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<title>バレーボール教室について思う</title>
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<description>バレーボール教室について思う</description>
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<title>菓子店の説明</title>
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<![CDATA[ 所謂決定論は存在を、機械的な個々の場合々々の集合と想定するから、そういう集合を成り立たせると想像される一枚の種紙の上で、必然性と偶然性とがもはや動きが取れないように対立せしめられる。その場合、偶然的なものが必然的になるというのは、専ら存在の認識の範囲に就いてだけ云える事で、存在自身が何も与り知らないことなのであるから。必然性と偶然性とは機械論的――形而上学的に――対立する。今日こういう機械論は、新物理学の根本的な成果――不確定性の原理――と相容れない。だから新物理学は、人々に、機械論的決定論を、従って又機械論的必然性と偶然性とを、擲つことを強制する。要するに夫は機械論の放擲を命じているのである。で吾々は機械論に代るものとして、之に対立する弁証法［＃「弁証法」に傍点］を、機械論的決定論に代るものとして弁証法的決定論［＃「弁証法的決定論」に傍点］を、機械論的必然性と偶然性との代りに、弁証法的な必然性と偶然性［＃「弁証法的な必然性と偶然性」に傍点］とを、是非とも採用しなければならなくなる。新物理学の事実の圧力がそう命じるのである。<br>　弁証法的に理解された必然性と偶然性こそ、本当の必然性と偶然性である。そしてそういう必然性と偶然性だけが実質的に連関統一に齎されることが出来る。――では、必然性と偶然性との統一は何か。夫が弁証法的に理解された因果律［＃「弁証法的に理解された因果律」に傍点］なのである。<br>
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<pubDate>Thu, 10 Jan 2013 15:21:45 +0900</pubDate>
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<title>クリミナルガールズの説明</title>
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<![CDATA[ けれども繰り返し指摘したように、専門的概念を常識に当て嵌めることとそこに於て常識的概念をその動機に従って発見し分析するということとは両立はするが併し全く別のことでなければならないのである。そして現に人々は（ポアンカレに従って）数学的連続を物理的連続から区別している。さて延長の、そして常識的なる、連続概念は、どのような性質を有つか。この時連続を無限［＃「無限」に傍点］に関係づけて理解することが有効であるであろう。無限も亦数学的概念として成立し、そして数学的連続概念と結び付いている。吾々はかかる概念から独立に、そして特に延長の無限として之を理解することが必要である筈であった。而も同じく延長の無限又は有限であっても吾々の求めるものはかの数学的空間の夫、又は物理学の所謂宇宙の持つ夫であることは出来ない。それ故吾々の常識的無限概念は――リーマンの言葉を借りるならば、――却って「無限」ではなくして「無際限」でなければならないのである。そこでアリストテレスは、無限に就いて、そして夫と連続との関係に就いて、語っている。「無限はヒューレーとしての原因であり、そして無限の本性は欠如であり又その基体それ自身は知覚し得る連続である、ということは明らかである＊＊」と。この言葉は恰も今の吾々の場合にとって非常に適切であるであろう。即ち無限とは延長的（空間的）原因であり――延長としてのプラトンのヒューレーを茲に憶い起こすべきである――、それは際限なきこと［＃「なきこと」に傍点］であり、そしてかかる無限の基体となるものが連続であるのである。
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<link>https://ameblo.jp/p0f5hgne/entry-11435876207.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Dec 2012 10:30:51 +0900</pubDate>
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<title>板ガラス加工とは</title>
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<![CDATA[ 『これまでの四箇章（訳註――「富の増加が貧民の境遇に及ぼす影響」「富の定義」「農業及び商業主義」「穀物輸出奨励金」に関する四箇章）で述べたところからして、私が商工業から得られる利益に十分気附いていないと考えられるようなことがあれば、これは誤解も甚だしいものである。私は、それは文明の最も明瞭な特徴であり、社会進歩の最も明白顕著な徴標であり、吾々の享楽を拡大し人類幸福の総額を増加する傾向あるものと考えている。いかなる多量の農業剰余生産物もこれなくしては存在し得ず、また仮に存在するとしても比較的にほとんど価値を有たないものであろう。しかしやはりそれは政治組織の基礎たるよりはむしろその装飾であり潤色であろう。かかる基礎が十分に堅固な間は、すべての部屋を便利に優美にするためにどれだけ気を使っていても構わないが、しかし基礎そのものが崩れるおそれが少しでもあるならば、主として注意をそれほど重要でない部分にだけ注ぎ続けるのは愚かな所行であろうと思う。歴史上未だかつて、大国がその国民のうち四、五百万人もの者を輸入穀物で養って、しかもその国力が衰えなかったという例は、あったためしはなく、またかかる例が将来起るとも信じられない。英蘭は、疑いもなく、島国でもあればまた大海軍を有っていることでもあるので、最もこの原則の例外をなす可能性があるが、しかし英蘭特有の利害があってさえ、もし年々穀物の輸入を増加し続けていくならば、ついには過大な商業的富の自然的必然的結果たる衰滅の運命を免れ得ないのは、明かなことと私には思われる。私は今、今後二、三十年のことを云っているのではなく、今後二、三百年のことを云っているのである。
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<link>https://ameblo.jp/p0f5hgne/entry-11429286706.html</link>
<pubDate>Mon, 17 Dec 2012 22:18:14 +0900</pubDate>
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<title>ふすま卸について思う</title>
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<![CDATA[ そこでゲーテは全く原理的に、各々の国民はただ自己の自然に従つて、自己の自然的に制約された諸要求に従つてのみ生きることができ、生きるべきであり、また生きるのほかないことを力説したのである。「一の国民にとつて、他の国民の真似をすることなしに、自己自身の中心及び自己自身の要求から出たもののみが、善いものである。なぜなら或る一定の年齢にある一の民族にとつて有益な栄養であり得るものも、恐らく他の民族にとつては毒となるであらう。それだから何等かの外国の改革を移植しようとする凡ての企ては、それに対する要求が自己自身の国民のより深い中心のうちに根差してゐない場合、馬鹿なことである。」更にゲーテは、国民的生活は本来自然的な発展を遂げるものであり、これに対して不自然なこと、暴力的なことを為し、もしくは為す動機を与へるのは政治家であり、政府であると考へた。要するに、ゲーテは革命主義者でなく改良主義者であり、急進主義者でなくて漸進主義者であつた。社会と歴史に関しても、「それは自然的でない」といふことが彼にとつて一切の批判と評価との根本的な基準であつた。凡ての種類の飛躍は彼には自然的ならぬものと見えた。彼はあらゆる場合において、何等かの事物または過程が示すやうに感ぜられる間隙もしくは飛躍を充たし、それを結び付ける移り行きを探し出さうと努力することを特に喜んだ。
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<link>https://ameblo.jp/p0f5hgne/entry-11416601534.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Nov 2012 16:15:50 +0900</pubDate>
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