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<title>ぼちぼち考察ブログ</title>
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<description>アニメや漫画に関して考察したり、感想書いたり、解説したりします。</description>
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<title>変化と不変の視覚的対比による心理描写</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>　奇抜な配色と誇張の効いた独特な映像表現が特徴的な湯浅政明。私は彼の表現がとても好きなのですが、特に気に入っているのは、背景の画風変化による心情描写です。今回は約１年前にアニメ映画「夜は短し歩けよ乙女」を視聴し、この表現に関する今でも忘れられないほど感動する発見をしたので紹介したいと思います。以降、ネタバレを含みますので、苦手な方はブラウザバックを推奨します。</p><p>&nbsp;</p><p>　本作品は、京都大学に通う学生の「私」が主人公です。彼は同じ部活の後輩の女性に恋心を抱いたことから、自身の思いに気づいてもらえるように彼女の後をこっそりと追いかけ、様々な場所であたかも彼女と偶然出会ったかのようにみせかけます。彼女は非常にお人好しで、行く先々で出会う奇想天外で愉快な人々とすぐ仲良くなっていくため、追いかける彼もそれに巻き込まれてハチャメチャな体験をすることになるというのが概要となります。</p><p>　</p><p>　この作品の背景の画風は、少し歪みのあるあっさりとした黒（場面によっては白）の線に、ざっくりかつ少し誇張が加えられた人物や建物の造形、花札を想起させるような華やかであるものの落ち着いた雰囲気も兼ね備えている配色に、画像エフェクトが生み出す繊細な空気感の排除によるシンプルさなどが特徴的です。しかし、物語の終盤で主人公「私」と、彼の恋する後輩の女性は無事結ばれることになるのですが、これによって背景の画風は上記のものと比べて大きく変化します。</p><p>　</p><p>　まず、線で形を描き出すのではなく、水彩画のように細かな陰影や色味の変化によって物の形をかたどっています。この時、物の形に歪みや誇張が加えられておらず、比較的写実的な仕上がりとなっています。そして、画像エフェクトによる光の差し込む表現が追加されており、さわやかで温かい空気感という情報が追加されています。</p><p>&nbsp;</p><p>　この変化に気づいた時、私は同じく湯浅政明が監督を務めた作品であるアニメ「四畳半神話大系」という作品のラストを思い返すことになりました。というのも、同じ監督の作品であるにもかかわらず、この監督の特徴であり、「夜は短し歩けよ乙女」でも見られた背景の画風変化と心理描写が見られなかったからです。加えてこの２つの作品はどちらも森見登美彦という作家の同名の小説を原作にしており、作品の舞台も同じ京都大学で、さらに共通して登場するキャラクターも存在するなど、強い関連性が生じているのでより気になりました。</p><p>&nbsp;</p><p>　「四畳半神話大系」は京都大学に通う「私」が主人公です。しかし、あくまでこの「私」は先ほど登場した「私」とは別人であり、「バラ色のキャンパスライフ」を求めて様々なサークルで活動に勤しみます。本作は「私」がどのサークルを選択するかを起点にサークルごとのパラレルワールドが誕生し、各話ごとに別々の世界での「私」の日常を写しているため、毎回取り巻く環境に変化が生じます。それにより、話によって「私」が思いを寄せる対象が変化します。しかし、第10話にてそれら全てのパラレルワールドが融合した世界に「私」が迷いこんだことをきっかけに、彼の１年後輩にあたる、明石さんの人柄を知り恋に落ちた結果、最終的には結ばれることになります。それにもかかわらず、先ほども書いた通り、恋人関係になる前と後で背景の画風に変化は起きないのです。ではそれは何故でしょうか。これには２つの作品の「私」の恋愛に対する価値観が開放的であるか否かが関わっているのではないかと思います。</p><p>　</p><p>　「夜は短し歩けよ乙女」に登場する「私」は、恋愛に対して完全までとはいかないものの、親しい人物に自分の後輩への恋を口にするくらいには開放的です。一方、「四畳半神話大系」の「私」は、唯一の友達（悪友扱いではあるものの）やその他親しい人物たちの前でさえ、自分の恋愛事情を話そうとはしません。さらには明石さんと付き合うことを明かす際にも「成就した恋ほど、語るに値しないものはない」という文で濁した形で表現しています。それと同時に自分は人前で惚気を見せるような野暮な人間ではないという、少しひねくれた恋愛観を持っていると表明しています。つまり、「夜は短し歩けよ乙女」では湯浅監督の表現の一つである背景の画風を用いることで、主人公の恋愛事情の開放性を表現し、「四畳半神話大系」ではあえてそれを封印することで、主人公の恋愛事情に対する隠ぺい体質を視覚的にも表現しているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　このように、作品を超えた対比表現が見られただけでなく、その中で監督の特徴である背景の画風表現を逆手に取って、あえて使わないことで的確に心情を表現していることがとても衝撃的でした。</p><p>　</p>
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<link>https://ameblo.jp/pair-nuun-08/entry-12786370239.html</link>
<pubDate>Fri, 27 Jan 2023 19:15:04 +0900</pubDate>
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<title>現代にこそ必要な子供向けアニメの魅力②</title>
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<![CDATA[ <p>　</p><p>　前回の記事では、私が現代にこそ子供向けアニメが必要であると思う理由として、考え抜かれた教育的なテーマとそれを的確に伝えるストーリー上の工夫を挙げるとともに、その点において特に素晴らしいと感じた「キョロちゃん」第72話を作品事例として挙げました。しかし、文章が長くなってしまいテーマにしか触れることができなかったので、今回はストーリー上の工夫に重点を当てて紹介していきたいと思います。したがって、第７２話の内容に触れながら説明します。この話の詳しい内容は前回書いたので、まずはそちらを確認してください。</p><p>&nbsp;</p><p>　この話のテーマは、働き手のあるべき姿です。いつ何時も消費者第一に考えて熱心に働くことと、自分の都合を最優先に働くという相反する考えを掛け合わせたものを、働き手のあるべき姿であるとして捉えています。このような対立する事柄をどちらも尊重に値するとするものであるとするこのテーマを正確に伝えることはとても難しいことです。では、今回取り上げる話ではどのような工夫を凝らすことで、このテーマを伝えることができたのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　まず１つ目は、主要キャラクターたちにその姿勢に対する肯定的な感想を発言させた後、同じ対象に対して疑問を抱かせることです。この話の冒頭部分では、キョロちゃんが友達からチバシリさんについて話を聞くシーンがありますが、この時友達の声のトーンは比較的明るく、表情も口角が上がっているため、彼の仕事ぶりに対するマイナスの感情よりもプラスの感情を持っていることがわかります。また、チバシリさんが速達を頼まれダッシュでお届け先に向かうところを見たキョロちゃんの友達は先ほどの場面とは異なり、その姿に対する驚きが勝っているため表情は硬いものとなっていますが、彼の俊足と日頃の努力を褒め称える発言をしています。しかし、チバシリさんが足を怪我した後は、彼がその状態でマラソン大会に出ることに対して反対する様子を見せるようになります。これによって、アニメの視聴を通じて視聴者と共感関係を結びやすい作品の主要キャラクターたちが、２つの対立する考えに足を踏み入れることになるので、共感関係にある視聴者も同じ状況になり、どちらの考えもおざなりにすることを防いでくれます。</p><p>&nbsp;</p><p>　２つ目はチバシリさんからキョロちゃんの考えに対する、正当性を持つ疑問を口にさせることで、彼の考えとキョロちゃんの考えの対等性を強調することです。マラソン大会でキョロちゃんとチバシリさんの一騎打ちとなる場面でキョロちゃんが「楽しく走ろうよ」、つまり自分の都合（今回は足を痛めている）にしたがって無理せず楽しんで走ろうと提案します。しかし、それに対してチバシリさんは「自分だけが楽しくていいのですか？私はみんなが楽しくないと楽しくありません。」と返します。言い換えれば、自分の都合だけ考えて行動することは、極端な程度になると他の人々に不便を強いることになりかねないので正しいことと言えるのだろうかという、キョロちゃんたちが抱いている疑問と真逆の疑問を投げかけているとことになります。この問いを支えるように、この発言を聞いた直後のキョロちゃんのハッとするような表情と、ピリッとした大会の空気にしみじみとした雰囲気を付け足すＢＧＭが流れるため、きちんと彼の意見もきちんと考慮に加えなければいけないものであると再認識できるようになります。</p><p>&nbsp;</p><p>　３つ目はマラソン大会後にキョロちゃんのみが見せる暗い表情です。マラソン大会にてチバシリさんが優勝した際、会場にいた全員が立ち上がって彼の功績をたたえていましたが、唯一キョロちゃんだけが笑顔ですごいと感じる後、顔を曇らせて「でも．．．.」と心の中で言います。この、その後に何かが続きそうな言葉の言い回しは、チバシリさんの考えと自分の考えを両立させた理想の働き方はどのようなものか、またそれを実現するために必要なのは何かを考えることを促す雰囲気を生み出してくれます。また、この会場の雰囲気とキョロちゃんの様子の対比によって、この後の場面でのチバシリさんの怪我が治るまではゆっくりと郵便物を待つことにしよう、という住民たちの動きが、キョロちゃんがよく考えた結果生み出されたものであることがわかるようになってます。前回、私がこの話におけるテーマを素晴らしいと思う理由として、仕事と休養のバランスの重要性を理解し、解決法を考えることを促すことを挙げましたが、これがまさしくそれにあたります。</p><p>&nbsp;</p><p>　このように、制作側が伝えたいテーマを正確に理解させるには、上記のような細かい工夫が必要となります。子どもたちにとって大切なものは何かを考え、それを洗練したうえで話のテーマとして扱い、それを不自然にならないように、かつわかりやすく伝える工夫を凝らしてくれていることにとても尊敬します。</p><p>　</p><p>　この一連の記事を読んだことがきっかけで、子供向けアニメに興味を持ってくれたら幸いです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/pair-nuun-08/entry-12786260551.html</link>
<pubDate>Fri, 27 Jan 2023 01:58:30 +0900</pubDate>
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<title>現代にこそ必要な子供向けアニメの魅力①</title>
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<![CDATA[ <p>　</p><p>　前回の記事では、子供向けアニメが様々な原因から作られることが少なくなっているという話をしました。しかし、私はこれが非常にもったいないと思うのです。なぜなら、子供向けアニメには独特なキャラクターの動かし方や子供の目線に寄り添うことで生まれるワクワク感など、ここでしか得ることができない魅力がたくさん存在するからです。その中でも,多種多様な価値観が洗練されないまま錯綜する現代において、特に魅力的であることがあります。それはしっかりと考えられた教育的なテーマと、それを的確に伝えるストーリー上の工夫です。もちろん、親が教育することが大事であることに変わりはないですが、普段の生活の中では気づきにくいがゆえに、親がなかなか教えてあげられないようなこともたくさん存在します。それによって、価値観が凝り固まってしまったり、生きていくために必要なことを見失ってしまったりする可能性もあります。子供向けアニメはそのようなことを防ぐためのサポートができると思うのです。今回はこれらの点において特に素晴らしいと思った「キョロちゃん」という作品の第72話「チバシリさん走る」を取り上げようと思います。以下、この作品のネタバレを含むので、一切内容を知りたくない方はここでページを閉じることをお勧めします。</p><p>&nbsp;</p><p>　そもそも、本作品は純粋で心優しい、鳥のような生き物であるキョロちゃんが主人公です。キョロちゃんは人間の冒険家であるマツゲール博士と出会ったことから、一緒に色々なところを旅するようになります。しかし、２人がキョロちゃんの故郷であるエンゼルアイランドへと船に乗って向かう途中、嵐に巻き込まれて離れ離れになってしまいます。その後無人島に流されたキョロちゃんは、その島からエンゼルアイランドが見えたことがきっかけで、自力でそこまでたどり着くための努力をすることになります。そして、何とか無事にエンゼルアイランドへとたどり着くことができたキョロちゃんは、目的地だったこの場所にいればマツゲール博士に会えるかもしれないと思い、この島の住民たちと仲良く暮らしながら再会を待つ、というのがこの作品の概要です。</p><p>&nbsp;</p><p>　さて、肝心の第72話は島に新しくやってきた郵便配達員のチバシリさんに焦点を当てた話です。彼はとてつもないほどの俊足であり、それによって山や水の上などありとあらゆる場所への移動を可能にし、島中の人々に素早く郵便物を届けていきます。ある日、キョロちゃんは友達との会話からチバシリさんの存在を知り、キョロちゃん自身もかなりの俊足であることから、どちらがより足が速いのか気になりチバシリさんをことあるごとに追いかけることにします。</p><p>　</p><p>　ある時、チバシリさんは速達を頼まれ、いつものようにダッシュでお届け先に向かいますが、その際に木の枝につまづいて足を怪我してしまいます。その時は彼を追いかけていたキョロちゃんが代わりに届けてくれたため何とかなりました。しかし、その後はキョロちゃんの家でキョロちゃんの友達から手当てを受けながら安静にすることを余儀なくされ、他の配達物はキョロちゃんに任せなければいけなくなります。そのような状態であるにもかかわらず、チバシリさんは早く荷物が届くことで、みんなが郵便サービスを信頼できるようになるという考えを持っており、島で開催されるマラソン大会で優勝し自身の足の速さを示すことでさらに信頼してサービスを利用してほしいという仕事熱心な理由から、無理をしてでもマラソン大会に出場します。大会当日はチバシリさんと彼の状態を心配して追いかけるキョロちゃんの一騎打ちのような状態となるも、何とかチバシリさんの優勝という結果になり無事に郵送サービスの信頼性を広めることに成功します。会場はこの結果にとても活気づいていたものの、キョロちゃんだけは心配そうに顔を曇らせていました。</p><p>　</p><p>　後日、やはり足を怪我したままであるものの素早く配達をこなすチバシリさん。お届け先にはそこの住人と一緒にチバシリさんを待つキョロちゃんが立っています。そしてお届け先に着いたチバシリさんは配達が１２秒遅れたことを謝りますが、そこの住人に届けるのが早すぎると注意され、さらにエンゼルアイランドの住人はチバシリさんの怪我が治るまで配達物をゆっくり待つことに決めたという事実を明かします。ここで多くの住民が一気に登場して配達の速度に寛容である態度を示します。そして最後は、「のんびりするのも大切だよね」というキョロちゃんのセリフで締めくくられます。</p><p>&nbsp;</p><p>　この話におけるテーマは働き手のあるべき姿です。この話は2000年に放送されたものであるものの、働き方を見直す動きが強くなっている現在だからこそためになることが多いテーマであるように感じます。今の時代、少しずつですが勤務時間は減ってきています。しかし、この動きに合わせて勤務内容と給料が割に合っていないことや、働くこと・努力することの重要性を疑問視する声、手を抜くことを正義とする意見が強くなっていることが関係して、仕事の質を高められるように懸命に働く人が減っているという話を聞きます。つまり、過重労働をなくそうと取り組みを行うことで仕事を軽視する考えを持つ人が増えてしまい、仕事を休むことと懸命に取り組むことのバランスが崩れてしまっているのです。</p><p>　</p><p>　もちろん、自分を犠牲にしてまで働こうとしたり、正当な報酬がもらえない所で無理に働き続けたりすることは避けるべきことです。しかし、仕事に懸命に取り組む人が減ることは、その程度が極端なものになればなるほど、消費者が質の高い財・サービスを利用可能でなくなってしまったり、そもそも消費活動すらできなかったりすることにつながるため、これも同じくらい避けるべきことなのです。だから、私たちはこのバランスを保つことの重要性を理解し、そのために何をするべきか考えることに繋げる必要があります。今回取り上げた話のテーマは、休憩と仕事という相反するものの共存させなければならない二つの事柄についてよく考え抜かれたことで生まれた、まさに上記の活動を促すことを可能とするという点において非常にバランスの良い、素晴らしいものなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　では、このテーマをいかにして正確に子どもたちに伝えているのでしょうか。これについては少し長くなってしまったので、次回の記事に回します。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　</p>
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<link>https://ameblo.jp/pair-nuun-08/entry-12786014256.html</link>
<pubDate>Wed, 25 Jan 2023 14:52:54 +0900</pubDate>
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<title>子ども向けアニメの減少とその背景</title>
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<![CDATA[ <p>　2020年、アニメ「鬼滅の刃」が大流行したことを皮切りに、アニメに対する偏見が小さいものへと変化し、より一層多くの人に親しまれるようになりました。ベネッセが調査した2020年の小学生の憧れの人ランキングでは、２位、４位、５位以外は全て鬼滅の刃のキャラクターが選出され、2022年版でもいくつかアニメキャラクターが選出されています。ここから予想できるのは、子供向けアニメだけでなく週刊少年ジャンプや少年マガジンの作品原作のアニメなど、より少し高い年齢層を対象としたものも好んで見る幼稚園生や小学生が増えてきているのではないかということです。そしてこのような状況から私はだんだんと子供向けアニメ作品というものが極端に減ってきているのではないかと感じました。</p><p>&nbsp;</p><p>　そもそも子供向けアニメは、Wikipediaでは教育的なテーマ（特に他人への思いやりの気持ちを育むような作品テーマ）やシンプルで普遍的な作風を持つもの、Pixiv事典ではそれに加えて、丸くて等身が低く、色彩がはっきりしていて線が少ないデザインのキャラクターが登場し、簡潔なセリフで構成され、グロテスクな描写のような過激な表現が基本的には出てこないものであると定義されています。近年メディアから注目された「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」、「SPYｘFAMILY」といった作品をこれらの定義と照らし合わせて考えてみると、これら３つはやはり子供向けアニメというわけではなさそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>　では、実際に子供向けアニメは減ってきているのでしょうか。はっきりした推移を表すデータは見つかりませんでしたが、朝日新聞GLOBEにて2020年3月5日に掲載された片渕須直監督のインタビュー記事にて、彼は実際に子供向けアニメが減っていることを指摘しています。今放送されているものは、「ドラえもん」や「アンパンマン」など昔から主なキャラクターや設定を変えることなく制作され続けているものや、「プリキュア」や「ポケットモンスター」といったキャラクターやそれに密接に関係する設定は変わるけれど、シリーズを通じて固定された概念が登場し続けるものであることも指摘されていました。つまり、現状としてはまったく新しい子供向けアニメというのは非常に少ないのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　それではこのような状況になっている理由は何でしょうか。私は幼稚園生や小学生といった小さい子どもたちでも、上記で挙げたような深夜アニメを好みやすくなったからであると思いましたが、現代ビジネスの2020年4月25日の記事によるとさらに深い理由が存在するようです。</p><p>&nbsp;</p><p>　まずはアニメ制作に必要な金額の変化です。元々、子どもがよく見る時間帯、特に朝は一般のアニメが放送される深夜帯よりもテレビの枠の値段が高いです。それに加えて以前は安かった子供向けアニメの制作賃金は、年々求められるクオリティーが上がったことで高くなってきています。</p><p>&nbsp;</p><p>　次に制作資金の回収手段の違いです。深夜アニメでは、海外配信から得る収入が一番多くの割合を占め、その他にゲームやDVDを販売することで収入を得ています。しかし、子供向けアニメはDVDの売り上げが低いことが多いのです。一応「プリキュア」などの玩具と連動しているものはゲーム展開を図ったりおもちゃの販売による賃金回収を狙うことも可能ですが、そうでない場合は関連商品による収入はとても厳しいものとなります。</p><p>&nbsp;</p><p>　三つ目は子供向けアニメ市場への新規参入の難しさです。世界的にみると、実は子供向けアニメの市場はとても大きいのですが、その分ディズニーなどの競合企業も多いため、特に新規の作品で取り組んでいくことはリスクが高いのです。また、子供向けアニメの中でも玩具と連動したアニメはおもちゃの販売時期にストーリーの進む速度を合わせなければいけないので、そのような点でも新規参入のアニメ会社には難易度が高いと言えるでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>　最後の理由として挙げられていたのは子供向けアニメの制作を志す人が少ないということです。これは私が考えた理由と関連すると思うのですが、アニメ業界を志す人の多くが子供向けアニメではなく深夜アニメを見てが中心であり、いざアニメ業界に入っても、子供向けアニメの方が難易度が高いので、何か流れが作られない限り挑戦したいと思う人すら現れないのです。冒頭でも書いたように、現在は小学生、早い子では幼稚園生でも深夜アニメを好む子どもが多いため、この傾向はさらに加速するのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　上記の内容から、子供向けアニメの数、特に新規作品の数が減ってきているのは事実であり、そこには様々な要因が存在していることがわかります。しかし、子供向けアニメだからこそのすばらしさが存在していることも事実であり、これからその良さを経験できる機会が少なくなってしまうのはもったいないように感じます。少しでも子供向けアニメの魅力を知ってもらうために、次回の記事ではおすすめの作品を紹介しようと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>参考にしたサイト</p><p><a href="https://gendai.media/articles/-/72032?imp=0">「日本は子供向けアニメが少ない」問題の真実…なぜ往年より減ったのか（飯田 一史） | 現代ビジネス | 講談社（1/5） (gendai.media)</a></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://globe.asahi.com/article/13185352">日本アニメは世界の潮流から外れている　片渕須直監督が本気で心配する、その将来：朝日新聞GLOBE＋ (asahi.com)</a></p>
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<link>https://ameblo.jp/pair-nuun-08/entry-12785887463.html</link>
<pubDate>Tue, 24 Jan 2023 19:27:13 +0900</pubDate>
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<title>「ぼっち・ざ・ろっく」が強者アニメに囲まれながらも大ヒットしたのは何故か</title>
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<![CDATA[ <p>　2022年の秋、アニメ界はかなりの盛り上がりを見せていました。「このマンガがすごい」２年連続１位、アメリカの権威ある賞であるハーヴェイ賞の「Best Manga」部門２年連続受賞という史上初の快挙を成し遂げた漫画を原作に持つ「チェンソーマン」、海外の人気アニメランキングでは必ず上位に位置する「モブサイコ100」シリーズの最終章、18年ぶりに続きがアニメ化された「Bleach」など、放送前から注目がとてつもなく高い作品がとても多かったのです。しかし、アニメ放映前は上記の作品ほどの知名度が無く、人気作品と放送時期が被ったにもかかわらず、国内、海外ともに様々な2022秋の人気アニメランキングの上位に食い込んだ作品があります。それは、「ぼっち・ざ・ろっく」です。この記事では以降本作のネタバレが含まれているので、何も知りたくない人はこの記事を読まないことをお勧めします。</p><p>&nbsp;</p><p>　本作品の主人公、後藤ひとりは人とコミュニケーションを取ることが極端に苦手であるため、中学校時代は友達が一人もできませんでした。そのため、将来有名になってちやほやされたいという理由でギターの練習に中学３年間をつぎ込みかなりの技術を身に着けることに成功したものの、その技術を披露することができるのはインターネット上のみであり、それを生かして人と何かを成し遂げることはできませんでした。高校に入学していくらか経ったある時、ギターを背負って登校すれば誰かが話しかけてきて友達になってくれると考え行動に移したひとりでしたが、思惑どうりにならず公園で落ち込んでいました。その時、ライブ当日にいなくなってしまったギター担当のメンバーの代わりを探すために、近くを散策していた伊地知虹夏に話しかけられ、助っ人として彼女のバンドに参加することになります。このことがきっかけとなり虹夏のガールズバンド、「結束バンド」の正式メンバーに加わったひとりは、虹夏、山田リョウ、喜多郁代の３人のメンバーとともにバンド活動をしながら、精神的に成長していきます。以上が本作品の概要となります。</p><p>&nbsp;</p><p>　では、この作品がここまで人気になった理由は何なのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　それにはまず、登場人物たちの性格が関わっていると思います。本作のキャラクターは個性が強く独特な行動を取ることが多いものの、性格に難がある人はいません。特に主人公のひとりはうまくコミュニケーションを取ることができないゆえに、キラキラとした青春を送ることもできなかったため多少性格が歪んでいても無理はないように思えます。しかし、実際は自信を持つことができない性格であるゆえにプライドのようなものが無く、演奏技術の高さなど人の良いところを心から尊敬しつつ、そこから自身の短所に気づくことができる良い人格を持ち合わせています。また、物語後半で虹夏がバンド活動を頑張っている理由を明かした時には、その夢をかなえられるように自分も頑張ることを決めているなど、思いやりのある性格でもあります。これらの要因から、人物同士による衝突は最後まで起こらないので、ストレスなく楽しむことができます。</p><p>&nbsp;</p><p>　次に考えられる理由は現実離れしたユニークな表現です。例えば、第７話ではライブで着るためのTシャツのデザインを考案するために虹夏と郁代がひとりの家に向かいます。そこでひとりが考案したデザインがあまりにも魅力的でないことがきっかけで、虹夏と郁代はいつもジャージしか着ていないひとりの私服がどのようなものか気になりだします。２人に催促されひとりは私服を着ますが、その姿があまりにもかわいらしかったので、今度は虹夏がひとりの髪型まで整えようと前髪を上げました。これによって過度なストレスを抱えたひとりの体は無数の綿埃のようなものへと変化し、分裂して飛び散ってしまいます。このような表現は海外、特にアメリカのアニメではよく見られるものに近いです。有名な例を挙げるとトムとジェリーなんかがそれにあたります。皆さんもジェリーのいたずらによってトムの体が粉々になったりまっ平につぶれてしまったりしているところを見たことがあるのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　以上の点から、この作品は日本でも海外でも親しみやすく、人気のある仕上がりになっているのではないかと私は思います。これはあくまでも全話１回ずつ見た経験から考え付いたことなので、繰り返し見ることでまた新しい理由が見つかるかもしれませんね。</p><p>　</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pair-nuun-08/entry-12785776551.html</link>
<pubDate>Tue, 24 Jan 2023 03:23:41 +0900</pubDate>
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<title>初めて聞く曲なのに懐かしさを覚えるのはなぜか</title>
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<![CDATA[ <p>　皆さんは平沢進という方が作った『金星』という曲をご存じでしょうか。この曲は３分２０秒ほどの長さの曲であり、その間に使われる楽器はアコースティックギターのみと、昔のフォークソングを彷彿とさせます。ギターが生み出すしっかりと曲を支える重量感がありつつも、ぬくもり感じる音色と跳ねるようなリズムの低音と、音域が高いものの丸みを持ち、軽やかに流れるような高音のメロディー。それに加え、平沢自身の優しく囁くような、時にはさわやかな気持ちとともに誰かに呼びかけるような歌声によって、曲全体に落ち着きと静けさ、穏やかさが生まれ、大変聞き心地の良い曲となっています。</p><p>&nbsp;</p><p>　私は初めてこの曲を聞いた時、小学校１年生のころ地元の図書館で好きな本を探していた時のことを思い出し、とても懐かしい気持ちになりました。しかし、人は繰り返し聞いたり、過去にある思い出と曲の印象が結びついている曲でないと懐かしいという感情を覚えにくいそうです。では、なぜ『金星』を始めて聞いたにも関わらず、懐かしいという感情を抱くことになったのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　そこで私は、何かしらの手がかりを手に入れるために、とりあえずこの曲に対して感じたことを深堀りしようと思いました。そして、私はこの曲が昔よく聞いていた童謡たちに似ていると感じていることに気づきました。また、この事実を踏まえたうえで、この曲を聴いて思い出したことを再考してみると、昔の出来事であると言えど中学校、高校の思い出など、懐かしいと思うものはいくらでもあるものの、上記の記憶を限定して思い起こしました。ここから、この曲が懐かしく感じた理由は、この曲は小さいころよく聞いていた童謡と同じ特徴を持っているため、童謡を多く聞いていたことや、童謡に触れていた当時の記憶が思い起こされることではないかと考えました。</p><p>&nbsp;</p><p>　では、その同じ特徴とは何でしょうか。私はまず、『金星』に使われている音階に注目しました。音階というのは、音を音の高さにしたがって並べたまとまり、または音の組み合わせのことです。皆さんが良く知っている「ドレミファソラシド」もその一種です。また、音階はその曲の雰囲気を自然と定めてくれるという力を持っています。例えば琉球音階がその良い例です。この音階は沖縄民謡で使われる音階で、『涙そうそう』や『海の声』などの曲にも使われています。琉球音階は下の画像で示した音で構成されており、この音階中の音を適当に組み合わせるだけで、沖縄民謡が持つ、独特な吞気で明るい雰囲気を生み出してくれます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　琉球音階</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221221/12/pair-nuun-08/df/e5/j/o2532117015219062326.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="286" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221221/12/pair-nuun-08/df/e5/j/o2532117015219062326.jpg" width="620"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　ここで、使われている音の数はたった５つです。「ドレミファソラシド」などの音階に慣れている人にとってこれには違和感を覚えるかもしれません。確かに、音階は７音で構成されることが多いですが、これは昔、音楽が発展していた西欧の文化に合わせたことによるもので、それ以前はそれよりも少ない音、または多い音で構成された音階を使っている民族は少なくありませんでした。現に日本でも5音で構成される音階が主流でした。</p><p>　</p><p>　さて、では肝心の『金星』に使われている音階は何かというと「ヨナ抜き音階」と呼ばれるものです。この音階は奈良時代に中国からもたらされたもので、雅楽で使われる音階の元になっているなど日本人に古くから愛されてきたものです。また、この音階はまさに多くの童謡で使用されています。つまり、この曲にて「ヨナ抜き音階」が使われていることが童謡との共通点と言って良いでしょう。</p><p>　</p><p>　しかし、この曲ではこの音階の始まりをドではなくファへと移して使われています。先ほど、音階中の音を組み合わせるだけで、民謡などの雰囲気を再現できると書きましたが、音階の始まりをずらすと下の図のように、音階を構成する音が変わってしまいます。しかし、それでも音階が持つ雰囲気は保たれます。なぜなら、音階の音の構成は各音が持つ響きや、音と音の高さの差自体が持つ響きに重点を充てて構築されるものだからです。この各音が持つ響きというのは「ドレミファソラシ」であれば、ミとシといった暗めの響き、それ以外が持つ明るい響きなどといったものです。また、音の差が持つ響きというのは、ドの音と一オクターブ上のドの音、つまりある音とそのちょうど一オクターブ上の音の差のことを完８度と呼びますが、これは明るさや聞こえの良さにおいて、他の音の差よりも優れていることです。つまり、今回の例では音自体と音の差自体という、二つの要素が保たれているため、ヨナ抜き音階が持つ雰囲気が崩壊することはないのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ヨナ抜き音階</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221221/13/pair-nuun-08/51/49/j/o2532117015219082221.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="286" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221221/13/pair-nuun-08/51/49/j/o2532117015219082221.jpg" width="620"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　『金星』の場合のヨナ抜き音階</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221221/13/pair-nuun-08/ea/ee/j/o2532117015219082801.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="286" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221221/13/pair-nuun-08/ea/ee/j/o2532117015219082801.jpg" width="620"></a></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p>　今回はこの曲で使われている音階に重点を置いていきました。しかし、曲を構成する要素はギター演奏におけるリズムパターンなどたくさん存在します。今度は楽器の演奏パターンを童謡と比べて共通点はないかを探していきたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>『金星』の商品リンク</p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E9%87%91%E6%98%9F/dp/B00BSK58Q2">Amazon Music - 平沢 進の時空の水 - Amazon.co.jp</a></p>
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<link>https://ameblo.jp/pair-nuun-08/entry-12779293691.html</link>
<pubDate>Wed, 14 Dec 2022 14:36:43 +0900</pubDate>
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<title>あまり怖くないものに対して恐怖心を抱くのはなぜか</title>
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<![CDATA[ <p>　YouTubeに投稿される動画のジャンルの一つに検索してはいけない言葉を検索してみるというものがあります。検索してはいけない言葉とは、見た人に恐怖やトラウマを与える可能性が非常に高いコンテンツに与えられる区分のようなもののことです。その中には外見やデザイン、展開はあまり怖くないのに、なぜか恐怖感を抱いてしまうようなものも多く存在します。私はこのようなコンテンツを見ていて、なぜ怖いという感情を私たちに引き起こすことができるのか疑問に思いました。そこで、今回は上記の特徴を持つコンテンツを一つ例に挙げ、考察していきたいと思います。</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p><p>　今回取り上げるのは"Mereana Mordegard Glesgorv（ミリアナ・モルデガード・グレスゴフ）"という動画です。この動画には画面やや中央に、短髪の中東系の男性が映し出されます。画面には原色に近い赤と黒のみが使われ、男性の背後にある壁は不気味なもやのようなもの模様をしています。彼は無表情のまま前をじっと見つめているだけですが、最後に一瞬だけ眉を吊り上げ、怒ったような表情になります。ただ男性が見つめているだけの映像ではありますが、何とも言えない不気味さをまとい、おのずと先の展開がどのように展開するのか緊張するような恐怖を私たちに与え続けます。では、この動画を検索してはいけない言葉とたら占めている理由は何でしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　それは配色です。この赤と黒だけ使われていることがポイントなのです。実は私たちは色を認知したときに、無意識に様々な連想を行います。色ごとに連想させるものは大きく異なり、赤の場合は興奮や怒り、危険を、黒の場合は陰気さや死、恐怖などを連想させるのです。つまり、私たちは気づかぬうちに赤と黒二つの色が持つ意味を受け取っていて、その意味が恐怖という感情に変化したと考えられるのです。しかし、実は赤以外にも危険を連想させる色が存在します。それは黄色です。皆さんも安全標識や遮断器などで、黄色と黒の配色を見たことがあるのではないでしょうか。そうなると赤と同じく危険の意味を持っているため、赤にこだわる必要はないように思えてきます。ではなぜ黄色ではだめなのか。それは色の目立ち方による受ける印象の変化が関わってくると個人的に思います。色の明度は明るい方から順に、黄色、橙、緑、赤、青、紫と並んでいます。黄色の方が赤と比べてかなり明るいのです。すると、黒と組み合わせた時に強いコントラストが発生し、黄色がよりはっきりと認識されるようになるのです。つまり、この時の黒は黄色を目立たせることで、自らが持つ陰気な意味合いを目立たせないようになっているという風にとらえることが可能なのではないでしょうか。事実、皆さんが普段黄色と黒の遮断器などを見ても、不気味さや恐怖を感じることは少ないと思います。一方、黄色よりも明度が低い赤の場合は黒を踏み台にして自身のみ目立つことが無いため、自身が持つ意味合いを認識させつつも、黒が持つ意味合いも認識させることができるため、陰鬱な雰囲気を作り出すことができるのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　さて、ここまで配色について語ってきましたが、それに加えてもう一つ重要なことがあります。それは色に対する人間の認識の優先度が高いということです。これは人間の五感の認識の割合の内、８３％は視覚が占めていて、さらにその中で色が占める割合は約８０％となっていることと、男性用トイレのマークと女性用トイレのマークの色のみを入れ替えたところ、間違える人が続出したという研究結果から考えられることです。そして、この仕組みによってはじめて、怖くないものを怖いと思わせることができます。なぜなら、この仕組みによって、対象物に恐怖を与える要素が無かったとしても、その対象を怖いものと捉えなければならないという状態に切り替えることができるからです。詳しく説明すると、私たちは画像を見た時にまず色を認識し、そこからその色が持つ意味を無意識下で捉えます。そしてその意味によって対象物に関する感情や見方が定められ、それに沿って私たちは形や対象の細部を捉え始めたりその後の展開を警戒しだしたりしているのです。今回の例で言うと、まず初めに赤と黒の配色を認識して危機感や恐怖感を抱いたことで、この動画に対して恐怖や緊張を持ちながら、男性の容姿やそのおかれている状況などを恐れながら視聴しなければならない状態に切り替えてから、動画の視聴を進めることがそれにあたります。</p><p>&nbsp;</p><p>　今回考察したことを踏まえて様々な画像を見ていくと、確かに赤と黒の配色を持ち合わせているものが多いように感じました。しかし、今回取り上げた"Mereana Mordegard Glesgorv”に関してはこれだけで怖い理由が片付くように感じますが、世の中には配色を変えたとしても怖いと感じるものも多いと思います。そのため、次回は色以外の要素、形に注目して考察していきたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pair-nuun-08/entry-12773487627.html</link>
<pubDate>Tue, 08 Nov 2022 16:10:18 +0900</pubDate>
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<title>『消えたとて浮かぶもの』有名な２ｃｈスレの面白さの原因を考える</title>
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<![CDATA[ <p>　２ｃｈには「伝説のスレ」として注目を浴び続けるスレッドが数多く存在します。今回はその不気味な内容から２０年たった今でも話題になるスレッド、『消えたとて浮かぶもの』を取り上げ、このスレッドを面白くしている要因は何かを考えていきたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>　まずはこのスレッドの大まかな内容を説明します。このスレッドを立ち上げた人物であるかしましが、自分の所有物が消えたり浮いたりするという、理解が追い付かない、神秘的かつ不気味な状況を体験している人が自分以外にもいないのか尋ねることから始まります。この話題に対してスレッドに書き込みを行う人々（以下スレ民）はかしましに質問を繰り返し、そこで得た情報から考察を行ったり、その内容とかしましのおぼつかない語り口に怯えたりしています。　</p><p>　　　　　</p><p>　しばらくして、１６１の書き込みを皮切りに、かしましは鏡の中に存在し、彼の命を狙う存在である（あ）の話を始めます。この話題が生まれてから、スレ民たちは（あ）に関する質問や考察を行うようになります。このあたりから所有物が消えたり浮いたりするという現象に関する話は立ち消えになってゆき、（あ）の存在がスレッドの中心となっていきます。しかし、現象が人知の及ばない範囲にあることはもちろん、それを説明するためのかしましの語り口も難解なものであったため、スレ民の中からメールで話を直接聞こうとする流れが生まれます。そのため、結局はメールではないものの、電話でかしましから話を聞くことになります。</p><p>&nbsp;</p><p>　ここで、電話でかしましとやり取りをしたあるスレ民が、かしましの会話の異常性をほのめかすような態度をとったことで、スレ民たちはさらなる恐怖と不気味さを抱くことになります。あまりにも多くのスレ民が恐怖による動揺を書き込むようになり、かしましの話を進めることが困難になったため、他のスレ民の提案により、かしましは電話をやめることにしました。</p><p>　　　　　　</p><p>　ここで突然、かしましは自分が間違えていて（あ）が正しいのではないか、（あ）がこの世界の人間であり、もう一人の方である自分が鏡の中の人間ではないか、しかし一方で自分の方が正しいのではないかなどど訳の分からないことを言い出し、混乱し始めます。そして今まで自分が書き込んできたことは嘘であるとして否定し始めます。さらに今度は、急にこんなスレッドを立てた覚えはないと言い出します。多くのスレ民がかしましの急な変貌ぶりにさらなる恐怖を募らせていきますが、あるスレ民が（あ）がかしましの体を乗っ取ったのではないかとの考察を書き込み、彼らの恐怖感はますます増えていきました。結局、物が消えたり浮いたりする現象は本当なのか、（あ）の正体は何なのか、またかしましは体を乗っ取られてしまったのか。登場したすべての謎が解決しないまま、私たちに多くの恐怖を残してこのスレッドは終了します。</p><p>&nbsp;</p><p>　さて、このスレッドは物が消えたり浮いたりする現象に対する考察などの場面、（あ）に関する場面、通話の場面、自分を疑いだすかしましの場面、そして、かしましがスレッドを立ち上げてないと言い出す場面の計５つの場面が存在します。私は、このスレッドが読み物として優れている理由の一つとして、様々な種類の話題が多く、そしてそれが高い頻度で提供されていることが挙げられるのではないかと思います。というのも、このスレッドと同じくとても有名なものに「俺の先祖は恐ろしい人物かもしれない…」があるのですが、このスレッドではスレッドが終わるまでにたったの２つしか話題が提供されず、しかも２つとも話の傾向が似ているため、飽きてしまいやすい構造になっています。その証拠に段々とスレッドに書き込みがされるペースが遅くなったり、他のスレ民からこのスレッド内のスレ民の減少を何回も指摘されたりしていました。</p><p>&nbsp;</p><p>　また、２ｃｈの特徴として様々な人が好きなタイミングで好きなことを語ることができるという特徴があります。そのため、話が大筋から大きく外れてしまうことも少なくありません。例を挙げるなら、今回の場合はかしましへの通話の場面がそれにあたるでしょう。この場面は後のスレッドの展開に関わることはなく、むしろ話を進めるうえで邪魔なものとして扱われます。ではこの場面が無かったらどうでしょうか。あくまで私の感想の範疇を超えることはありませんが、かしましの様子が急変する最後の場面を読んだときの衝撃が和らいでしまうのではないかと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>　これには消えたり浮いたりする現象や（あ）についてかしましが説明する場面と通話の場面、そしてかしましが急変する場面が持つ恐怖の種類が異なることが関わってきます。まず、かしましが自身が体験する事象に関して説明している場面では、スレ民がかしましの話を聞き、質問したり考察したりしていることがほとんどです。つまり、かしましの話や語り口にこそ独特な怖さは存在するものの、衝撃的な出来事は起こらず淡々と会話が続いていくだけなので、この場面での恐怖は非常にじっとりとしていて落ち着きが感じられるものとなっています。</p><p>&nbsp;</p><p>　一方で、通話の場面では、かしましとスレ民による、より直接的なかかわりが繰り広げられます。これによりスレ民たちはより強い当事者意識を感じることができるようになります。また、もちろんかしましは一人しか存在しないため、すべてのスレ民と話すことは不可能であり、それゆえ強まった当事者意識からくる強大な好奇心を実際に電話をしたスレ民に向ける人も表れます。つまり、この場面での恐怖には強まった当事者意識と好奇心による感情の高まりやワクワクとした気持ちが含まれているのです。</p><p>　</p><p>　そしてスレ民たちに恐怖の高まりだけでなく、ワクワクした気持ちが芽生えてきたころに、突然かしましは自身が（あ）ではないかと疑い、混乱し、挙句の果てには今まで自分が書いてきたことすべてを否定しだします。この急な恐ろしい変貌ぶりにスレ民が持ち合わせていたワクワクとしたかわいらしい感情は一気に鎮まります。そしてこの感情の落差によって恐怖感がさらに倍増するのです。皆さんもこれに近いような体験をしたことがあるのではないでしょうか。例えば、普通の死亡事故に関するニュースを見るよりも、遊園地などの本来なら楽しい場所で起こった死亡事故のニュースを見る方が悲しいという感情は強まると思います。つまり、もしかしましが謎の現象について語る場面からそのまま最後の場面へと話が繋がっていたら、上記の効果は現れないため、通話の場面がある時に比べると衝撃がかなり弱まってしまうのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　ここから、話がずれてしまうということは一見すると作品を駄作へと変えてしまう要素のように感じますが、今回のスレッドにおいてはその面白さに貢献している要因の一つであるように感じます。</p><p>&nbsp;</p><p>　今回は２ｃｈのスレッドから物語を面白くする理由について考えていきました。２ｃｈはあくまで掲示板のため、現実で起きている出来事、またはそれを装ったものであることが多いですが、物語を作るうえで大切なことを学ぶことができたように思います。これから他のスレッドも取り上げてみようと思います。</p><p>　</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pair-nuun-08/entry-12769010214.html</link>
<pubDate>Wed, 12 Oct 2022 13:14:50 +0900</pubDate>
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<title>『四畳半神話大系』から見る、視覚的心理描写</title>
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<![CDATA[ <p>　今回は森見登美彦作の恋愛小説を、独特かつ優れた視覚的表現を持つ湯浅政明によってアニメーション化した作品である、『四畳半神話大系』を取り上げ、その中でも特に感動した表現について考察していきたいと思います。この記事では多少ネタバレが含まれます。苦手な方はブラウザバックすることをお勧めします。</p><p>　本題に入る前に皆さんに理解しておいてほしいことがあります。それは、この四畳半神話大系という作品は主人公「私」による体験談であるということです。もちろん「私」による体験談ですから、人物紹介の場面以外では「私」は必ず登場しますし、そこには「私」の人物に対する感情などが表れるのです。</p><p>　さて、ここから考察に入ります。今回は、「私」が城ケ崎から彼が愛する人形、香織さんを数日間警護することを頼まれ任務をこなしていたものの、「私」自身も香織さんに対して恋心が芽生えてしまい、城ケ崎が香織さんを取りに来る前に駆け落ちしてしまった後の場面を取り上げます。この場面では、小津という人物がとても暗く誰もいない「私」の部屋の中で、香織さんと駆け落ちするとの内容が書かれた手紙を発見し、そのことを電話で城ケ崎に報告します。</p><p>　この小津という人物は、交友関係が広く城ケ崎の片腕としての役割も担っている人物ですが、人の不幸が大好きないたずら小僧のような存在で、城ケ崎と敵対関係にある人物にも味方しており、それぞれに裏切り行為をしています。また、「私」と腐れ縁でつながった仲であり、そんな彼を全力でダメにしようとしてきます。このようなことから、「私」は小津の顔がちょっぴりかわいらしい妖怪のような顔に見えるほどの嫌悪感を抱いています。しかし、この時の小津は普段の妖怪のような顔とは程遠い、いたって普通の人間の顔で描かれているのです。</p><p>　では、それはなぜなのでしょうか。それはこの場面が体験談の体裁をとる今作にとって、「私」が登場していないというイレギュラーなものであることが原因です。「私」が登場しないということは、「私」の人物に対する感情というものが表れることはないということになります。つまり、普段は「私」の小津への嫌悪感を表現するために妖怪のような姿で描いていたものの、「私」がいないため敢えてありのままの人間らしい姿で描かれているということです。実は、この小津の真の顔は最終回で「私」の小津に対する感情が良いものへと変わることがきっかけで、また登場します。ここでわざわざ妖怪から人間への表現法の変化が取り入れられているのは、この段階で小津の顔の変化に違和感を持たせることで最終回での変化を目撃した時の感動を増強させ、その感動を「私」と小津の友情のすばらしさをより強大なものにするための着火剤として利用するためなのだと思います。</p><p>　それでは、これで今回の記事を終わりにします。</p>
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<link>https://ameblo.jp/pair-nuun-08/entry-12767767951.html</link>
<pubDate>Wed, 05 Oct 2022 03:15:21 +0900</pubDate>
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