<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>大隈光祐`アントワープの絵へ`</title>
<link>https://ameblo.jp/oooookuma/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/oooookuma/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>私は奈良県飛鳥村に向かい、林の中の聖堂へ入って行った。しかしそこは別な現世の入口だった。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>５年目の花見</title>
<description>
<![CDATA[ 出所して１年が経った。<br>上野公園にさくらが咲いている。<br>１度目に見たさくらは拘置所の独房から脳波検査のため奈良県立医科大学精神医学教室に護送される途中の車窓から見えた高田川辺の桜だった。きらきら輝いていた。<br>２度目に見た桜は精神鑑定テストを受けるため、京都拘置所から護送された京都府立らくなん病院の病室の窓から見たさくらだった。病院から飛び出していきたい衝動にかられた。<br>３度目に見たさくらは１本だった。大阪拘置所＝アウシュビッツの灰色の巨大な建物に囲われた中庭の中心に生えていた大きな１本の桜の木。灰色と黒と白の世界でたったひとつの色。ここで死刑になっていく人を見守るようにしっかりと根付いていた。<br>４度目に見たさくらは出所の日、わずかに咲き始めていた刑務所の外に咲くさくらだった。<br>５度目のさくら。<br>僕はここに店を出す。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/oooookuma/entry-10497652005.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Apr 2010 06:22:47 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>帰京</title>
<description>
<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090422/21/oooookuma/70/3a/j/o0637128010169749499.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090422/21/oooookuma/70/3a/j/t02200442_0637128010169749499.jpg" alt="天使たちの絵" width="220" height="442" style="clear:both;float:right;" border="0"></a>あれから３年・・・。今、東京に戻った私に残されてたものは、トランクルームに預けられてた数個の段ボール箱だけ。勤務先も自宅も、家族もすべて私の前から消えている。当時、あわただしく荷造りされたのか、むき出しのままガムテープを使って束に巻かれ押し込められた書類の一番上に張り付いていた一枚の[お寺の入館パンフレット]を発見した。<br>そうだった。３年前の数ヶ月間、私はたしかに`イメージ`から離れることがどうしてもできなくなった。<br>逃げられなくなった。闇に浮かぶ小さな顔``顔`顔・・その下に見える特徴のある大きな二つの細い目。<br>私をじっと見つめているそれは最初、大小の仏像の頭に見えた。仕事をしていても、車を運転していても、眠れずまどろんでいても`彼ら`は私の直ぐ「そこ」に浮かんでいた。ある日、私は池袋の書店で彼を発見（実はひとりだった！）し、確認するために奈良県 飛鳥村に出かけ、・・・・・・・・そして、東京に戻った私は、おそろしい事件を起こしはじめた。３カ月後、私はふただび飛鳥村に導かれ、そこで止められ、警察に拘束された。マスコミのフラッシュの中、奈良検察庁により保護観察独房に拘禁された私は、唯一の希望＝死ぬことすらできなくなった。そして、そこで待っていたのは想像を絶する生と死への闘いの日々の始まりだった。ダンボール箱しかない薄暗い独房で生きたまま、大切なものを次々失っていき、生命が尽きかけ、２年の年月が過ぎた。そして判決が下った。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/oooookuma/entry-10349237651.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Sep 2009 12:00:58 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>判決</title>
<description>
<![CDATA[ 平成１９年１２月２６日　午後１時少し前。<br>２人の職員に連行され、短い階段を一歩一歩上がりきった私は、我慢できず、膝に手をついた。ぜぃーぜぃー「すいません・・ぜぃ・・やすませ　ぜぃ　ください。それと・・ぜぃー」。前の使用許可から、まだ４時間経過していない規定違反な申出であることは明らかだったが、この場合そんなことは係長も言ってられなかった。葛城拘置所と裁判所は目と鼻の先だった。移動のためワゴンカーに乗ったら全部ブルーシートで目張りを始めた。マスコミがいるらしいとの話だった。本人をこんな姿で法廷に出すわけにはいかない。廊下の先には法廷の扉が見えている。医務職員より「ほら」と手渡された呼吸の元＝吸入器をシュ、シュと２回吸い込むとやっと私の中の喘ぐマラソンがしばし休憩に入った。法廷の扉が開けられ、私は正面の椅子に座った。裁判長と左右に２裁判官計３人ぞくぞく後ろの扉から入ってきた。右の裁判官はさっき書類を抱えて廊下をあわてて走っていた若いＯＬのような女性だった。別人のよう。裁判席という威厳の化粧。左の裁判官は米国帰りのエリートらしい。裁判長は私を「前へ」と促すと一挙に判決文を読み始めた。<div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090818/10/oooookuma/05/2d/j/o0480032710235432295.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090818/10/oooookuma/05/2d/j/o0480032710235432295.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" border="0"></a></div>主文　被告人を懲役３年に処する・・・・・・<br>・・・・夢と現実の張り合わせ。判らない動機。医師の解釈・・・ネイルサロン・・・睡眠薬依存・・幻覚・・・・もっともらしい文章が続く。しかし当時の私の悩みは別にあった。大手損保会社からの分離独立・・・・日本初の高齢者のための保険会社の設立・・。<br>今日、この判決が下りたとき私の刑期は既に３分の２が経過していた。受刑者であれば刑期の１／３で仮釈放の対象になり２／３～３／４程度で出所する。<br>ここからの実刑は実質的には保釈もない懲役約５年を受けた者に相当した。私はもうそういうことすら何も感じなくなっていた。長期拘禁した事実を追認するための判決文。これは裁判所の下した判決ではない。多くのマスコミと大寺院と医師である。この前例のない奇妙な事件・・世間の大騒ぎ・・・。結局、医師の解釈のため・・・・・私はこの長い裁判の間、２畳の保護監視独房に閉じ込められていただけだ。<br>禁断症状・・・保釈却下・・・・発狂・・・衰弱・・・変身・・・・<br>私は保護監禁独房で生死を彷徨い続けた。私は検事側席へ歩み寄り「いろいろお世話になりました。」とゆっくり頭を下げた。<br>「病気を早く治して健康になって復帰することを願っているから・・・」<br>半分本心でないのは明らかだった。私が元来、普通の社会人で正気であるはずだったことを一番理解してくれていたのはこの検察官だけなのかも知れなかった。私は変わり果てた。２年前、禁断症状から回復したときとは別人に変わり果て、やせ衰えたこの眼前の被告人。元サラリーマン。この結果に釈然としていないのもおそらく彼だったろう。検察官の使命。真実の探究。２年前　彼の正義、世論・マスコミへの抵抗、起訴保留からすべては始まった。再本鑑定、求刑、再求刑・・裁判所の釈明権・・異例続きの長期裁判。東京裁判以来、判決とは被告人以外の当事者間の思惑と妥協の産物なのは分かっていた。しかし、この裁判は最初、検察と裁判所が過熱する世論報道に対応しようと試み、そして関係者の立場や思惑により、私は忘れられ、人生はすべて過ぎ去ってしまった。私は何も争っていなかった・・保護独房でただ月日が・・時が流れ、何より私が変わってしまった。平成１９年の御用収め。この法廷にいるマスコミの人たちは、あの騒ぎは忘れ、ただここにいるだけだろう。家族と正月をどう過ごすか考えているのだろうか・・。・・少し、ぜいぜいしてきた。まだ１時間。あと３時間の苦しみ。孤独なマラソンの再開 ぜぃ　ひゅうー　ぜえ　ぜえ　ぜえ。年を越え、凍える保護独房には、葛城拘置所長によるもう一つの「裁き」が私を待っていた。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/oooookuma/entry-10348229724.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Sep 2009 11:50:34 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>この記事は表示できません</title>
<description>
この記事には一部、Amebaの健全なサイト運営にふさわしくない言葉・表現が含まれている可能性がある為アクセスすることができません。
</description>
<link>https://ameblo.jp/oooookuma/entry-10348230669.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Sep 2009 11:40:18 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>没収</title>
<description>
<![CDATA[ <div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090505/10/oooookuma/62/a3/j/o0481035010175853360.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090505/10/oooookuma/62/a3/j/o0481035010175853360.jpg" alt="大隈光祐の”アントワープの絵”-没収されたもの" border="0"></a></div>平成１８年２月５日（日）昼過ぎ。<br>私は持ち物をすべてを警察署に没収された。<br>財布、クレジットカード類、数珠、臓器移植ドナーカード、納経帳、診察券多数、吸入器２個、全国有名寺院ガイドブック、のこぎり、そして、ショルダーカバンには薬。今、３年経ってもカバンの内ポケットの奥に残骸が残っているほど大量の飲みかけの抗うつ剤と睡眠薬だった。<br>ドナーカードの提供してもよい臓器の欄は'全て'にマルをしていた。<br>それらは当時、私の身体をこの世に生き永らえさせているすべてだった。<br>ひとつが欠けても私は生きられなかった。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/oooookuma/entry-10347867851.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Sep 2009 11:30:40 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>バッシング</title>
<description>
<![CDATA[ 私の事件報道を形成した世論、それは時に盛んだった反中感情だった。<br>平成１７年１０月１７日　小泉総理の靖国神社公式訪問に対する激しい反発から、中国では半日デモが日に日に高まりを見せ、日本製品の不買運動にまで発展していた。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090722/21/oooookuma/0f/3a/j/o0096012710218353062.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090722/21/oooookuma/0f/3a/j/t00960127_0096012710218353062.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="96" height="127" border="0"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090722/21/oooookuma/b9/8c/j/o0137010310218352888.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090722/21/oooookuma/b9/8c/j/t01370103_0137010310218352888.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="137" height="103" border="0"></a>それに対し、日本国民も政治的自由民主化を進めないまま年々経済成長を続けるこの巨大な隣国に対して盛んに中国脅威論が唱えられるようになっていた。<br>２ちゃんねるのスレは私の名前が光祐と`光という字が使われていたことに注目し、私がアジア系の窃盗団で仏像を中国に売りさばいていると憶測記事であふれた。隣国の経済力と政治力が月日とともに強まり日本に近づく苛立ち。私の事件、世界遺産破損のバッシングは日に日に納まるところか、１週間経っても反中スレに代わるようにネット上に溢れ始めていた。<br>（インターネットスレより）<br>「法隆寺の格子切っちゃった大隈光祐が在日だったら楽しいな」<br>「経営大隈光祐容疑者（43）の「光祐」って名前は、やっぱり、あっち？」<br>「経営者が犯罪者ってのは在日多いね。」<br>「文化財が盗まれても犯人が韓国籍ならマスコミは沈黙・・・」ｅｔｃ<br>ネット上のバッシングは２週間以上続いた。現実社会でも。妻は連日の報道陣から逃げるように車内生活を続け、そのまま自宅に戻れず実家にも帰れない宙ぶらりんのホームレスのような状態になった。<br>結局、地方の人気のないアパートを借り、ひっそり私の帰りを待つことにした。しかし私は福岡県出身の純粋な日本人。大隈盛宗之祐から十三代目の日本人だ。<br>東京の警視庁はまったく別のことを気にしていた。<br>その年の始め、兵庫県で起きていた「絹本著色阿弥陀三尊像」掛け軸事件を警視庁と奈良県警上層部は重視していた。文化財盗難で隣国韓国と外交問題が起きていた。<br>（年初のニュースより）<br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090722/21/oooookuma/e4/be/j/o0150027410218341889.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090722/21/oooookuma/e4/be/j/t01500274_0150027410218341889.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="150" height="274" border="0"></a>「高麗無双筆とされる掛け軸「絹本著色阿弥陀三尊像」（重要文化財）が韓国で見つかり、窃盗犯二人が韓国検察によって逮捕されたが、お寺へは盗難品とは知らずに布施されており、日本への返還は困難となった。容疑者は「日本に略奪された文化財を取り戻すために犯行を決心した」などと主張し、これが大きく報道されたため、仏画の返還問題にも微妙な影を落としていた。<br>　韓国マスコミは容疑者を「愛国者」日本奪われた高麗仏画の「数奇な帰郷」と報道し日本略奪の文化財、国内搬入（中央日報）などと報じていた。作品は“壬辰倭乱（豊臣秀吉の朝鮮出兵）や日帝強占時期（韓国併合時期）に日本に略奪されたもの”と信じられていた。インターネット上では、「窃盗犯に褒賞金として十億ウォンを与えるべきだ」という主張まで出回っていた。」文科省にとって上記の問題は省をまたぐこの年の未解決外交懸案のひとつだった。そこに私の事件が発生した。タイミングは最悪だった・・・・<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090723/04/oooookuma/07/da/j/o0200033810218552894.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090723/04/oooookuma/07/da/j/t02000338_0200033810218552894.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="200" height="338" border="0"></a>私の集めた仏像は文化財などとは全く関係がなかった。にもかかわらず、この年のふたつ、対中関係、対韓国関係は検察庁を過敏に反応させた。外交問題への飛び火。この官庁間問題のマスコミ、世論への波及を中央部はもっとも怖れた。<br>一方、大マスコミは法隆寺が[世界遺産]に登録されていることを大々的に報道した。<br>当時２００４年に熊野山道、２００５年に知床半島が世界遺産に登録されたばかりで、まだ国民的な世界遺産ブームは始まっていなかった（世界遺産検定は２００６年６月～、ＴＢＳthe世界遺産の放送開始は２００８年４月～）。<br>法隆寺＝世界遺産　建物が破損されたということが繰り返しニュースで強調された。<br>平成１８年２月７日。検事による取り調べが始まった。橿原警察署から奈良検察庁葛城支部に向かう、出入り口で三脚に乗った大勢のカメラマンのフラッシュを浴びた。<br>「災難だったな。ＴＶに映っちゃって。」<br>「顔色真っ青だぞ。だいじょうぶか。」異常な事件・・しかし彼の目の前いたのは予想外にも普通の背広を着たサラリーマンだった。<br>「法隆寺西室が世界遺産って知ってた？」<br>「すいません。知りませんでした。」（私は本当に知らなかった。）<br>「私も見に行ってきたんだけど世界遺産って看板とか立ってたんだけどなあ。見えなかった？そんな状況じゃ見てないと思うけど。」<br>「すいません。」<br>「この事件で重要なことは君が法隆寺を世界遺産と認識していたかどうかということなんだ。どう？<br>正直に言ってあの建物が世界遺産って知っていた？」<br>「すいません。私は世界遺産とは熊野古道とか屋久島とか自然遺産だと思っていました。すいません。」<br>「ほら。アンコールワットとか。建物だって世界に世界遺産はたくさんあるだろ。」<br>「そうですね。アンコールワットか。法隆寺が世界遺産なのは当然ですね。本当に申し訳ありません。」<br>抑えようとしても震えのとまらない手足・・・真っ青になり小刻みに震える顔の皮膚・・・<br>私は禁断症状が始まっていた。彼は私の姿を頭から足元まで観察した。彼はくしくも私の妻が言ったことと同じことを言った。「子供をはねてなくて本当によかった。」と。<br>大量のハルシオン、ベゲタミンなどの睡眠薬服用の意識混濁の中で奈良県内を何十キロも迷走しながら交通事故を起こさなかったのはまさに奇跡だった。留置場では新聞は切り取られ、ラジオのニュースは消された。私は外で何が起きているのがまったくわからなかった。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/oooookuma/entry-10347870231.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Sep 2009 11:20:11 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>こびと</title>
<description>
<![CDATA[ 私は小さな子供だった。中学入学時の身長は１１４cm、高校入学時は１２４cmしかなかった。生まれてすぐ脳膜炎になり、２歳の時、熱が出て近所の医院で風邪と診断され何週間も熱が下がらず、大阪日赤病院に運ばれたときには既に重度の肺炎で「手遅れ」と言われたらしい。医師や両親は弱っていく私に何か少しでも何か食べさせようと努力したが何も受け付けなかった。ある日、病室にたまたま届けられたみかんを口に入れ、それを機に快方に向かった。<br>喜んでいる若い両親に医師は「この子はこれから先、永い間喘息で苦しむことになるでしょう。」と宣告した。幼稚園の時、母はいつも私をおぶって池のふちを歩いていた。夜中になると必ずぜんそくの発作が起き、池の向こう側の池田医院に連れて行き、お医者さんに起きてもらって、酸素吸入を受けさせる。その繰り返しだった。しかも朝方のなるとまた発作を起こすのだ。たまらない。母はふとふと池を眺めながら通った。小学校低学年になっても１００cmにも満たない小人のような私をホルモン治療するよう医師は勧めた。医師や母はいじめを心配したのだろう。それを訊いた子供の私は、自分の体が変身させられると思い、頑なに医師に断った。<br>元気な時　私はいつも一人で絵を描いていた。豊中市にあった団地の周りの空き地にいるいろいろな虫の絵を描くのが特に好きだった。どんな虫の名前でも覚えた。草っ原のバッタやてんとう虫やあらゆる虫では足りず、水に入り池の中の虫も描いた。ゲンゴロウ、タガメ・・。小学校３年の時、東京の杉並区に転校になった。原っぱはなくなった。私はひとりでスケッチブックを持って上野の森にある国立美術館や東京美術館などに通うようになった。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090517/11/oooookuma/cc/85/j/o0137010310182136109.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090517/11/oooookuma/cc/85/j/t01370103_0137010310182136109.jpg" alt="大隈光祐の”アントワープの絵”" width="137" height="103" border="0"></a>レオナルドダビィンチの虜になり、博物館で売っている画集を真っ黒になるまで何回も写したり、発明に興奮し、伝記を全て読んだ。彼とともに空を飛ぶことにあこがれ、左利きなのを誇りに思い、さかさまに字を書いた。モナリザが来日したときは長い列の人ゴミの中で小さい自分は見えず、整理用のロープをくぐって近くで４０分も見つめ続けた。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090516/11/oooookuma/5b/2f/j/o0131008510181613580.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090516/11/oooookuma/5b/2f/j/t01310085_0131008510181613580.jpg" alt="大隈光祐の”アントワープの絵”" width="131" height="85" border="0"></a>ゴッホの真似をして自分の顔を描き、それからしばらくすると今度はミレー、コロー、クルーべなどの風景画に魅せられるようになった。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090516/11/oooookuma/52/10/j/o0146010510181613871.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090516/11/oooookuma/52/10/j/t01460105_0146010510181613871.jpg" alt="大隈光祐の”アントワープの絵”" width="146" height="105" border="0"></a>上野の森のなかにある美術館は毎週私に興奮を与えてくれる公園！だった。上野美術館の食堂のおばさんは優しかった。出口で画集やはがきを買うために、いつもやせがまんして１００円ライスだけを注文する私に「はい、ごちそう。」とにっこり笑って色々な漬物を持ってきてくれたり、コロッケやカレーをかけてくれたたりした。一方、小学校での私はマイペースで人の目や身なりを全く気にしない子供だった。たくさん穴のあいたカーボーイ用ベルトをひざ下まで垂らし、シャツは必ずズボンのうしろからペロンと出ていた。ひざは穴が空き丸いあて布が縫い付けられていた。清潔とは女の言葉だと持論を友達にいい、母親にどんなに咎められても毎日同じ格好で学校に行った。発作が起きていないときはいつも友達とふざけあっていた。<br>近所の公園で野球しているときに拾った卵そっくりの黒い石を「命の石」と名付け、ポケットに入れ時々出しては一人で磨き、肌身離さず持ち歩いていた。そのためその重みでズボンの左側はいつもずれ落ちぎみだった。<br>私がのちに中学生になり、家族から離れ九州に預けられることになったとき、自分の「分身」としてこの命の石を弟の部屋にこっそり残した。自分は田舎に行くけど魂はこっちに残るようにと。しかし、次の夏休みに帰ってきたとき弟の部屋は片付き、「命の石」は無くなっていた。<br>東京に転校してからは発作が起きても母が私をおぶって病院に行くことは無くなった。夜中に発作が起き、痰を出し気道を確保するため。背中をさすったり、叩いたりしながら母はしきりに私に「喘息は病気ではない。気持ちの病気。病は気から。」というようになった。<br>そしてどんなに夜中発作が起きても、朝になると「さあ、学校へ行きなさい。」と言われた。私も学校を休めるのは風邪で熱が出たときといつか盲腸になった時だけだと思いこまされた。<br>「回りの空気を吸うことも吐くこともできない。」回りの人なんでもないのに何故？<br>ぜいぜい、ひゅーひゅーと通学路を歩きながら同級生と遭遇したり「どうしたんだ。ぼうや。」と通行人に声を掛けられるのが恥ずかしく、私は電柱の陰や道から外れた腰掛けれるものがあるところを目標にしながら腰掛け「命の石」見つめ、語りかけ、呼吸が落ち着くのを気長に待った。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090516/10/oooookuma/1f/35/j/o0083011010181592752.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090516/10/oooookuma/1f/35/j/t00830110_0083011010181592752.jpg" alt="大隈光祐の”アントワープの絵”" width="83" height="110" style="clear:both;float:left;" border="0"></a><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090516/10/oooookuma/10/57/j/o0098012010181592834.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090516/10/oooookuma/10/57/j/t00980120_0098012010181592834.jpg" alt="大隈光祐の”アントワープの絵”" width="98" height="120" style="clear:both;float:left;" border="0"></a><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090516/10/oooookuma/0e/f0/j/o0092006610181592958.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090516/10/oooookuma/0e/f0/j/t00920066_0092006610181592958.jpg" alt="大隈光祐の”アントワープの絵”" width="92" height="66" style="clear:both;float:left;" border="0"></a>小学校への一番の難関は歩道橋だった。<br>数段上がっては固まっている私に何か言いそうになる通行人に「大丈夫です」とにこっと答え、また呼吸整え、不思議そうに横眼で見て行く人には静かに視界から消えるのを待った。普通は１０分で着く小学校に休み休み２時間ぐらいかかって通った。どんなに早く家を出ても遅刻と苦しさとの時間競争だった。<br>そうしてようやく頂上=校舎にたどり着くと入る前に呼吸を十分整え、音が洩れないように必死にこらえながら教室の席についた。<br>私は喘息＝恥ということを母に叩き込まれた。自分の異常な気道音を他人に聞かれてはいけなかった。<br>それでも小学校の時のぜんそくは母の言うとおり、学校に行き、友達と一緒にいると帰りにはケロッと治ることが多かった。のちにこのころ、喘息発作止めの吸入器の使用のため心臓発作を起こし死ぬ子が世界中で何例か発生し喘息の治療法として問題視する意見があったことを知った。<br>母は私を死なせたくなかったのだろう。喘息は公害病の代名詞だった。しかし当時の東京の風物詩　光化学スモッグ注意報は私のぜんそくには全く関係なかった。喘息は雨の降る前々日ぐらいから発生し、梅雨はほぼ毎日、発作気味だった。しかし快晴の日や空気が乾燥する冬の間はむしろ普通の子供の何倍も元気だった。絵を描いていない時間以外はいつも大勢の友達といた。私はどこでもとにかくよく走った。そしてそのまま階段から転げ落ちた。小学校を卒業するまでに計１５針頭のあちこちを縫った。そのころ国鉄中央線はよくストライキをした。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090516/10/oooookuma/5b/11/j/o0143010710181606326.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090516/10/oooookuma/5b/11/j/t01430107_0143010710181606326.jpg" alt="大隈光祐の”アントワープの絵”" width="143" height="107" border="0"></a>電車に気をつけながら、新宿までの線路を歩くことは僕ら仲間の冒険であった。スタンドバイミーの世界だった。小学６年になり私はまた大阪に転校になった。小学校で既に３回目の引っ越しだった。私は上野の森に通うことができなくなった。そのかわり私には関西に来てどうしても見たいものがあった。当時、高松塚で壁画が発見され、飛鳥ブームが起きていた。<br>私は奈良県の`飛鳥村`という場所を本屋で調べ、電車を乗り継いで出かけて行った。<br>そこにその後、一生続く出会いが待っているとも知らずに。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/oooookuma/entry-10347870862.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Sep 2009 11:10:54 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>飛鳥村</title>
<description>
<![CDATA[ `飛鳥というのは奈良県橿原市南部にある耳成山、畝傍山、天の香具山の大和三山に囲まれた田園地帯で藤原京があったといわれる場所である。飛鳥村という名前の駅も明日香という駅も奈良県にはない。近鉄線の橿原神宮前というのが最寄り駅である。<br>小学校６年の２学期、東京から大阪寝屋川市に転校になった私は京阪電車などを乗り継ぎすぐにここに降りた。駅前にはレンタサイクル屋が数件あった。小さな私はペダルに足が届くように一番低く調整してもらって（それでも半回転分しかペダルに足が付かなかったが）飛鳥村の史跡やお寺が記載された１枚のマップをもらい飛鳥に向かった。私は都会っ子だった。田園の中を自転車を風を切って漕ぎ出すということだけで少し興奮した。夏休みに義務的に親に連れられ行っていた遠い九州の田んぼは、熱く、ギラギラ目が痛い、いちめんの水たまりにすぎなかった。正月の実家の前の田んぼはとげのように穂のきりかぶが無数にある虫もいない固いむき出しの土色の広がりにすぎなかった。このように黄金の稲穂が頭を垂れたり、収穫された穂が三角帽のように田圃のあちこちに並んでいる光景自体　初めてだった。上野の美術館でいつも憧れて見ていたまさにミレーやコローの世界だった。その絵のなかに私はいた。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/db/84/j/o0104007810190258970.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/db/84/j/t01040078_0104007810190258970.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="104" height="78" border="0"></a>一見すればただの田園である。しかし、目を凝らばそこらに史跡が存在した。猿石。二面石。酒船石。石舞台・・・・<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/ad/4a/j/o0124009310190254787.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/ad/4a/j/t01240093_0124009310190254787.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="124" height="93" border="0"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/65/da/j/o0131009810190254434.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/65/da/j/t01310098_0131009810190254434.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="131" height="98" border="0"></a>私は時を忘れた。異次元の金色に輝く光景とその中で見つける宝探し。興奮はスーパーマリオの比ではなかった。大人には小さい、そして小さな私にはとても大きなこの村に夢中になった。<br>ここで私ははじめて仏像を見た。飛鳥寺の飛鳥大仏だった。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/16/81/j/o0098012410190255170.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/16/81/j/t00980124_0098012410190255170.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="98" height="124" border="0"></a>イースター島で発見されたモアイを黒人にしたような顔。目だけがとても大きい。標高たった１４８ｍの甘樫丘に自転車を押してあがって、見る稲穂が夕日に輝くころ飛鳥村は、ＴＤＬのショー。私はいつまでも飛鳥村に居たかった。<br>（私にとっての田舎はここだ。）<br>私は小学校にクリアファィルに蘇我入鹿の首塚の写真を入れ下敷きにして持って行き、授業中もそれを見つめていた。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/3a/f2/j/o0104007010190254949.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/3a/f2/j/t01040070_0104007010190254949.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="104" height="70" border="0"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/fb/76/j/o0090013410190255412.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/fb/76/j/t00900134_0090013410190255412.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="90" height="134" border="0"></a>そんな生徒はほかにいなかった。小学校高学年になるとほとんどの喘息の子供は自然に完治し発作を起こさなくなる。小児喘息と言われる成長期の病気である。<br>しかし私は気管支ぜんそくだった。私の喘息はひどかった。重篤の肺炎から生き残ったことが罪であるかのように。転校しても私はあいかわらず発作を起こし続けていた。明け方から朝にかけて、ぜぃぜぃ、ひゅーひゅーという狭い気道から息を出すときに出る喘声音は団地の隣近所や道路にまで届きかねないほどひどく大きく、母は疲れ、そしてヒステリーを呈しはじめていた。<br>「その音なんとかなんないの。近所迷惑じゃない。音が出ないように呼吸しなさい。」<br>「服を着なさいって言っていたのに風邪ひいたあんたが悪いのよ。だから苦しむの。わかった。全部、日頃のあんたがわるいのよ。」母は自分の苛立ちを発作中の私にぶつけた。やはり小児喘息ではなかったこと。成長が止まったままわが子。医師の言った言葉が母にしっかり根付いていた。発作止めの吸入器を使うとわが子を殺してしまうかも知れないという怖れ。そして激しい病状は　風邪をこじらせているだけ　と自分を理解させ、そしてそう思い込むようになった。発作のあいだ中、私の元気な時間の行動をいちいちあげて罵倒し続けた。私は発作が治ると家から逃げた。中学に入ってからも私はただ絵ばかり描いていた。学校はただ美術室との往復だった。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/73/2b/j/o0093007610190269089.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090602/12/oooookuma/73/2b/j/t00930076_0093007610190269089.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="93" height="76" border="0"></a>授業には全く関心がなかった。飛鳥寺を訪れて以来、私は寺のスケッチに興味を持ちはじめた。田園と寺の風景が脳裏から離れなくなった。<br>ある日、また飛鳥村を訪れていたとき、岡寺で３３カ所のお寺を遍路すれば願いが叶うという「西国三十三か所霊場札所巡り」を知った。霊場は、北は丹後半島から南は紀伊半島まで、当時は交通の便も殆どないような寺もあった。スケッチの帰りに京都駅の交通公社にたずねに行くと「中高生でも回った人は聞いたことがないし、子供ひとりでは危ないから近くのお寺のお祈りで充分。」と揶揄された。しかも私の外見はどう見ても小学低学年だった。バスのつり革すらはるかに掴めないのにどうやって近畿中を旅するのかという目で見られた。私は回り始めた。スケッチブックと'納経帳を持って・・
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/oooookuma/entry-10347872184.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Sep 2009 11:00:21 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>小学生の巡礼</title>
<description>
<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090628/07/oooookuma/37/cb/g/o0132016910204120560.gif"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090628/07/oooookuma/37/cb/g/t01320169_0132016910204120560.gif" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="132" height="169" border="0"></a>西国三十三か所巡礼の第一札所は那智熊野　本州最南端串本町の山間にある。・・紀三井寺。粉河寺。丹後半島成相寺。琵琶湖に浮かぶ竹生島　宝厳寺・・・・。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090630/11/oooookuma/ef/b9/j/o0111008310205368168.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090630/11/oooookuma/ef/b9/j/t01110083_0111008310205368168.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="111" height="83" border="0"></a><br>私は遠方の寺から巡礼した。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090630/15/oooookuma/d1/8f/j/o0131009810205452660.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090630/15/oooookuma/d1/8f/j/t01310098_0131009810205452660.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="131" height="98" border="0"></a>「えらいねー。誰と来たの？おじいちゃん？」一番の反応だ。他も似たようなものだった。一緒なのが`おばあちゃんであったり`親であったりするだけだ。つまり、こども一人が西国３３カ所札所の巡礼しているとは考えないのだろう。私がひとりだと言うと「へぇー。ひとり。ほんまに？」「偉いねー」と短い単語がしばらく続く。そのあと、他の小さな子供が一人で来ていることを吹聴したり、「ちょっと待っててや。ぼうや。」と言いながら飴などをくれる僧侶もいた。私はこの髪のない人種と話すが少し怖かったし、「何処から来たか」かとかお決まりの質問を受けるのが、面倒くさかった。願いが叶うという３３寺を早く回ってしまえば良かった。～～～～～～堂全体～～～から発する読経の音、香の匂い、がなんとなく苦手だった。それによってこの遠方の地でアレルギーが起きるのが怖かった。子供の自分としては堂の外に大きな「鐘」があればそれを上手く鳴らせれば満足だった。しかし、朱印というのを有料で貰わないと札所を巡礼したことにならないらしい。<br>「天から見ているのになぜ証拠がいるのだろう。」と子供心に不思議だったが、それを僧侶に訊ねたことはなかった。百円玉がもったいないと思っていることをこの`神様に仕える髪のない人達`に見透かされたくなかった。そのお金でジュースを買ったほうが得だと思っていることも。また、それを聞けないぐらい、朱印と共に納経帳に描かれる寺名のお坊さんが書く字は「りっぱ」だった。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090630/18/oooookuma/4b/1c/p/o0100014210205530690.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090630/18/oooookuma/4b/1c/p/t01000142_0100014210205530690.png" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="100" height="142" border="0"></a>私がもし右利きだったら書道家を憧れたかもしれない。そこに寺の名前が描かれているのだと分かっていても読めないのだ。当時の小学校高学年には国語の時間のうち週一回、書道の時間があった。私は左利き（ぎっちょ）だったのでいつも年功の書道の先生に怒られた。<br>「大隈。右で書け。おまえが書いているのは書道じゃない。ただの絵じゃ！」私は左手に筆を持ち、右から左に、上から下に、またはななめに。まっすぐ字を引いた。そのため、止めやはねがまったくないただの墨汁でかいた線だった。その線にあとからはねや止めの形を見本の字を見ながら`描いた`つまり付け足して、加筆し、見本そっくりの字を`作っていた。それを怒っているのだ。私は自分の右手を背後から先生に握られ「こうして・・・こう・・・ここで止めて・・こう」と書道を書かされた。「上手に書けるじゃないか。大隈。」先生は満足そうだが、私の右手は強く握られているだけで書いたのは先生だから当たり前だった。<br>ある時、私の`書道の字が学年の優秀作品のひとつとして体育館に飾られたことがあった。それは宿題で提出したもので家で`描いた`ものだった。それ以来、私は書道というものをあまり信じなくなった。<br>この納経帳に書かれる字はむしろ`絵だった。<br>私はいつの間にか中学生になっていった。そして私の巡礼は第１６番札所　清水寺<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090630/16/oooookuma/c8/84/j/o0131010010205482338.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090630/16/oooookuma/c8/84/j/t01310100_0131010010205482338.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="131" height="100" border="0"></a>で突然ペースダウンした。私はスケッチブックを持って、この寺に通い始めた。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090630/16/oooookuma/7e/05/j/o0116011610205476649.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090630/16/oooookuma/7e/05/j/t01160116_0116011610205476649.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="116" height="116" border="0"></a>清水寺舞台の下に小さな３本の滝が落ちている場所があり、その近くに茶屋があった。沖田総司が医者の娘に初恋したという場所だ。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090630/17/oooookuma/57/68/j/o0137010310205487360.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090630/17/oooookuma/57/68/j/t01370103_0137010310205487360.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="137" height="103" border="0"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090630/17/oooookuma/a4/48/j/o0129009710205487782.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090630/17/oooookuma/a4/48/j/t01290097_0129009710205487782.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="129" height="97" border="0"></a>その近くの人気のない石の上に私は通い始めた。通常、清水寺を写真に撮ったり、絵を描こうとする人は絵ハガキにあるように舞台先のＬ字型になっている奥の院と言われる小さな舞台から本舞台を描くか清水寺を向い側から見渡せる子安の山から全景を撮影したり写生するのが普通だった。私は清水寺の舞台そのものを作っている土台の巨大な組み木に興味を持った。できるだけそれに近づき、見上げ、組み木の仕方、一本一本の木の傷にいたるまで正確に写生した。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090630/18/oooookuma/c7/a2/j/o0124009310205533440.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090630/18/oooookuma/c7/a2/j/t01240093_0124009310205533440.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="124" height="93" border="0"></a>参道から少し奥まった、この石のまわりは次第に人が多くなっていった。私の背後には常に何人もの人が私がスケッチするのを覗き込み、何か感嘆したり、話題にしたり、話しかけてきたり、ずっと見ている人がいたり、この広い境内のなかのひとつの観光所のようになった。私は巡礼を続けながら、京都にある私の興味がそそられる寺院をスケッチし始めた。油絵道具は持っていかなかった。納経帳を持って巡礼も続けていたので油の匂いが大切な納経帳に移るのが怖かった。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090701/01/oooookuma/82/e5/j/o0143010710205762735.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090701/01/oooookuma/82/e5/j/t01430107_0143010710205762735.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="143" height="107" border="0"></a>ラッションペンひとつで描いた。金閣寺では、ぞろぞろと日本人の学生や背広姿の列を従えた恰幅の良い中年の西洋人が私が絵を描いているのを見ながら、しきりに回りに何か解説している。と思うと私に向かって「スバラシイ！」と日本語でしゃべった。通訳と思われる若い金髪の女性が「この先生は世界的にとても有名な画家の先生で今、来日されているんです。先生はぜひあなたを自分の国イタリアに招きたいとおっしゃています。もしあなたがよろしければご両親にお話することも可能です。この先生がこんなことをおっしゃるのは初めてです。どうですか。チャンスですよ。」後半は通訳というよりも、このひとが興奮していた。私は下を向いたままだった。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090708/01/oooookuma/6e/50/j/o0104010410209665195.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090708/01/oooookuma/6e/50/j/t01040104_0104010410209665195.jpg" alt="大隈光祐`アントワープの絵ヘ" width="104" height="104" border="0"></a>その紳士は連絡先を秘書に渡して、私にくれた。私は見たふりをしてポケットに入れ、また絵を描き始めた。金閣寺の屋根は雲の位置、風などにより５分おきに表情が変わってしまうのだ。私ははやくこの集団に過ぎ去ってほしかった。なのに彼は翌週もまた私を誘いにやってきた。有名人がそんなに暇なのだろうか。今度は連れているのも秘書と２人だけだった。私は両親に断られたと言った。嘘だった。先週ポケットに突っ込み、絵を描き始めたときから忘れてしまっていただけだった。秘書は「本当に残念ね。」と`私に同情した。私が泣いて親に懇願した図を想像しているのだろう。<br>私は清水寺のときからマジックひとつで光と影、濃淡すべての色を描いて絵を仕上げていった。法然院。南禅寺。・・・「描き上がったら買いたいので売ってほしい。」という人や、寺に残してほしいという職員らしき人もいた。そういえば清水寺の茶屋の人からはたまにお菓子やお茶を貰っていたのに、「完成したらほしい。」というのを断って心苦しかった。私は注目されるのが苦手だった。絵をあげて、またお願されるのを怖れた。私は巡礼も続けなければならなかった。<br>中学２年。私の巡礼は奈良を残すばかりとなっていた。「満願」とは札所３３カ所すべてを回って初めてかなえられるもので、途中では全く効果がないらしい。中学に入っても私のぜんそくは良くなるどころか、一回の発作の激しさが強くなっていた。小学校の時のように学校な行けば治るということも少なくなってきた。「一週間喘息」というのが始まったのもこのころからだった。本来、明け方に発作が最も激しく、日中は緩和するのだが、夜中に発生した呼吸困難がずっと続くのである。病院に行って発作を止めても家に帰り着くころは再び息苦しくなり始めていた。長い夜の始まりである。ひゅーひゅーひゅーひゅぜーぜー。社宅で近所にまで聞こえるほどの喘鳴音。２歳のときの医師の言葉は分かっていた。しかし、回りの小児ぜんそくの子供はみな完治していくのに、唯一悪化するわが子。中学２年になろうというのに１２０cmにも満たない低学年のような身長。苛立ちは私に向かった。風邪をこじらせたと思いこもうとした。<br>「だいたいあんたが薄着で外を走り回っとったけんいかんのよ、自業自得ばい。苦しみなさい。そうすれば今度こそ薄着しなくなるでしょう。」母親は興奮すると九州弁になる。母はもうどんなに痰が絡んでも背中を叩いてくれることはなかった。これは`風邪`を悪化させた息子が悪いのであり、この子は苦しまなきゃ同じ過ちを繰り返す。彼女は現在でいう`うつの状態に陥っていたのかもしれない。尚、悪いことに私は自我が目覚めていた。反抗期だった。小学校の時のように母のぐちを黙っていられなかった。<br>「ぜぃ　ぜっ喘息は　風邪じゃない。ぜぇぜぇ　ぴゅー　ぴゅー　ぜんそくという病気だよ。ぜぃぜぃぜぜぃ。いい加減、僕の　ぜぃぜぃぜぃ　普通の時の　ぜぃぜぃ　行動のせいにするのは　ぜぃぜぃぜぃ　やめて。関係ないんや。ぜぃぜぃぜぃ」<br>「現にこうして発作起ことるとがしょうこやろうが。くやしかったら普通に呼吸してみんね。」<br>私はこの母親の言葉のストレスでなおいっそう興奮し、発作を悪化させた。げほっ　げほっ　ごっほ　ごっほ　ひー　ひー。<br>「うるさかねー。ほんなこて。音させんで呼吸できんとね。まったく。普段あれほど薄着しちゃいかんってゆうとったのに。なんで薄着はするとやろうね。こん子は。まったく。」と一通り、私の部屋にきて私の発作を悪化させると台所の方へ消えていく。私は悔しかった。元気なときに一刻も早く３３カ所回ってしまうことだけを考えた。母も疲弊していた。どんなに発作が止められるとわかっていても頑なに吸入器を使用することをためらった。「吸入器で死亡者が出た。」という昔聞いた医師の一言が呪縛となり彼女から離れなかったのだ。吸入器とは癌の末期にしか与えないモルヒネと受け取り、厄介なものとして家の奥にただ隠した。古くから白木村の長者で戦後は町長の大きな良家、女５人男１人の女系兄弟の末娘として、周囲に大切に育てられた母には初めての子供として私は荷が重すぎた。私は「親がうざったい。」とかいう他人の反抗期が理解できない。私はただ呼吸がしたかった。母はそれ自体を否定した。それが反抗期だった。私の家庭は私が発作を起こすと母がヒステリーを起こし、私に言葉の暴力をぶつけ、私は咳込みながら応戦し、なお発作を悪化させるという悪循環に陥っていた。見かねて父は私の学校が夏休みなどになるたびに大阪市立病院などの入院教室を捜してきては私を預けた。私のいない家庭は静かで平和だった。父はさらに平和が維持される方法を見つけてきた。<br>それは私を福岡のおばの家に預けるということだった。私には青天の霹靂だった。私にも言い分はあった。身体は小さくても声が大きいと体育祭の応援団長に選ばれたのに・・。母は黙っていた。遠くの札所は回り終わっていた。あと奈良の４寺で終わりのはずだった。<br>私の喘息治癒の満願成就はかなわなかった。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/oooookuma/entry-10347872731.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Sep 2009 10:50:39 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>発作</title>
<description>
<![CDATA[ 逮捕の日、取り調べが終わると留置場の６畳ほどの大きさの檻のなかにはすでに２人が入っていて私を観察していた。ひとりは５０才がらみで自称、コテツ組の系列の組長との事、右翼が街宣カーに乗るとき着るような上下黒いナイロン服を着ている。もうひとりは７０才ぐらいの老人。<br>「なにしたんや。若いの」と聞かれたので「仏像を持ち出そうとして・・」と言うと「あーあ、あれは銅製だと６万円で売れるからな」と言った。<br>すると組長が「このじーさんはもう３０回も刑務所行っているんや。刑務所の神様やで。どんな悪さでも知っているからなんでも教えてもらったらええで」話に気分が悪くなるとはこのことだろうか。<br>はやくも息ができなくなり始めた。顔がチアノーゼ状態になり留置場がドヤドヤしてきて、初めて私はふただび手錠をかけられ橿原警察の近くの平成記念病院に連れてこられた。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090505/14/oooookuma/2c/d7/j/o0124009310175966980.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090505/14/oooookuma/2c/d7/j/t01240093_0124009310175966980.jpg" alt="大隈光祐の”アントワープの絵”" width="124" height="93" style="clear:both;float:left;" border="0"></a>仮病を使って逃げると怪しむかのように、制服を着た警官４人が手錠をかけたままの私をゴール前のサッカー選手のように隙なく取り囲んでいた。その診察室の光景に看護婦も当惑気味。医師が私に聴診器をあて「ひどいですね。」と呟く。警官「薬か何か貰えますか。」とすぐにでも連れて帰りたそうな言い方。若い医師はとんでもないという感じで看護婦に急いで何か指示し、看護婦があわてて動き出した。それを見て警官はあわててトランシーバーのようなものでヒソヒソ「・・・本当のようです・・すぐは帰れません・・ハイすいません。」とか言っているのが自分の声の遠くで聞こえる。私は必死に息を整え一気に医師に訴えた。<br>「パキシルかアモキサンをください。さっき警察で没収されてしまっ・・ぜぃぜぃぜぃぜぃ・・。　<br>医師「それはここでは無理ですね」とあっさり。あなたそんなどころでないよという雰囲気。<br>吸入を吸い病床の準備が整ったが、私はべットにあがることができず、左腕だけべットに伸ばし、椅子に座り、べットにもたれかかったまま点滴を受け始めた。発作の時はそうするしかないのだ。それをまだ怪しいと思ったのか４人の制服警官は上半身波打って音を発している私を４方からピクリともせず仁王立像のように見下ろしている。私は`世界遺産を傷つけた凶悪犯として厳重監視命令が出ているのだろう。<br>点滴が半分ほどになり、筋肉注射などが打たれ呼吸音が穏やかになってくると「楽になったか。」「ハイおかげさまで。すいません。」と答えると、警官達は一層じれったそうに点滴が一滴一滴落ちるのを見始めている。念じれば早く点滴が落ちると信じている人のように４人で睨みつけている。何回かトランシーバーが鳴り、出て行った部屋の外で・・まだです・・とか・・もう少し・・とか聞こえてきた。ようやく点滴が終了した。私の呼吸はようやく落ち着いた。若い医師はステロイド系の吸入器を警官に渡し、いくつか指示したあと私に向かい「いいですか。苦しくなったら必ずすぐ言ってくださいね。」と警官に聞こえるように念を押したが、私は息を取り戻し、再び、<br>「先生　せめてパキシルだけでもないですかっ！」と迫ったが、無駄だった。<br>発作が止まった私は次に来るあること怖れた。留置場に帰った私は不眠のまま翌朝を迎えた。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/oooookuma/entry-10347871654.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Sep 2009 10:40:24 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
