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<title>日本と世界を観望する</title>
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<title>新型コロナウイルス感染症流行以後の世界を展望する</title>
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<![CDATA[ <p><br><font color="black" size="4" style="line-height:160%;">　いつもと同じであって、以下に書くことは全くの素人考えであり、いかなる専門的知見の裏づけをも伴っていない。読者におかれては（読者なんているかどうかなどということは、もちろん知らない）、書かれている内容が妥当か否かを自らでご判断いただきたい。という、いつものNota beneないしCaveatをまず記しておく。<br><br>　ところで、である。新型コロナウイルス感染症が流行してはやウンか月（この「ウン」のところにどういう数字を入れるべきかはなかなか厄介な話であり、というのも、何を以て感染拡大の端緒と成すかの判断は容易でないからである・・・そういう面倒くさいことは少しも本質的な話でないので、ここではこれで済ますことにする）、5月下旬のここへ来て、善悪は別にして日本では全国的に外出抑制の緩和という流れになってきた。現時点でなお緊急事態宣言の適用が続いている首都圏及び北海道についても、ほぼ間違いなく、5月末までには解除という事態になり、外出抑制が緩和されることになるのだろう。<br><br>　それが本当に妥当かどうかは蓋を開けてみなければわからず、そして実際には、何となく緩和ムードに世間が浸っている中で、そのうちに、そこここで小さな集団感染が発生するのではないかと予想される。現在の日本における言わば「検査密度」（日本ではもちろん、この密度が極めて低いのである）からすれば、たぶんこれはほとんど不可避である。<br><br>　そして小さな集団感染が発生した場合に何をすべきかについては、今や共通認識はできつつあると言ってよいのではないか。すなわち、感染者及びその感染者にいわゆる濃厚接触をした可能性の高い人々を短期間で集中的に検査して（このためには圧倒的物量の検査能力を予め用意しておくことが必須である）感染区域を特定し、そして感染者を（発症者も無症状者も）しかるべく入院させまたは隔離して（このためには充分な規模の入院病棟及び／または隔離施設の予めの用意が不可欠である）、感染拡大を速やかに遮断すること、これが必要だと思われる。このようにして感染拡大を防げなければ、再び外出抑制が必要となる恐れがあり、そうなった場合の経済的な打撃、及び人々への精神的な打撃、は深刻なものとなるだろう。このような打撃を極力回避して社会経済生活の継続を維持することが、今後当面の中央政府及び各地方自治体の行政目標となるのでなければならないと思われる（そしてその際に参考となるのは、例えば台湾やニュージーランドであり、また、（初動対応の遅れなどから死者数こそ多くなってしまったが、とはいえやはり）スウェーデンだろう）。ここまでの点については、たぶん大方の考えに違いはないだろうと想像される。<br><br>　ところで、標題で「展望する」と言った以上、本論考が問題にしたいのは無論その先の話である。つまり、中長期的に我々は世界がどうなると予想し、またその予想のもと行動することになるか（行動するべきか、とまで言わないとしても）、これが論点である。<br><br>　感染症流行からウンか月を経て、既に色々な徴候は見え始めている。例えば、テレワークが既に大幅に進展しており、そしてこれは、少なくとも部分的には不可逆な趨勢となりつつある（つまり、外出抑制が緩和されても、テレワークから通勤というふうには、少なくとも部分的には逆戻りしない）ように思われる。大学の授業などについても、実験など物理的集合が不可欠な形態の授業を除けば、かなりの部分がオンライン授業に適合的であるように見受けられる（但し、これまでのところでは、教員が負っている負担の増加は相当なものであるようだが）。<br><br>　業種によっては、緊急事態宣言が解除となっても苦難の道を歩むほかない業種もあるようである。例えばライブハウスなどは三密との強烈な烙印を押されてしまって、今や業種全体が立ち行かないのではないかとの懸念も禁じえない。ライブ自体は代わりに野外での実施なども不可能でないだろうと思われるが、言うまでもなく、（上演に伴う雰囲気等々を考え合わせれば）それがライブハウスでの上演を完全に肩がわりできるわけでは決してない。演劇も、特に小劇場などは果たして今後成り立つのかどうか（私自身は観劇はしないので、これ以上想像を逞しくすることは控えるが）。これに対して、映画関係で言えばミニシアターは、換気を良くして、かつ入場者制限を行なえば、まだしも成り立ちうるのではないか。但し、入場者制限を行なうこと自体は経営に対する大打撃であるに相違なく、その意味ではこれまた苦難の道には違いあるまい。<br><br>　観光業も、緊急事態宣言が解除となり外出抑制が緩和されても、人の出足が容易に戻るはずはない以上、苦難の道を歩まざるをえないだろう。これへの対策としては、例えば小中学校の修学旅行を、遠距離の観光地でなく近場でやってもらうように働きかける、といった手があるのではないかと思われるが（その場合無論、近場で意味のある「修学」旅行とするためには、何らかの企画が必要となろう）、果たしてこの程度で苦境の打開につながるかどうかは、素人の筆者には想像がつきかねる。また、従来以上に「滞在＋体験」（したがって、単なる１、2泊でなく、数日は宿泊してもらう）といった形の旅行、例えば田舎ぐらし＋農業体験、といったことを観光業側がもっと提案する必要があるように思われる。そして可能なら、将来的には、逆出稼ぎ（つまり、農繁期における、都会から田舎への一時的人口移動）のようなことが一大ムーブメントとなるところまで持っていければ良いかもしれない。もちろんこれは全く妄想の世界の話である。さらに、妄想ついでに素人の暴言を記すと、特に地方においては観光業は、観光業単体での経営とするのでなく、何か別の産業（例えばそれこそ農業）を営みながらの副業的な仕方で営むことができないものかと思う。こういうことを書くと、プロの観光業者からは実態を知らない人間の暴言と批判されるだろうが（もとより妄言は承知の上である）、今後、人々の移動がコロナ以前と同様には行かなくなるであろうことが必至だとすれば、観光業がそれ自体では成り立ちがたくなることもまた、必至であるように筆者には思われる。<br><br>　移動に関する人々の意識が変化することに伴って、旅客運送業や旅行代理業も今後苦境が長続きする業種の1つだろうと思われる。特に海外旅行は、新型コロナウイルス感染症の世界的流行が一段落するまでは、極めてやりにくくなるだろう。但し、人々の海外への移動が減ること自体は、或る意味で歓迎するべきことだと筆者自身は考えている。というのは、誤解を恐れずに言えば、人々の海外への移動が減ることによって、移民が少なくなるだろうからである。こういう言い方をすると人種差別的との批判を招きやすいということは重々承知しているが、極めて率直に言えば（この点はたぶん、それ自体を論題として一稿をものすべきかもしれない）、一般的に言って民度が高いとは到底みなせない今の世界においては、移民は決して望ましくないと筆者自身は考えている。なぜなら、移民は本人にとっては故郷喪失を意味し、そしてその移民が行った先では、文化摩擦が招来される可能性が高いからである。移民として認められるのは、知的水準が相当に高く、「郷に入っては郷に従え」が（文化摩擦を生じさせないほどに充分に）実行可能である、そういう人々に基本的に限られるべきだと筆者は思っている（以前に数年間ヨーロッパに住み、自分なりにヨーロッパの状況を現地で見た上でこういう考えを持つに至っている、ということを付言しておく）。移民に関する如上の立言は種々批判を招くだろうが、これについては、他日の詳論を期することとしたい。<br><br>　旅客運送業や旅行代理業の苦境に関する話が途中になってしまったが、今後基本的に海外旅行は相当程度、高嶺の花たらざるをえないだろうし、そのほうが良いのではないかと筆者自身は考える（つまり、高額の運賃を設定することによって採算が取れるようにすることを、例えば航空会社は目指すべきである）。これに対して国内旅行に関しては、一国内部であれば、移動に伴うリスクを統一的な仕方で管理することは必ずしも不可能でないので、そのようなリスク管理体制を（例えば空港で、また航空各社で）予め敷いた上で、外出抑制の緩和に伴ってかなりの程度、従来のあり方に近づけることは可能ではないかと思われる（但し、移動に関する人々の意識の変容については、どうしようもない現実として受け入れるほかあるまい）。旅行代理業に関しては、海外旅行の企画は今後しばらくは非常に難しいのではあるまいか（不可能とまで言わないとしても）。国内旅行、しかも意識変容に対応した新しい国内旅行のあり方の提案を目指すほかに、当面の活路はないように思われる。<br><br>　旅客運送業のうち鉄道はどうなるか。乗り鉄の1人として言えば、外出抑制が緩和されれば今すぐにでもローカル線を乗りまくりたいところだが、そういう個人的趣味の話を措くとすると、鉄道業にとっての主要な問題は、大きな収入源であるだろう通勤列車（特にラッシュ時の通勤列車）が今後どうなるか、である。というのも、改めて言うまでもなく、テレワークが普及すればそれは直ちに通勤客の減少を帰結するからである。そして、上述のようにテレワークのさらなる普及が必至だとすると、それに伴う鉄道業の減収は構造的な減収となろう。首都圏について言えば、ホームドアの設置（こういうものへの出費・投資は、経営的に余力があって初めて可能だったろう）が順調に進んでいたところなどから見て、鉄道業は近年経営的に順調に推移してきていたと想像されるが、このような構造的減収要因が今後どの程度の打撃をもたらすか。その如何では、地方の鉄道（業）についてのみ従来見られた存続問題が、今後は大都市圏或いは大都市圏に近い地域の鉄道業においても発生するかもしれない。<br><br>　などと知ったかぶりで色々な業種の今後に関する妄想を記したが、本当は、記すべき妄想（しかも、もっと重大な妄想）はほかにある。そのあたりのことは、稿を改めて書くことにしたい。</font><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/orchr/entry-12925010581.html</link>
<pubDate>Sat, 23 May 2020 18:09:22 +0900</pubDate>
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<title>新型コロナウイルス感染症をめぐる諸問題：少し将来の時点から現在を考えてみると（続・完）</title>
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<![CDATA[ <p><br><font color="black" size="4" style="line-height:160%;">　同題の前々回記事及び前回記事の続きなので、以下の全体が単なる素人考えにすぎないということの前口上は、ここでは繰り返さない。<br><br>　同題でこれまで書いた内容を要約的に繰り返すと、アメリカの某研究所発表になる「再開へのロードマップ」に記されている4段階（①感染拡大を遅らせる②地域ごとに経済を再開させる③免疫防御を確立させ、制限を撤廃する④次の未知のウイルスによるパンデミックに備える）との関連で言えば、世界の大多数の国は遅かれ早かれ、①の段階を経て②の段階に行き、そして場合によってはまた①に逆戻りする、ということを、向こう何年間かにかけて経験するのではあるまいか。そして③にはついに到達しないのではあるまいか（③に到達しない、ということの意味については前回記事に書いたその部分の【追記】を参照）。これが筆者の素人考えによる予想である。<br><br>　そして、では日本はどうやって、①の段階から②の段階に移行できるのか。実は、②の内容はくだんの記事では「地域ごとに経済を再開させる」となっており、ここにヒントがある。つまり、全国一斉でなく、地域ごとに経済を再開させることができれば、日本全体では経済を生かし続けることができるのではないか。ここまでのことを前回記事及び前々回の記事で書いた。<br><br>　では、地域ごとでの経済の再開のために必要なのはどういうことか。ここで、突然奇妙にもと思われるかもしれないが、本ブログの前々回記事以来参照してきた<a href="https://digital.asahi.com/articles/ASN4X61J0N4VUHBI001.html">朝日新聞デジタルの記事</a>から、最後の引用を行なうことにしたい。<br>（以下引用）<br>－－－－－－<br>　現在の外出制限が緩和され、経済活動が再開しても、日常生活がすぐに「新型コロナ前」に戻るかは分からない。すでに一部解除が始まった国でも、手洗いの励行やマスク着用義務、職場での検温などは引き続き行われている。感染すると重症化しやすい高齢者や基礎疾患を持つ人の外出制限は引き続き行われる。国境を越えた旅行の再開は当分先で、入国後に14日間の自主隔離を求められる状況が続くだろう。<br><br>　米ホワイトハウスのバークス新型コロナ対策調整官は「これがニューノーマル（新しい常態）だ」と話す。ファウチ氏は「正直なところ、握手は二度とすべきだとは思わない」と指摘しており、これまで当たり前に行われてきた習慣が今後は変わる可能性もある。<br><br>　今後、外出自粛が緩み、経済活動や学校が再開しても、私たちはしばらく、危機前とは違う「日常」を過ごすことになりそうだ。（ワシントン=香取啓介）<br>－－－－－－<br>（引用終わり）<br><br>　この引用部分は、くだんの記事の構成によれば④に当たる段階での「新しい常態」「新しい日常」についてまとめられたものだと解釈できる。が、本ブログの筆者の立場は既に述べたとおりで、③のあとの④などという段階は絵空事でしかなく、実際には②の段階（既述のように、①の段階に逆戻りする可能性をつねにはらむ、不安定な段階である）までしか人類は到達できない、というものである。そして特に日本の場合、多くの国民が神経症的な不安を持っているがゆえに、そもそも①から②への移行も決して容易でない、ということも既に書いたつもりである。<br><br>　とはいえ、①から②への移行は必要であり、そしてそのためにポイントとなるのは、地域ごとに経済を再開させることだと。ではどうやってそれを実現するか。これを言うために今の引用を行なったわけであり、つまり実現のためのヒントが引用の中にある、と筆者は考える。<br><br>　そのヒントとは何か。筆者が特に注目したいのは、「国境を越えた旅行の再開は当分先で」というところである。これ自体は国境を越えた移動の制限を意味しているが、同様なことが国内にも当てはまるのではないか、否むしろ、移動制限を国内にも当てはめるべきではないか、というのがここでの論点である。<br><br>　言うまでもなく、国内の県境を越えることは国境を越えることと決して同一でなく（入境コントロールなど、現実には全く存在しない）、例えば本州内では県境のすべてのポイントに入境規制ポイントを設けることなど全く不可能である。しかしながら、例えば北海道や四国や九州及び沖縄ではどうか。少なくとも他地域からの入境に関しては、空路であれ海路であれ、入境統制を行なうことは決して不可能でなく、むしろその気になればかなり容易である。例えば空港では、入ってきた人々がゲートを通過する際に必ず、例えば非接触的体温測定が自動的に行なわれるようにするのである（この程度のことは既に現在行なわれていても不思議ではなく、否むしろ、既に行なわれていなければならないのではないか）。<br><br>　沖縄を除く島（北海道、四国、九州・・・その他の島々はここではさしあたり考慮外とする）の場合には本州との間で陸路（自動車、鉄道）による交通があり、これをどうするかは問題である。が、これについても、越境ポイントに当たる駅でのゲート通過、自動車についてはETCシステムや監視カメラを活用した入境統制、といったことは技術的等々の観点から見て決して不可能でないだろうと想像する（すぐの実現が可能かどうかはともかくとして）。<br><br>　と、ここまで書いてきたが、この先を書くのはいささか気が進まない。なぜなら、入境統制を有効たらしめるには、何らかの身分証の常時携行（身分証の常時携行は多くの国では既に行なわれているが、日本では、幸いにもと言っておきたいが、まだ行なわれていない）及び入境の際の提示も必要不可欠だ、ということに不可避的になりそうだからである。前回記事でGPS追跡に関して記したことにもかかわるが、個人情報のこういう取り扱い方を一般化するためには、まず先だって、自己情報管理権とでもいったものがきちっと確立され、かつ情報公開制度が十全に整備され、権利の上でも実際的にも自己情報を自ら管理できる（ここで言う「管理」の中にはもちろん、場合によっては、消去も含まれる）仕組みが確立していなければならない。日本の行政はこういうことに対して極めて不熱心であり全く信用できないが、これはこの際断然整備が必要である。<br><br>　話がやや横道にそれてしまった。ここで問題にしたいのはまずは何らかの移動制限ということであり、それが、地域ごとの経済の再開の場合には必要となり、かつ役に立つのではないか、ということである。このあたりは日本の例だけを考えているとわかりにくいが、例えばEU圏を考えれば俄然イメージははっきりしてくる。つまり、周知のようにEU圏は、今回のコロナ禍が始まるまでは、国境での検問は基本的に存在せず、自由な行き来が可能だったが、コロナ禍と共に国境は閉鎖された（たぶん今でもまだ、この状態にあるのではないか）。そして今後、EU圏でコロナ禍が収束に向かった場合でもたぶん、今回閉鎖という形で再登場した国境管理は、コロナ禍以前の状況のように完全になくなるということはもはやないのではないか。それが検問という形をとるのか、それとも自動監視カメラの設置及び（日本のETCシステムのような）何らかのゲート通過という形をとるのか、具体的なことはわからないが、何らかの管理は継続するのではないかと思われる。<br><br>　そして実を言うと、筆者自身が考えているのは基本的にここまでで、つまり、地域ごとの経済の再開のためには何らかの移動制限が必要となり、かつ役に立つのではないかというのが、この点に関して言いたいことのほぼすべてである。何だ、それだけか、と思われるかもしれないが、あとのことは、実際に経済が再開（今でも経済は一応多少は動いているので、ここで言う「再開」とはもう少し本格的な「再開」だ、というぐらいのイメージだと理解いただきたい）してみないとわからないので、素人予想をしたところで全く無意味だろうと筆者自身は考える。<br><br>　そして実は、この移動制限ということについてもう少し考えたい。言い換えれば、今回のコロナ禍を経て、色々なものが変わるだろうことは想像にかたくないが、その中でも特に重要な変化として、移動に関する人々の考え方が、変わるというよりむしろ、変わらざるをえなくなるのではないか。この点をここでは問題にしたい。<br><br>　といっても、これについても、あれこれ思索をめぐらしているわけでは全くないのだが、例えば、移動に関する考え方が変化することの結果の1つとして、観光関連産業（旅客運送業を含む）のあり方が、大きく変わらざるをえなくなるのではないか。日本政府はここ数年観光立国を目指してきたが、今後これを同様に推進することは、筆者の予想ではたぶん間違いなく無理である。いろいろな点で考え方を改める必要が間違いなくあるだろう。<br><br>　産業の変化ということで言えば、今回のコロナ禍の中で色々やり玉に上がったライブハウスは、今後も営業が難しくなるのではないか（ライブは大会場か野外へと、大幅に移行せざるをえなくなるのではないか）。また、全然違う話だが個人的関心から言うと、各地で行なわれていた合唱サークルなるものも（今回のコロナ禍の中で集団感染の機会としてやはり問題になったが）、今後は実施が相当難しくなるのではないか。<br><br>　等々、色々挙げだせばほかにもいくつも例が出てくるだろうが、とにかくこのコロナ禍が今後社会に対して及ぼすであろう影響は、どれほどか筆者には想像がつかないほど、甚大かつ深刻であるように思われる。それぞれの人がそれぞれの場で具体的に考えて、必要に応じて発信するだろうから、そういう発信（特に、具体的な発信）に今後とも注意していきたいと思う。</font><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/orchr/entry-12925010579.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Apr 2020 12:44:34 +0900</pubDate>
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<title>新型コロナウイルス感染症をめぐる諸問題：少し将来の時点から現在を考えてみると（続）</title>
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<![CDATA[ <p><br><font color="black" size="4" style="line-height:160%;">　同題の前回記事の続きなので、以下の全体が単なる素人考えにすぎないということの前口上は、ここでは繰り返さないことにする。<br><br>　前回記事で書いた内容を要約的に繰り返すと、アメリカの何たら研究所が示したとかいう「再開へのロードマップ」に記されている4段階（①感染拡大を遅らせる②地域ごとに経済を再開させる③免疫防御を確立させ、制限を撤廃する④次の未知のウイルスによるパンデミックに備える）との関連で言えば、世界の大多数の国は遅かれ早かれ、①の段階を経て②の段階に行き、そして場合によってはまた①に逆戻りする、ということを、向こう何年間かにかけて経験するのではあるまいか。そして③にはついに到達しないのではあるまいか。これが筆者の素人考えによる予想である。（そして、③への到達がない以上、③のあとの段階としての④などというものは、そもそも絵空事でしかない。）【追記】誤解の恐れがあるので追記すると、③に到達しないとしても、当然ながらいずれは感染症流行は収束に向かう。ここで言いたいのは、「収束に向かうというその過程はたぶん、ワクチンの開発等々といった決定打の登場によって進むのではないだろう。むしろ、②の段階にあって社会の中で不安がなお残る中、いつともなく流行が終わるという形で感染症流行は収束へと向かうのではないか」、ということである。【追記終わり】<br><br>　そして、では日本はどうやって、①の段階から②の段階に移行できるのか。この点を論じる前に、まず日本の場合の①への入り方について少しく論じなければならない。<br><br>　①感染拡大の遅延化、そのための外出抑制を日本がいつ始めたかについては、いくつかの見方が可能だが、4月7日夜に発令された政府の緊急事態宣言（最初は7都府県に対して出され、のちに全国に拡大された）を始点とする見方が最も一般的たりうるのではないかと思われる（周知のように、既に2月末に全国一斉休校要請が出されるなど、様々な動きはそれ以前からも見られたわけだが）。この緊急事態宣言の発令に前後して、専門家（具体的には、理論疫学を専門とするのだという北海道大学教授の西浦氏）によって移動の8割減ということが語られ、無思慮な政治屋（安倍晋三のこと）はこれをただ真似して同じ数字を何かの会見（宣言を発令した時の会見だったか？・・・一々確認していないが）で言っていた。<br><br>　だが、この8割という数字は果たしてどれほど考慮された上で発表された数字なのか。言い換えれば、（愚かな安倍晋三にはもともと理解不能だったろうが）西浦氏にしても他の「専門家」にしても、移動の8割減が実際にどれほどのものなのか、想像できた上で語っていたのだろうか。筆者にはそうとは到底思えないのである。なぜなら、移動の8割減という状況は、前々回の記事で使ったのと同様な表現を使うなら、それ自体「社会の死」或いは「ほとんど社会の死」と言ってよい状況であるだろうからである（筆者自身そういう状況を目の当たりにしたことがないので、「だろう」と推量的に言わざるをえないが、この点で自分の見方が間違っていないことは明白だ、と筆者自身は思っている）。<br><br>　これに関して、西村康稔経済再生担当相（にして新型コロナ感染症担当）が、政府による緊急事態宣言発令との関連で、休業要請を2週間遅らせることができないかという相談を7都府県の知事に対してしていたということが当時報じられた。その時の報道の姿勢は政府部内の意見不一致とでもいったものではなかったかと思われるが、とにかく西村氏のスタンスは批判され、結局、緊急事態宣言の発令ののち、休業要請は東京都などによって速やかに出された（はずである・・・これも一々正確には確認していないが）。これについて、もちろん筆者も西村なる政治屋はアホだと思うが、ただ、正確を期するなら、休業要請の先送りを持ちかけることは、もしそれが、移動の8割減の実際の効果に関するイメージ（上で述べたような）を思い描いた上で行なわれたのであれば、それ自体は必ずしも悪くない。<br><br>　但しそうだとしても、非専門家である経済再生担当相自身が知事に相談するという形で話を持ち出すのではなく、何らか専門家（例えば日本経済に関する専門家）の見解を得て、それを引き合いに出す形で「専門家によれば移動の8割減は悪影響が大きい」云々とやるのが妥当だったろう。そのように事を運ばなかった点で、西村という政治屋はアホである。そしてさらに言えば、緊急事態宣言発令の後（そして実際には、発令の前からも）、休業要請を出すなら政府は休業補償をせよ、という当然の意見は社会の中にかまびすしくあったわけだが、これに対して西村は、（これはたぶん政府方針としてだろうが）政府は休業補償はしない、という1点張りの答弁をし続けた。これはまさにドアホと言ってよいことである（これについては当ブログの前々回の記事を参照）。結局、西村という政治屋は何もわかっていなかったと思わざるをえない。<br><br>　西村のような雑魚などどうでもよいのだが（と言いつつ、西村関連で2段落も使ってしまった）、社会的想像力を欠いているという意味では北大の上記西浦教授も、（自分の専門以外のことに見当がつかないいわゆる専門バカだという意味で）アホだと言わざるをえない。そしてさらに言えば、8割などという数字は、1度出されれば独り歩きするものなのであり、日本人が今色々なところで、外出抑制をさらに強化しようとする際にこの8割という数字は極めて容易に用いられうる。この有害性は深刻なものだろうと思われる。<br><br>　ただ、8割減という数字に飛びつくこと自体が、日本人の多くのメンタリティーに即していると言えるかもしれない。つまり日本の場合に行なわれているのは、諸外国と異なって外出規制でなく、あくまで外出自粛要請にすぎないが、それでもそれは（8割とまで行かないとしても）相当の効果を上げている。なぜか。改めて言うまでもなく、多くの日本人はお上に対してことのほか従順であり、しかもお上が指示を出してくれることを望む（言い換えれば、自分自身で、自分自身の責任で、考え行動しようとしない）からである。さらに言えば、コロナ禍が始まる以前から、日本人は清潔さに対して過度とも言えるこだわりを持っていた（この性癖が、今回の感染症拡大を多少とも鈍化させた可能性は無論あるだろうが）。とすれば、日本で①の方策、すなわち具体的には外出抑制、を実施することは、それ自体は極めて容易であり、国民に受け入れられやすかった、と言えるかもしれない。<br><br>　しかし、そうだとするとそれだけ一層、段階①から段階②へと移行することは難しくなる。なぜなら、①よりも②のほうが、明らかに感染発生の可能性は高くなるからであり、そして多くの日本人は、以上筆者が記したことが外れていなければ、感染の再発に対して他国民以上にヒステリックに、或いは神経症的に、反応する可能性が高いからである。そして、前々回のブログ記事に記したように、①を続けていると経済はガタガタになる。それを防ぐためには本来的には、前々回の記事に記したように、言わば金融の蛇口を開け続ける対応をせねばならないはずであり、それをしない日本では、とてつもない景気後退、否むしろ経済収縮、が起こる可能性がある（可能性が高い、とまで言わないとしても）。<br><br>　では①にはまり込んだ日本はそのまま②に移行できずに沈没していくしかないのか。実は、②の内容はくだんの記事では「地域ごとに経済を再開させる」となっており、ここにヒントがある。つまり、全国一斉でなく、地域ごとに経済を再開させることができれば、日本全体では経済はなお生きていることになるかもしれないのである。<br><br>　ここまででも既にだいぶ字数を使ってしまった。この続きは次回書くこととしたい。</font><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/orchr/entry-12925010578.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Apr 2020 12:32:21 +0900</pubDate>
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<title>新型コロナウイルス感染症をめぐる諸問題：少し将来の時点から現在を考えてみると</title>
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<![CDATA[ <p><br><font color="black" size="4" style="line-height:160%;">　数日前に書いた前回記事に続き、書き始めに当たってはまたしても、「このブログは、他者のために書かれているというよりむしろ、自分がそのつど思ったり考えたりしたことを書き留めるという機能を果たしている」云々（なお、間違っても「でんでん」とは読まない）といった註釈を書きたくなる。ま、しかしそれについては、「前回を見てくれ」で良いだろう。どのみち、場末のブログが勝手な思いつきないし思い込みを書くために、大した注意書きなど必要であるわけがないのである。<br><br>　ということで、標題の件である。「少し将来の時点から現在を考えてみると」などと大風呂敷を広げたが、言うまでもなく、本ブログの著者ごときが真の意味で〈将来の時点から現在を眺める能力〉（預言者の能力、とでも言えようか）を持っているわけはない。そんなわけはもちろんないのだが、ただ、どう考えても、世の中で新型コロナ感染症の拡大防止のためと称して今行なわれていることは、（極めて不謹慎なことを言えば）明らかにやりすぎである。というか、後世から今の状況を見た場合に、そういう判断が下されるであろうことは極めて高い、というのが、筆者の素人考えである。<br><br>　但し、誤解のないよう、ここで註釈的・挿入的に付け加えておくと、ならば筆者は、現在行なわれている対策を改めよと言いたいかと問われるならば、改めよなどと言える自信も言う勇気も筆者は全く持ち合わせていないし、さらに言えば、今は、既にこういうやり方を始めてしまった以上、その路線を突っ走るほかはないと思ってもいる（因みに、こういうやり方以外のやり方を採った国としては、もちろんスウェーデンが挙げられる）。というような意味で、以下に記すことは実践的な提言などといった大それたものでは全くない。この点をまずはっきりさせておきたい。<br><br>　かくて、「少し将来の時点から現在を考えてみる」などという、本来できもしないことをあえてしてみようという、たわ言以外でありえない文章を以下続けることにすると、この問題との関連で中期的に（中「長」期的に、とはあえて言わない）人間社会が採りうる選択は、（繰り返しで恐縮だが）筆者の素人考えによれば、少し上でかする程度に触れたスウェーデンのやり方以外にはありえないように思われる。つまり、感染症の発生が見られるとしても、社会を極力通常どおりに回すというやり方、これである。但し、スウェーデンのやり方で、人口1000万人程度の同国に既に死者が千人単位で発生していることからもわかるように、これはよほどの覚悟がなければできるやり方ではないし、そもそもスウェーデンが今回これを採用したことが正しかったかどうかは決して自明でない（たぶん、間違いだった可能性が高い）。<br><br>　ならば「中期的にはスウェーデンのやり方以外にはありえない」と考えるのも間違いなのか。それは話が違うと、筆者としては言いたい。なぜなら、今、外出抑制（前回書いたとおり、これが正確には外出自粛要請なのかそれとも外出規制なのか、という点はこの際重要でない）をやった結果、今後出てくるであろう様々な経済的影響は、筆者にはおよそ想像がつきかねる、とてつもないものになる可能性が充分あるからである（特に、休業補償等、諸々の経済的な支え――これについては前回書いたとおり――が全く不充分な日本においては）。<br><br>　ところで、話をさらに先に進めるに当たって好都合な記事が朝日新聞デジタルに出ているので、少し参照しておきたい。<a href="https://digital.asahi.com/articles/ASN4X61J0N4VUHBI001.html">この記事</a>だが、<br>（以下引用）<br>－－－－－－<br>（前略）行動制限の解除については、複数の大学やシンクタンクが提言を出している。代表的なのが、米アメリカン・エンタープライズ研究所が発表した報告書「再開へのロードマップ」だ。コロナ危機からの経済回復を議論する米政府の官民チームのメンバーでもある米食品医薬品局（FDA）のゴットリーブ前長官らが、米国が取るべき対応をまとめた。<br><br>　その内容は①感染拡大を遅らせる②地域ごとに経済を再開させる③免疫防御を確立させ、制限を撤廃する④次の未知のウイルスによるパンデミックに備える――という4段階からなる。<br><br>　これにあてはめると、現在、日本を含む多くの国は①の段階だ。（中略）<br><br>　感染拡大が落ち着いた中国のほか、感染者数がピークを迎えたとされる米国や欧州の一部、韓国などでは、②の段階に入っている。14日連続で感染者数が下がることや、地域医療機関が感染者を受け入れられる態勢が整っていることなどを条件に、徐々に行動制限を緩めていくのがこの段階だ。<br><br>　ただ、制限の解除にはリスクが伴う。米疾病対策センター（CDC）元所長のトーマス・フリーデン氏によると、そのために重要なのは▽新たな感染者を察知できる検査の拡充▽感染者の徹底隔離▽感染者との接触者を探し出す人員の確保▽接触者を14日間検疫する態勢の確立だ。「一つでも欠ければ、ウイルスは逃げだし、また爆発的に広まる。増加傾向が見られたらすぐに『蛇口』を閉め、直ちに外出制限を再開することになる」という。<br>－－－－－－<br>（引用終わり）<br><br>　このあとの部分はまたあとで引用することにして、ここで示されているのは、感染症対策との関連で今後の社会は、言われている4段階のうちの①と②を言ったり来たりする可能性がある、ということである。実際そのとおりだろうと思われる。そして、それに対する対策も記事の中に示されているとおりで、②を継続させることができるためには「▽新たな感染者を察知できる検査の拡充▽感染者の徹底隔離▽感染者との接触者を探し出す人員の確保▽接触者を14日間検疫する態勢の確立」が極めて重要である。日本の状況を念頭に、これを一言で言い換えれば、検査能力の飛躍的拡大と、軽症者収容施設の大幅増が不可欠でありかつ急務だ、となるのではなかろうか。<br><br>　つまり、②の段階に移行したあとで感染者が発見された場合には、圧倒的物量を以て当の感染者を中心とする検査を実施して、感染範囲或いは感染地域を特定し（これは、これまでの感染症対策では完全にはできたためしがない事柄だが――但しクラスター潰しは、それが完全な成功のうちに行なわれれば、これに当たると言えるかもしれない）、その範囲・地域を封じ込めることによって、感染がそこから外に拡大しないようにすることが必要である。ここで重要なのは、この場合に「圧倒的物量」によって一気に検査を行なうことであり、これができるためには、日本の貧弱な検査能力はもとより、韓国の検査能力でも不充分ではないかと思われる。（なお、GPS追跡も必要ではないか、との議論もあり、その意義は理解できるが、今の日本では、とにかく政治が全く信用に値しない。情報公開制度を整備して、事後的なチェックが完全に可能となったあとでなければ、GPS追跡を認めることは難しいと筆者は考える。）<br><br>　愚か極まる現政権には全く期待できないが、それでも政治は、目下の感染症対策に奔走するだけでなく、少し将来に必ず現出するであろう上述のような状況を見据えて、そのための準備（つまり、繰り返すが、検査能力の飛躍的拡大と、軽症者収容施設の大幅増）を進めなければならないと思う。<br><br><br>　<a href="https://digital.asahi.com/articles/ASN4X61J0N4VUHBI001.html">記事</a>の引用を続けることにすると、<br>（以下引用）<br>－－－－－－<br>　完全な収束を意味する③の段階で目指すのは、多くの人が自然に感染して免疫を獲得するか、ワクチンが開発されて広く行き渡るかのどちらかの状況だ。集団免疫という考え方だ。英政府のバランス首席科学顧問は集団免疫が機能するには人口の6割が必要だとしているが、世界保健機関（WHO）によると、現時点で抗体を持っているのは、世界の人口の2～3%程度にとどまっているという。<br><br>　米ハーバード大のチームは、感染者数のピークが救急医療態勢の能力を超えないように断続的に外出制限を行った場合、多くの人が感染して集団免疫を得られるには2022年までかかると予測する。治療薬の開発や救急医療態勢を拡充すれば感染者増に対応できるため、外出制限の期間は短縮できるという。<br><br>　今月、行動制限の緩和方針を発表したドイツのメルケル首相は「ワクチンが手に入るまで、ウイルスと共に生きなければならない」と語った。ワクチンは現在80近い候補が研究されており、米国立アレルギー感染症研究所のファウチ所長は実用化までに「12～18カ月かかる」との見通しを示している。しかし、過去最短と言われるおたふくかぜのワクチンも使えるまでに4年かかっており、多くの研究者や製薬会社は楽観的すぎるとの見方だ。<br>－－－－－－<br>（引用終わり）<br><br>　ここで問題にしたいのは、この③の段階は果たして実際に到来するかどうか、ということである。こう書くことからわかるように、この点について筆者は極めて懐疑的である。たぶん、③の段階に行き着くことのできる国は、今回の感染症との関連では皆無だろうと思われる。<br><br>　ならばどうするべきなのか、或いはどういうことになるのか。たぶん、世界の大多数の国は遅かれ早かれ、①の段階を経て②の段階に行き、そして場合によってはまた①に逆戻りする、ということを、向こう何年間かにかけて経験するのではあるまいか。これが、筆者の素人予想である。そしてその場合、世界の大多数の国は、何らかの意味でスウェーデンの例に倣わざるをえなくなるのではないか。これが筆者の素人予想であり、この意味で、上述したように「中期的にはスウェーデンのやり方以外にはありえない」、と筆者は考える。<br><br>　そうだとすると、その場合問題は、では例えば日本はどうやって①の段階から②の段階に移行できるのか、ということになる。このあたりはどう考えるべきなのか。<br><br>　やや長くなったので、このあたりまでで一区切りとし、続きは次の記事で書くことにしたい。</font><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/orchr/entry-12925010576.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Apr 2020 02:54:23 +0900</pubDate>
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<title>新型コロナウイルス肺炎流行の今、考えるべきこと</title>
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<![CDATA[ <p><br><font color="black" size="4" style="line-height:160%;">　改めて言うまでもないが、このブログは、他者のために書かれているというよりむしろ、自分がそのつど思ったり考えたりしたことを書き留めるという機能を果たしていると言ってよい。したがって、以下に記すこともそのたぐいであり、しかも、またしても経済について、門外漢（経済学者でも経済のアナリストでもないという意味で）のくせに書こうとしている。と、ここまで書いておけば、素人のたわごとでしかないことは明白だろう。以下、勝手な思いつきないし思い込みを書くために、まずは注意書きとしてこれだけのことを記しておく。<br><br>　その上で、ではなぜそのようなたわごとを書くかだが、現在全世界的に流行している新型コロナウイルス感染症、特に新型肺炎、の問題で、どのような対処が必要かということについて、真に納得の行く話が見受けられないように思われるからである。筆者自身が目にしているのは基本的に新聞記事（特に朝日新聞）のたぐいであり、また、そこからいわゆる「ジャンプ」をして見ることのできる論説（特に朝日新聞の「論座」の論説だが、それだけではもちろんない）であり、それらの中には専門家とおぼしき人々の論考もあるはずなのだが、真に納得の行く話は見られない。そしてもちろん、政府が行なっている施策に至っては、全くもってtoo little, too lateであり、そういう施策が出てくる背景には、ものの見方の根本的な誤りがあるとしか思えない。その誤りとは何か、真に納得の行くものの見方とは何か、それを、ド素人なりに考えてみたい、というのがこの記事の趣旨である。但し、繰り返すまでもないが、以下に書くことは、いかなる専門性の土台にも立脚などしていない。<br><br>　つまり、納得が行かない一番の理由は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止策として現在世界じゅうで行なわれ、もちろん日本でも行なわれている外出抑制（国によっては外出規制であったり、日本のように外出自粛要請であったりするのだろうが、どちらも外出抑制であることには変わりがない）が、今経済に対して何をもたらしているか、言い換えれば、外出抑制の結果、今、経済はどういう状態にあるのか、この問いへの明快な答えが見受けられない、という点にある。では今、外出抑制の結果、経済はどういう状態にあるのか。これに対する明快な答えはたぶん、筆者の素人考えによれば、今の経済は心肺停止状態にある、ないしは、ほとんど心肺停止状態にある、というものである。<br><br>　この言い方がどれほど大げさか、それとも大げさでないかは、もちろん読む人が各々考えるが良いだろう。ただ、私見によれば、こう考えないと、それへの正しい対応策が打てないだろうと思われる。つまり、もし仮に、今の経済が心肺停止状態にある、ないしは、ほとんど心肺停止状態にあるのであれば（そして言うまでもなく、ここで話の前提にある経済の死とは、考えるまでもなく文字どおり経済の崩壊であり、そんなことになれば国が成り立たなくなる、その程度・規模の話である）、必要なのは、経済に人工心肺をつけて、何とかして血液を循環させることだ、となるはずである。経済の血液とはもちろんカネであり、したがって、何とかしてカネを流し続けねばならない。（カネの流し方には、個々人に対する現金給付や所得補償など、家賃支払い猶予支援や住宅ローン支払い猶予支援、企業への休業補償、納税猶予、など色々やり方があるだろうが、当然ながら、これら諸方策は、経済の死を避けるためには総動員されねばならないだろう。）とすれば、そんなことができるのは、通貨発行権を持っている国、すなわち中央政府以外にはありえない。カネを流し続けるには、当然ながら、カネを刷り続ける必要があるからである。というふうに考えてくれば、今、例えば日本国政府がやろうとしていることがどれほどうすのろ間抜けかは、明々白々となるだろうと思われる。今の政府は株価対策しかしておらず、実体経済の収縮という、まさに今回新型コロナウイルス感染症の流行との関連で（より正確には、流行を防止するための外出抑制との関連で、と言ってよいだろうが）生じた状況に対しては、ろくな対策を打ってきていない。<br><br>　これに対して、確かに今は経済が大不況に入るとば口にあるが、としても経済が心肺停止状態だなどとは大げさにすぎる、といったような見方があるだろうか。このような見方のほうが正しければ、今日本国政府がやっているような政策（総額108兆円だか117兆円だか知らないが、その相当部分は今後の景気の回復局面で効いてくるような内容であるらしい、そういう政策）でも、或いは容認されうるのかもしれない。しかし、どうだろうか。人口の大半に対して家にとどまれ、外出するな、と言っておいて、それでも経済活動が止まらないと考えることは、よほどの能天気でしかありえないだろう。しかも、今の経済で動いている部分（食品を販売するスーパー等、それから運送業、そしてもちろん病院、など・・・あとどれくらいの産業が果たして現時点で「動いている」と言えるのか？）は、決して盤石な形で動いているわけではなく、例えば郵便局で感染が判明したりすると、当該郵便局は少なくとも数日閉鎖に追い込まれたりと、vulnerableな形で動いていると考えるほうが正しい。そしてさらに、外国からの輸送にも今や大きなブレーキがかかっており、しかも多くの外国も日本と同様に大幅な経済収縮に見舞われているわけだから、現在の外出抑制の状態がさらに数か月続けば、今はまだ流通しているような物資すら不足してきても決して不思議ではない。といったことを考えるなら、今の経済は極めて深刻な状態にある、と考えるほうが妥当なように筆者には思われる。<br><br>　なお、仮に今の経済が心肺停止状態にある、ないしは、ほとんど心肺停止状態にあるとして、カネを刷り続けて供給し続ければどうなるか。もちろん、確実にインフレが起こる。しかも、これまでに安倍政権のもとで（円安誘導以降）起こってきていたインフレとは異次元の（つまり、比べ物にならない）インフレが生じるだろう。これ自体は大いに問題である。しかし今は、カネを刷り続けて供給し続けなければ、経済は心肺停止から死に至ってしまうだろう。なので、これをやらないわけには行かない。したがって、やった上で、インフレが起こったところで、対策を考えねばならないのだろう。これは、或る種、地獄ないし修羅場に突っ込むことを覚悟せねばならないというような話ではないかと思う。<br><br>　そしてさらに言えば、仮に外出抑制が緩和できるような状態になった時には、その時にはその時で、経済活動を回復の軌道へと乗せるために、やはり大幅な財政出動が必要となるだろうと思われる。そしてこれまた、確実にインフレを起こすことであるだろう。<br><br>　そして、巷間言われているところ（かつ、筆者から見て正しいと思われること）によれば、感染症は第1波では終わらない可能性があるという。だとすると、その感染流行の波に合わせる形で、今後の経済は、人工心肺の取り付け→（外出抑制の緩和期に）大幅な財政出動、を繰り返さねばならなくなるのかもしれない。そういうことで果たして国家財政が、また経済それ自体が、持続可能であり続けるのかどうか。これは、もちろん経済の門外漢には予測しようもないことである。</font><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/orchr/entry-12925010574.html</link>
<pubDate>Sat, 25 Apr 2020 04:48:10 +0900</pubDate>
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<title>実はアベノミクスは全然成功していないのではないか？</title>
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<![CDATA[ <p><br><font color="black" size="4" style="line-height:160%;">　「アベノミクス」とやらを表題に掲げるからといって、本ブログの著者（以下、筆者で通すことにする）が別に経済の専門家でなどないことは改めて言うまでもない。つまり、以下に記すことは、言ってしまえば、非専門家のたわごとと言えなくもない。であるから、以下に記すことが、特段データの裏付けを伴っていないとしても、所詮「たわごと」なのだから、別にどうということはないだろう。<br><br>　但し、自分がこれから書くことを予めここまで貶めておいてから言うのもなんだが、主観的には、以下に述べることこそが日本経済の現状を最も的確に言い当てているのではないか、と考えている。なぜかというと、以下に述べることに照らして考えることによって、経済の状況をめぐる様々な疑問が氷解するように思われるからである。といっても、筆者ごときが抱えている疑問など、そもそも疑問と呼ばれるに値しないものなのかもしれず、そういうところまで蒸し返せば話はごちゃごちゃになり、収拾がつかなくなるだろうが。<br><br>　とはいえ、一言だけ、以下に述べることのありうべき「効用」について記しておきたい。つまり、物事というものは、仮に多くの事実を集めたとしても、何らかの見方或いは視点から見なければその真相が見えてこない、ということが往々にしてあるのではないか。そして筆者は、以下に記すことがその「見方或いは視点」を提供しているのではないか、と考えているのである。<br><br>　前置きはこのくらいにしておく。<br><br>　とにかく、「実はアベノミクスは全然成功していないのではないか？」、これが以下の議論のまとめである。筆者の立場からすると、そもそも安倍政権という政権は史上最悪の政権だと言ってよく、2012年末に発足して以降、2013年の特定秘密保護法成立、2015年の安保関連法制、2016～2018年の統合型リゾート整備推進法（カジノ解禁法）及びIR実施法案などなど、安倍政権が成立させてきた法律はろくでもないものが際だっている。さらに、森友学園問題や加計学園問題などで明らかになったように、政治の私物化も著しい。そもそも、筆者にとって最も気に食わないのは、（これは安倍晋三だけの問題ではないが）世襲政治家が現政権では（というよりむしろ、そもそも自民党では）幅を利かせている、という点であり、たぶんその点とも関連してだろう、安倍首相には民主主義の何たるかがわかっていない、と思わせられることが非常に頻繁にある。<br><br>　しかしながら、世間では安倍政権への評価は概して高く、そのことは内閣支持率の高さ（一時期30％台にまで落ちたことはあるが、大抵の場合には40％以上を保っている）に窺われる。そしてその高さの由来は、やはり政権の経済政策、すなわちいわゆるアベノミクス、への評価の高さにあるのだろうと思われる。そして筆者も、こと経済に関しては、少なくとも多少は安倍政権の功績を認めねばならないか、という考えをごく最近まで持ってきた。<br><br>　しかし、その高評価が実は全くの誤りなのではないか、というのが以下に述べたいことである。つまり、安倍政権の期間における経済の好循環と見えるものは、実は政権の施策とはほとんど関係がなく、まず答えを言ってしまえば、いわゆる団塊の世代の現役引退という事柄の影響が極めて大きいのではないか、これが筆者の見立てである。<br><br>　団塊の世代の現役引退の影響ということを、これまで考えてこなかったわけでは必ずしもない。ただ、最近になって気づいたのは、この影響の効き方が、実は通常考えられているよりも長期に及んでいたのではないか、ということであり、かつそのことの理由である。<br><br>　つまり、団塊の世代と言えば、1945-1950年に生まれたベビーブーム世代のことであり（ウィキペディアによれば1947-1949年と、幅がもう少し狭いようだが、まあ似たようなものだろう）、60歳定年で考えればその引退の時期は2005-2010年、65歳定年で考えれば2010-2015年ということになり、安倍政権の期間（2013-2019年）とは、引退の時期を遅めに考えれば一部重なるものの、それでもなお重ならない部分もあるように見える（つまり、2015年以降が重ならない）。しかしながら、大学生の就職状況は今年3月卒業の新卒に至るまで好調が続いており、誰しもこれは、経済が好調な結果だと思いたくなる（し、通常は、就職状況の良さは経済の好循環と重ね合わせて理解されるのがふつうである）。そしてこれが、アベノミクスの効果なのだと。<br><br>　しかし、そうではない、と筆者は考える。つまり、就職状況が2015年以降も好調なのは、実はそれまでの期間に既に起こっていた団塊の世代の現役引退という現象を受けてもなお、企業がその引退者の数に見合った採用をしてこなかった（つまり、採用を先延ばしにしていた）からなのではないか。なぜ採用を先延ばしにしていたかと言えば、経営における固定費の代表格である人件費は、企業としてなるべく増やしたくなかったからである（特に昨今の、国内市場が全く成長しない状況においては）。そして、その先延ばしがついに限界点に至ったため、やむなく採用増ということになり、そこで、大学生の就職状況が好転したのではなかろうか（それにもともと、今の年々の就職期の大学生の数は、その年々の団塊の世代の引退者数よりも遙かに小さいはずである）。<br><br>　昨今では、景気拡大が戦後最長になるかどうかという話題が語られたりしているが、ここで言う「景気拡大」の実態は、特に就職状況の好転という、好景気を実感させる事柄だと往々にして解釈されやすい現象は、実はそのかなりの部分が団塊の世代の現役引退の影響に由来しているのではあるまいか。また、輸出入に関する部分では、つい最近まで高度成長を遂げてきて最近ようやくそれにブレーキがかかってきた（といってもまだ年率6％の成長だそうだが）中国の影響が大きいのではないか。どちらも、アベノミクスとは無関係の要因である。<br><br>　アベノミクスの中で行なわれてきた施策で明らかに企業の業績好転に資しているもう1つの事柄は、日銀による株式買い支えであり、これは確かに、東証市場を2万円超えにしているという意味で、企業の業績好転に資していると言える。しかしこれは明らかに禁じ手であり（中央銀行が株式を大量に購入するなど、世界の他のいかなる国の中央銀行がやっているだろうか）、遠からず瓦解するので、これを「アベノミクスの功績」と考えることは全くおかしいと筆者は思う。<br><br>　としてみると、アベノミクスとして打ち出された施策のうち、論評に値する政策であってかつ効果を挙げた政策とは、金融緩和による円安誘導だけだろうと思われる。ただ、周知のようにこの円安誘導の効果はせいぜい数か月しか持たず、しかもこれによって一息つくことができた（息を吹き返すことができた、とまで言わないとしても）企業とは、旧来型の大企業（経団連で今なお幅を利かせているような）だろう。してみると、この円安誘導には確かに効果があっただろうが（この点は、安倍政権が大嫌いな筆者でも認めるほかない）、しかしその効果は、日本経済の旧来の構造を多少長続きさせることでしかなかったのではないか。ここまで考えると、これもまた、「アベノミクスの功績」と言えるかどうかは極めて疑わしい。今の日本に最も必要なのは、国の存続のために新たな産業（具体的には例えば、再生可能なエネルギーを作り出す産業）を育成することなのだろうから。<br><br>　最後に、なぜアベノミクスの失敗という言い方にこだわるか、という点について記しておきたい。自分で調べたわけではないが、私がいくつか聞いた話の中には、安倍政権の時代には実質賃金は下がり続けている（或いはほとんどの期間マイナス）、という話がある。これがでたらめだとは私は思わないのだが（というのも、賃金が上がらず、円安の影響で食料品価格が上がるということは、確かに自分自身の生活の中でも経験してきたことなので）、ならばなぜ世間は安倍政権の経済政策を好感しているように見えるのか（その1つの要因は、上でも触れたように、就職状況の好転なのだろうが）、というところがこれまで長い間腑に落ちなかった。この点は、以上に記したように、各企業の抑制的な採用政策と関連するところの、団塊の世代の現役引退の影響の長期化、という見方によってこそ説明できるように、今や筆者には思えるのである。</font><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/orchr/entry-12925010573.html</link>
<pubDate>Tue, 19 Mar 2019 21:05:30 +0900</pubDate>
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<title>現実の仮想現実化？</title>
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<![CDATA[ <p><br><font color="black" size="4">　本ブログは、著者たる私自身がこの前にいつ書いたかを忘れた頃に、やおら思い出して何がしか書きつける場所になりおおせているが、今回もまた、何がしかを書きつけることにする。書きたいことは2つあるので、それぞれ1項目ずつ書いておくことにする。<br><br>　書きたい1つのこととは、タイトルにあるとおりで、我々人間の生活においては今や、現実それ自体が仮想現実化しつつあるのではないか、ということである。これは何も、いわゆるVR（仮想現実）に関する議論をしたいということではない。逆であり、現実がその現実たる重みを失いつつある、或いはむしろ、空洞化させつつある、のではないか。これがこの記事で言いたいことである。<br><br>　より具体的に言うと、このブログ自体がそうだが、我々のしていることは今や大幅にインターネット上、或いはPC上での事柄となっている。そしてもちろん、インターネット上、或いは個々人のPC上では、実に多くのデータが生産され、保存されている。当然ながら、これはもちろん、或る意味で現実を成している。<br><br>　但し、である（ここからが今回言いたい話となる）。我々にとってのその現実は、我々が触れることができるものだろうか、手に取ってその重みを感じることができるものだろうか、さらに言えば、それは、我々が書き散らし或いは作り出したあとで、そのまま自存するものなのだろうか。つまりそれら現実は、当の現実が作られたあと、そのまま保存されうるものなのだろうか。インターネット上のデータ、或いはPC上のデータは、そういうものにはなっていないように思われる。これが、今回の記事で問題にしたいことである。<br><br>　つまり、インターネット上のデータ、或いはPC上のデータは、保存性の点で直ちに完全とは言えないという意味で、その現実性が必ずしも十全でない、そういう代物なのではないか。そしてそういうデータ（電子データ）は、現実性の点で十全性を欠く、その欠如の度合いの分だけ、現実から仮想現実へと言わば転落しているのではないか。そして現代社会は、そのような意味で現実としての十全性を具備していない現実（つまり、その分だけ言わば仮想現実的な「現実」）を日々大量に生産しているのではないか。<br><br>　そのような仮想現実的な現実、或いは不完全な現実が日々生み出されることは何を意味するか。個々人にとって現実とは、それが生み出された直後から、その個々人が生きたことの言わば証しとなる。例えば誰かに手紙を書いた（そしてそれを送った）という場合、その手紙という物は、それが書かれ発送された直後から（念のため一応書き加えると、その手紙が廃棄されるまで）、それを書いた者にとって（或いはさらに、受け取った者にとっても）自分の生の証しになると言ってよいだろう。そして無論、eメールもそういうものでないわけではない。ただ、eメールの場合には、それを保存する、さらに言えば、保存し続けるための労力が必要となる（データのバックアップを取る、等々）。<br><br>　つまり手紙は、それを収納しておく場所さえあれば、人間が手間をかけずとも、言わば勝手に存続し続けてくれるが、eメールは、そうはいかないのである（さらに言えば、メールソフトを変更などしようものなら、データのバックアップがあっても、それをさらにテキストファイルに変換して保存でもしなければ、当のメールは閲覧不可能となることも少なくない）。そしてもちろん、保存したつもりでも、保存媒体たるハードディスクが劣化すれば、データが取り出せなくなることも充分ありうる。そもそも、ハードディスクでの保存などという方式がどれほどの期間にわたって有効か（例えば、何もせずに放っておいて20年間保存可能ということがありうるだろうか）、などということは、たぶん人類は未だに良くわかっていないのではあるまいか。インターネットの利用が本格化（大衆化という意味で）してからまだ30年も経っていないのだから。紙での保存（言うまでもなく、この保存方式は、誰でも実行できるたぐいの、極めて容易な方式である）が、酸性紙の場合には数十年で相当劣化するだろうが、中性紙であれば（よほど湿気の多い環境なら話は別だろうが）ふつう少なくとも百年ぐらいはもつのではないか、ということを思えば、彼我の違いは実に大きいと言わざるをえない。この違いを、当の現実の、言わば「現実度」の点での違いと理解することは、決して失当でないと私は思う。<br><br>　というふうに考えてくれば、次のように言える（というよりむしろ、言わざるをえない）のではないか。つまり人類は、インターネットが本格化（大衆化という意味で）して以降（1995年ごろがその節目ではなかったかと、私のようなIT素人としては考えたいところだが）、現実の度合いを低下させる（言い換えれば、この記事のタイトルで記したように、現実を仮想現実化させる）ことに踏み込み、しかもその踏み込みの際、事物の保存に関して人類の英知を結集させてそれなりの方式を見いだした上で踏み込んだのでなく、むしろ言うなれば出たとこ勝負で、はっきり言えばでたらめかつやみくもに、踏み込んでしまったのではないか。<br><br>　これで良いのだろうか、というのがここで記しておきたい問いである。<br><br>　もちろん、このような問いかけに対しては、いろいろな反応が可能だろう。私個人に即しても、自分が生み出したものとやらをすべて残しておきたいかと言えば、そんなことはないわけであり（これまでの人生の中では、恥多きものをいろいろ生み出してきており、それらを残したいなどとはつゆも思っていない）、むしろすっかりなくなってくれるほうがすっきりする、という面がないわけではない。また、最重要データに関しては、どこか然るべきところ（日本で言えば例えば、国会図書館）がきちんと保存してくれているはずだ、と思いたいし、そうなっているはずである。しかし、最重要データではないが、かといって全く無意味というわけでもないデータは世の中に山ほどあり、そしてそれらの中には、相当期間保存されるべきものもあるのではないか。ところが今日では、それらは必ずしも現実度が十全でない仕方で日々生み出されており、それらがしかるべく保存されるためには、人間はもっと現状よりも遙かに多くの知恵を、しかるべき保存のために用いなければならない（つまり、そのような配慮をしなければならない）のではないか。そしてそのような配慮が果たして行なわれているかと言えば、少なくとも私には、そういうふうには到底思えないのである。<br><br>　この内容については、もっと書くべきこともいろいろあるだろうが、この程度にしておく。</font><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/orchr/entry-12925010570.html</link>
<pubDate>Thu, 03 Jan 2019 23:14:29 +0900</pubDate>
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<title>日本におけるジャーナリズムの存続可能性をめぐって</title>
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<![CDATA[ <p><br><font color="black" size="4" style="line-height:160%;">　<a href="http://jcj-kansai.blog.jp/archives/10004550.html" target="_blank">「破綻寸前の新聞販売店－現場からの叫び」という題のブログ記事</a>を目にし、そこにコメント欄があったので、おせっかいにも少々コメントを書いてみようかと思い、かなり長文をものしたのだが、いざコメントを投稿しようとしたところ、どうやらコメントが受け付けられない設定になっているらしく、掲載が叶わなかった。それならコメント欄など設置するなと言いたくなるが、それはともかく、せっかく長々と書いたものをどこにも載せずにそのまま捨ててしまうのも惜しい気がしたので、自分のこの場所に掲げることにした。相当個人的な内容が入ってしまっているが、とはいえまあ良いかと思う。<br><br>（以下、当のコメントとして書いたもの）<br>－－－－－－<br>　既に1か月以上前に記された記事のようですが、コメントを付してみたく思います。もちろん自分の状況を踏まえてですが、自分の状況だけを踏まえているわけでは必ずしもありません。<br><br>　まず率直に言うと、現状では紙の新聞は読む気になりません。購読はしているのですが、それは、インターネットで当の新聞（正確に言えば、当の新聞のWebサイト）の記事が無制限に見られるようになるための手段でしかなく、したがって紙の新聞は、配達されても紙の山として積み上がっているのが現状です。<br><br>　では、紙の新聞を（広告チラシを折り込んで）売るのが仕事である新聞販売店には展望はないのか。これについては、書いておられるように（具体的なことは良くわかりませんが）経営の多角化は不可欠ではないでしょうか。ただ、それだけでなく、紙のチラシには今でも全く価値がないわけではないという気もしています。<br><br>　例えば私自身、郵便箱に単独で投げ込まれていたチラシ（例えばピザ屋のチラシ）を見て、注文したことがないわけでもなく、また、最近ではスーパーのチラシが当のスーパー自身の店頭に置かれており、それを持ち帰ることもないわけではありません。つまり例えば、新聞を配達するのと同時にチラシを配達し、その際チラシをあえて折り込まずに別に単独で配るようにするほうが、広告の宣伝効果は高いのかもしれません（保証の限りではありませんが）。<br><br>　また、日本人の習性として、多少お得なこと（しかも、当たる確率が相当高いこと）には手を出したがるというのがあるように思いますが、そこを狙って何か企画することができないものかとも思います（これはもちろん単独では無理で、新聞本社を巻き込むか、地域の商店街或いはスーパーと協力するといったことが必要になるかもしれませんが）。その意味では、よく新聞本体のほかに地域ごとに編集・発行されているタウン誌的なものは、使い方次第では客寄せに効果を発揮するのではないかとも思います。<br><br>　その他、最近では定期購読の雑誌の取り置きをしているコンビニを見かけますが、これは本来、新聞販売店のほうが得意なことではないでしょうか。コンビニに持って行かれるのは惜しい気がしてなりません。そしてこの場合にも、単に購読というのではなく、（何らか提携をした上で）最初の1か月間は購読料をただにするとか、何かそういうオマケが付くことが重要ではないかと思います。具体的に言えば、私は現在『週刊金曜日』を購読しており、直接郵送されて受け取っていますが、これが新聞販売店から配達されても当方としては全く困りませんし、むしろそのほうが、いろいろな意味で良いのではないでしょうか。自社のだけでなく多種多様な雑誌を、自分にかかわりのある新聞販売店が取り扱ってくれれば、もっといろいろ購読する気になる人も出てくるのではないでしょうか（もちろん、財政上の制約はありますが）。<br><br>　話がジャーナリズムから相当逸れてしまいましたが、ジャーナリズム自体に話を戻すと（紙の新聞というところから若干逸れてしまうことをお許しください）、無料でかなりの記事・情報が入手可能となっている今日では、有料会員になって有料記事を読もうというのは相当ハードルの高いことであるように思います。また、私自身は以前、紙の新聞を購読するほかに、自分の住んでいる地域の新聞でない新聞を、その報道姿勢に共感するという理由で電子版で一時期購読したことがあります（と言えば、何新聞のことかはだいたい見当がつくでしょうが、あえて名前は申しません）。これをやめた理由は、一言で言えば、やはり購読料が高い（高すぎる）と思ったから、ということに尽きます。月4000円程度（したがって1年で5万円弱）を支出するというのは、やはり相当の負担になります。この負担をあえてしようと思うには、報道姿勢に共感するだけでなく、やはり、有料会員になったことで得られるメリットが相当あるのでなければ、困難ではないでしょうか。（と言いつつ、やはり、もう少し安くなってはくれないものか、という思いは禁じえませんが。）<br><br>　そしてそれを紙の新聞に結びつけるためには、やはり、現状各新聞で行なわれているように、有料会員資格を紙の新聞の購読とリンクさせることが絶対に必要だろうと思われます。<br><br>　してみると、確かに斜陽になりつつあるとはいえ、新聞各社は一応はやるべきことをしているのではないかとも思えてきます。となるとあとは、現在無料で記事・情報に接している広範な人々に対して、だめもとでも、情報の重要性とその取得のために取材・記事執筆等々でカネがかかることとを説き続けて、情報に対して対価を支払うように仕向けるよう、いろいろな人々が（新聞「社」だけでなく、各社の記者たちや、その他もろもろの人々が）啓蒙活動をすることが重要ではないでしょうか。<br><br>　大したことを書けていませんが、この程度しか思い浮かびませんでした。悪しからずご容赦ください。<br>－－－－－－<br><br>　我ながら大した内容でないことに忸怩たる思いを禁じえないが、それでも日本はまだ、くだんのブログ記事が「破綻寸前」と嘆いている新聞配達網が、破綻寸前だとはいえそれでも現存しており、それだけで世界の他国よりも（権力批判を要諦とするジャーナリズムの維持という意味で）遙かにましな状況にあるのだ、ということは言っておかねばならない。<br><br>　まともな（つまり、権力批判を行なえる）ジャーナリズムの存在意義を理解する人々が、自らそういうジャーナリズムを支えるべく購読者になるなどするように、そしてそういうことをする人の数が増えるように、と願わずにはいられない。</font><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/orchr/entry-12925010569.html</link>
<pubDate>Wed, 18 Jul 2018 00:00:46 +0900</pubDate>
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<title>今こそ民主主義的なプロセスが尊重されるべきなのではないか</title>
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<![CDATA[ <p><br><font color="black" size="4" style="line-height:160%;">　米大統領選について書いた前回の記事で、トランプが勝利して云々ということを書いた。無論そんな事態になるはずはないだろうという、ほぼすべての人（識者であれそうでない人であれ）が予想したのと同じ予想を念頭に置いて書いたのだが、事実はと言えば、周知のとおり、果たしてトランプが当選してしまった。そして、今（1月30日現在）起こっているのは、おもに対外関係に関する案件でトランプがめちゃくちゃな大統領令を連発し、世界に大混乱が生じつつあるといった事態である。これはこれで、事柄によっては緊急に論評（そして批判）が必要なものもあるだろう、そういう大変な事態である。しかし、本ブログの著者はもちろんアメリカ情勢の分析の専門家などでは全くないし、前回の記事で書いた内容自体（基本的にアメリカ国内の問題、特に格差問題）は、トランプ大統領就任から現在に至るまでの一連の騒動ではまだ俎上に上っていないと理解することができる。そこで、アメリカについての論評は他日を期することとし、今回は全く別のテーマで書いてみたい。<br><br>　それは何かと言えば、今こそ民主主義が、或いはより正確に言えば、民主主義的なプロセスが、あらゆる面において、これまでよりも遙かに重要なものとして、尊重されるべきなのではないか、ということである。民主主義的プロセスの重要性というのが今回書きたいテーマである。<br>（もちろんながら、このテーマは、今アメリカで起こっていることと全く無縁というわけでは決してない。というのも、トランプが現在乱発しつつある大統領令なるものは、一応アメリカという民主主義国家の中にある制度だとはいえ、民主主義的プロセスの結晶として出てきているものでは全くないのであり、本ブログの今回の記事が書くことは、そのような大統領令の乱発に対する批判たりうるからである。しかし、今回の記事の眼目はそこにはない。）<br><br>　民主主義的プロセスとここで言っているのは、より具体的には、議論（ありうべくんば、徹底的な議論）と、それによる納得（ありうべくんば、広範な人々による納得）の形成、ということである。言うまでもなく、このようなことを実行・実現するには時間がかかる。そして現代人にとって、時間のかかることぐらいいやなことは他にそうそうない。<br><br>　しかしそれでも、今こそ、民主主義的なプロセスが重視されねばならないと思う。それは特に、生命科学の発展と、AI研究の発展を前にした時に、強く思われることである。<br><br>　ここまで書けば、言いたいことはほぼ自明だろう。つまり、生命科学の発展も、AI研究の発展も、それぞれ人間の生活を根底からゆるがしかねない可能性（ポテンシャル）を持つ発展であり、その可能的な影響の甚大さを思えば、それぞれを専門研究者による開発（→発展）だけに委ねておいてよいはずがない。私見によれば、まず生命科学（なお、生命科学という言い方は曖昧だろうが、もちろんあえて曖昧に言っているのであって、遺伝子関係の研究も、脳科学関係の研究も、共にこの言い方の中に含められるべきである）の発展については、その一々の展開について、専門研究者以外も交えた倫理的な検討が行なわれるべきだった（実際には必ずしもそうはなっていない、という印象が否定できないが）。などとわかったようなことを書いているが、もちろん筆者自身は生命科学に対しては全く無知である。だが、そのような無知な人間でも、行なわれるべき倫理的な検討についての判断ができないわけではないのであり、だからこそ、そのような検討が公知のもとに行なわれるべきであり、そしてその検討結果が広く周知されるべきである、ということをここでは言いたいのである。<br><br>　無知な者は口をつぐんで、専門家が良識に従って行動するのを見守ればよい、と批判する者があるだろうか。言うまでもなく、そのような批判をする者こそが奢り高ぶっており、誤っている。大多数の人々が無知な中で、専門家が良識に従って行動するのを言わば見守っていたからこそ（実際には無論、「見守って」などはおらず、単に知らなかったのだが）、人類は核兵器の開発を阻止できなかった。そして、生命科学の発展がもたらしうる危険は、無知な筆者の想像によれば、核兵器がもたらしうる危険に決して劣らない。そして、いったん危険がもたらされてしまえば、核兵器の危険が人類全体に及びうるように、当の危険は人類全体に及びうる。核兵器の例があるのだから、いかなる専門家が、危険は人類全体には及ばないなどと言ったところで、どうしてその言葉が信用できるだろうか、信用など決してできないのである。<br><br>　2010年代になって顕著な進展を見せつつあるようであるAI研究についてもやはり同様のことを、すなわち、その一々の展開について、専門研究者以外も交えた倫理的な検討が行なわれるべきだ、ということを言いたい。既に知る人ぞ知るように、AIが発達すれば、現在人間が担っている相当の職種をAIが担当することが可能になり、その結果多くの人間は失業することになる。これを楽園の到来と夢想する輩も世の中にはいるのかもしれないが、間違いなく、それは楽園の到来などではない。よく言われるように、人生は何事かを成すには短いが、何もしないで過ごすには長い。人生の中で一番重要な「何事か」であるのは、ふつう仕事であり、それを奪われるということは、多くの場合、生きがいを奪われることを意味すると言ってよいだろう（もちろん、人生で一番重要なのは仕事以外の何事かであり、それをするために、口に糊するために仕事をしている、という人も或る程度、少なからず、世の中にはいるのかもしれないが、その場合でも、仕事が奪われれば、生計の道が失われ、当の重要な「仕事以外の何事か」も実践できなくなるのではなかろうか）。これについても、無知な者は口をつぐんで、専門家が良識に従って行動するのを見守ればよい、と批判する者は奢り高ぶっており、誤っている。言うまでもなく、AIの発展がもたらしうる危険は、人類全体に及びうるからである。<br><br>　筆者がここまで書いてきたことだけを見れば、筆者はAI研究の発展に対しても、生命科学の発展に対しても、否定的な見方を持っている、と思われるかもしれない。実際、筆者個人に即して言えば、筆者の見方がそれら発展に対して否定的であることは事実そのとおりである。ただ、ここで問題なのは筆者個人の見方などではない。つまり、筆者自身がどういう考えを持とうが、生命科学は日夜発展を続け、AI研究も日夜進展する。<br><br>　さらに言えば、生命科学の発展を切望する人も世の中にはいるだろうし（例えば難病をかかえている人本人や、或いはそういう人を家族の中にかかえている人）、AI研究の発展を切望する人も世の中にはいるかもしれない（こちらは直ちにはイメージしにくいが、例えばAIの発展によって一層の蓄財が可能になると考えている拝金主義者あたりか）。<br><br>　ただ、ここで今一度この文章を上から読み返していただきたいのだが、筆者がこの文章で言いたいのはあくまで、議論と納得の重視ということである。生命科学の発展やAI研究の発展をだめだと言っているのではなく、その発展の際に議論と納得ということがもっと、今よりも遙かに重視されるべきだ、と言っているのである（筆者自身の考えをわきに置いてこう言っているつもりである）。<br><br>　なぜか。言うまでもなく、一々の議論という手間をかけることによって、そういう発展のスピードを遅くして、そういう発展への人間の適応度を高めることが重要だと考えるからである。<br><br>　念のために言えば、発展のスピードを遅くするための方法は、議論だけではない。極端なことを言えば、そういう研究をやっている施設を破壊することによっても発展のスピードは遅くなりうるだろう。また、その他にも方法はあるかもしれない。しかし、当然と言うべきだろうが、議論こそが、発展のスピードを遅くするための方法として最良だと筆者自身は考える。<br><br>　つまり、今回の記事で筆者が最も言いたいことは次のようになるだろうか。すなわち、民主主義とはもともと、人間が自分のことを自分で決定できるようになるための思想にして方式だと言えるが、今や民主主義は、人間が自分のことを自分でゆっくり（とはすなわち、充分納得が行くまで時間をかけて）決定できるようになるための方式なのだ、と。減速のための機構（メカニズム）という意味は、もともと民主主義の中には込められていなかったのではないかと思われるが、今の世の中ではこの意味合いは、極めて重要になりつつあるように筆者には思われる。</font><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/orchr/entry-12925010566.html</link>
<pubDate>Sun, 29 Jan 2017 23:40:34 +0900</pubDate>
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<title>米大統領選挙の行方――と言うよりむしろ、どういう結果を見たいか</title>
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<![CDATA[ <p><br><font color="black" size="4" style="line-height:160%;">　唐突だが、来たる11月8日に投票が行なわれる米大統領選挙の行方について書いてみたい。と言うよりむしろ、どういう結果を予測するか、否さらに言えば、どういう結果を見たいか、について書いてみたい。<br><br>　なぜかと言うと、どういう選挙結果になろうとも、今回の米大統領選挙は後々、それまでの選挙の中でも最悪の選挙と位置づけられるであろうという気がしてならないからだ。そしてそう思うのは、選挙のあとに起こるであろう展開が、選挙結果がどうなろうとも、ひどいものにしかならない気がしてならないからである。そのあたりを書いてみたいと思ったというわけである。<br><br>　現実的には民主党の大統領候補のヒラリー・クリントンが選挙に勝つ可能性が高いだろう。では、クリントンが勝ったらどうなるか。<br><br>　この問いへの答えを書く前に、周知のことを確認しなければならない。今回の大統領選では、共和党の予備選でトランプが勝利し、民主党の予備選でサンダースが躍進し大健闘するという事態となった。言うまでもなく、トランプの勝利とサンダースの健闘とは同根であって、その根にある事態とはつまり、グローバリズムの進展に伴う格差の拡大が、グローバリズム発祥の地であるはずのアメリカ自体の国内でも極めて深刻になってきている、ということである。アメリカの政治の二大政党のどちらの予備選においてもこの問題が言わば発現した（トランプの勝利とサンダースの健闘という形で）、というところから見て、この格差拡大という事態がアメリカ社会にとって深刻な問題でないということはありえない。したがって、新たに選ばれた大統領は、この深刻な問題に向き合うことを何よりも求められるであろう、と言って間違いない。<br><br>　では、クリントンが大統領に選ばれたらどうなるか。クリントンは、この深刻な問題に真剣に向き合うとは思えない。言うまでもなく、金融関係や大企業などから多額の政治献金をもらっている政治家が、そういうスポンサーに不利になるようなことをするはずがないからである。クリントンはこの点を副大統領候補の人選によって明確に打ち出しているように私には思える。すなわちクリントンは自分の選挙パートナーとして、サンダースを選ばなければ、社会派とされる他の政治家（例えばエリザベス・ウォーレン）をも選ばず、当たり障りのない候補を選んだ。自分がすべてを仕切るためだろう。そしてその仕切り方がどうなるかは、政治献金の状況から火を見るより明らかである。<br><br>　これによって、クリントンの大統領の4年間の間に、格差問題は一層深刻になるだろう。そうすると、4年後の大統領選挙では、トランプよりもっとひどい人間が、もっと力を得た形で台頭してくる可能性すら否定できないのではなかろうか。そしてもちろん、そうなるまでに、クリントンのもとで多くのアメリカ国民の幻滅は増大するだろう。これが何を惹起するかは、私の想像を超えている。<br><br>　そして実を言えば、私はクリントンが米大統領になるのを見たいとは思っていない。その理由は、今しがた書いた「想像を超える」事態が起こるのを目にしたくはないから、ということである。<br><br>　ならばお前は、あのトランプが大統領になるのを目にしたいのか。それこそむしろ、アメリカの大混乱の幕開けとなるのではないか。こう問う人がいてももちろんおかしくない。そしてもちろん、私も大混乱の可能性を決して否定しないし、そもそもトランプが大統領としての資質を充分持ち合わせているなどとは毛頭思っていない。<br><br>　しかし、ではなぜトランプが米大統領になるのを目にしたいのか。それは、アメリカという国家（或いは社会）が格差問題に向き合う様を見てみたいからである。トランプ自身が本当の意味で格差問題に向き合えるなどと思っているわけではないが（そのための役者としてはバーニー・サンダースのほうが遙かに適していた）、あれだけこのテーマによって人々を惹きつけ続けてきた人間が何もやらないというわけには決して行くまい。したがって、少なくともトランプはクリントンよりも遙かに、格差問題を始めとする国内の社会問題に向き合わざるをえなくなる。<br><br>　そして、トランプがそうしたとして、彼はもちろん成功しないだろう。当然であって、大統領ひとりが変わったぐらいでアメリカの既成勢力（エスタブリッシュメント）がぐらつくわけがないのである。また、トランプの本気度も大いに疑問だと言ってよい。ただ、何もやらないわけにはいかない。<br><br>　その結果何が起こるか。トランプに期待した多くのアメリカ国民は、クリントンが大統領になった場合に人々が感じるであろう幻滅よりも、遙かに大きな幻滅を感じることになるのではあるまいか。トランプに対してかすかな期待を持っていた人々にとっては、そのかすかな期待が絶望に変わる機会となるかもしれない。<br><br>　しかし、もしアメリカが格差の問題に本当に向き合おうとするなら、この幻滅は必ずくぐらなければならないはずである。つまり、大統領を変えるぐらいではだめで、少なくとも議会をも変えねばならず、さらに言えば、議員に企業のロビイストが群がるような今の状況を抜本的に改めなければ、真の意味での変革はおぼつかない――このことにアメリカ国民、より正確に言えば、格差問題で苦しむアメリカ国民は、気づく必要がある。<br><br>　つまり、私が今回の米大統領選の結果として一番目にしたい事態とは、アメリカ国民自身がゲテモノを大統領に据えることによって、大統領を変えたぐらいでは自分たちの問題を解決することはできないということに気づくこと、言い換えれば、政権交代の限界を痛切に知ること、これなのである。<br><br>　言うまでもなく、以上書いたことは日本にも相当程度当てはまる。必ずしも格差問題だけが理由となってではなかったが、数年前、日本は政治の変化に期待して、戦後史上初と言ってよい本格的な政権交代を選挙（正確には、2009年の総選挙）によってもたらした。<br><br>　しかし日本の場合、そのあとが実に良くなかった。社会の様々な問題をもたらしている（悪い）政治を変えるには、事は決して一朝一夕には運ばないのであって、国民は変革を、忍耐づよく、かつ持続的に、支持しなければならない。日本ではこの粘りづよい支持が欠けており、わずか1年で、実質的に政権交代はストップしてしまった（2010年の参院選で衆参のねじれ状態をもたらすことによって）。<br><br>　本来、社会問題に本格的に取り組むためには、政権交代だけでは限界がある。日本の場合で言えば、官僚機構（特に外務省改め「害務省」）が政治を無視して自動運転しているところ（自民党はこの自動運転を、自分が運転しているかのように演じているにすぎない）に一層深い問題があり、ここにメスが入らなければ政治は抜本的に変わらず、したがって社会問題の抜本的な変化はおぼつかない。<br><br>　ということに、国民自身が気づく必要があるのだが、一般の日本人の政治理解はそのようなところには未だ到底及んでいない。そして、再び「永遠の与党」自民党の政権に戻ってしまった今、日本人の政治理解・社会理解が画期的に進展する契機は失われてしまっているかのように見える。もちろん、現在の安倍政権は戦後最悪の政権と言ってよく、この政権がやっている数々の非道を直視するならそれだけでも、個々人が政治理解・社会理解を抜本的に改める可能性はあるはずなのだが、現実はそうはなっていない。<br><br>　このような状況の日本にとって、友好国であるアメリカの国民が苦しむさまを見せつけられることは良いことなのではないかと私は思う。実際、米大統領が誰になるかによっては、アメリカの対日政策が大きく変わる可能性もあるのであり、その面からの日本社会の変化も起こりうる。<br><br>　この件についてはまだ書くべきこともあるかもしれないが、これくらいでいったん終わりとしておく。</font><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/orchr/entry-12925010563.html</link>
<pubDate>Sat, 22 Oct 2016 22:54:59 +0900</pubDate>
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