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<title>川井小路のブログ　デル・トボーソ日記</title>
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<title>デル・トボーソ日記　10</title>
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<![CDATA[ <div style="text-align: center;"><br>ドアのところに表札が掛っています。<br>「厳密さと魂との事務総局」<br><br>うららかな秋日和の静かな日曜日なのに<br>元気が出ない時には、そこに<br>出掛けて行って　お茶でも飲んでいると、知らず知らずに手足が伸びて、<br>少し気が楽になって、また帰ります。見知らぬ場所へ。<br><br>生き延びるために、どうすればいいの？<br>と聞いたのでした。<br>本の中にはぎっしりと偉大な時間ばかりが詰っているのに、<br>こちらの人間ときたらてんで材料不足で、まるでゼロに等しい。<br><br>ウルリヒが二人いて、言わば肉体の彼と精神の彼がいますが、一人が答えてくれます。<br>「もう一方のウルリヒは、…一方のウルリヒほど目立った存在ではなかった。…<br>この第二のウルリヒには自在になる言葉がなかった。<br>言葉は猿のように自在に木から木へ飛び移るが、人が<br>そこで根をひろげている幽暗な領域では、<br>言葉の親切な伝達が欠けている。地面が彼の足下で流れだした。…そして<br>その体験が彼が目にし耳にするすべてのものと彼を結びつけているのである。」<br><br>この第二の彼をよく知っています。そして彼はまた私の窮状をよく知ってもいる。<br>もう自分の弾丸を一発も残さず全部打ちつくしてしまったような<br>消沈した気持ちになること。<br>これは「古典的徴候」と言われる症状だね、と彼は楽しそうにいいました。<br>「心ならずも、あなたの内部が外に引き出されてどこも<br>薄っぺらな広がりになっている状態だね。」<br>いつもゲーテにシェークスピアがお相手なら誰でもそうなるよ。<br>でも、大丈夫だよ、もう一発残ってるから<br>そのまま進んで撃ってごらん。<br><br>「もし、この胸が信念のかたまりでなく、この心が鋼鉄製でなかったならば、<br>あたしゃとんでもない目に遇うとこだった」　これは初期の『間違いの喜劇』。<br><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/onthewrite/entry-11947174968.html</link>
<pubDate>Sun, 02 Nov 2014 14:30:29 +0900</pubDate>
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<title>デル・トボーソ日記　9</title>
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<![CDATA[ <div style="text-align: center;">　鴎外の　「百物語」　は、物語が始まる前に終わっていました。<br>それは怪談でしたが、やがて<br>飾磨屋その人が倦怠のお化けであり、読み手の足元に<br>ポッカリ口を開けている　暗い淵を覗かせられているのでした。<br>ひたひたと、こちらの胸のところにまで、爾後が押し寄せていたのでした。<br><br>なにもない　ということは、只今、現在の話しで過去や未来のことではない<br>という、見事なお手本です。<br><br>そしてこれは<br>散文の方法ではなく、詩の方法を意味していると思います。<br>　<br>Ｔ・Ｓ・ｴﾘｵｯﾄが、「散文でものを書く時、人は<br>理想を問題とするのが適当であるが、詩を書いている時は<br>現実しか取り扱うことができない。」<br>と言っているのを読んで、長きに渡る昏迷の「体当たり」派としては腑に落ちるものがありました。<br><br>「詩を汲む」　と言うのはボルヘスです。<br><br>冷たく透き通っていて、キラキラ光る水をこの手に掬い取るように<br>流れ尽くすものが小躯を伝い落ちるのに<br>手間はかからない。　いつも「今」　この時だからです。<br>「過去は何の役にも立ちません。」　とボルヘスもまた言っています。<br><br>＊<br><br>およそ廉価版と言われるものしか　手元に持たない私ですが、<br>このボルヘスによるノートン講義の　「詩という謎」　は　―　ご存じでしょう　―<br>黒い表紙に、壇上の作家が講義（か講演）をしている<br>美しい写真が点いて、これは<br>まるで、小さな黒い宝石箱のようでありました。<br>蓋を開けると、これがまたとんでもない高価なものが入っているのです。<br>言葉の平易さに、うっかり通過しそうになり、何度も私は<br>引き返さなければなりません。<br>含蓄に富むなどというヤワなものではありません。<br>講義録自体が大きな詩のようです。<br><br>「もし私が大胆な考え方をする人間であれば…1ダース程度のパターン<br>だけが存在し、その他の隠喩のすべては気紛れな遊戯<br>でしかない、と言いかねません。」　まるでウルリヒ同様なのです。<br><br>＊<br><br>これは少し考えてみなければならないことなので、思い出していただくために以下に<br>引用します。ウルリヒの幼馴染のクラリセが言うところです。<br>「―　　千人の人間の本質を分析すると、彼らの人間のすべてを形成している<br>最後のものは、２ダースほどの特性、感性、発展形式、構造形体などとなる。<br>次にあたしたちの肉体を解剖すると、水とその上を泳ぎ回っている２・３ダースの<br>小物質の群れしか見つからない。…　そして結局公式だけが残るわけ。<br>この公式が人間にどんな意味があるものか、充分表現することはできないけれども、<br>それがすべてだって、あの人はいうのよ。」<br><br>この後で、例のモンスター・モースブルッガーが登場してくるわけです。<br>モンスターの前の段階なのですね、これが。<br>そしてこれこそは　あの「海の微風」の意味なのではないでしょうか。<br><br>「すべての書は読まれたり。肉は悲し。」<br>先年の全集によれば<br>「ああ　肉体は悲しい、それに私は　すべての書物を読んでしまった。」<br>これには分厚な注釈書が付いていて、　「物質的な快楽、飽食、色欲を追い求める、<br>理想を知らぬ肉体としての人間存在は悲しい、いかにも哀れなものである」と<br>ありますが、マラルメの問題とはこの公式だと思います。<br>詩人たちはわずか、２ダースばかりのパターンには到底我慢がならないのです。<br>「やれやれ、またしても目と星、時と河の流れか」―<br><br><br>＊<br><br><br>そして、今や　ありとあらゆるトリック・ストーリーが　遣り尽されてしまいました。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/onthewrite/entry-11939738259.html</link>
<pubDate>Thu, 16 Oct 2014 08:51:56 +0900</pubDate>
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<title>デル・トボーソ日記　8</title>
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<![CDATA[ <div style="text-align: center;"><br>月刊文芸誌を余り読まないのですが、新聞の書評欄で推していたので、2012年<br>10月号の　藤田治「鷗よ、語れ。」　を読んだことがあります。　ちょうど二年前。<br>その時に　なんとも思い掛けないことを聞かされた。<br><br>「だって面白くない。　『晩年』　はこれっぽっちも面白くない。」　と書かれてありました。<br><br>「太宰の初期作品というのは…美しく始まり、思いついた順番に書いていき、徹頭徹尾わたくしごとで、上目遣いに<br>読者をちらちら見はするものの、結局は人のことなどお構いなしのまま、なんとなく終わる。　云々…」<br>えっ！　何、　言ってんの？<br>美しく始まる？　思いついた順番？　徹頭徹尾わたくしごと？　上目遣いに読者をちらちら？<br>ああ、確かに！<br>　じゃ、こちらから質問させていただきますが、あれは駄作なんですか？<br>（皆さん　頷いているのかもしれない）<br><br>　何てことだ！<br><br>でも、この胸に手を当ててよく考えると、思い当たらないわけじゃなかった。<br>「ここを過ぎて空濠の町」<br>生々しい原体験を、キャンバスに向かってぶちまけている大好きな　『ハムレット』　を　エリオットが<br>失敗作　と容赦なく難じていた。<br><br>『晩年』　も　『ハムレット』も、初期の原質が剥き出しのまま流れ出ている。　その「驚愕」という確かな身体感覚を、<br>目には見えないのに身も心も焼き尽くされてしまった驚きと悲しみを、<br>私は尊い感情だと想うし、またその哀しみの肉体をいたましく思わずにはいられない。<br>ここにある激情は、たちどころに冷え固まって、沈潜し、ついには殲滅されてしまう感情なのに、<br>それを顕した時間は、ここにこうして残っている。<br>そして、これに立ち会う私＝読者を励ます。　それは、私の至福でさえ　ありました。　<br><br>ですが、シェークスピアについては「獅子の口」で、もう少し時間を掛けて、<br>楽しみながら書くつもりなのです。<br><br>どれ、美しく始まりましょうかね。<br>「美しい」とはなにか？何故か？　あれだ、アンドレ・ジッドの　『ドストエフスキー論』に出て来るのだった。<br><br>「美しい感情を以て人は悪い文学を作る。」<br><br>これは芥川の晩年にも似たような形をとって出てきますね。　芥川に心酔した太宰との接点です。<br>「より正しい芸術観を持っているものが　必ずしも善い作品を書くとは限っていない。<br>そう考える時、寂しい気のするものは、独り僕だけだろうか。僕だけでないことを祈る。」<br><br>福田さんが　「表現的陰萎」と言っている。　いかにも辛い言葉だなあ。<br>この荒れ果てた　陰惨な地に立ち入って、順番や、森や、花など　どこにあるのだろう？<br>いいえ、あるのです。順番ならば単一を表現することこそ、第一番にあるのだし、森は大事な友達だし、花ならば太宰の作品<br>そのものなのです。「道化の華」に岩の上で笑った　とあります。<br>「いつ来て見ても変わらない」。猿が島の、　お前のその箱庭にはもういい加減にウンザリしたよ。<br>「これは批評の言葉である」。　私対私。<br>終わりなき　あなたの自尊心　そのもの。<br><br><br><br><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/onthewrite/entry-11933288575.html</link>
<pubDate>Thu, 02 Oct 2014 08:32:37 +0900</pubDate>
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<title>デル・トボーソ日記　7　　</title>
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<![CDATA[ 　<br><div style="text-align: center;"><br>ブログ上に書いていなければ、もう雲に乗って　今頃は<br>言葉は消えてしまっている頃だったと思います。<br><br>never more<br><br>何もないことを　書くのは　難しい<br><br>確かと　読んでいて下さる方々がいらっしゃるので、<br>また辛うじて、この地上の鏡の影でいられるのです…<br>あなた様方が映っているとしても、お許しを願います、<br>それにしても蕪雑だなあ、という誰やらのぼやきが　きこえます。<br><br><br>読んでいてくださる方々に　心からお礼を　申し上げたいのです。<br>　　<br><br><br>＊<br><br><br>「彼は、精神の王侯とその支配者といったようなものになりたかったのだ。<br>これを望まないようなものがこの世にいようか？！」<br>これは、特性のない男の肉声です。　<br>一種独特の響きを持った、人の胸に迫るものがある声です。　とても良い声の持ち主だと思います。<br>　私はこの声が好きです。<br><br>精神と肉体を二つのものとして考える時、その嚆矢として<br>懐疑論を打ち負かした「我思う故に我あり」の<br>『方法序説』の第四部を思い出します。　<br><br>デカルトは昔のストア派の人達をなつかしんでこう言います。「<br>…自然によって予め定められた限界を考えることに絶えず専念していたかれらは、<br>思想以外には自分の力の範囲内にあるものはひとつもないということを<br>完全に納得していたから、そのことだけでほかの事物に対するどんな愛着をも防ぎ止めるに<br>十分だったのである。それでかれらは自分の思想を絶対的に自分の思うとおりにしていたからして、<br>こういう哲学を持たないがために、自然や幸運に最大限に恵まれていながら<br>自分の望むすべてのものを自由に処理しえないひとびとよりも、<br>自分ははるかに富んで、力にみち、自由で幸福であると考えたのも<br>若干の理由がなくはなかった。」<br><br>魂が肉体を離れる瞬間を見て、私はアッと　驚愕したものでした。この瞬間をトロイラスが実際に口にする珍しいシーンがありました。<br><br>頭の中の悟性が総てを決する世界ですが、<br>今　この愛すべき男　を注視します。<br>「人生の矛盾や人生の一貫性のなさを甘受する人生態度に見られる、<br>あきらめと猫かわいがりとが混合した態度を、彼は憎悪した。」<br>彼とはウルリヒです。ついでですから、もう一つ　彼には嫌いなものがあります。<br><br>「自分の魂を　魂に関するばか話で慰めて、本当のところは、<br>悟性は魂にパンの代わりに石を与えるというのに、<br>まるで牛乳で浸した巻きパンみたいな<br>宗教的・哲学的・文学的感情で魂を養う、あの半端物、小心者、女々しいものを、<br>彼は憎悪した。」<br><br>無だ、　無　そのものだ。とヴァルターが叫びます。ムージルは　特性の無さ　そのものに、微に入り細を穿ちます。<br><br><br><br>＊<br><br><br><br><br>そうして、異化を言うなら　片やこちら、スワン家のこの人です。　<br><br>正真正銘のその肉体が、スルタンの末裔である、ウラジーミル・ナボコフは　<br>「文体と構造こそ、小説の本質よ。<br>ご大層な　思想なんか、屑！」<br>　<br>あの有名な冒頭を持つ<br>『死せる魂』についてナボコフが語ることを聞きましょう。<br><br>「おい、あの車輪を見ねえ。―　と一人がもう一人に言った―　その気になりゃあれでモスクワまで<br>行きつけると思うか？」　「行きつけるだろうよ」と相手は答えた。<br>「だが、カザンまでは行きつけめえと思うがな、どうだ？」　「カザンまでは行きつけめえ」<br>と相手は答えた。<br><br>この次に最新流行の身なりをした若い男が風に吹きまくられ、帽子をとばしそうになって<br>通り過ぎますが、この男が舞台に登るのはただのこれっきりです。<br><br>これを目して、ナボコフは　「これはいわば　to be or not to be 的思索の原初的形態である」<br>　と言いました。　私は、ウーン　と唸ってしまいました。<br>冒頭の二人の対話は、本当に馬車が行きつけるかどうかということなど毛頭問題ではなく、<br>「彼らを魅するものは　ひとえに架空の距離によって車輪の架空の脆弱さを定着させるという<br>観念的問題であり、…<br>二人のムジークの思弁は何らの触知可能なものにも基かず、何らの物質的結果ももたらさない。しかし、<br>哲学と詩はこうして生まれるのだ。」<br><br>しかし小説もこうして生まれるのだと、ナボコフはくどいほど　何処ででもどこまでも言い募るのでした。<br>「彼は　作家として陥りうる　最悪の状態に立ち至っていた。<br>つまり、事実を　想像によって生みだす能力を失い、<br>事実がそれ自体として存在しうるものと<br>信じだしていたのである。」<br><br>焼き棄てられた「精神」の　つらいその第二部があったのでした。<br><br><br><br></div>
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<pubDate>Thu, 18 Sep 2014 08:24:28 +0900</pubDate>
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<title>デル・トボーソ日記　6</title>
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<![CDATA[ <div style="text-align: center;"><span style="line-height: 1.5;">随分、以前のことなのですが、枕頭に<br>『小説の方法』　という本を長い間　置いて、わけも分からず苦しんでいたことがありました。それは<br>「インテリゲンチャは社会の触角であり、心臓であり、頭脳である。そこで味われる生命感がその社会の生命感である。」<br>と言っていた伊藤整の方ではなく、別な方、大江健三郎のものでした。<br><br>その力は一目で歴史越えをしているとわかる　第一走者がいきなり　全速力で飛び出して来たのでした。<br>ムージルの『特性のない男』でした。<br><br>たぶん、今頃になって　なぜ、あんなに長いこと気が伏せって、憂鬱症のために顔を挙げられなかったのか、自分でわかっています。<br>ムージルは　決して異化し得ぬもの　それを書き続けた希有な偉大な作家だったからです。<br>異化のための方法のための方法論は彼には、合いません。しかも、その相手がよりによってアガーテの部分！<br>誘導されることに強く抵抗していたことに気づきます。<br><br>『特性のない男』については、とても重要なので、急いで取り纏めて言うことはできません。「回心」あるいは「反転」の状態があって、<br>それは、宗教が使う「回心」ととてもよく似ていると思いますが、パウロやアウグスチヌスが経験したし、パスカルやデカルトが、その一瞬を理解しました。　<br>ウルリヒは、第４０章で、「この瞬間に、生涯だまされながらも恋してやまない恋人でもおもうかのように＜精神＞という不思議な体験を思い出した。<br>そしてその体験が、彼が目に耳にするすべてのものと彼とを結びつけていたのである。」<br><br>いつも、いつもそこに強烈な磁場がある。<br><br>一方、その比喩にまた比喩を重ねていく男の様子がまことにおもしろく書かれているのです。<br>人間が大地に立ちあがって、地平線を見ている。または一人、小舟に乗って水平線を見ている。すべてのことはそこで起こっている。<br>それを描くために技術をこらす。いろいろな人がいろいろに策を練る。百人百用で済むわけではなく、その一人一人の人間は飽きやすいし、<br>じっと我慢することは意味がないと思っているので、異化に更なる異化を課す。<br><br>「彼は、雪がときには彼にとって不愉快であるという理由から、雪を女のまぶしい乳房になぞらえ、すぐさま乳房を<br>まぶしい雪になぞらえるのだ。<br>…彼は万事を何にでも変えることが出来る―雪を肌に、肌を花弁に、花弁を砂糖に、砂糖を白粉に、白粉をふたたび粉雪に。なぜなら、<br>彼にとっての唯一の関心事は、ものをそれではないものにすることだけにあるらしいからであり…」<br><br>言葉は猿のように一本の木から次の木に飛びまわる。<br>そして、各々が立って歩いているこの前方の半円の下には、もう一つの半円があることを、うすうす気づいている人達もいる。</span></div>
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<pubDate>Thu, 11 Sep 2014 14:45:01 +0900</pubDate>
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<title>デル・トボーソ日記　5　獅子の口</title>
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<![CDATA[ 　ルチアの胸をハッシとばかりに捉えた　ブルータスは、ただのこちらの気のせいか、舞台の上からじっとルチアを見つめるようにして、<br>初めに　こう言いました。<br>　<br>　ブルータス　「　キャシアス、誤解しないでくれ。おれが人に面をみせたがらぬというのも、いわばおのれの暗い顔をひたすら<br>自分の胸に向けようとするからなのだ。　おれは苦しんでいる。<br>この間から心の内に相争うものがあるのだ。　もちろん、人に関わりのない自分一人の心のわだかまりにすぎぬ。<br>あるいは、それがおれのふるまいに、影のようなものを与えているのであろう。…　この無愛想も、所詮は<br>ブルータスの奴、かわいそうに、おのれを相手の戦いで精一杯、他人に友情を示すゆとりを失ってしまったと、<br>そう思ってくれればいい。」<br><br>　これは『トロイラス』　の冒頭と同じなのです。<br><br>　トロイラス　「　この胸のなかに　無惨な戦いがあるというのに？　自分の心を思いのままにできるやつは戦場に行くがいい。<br>このトロイラスは悲しいかな　心をうち砕かれてしまった。」<br><br>　火が燃え上がり、広がり、あっと言う間に火に包まれ　呑み込まれていった。火を引きずったからだが　あるなら、あなたがそうだ。<br>（火を噴きし　後と　人は知らじな）<br>この不穏で、禍々しいような「　心のうちで相争う　」、「　無惨な戦い　」って何だろう？<br><br>わら小屋の舞台の奥は直ぐ広々とした野原に続いていて、ブルータスが立っている方から　青草の匂いのする風が吹いて来る。<br><br><br>
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<pubDate>Mon, 01 Sep 2014 10:26:20 +0900</pubDate>
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<title>デル・トボーソ日記　4　　獅子の口</title>
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<![CDATA[ <div style="text-align: left;">　ハムレットは二幕二場で本を読みながら深刻な顔をして登場し、　何を読んでいるのか？　と問われると<br>「言葉　・　言葉　・　言葉」　と言いましたが、　この出方はエリザベス時代の劇では　「憂鬱症」タイプの常套手段だったのだそうです。<br><br>　でも、とルチアは思います。　紋切り型とはこういうものじゃない。だってハムレットはまるで可哀相なくらい必死だ。　調子（トーン）が<br>並はずれていて、異様に高く聴こえる。　この人とあとの一人、トロイラスがそうだ。<br>もう頭の中が真っ白になり、文目の見分けがつかなくなってしまい、彼はただ口に出してありったけのイメージを繰りださずにはいられない。<br>『トロイラスとクレシダ』を、村岡勇は「この劇はシェークスピアの文体の絶頂を示すものである」　と言います。<br>　　<br>それに去年学校で習った『ジュリアス・シーザー』　にもなにか確かそんなところがあったような気がする。ああ、シーザーがキャシアス<br>のことを言ったところだった。　すべての書は読まれたり、と。<br><br>　あの男は本を読みすぎる。なんでもよく見える。ひとのすることが底の底まで見通しだ。<br><br><br>　ルチアはため息をつきます。　先週の土曜日に、仲の良い女友達を誘ってわら小屋に掛っていたシーザーを見て来たのです。<br>場所はテムズ川のほとりのサウスバンクです。その時、威風堂々のブルータスをやっていた役者にルチアは手もなく参ってしまったのです。<br>あれから三度のご飯が喉を通らなかったらしい。<br>彼は、なんという名前の役者なの？　と友人に聞くと　「ケンキョウーフカイ」　という答えが帰ってきた。　えっ、牽強付会？<br><br>それにしても、何度思い出しても、いい男だったなあ。　…　ルチアの目がどうかしているのでしょうか？<br><br>　それから、トロイラスはもうはっきりとこう言ってのけている。<br>　トロイラス　「言葉、言葉、ただの言葉、　心はこもっていない。」<br><br><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/onthewrite/entry-11917877821.html</link>
<pubDate>Sun, 31 Aug 2014 15:36:39 +0900</pubDate>
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<title>デル・トボーソ日記　3</title>
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<![CDATA[ <br><div style="text-align: center;"><span style="line-height: 1.5;">　　　　　　真夏だからというわけではなく、日毎夜毎、お化けに悩まされ続けているはなし。<br><br>ほんとは前回の流れでﾊﾑﾚｯﾄをやりたかったのですが、クーラーのない我が二階の書斎は室温が<br>３６℃に達して　逃げ出さざるを得ず、頓挫してしまいました。サバイバルももう年のせいで手に合わなくなりました…<br>涼しい樹影がみえる。ちょっと寄り道しましょう。<br><br>竹山道雄訳　　『幽霊』<br>　　　　　竹山さんは勿論　『ビルマの竪琴』　の作者ですが、とても良い太宰論を書いていらっしゃいます。御記憶の方もおいでになることでしょう。<br>良い太宰論というのは客観的太宰論だと思います。<br><br>とある昼下がり、古本屋界隈をぶらぶら歩いて太宰論を探すとして、（しかしこれは行かないでも予期できるほどの）　太宰本の圧倒的多さ！。<br>この棚全部が太宰評論だと思いきや、そちらの棚にもあちらの棚にも有名無名の研究家が競り合っている。<br>それ程価値のある　太宰治　なのではあります。<br><br>が、一冊をその中から抜き取って読みだすや<br>頭の中で風車が廻り出すのである。あの天井の高いドイツの書斎を　またしても思い出す仕儀に至るのが常のこと。<br>若い学生が悪魔の大家に誑かされている所でした。<br>「すべての論理は灰色だ。」<br>灰色の本の山の上には灰色の一冊の本があるだけだ…<br><br>竹山さんの論評は趣味の問題ではなく、ロゴスの問題だから緑が濃く、色あせないのだ。「義」について書いておられたのでした。<br><br>その竹山さんの、イプセンです。<br><br>暗い国だなあーここは！<br><br>何も考えることは出来ないのです！－もうこんな話はやめだ！<br><br>いつも知らず知らず連想するのですよ。－かう、桜んぼう色をしたビロードの窓掛けですねー、あのぶよぶよとして<br>手触りの柔らかいー。<br>構築する力、上昇の意思は他者から来るものです。<br>この正体がなんだか、おわかりになりますか？<br>夢を見たのではありません、幽霊を見たのです。<br>ゴスという人が「人物は類型的、会話も単調」と言いましたが、当たり前です。そこは生者の国ではありませんでしたから。<br><br>死者の国<br>鏡に映った像を鏡に映すと、その中には際限なく小さくなりながら、底なしに同じ像が繰り返されている。<br>太宰は　青みどろ　としばしば表現している。<br>ただの自分しかいない<br>永遠の<br>その凄絶さと恐怖は<br>言葉ではなく、ただの言葉の恐怖としてではなくなってしまって…<br>「見えるですって？いや、事実そうなのだ。『見える』とやらは、ぼくの知ったことではない。<br>母上、この墨汁のように黒い上衣でもない、<br>また、仕来りどおりの鹿爪らしい喪服でもない、<br>また、わざとらしい溜息吐息でもない、<br>いや、溢れ流れる涙の川でもない、<br>また、打ち沈んだ憂い顔でもない、<br>かてて加えて、どんな悲しみの形、様子、姿でもない、<br>僕のこの心を本当に現わしてくれるものは。なるほど、そういうものなら<br>眼に見える、誰にもできるお芝居なのだから。<br>でも、僕の胸の底には、そんな悲しみの単なる飾り、<br>衣装にすぎぬ、見かけを超えたものがあるのです。」<br><br>事実、ハムレットも幽霊をみていました。<br><br><br><br><br><br><br><br></span></div><br>
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<pubDate>Thu, 21 Aug 2014 11:33:14 +0900</pubDate>
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<title>デル・トボーソ日記　2　　獅子の口</title>
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<![CDATA[ <br><br>　「わたしの先生」　とローズさんが言ったのは、ノースロップ・フライのことでしたが、ルチアも彼のことがずっと好きでした。<br>彼はボルヘスの後任者として、ノートン講義で　こんなことをおっしゃる魅惑的な先生なのでした。<br><br><br>　　　もっとも深遠な文学経験、言ってみれば　われわれがすべて見てしまった後で還っていくような文学経験<br>　　　は、読んでもらっているお話にうっとりして、物語の論理など気にもとめない　子供の経験に近いかも知れ<br>　　　ない。　…　　ポーは未熟な読者にしか向いていないと言う批評家は大勢いた。にもかかわらず、ポーは<br>　　　文学がこれまで生み出したもっとも幽玄な詩の一派（フランスの象徴主義の詩人たち）にもっとも強い影響<br>　　　を与えたのである。…<br><br><br>これは　『ペリクリーズ』　の話しのついでに語ったことですが、こんなことを言う大人の男の人には、ついぞお目に掛ったことのなかった<br>ルチアは非常に驚いて　たちまち夢中になってしまいました。<br>しかも、その話に続けて　ゲーテの　『ファウスト』　を、「まとまり」に欠ける「原型の続きもの」　という首尾の取らえ方をして、彼は終始一貫<br>するわけです！　　<br><br>　彼はと言えば、極北の高地にある　古くて深い湖を渡って行く　孤城の住人なのでした。<br>城壁と城門は青銅で、堅牢な大伽藍は大理石で出来ていて、　内部を　ひときわ高い天蓋部分から地階奥までを通じる螺旋階段には、<br>ぶ厚な深紅の絨毯が敷かれていて、その手すりは精妙な細工の象牙の透かし彫りなのでした。　　<br>こんなに最基底部まで降りて　高い柱を建てるやり方は、ほとんどの場合は　労多くして功なしなのです。　<br>上下の透視と言う方法は、私小説の飽くなき発展型であるこの国の巧者達には　全く馴染んでいないから、<br>嫌悪されるのです。それを書けば、単純、幼稚、既視感、焼き直し…と言われます。<br><br>　　　　<br>　　　それに　あなたが知り得た　最高の真理はむやみに学生どもに言うわけにはいかないでしょう。<br><br><br>メフィストフェレスがファウストに語ったこの部分を読むと、ルチアはいつも忸怩たる思いにかられました。　なるほど、<br>一切合財が整った、いざ、鹿島立ちという場面にあったこの台詞には、出発を寿ぐものはなく、むしろ躊躇させるものでした。<br>ルチアは急ぎ過ぎて、無様に滑稽にも、過去に何度も失敗したのでした。　フライ先生はそれを見越して表面上の起伏を追うことに<br>専念しています。　内部・　精神・　魂　は単一で、ただ一枚の白い経帷子を身につけた憐れな水子のようなものでした。　もう一度、<br>深く息を吸って　潜ってみましょう。<br>　<br><br>　<br><br>　　<br><br>
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<pubDate>Wed, 30 Jul 2014 06:11:15 +0900</pubDate>
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<title>デル・トボーソ日記　１</title>
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<![CDATA[ <div style="text-align: center;"><br>一冊の本を書くことが、ずっと夢でした。<br>そして原稿用紙に向かう。一行目を書く。二行目を書く。三行、四行…<br>次の日になって、続きを書こうとすると、<br>全部消えている。<br>また一行目からやり直す。二行目、三行目、四行目…<br>次の日<br>煙の如く消えている。または水面に浮かぶ泡のように。朝の露のように。　<br><br>また書く…存在には時間がないということを。<br>その内容は、まるで無いようにリアルなので、<br>そうして気付いたら何十年も経っていました。<br>浦島太郎みたい。<br><br>なぜなら、「空の空、空の空、」で始まる伝道の書には、<br>「目が見るところは、心があこがれることにまさる」。<br>目で見たものは、なにもなかった…いいえ、ただ一つだけこの目が見る世界ではっきりしたことがあります。<br>「凶暴で狡猾な統率者による、人間の下降と同一性の消滅。」（ノースロップ・フライ）<br>無力は先刻承知。でも<br>書かなければ、また今日もなにもなくなります。<br><br><img src="https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/024.gif"><br><br>ワールド・カップでドイツにブラジルが七点もあびせられたことに対し、<br>蓮見さんが「サッカーをサッカーじゃないものにしてしまった…醜い失敗」と<br>新聞でおっしゃっていた。美学はとうの昔に死語になってそれは仕方が無いにしても、<br>明視することの<br>快さを、雲の切れ目のように久しぶりに感じました。凶暴で狡猾な統率者などでは勿論イケメンのレーウ監督はないけれど、これも目で見たことへの反証。<br><br><img src="https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/155.gif"><br><br>上昇と同一性の回復の、未知の一冊の本のために、必要だった他者の鏡として<br>ブログを始めようと思いました。読んでくださる方が一人でもいたら、<br>救われる<br>どうぞよろしくお願いします。</div><div style="text-align: center;"><br><br></div>
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<pubDate>Thu, 24 Jul 2014 04:52:39 +0900</pubDate>
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