oh07ieWQrw" frameborder="0" allowfullscreen></iframe> <br><br>1969年、大阪府茨木市に生まれる。<br><br>幼少時に一家で熊本県熊本市に移る。<br><br>九州女学院在学中の1986年夏、大塚製薬が主宰した「第1回ポカリスエット・イメージガールコンテスト」でグランプリを受賞。<br><br>同コンテストで審査員を務めていた糸井重里とCMで共演同年冬に芸能活動を本格化させるため上京。九州女学院を中退し、堀越学園に編入する。<br><br>1980年代<br><br> 1980年代 [編集]1987年春、東宝映画『あいつに恋して』にヒロイン・松前千里役で出演、同年5月25日に同映画の主題歌「NEW SEASON」でデビュー（映画の公開は5月30日）。<br><br>当初は女優・タレント活動と両立して歌手活動を行っていたが、同年9月7日の渋谷LIVE INNでの初ライブをきっかけに徐々に歌手活動に重きを置くようになる。<br><br>1988年、アルバム『ザ・ミーハー』のタイトルトラック「ミーハー」で初めて作詞を手掛け、斬新で個性的な歌詞が話題になる。<br><br>同年夏、ツアーのリハーサル中に腹痛で1週間の入院生活を余儀なくされ、それを機に女優・タレント業との並行活動を断念し、歌手活動に専念することになった。<br><br>この時期の入院体験をもとに「ザ･ストレス」を書き、歌詞のユニークさを注目されて以降、ほぼ全ての作詞を自ら手掛けるようになる。<br><br>また同作のPVで、森高千里の代名詞となる「コスプレ」が初登場。<br><br>1989年、南沙織の楽曲のリメイク「17才」がヒットし、一躍人気ミュージシャンとなる。<br><br>『非実力派宣言』『古今東西』などの作品で、個性的な作詞のセンスが高く評価されるようになるが、その一方で、当時の時代を背景に超ミニのウェイトレス姿や総スパンコールの衣装などのコスプレでライブを行い、時には意図的にパンチラを見せ、男性ファンを獲得することになった。<br><br><br>森高 千里 - オーバーヒートナイト<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/Cqsu73LUfEQ" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br><br>1990年代<br><br>1992年のアルバム『ROCK ALIVE』からの再シングルカットとなる「私がオバさんになっても」のヒットで女性ファンの心を掴み、『ROCK ALIVE』ツアー（女性ミュージシャンとしては2組目となる全都道府県制覇ツアーを敢行した。<br><br>森高はこのツアーの際に「ロックンロール県庁所在地」という曲を作り上げている。）では、コンサート会場で森高と同じ衣装を作ってコスプレする女性客の姿も見られた。<br><br>同年11月のアルバム『ペパーランド』からは大半の曲で自ら楽器演奏（ギター・ベース・ピアノ・ドラム等）をするようになり、それまでの打ち込み主体のサウンドから生音主体のサウンドへと路線の転換を図った。<br><br>一般にはアイドルと位置づけられやすい中でも、これらの新しい方向は、従来のストレートで個性的な作詞に付け加えて、森高千里が従来型の単なるアイドルの枠を超えていこうという方向を打ち出し、真に新しくオリジナルな方向を目指したという点で画期的な時期ともいえる。<br><br><br>森高 千里 - やっちまいな<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/dWxetbCDdEc" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1993年のシングル「渡良瀬橋」「風に吹かれて」のヒットでその路線を確立するが、1994年、顎関節症のため予定されていた全国ツアーをキャンセルし、2年間のコンサート休業を余儀なくされた。<br><br>この間、ミュージックステーション上で病状をファンに報告して話題になった。<br><br>ツアーが出来ない時期には子供番組で「ロックン・オムレツ」を披露してファン層の拡大に努めたり、凝ったPVを作ったり、チャリティライブに参加したりと多彩な活動を行なった。<br><br>1995年にはその年起きた阪神淡路大震災救済イベントで泉谷しげるのバンドに参加、ドラムを担当した。<br><br>1997年、1998年にはローソンのCMシリーズで細野晴臣と夫婦役で共演し、のちにコラボレーション・アルバム『今年の夏はモアベター』を発表。<br><br>1999年6月3日、1995年から交際を続けていた俳優の江口洋介と結婚した。<br><br>体調を崩したため病院で検査をしたところ、妊娠3週目であることが確認されたので結婚を決意した。<br><br>2000年2月に長女、2002年5月に長男を出産。<br><br>1999年末に産休に入って以後は育児を優先するため、芸能活動は休業状態であるが、一般消費者向けの商品やサービスのCMに起用され出演している。<br><br>上記の様に自身の楽曲で自ら楽器演奏を行っているが、1998年に発売された泉谷しげるのアルバム「私には夢がある」でドラマーとして参加する等、他のアーティストの作品に参加する事も少なくない。<br><br><br>森高 千里 - この街 <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/v3Q-336nLZA" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>2000年代 <br><br>1男1女の母となった森高は、子育てを中心に雑誌の連載、ベストアルバムのレコーディングやCM出演などの活動をしている。<br><br>また、単発的ではあるが子育てに支障のない限り、ミュージシャンとしての活動も行っている。<br><br>2007年5月、自身のヒット曲「渡良瀬橋」の歌碑が足利市にある渡良瀬橋のそばに完成。また同月には日産・ラフェスタのCFソングが発表された。<br><br>2008年12月6日、事務所の後輩であるシャ乱Q結成20周年記念「ハタチのシャ乱Qみんなでお祝いだ!日本武道館フェスティバル～長いよ～」にゲスト出演し、9年ぶりに公の場で「渡良瀬橋」（キーボードの弾き語りで披露）と「気分爽快」の2曲を歌った。<br><br>2009年4月24日放送の僕らの音楽（フジテレビ）にて、親交のある渡瀬マキと対談をし、10年ぶりのテレビ出演となる。<br><br>2009年11月20日放送のミュージックステーション（テレビ朝日）では稲垣潤一と「雨」をデュエットで披露し、同番組に10年ぶりの出演を果たした。<br><br>また、12月2日のFNS歌謡祭（フジテレビ）にも出演し、稲垣とのデュエットだけではなく13年ぶりに「渡良瀬橋」を披露した。<br><br>ハウス「ジャワカレー」のCM（2004年-2008年）では夫・江口洋介と共演していた。<br><br><br>森高 千里 - 気分爽快 2008<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/LeRHAngP6QU" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>2010年代 <br><br>NPO法人 日本マザーズ協会 第3回ベストマザー賞2010（音楽部門）受賞。<br><br>2011年4月9日、アップフロントエージェンシー（現：アップフロントプロモーション）が山下公園で東日本大震災チャリティーイベント「がんばろうニッポン 愛は勝つ ～From Yokohama with love～」を開催した。<br><br>同じアップフロントエージェンシー（現：アップフロントプロモーション）所属のアーティストと「愛は勝つ」を歌って募金活動を行った。<br><br>2012年5月25日の歌手デビュー25周年を機に公式ホームページをリニューアル<br><br>さらにYoutube公式チャンネル、facebook公式ページ、google+公式ページを立ち上げ、その中で、今後1年間をかけて、オリジナル楽曲200曲のセルフカバーを目玉に<br><br>他にもベストアルバムの発売等、25周年記念企画をPR、本格的に歌手活動再開することを発表した。<br><br><br>森高千里 - 二人は恋人<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/ZM2ksjNtDBY" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br><br>阿蘇山を周遊する観光バスのバスガイドが「森高は両親の出身地である高森町、千里は草千里から取った芸名だ」と紹介したが、それに対し本人はラジオや著書で必死に何度も否定した。<br><br>ビル・ローレンスから森高モデルのエレキギターが発売されたことがある（MB-68, MB-120）。<br><br>本人も実際にライブで演奏していた。<br><br>一般的なドラマーに比べて、一定のパターンを刻む個性的な味のあるドラミングを村上"PONTA"秀一が自伝「自暴自伝」内で絶賛している。<br><br>吉田拓郎はミュージシャンとしての森高を<br><br>「我々ミュージシャンが、今まで何十年もの期間をかけて作り上げた詞の世界観を、森高が一瞬で破壊してしまった」<br><br>「その辺のドラマーより全然うまい」<br><br>と高く評価しており、森高を吉田とLOVE LOVE ALL STARSとのアルバム『みんな大好き』にドラマーとして起用した。<br><br><br>森高 千里 - 今度私どこか連れていって下さいよ<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/KZdYBBnJHCo" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>森高 千里 - 17才<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/QvwOs4J6Ojs" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>森高 千里 - GET SMILE<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/Aq7XdSIPTUQ" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>森高 千里 - 夜の煙突 1998<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/G9u7jGYCR38" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
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<pubDate>Fri, 05 Apr 2013 22:53:05 +0900</pubDate>
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<title>岸谷 香 - Diamonds</title>
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<![CDATA[ オーデションで選ばれたから演奏は抜群<br><br>観客ゼロのライヴやデパートの屋上営業<br><br>苦労を共にしたからの絆を感じる<br><br><br>岸谷 香（きしたに かおり、1967年2月17日 - ）は、日本のシンガーソングライター。<br><br>かつては奥居 香（おくい かおり。結婚前の本名）名義で活動していた。<br><br>所属事務所はシンコー・ミュージック（現在のシンコーミュージック・エンタテイメント） → オールスパイスカンパニー。<br><br><br>Princess Princess - Diamonds<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/_LQx7Dr4IcI" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>広島県広島市生まれ、東京都育ち。<br><br>1983年、奥居と今野登茂子、渡辺敦子、中山加奈子、富田京子の5人がオーディションで選ばれ、バンド「赤坂小町」を結成。<br><br>1986年、バンド名を「PRINCESS PRINCESS（プリンセス プリンセス）」に改称しメジャーデビュー。<br><br>1994年8月1日、初のソロシングル「奇跡の時」をリリース。<br><br>バンド活動と並行してソロとしての活動を始める。<br><br>1996年5月31日、PRINCESS PRINCESS解散。その直後に俳優の岸谷五朗と結婚する。しばらく休養ののち、1997年4月16日にリリースされたシングル「ハッピーマン」でソロ活動を再開。<br><br>2000年 - 2001年にかけて、南青山MANDALAでライブ「四季のうた」を行う。 5月8日・21日、春。8月20日・25日、夏。11月4日・11月11日、秋。<br><br>2001年、2月24日・3月4日、冬。 4月17日、ベスト・オブ・マンダラ。 夏、第一子（男子）を出産。<br><br>これを契機に、結婚後の本名である岸谷香へと芸名を改める。<br><br>PRINCESS PRINCESS時代から引き続き、歌手活動のほか、多くのアーティストに主に作曲家として毎年１～２組ペースで楽曲を提供したり、音楽プロデュース活動を行ったりしている。また、つるの剛士のカバーアルバムにはコーラスで参加したりもしている。<br><br><br>Princess Princess - Get Crazy<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/9qOQBT64OjY" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>2003年、2月23日・3月10日、南青山MANDALAでライブを行う。第二子（女子）を出産。<br><br>2006年3月、8年ぶりの新曲「Hello Hello」をリリース、4月19日に「Ice Age」をリリースする。また、5月31日にはニューアルバム｢Ring to the Heavens｣（鎌田雅人プロデュース）リリースし、6月3日には東京都内でライブを行った。<br><br>その後、12月13日に「Singing」をリリースし、映画『名犬ラッシー』日本版エンディングテーマに起用される。<br><br>2008年9月6日、渋谷のDUO MUSIC EXCHANGEで2年ぶりにライブを行う。<br><br>2009年3月27・28日、渋谷のSHIBUYA-AXでライブを行う。<br><br>2010年1月2・3日、赤坂BLITZでライブを行う。<br><br>1月2日「ぼくらのうた～岸谷香バージョン～」をリリース。<br><br>配信限定シングルで着うた･着うたフルのみの配信。<br><br>2011年1月8・9日に赤坂BLITZで、1月15日に大阪BIG CATでライブを行う。<br><br>大阪では12年ぶりのライブとなった。<br><br>2012年1月、震災復興支援の為、1年限定でプリンセス・プリンセス再結成。<br><br>3月24日になんばHatchで、25日に名古屋クラブクアトロ、31日、4月1日にSHIBUYA-AXでライブを行う。<br><br><br>Princess Princess - 19 GROWING UP <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/9phigw8cJho" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>プリンセス プリンセス（PRINCESS PRINCESS）は、日本の女性ガールズロックバンドである。<br><br>活動期間は1983年 - 1996年および2012年。ガールズバンドのパイオニアとなり、ヒット曲を連発。女性のみで構成されたバンドの中で、商業的に日本で最も成功したグループである。<br><br>略称は『プリプリ』。<br><br>富田以外はみな喫煙者であった。<br><br>奥居は妊娠を機に禁煙し、中山も長い間禁煙していた期間がある。<br><br>2012年現在、喫煙しているメンバーは一人もいない。<br><br>シンコーミュージック時代のプリプリのマネージャーは「イチヤン」こと市村恵美子が務め、「6人目のメンバー」と呼べるほどの功績を残した。<br><br>2007年現在は、岸谷香が現在所属しているオールスパイスカンパニーに所属し岸谷のマネージャーを担当している。<br><br>インタビュー等の文面では「イチヤン」「市やん」「市ヤン」と書かれる。独身。宝塚が好きである。<br><br><br>PRINCESS PRINCESS - Fly Baby Fly<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/mx5GVsx4uF8" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1983年 <br><br>2月、ガールズバンド結成のための楽器ごとのオーディションがTDKレコード主催で行われ、5人のメンバーが選出されて結成。<br><br>当初のバンド名は「赤坂小町（あかさかこまち）」。<br><br>このバンド名の由来については、「当時のTDKレコードの所在地であった『赤坂』から」、「『漢字4文字のバンド名をつけてほしい』と依頼されたある雑誌編集者によって名付けられた」、「雑誌上での公募で付けられた」など多くの説がある。<br><br>5月29日、銀座の山野ホールで初ライブを行う。<br><br>4 月から、西日暮里（東京都荒川区）で合宿生活を開始する。<br><br>合宿開始当初（1983年ごろ）は、同じ事務所に所属していた木之内美穂とともに合宿生活をしていた。この合宿生活は2年4カ月にも及んだ。<br><br>1984年 <br><br>3月21日、TDKレコードより、シングル「放課後授業」でデビュー。この頃、奥居は「ヴォーカル&amp;ベース」から「ヴォーカル&amp;ギター」に、渡辺は「ギター」から「ベース」に、それぞれパート変更する（パート変更の時期は、富田によると「放課後授業」のリリース前、渡辺によると同シングルのリリース後とされており、ライブ年表によると、「放課後授業」発売の約1ヶ月半後の1984年5月8日のシャープ会館イベントがパートチェンジ後の初ライブとされている）。<br><br>1985年 <br><br>事務所が与えるアイドル的な仕事に違和を覚えたことや、音楽性の違いから、所属事務所をTDKレコードから音楽座（ミュージカル劇団音楽座とは別の事務所）へと移籍する。<br><br>ここでバンド名を「JULIAN MAMA（ジュリアン・ママ）」に改名する。JULIAN MAMA時代はシングル、アルバムのリリースは無かった。<br><br>1986年 <br><br>5月、ミニアルバム『Kissで犯罪（クライム）』でCBSソニー（現ソニー・ミュージックエンタテインメント）よりデビュー。この時バンド名を「PRINCESS PRINCESS」へと再び改名する（名づけ親はムーンライダーズの岡田徹）。<br><br>この『Kissで犯罪』のプロモーションビデオを事務所関係者が見たことがきっかけで、シンコーミュージックが彼女らへの接触、移籍交渉を開始することになる。<br><br>8月、シンコーミュージックで移籍のためのオーディションが行われるが、この時点では移籍には至らなかった。<br><br>音楽座サイドがプリプリを手放そうとしなかったことや、オーディションを見た社員の反応があまり良くなかったことが原因であった。<br><br>だが当時シンコーミュージックの社員で、後に彼女らのマネージャーになった「市ヤン」こと市村恵美子は、彼女らのライブを生で見て「このバンドはいける」と思い、社長の説得にあたった。<br><br>11月、所属事務所であった音楽座との意見の相違等もあり、音楽座との話し合いをへて音楽座からシンコーミュージックに移籍する。<br><br><br>Princess Princess - 仙台の人々の笑顔 　"ダイヤモンド" <br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/_I3LUaB5m90" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1987年 <br><br>4月、ファーストシングル「恋はバランス」が発売される。この曲は、作詞は中山が担当したが、作曲は鈴木キサブローによるものだった。<br><br>当時メンバー内では、部外者が作曲した作品をリリースすることについての抵抗がかなりあったらしく、以後はメンバー自身が作詞・作曲した曲をリリースすることにこだわり続けた。<br><br>1988年 <br><br>3枚目のシングル「MY WILL」が、スポーツ用品店「ヴィクトリア」のCMソングに起用されたことをきっかけとして注目を集め、フジテレビの夜のヒットスタジオDELUXEに初出演を果たす。<br><br>初登場時は電飾を使ったセットが用意され、これは彼女らに余計に緊張を与えたという。<br><br>またこの番組は、渡辺にとって昔からの憧れの番組であり、また「何度出ても緊張する番組だった」と後に語っている。<br><br>2月、後にバンドの代表曲の1つとなる4枚目のシングル「19 GROWING UP -ode to my buddy-」をリリースする。<br><br>この時期からたびたびテレビドラマやCMのタイアップに起用されるようになり、バンドの知名度、CD売上も上昇していく。<br><br>5月、5枚目のシングル「GO AWAY BOY」リリース。<br><br>資生堂夏のキャンペーンソングに起用される。続く6枚目のシングル「GET CRAZY!」も月9テレビドラマ『君が嘘をついた』の主題歌に起用された。<br><br>11月、4枚目のアルバム『LET'S GET CRAZY』リリース。<br><br>収録曲の「M」は後にリリースされるシングル「Diamonds」のカップリング曲にもなり、バンドを代表する曲の一つとなる。<br><br>同年4月、結成当初から目標の一つとしていた渋谷公会堂ライブを行う。チケットは発売開始からわずか2時間で完売し、これを聞いたマネージャーの市村はメンバーより先に泣いたというエピソードがある。<br><br>この頃からライブ会場をライブハウスからホールへと移行させていく。<br><br>1989年 <br><br>1月、女性だけのバンドとして初の日本武道館公演を行う（翌年より正月に公演が行われるようになり、以後96年まで毎年行われた）。<br><br>4月、7枚目のシングル「Diamonds」をリリース、オリコンチャート1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する。同曲の大ヒットとともに一躍トップアーティストの仲間入りを果たし、人気は頂点に達する。同曲では第22回日本有線大賞も受賞し、NHK紅白歌合戦からも「Diamonds」での出演のオファーが来たが、スケジュール上の都合で辞退する。<br><br>このブレイクをきっかけに「Diamonds」発売以前にリリースされていた曲も注目されるようになる。<br><br>7月、既にEP盤として発売されていた2ndシングル「世界でいちばん熱い夏」がCD化され、オリコンチャートで1位を獲得。カップリング曲の「世界でいちばん熱い夏（平成レコーディング）」は、ライブで演奏していたアレンジをレコーディングしたものである。<br><br>6月1日発売のユニコーンのアルバム「服部」に奥居がPSY・SのCHAKAと共にコーラスで参加。<br><br>8月、西武球場で初のスタジアムライブを含む「夏祭りだよ! 全員集合」（ライブ）が行われる。<br><br>11月、5thアルバム『LOVERS』リリース、オリコン・アルバムチャートで初の1位を獲得し、ミリオンセラーとなる。中山が亡き父へのメッセージとして作詞した「パパ」、ポップなナンバー「パレードしようよ」などが収録されている（ちなみに、「パレードしようよ」の歌詞の最後に出てくる「パレード1991」というのは、「その頃には結婚できたらいいな」という願望から出たフレーズである）。<br> <br>夜のヒットスタジオ騒動 1989年10月18日、生放送の『夜のヒットスタジオSUPER』第1回目で、新しく司会として起用された加賀まりこが、奥居に対して「ブタ」「生理中なんじゃないの」という発言をする。<br><br>これに対し奥居は、同日番組終了後に生放送されたTBSラジオ『ポップン・ルージュ』で加賀の言動に激怒する。<br><br>メンバーの恋人の存在が写真週刊誌に掲載された直後の同年11月15日出演時では、生放送中に加賀がそのことに打ち合わせなしで言及し、奥居がその夜の『ポップン・ルージュ』内で再び激怒。<br><br>その後メンバー全員が『夜ヒット』への出演を拒否する事態に発展し、その後同番組に出演することはなかった（だがレギュラー放送終了後、1993年3月31日に放送された特番では病欠中だった今野を除くメンバー4人で生出演し、また1994年10月12日放送の特番には「夜ヒットの思い出」として奥居がVTRでコメント出演をしている）。<br><br>1990年 <br><br>4月より初の全県ツアー「PANIC TOUR'90 パレードしようよ!!」が行われる。<br><br>全56ヵ所、62本のライブを行った。9thシングル「OH YEAH!」はこの全県ツアーの応援歌として作られた。<br><br>12月、6枚目のアルバム『PRINCESS PRINCESS』リリース。<br><br>「メンバーそれぞれの個性を表に出した」ということで、このタイトルが付けられた。このアルバムには、奥居以外が初めてボーカルをとった曲（今野、中山のソロ曲）が収録されている。<br><br><br>Princess Princess - 再結成への道<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/v28-sdL9MRY" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>1991年 <br><br>12月、8枚目のアルバム『DOLLS IN ACTION』をリリース。<br><br>同年後半ヴォーカルの奥居が、トレードマークであったロングソバージュの髪をバッサリ切ってイメージチェンジを図った。<br><br>1992年 <br><br>5月、今野が突発性難聴のため休養する（当時のインタビュー等によると一時期完全に聴力を失ったようである）。<br><br>ライブツアー中だったため、キーボードには代行が立った。<br><br>幸いなことに順調に回復し、6月には復帰した。<br><br>だが、突発性難聴は後遺症が残ることがあったり、時には改善不能な場合もあるため（事実、後述の再結成時に、今野は「その時の影響で現在も片耳が聞こえない」事を明かした）、病状次第では今野の離脱やメンバーの交代、最悪バンドの解散にまで至る可能性があった状態にあったと言われる。<br><br>7月、これまでにリリースされたシングル曲を集めたベストアルバム『SINGLES 1987-1992』をリリース。この年はオリジナルアルバムのリリースは無かった。<br><br>1993年 <br><br>5月、16thシングル「だからハニー」リリース。ドラマ『ダブルキッチン』の主題歌となり、プリプリの健在ぶりを示す作品となった。<br><br>1994年 <br><br>バンドとしての活動を大事にしていたため、デビューから長らくソロ活動は控えていたが、4月に今野がシングル・アルバム「24Hours」でソロデビューをしたのを皮切りに、メンバーが続々とバンド活動と並行してソロ活動を開始した。<br><br>1995年 <br><br>4月、プリンセス プリンセスの解散をレコード会社関係者に伝える。実際に解散の話が持ち上がったのは前年の暮れ、新作アルバム制作の話し合いの途中でのことだった。<br><br>解散の主な理由として、アルバム制作時の打ち合せで出された2つの意見、「プリプリで新しいことをやっていきたい」という意見と、「これまでの間に培われたイメージがあるので、それを崩さず今まで通り変わらずに行くと」という意見が、平行線のまままとまらなかったことが挙げられた。<br><br>また、奥居が「昔は曲を書くときは天から降ってくる感じで、何も考えずに書けたのに、時間が経つにつれて曲を書く際に考えるようになり、そのことを悩んでいた」ことや、「友達のまま、解散したほうがいい」というメンバーの意向も解散の理由として挙げられる。<br><br>ラストアルバムのレコーディング前日、富田はやっぱりプリプリは解散させてはいけないと思い、渡辺に電話をしたが何度かけても掴まらず、ついに話はできなかった、というエピソードがある。<br><br>10月、解散宣言と共にシングル「Fly Baby Fly」をリリース。<br><br>解散とラストツアーのキャッチコピーは「解散を遊ぼう」。<br><br>このキャッチコピーが書かれた宣伝用ポスターの構図は、メンバーがロープで縛られているというものであったため、クレームがつき、駅貼りポスターの大半が短期間で撤去されてしまった。<br><br>1996年 <br><br>1月24日から始まったラストツアー「PANIC TOUR'96 解散を遊ぼう」は2度目の全県ツアーとなる。<br><br>「最後に全国のファンにお別れの挨拶に行きたい」というメンバーの意向で実現したが、当初チケットの売れ行きを心配したスタッフからは反対の声が上がったという。<br><br>結局その心配は杞憂に終わり、チケットは1県だけ若干売れ残った程度で、ほぼ完売した。<br><br>2月、アンコールシングル「夏の終わり」リリース。最後のシングルとなる。<br><br>5月31日の日本武道館ライブをもってプリンセス プリンセスはその活動に終止符を打つ。<br><br>バンド活動は13年間にわたり、ライブの観客動員数は190万人を記録。<br><br>13年間で発表されたシングルは21枚、アルバムは15枚（ベスト盤含む）。オリジナルソングは120曲に上った。<br><br>この頃テレビ番組『とんねるずのハンマープライス』で「プリンセス・プリンセスのメンバーの一人になれる権」がオークションにかけられ、ファン2人によるマッチレースの末、当時番組史上最高額での落札となった（453万円）<br><br><br>森高 千里 ＆ 奥居 香 - 雨<br><br><iframe width="560" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/hkQX3yEtaBc" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>解散後 <br><br>現在、渡辺は東京スクールオブミュージック専門学校の副校長、富田は、同専門学校の顧問を務めている。奥居（現：岸谷香）は歌手活動の傍ら作曲家として、中山はソロ活動の傍ら作詞家として、他アーティストに楽曲を提供している。<br><br>今野は作曲家として映画やドラマに楽曲を提供している。<br><br>2012年 <br><br>1月6日、東日本大震災をきっかけに再び集結、復興支援として、1年間の期間限定で16年ぶりの復活を発表(実際にはその前年、2011年からリハーサルは行われていた)。<br><br>再結成でのバンド名は『プリンセス プリンセス』となり、2つの『プリンセス』の間にあった『・』が無くなっている。<br><br>3月20日、幕張メッセで開催された東日本大震災復興支援チャリティコンサート『ALL THAT LOVE-give&amp;give-』に米米CLUB、TM NETWORKとともに参加。<br><br>7月6日にはプロモーションで『オールナイトニッポン』に出演の他、7月13日には1996年5月24日以来16年振りに『ミュージックステーション』にも出演した。<br><br>7月 - 8月バンドとしては初めての夏フェスに出演した(全国4ヶ所)。<br><br>11月3日 - 24日、「PRINCESS PRINCESS TOUR2012 ～再会～」として、仙台サンプラザホール（11月3日・4日）、日本武道館（11月20日・21日・23日・24日）で公演を開催。<br><br>また、日本武道館でのライブ11月23日分を収録したライブビデオとライブCDを2013年3月22日に発売することが発表された。<br><br>12月23日・24日、追加公演として「PRINCESS PRINCESS TOUR2012 ～再会～ "The Last Princess"」を東京ドームで開催。女性バンドとしては史上初の東京ドーム公演だった。<br><br>12月30日、第54回日本レコード大賞に出演、特別賞を受賞。<br><br>12月31日、第63回NHK紅白歌合戦に出演（紅白初出場）し、この1年間の活動に終止符を打った。
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<pubDate>Thu, 04 Apr 2013 20:19:57 +0900</pubDate>
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