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<title>aussiebondiのブログ</title>
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<title>ベジマイト</title>
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<![CDATA[ ベジマイト（Vegemite）は、塩辛く濃い茶色のペースト状の食品である。主にサンドイッチに用いたり、トーストに塗ったりして食べるが、料理に使うこともある。<br>オーストラリアとニュージーランドではポピュラーであり、半ば冗談でオーストラリアの国民食と言われることもあるが、他の地域ではめったに見られない。1923年にオーストラリアのフレッド・ウォーカー社（Fred Walker）がビール酵母からスプレッドを開発した際に、食品技術者のシリル・キャリスター（Cyril P. Callister）がベジマイトを発明した。<br>ベジマイトはイースト菌抽出物（酵母エキス）を元に作られている。実際には醸造の副生成物であり、麦芽抽出物も含んでいる。ベジマイトはチアミン（B1）・リボフラビン（B2）・ナイアシン（B3）・葉酸（B5）などのビタミンB群に富んでいる。<br>ベジマイトの味や生産はイギリスのマーマイトに類似しており、実際マーマイトの名前をもじって「パーウィル（Parwill）」としても少しの間知られていた（“Ma might not like the taste, but I'm sure Pa will”「ママはこの味が好きじゃないかもしれないけど、パパならきっと好きだと思う」）。ベジマイトの現在の名前は、フレッド・ウォーカーの娘シーラ（Sheilah）の思うままに無作為に選ばれた。現在、この商標はクラフトフーヅ社が保持している。<br><br>ベジマイト・トースト<br>オーストラリアとニュージーランドでは非常にポピュラーである一方、その他の地域では決してよく売れることはなかった。ベジマイトは外国人、特にアメリカ人が毛嫌いすることで悪評が高い。またオーストラリア人が皆ベジマイトを好んでいるわけではないことにも留意すべきである。ベジマイトを嫌悪するオーストラリア人も多く存在する。にもかかわらず、「オーストラリア人はベジマイトのことで戦争を起こすかもしれない」と言われたこともある。<br>ベジマイトは先に述べたようにかなり塩辛く、香りはエビオス錠などの酵母製剤に似た独特の香り・旨味・コクが口に広がる。<br>そのため、食べ方としては、その強烈な味を和らげるために、多量のバターやスライスしたまたは加熱して溶かしたチーズと一緒にパンなどに塗られることが多い。また、オーストラリアのパン屋で作られる「チージーマイト・スクロール（Cheesymite Scroll）」あるいは「チェダーマイト・スクロール（Cheddarmite Scroll）」の主要な原材料でもある。これらはチーズとベジマイトを含む、風味の良い渦巻き状のペストリーである。 ちなみに、オーストラリアではベジマイトにチーズが入った、チージーバイト（Cheesybite）も発売されている。<br>ベジマイトの人気の上昇は、「We're happy little Vegemites」という名の覚えやすい歌を歌っている、魅力的で健康的な笑顔の子供たちを使った1940年代の販促キャンペーンによるところが大きい。実際、今でも多くのオーストラリア人が、そのような子供たちを表すのに「happy little Vegemite」というフレーズを使っている。愛国的な郷愁に訴えるため、再編集バージョンの広告や歌が使われ続けている。<br>「Down Under」の歌詞で言及された際に、多くのオーストラリア以外の人々もベジマイトのことを知るようになった。オーストラリアのポップグループメン・アット・ワークによる、1980年代初頭のこの世界的ヒット曲は、オーストラリアがアメリカスカップで優勝した際に「非公式の国歌」として使われた。<br>ベジマイトは少量ながらも日本国内に輸入、販売されている。例として、店頭販売では明治屋、カルディコーヒーファーム、プレッセなどで取り扱っている他、東京のアメ横始め輸入食品店の一部店舗で扱っている。また、ネット通販サイトで容易に見つけ出すことが出来る。 なお、オーストラリアやニュージーランド人が多いニセコひらふスキー場のコンビニではジャムなどと並んで売られている。<br>
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<link>https://ameblo.jp/oz-shinya/entry-11916887929.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Aug 2014 13:46:59 +0900</pubDate>
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<title>シドニー・オペラハウス</title>
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<![CDATA[ シドニー・オペラハウス（Sydney Opera House）は、オーストラリア・シドニーにある20世紀を代表する近代建築物であり、世界的に有名な歌劇場・コンサートホール・劇場でもある。オペラ・オーストラリア、シドニー・シアター・カンパニー、シドニー交響楽団の本拠地になっている。<br>設計者は計画決定当時無名だった建築家ヨーン・ウツソンであるが、独創的な形状と構造設計の困難さなどにより工事は大幅に遅れ、1959年に着工したものの竣工は1973年だった。大幅な工期と予算の超過にもかかわらず、完成後はシドニーのみならずオーストラリアのシンボルとしても親しまれ、また世界で最も建造年代が新しい世界遺産にもなる。シドニー港に突き出した岬であるベネロング・ポイントに位置し、貝殻やヨットの帆を思わせるシドニーのオペラハウスの外観は、シドニー・ハーバーブリッジとともにシドニーを訪れる観光客の定番の撮影スポットでもある。ポート・ジャクソン湾に突き出したベネロング・ポイントの突端に位置するオペラハウスの面積は1.8ヘクタール（4.5エーカー）で、総面積は4.5ヘクタール（11エーカー）。<br>ホールの構成はオーケストラの演奏会などが行われるコンサートホール、オペラが行われるオペラ劇場、ミュージカルや演劇などが行われるドラマシアター、プレイハウス、ピアノ演奏会など小規模な演奏会が行われるスタジオシアターがある。
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<link>https://ameblo.jp/oz-shinya/entry-11916886808.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Aug 2014 13:44:30 +0900</pubDate>
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<title>シドニー</title>
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<![CDATA[ シドニー（Sydney）は、オーストラリア南東部、タスマン海に面するニューサウスウェールズ州の州都である。<br>オーストラリア最大の人口を有し、南半球を代表する世界都市及び金融センターである[2]。2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第14位の都市と評価されており[3]、同国及び南半球の都市としては1位であった。<br>人口は2011年時点で4,627,345人であった。都市的地域の人口は376万人であり、世界第92位、オセアニアでは第1位である[4]。オセアニアを代表する国際的な観光都市でもあり、海に臨むオペラハウスなどが著名で、世界で最も美しいといわれる都市のひとつである。<br>300km南西に特別区である首都キャンベラが所在するが、経済や文化の規模ではシドニーの方が活発である。それもあってか、シドニーがオーストラリアの首都であると誤解する者も少なくない。2000年には夏季オリンピックである「シドニーオリンピック」の開催地となった。シドニー湾沿岸には少なくとも4万年前からアボリジニが定住していた。<br>ヨーロッパ人の関心がこの地域に向かうのは、1770年のジェームズ・クックによるポート・ジャクソン湾の望見の後である。イギリス人による最初の入植は1788年1月20日で、アーサー・フィリップ総督によってこの「小川に近い、入り江の湾頭」はオーストラリア最初の植民地として定められた。フィリップは当初この地をアルビオンと呼ぶ意向であったが、シドニー入江に由来する「シドニー」が一般的に用いられるようになった。シドニー入江はクックの命名で、彼の後援者であったシドニー卿（シドニー子爵）トマス・タウンゼントにちなんだものである[5]。このことは植民地開設の特許状がシドニー卿の斡旋で交付されたことに由来すると思われる。<br>
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<link>https://ameblo.jp/oz-shinya/entry-11916884587.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Aug 2014 13:37:42 +0900</pubDate>
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<title>エアーズロック</title>
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<![CDATA[ オーストラリアのほぼ中央に位置し、ノーザンテリトリー、ウルル-カタ・ジュダ国立公園内に存在する。西オーストラリア州にあるマウント・オーガスタスに次いで、世界で二番目に大きな単一の岩石である。『世界の中心』という意味合いで「大地のヘソ」もしくは「地球のヘソ」と呼ばれることもある。ウルルを形成する砂岩は鉄分を多く含んでおり、外観は鉄分が酸化した赤色を呈している。太陽の当たり方で色が変わって見え、朝陽と夕陽により赤色がより鮮やかになる。ウルルは岩盤が長期的に削剝され形づくられたもので、比高335m（標高868m）、周囲は9.4kmとなっている。表面には地層が表れ、地表からほぼ垂直に無数の縦じまを形成している。<br>アボリジニがウルル周辺に住み着いたのは、今から1万年以上前といわれる。アボリジニが遺したとされる、精霊や水場の位置が描かれた壁画があり、最も古いものは1千年程度前のものと推定される[3][4][5][6]。アボリジニの聖地であり、古くからアボリジニによって「ウルル」と呼ばれていたが、1980年代から正式名称として使われ始めた。表面の色、風食による巨大なくぼみや穴などはノッチとも呼ばれ、精霊が宿っているとされる[7][8][9]。ウルルの所有権はピッティンジャラジャ評議会というアボリジニの組織が有しており、オーストラリア政府にリースされ、1985年から2084年まで一帯の土地をオーストラリア国立公園ならびにワイルド・ライフサービスに貸すことになっている。ウルル周辺にもアボリジニの聖地がいくつかあり、許可無く立ち入った場合は罰金が科せられる[10][11][12]。<br>ウルルの別称であるエアーズロックという名称は1873年、イギリスの探検家ウィリアム・ゴスが探検行の途中で発見し、当時のサウス・オーストラリア植民地総督、ヘンリー・エアーズにちなんで名づけたものである[13]。1987年にユネスコの世界遺産（複合遺産）に登録された。<br>日本では、2001年に刊行された片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』の舞台になった。
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<link>https://ameblo.jp/oz-shinya/entry-11916883167.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Aug 2014 13:35:35 +0900</pubDate>
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<title>シドニーオリンピック</title>
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<![CDATA[ 約半世紀ぶりに南半球での開催となった今大会は、9月15日午後7時（JST同5時）から開会式が行われた。<br>（本来、シドニーのあるニューサウスウェールズ州では、10月最終日曜から夏時間に入るが、この年、同州、オーストラリア首都特別地域と、隣接するビクトリア州、および通常10月第1日曜から夏時間に入るタスマニア州の3州は、オリンピックに合わせ特別に8月最終日曜から夏時間に入っていた。通常この時期、シドニーと日本の時差は1時間であるが、この時2時間差になっていたのはそのためである。なお、サッカーの一部試合が行われたアデレードのある南オーストラリア州ではこの措置を取らず、通常通り10月最終日曜に夏時間に切り替えたため、期間中はシドニーとの時差が1時間半になっていた。）<br>冒頭、ストックマンが登場。その後、当時13歳のニッキー・ウェブスター(英語版)主演によるオーストラリアの歴史の一大絵巻を描いたエンターテイメントショーが展開された。マーチングバンドの演奏の中、選手入場。日本選手団は虹色の鮮やかなマントを着用して登場したが、欧米では虹色はしばしば同性愛者の象徴として見られるため、日本人選手は全員ゲイではないかと驚いた現地の人も多かった（詳しくは「ゲイプライド旗」を参照）。<br>また、南北首脳会談が行われたばかりの韓国と北朝鮮が統一旗を掲げて合同入場行進を行ったほか、インドネシアから解放されたばかりの東ティモールの選手たちが五輪旗を掲げて最後（開催国オーストラリアの直前）に入場し、盛大な拍手を送られた。秘密にされていた聖火リレー（尚、本大会の聖火リレーはグレートバリアリーフで史上初めての海中聖火リレーが開催された）の最終点火者は、アボリジニのキャシー・フリーマンだった。大盛況の開会式は予定よりも約1時間遅れの午後11時（JST同9時）過ぎに終了した。<br>シドニー交響楽団が伴奏した国歌などが実際は演奏しておらず、メルボルン交響楽団による録音テープなどを流していたことが2008年8月26日までに明らかになった[1]。<br>
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<link>https://ameblo.jp/oz-shinya/entry-11916882347.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Aug 2014 13:32:41 +0900</pubDate>
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<title>オーストラリア</title>
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<![CDATA[ 40000～45000年前（60000年前、更にそれ以前とも言われる）、更新世の何回かの氷河期の結果海面が100～150m下降した更新世末期の、今日より海面が低い時にアボリジニがニューギニア方面からオーストラリアに渡って先住民となったと考えられている。オーストラリア南東のタスマニア島に人類が渡った時期は、同島に存在する最古の人類居住遺跡が形成された時期約38000年前であろうと考えられている。また、その時期はバス海峡に陸橋が形成されたであろう時期と合致する。[2]。<br>沿岸はティモール海域、ニューギニアに伸び、オーストラリアとともに一つの陸地（サフル大陸）であり、アラフラ海、カーペンタリア湾、トレス海峡をつないでいた。スンダ列島から海の短い距離の部分を渡って Sahul へ、続いて陸橋を渡ってオーストラリアへ来たと考えられている。<br>考古学的証明では、西オーストラリアのスワン川上流に40,000年前、タスマニア（タスマニアも当時大陸に繋がっていた）には30,000年前に人類居住跡が見つかっている。また約42,000年前とされる人類の化石もニューサウスウェールズ州で発見されている（例: ムンゴマン）。<br>オーストラリア、ニューギニアとインドネシアでの動物・植物種の共有は、当時の陸橋の結果である。最後の氷河期の終わりに海面が上昇し、オーストラリアとニューギニアの間は海でへだてられた。海面レベルは6000年前から現代までほとんど同じである。
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<link>https://ameblo.jp/oz-shinya/entry-11916881276.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Aug 2014 13:26:17 +0900</pubDate>
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<title>はじめまして</title>
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<![CDATA[ これからよろしくお願いします。
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<link>https://ameblo.jp/oz-shinya/entry-11916874475.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Aug 2014 13:12:57 +0900</pubDate>
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