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<title>私はどのようにして犯罪者になったか</title>
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<description>人生を振り返っています。</description>
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<title>中学三年</title>
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<![CDATA[ <p>グループホームとは、養護施設の職員が独立して普通の家で子供を受け入れ、育てる、施設よりは里親に近い形態の養護施設だ。私は高校受験するため、その施設に移った。<br>Mさんという家族がそれを行っており、Mさん、Mさんの奥さん、まだ小学校低学年のMさんの実子が二人、養護施設から受けいれた子供が男女合わせて5人～6人ぐらいの施設だった。</p><p>場所は横浜の戸塚と鎌倉の大船の間の横浜市栄区にあり、そこから南戸塚中学校に通った。なぜそこの場所が選ばれたのかというと、神奈川県内では比較的中学の荒れが無い地域だったからだと、児相の担当Kから聞いた。一般には公開されない情報だが児相はそのような情報を持っているのだ。住んでいる地域によって学校教育の環境が違うだとか、荒れているだとか進学率だとかに差が出るだなんてことは、皆うすうす気づいていることとは言え、詳細なデータとして役所が一般に公表したら一大事なのだろうから、「どこに行っても一緒」などと嘘の公平性を主張するのだろう。私は、港湾地域ではいじめられた挙句、登校拒否だったのだがこの地域ではとりあえずそのようなことはなかった。いじめがあったら我慢するよりも転地することが解決の一手段として有効なのは明白だ。</p><p>&nbsp;</p><p>私はいままで自由の無い教護院から、比較的自由の高いグループホームに移ったが、高校入試という明確かつ差し迫った目標があったことから、遊びや自由にそそのかされることもなかった。私は高校に入ってから自由を満喫するつもりだった。そのため、高校入試後に訪れるであろう自由を目標に、毎日12時頃まで机にかじりついて勉強する日々だった。グループホームのMさんからは、公立しか受験できない、私立の学費は高いから、公立で落ちたら定時制に行ってもらうと言われていたので、私は公立高校の入試問題だけに絞って勉強した。これはア・テストと同じように基礎的な問題しか出ないので、問題集を一冊買ってきて、解答に載っている解き方を覚えては、何度も問題をやり直すというやり方がそのまま通用した。</p><p>また、当時の中学でできた友人たちも不良のような友達ではなく、おとなしくて勉強に熱心な友達たちで、中間テストなどの後では休み時間に数学の難問の解き方をプレゼンしては感想を述べあうような感じで、嫌々勉強しているというよりも勉強そのものが好きなタイプがあつまるグループだった。より一層勉強を頑張るモチベーションになった。</p><p>中一の時に10日だけ通った大鳥中学校のように、授業中に校庭をバイクで乗り回すような卒業生が来ることも無かったし、生徒が教師を刃物で刺したり、女子生徒が妊娠したから堕胎費用のカンパが回ってきたり、教室の天井を掃除の箒の柄でつつきまわして穴だらけなんてことも無かった。不良も少しはいたがせいぜい変形制服を着て髪を染めてるぐらいで、港湾地区に比べれば大人しい物だった。</p><p>内申点も体育や音楽を除けばオール4に近く、ところどころ5も2～3個あるぐらいの好成績で中学3年は推移した。これまでの人生で最も充実して順風満帆な状態だった。私は中1までの登校拒否の間は毎日TVゲームをやっていたので、当然この当時、スーパーファミコンが出た後なので最新のTVゲームをやりたくてしょうがなかったが、友達の家に遊びに行く機会にちょっと触る程度で満足せざるを得なかった。グループホームにはMさんの方針でTVゲームは置いていなかった。それでも受験のプレッシャーの中、1年我慢すれば解放されるという希望がTVゲームはとりあえず我慢という忍耐力になっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>入試前の模擬試験の点数と判定から、私は戸塚高等学校を選び、受験し、そして合格した。</p><p>その時、高校受験目指して一緒に頑張った戦友たちは皆もっと偏差値が上の高校に進学したが、私は内申の悪さとア・テストの点数から見れば、それでも上等な結果だったし、登校拒否して家庭が完全に崩壊してた中学1年の時に比べれば、大躍進ともいえる結果だった。</p><p>私の中学時代は終わり、そのままグループホームに生活の基盤を置きながら、戸塚高等学校に通うことになった。ようやく訪れるであろう「自由」に希望を持っていた。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/osamuishikawa/entry-12210023228.html</link>
<pubDate>Sat, 15 Oct 2016 22:45:39 +0900</pubDate>
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<title>中学二年</title>
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<![CDATA[ <p>私は逃げられないようにズボンのベルト通しをロープで結ばれ、パトカーに乗せられ、警察署に連れていかれた。私が警察に捕まった理由は、数日前の空き巣が原因ではなかった。その前にも夜に徘徊して、人の家に侵入したところを見られていたのが原因だったが、私は事情聴取はすべてあったことを話しした。数日前の空き巣についてはプロの手口だ、と言われてちょっとうれしかった。警察が言うには、母親は精神病院に措置入院になったとのこと、祖母は親戚と近所の方が葬式してくれるとのことだった。私は未成年で帰る場所もないため、一時保護所に入ることになるということだった。空き巣した家までパトカーで連れていかれて、この家で間違いないか、などと聞かれて詳細を一通り話した後、私はまた別の車に乗せられて、児童相談所に連れていかれた。</p><p>&nbsp;</p><p>児童相談所は大きなコンクリートのビルだった私はその無機質なビルの中の一部屋に連れていかれ、そこで夕食をたべさせられた。とんかつとご飯とみそ汁だったが、何日もまともな食事をしていなかった私には量が多く全部食べられなかった。ご飯を食べ終わると児童相談所のKという眼鏡をかけた30代中盤～40ぐらいのスーツを着た男にいろいろと聞かれた。この人が私の担当ということだった。担当との面談が終わると、続いて別の部屋に連れていかれ白衣を着た人物にテストのようなことをされた。インクの染みが何に見えるだとか聞かれたり、ナンセンスと言葉はどういう意味か、とかそんなことを聞かれた。テストが終わると、私は一時保護施設に連れていかれた。ここで何週間か様子を見て、次にどこに行くのかが決まるのだと言われた。施設はリノリウムの床にパイプベッドが並ぶベッドルームと、その前の廊下を挟んで職員が子供を見張るガラス張りの事務室、さらにその奥には女子のベッドルームがあり、他に食堂や水場などがあり、外には校庭のような柵で囲われた庭があり、柵の向こうには川と星川駅が見えた。その狭い空間に下は乳児から上は中学生まで、家庭で問題のあった子供が集められ、隔離されていた。連れてこられたその日はもう遅い時間で私はベッドに寝るだけだった。</p><p>この後、約一か月間を一時保護所に隔離された後、私は教護院に行くことになった。</p><p>＜この一か月間の間のことは後日ここに追記するかもしれない＞</p><p>&nbsp;</p><p>私の入った教護院は国府実修学校という場所で、七夕で有名な平塚の隣の二ノ宮という駅から離れた場所にあった。一時保護所で更生の必要ありと判断される、つまり悪い子供が入る施設だ。この施設は敷地面積が広大で校庭と校舎が中心にあり、その周りに子供の生活する寮や調理師が料理を作る施設などがいくつも間隔を開けて立っていて、寮の裏の山を登ると子供が農業実習するための畑があった。更生施設なので外に出る自由は無く、完全に外世界とは隔離されていた。私はここでの生活は割と気に入っていた。なぜなら施設職員は威厳に満ちており、不良がちょっと悪さでもしようものならすぐに飛んできて懲らしめてくれるのだ。秩序が完全な場所だったので、私は今までのようにつまらないことでいじめられたり、周りとの比較で精神を使う必要もなくなり、勉強に集中できた。勉強で優秀ならこの施設からも早く出られると児相の担当Kから聞かされてもいたからモチベーションが高かった。この施設は私には理想郷のような場所であったが、同時にこの施設を出ればもっと良い施設に入れると思っていた。私は一般の養護施設の方が良い場所だと思っていたのだ。（だがそれは全くの誤りであった）そのために勉強に励んだ。勉強はア・テスト用の問題集とその回答を中心に行った。ア・テストとはアチーブメントテストのことで、神奈川県では公立高校に進学する際の得点の1/3を決めるテストだ（残り1/3が内申書、残り1/3が入試 = 私は教護院に入っている期間も含めて二年生までの内申が無いので神奈川方式には不利な状況だった)ア・テストまで一年も無い短い期間で、教科書を精読していくようなやり方は遠回りだと思った。問題を見て考えて、回答を見て解き方を練習するような、パズルを解くようなやり方の方が私には楽しかったというのもある。まったく知らなかった英語は苦手だったが、数学は代数の概念を覚えれば何とかなりそうだった。結果、ア・テストは450点満点中320点だった。目標は8割得点の360点だったので少し残念ではあったが3年間分の勉強を1年で取り返すことができたという自信になった。私は高校進学を準備するため中学3年から、グループホームという養護施設に移り、そこから普通の中学校に通うことになった。教護院では院内の学校でいくら頑張ってもそこでの成績表に意味はなかった。在籍しているのは外の世界の学校ということになっているからだ。かろうじて出席日数だけはつくが、外の世界の学校の授業も中間・期末試験も受けていないのだから必然的に成績表はオール１となる。なので、神奈川県では、教護院にいると高校進学の望みは薄くなるので、外の世界に戻る必要があった。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/osamuishikawa/entry-12209059458.html</link>
<pubDate>Wed, 12 Oct 2016 21:32:44 +0900</pubDate>
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<title>生まれ～小学校前期</title>
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<![CDATA[ <p>私がこの世に生まれたのは1977年3月だった。</p><p>どこの病院だったかは記憶にないが、</p><p>母親に抱かれ、おそらく父親か親戚の車で家に帰ったようなおぼろげな記憶がある。</p><p>車に乗った記憶はこの後10年以上存在しないから、その印象は今でも残っている。</p><p>母親との生活、家には祖母も居た。父親や祖父は居ない。</p><p>親戚からの生誕プレゼントだろうか？ガラガラや頭上をくるくる回るおもちゃなどを見ながら寝るだけの日々、時々病院に定期健診にも連れていかれた。</p><p>母親に抱かれ母乳を吸い、寝て、庭から差し込む陽光を浴びながらスヤスヤと眠る、人生で一番幸福な日々だった。</p><p>&nbsp;</p><p>6歳になったとき、小学校に入学することになった。</p><p>その事前準備で母親は私にあいうえおなどのひらがなや足し算を教えてくれた。私が間違えると怒って叩くので、おびえながらそれらの勉強した。特に苦手だったのは電子オルガンでどのようにキーを押せばいいのかすら私はわからなかったし興味もなかったが、母親はなぜかオルガンを演奏させようと、近所の人に教えてもらいに行ったりと熱心だったが、私はさっぱりだった。クレヨンで絵を描いたこともあった。こっちは気に入ったのか今でも覚えてる。黄色のクレヨンで電車を描いた。母親はその絵を何かの展覧会に出展したみたいで何かの賞に参加したしるしの花の形のリボンが付いていた。</p><p>&nbsp;</p><p>それ以外に思い出せることは、毎日テレビを見ていた。我が家にあったテレビは14インチぐらいの白黒テレビでポンキッキやNHK教育放送や夕方に再放送されるアニメ、アルプスの少女ハイジや母を訪ねて3千里などを見ていた。白黒なので色がわからない。ガチャピンが緑でムックが赤だと知ったのは、だいぶ後のことだった。</p><p>&nbsp;</p><p>近所の同じ年ぐらいの子どもたち２人が遊びに来ることが一度だけあったが、その子供はガンダムごっこをしようなどと言ったが私はガンダムが何なのかわからなかった。</p><p>新聞紙を丸めて棒のようにしてたたき合う遊びだったが、私はたくさん叩かれて泣いた。</p><p>私の家にあったおもちゃは木できていて模様の彫ってある四角いブロックやレゴのように組み合わせることのできるプラスチック製のブロック、祖母が自分で縫った服を着せているモンチッチの人形しかなかった。私はブロックで建築物のような何かを作る遊びが好きだったが、よその家のオトコの子どもをもてなすような、変形ロボットや野球盤のような刺激的なおもちゃは無かったのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>小学校の入学式に母親と行き、教室に通され、はじめての学友達との対面だったが、私と仲良くなろうとする者は皆無だ。幼稚園にも保育園に行っていなかった私は誰の知り合いでもなかったのだ。みんな勉強道具はカラフルな色彩で女の子ならピンク色でリボンのような模様の入った鉛筆だとか、男の子ならブルーで車の模様が入っていたり、鉛筆キャップは半透明で飴のようなキラキラとしたプラスチックだったり、筆箱はアニメの絵柄が入っていたりした。私の文房具は緑色で端っこにHBとだけ書かれた地味で素気無いものだったし筆箱はカンペンだった。このとき私は周りと比較して自分はほかの子とは違う、仲間はずれだということに気づかされた。</p><p>それから数日経った小学校からの帰り道、突然前に吹き飛ばされた、顔を地面にぶつけて鼻から鼻血がでてくる。上級生のKがいきなり蹴ってきたのだ。Kの周りには何人も同じ上級生がいる。</p><p>「お前、ウドンコババアの子供だろ？」</p><p>とKが言うと、周りが「ウドンコババア！ウドンコババア！」と追従してくる。</p><p>その場面を見かけた通りすがりのおばさんが「何やってるの？」と言ってくると、そのままK達は去っていったが、私に理解できたことは、母親のせいで私がこのような目にあわされている、ということだった。</p><p>&nbsp;</p><p>ウドンコというのは小麦粉のことで、私の母親の化粧が真っ白にファンデーションを塗ることから近所の人からウドンコババアと呼ばれていたのだ。私の母親は分裂症（現在では統合失調症）と言う精神病だった。近所の人とのトラブルなどがきっかけで、私の一家は近所から嫌われ、噂話などで学区の親などにもそれは伝播していたのだろう。小学校入学で社会に出ることで私は社会から嫌われていることを思い知らされた。</p><p>&nbsp;</p><p>それでも小学校では集団登校・集団下校のため、他の子どもと一緒に行動してるうちに他の子どもの家に遊びに招かれたりということもあったが、その母親から「もうウチには遊びに来ないで」などと直接言われることもあり子供心に傷つけられた。私は暴れたりするようなタイプではなく集団下校などでも集団の一番後ろを黙ってついていくような非常に大人しいタイプだったので、服装の貧相さや母親に関する噂話が原因だったんだろうと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>小学校二年ぐらいのころだろうか、学校でプールの授業があったが、私だけ紺の水着ではなく、黄色の水着だった。母親が紺の色は良くないから黄色を使えというのだ。理由はよくわからないが、母親は黄色・ベージュのような色の服しか私に用意しなかった。ピンクは「パンパン」の色などと言っては嫌っていたし、黒や青などの色も嫌っていた。プールの授業の前には消毒液の入った小さいプールに浸かるのだが、そこで私の小学校のクラスの女性教師はブラシのようなものに石鹸をつけて私の体を洗った。女性教師が言うには私の体が臭いからだという。何日ぐらいで下着を履き替えるのかとも聞かれ、私は週に2回ぐらいと答えたが、女性教師は「私は毎日パンツを履き替えている、それが普通なの、毎日履き替えて」と言われた。20半ばの未婚の女性がパンツのことを話すので私は性的興奮が頭に沸いてくるのを感じながら、ただうつむいていた。母親の考えや習慣を変えるような力は小学校二年生の私には無かった。それ以降私は体育の授業を毎回熱があるなどと言っては見学にした。友達が持っている学校指定のナイロン製で黄色で白いラインが入っているプールバッグを私は持っていなかったし水着の色も違う、普段の体育の授業でも同様で私だけ体操着は夏でも長袖だった。</p><p>母親が「風邪を引かないように」と言っては夏でも私に長袖の服を着せていたのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>3月生まれということもあって、私はクラスの中で一番背が小さく、競走などでも必ずビリ、サッカーがあれば他の子が蹴ったボールを顔に受けてしまうなど、体育は私にとって苦痛の時間でしかなかった。休むことは罪悪感を感じながらも、自分にとっては良い選択だと思っていた。体育はダメだったが、座学の教科は母親が入学前に教えていたことと併せて教科書を全部読んでいたのでテストの点数は8割以上は取れていた。宿題をやらなかったので学期末のあゆみという名の成績表はABC評価では体育はC、それ以外はBとCが混じっていて、一個か二個Aがあるような成績だった。小学校１，２年の担任は今思うと割と妥当な評価してくれていた。</p><p>&nbsp;</p><p>小学校3年の夏、集団下校での帰り道一緒に帰っていた子供が今度発売されるスーパーマリオの話題で盛り上がっていた。私の家にはファミコンは当然無く、誰かの家に遊びに行ったときや駄菓子屋においてあるゲーム筐体でゲームをほかの子供がプレイしている姿を見ていただけだった。駄菓子屋のゲーム機で遊ぶのはお小遣いが50円しかもらえなかった私は到底無理だったし、おもちゃ屋の店頭でマリオブラザーズをほかの子どもに誘われてやってみたが私が操作もわからず亀を倒そうとしたがそのタイミングで対戦相手の子どもはパワーブロックを叩いて生き返った亀にぶつかって死んで、見ていた子供たちにゲラゲラ笑われるという嫌な経験しかなかった。ゲームがやりたいというよりも私も周りの友達が持っている物と同じものが欲しい、同じ話題の輪に加わり参加したい、という欲求が高まっていた。当時のTVゲームは子供の間でコミュニケーションのためのツールとして大きなブームになっていた。</p><p>私はゲーム機を欲しいと思いながらも14800円は到底手に入らない数字だった。</p><p>&nbsp;</p><p>その年の夏のある日、一人で本を買いに伊勢佐木町の有隣堂に行った、私はアニメ映画で公開されてテレビで宣伝されていた、宮沢賢治の銀河鉄道の夜を読みたいと思っていた。</p><p>有隣堂の前まで来たときに、誰かに話しかけられた</p><p>「・・・の写真あるよ」</p><p>振り返ると中年のおじさんが小声でボソボソと話しかけてきていた。</p><p>「お○○この写真あるよ」</p><p>と繰り返し言った。私にはお○○こがわからなかったが、こっちに着いてきてというので、言われるがままついていった。</p><p>裏路地の人気のないところの雑居ビルの階段の踊り場にくると、</p><p>「君女の子？」</p><p>とおじさんが聞いてきた。私は母親に髪を切ってもらっていたのだが、オカッパ頭だったので女の子と間違えられたのだ。男の子と答えたが、「お○○この写真」は見せてもらえた。和服の女性が正座の姿勢から横に足を投げ出し裾をはだけ、性器を広げている写真だった。</p><p>するとそのおじさんは私の股間を触ってきてなでながら、「なめる？」と聞いてきた。私はその言葉の意味がわからなかったが、おじさんはベルトは外し、パンツから性器を出すと、私に咥えさせた。頭をつかまれ、前後に動かされてるうちに性器は固くなり、喉の奥に当たって吐気がした。それでもしばらく続けてるとドロッとした液が口の中に広がった。</p><p>それを飲み込むよう言われ飲んだ、何とも言えない独特のにおいが口の中に広がる。</p><p>そのあと、伊勢佐木モールに帰る途中に１万円札を渡され、翌月の日曜日も有隣堂前で待ち合わせる約束をした。</p><p>このようにして私は生まれて初めて金を稼ぐ手段を手に入れたのだった。</p><p>&nbsp;</p><p>そのように稼いだ金であったがファミコンを買うにはまだ足りなかった、祖母がお金を腹巻にかくして、週二回銭湯に行く時に押し入れの布団の間に隠していることを私は知っていたので、そこから一万円を抜き取った。私の一家の収入は祖母の年金８万円と二階をアパートとして貸して３万円、合計１１万円、これが全収入で３人が生活していたのだったから、一万円抜くのはとても悪いことだったが、それでも私はファミコンが欲しかった。抜いたお金とおじさんからもらった金を持って元町の交差点の角にあるカメラ屋に行き、ショーケースに飾られている銀色の大きな箱、ファミコンと、一緒に飾られていた新発売のソフト、「さんまの名探偵」を買った。家まで持って歩くのが大変だったが、欲しかったものをついに手に入れた喜びの方が大きく胸はトキメイていた。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/osamuishikawa/entry-12208797227.html</link>
<pubDate>Wed, 12 Oct 2016 00:04:38 +0900</pubDate>
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<title>小学校後期～中学1年</title>
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<![CDATA[ <p>私はその後も月に一度の頻度で伊勢佐木モールに行き、おじさんに会って性器をしゃぶっては1万円前後の小遣いをもらった。性器をしゃぶる場所は最初の時と同様、人気のない雑居ビルの入り口や階段の踊り場などの野外だった。貰った小遣いはファミコンのゲームカセットやファミコン通信やコロコロコミックなどの雑誌の購入に使った。</p><p>&nbsp;</p><p>学校では3，4年生の担任は中年男性で、私は彼に嫌われていたようだ。なぜなら成績表はCがほとんどBが2,3個という物だったからだ。ソロバン教室に3年生からから通いだした影響で計算が得意だったのと宮沢賢治や児童文学が好きで学校の図書館で本を借りては読書はしていたので低学年の時と変わらずテストの得点は70～100点がほとんどだった。相変わらず宿題が苦手だったが私は解ってるんだから良いじゃんと思っていたが、あるいは低学年の時の女性の担任が私に甘かったのかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>5年生になると、クラスメートも変わり、私は学校ではいじめられっ子であったにも関わらず、積極的に遊んでくれる友達ができるようになった。一人は在日中国人の子どもで、一人はシングルマザーの子ども、一人は教会牧師の子ども、もう一人はソロバン教室で仲良くなった普通の子だった。私はこのころ、月一度のアルバイトの収入だけでは欲しい物が全部買えない事が不満で、万引きを始めた。在日中国人の子は万引きも一緒に手伝ってくれて、スリルのあるゲーム遊びのような感覚で、手提げバッグなどにどんどん百貨店やディスカウントストアの商品を詰め込んでは逃走した。うまくいくことの方が多かったが、たまにへまをやらかして警備員に捕まった。捕まったのは駆け足の遅い私だけだったが、捕まったとしても私は何も怖くはなかった。私の家には電話が無いので親を呼び出すことができないし、たとえ家を訪問などして呼び出してみても会話のまったく通じないようなキチガイなので、私にとって失うような物は何もなかったのだ。店のバックヤードで店長のような人と我慢比べ、そこから警察を呼ばれることもあったが我慢比べするだけで一緒だった。電話もない、保護責任者が責任取る能力もない、だから私に親に言ってやるなどと脅してみたところで、何も効果は無いのだ。最後には全然関係のない友達の親かなんかが引き取りに来て、私は注意だけされて家に帰された。</p><p>ある時、この万引きゲームに私はソロバン教室の普通の子を誘った。私はとても楽しいウキウキするようなゲームを仲の良い友達と共有するために誘ったつもりだった。店は地元の商店街のおもちゃ屋でプラモデルを服の下に隠して万引きするつもりだったが、商店主にあっけなく捕まった。商店主は私と友達の頭をげんこつで小突くと、例によって親を呼ぶぞと言った。私は電話が無いの一点張りだが、その子は家の電話を教えると、商店主は家に電話をして親を呼び出した。その子の親はすぐにやってきた。ちょっと顔が紅潮してるような様子だったが、その子の親はその子に近くまでくると、突然平手打ちをその子にした、何度も右左右左と。そして叩き終わるとその子の親は泣いていた。私は大人が涙流して泣く姿を見たことがなかったのでビックリした。そして、私の方に向くと「もう二度とウチの子どもに会わないでくれ。」と言って、一緒に帰っていった。私には迎えが無かったが、その商店主は私のことを知っているので、その後すぐに開放された。</p><p>私はあの子の親はちょっと異常なんじゃないかと思ったが、あの子の親の方が正常で私の方が異常なのだろうか？私にはよくわからなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>ある日学校で担任の女教師に呼ばれた。小学校五年でまた教師が替わったのだ。何かと思ったら、知らないおじさんと会ってお金をもらっているという話を聞いたけど、どういうこと？</p><p>という話だった。私はその話を何人かのごく親しい友達だけにしていたが、誰かが密告したのだ。性的な事なので、私は話したくなかった。バレたらとても恥ずかしいことだと思ったので、ずっと黙っていた。私は嘘をついてごまかすことが苦手だった。何回も担任は聞いてきたが、黙秘していると次の授業のチャイムが鳴って解放された。</p><p>次の日、私は朝お腹が痛いと言ってトイレに籠城し、学校をさぼった。次の日もまた次の日も、学校に行く時間になるとトイレに籠城した。そうして私は登校拒否児になり、残りの5学年と6学年は丸々、出席しないまま卒業した。</p><p>&nbsp;</p><p>中学は最初の入学式だけ母親に連れられて出席したが、そのあとは小学生の時と同様、登校拒否をした。いつの間におじさんとは合わなくなっていた。その経緯は思い出せないが、おじさんは背が高くなった男の子には興味が無かったんだと思う。</p><p>私は登校拒否はしていたが小学校時代の友達に誘われると良く外を出歩いたが、中学一年の夏、その友達に嵌められて、Nという小学校時代のガキ大将のような奴のところに連れていかれた。Nが、来週から学校に絶対に来い、と言った。何でも、学校の担任に私を学校に出席させろと言われたらしい。もし学校に来なかったら見つけ出して殴るからな、とも言っていた。私は怖かったので、その後一週間ほど出席してみたものの、二年も休んだせいか、小学校とまるで違う勉強の内容で授業がわからず、まるで面白くなかった。なので仮病を使って早退したりしたあげく、あっという間に登校拒否に戻った。</p><p>それから1週間後ぐらいだろうか、友達に捕まって、Nの前に引きずりだされた。場所はマイカル本牧の方の未開発で人気の無い公園のような場所で、NだけでなくNの子分のような不良もたくさん引き連れていた。そこで、お前約束破ったんだからな、と言われ、ミゾオチを殴られた。私はガリガリで、Nは巨漢だったので手加減はしていたと思うが、肺が圧迫されて呼吸できなくなり口からはよだれが垂れて、うずくまるしかできなかった。だが、それだけで終わりだった。学校に来いよともそれ以上言われなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>中学一年の冬。</p><p>母親が祖母を殴り始めた。祖母が朝起きようとすると殴るのだ。祖母は起きられずにごはんも食べられずに一日中寝たきりになった。一週間、あるいは二週間ぐらいだろうか？私が部屋を出て外に行こうとすると、床に祖母の死体があった。目をかっと見開き、半開きの口からは舌が出ていた。私は目があったような気がした。</p><p>&nbsp;</p><p>数日後、私の引きこもっている部屋の外で何名もの人が入ってきた物音と話し声がした。そして私の部屋のドアが乱暴に何度もノックされた。私は怖くなり、窓を開けて庭から逃走した。</p><p>夜になって家に帰ると、家の中に人の気配はなくなっていた。私はお腹が空いていたが食べる物は何もなかった。時期はちょうど年末、大晦日だった。</p><p>&nbsp;</p><p>私は食べる物を探しに寒空の下外を徘徊した。人に見られるのが嫌だったので夜に外を歩き、棒のようになった足で家の自分の部屋に戻った。TVで防犯特集などと称して空き巣手口などを特集していた。私はそれを見て空き巣をやるしかないと思った。工具箱からマイナスドライバーを持ち出し、上着の袖の中に隠しながら夜を歩いた。通り道の家の郵便受けを確認しながら、車が近づく気配がしたら電柱の影などに隠れた。夜中に中学1年生（私は発育が良くなかったのでもっと幼く見えただろう）が一人で歩いているのは目立つと思ったからだ。郵便受けを確認しながらなのは、郵便物が溜まっていたら長期不在の可能性が高いからだ。年末だったので帰省や旅行などで長期不在する家が見つかりやすいのも幸運だった。私は郵便受けに郵便が溜まって、夜の23時ごろ、寝るのには早い時間なのに真っ暗な家を見つけ、ターゲットに決めた。庭に入ったあと、となりに気づかれないように掃き出し窓のところに座り込み、内カギよりちょっと下の部分のガラスの端と枠の境界のシリコン部分にマイナスドライバーを差し込み、思い切りドライバーの柄を引いた。するとガリ、ビシッ、と思ったよりも少し大きな音で、あっけなくガラスは割れた。割れたガラスを手袋をした手でたたくと、家の中にガラス片が落下し、手を入れるのにちょうどよい大きさの穴が開いた。そこから手を入れて内カギを開けて、中に侵入した。当然真っ暗だったが、電灯をつけたら目立つかなと思いながらも、ライトを持っていなかったので、思い切って部屋の電灯のスイッチを点ける。家の中の音に注意しながら。見込み違いで家の住人と鉢合わせは最悪だ。そろりそろりと自分の息も殺しながら、とりあえず上がり込んだ部屋の様子を見る。何もこの部屋にはなさそうだ。続いて廊下に出てみて、階段を見つける。二階に一段一段登って行く、そこも当然暗いので、スイッチを入れると、寝室があった。当然人はいない。これで少し安心して少し大胆に、寝室のタンスや化粧台などをかたっぱしから開けては漁る。するとタンスの中かから封筒が出てきた。開けてみるとまとまった量の札が入っていた。私はそれを上着の内ポケットにしまうと、撤退することにした。目標は達成したのだ。長居は無用だった。</p><p>&nbsp;</p><p>家の自分の部屋に戻って、封筒の中身を確かめると50万円あった。大収穫だった。当分これで食べ物に困ることはないだろう。一枚を持って、コンビニに行き食べ物を買って食べた。安心して眠りに落ちることができた。</p><p>&nbsp;</p><p>数日後、朝寝てると庭の方の窓の鎧戸が恐ろしい大きな音ともに外された。誰かが外に立って窓を叩いてくる。もしかしたら私の名を呼んでいたかもしれない。私は寝起きをこのように迎えてパニックだった。私が数日前に空き巣でしたように、外の人間は内カギ付近のガラスを破り、手を差し込んで窓を開けると、私の空間に土足で侵入してきた、警察だった。</p><p>&nbsp;</p><p>私はこのように警察に捕まった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/osamuishikawa/entry-12208739576.html</link>
<pubDate>Tue, 11 Oct 2016 21:31:11 +0900</pubDate>
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