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<title>仏陀と一緒に行きましょう！</title>
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<description>1998年からの古い記事をアップさせて頂きます。近況については時々アップさせて頂きます。m(__)m</description>
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<title>ＰＡＲＴ６０：１９９９年１１月１９日「宗教的拒絶反応？」</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/32/e5/j/o0271019213995259174.jpg"><img alt="" height="192" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/32/e5/j/o0271019213995259174.jpg" width="271"></a></p><p style="text-align: left;">宗教拒絶反応？<br><br>　。（ネタ切れ？）今回は前回の予定<br>を変更致しまして、今ちまたで話題になっている「カルト教団」や「宗教への拒絶反応」についてお話したいと思います。</p><p style="text-align: left;">これらの問題は本来の宗教へのマイナスイメージの増加やますますの経済崇拝宗教？への信仰者の増加という心から唯物論オンリー社会への益々のご発展につながるからであります。<br>またそれが良くないと言っているのではありません。経済、つまりお金信仰主義がさらに強くなればそれにより皆が本当の安心や、また逆境になんとか耐えうる芯を持つことが出来ることをも抹消しかねないことに不安を感じるからであります。<br>その芯を持って（信でも構いません）の経済ならば良いのですが、そうではないとまさしく「人間至上主義」になってしまうかもしれないからであります。特に日本は昔から精神文化の優れた民族でありました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">この平和（諸外国に比べて）な日本はきっとその過去の素晴らしい精神文化からきていることは疑うことはないと思います。<br>つまり「殺すな」「盗むな」でありますが、確かに過去にひどい無慈悲な侵略、略奪、処刑が行われた事実はあります。その点はぜったに忘れて はならないことであります。<br>しかし現在の平和は経済的安定のみではなく、基本的な倫理観とでもいうのでしょうか？<br>そのことも大きく作用しております。（日本的精神文化全てを肯定しているわけではありません。）何事にもバランスが大事でありますが、そのバランスが日本人が持っていた山や海、動植物を神とみるような自然観や仏教からくる教えやその他宗教もその内容から日本風に抽出され、土着し、好バランスを生んでいることは事実であると思われます。（全てそうではありませんが）しかしこの真面目な日本人は当然全力で仕事もしてしまいます。（最近アメリカもそうでありますが）また、そのようにすることが美徳という風潮もございます。なにごとも「やりきる！」ということは本当に素晴らしいのですが、「やりすぎ！」も問題であります。<br>　しかし現在は経済不況でありますので、さらなる努力をせざるを得ません。それにより疲れ切った日本人は心の拠り所を求めます。それは本当に自然なことでありますし、もしかしますと、心の精神の悲鳴なのかもしれません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">緊急事態のサイレンなのかもしれません。少子化、老後介護問題、環境問題、新しい難病問題等々いつの時代でも問題は 山積みではありますが、ブッダの言うとおりそれは生存するいじょう当たり前のことなのかもしれません。しかしその当たり前なことは解っていても苦しむのが衆生であります。真正面から受け止めよ！では厳しすぎるのかもしれません。幸福を求め安心をもとめてばく進してきたことが、今信用出来なくなってきています。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">そしてそれを信用できなくなるとなにも信用できなくなるか、又はさらに強引に信用できるモノを探します。それは自然なことではありますが、「そんなの甘い！」とおっしゃられる方々もいらっしゃると思いますが、誰もがそんなに屈強ではありませんし、またどうしようもない状況に置かれている方々もいらっしゃいます。そして芯がなければなおのこと辛いのみであります。<br>　そこで宗教がひとつの手段となりますが、その時仏教はさらに厳しく（と受け取れてしまう）、教えてくることもございます。しかし逆境であたふたしながらも、なんとか耐えるというかしのいでしまうことに力となるのが本来の宗教と思います。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">つまり問題自体が奇跡のように消えるのではないと思います。もしそれが起きたとすればそれはそれで素晴らしいことですが、平常心を失い、憑かれた状態での解 放では本末転倒であります。自己制御が本来の方法であります。現実逃避では逆であります。現実をありのままに受け止める、又はなんとか現実を見ながら生きられるように持っていくのが教えであると思います。<br>　わたしも「宗教」という言葉を聞くとなにか得体の知れない気分になります。こんなｈｏｍｅｐａｇｅを作っていてもであります。従ってこのｈｏｍｅｐａｇｅでもつい宗教という言葉を避けたくなってしまいます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それは仏教が宗教である。ということを日本語では言いたくないほどに自分自身も拒絶反応を持っているようであります。それで最近は「道」と言いたくなります。本当は「真理」とかももっと使いたいのですが、なかなか（苦笑）であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">仏教も瞑想や観想に重点を起きます。というより、念仏も真言もお題目もとくに座禅なんかはまさに瞑想といえるかもしれません（形だけです）。しかしそれは乱雑に成りがちな自分自身を落ち着け、本来の自己を現出するのが目的であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">仏教で言う解脱とはありのままに見る、聞く、考えることが出来る。つまり自分の勝手な価値観や都合を外してみることにより、自己を制御して（自己を無くしてでもいいのかもしれません）、本来の自己の確認であります。<br>　従って瞑想により、現実逃避としか見られないようないわゆる精神病ではないのかと思われる状態とは全く逆であります。ありのままに見られるからこそ逆境になんとか耐えられるのであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">確かに現実をありのままに受け入れて全てＯＫ！という状態にはなりません。逆に安心しきって平々凡々となるのでもありません。逆にありのままにこの世の中が見えたらどうなるのでしょうか？きっと色々な愚ともいえる行動をとっている自分に気がつくはずであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">そして何が問題なのかもよく理解出来るはずであります。それはきっと他人からみても人格破壊とは見えないと思います。また他人を低く見たり、慢心したりするのも減ると思われます。それはありのままに自分自身の愚を認めたからでありますし、そこに共感や慈悲が芽生えることは自然なことであるからであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">愚を認めたからといって自己嫌悪ばかりではありません。「そうなのか、解った」といった感じでしょうか？それを認めるのには勇気が必要かもしれませんが、なぜかそこに「どうせ俺はダメ人間なんだ」では無い了解があるように思えます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">つまり自分のコンプレックスや防御しているものから 逃避するのではなく、また積極的に自己開発スクールのように認めてプラスにするのではなく、ただ並べてみるというか、眺めてみるのかもしれません。それにより、実際並べてみますとその中に自分自身が無いという摩訶不思議に出会います。そしてそれを並べつくして、並べるものが無いときになにかが起きるのかもしれません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">念仏でまかせきった状態も、真言行での三昧も、座禅での「ただ座った」状態ももしかすると並べつくす又は、並べることも自らが並べていたことに逆に気がついた時なのかもしれません。<br>　そしてなにもかも否定するのではなく、無我や、空というのはきっと「そういう性質がある、そういう性質でないと存在できない」ということなのかもしれません。話しがいつものノリになってしまいましたが、つまり（ここまで引っぱっておいて！）解脱とは最近イメージされる（誤解される）ものとは全く違うものでありますし、人格形成ならともかく、人格破壊というよりは人格完成（さらに進化しますが）なのではと思っております。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし経済唯物信仰ではそれは認められにくい部分でもあります。現実逃避でもなんでもよいから救ってくれ、奇跡（物質現象的な）をくれ！、これ をやればどんな良いことがおきるの？これだけ払ったんだ救われて当然です！という（極端ですが）救われたいということが具体的（苦笑）ではありますが、またこれまた自然な願いかもしれません。そしてそれが発端だとしても、やがては本筋へといざなってくれるのが本来の「道」であります。<br>　浄土系仏教での「他力本願」もそうであると思っております。それは「まかせきった」状態であれば逆境でもなんでもまかせきれるほどの信心が決定しているから出来ることであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">なかなかまかせきることは難儀であります。まかせきっているということはどっかりと腰を据えられる状態であります。つまり強力な芯を得てこそ実現できるのが本来の他力本願であります。しかしそうは言っても目に見える利益があると思うからすがるのでありますから、仏教の本来の厳しいからこそ優しいという部分はそう簡単に得られるものではないこともわかります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">誰が好きこのんで逆境時にさらに自分に対して厳しく戒め続けられるのでしょうか？そこで発端としてはしょうがないのかも？と思っているわけであります。そしてその厳しくもやさしい部分に救いを感じることができたならば、信仰になるのかもしれません。また同時に生きていることの素晴らしさ（瞬間瞬間の連続の毎日！）一期一会、他との繋がっている喜び、そしてその喜びをも眺められる安定した瞬間に進んでいくのかもしれません。<br>　なかなか仏教は自分の都合の良いようにはいかないし、そのように説いてくれないかもしれません。しかし逆にそこになにか安心感があることも感じます。その摩訶不思議な安心感に「救われているかも？」と感じるように思えます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">本当のことを言えるまたは言ってくれる（注意でもかまいません）友人は少ないものです。また言われると逆に腹が立ったり、また言うと友人で無くなるように思い、相手に合わせてへつらうことが私なんか多いのですが、仏教はどうどうと忠告してくれます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">そこに本当のやさしさが見えればそれはどれだけ素晴らしく、またその人にとってどれだけ救いになるかわかりません。人はどう生きられるか、からやがてどう死ねるか？になります。色々な努力もそれが目的なのかもしれません。しかし私なんかそれよりも手段ばかりに溺れて、欲望満足のみで生きてしまいます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">どんなに酒を飲んでも、どんなに騒いでも一時のストレス発散にしかなりません。人生の一大事に目を瞑っての行動にしかなりません。それはむなしいのではなく、（そう考えると刹那主義になる）そのように行動してなかっただけであります。それはそれを考えたくないという自己防衛が働いている のかもしれません。<br>　しかしそこに無理かもしれませんが、なんらかの解答、了解を得ることが一大事であると思われます。それでこそ良い人生！となると勘ぐっておる真の欲望人間でありました。それではお後がよろしいようで、、、<br>　南無釈迦牟尼仏　南無地蔵菩薩摩訶薩、南無仏南無法南無僧　　　　　合掌</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pakolabuddha/entry-12301713549.html</link>
<pubDate>Tue, 15 Aug 2017 14:17:12 +0900</pubDate>
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<title>ＰＡＲＴ５９：１９９９年１１月６日「授かりっぱなし！」</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/a0/bd/j/o0168027513995238186.jpg"><img alt="" height="275" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/a0/bd/j/o0168027513995238186.jpg" width="168"></a></p><p style="text-align: left;">　今回は私事で申し訳有りませんが、自分が仏教にハマル（失礼）までの間に多くの方々、それは現世の方、過去に存在された方々または人間以外にも多くの方々とのご縁により、いわば「授かりっぱなし」と実感できる体験を恥を掻き捨て次回のネタを考えるつなぎ？<br>としてご勘弁頂ければと思います。お許し頂けるならば続けさせて頂きます。<br>　とかいって続けるのではありますが、、、さて私のページのコーナーでも載せさせていただいている通り、人生の師匠となっていただいた方々がいらっしゃいます。まうはその中で私が本格的に仏教フリークにならせていただくにあたり、その初期段階の縁を開花させていただ<br>いた「三重県の真言宗高野山行者」のおばちゃんについて書かせて頂きます。なぜあらためて書きたいのかと申しますと、そのおばちゃんからの教えが私のページに載せた内容と感じ方、理解の仕方、ありがたさが変化している部分が多いからであります。<br>　おばちゃんの経歴については「行者さんに教わったこと」というコーナーに書いてありますので、ここではごく簡単に書かせて頂きます。<br>　出会いは１９９０年頃です。怪しい、邪道！と言われるのを覚悟で、正直に感じたことを書かせていただきます。それにより、疑念やおしかりを受けるかもしれませんが、それも私の縁と思い隠さずに書かせて頂きます。<br>　おばちゃんの経歴は、小学生の頃から人の死がわかりました。それを語るとご両親にひどくしかられたそうであります。（葬儀の風景が見えるとのこと）そしてある日おばちゃんの叔父が遊びにきていたときに、「あー腰が痛い」と言っていたので、おばちゃんが触ってあげると不思議と腰痛が消えたそうです。それ以来口コミで広がっていき治療にくる人が増えました。しかしここまでは本人としては迷惑かもしれませんが、そんな能力がある！くらいで済みました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">当然マスコミにはいっさい出ずに無料で行っておりました。ただ学生であるおばちゃんにとってはひじょうに辛かったと思います。そしてあるひ学校の宿題をやっていると窓の外に光りが降りてきてそれはそれは美しいものでありました。それが誘ってくるようなので、ついていくと近くの小山の上のお堂に到着しました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">そしてそこで今まで知らなかったお経を教わり（あえて脚色または消去せずに正直に書きます）、通うようになりました。無人のお堂に小学生の女の子、おばちゃんは本当に「自分はとり殺される！普通の小学生になりたい！」と思いました。しかしおばちゃんの意志を考えることもなく、毎日お堂へ通いました。そのころから特殊能力から宗教的能力へと変貌したのです。<br>おばちゃんはとにかく辛くてやめたくて苦しんだそうであります。<br>　しかしなんとかそれからも続けながらも普通の女性として育ちました。結婚もして、子供も生まれました。しかしなかなかほっといてくれません。今度は「熊野へ行け！」と言われ熊野の真言宗系修験道の修行をしました。やがてそこから高野山の純粋な行者となり、弘法大師講として信者も持ち、病気直しというよりも心を癒すことをメインに活動されました。しかし相変わらずお金もとらず、病気で苦しむ人は休むことなく訪問を続けるのでした。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">マスコミには出ず、拒絶し無料で行っていました。そして病気直しは「方便だよ、御大師さんが方便で興味を集めてそこから真実へと導いてい<br>るんだ、その手助けが私なんだよ、だからこの現象に酔ってはいけない！ただ縁があって良かったと思えばいい。」とのお話を執ように言っていました。しかし人間の欲望は限りなく、病気が直るまでは拝み奉り、信仰しているかのような振る舞いを見せますが、直ってしまうとケロッと忘れてしまう方が多く見られました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">なかなかそこからこの奇跡も忘れて教えへと進む方々は少ないのです。<br>　これだけの奇跡というかショック！を受けてもであります。恐ろしいことではありますが、これも縁だけではすまされないような気分にもなります。そしてもし仮にそうではないとしても、そこからこの奇跡は忘れて、教えへと純粋に進むのは難しいものであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">弘法大師もどこかにいる超人から密教の教えを説き、そこから成仏への道を説いてその実践法を行者自らが学び、掴んでいくといういわばそれまではただ助けてくれる頼もしいラッキーな存在であった弘法大師が今度はその縁あるものを本当に根本から救おうと、その人自身の姿を浮き彫りにしてその人の体というよりは今度は心を救おうと働きかけるのであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">これこそ本当のラッキーなのですが、なかなかそうはいかずに逆に「面倒くさい！」とか「うるさい！」になりがちであります。大体において仏教は深くささると厳しく、自分の弱点を見せつけ、「直せ！」と言ってくれます。そして拝み奉るうちは楽なのかもしれませんが、そのうち拝み奉ることが感謝と反省になってきます。つまり拝んでいる対象が自分に入ってきてしまう。拝んでいる超越者が「私が解ったことを知ってください」に変化してしまいます。<br>つまりよく仏教でいう「願い」、「他力本願」と表現されることの多い仏の願いの欲求が自分自身に湧いてきてしまうのであります。</p><p style="text-align: left;">それが「菩提心」なのかもしれません。つまり拝んでいる人自身に成仏を迫ってくる（ちょっと表現が変です）くるのであります。それを「ありがたい！」とか「救われている！」となれば必ずなんと慈悲深い願いだ！となりますが、それを「うさんくさい！」となってしまってはかえって病気直しが方便からマイナスな方向へ進んでしまうので、ひじょうに危険であることは事実であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかしそれもこれも縁という一言ではとても言い切れない部分を感じてしまいます。<br>　私もとにかくおばちゃんに質問をぶつけまくり、何日も何日も話し込んだ結果やっとこの病気直しを超えたところが本当の御大師の慈悲であると、仏の願いつまり菩提心であると気づくというか、教えてくれていることにさらなる感謝が生まれるわけであります。私もこの拝み奉る対象からの脱皮には難儀致しました。それだけ迷信深いのかもしれません。今でも高野山奥の院に詣らせていただくと、「厳しくもやさしい父」という感じが生まれてきます。そして伝説でもある「衆生を救う為の永遠なる座禅をされている」ということを信じているようでもあります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それがいけないと言っているのではありません。「絶対他力」という点でもそのごく初歩としてはそうなのかもしれませんし、またそういう素朴な心が無ければ、仏教が学問になってしまうかもしれません。</p><p style="text-align: left;">そしてその素朴な信仰からやがて自分自身の道へと変化させるのが「願い」にほかなりません。その願いを感じるとき、「仏縁」と強く感謝し<br>ます。それはおばちゃんへのものからついにはその縁自体に感謝するようになるからであります。<br>そしてそれを伝えるおばちゃんも同じ仏縁で結ばれていると感じるからであります。<br>　しかし縁というものは上記したように解りやすいものはいざしらず、実際は全てがそうなのでありますから、摩訶不思議としかいいようがありません。そしてひじょうに微妙なものであると感じます。<br>私が「他力」と感じるのはあたかも自分自身の考えで仏教にお世話になったのではなく、一方的に向こうから近づいてきてくれたという感が強く、そこがかえって「授かった！」という認識が強く生まれる良い原因となっております。正法とはかけ離れているかもしれませんが、深く知りたいと思うほどに正法へと誘ってくれるのが本当に力強いと感じます。<br>　仏教の教えを読むとなんだかむずむずします。それはなにか自分自身に呼応しているかのようにさえオーバーかもしれませんが、感じます。そのむずむずがきっとなにか真理に触れたときに現れるなにかであり、またその真理を本当は知っているようにも感じます。ということは自分自身の中身は本当は「仏」なのかもしれません。そしてこのむずむずが菩提心と思うからであります。でも欲望というか自分の都合というか計らいがそれを阻みます。そう簡単には出てこさせてはくれませんし、出てくるものもないのかもしれません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">なにか出てくるとかんじる、むずむず自体は実はこれが煩悩の鎧で<br>あり、またどこかで仏の教えを疑っていない素直な自分で、鎧を脱ぐと実はなにもないのかもしれません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかしこのむずむずが有る限り、仏教は僕を見放してはいないと感じる確認材料になっているようにも思えます。それこそが妙なのかもしれません。<br>　さて次回はおばちゃん～アジャリ様～祖師方へ教えを学ばせていただいた内容と、その時と今の気持ちを勝手に書きたいと思っている慢心野郎でありました。<br>　三重のおばちゃんは２年前に亡くなりましたが、つきなみですが、おばちゃんの教え、清楚な振る舞いについては強くインプットされております。三重の大師講に深く感謝し帰依したてまつる大愚で<br>ございました。南無大師遍照金剛　　　　　　　合掌</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pakolabuddha/entry-12301711483.html</link>
<pubDate>Tue, 15 Aug 2017 14:08:45 +0900</pubDate>
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<title>ＰＡＲＴ５８：１９９９年１０月３０日「常識って？」</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/70/26/j/o0240016013995239959.jpg"><img alt="" height="160" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/70/26/j/o0240016013995239959.jpg" width="240"></a></p><p style="text-align: left;">　今回は息抜き（いつもぬいてるくせに）のつもりで書きました。<br>　つまり仏教そのもののネタにつまったからであります。<br>言い訳としては仏教とは各々がそれぞれに掴みモノにしていくものであります。<br>　自力他力ということよりもそのようなプロセスがそれを少しずつ可能にするものであると思っております。<br>味わい、噛みしめあるときは逆らってみて、また打ちのめされて知っていくそして知っていくうちにその知っていくものすら消えていくといいいますか溶けていくというものかもしれません。<br>　前置きが長くなりました。今回は「常識の破壊」であります。それは仏教によるものもありますしそれが最たるものかもしれませんが、そのようなことばかりでなく、日常でもたくさん経験する方法がございます。<br>またこれを経験するには自分の受け皿が必要になります。その受け皿のふたをあけておくだけでなみなみと注がれていくものであります。<br>　それは価値観の違う人々との対話から得ることができますが、特に外国での経験が大きいように感じます。しかしよく「あの人達はおかしい！」で終わってしまう方もいらっしゃるように感じますが、そうではなくて、「あの人達はおかしい」のであれば向こうからこちらをみれば「あの人達こそおかしい」にかわってしまうのであります。</p><p style="text-align: left;">ですから取りあえずこちらが譲歩して、観察することにより、その地域によっては「なるほどね」とか「あーこっちが間違ってるかも」なんてことになるかもしれません。</p><p style="text-align: left;">そうなることで、それだけ理解と冷静さと視野が広がり、こだわりから解放され、誰でも許せるように近づくと思われるからであります。これも仏道に関連しているかもしれません。</p><p style="text-align: left;">ブッダが肉体を持っていたときも、かなり多くの思想と言葉そして民族による混沌とした時代でありました。しかしそれがかえってこだわりから離れた自由な発想が誕生する器を人々に与えていたのかもしれません。</p><p style="text-align: left;">今の日本では右向け右的雰囲気が強く、またこれがこの異常な経済発展を遂げた原動力かもしれません。しかし今若い人々はこの右向け右に希望を失い疲れています。</p><p style="text-align: left;">大人も同じです。息切れしていま す。特に日本で生活していると日本が世界になってしまいます。またもっと狭い範囲が自分の世界かもしれません。海外に行ったとしてもその右向け右を押し通すことが可能な範囲での旅行かもしれません。</p><p style="text-align: left;">ガイドさんやきまった店では右向け右が通用します。それは日本人を知っている人々だからであります。そしてその中だと居心地が良いのかもしれません。しかし外国にいるいじょう、そちらに合わせて行動<br>してみると色々な矛盾というか理解を超えた部分に出会います。それがとても重要に思えるのであります。<br>現在家でこんな文章を打っている最中でも外国では昼だったり、夜だったり、暑かったり寒かったりでも同じ星で生活しております。もしかしたらほかの星でもそうかもしれません。<br>　違う文化の人々と出会うのはおもしろいことでもあります。飛行機に乗って自分が予約している席にいくとアラブ系のひとが座っていました。よくチケットを確認しましたが私の席であります。しかしそれを伝えてもどいてくれません。それで理由を聞くと「アラーがここに座れと言ったんだ」と言います。しかしそこで怒ってはいけません。たぶん想像ではここが窓際だったからと思いますが、そのように言うのがイスラム系の方に多く見られます。</p><p style="text-align: left;">そこで自分のチケットを見せてここが自分のだなんていっても無駄です。そのチケットの内容よりもアラーが上なのですから、そこで「いや私もブッダが言ったからだ」というとすんなりどいてくれます。</p><p style="text-align: left;">つまりチケットの内容により、自分の席でないことは解っているのです。でも一応そのような話しをして、悪く言うとアラーの利用ですが、でもとにかく良い悪いを別にしてそのように全てをアラーにまかせているというか、そういうつもりで生活しているのであります。よくインドでも持っているものをくださいとせがまれることがありますが、<br>そのときもただ「やだ！」では納得してくれません。</p><p style="text-align: left;">また「これは僕のだ！」は一番よくありません。そん なことは最初からわかっているからであります。しかしこれは私の親戚のメモリアル（形見）であるなんてジョークを言えば驚いて「アイムソーリー」といって解放してくれます。たったこの二つの例でも微笑ましく思えれば良いの<br>ではと思います。「そんなのおかしい！」となればきっと向こうもその様に思っていると思いますし、そこで危害でも加えようモノならそれは戦争のはじまりでもあります。よく話し合えばなんとかなるものであります。</p><p style="text-align: left;">よっぽどをのぞき最終的にはある程度根元的には同じような考えなのかもしれません。よくインドなんかで空港に着くや否や、「カメラをもらいましょうか？」ときたそのとき私も悪いのですが、（ここでなぜ悪いのかといいますと２台持っていたからであります。なぜ２台あるといけないのかと思われるかたもいらっしゃると思いますが、見せびらかしというか金持ちっぽくしているように取られるということもあるかもしれませんが、一つで事足りるのになんでまた２台もあるんだとでも言いましょうか？そしてインドの方はきっと持ってないのでしょうそれなら「あんたは２台もあるのに僕は持ってない、それはおかしい！」とでもいいいましょうか？そう いう感じであります。）早速「くれくれ！」となりました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかしここで本当は１台はカラーフィルムの一眼レフ、もう一つは白黒フィルムの小型のもので撮り分けようと思っていたのですが、そんなことは解ってもらえません。そこで「一つはかみさんのだ」といったのがうんのつきでした。「あんたら夫婦だろ！だったら一台で十分じゃないか？」と言いました。しかし「お互いを撮るんだ！」と言ってなんとか逃げ切りましたが、後味悪し！という感じでありました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">今でしたらそのようなことはしません。それは仏教の教えに反するからであります。他人を羨ましがらせてはいけないという教えがあります。つまりそれでいい気になる自分に対する慢心と他人に「いいなー」と思わせる欲望や妬みを起こさせるからであります。しかしそれも気を付けるのは外国だけであります。日本にいると気にしないでそのようにしております。自国にいるとかえって格好つけたり、見栄にこだわる自分がおります。</p><p style="text-align: left;">嘆かわしいことであります。（反省）<br>　しかしインドの方も（インド人全てを言っていません！）本当はもらえないだろうと思っているようです。<br>　でもだめもとで、そのように取りあえず万が一があるので聞いてみる、取りあえず挑戦してみるという感じのようであります。しかし逆にひじょうに同情的な面も強く感じます。例えばあるレストランでの出来事ですが、お客と店員でなんかもめています。なにかと聞いているとどうやら無銭飲食しようとしているようであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし最終的に無銭飲食は成功しました。ガイドに聞いてみると、「今お金がないそうです。でも食べないと死んでしまう３日ぶりの食事だそうです。そしてここは繁盛しているから私一人くらいおごっても問題ないと思ったから、と言っていました」と言われ、なんか一笑には流せないなにかを感じました。最後はお互いに笑顔で別れて行ったからであり<br>ます。日本ではどうだろうか？と考えてしまいました。<br>　またビデオで撮影していると人だかりが出来てしまうことがあります。あまりにいつもそうなので、怪訝な顔をすると「見せてもくれないのか！」と怒られます。またすぐに人が話しかけてきて「あれくれこれこれ、あれ買え」とすごいので、初めてのころは少々疲れました。そこでまたたくさんきたので、「うっ」と思っているといきなり名前や何人？と聞いてきました。面倒にはなしていると寂しそうにされて「悪いことをした」と感じたこともあります。</p><p style="text-align: left;">しかしあの人はただコミュニケーションしたくて来ただけだとわかれば良いのですが、そこが難しいです。<br>　またインドのサールナート（ブッダ初めての説法の地）で大勢の人々がなんやかやと話しかけてきていたのに、袈裟をつけて数珠を繰り出すといきなり奥の門を係りの人が開けてくれて、拝み終わったあとは人っ子一人いませんでした。そして物乞いをしていた子供がバナナをくれようとしました。つまりそれまでは外国人でなんか豊かそうだからなんかくれないかな？と思っていた外人が、いつのまにか仏教徒になるなり、布施の対象と変わっていたのです。</p><p style="text-align: left;">これには涙が出てきました。最初立って拝んでいたときは係りの人も無視でしたが、仏具を出すなりまじめな顔になり、門を開けてくれ、鐘突き棒やお香も渡してくれました。そして外に出れば逆に布施です。たぶん仏教徒であり、また貧しい感じから勝手に推測するとカースト的には良くないと思われます。（今の新しい仏教徒はインドでは低いカーストの方が多いのです。それは政党のこともありますが、カーストを認めない、つまり人は生まれできまるものではない、行いできまるのだ！というブッダの教えが浸透し易いことからであります。）このようなことが仏教大国であり、経済的に豊かな先進国で起こるでしょうか？なにが「豊か」の 基準であるか本当に考えさせられます。<br>　そしてその布施を堂々と受け取れる人格者が実際に何人いるのでしょうか？恐ろしくなりますし、悲しくもあります。<br>タイとかでもそうなのですが、布施とはあげるとか恵むのではなくて、「もらっていただく」というのが基本であります。<br>しかも「これだけ布施すりゃ極楽いきよ！」ではなく、ただもらってもらうのであります。逆に僧侶にもらってもらっちゃて悪いね！というような態度であります。日本ではなかなか考えられません。それが良い戒名や世間体ならなおさらであります。<br>　しかし今まで書いてきた例から仏教的に学ぶ点はたくさんありますが、冷静に見てみると実はどの国の常識もそれぞれに特徴があり、違いもあります。そしてこれが正しいのだ！というたがを外すとなんと常識自体の存在が危ぶまれてきます。</p><p style="text-align: left;">良い社会とはなんなのか？もぐらつきます。殺戮の無い世界とか環境にやさしい世界とかなんとか言えるかもしれませんが、決まりというと難しいものがあります。つまりこの常識も「空」なのかもしれません。<br>つまり「無い」というか「無いような存在」であるように思えます。それ以外に表現方法がありません。平和に生きて行くには当然必要な常識ではありますが、実体はありません。時とともに刻々と変化しています。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">つまり古代遺跡も生物も宇宙も常識も「空」成る存在に他なりません。だからといって「なら関係ないじゃん！」ではありません。<br>そのような性質があるのであります。（空や無を語るときにここが重要です。空や無がけっして全否定の刹那的表現ではありません。空や無の性質があるだけであります。全否定が全肯定であります）「なら関係大ありじゃん！」になってこそ「空」なる理解と思っております。それだからただ今をただ全力で 生きるしか有りませんし、一期一会でありますし、尊い時間であり、存在なのであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">変化し続けるのでありますから、過去は変えられません。<br>また明日の命も完全な保証はありません。安泰な時には気がつかないことかもしれませんが、刻々と自分の肉体も宇宙も変化しております。つまり非常識が仏教の常識なのかもしれませんが、この非常識が事実だと思ってビビッている大愚であります。　</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし色々な常識があるものであります。でも私の常識破壊には良い薬と思っております。薬師如来に感謝し帰依したて奉ります。オンコロコロセンダリマトウギソワカ　　　　　　　合掌<br>　季節の変わり目皆様お体をご自愛くださいませ。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pakolabuddha/entry-12301710201.html</link>
<pubDate>Tue, 15 Aug 2017 14:03:17 +0900</pubDate>
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<title>ＰＡＲＴ５７：１９９９年１０月１５日「眺めてみる！」</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/2e/17/g/o0078008213995247500.gif"><img alt="" height="82" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/2e/17/g/o0078008213995247500.gif" width="78"></a></p><p style="text-align: left;">　今回は前回に続き、「正見」についてであります。「正見」については前回に限らずに、何回も書かせていただいております。なぜこれ程何度も書かせて頂くのかと言いますと、どうもここが仏教のスタート地点であり、また可能になれば仏への仲間入りとなるようにも思えるからであります。なにせ未熟なものがこの大いなるポイントについて書いておりますので、何回書いてもまた書く度にその内容に変化が出るものと思いこのような感じになってしまいます。<br>　この「正見」は「空」につながりやがて「無我」に近づくものと信じておりますし、またこの「正見」が日々の社会生活の中で実践可能な行いと思っているものであります。</p><p style="text-align: left;">そのことはチベットの密教ラマ教でも在家、出家問わずにすすめているものであります。</p><p style="text-align: left;">念仏を唱えるのもどうも家では気が引ける、密教の真言なんてなんか難しい、座禅もいいけれども時間が無い等々、色々言い訳が（笑い）あるとは私を含めておありのことと存じ上げますので、まず日々の日常の中でなんとか（失礼）実践可能な行法としてぜひ行いたい<br>方法（失礼）であると思います。<br>　まずその方法でありますが、ずばり正しく見る（こら！）のではありますが、正しく見ることとはどういう見方かもう一度（くどい）書いてみたいと思います。それは自分の都合や価値観や気持ちを入れることなく出来る限り排除して見る努力をすることであります。</p><p style="text-align: left;">しかしどのように努力したらよいのかがなかなか掴みにくいと思います。そこでまず前回とだいぶ重なりますが、今一度書きたいと思います。<br>　まず仏教でいう「空」という教えがポイントとなってきます。そこで正しくは説明できませんが空についてこれまた今一度書いてみます。まず物質や精神というものについてでありますが、普段何気なく暮らしているうちは気になりませんが、この空という気持ちで見てみると実際我々の認識が逆転していることに気がつきます。</p><p style="text-align: left;">まずものを通常見る時はその対象となるものがそのものの方から現れているように感じます。</p><p style="text-align: left;">人が来てもその人が来たから今会っていると認識しています。しかし来た人もものも、それを自分が認識したからこそ存在しているわけでありまして、「あー来た来た」とか「ここにあった」という認識と、今までの経験から「あー来たのは誰々さんだ」となるのです。そこで認識されて初めて相手の存在が意味を持つのであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">つまり普段は見られる方から存在しているように感じますが、実際は見る方の認識によって存在が確定するのであります。つまり通常我々は相手がまた見る対象が各々に各々の力で存在しているように感じますが、実は見る方の認識によってしか存在の確信が得られないのであります。</p><p style="text-align: left;">しかしそこで「いやっ自分自身は自分で認識できるぞ！」ということになりますが、よく眺めて（正見！）見て下さい、まず社会で生活の中で自分の存在や価値を認識出来るのは他人から見た内容によります。</p><p style="text-align: left;">また自分で自分を評価するときもそれは他人からの情報と自分の心により認識しております。</p><p style="text-align: left;">そこでその「心」をよく眺めてみようと思います。心は絶えず変化してお<br>ります。反省している時は「なんてやつだ！」と思い、また調子に乗っているときは「すごいぞ！俺って！」となり自分自身に対する認識もまちまちであります。つまり自分自身で自分を評価するのは難しいのです。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それは経験も年毎に変化しますし、そのときの心の有りようによってまた変化してしまうからであります。そして逆に他人に対する評価もそのときの感情や年齢によって変わってしまいます。</p><p style="text-align: left;">そしてどんな物質も変化しない確固たる存在はありません。もし物質や心が確固たる実体であるとしたなら、何にも影響されたり、影響を与えたりしないはずですし、また望み通りになるはずであります。しかし存在しないわけではありません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">存在は確かに存在ではありますが、存在とはそもそも移ろい変化し続けてこそ可能であるのかもしれません。普段絶対と思っている認識や心や物資は実は変化し続け、影響されたり与えたりする存在であることがわかります。従って認識して初めて存在している。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">となるのであります。個々が勝手に存在していることはありませんし、また互いに影響する限り、全てのモノは繋がり、その繋がり自体が流れ続ける存在であることが理解できます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">存在の認識とは認識される通常本体と思っているものではなくて、認識する側にその存在を意味付けることが出来るつまり認識されるというものであるのであります。</p><p style="text-align: left;">これは普段とは逆な見方でありますが、我々の方が間違って見ているのかもしれません。<br>　ここまで書いてくるといかに「正見」が難儀であるか解ってきますが、そのように見るクセを付けることにより、なぜかモノへのこだわりが減り、慈しみがうまれてくるから不思議であります。</p><p style="text-align: left;">それは全てが繋がっているというごく当たり前なのに、なぜか実感が湧きにくいことからなのかもしれません。</p><p style="text-align: left;">なぜ？慈しみが、、、となりますが、そのようになると自分が孤立した存在ではなく、また孤立してはまたは自力では生きられないことが解りますし、どうしても影響を与えずにはいられない存在と確信するに至るからであります。</p><p style="text-align: left;">従って「好きにしていればいいんだ」とか「他人なんて関係ないね」という考えは難しいことになっていくのであります。それがもし面倒でもどうしようもないといった感情を持たされてしまいます。<br>　さてそのような体験をするとその先ものを見る目が変わってきます。まず腹が立ちにくくなります。</p><p style="text-align: left;">そして強烈な固執や頑固が減ってきます。また他人を許せるようになります。「空」な気持ちを体験するとそれがたった一秒でも後の生活に少しずつではあるかもしれませんが、影響を及ぼしてくるのであります。それは同時に「安心」にもつながってきます。そして儚さも感じて<br>しまうかもしれません。しかしそれは刹那的とは無縁の気持ちであります。</p><p style="text-align: left;">そしていつか「無我」から涅槃寂静へのつまり成仏へのきっかけとなる強烈な縁が熟す大きな前進だとも薄々ではありますが、信じられるようになると思います。<br>　この正しく見るという都合やエゴ、ひいきを外した見方の実践はその後に大きな真実を見せてくれるなによりの行法であり、それは平和と調和を生む原動力であると信じております。<br>　是非明日からでも実践してみてください。仏教は本来は宗教の実戦カラテであり、行動あってのものであり、力＝智慧の教えであり、なにか対象に対して祈ったり、奇跡（怪しい独りよがりの奇跡）やましてや他人を攻撃するなどもってのほか（行いに対する果報を知らない！）自業自得の教えであります。</p><p style="text-align: left;">また自らが仏の方法をマネして良い影響を作り、良い結果を生むのが基本でありますし、ブッダを拝み奉るというよりはブッダの行ったことをマネさせていただくのが仏教であります。</p><p style="text-align: left;">本来は宗教と呼びにくいのかもしれません。そのような方法を教えているものなのであります。</p><p style="text-align: left;">祈りも仏像もそれを早く解らせたい、そしてその素晴らしい方法を残して伝承して、一人でも多くの人々に伝え救いたいというのが本来の目的であります。戒名も来世で現世で結んだ縁を持ってまた生まれその仏縁により開花してほしいのが戒名、供養の本来の意味と思っており<br>ます。儀式だけならばその費用を正しい僧園や福祉活動やチャリティーにまわした方がどれだけ供養になるかわかりません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし僧侶が暮らしていけないのもまた伝承という点で問題になりま<br>す。しかしそれは力を失っているからだと素直に認めざるを得ません。またそのような理由での募金も本来は布施とは違います。「これだけ上げるから、来世で救ってね」では来世の幸福を買ったも同然であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし物理的にはまだその方がましかもしれません。人間は弱いものであります。また悩み続けるものであります。なかなかそれは難しいことでありますが、とにかく「正見」で半歩でも進んでいきたいと考えるものであります。<br>　自分はまだまだ出来ていなくても、、、、、<br>ＰＳ：オームとは南無に近い意味であります。　　、サンスクリット語ではメインの言葉でもありますので、チベット密教やインド、また密教系で<br>　　はひじょうに意味のある言葉であります。誤解されないようにお願い申し上げます。<br>　　ではチベット密教の基本の観音菩薩の真言でお別れしましょう！<br>　　オーム　マニ　ペーメ　フーム　　　　　　　　　　皆様に幸あれ！　　　　　　合掌</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pakolabuddha/entry-12301684773.html</link>
<pubDate>Tue, 15 Aug 2017 12:07:22 +0900</pubDate>
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<title>ＰＡＲＴ５６：１９９９年１０月８日「自分とは何？」</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/0e/6b/j/o0088016613995265918.jpg"><img alt="" height="166" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/0e/6b/j/o0088016613995265918.jpg" width="88"></a></p><p style="text-align: left;">　前回の予告のとおりに今回は「自分って？」という内容で何とかこの場をしのいでみようと考えるものであります。<br>だいたい自分がなんだか解っていれば困りはしないもののそれを書くことに困っていること自体、本末転倒でございます。なんだか解りませんが続けさせてください。　そう、そうなんです、何だか解らないのです。「自分ってなんだろう？」と何回か考えたかたは多いと思いますが、それはそれは素朴でかつなんか確信のようでもあり、考えても無駄のようでもあります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">まず仏教の基本中の基本で何回も書いております「正見」つまり正しく自分の主観や都合を入れずにありのままに見ることであります。<br>その目で悪い例ですが自分を見てみましょう！</p><p style="text-align: left;">なにせ他人を見ることばかり長けてしまうのが常でありますので、、、　まず私のプロフィールから（1999年当時です）、地球人、日本人、黄色人種、東京都民、目黒区民、Ｔ町民、３３歳、男、配偶者有り、子供無し、身長１７９ｃｍ、体重メガトン級、親戚多数存在中、哺乳類、雑食、地上至る所に分布、現在脱サラして福祉職、給料安い、妻に弱い甲斐性なし、一応大卒、語学勉学際立つ所見無し、威張れる資格無し、尊敬する人誠の仏教を知っている人又は仏教でなくても知らなくてもそのような状態に成れた方々、尊敬する有機物、無機物（全て）、とまあまあ書いていったらきりがないのでありますが、ではこれらを省いて都合や常識を捨ててながめて見ますとどうなるのでしょうか？「んっ！」「んーん」無くなってしまいましたかな？おかしいな、あれっ！！　一体私はなんなのでしょうか？上に書いたことは全て都合が入っております。人間だけのきまりが入っています。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;"><br>おかしいですね、何か無いモノかな？うーんとえーっとどうも本来はというか確信にせまるだけの確固たる何かが無いですねー、困りました。ですから悩むのです。ふと心の隙間になんというか不安というか自分自身の存在感とでもいいましょうか？よく最近の十代は「自分の居場所がない」とか「自分の存在を確率したい」とか言うのかもしれません。つまり自分自身の存在を自分自身で疑っているのかもしれません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それは贅沢病かもしれませんが、贅沢病と思える方々にはその病魔は訪れません。つまり主観や都合を外してしまうと残るものが無くってしまうのかもしれません。しかしこれが「空」とか「無我」というとそれは離れて離れて遙か銀河の果てという感じがいたします。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　「空」や「無我」という般若の智慧は自分自身の存在確信があって初めて到達できる境地であります。陽炎のようなものが存在ではなく存在には陽炎のような性格もあるとでも言えば良いのでしょうか？著名な仏教者がなぜ？がんばるのでしょうか？なぜお釈迦様や空海道元親鸞法然日蓮、、、、、が全力疾走するのでしょうか？それは本当の存在という事実を見てしまったからではないのでしょうか？「みなさんそんなことしていたらやばいですよ！」「生きている事実を認め輝くように生き抜きましょう！」とでも言っているかのように行動されています。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それはまるで余命幾ばくかという方が日々を輝かしく、また輝かしいと生をお感じになられながら生き抜く姿を見ることがあります。そしてそれは神々しくもあります。その姿はまさに自分自身の存在を生を確信したかのような見てしまったかのようなお姿であります。きっとその境地は「ありがたい」という感謝報恩「もったいない」といった自然への敬意とそれへの真の参加であると思われます。<br>　</p><p style="text-align: left;">後ろを振り返らず、くよくよせず、ただばく進されるその境地こそ「見てしまった」「知ってしまった」人々の仏としての姿、本来の自分自身であるのかもしれません。春が来たから花が咲く、花が咲くから蜂がくる。蜂がいるから種が出来る、種が出来るからまた春に新しい花が咲く。この春と花と蜂と種はそれぞれ孤立しておりません。それぞれに縁<br>つまり因果の法則があるからこそそのようになるのであります。つまりその流れが存在であり、存在とはその流れであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;"><br>流れは止まることなく動き続けます。つまりとどまることを許されない存在であります。「また今年も花が咲いた」しかしその花は去年とは違う花であります。我々の細胞もそうであります。ブッダが言います。「ただ都合で見る者は春と花と蜂と種を見る、しかし法を見る者はただ因果の流れすなわち諸行無常を見るのである」そうなのです。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">先ほど最初に書いた自分のプロフィールは人間として社会で生きていく為のものであり、けっして自分自身なんかではありません。ずばり私もその因果の法則の一員であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">そしてこの因果の法則から逃れられるものはありません。つまりこの因果の法則自体が存在であることになります。石ころだって昔は生き物であったかもしれません。そしていずれは砂になるかもしれません。一つたりともそのようでないものはありません。　</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">宇宙自体も広がり、あるところではブラックホールになり、膨張収縮を繰り返しております。確固たる自己という存在が掴めなくとも、この大いなる流れの一員なのであります。近くにいるゴキブリも石ころも偉人さんも宇宙人も？であります。そしてその流れを変えたり作っていくことがそれぞれの行いであります。当然因果の法則がありますから、なにか行動する度に、繋がっているすべてになんらかの影響を及ぼします。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それはまったく関係がないと思われることでもそうなのであります。深海の生物にとっても日々の排水で迷惑をかけているかもしれません。とんでもなく遠い外国へも原発一つ吹っ飛べば多大なる迷惑をかけてしまうかもしれません。また日々の食べ物は全て生き物と通常呼んでいるものが犠牲になっているだけであります全て動植物であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">「自分がその側だったらどうか考えなさい」と言っているのではありません。まず「そのようにしか生きられない」という事実をそのまま見るのが一つの因果の流れを知る方法のように感じます。最初は純情でしたので、「俺が生きるには迷惑しかかけることが出来ないんだ」としょげていましたが、そのうち逆切れ！してしまい「そのようにしか生きられないんだ」に変わって行きました。そのかわりに食べるときは「がるるるっ！」と獣に成りきり、全力で「ただ食べる」ことにしております。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">聖道門の方々には「畜生め！」とおしかりを受けると思いますが、自分はどうしても欲負けしてしまうのであります。そしてかえってそのほうが「謙虚」になれているように勝手に考えております。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし自分自身が流れだったなんて、川の水のようでもあります。　かわの水はどこまでがＡ水でどこまでがＢ水かわかりません。みんな繋がってごうごうと流れ続けております。これが我々全てであるのかもしれません。それを勝手にここまでが私で、ここまでがあなたと分けているのかと思うとなんか不思議な気分になります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">よく宇宙飛行士が宇宙から地球を見て、地球に帰ってきた後にボランティアや宗教家になることがあります。また深海や高山の登山家にも同じ傾向があるように思えますそれは人知の及ばないところへ行ったからというのではなく、宇宙飛行士を例にとれば「地球には国境なんかない、なのにあの星では今でも毎日血を流している、なんてばからしいいんだ」という感じを持つと聞きました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">つまり因果の法則を肉眼で目の当たりにしているのかもしれません。というよりも今まで信じてきた主観や都合が通じない世界であるからなのかもしれません。　人間は地位や権力、財産や自分が大事な人、プライドというものがないと自分自身の存在を認められないのかもしれません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかしこの大きな川の一つの水として確実に変化し続けながらも存在しています。それは動き続ける捕らえようもないものかもしれません。陽炎かもしれません。しかしどれ一つ欠けていても成り立たない因果のなかの一員であることは事実であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">現在納得がいかなくともそれは存在している以上事実であります。そして想像もつかないところまでというか全てに影響していることも事実であります。そしてその行動内容によってまた未来に影響してきます。そしてまた蒔いた原因が咲く時期がくればそれは大きな流れとなってごうごうと進むのであります。　</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">くよくよしていたことも、信じて縋ってきたことも、現在過去未来はそれぞれに存在することなく、一つとなって進んでいきます。固執していてもどうしようもないこともあります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">そいて固執している限りはその自分自身とはなんともちっぽけで、情けないと思ったり、あるときは自分ってすごいんだ！と安心したりします。それはさておき、この私でも自然の法則では無くてはならないものであり、必然性があってこのおおいなる流れにのって流れている旅人であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それは終わりがいつかも無いのかも考えては行けないのかもしれないものではありますが、存在する理由があったから存在存命しているのであります。そして私の行動は全てに影響し、全ての影響を受けるものであります。つまりその法則が流れが仏であるならば全てが仏であり、成仏する器であることも解るのであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかしそれに気がつくのはなかなか難儀であるのが常であります。しかしいずれは成仏疑いなしであります。世の中の存在は流れである「諸行無常」、従って確固たる孤立した絶対的存在は無い「諸法無我」、そしてそれを具現出来たものは永遠の安心を得て仏となる「涅槃寂静」。<br>　南無釈迦牟尼仏　　　南無大自然成仏　　　南無大般若聖智慧　　　　　　　　　合掌　</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pakolabuddha/entry-12297721156.html</link>
<pubDate>Tue, 01 Aug 2017 12:03:47 +0900</pubDate>
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<title>ＰＡＲＴ５５：１９９９年１０月１日「社会参加？？」</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/f1/68/j/o0118025413995262100.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="254" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/f1/68/j/o0118025413995262100.jpg" width="118"></a></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　<br>　さて今回は「社会参加」であります。当然非力な私ですので、なかなか偉そうなことは書けないというか言えた義理ではありません。しかし少しその点において自分自身を眺めてみるのも一考ではないのか？<br>という素朴な考えからでてきたものです。<br>　</p><p style="text-align: left;">「社会参加」と一口に言ってもその捉え方は様々であると思われます。例えば私事で申し訳有りませんが、以前私は電機メーカー２社に就業させていただいておりました。それはそれで楽しくも厳しくもあり、今考えるとある仲間で一つの仕事をこなすのはよいもんだ、などと気軽に考えてしまいますが、社会参加している！</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">という認識よりも「わたしは社会的に認められた仕事をしている」といった自己満足というよりも社名満足しておりました。それで仕事に対する問題意識は少しはありましたが、社会という単位ではなく、社内や世間体という限られた中での自己満足でありました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">また社内以外では誰も文句をつけることなく、安定した収入のあるあるいみ安全パイでありました。そして当然サラリーマンですから、税金もきちんと納め（会社が勝手に処理してくれていただけ）、まじめに製品を製造納入しておればよいという社会的に自分自身で満足のいくものであると、自分は問題無いと勘ぐっておりました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">いやっそんなことすら考えずにただ勤めていれば問題はなかったのです。当然ニュース等々でなにか社会的に明らかに意義と必要性を感じられる行動をとっている方々も多く見ましたが、 他人事のように「偉いなー」とか「そんなことよくするなー」とか逆に目障りと感じることも２０歳～２５歳くらいまでは正直思ったこともございました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それでもなるべく乗り物に乗った時は席を譲ろうとか募金しようとかは素朴に思いましたが、そういうことに全力を注ぐ方々は別世界の人と思っていました。つまりちょっとした協力や自分はあなた方の行動に敬服します。ということから自分自身を正当化して自己満足しておりました。つまり良くできた社会人と思っていたようであります。しかし仏教はそうはさせてくれないようであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">そして以前の職業も問題意識を正しく持って行えばそれも立派な「社会参加している人間」であることも教えてくれたように思います。まず現在の世間を考えております。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それは経済発展とともに見たくないモノ、感じたくないモノにふたをすることが推進されました。それは老い、障害者、汚染、他人の為に損すること等々たくさんあります。しかしバブルも終わり、そのつけが経済的な問題以外にも多く出てきております。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">まずは老いですが、今後老人社会になり、介護法などという困った法律も作らないといけないほどになりました。つまりその目を瞑りたい「老い」の現実を見つめさせられることとなりました。今大問題の一つです。そして障害者ですが、分離教育という狂った教育により自分や親戚に障害者がいない限り、いやっいたとしてもとくにふれあうことなく暮らしていけます。私もそうでありました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">テレビや町で見かけるくらいでして、とくに深くは考えないでおりました。当事者の気持ちなんぞは雲の上でありました。そして希に考えたとしても勝手に「かわいそうに」とか「不幸」などと勝手に考えているのがせいぜいでありました。そして汚染ですが、確かにテレビやニュースでも盛んに昔から水俣病や四日市喘息等々騒がれてはいましたが、所詮他人事であります。温暖化や資源の問題も毎日のように報道されておりますが、それでも本当に問題意識があるのかというと「全く無い！」に近いモノと思っております。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">また病気関係もその病気にかかったらやばいとは考えますが、それに感染または発病した人々のことはないがしろであります。昨日東海村での放射能の漏れによる被爆がありましたが、自分はチェルノブイリの被爆孤児の募金活動をほんの少しさせていただいておりますが、それでもただ「お金を送っているからいいや！」程度 であります。問題意識はというとてんで足りません。それでも「えらいわねー」なんて言われれば「ムフフッ」となってしまうのであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それは全く布施になっていません。布施はもらうほうも、あげるほうもどちらもなんともなく行うのが布施であります。かわいそうに恵んであげる！恵んでもらって悪いねー本当に申し訳ない、では上下関係があります。それは布施ではありません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">つまり仏教的布施は双方が本当にできた人々で無い限り成立不可能なのであります。（相変わらず難しいことで、、、トホホ）またハンセン病などの病気でも大きな差別、また部落問題についても知ってはいて、僕はそんなことをしないぞ！なんていっても親戚中にその関係が全くないからだけなことを忘れています。色々考えることがあってもその数々の当事者の問題に共感することはあってもその当事者の気持ちを本気で考えることすら出来ないことが多いのではと思います。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし老いと障害、汚染と特定疾病、精神病、他国の問題、教育（現在は狂育！）等々はいつも問題なのですが、当事者意識がありません。<br>なぜ仏教はそこついてくるのでしょうか？それはまず「ありのままに見なさい」があります正見であり ます。ありのままひいきすることなく見るのですからすぐに自分のぼろというか考えるのを避けていたことが飛び込んできます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">つまり観音様を信仰しているからそのようなことを考えないといけない！という感じではなくて、（本当に観音様の意味をっていれば問題ありません。観音様は如来になる修行中でもう少しで完璧な悟りを得るところの人という考えもありますが、実際は自分自身の中にある本来の姿と言ってもよいかもしれません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">つまり自分自身の清浄なるところを拝んでいるのです）正しく見ようとすると自然にそういうものがいやでも見えてきます。数々の問題がフィルター無しで飛び込んできます。そしてそれを「認めろ！はっきり見ろ！どう！わかったか！！」と迫ってきます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それは今まで触れないで過ごしていられれば楽と思っていたことをふっとばして迫ってきます。「おまえはこんな人間なんだぞー！」という感じでしょうか？それは恐ろしいことであります。しかしさらに追い打ちをかけてきます。「それがわかっても行動に移せない移す勇気がない、また自由がない！」という行動する余裕が無いということならまだしも、それが見えて問題意識が芽生えても「やっぱり自 分が大事だ！かったるい！」という解っていてもしないというさらに本来の自分を見せてくれます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それは本当にありがたいこと（笑い）であります。しかし落ち込むことはありません。本当に「教えてくれてありがとう」となってしまうところが仏教のにくいところです。そこで頭に来て重度障害者の介護職につきました。自分では「よくぞ思い切った！」と考えていましたが、笑っちゃいますがこれが大違いなのです。なかなか深い！</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">転職して親戚や友人から「偉い」とか「よくやるよー」と言われたことがあります。しかし今回はムフフとはなりません。それは布施の精神が生きているからであります。またこれが問題と思っておりますが、今まで隔離されていたというかこっちから削除していた障害者の世界とのギャップであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それは普通の健常者からすればたとえ賃金をもらっていても「介護」という職業は偉いという図式があります。社会福祉といえばまさにそれです。それは今まで社会的保証が無く、善意あるボランティアがメインであったからであります。しかし現在は細々ながらも賃金がもらえるようになりましたし、「介護は儲かる！」とさわいでいる企業も多くあります。しかしそれ でも介護する人は弱い人を助ける偉い人で、介護を受ける障害者はそれをもらえるありがたいと思うべき人という図式が今でも根強くあるように思えます。よく車椅子を押していると「まー暑いのに大変ねー」と介護者をほめることがあります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし他の先進国では「まー障害があるのに人を使って自立生活なんてえらいわねー」になるのです。つまり当事者が日本では介護者であり、諸外国では障害者なのです。よく考えてみるとお客様とは意味合いが違いますが、介護者はその障害者がやとってくれているから賃金が得られるわけです。ちょっと違うのは生活を助けている部分がたんなる商売とは違うところでしょうか？</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">また人間同士のぶつかり合いということも考えられます。つまり商売ではお金により信頼関係が結べてしまうことがありますが、介護ではその様にはいかないということであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">また障害者は自分自身の鏡になりますので、ごまかしは効きませんその点は本当に厳しいのです。ですからこの職業は「やってあげている」という考えではいつまでも上下関係が抜けずに信頼関係なんてほど遠いものになるわけであります。「させてもらっている」くらいでもよいのかもしれません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">福祉 先進国的な障害者の介護になんて入りましたら、介護という言葉でも否定されます。介助とでもいいましょうか？つまり奴隷ではありませんが、手足として足りない部分を補うだけであり、介助者の人格というか個人的感情はまったく無視されるというつまりお手伝いさんをお金でやとっているだけだ、自分で出来ないからやむを得ずこのようにしているだけだという方も多いのも事実であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">仕事と介護介助を考えるとそのようになります。しかしそのような考えと、世の中の多くの健常者との介護介助に関するギャップはとんでもなくあると考えられます。つまり介助者のほうが逆に弱い立場であり、目立たず黒子のように振る舞うことが要求される場合もあります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">このギャップなんてまさにこの世界に入らないとわからないと思います。そして解らないまま進んでいくとその内取り返しのつかないギャップになってしまうとも考えられます。つまり障害者側にも差別というかギャップがあるのです。また自分でなんにもできないのに！とかリストラで健常者も泣いているっていうのに、全く働きもせずにお上の手当だけで生きているなんてなんだ！ということを言う人もいます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">確かにその就業の問題 も大きな問題であります。しかしどれも目を瞑ってきたことからのひずみとしっぺ返しなのかもしれません。とにかくきっとどの問題もいずれは目を瞑っては逃れられないこととなると推測されます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それは全てが繋がっているというブッダの教えが有る限り、生まれ老い病み死ぬという四苦が有る限り必ず面と向かうことを要求されます。つまり自分自身を眺めることを強いられることでしょう。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかしそれは大自然が本当の清浄なる姿を教えたいという慈悲いがいのなにものでもありません。どんなに目を瞑っても忘れたくても教えてくれます。しかしその教えを知らずに受け止めるとそれは恐ろしい苦しみ以外のなにものもありません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし仏教による諸行無常と諸法無我、涅槃寂静を遠巻きながらも知っていればだいぶ自分自身の納得が違うと思われます。</p><p style="text-align: left;">それがかりに成仏していたならば（生きながらにして）それは大自然へとの旅となり、その一瞬一瞬が全てであり、存在の確信であるという現在過去未来を超えた慈悲との合体であると信仰するものであります。なんか支離滅裂ですいません。　次回は「自分とは何？」という内容で書きたいと思います。南無釈迦牟尼仏　　　　　　合掌</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pakolabuddha/entry-12297719696.html</link>
<pubDate>Tue, 01 Aug 2017 11:57:42 +0900</pubDate>
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<title>ＰＡＲＴ５４：１９９９年９月１７日「死について思う」</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/32/e5/j/o0271019213995259174.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="156" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/32/e5/j/o0271019213995259174.jpg" width="220"></a></p><p>　<br>誤字脱字はともかくとしまして、「これだ！」「これを書こう！」という感じになかなかならないのであります。それはきっと「ネタ切れ」と思っておりますが、うかつには書けないぞ！というなにか恐怖が少しあるのかもしれません。今回はズバリ「死」であります。</p><p>これを書くのは怖いのです。<br>それは当たり前ではございますが、間違いなく自分にも降りかかる当然の掟であります。　</p><p>&nbsp;</p><p>さてなぜ今回このネタで行くかと申しますと、９月１日に私の祖父が亡くなりまして、感じたことであります。祖父は９２歳でして、亡くなる直前まで自宅でビールを飲み、たばこを吸い、ちょっと気分が悪いので先に休むと言って亡くなりました。これはまるで死の理想のようであります。訪れた方々も口々に「素晴らしい死に方だった」とおっしゃっておりました。</p><p>&nbsp;</p><p>「私もあのように、、、」という声もよく聞かれました。死が羨みになっていたのです。有名な言葉に「死は死が恐ろしいのではない、死の苦しみが恐ろしいのだ」があります。</p><p>&nbsp;</p><p>それもその通りでありますが、今問題の長寿社会において、他人の手を煩わせることなく亡くなられるということに対する羨望も感じます。つまり他人の世話になりたくない、弱者になりたくないということからかもしれません。それは弱者は邪魔者、迷惑モノという見解があるかことの裏返しも含んでいるように感じます。</p><p>&nbsp;</p><p>しかしそれがある限り老人や障害者はその立場を強いられるということにもオーバーかもしれませんが感じてしまいます。葬儀の中で不謹慎にもそのように感じてしまいました。</p><p>&nbsp;</p><p>「これではいつまで経っても不安は消えない」ともオーバー かもしれませんが、思いました。それよりも、祖父が残したものはなんなのでしょうか？我々孫や息子兄弟といった子孫や、数々の思いでと教え、財産等色々あります。しかし祖父本人が持って行けたものはなんなのでしょうか？もしかしたら生存中の色々な行動による原因を蒔いて行ったとしかいいようがありません。</p><p>&nbsp;</p><p>またこれも置いていったものかもしれませんので、直接持っていったものは皆無かもしれません。では本人自体に作用するものはものとしての存在は皆無なのでしょうか？不思議です。生前祖父は高齢でしたので、とくに「何々が欲しい！」ということはなさそうではありましたが、たばことお酒くらいだったと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>しかしそれさえも棺にいれる冥土の土産にしかなりません。実際は焼かれてしまいますので、無くなってしまいます。そこでブッダの言葉が浮かびます。「この世でどんなに執着してもどんなに大事にしてもあの世へは持っては行けない、そしてどんなに愛しても別れなければならない、それをよく考え、噛みしめて日々を生きなさい」という言葉であります。ひじょうにクールで厳しい教えであります。</p><p>&nbsp;</p><p>それを聞くと刹那になってきます。しかし逆に「だからこそ今、こ の今が大事である。この一瞬一瞬に全てがある現在過去未来という或を超えて、今一度きりしかない今を大切に生きるしかない」という基本の教えが少しですが解ってきます。またいつまでも元気で、丈夫であった祖父でさえ、不死身と言われた祖父でさえも亡くなるという事実、諸行無常であります。</p><p>&nbsp;</p><p>そして私の父がこんどは男子では最長老？（すんません）になるのです。父は長男です。ということは私が以前８月３１日までの父の身分（語弊あり）に繰り上がるということになります。そんなこと今まで考えたこともありませんでした。</p><p>&nbsp;</p><p>まったく諸行無常であります。解っていることが起きてもそのように感じるくらいですから、予期せぬことがそこら中で起きている現実、この現実からも無常はわかるはずであります。</p><p>&nbsp;</p><p>そしてこの生きているという普段「あたりまえ」と思っていることが実はひじょうにもろく、いつ何時どうなるか解らないという昔から肝に銘じていたはずのひじょうに常識的な言葉にまた戻っての再認識という馬鹿らしい結末を私に教えてくれるのであります。</p><p>&nbsp;</p><p>そうなのです。今生きていて、パソコンのキーを叩いていることが実は「当たり前ではない」という現実を仏教は警告？して くれているのです。弘法大師が若い時に、「私には時間がないのです。急ぎの旅です！」と言って久しぶりにあった家族との団らんもそこそこにすぐに求法の旅に出ていくシーンがございますが、それは自分の寿命の推測もあったかもしれませんが、この元気に飛び回れる内に修行に対する答えを得て、法をひろめんとする諸行無常への思いが有るように感じてしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり無常を悟った人はきっとじっとしていられないのかもしれません。つまり無駄な時間を作ることが出来ないとでも言いましょうか？一瞬一瞬を大事に意義ある時間の連続にしたいのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>またさらに諸法無我を悟れば死というものへの覚悟というと語弊がありますが、死自体も無である。生というこだわりが対する死を生んでいることに気がついているわけでありますから、生という一般的な解釈から離れれば自ずと死も存在出来なくなるという言葉では簡単ですが、ものすごく悟るのは不可能なような感覚になれるのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>いやっ感覚という事自体が語弊でありました。感覚も無（なにもないというのではありません感覚は確かに存在するのですが、全てのモノに無という性質があり、そういう性質ではないも のは無いということであります）祖父の顔は安らかで、また生前も「何の不安もない、いつお迎えがきてもかまわない」というのが口癖でしたので、きっと「どうぞ、では行かせていただきます」という感じだったと思います。しかし実際自分もそうなのですが、その様に上手く（失礼）行くとは限りません。</p><p>&nbsp;</p><p>いやっそうでないほうが多いのかもしれません。祖父は生前仏教に帰依しておりましたので、特にそのようなことに長けている可能性もあります。しかし仏教でいう「このたった今を全力で生きなさい」という教えを実行出来ていて、無常と無我を悟っている方々は問題ありませんが、私なんか未練がましくオロオロとし、恐怖におののきながら死んでいく可能性大であります。しかしそれも死、祖父のような恵まれているとされる死も死です。なにも持ってはいけませんが、多くの影響を残すことは出来ます。</p><p>&nbsp;</p><p>それは森羅万象に何かしらの影響を与えているはずですし、その影響という種が発芽し大木になることもございます。全てが繋がりあい、一つとして無駄なモノは無いという法則のこの大自然、大宇宙のなかで、原因という縁より生じ、またその縁により去っていく、その宇宙の流転の中にこの 人工的社会で見失って病んでいるとてもナチュラルな部分に触れられるのが、またその死に直面し体験した本人がもっとも自然らしい姿に浸れるのが死なのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ祖父の死を美化しているのではありません。死は死ですし、生があるから死があるのです。しかしこれも空なる存在であり、本来は無である。連続のなかの節目として、名前と五感による認識を行った場合に現れてくるものであります。しかしこの神聖なのかもしれない死も今の私にとってはやはり恐ろしいものであり、祖父の死を見ることにより、さらに生の重要性を感じる今日この頃であります。</p><p>&nbsp;</p><p><br>　涅槃という死を超えた寂静を得られる（語弊あり）ようになりたいなどとはとても考えられない、考える器もないと強く自覚させられてちょっと喜んでいるマゾな素人仏教徒でありました。（お釈迦さんすんません）<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　南無釈牟尼仏　　　　　　　　　　　　　　合掌</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pakolabuddha/entry-12297718207.html</link>
<pubDate>Tue, 01 Aug 2017 11:50:58 +0900</pubDate>
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<title>ＰＡＲＴ５３：１９９９年９月１日「仏教的世界観？」</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/b6/da/j/o0237029313995255953.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="272" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/b6/da/j/o0237029313995255953.jpg" width="220"></a></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　ある方からこんな質問を受けました。「仏教で言う人類誕生とは？」という質問を頂きました。<br>私のようなモノに答える力があるかものかと考えましたが、この事について考える良い機会と勝手に考え、お答えしました。また同時に「死んだらどうなる？」という問題も当然出てきます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかしこれも生物にとって、特に人間にとっては最大の問題ですし、宗教の種類によっては批判とも受け取られる危険な内容を含むことをあらかじめおことわりしておく必要があります。</p><p style="text-align: left;">基本的にこの問題が解決してしまうと、人生の一大事が一つ片づいてしまうことになります。お盆も終わり、帰って行った人々は何処から来て、どこへ行ったのでしょうか？それとも迷信なのでしょうか？そして人間は特別な存在なのでしょうか？人間至上主義なのでしょうか？　さてお経の中では人類誕生、また宇宙誕生はどのように解釈してるのでしょうか？</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">仏教ではこの宇宙の存在はもともとあった！と説明しております。「無始」という表現をしています。これは始まりが無いという意味ですが、これが仏教でいう大昔といいますか、人類いやっ宇宙誕生の時期を指します。始まりが無いということは「すでにあった！」という意味であります。</p><p style="text-align: left;">ですので、特に拘らないという意味もあるように感じます。あくまで大昔という表現かもしれません。　また密教では昔、光りの粒があってその粒の一つがエサを見つけました。そのエサをその見つけた光りの粒が食べてしまいました。このときその粒は「やった！」と思い、他の粒は「取られた！」とねたみました。その葛藤が残り、どんどん膨らみついに大爆発が起きました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それにより原始の宇宙が一度に誕生したと説いております。またその葛藤は日々感じることですが、混沌とした日々どんどん増幅しております。宇宙の滅亡そして膨張となにか比例を感じることもございます。つまりその「やった！」とか「取られた！」が欲望なのかもしれません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">成仏とはもしかしたらその欲望が生まれる前の状態に戻ることかもしれません。そして密教がよく「即身成仏」生きている間に仏になる。つまりもともと仏であったのだからすでに本来からすれば皆仏である。ただそれに気がつけば良いのだ。と説くことも納得出来ます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかしあくまでこれは哲学学問的な解釈、つまり頭での知識でしかありません。それを体験して自分のものにするのが本来の密教系仏教で<br>あります。<br>　しかし仏教での基本的な考えではそのようなことに拘ることを嫌います。以前も書きましたが、ブッダにある弟子が質問致しました。「自分が何処から来たのか、どうして生まれたのかがわかりません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">どうか教えてください！」ブッダは答えます「ではあなたが毒矢に射られたとしましょう、あなたはその毒矢がどの方角からきて、どんな形の矢で、どんな毒が塗ってあるかまたどんな人が撃ったのかを全て調べ上げてから抜きますか？」弟子は答えました「いいえ！とんでもない、まず抜いてそして大至急手当をします！」ブッダは言います「ではあなたがすべき一大事とは何ですか？」弟子は答えます「あっもう生まれたいじょうそれを考えてもしょうがありません。生まれてしまったのですから、これからをどうするか考えるだけであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">では死んだらどうなるのですか？」ブッダは言います。「ではあなたは今死んでいるのですか？」弟子は答えます「いえとんでもない生きています！」ブッダは言います「では今あなたの一大事とは何ですか？」弟子は気がつきました「どう日々生きるかだけであります！」このように諭した逸話があります。ここであれっおかしいな？と感じる方もいらっし ゃると思います。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">ブッダがなぜ悟りを目指したのかもう一度考えてみましょう。釈迦はな<br>ぜブッダになろうとしたのでしょうか？それは生まれる老いる病む死ぬという四苦からどのように逃れられるか？であります。ある意味もっともわがままな疑問かもしれません（失礼）。しかし生き物のとりわけ人間の根本原因であります。それを追求したけっかが「ただ生きる！」ことでありました。それは怠惰に刹那に生きることではありませんその逆であります。この今はまさにこの今しかございません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;"><br>過去は取り返せない未来は解らないでは現在過去未来という概念自体が縛っている。自らを自らが縛っているという現実をそのままに見て感じることが出来たからこのような答えが出てきたのだと感じます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">ひどく言いますと私なんか特にそうなのですが、過去を悔やみ、現在を見ること無しに、未来を恐れて生きております。</p><p style="text-align: left;">ある意味普通（失礼）なのかもしれません。しかしブッダはただ今、この今のみを正しく見なさいと言います。これはひじょうに当たり前でありまして、難儀な不思議であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし人間はどうしても自分の存在意義が出てきます。永遠のテーマかもしれません。それに対してブッダ は答えてくれます。「生まれてくる原因があったのだよ、その結果が誕生であり、存在である。」<br>とそして続けます。「全ての存在には存在する原因がある。たまたまとか奇跡的にということは無い、そして同時に存在するものは全て繋がり有っている。孤立しての存在はない、それぞれに善悪、大小、清汚、長短なく関係しあい、影響し有っている。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">一つとして欠けてはならないし、一つとして無駄な存在などないのだ、どんな罪深いことも実際はこの自分自身も関係していることを忘れてはならない」と説きます。これは別角度から見る無我にも近いようにも感じます。完全孤立の我を認めないのが基本であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">なかなかそうは見ることが出来ないのですが、私は私！という考えもあくまでその自我による自分の都合で感じたことであります。例えば自分はなんなのでしょうか？私は日本人です。</p><p style="text-align: left;">黄色人種です。３３歳であります。もっと広くいうと人間です。地球人です。溝渕という名前です。いよいよわからなくなりました。全て自然とはかけ離れたところで、勝手に判断しているだけです。外国に行けば外人と思われますし、日本人とは見られないかもしれません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">その時点で自分の思う自分と他人 が見る自分も違います。では一体全体私は誰でしょうか？そしてモノもそうです。目の前にコーヒーカップがありますが、これは何でしょうか？人によって全く解釈、受けるイメージが違います。ではコーヒーカップとは陶器でしょうか？入れ物でしょうか？白いモノでしょうか？重いモノでしょうか？思いでのモノでしょう<br>か？解りません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">全て自分の都合で勝手に決めつけることで世の中成り立っているようです。しかしその都合を取り外してそのままありのままに見えたらどう見えるのでしょうか？解りませんが、きっと「ただそこに有る」としかいいようがありません。それ以外脚色をつけることが出来ません。それは本当に丸裸の自分を見た人でなければ出来ません。きっとそのとき人は成仏しているはずであります。まさに無我であります。　さて話しが脱線しました。「死んだらどうなるのか？」という疑問はどうしても正直に残ります。ブッダの言葉を噛みしめてもです。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかしある意味当然かもしれません。先ほどの原因があり、結果があるという教えから見ますと良い原因を蒔けば良い結果があるということも容易に推測できます。それも今のこの現在の生存中にあるとかないとかではありません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">あるかもしれないし、また未来に返ってくるのかもしれません。あまりこの事のみに拘るのも嫌いますが、簡単に考えるとそのようになります。しかしこれでは良い結果になろうが悪い結果になろうがその或からは出ていません。「ただ見る」ことが出来た方はこの善悪をも超えています。その状態まで行ければきっとこの法則からも除外されたいわゆる涅槃であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">生存中は肉体がありますので、食欲、睡眠欲という基本的な欲は残ります。それはブッダでも同じです。しかし肉体が滅んだ（縁がきれた）後は上記した概念が無い、というかとにかく縛るモノが無い状態ですので、本来の状態（そのような状態も無ですが）に戻るというように解釈しております。従って仏との仏の教えとの縁をもっておけばいつか成仏が約束されていると いう教えも原因を作れば結果がついてくるという法則からきているように思えます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし最初はともかく、そのことのみにすがって我を忘れる（無我とは違い我のみになること）ことがあってはなかなかかえって遠くに行ってしまうように感じます。　しかし人間は弱く迷うものであります。生まれ老い病み死ぬ恐怖は逃れられないことかもしれません。しかし仏教によりどれだけの救いがあったのかは解りませんが、ふと日々の生活に疑問や悩みが生まれたときに、すっと手を差し伸べてくれる、冷静に戻してくれる教えと感じております。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それによりどれだけ無駄な怒り、愚痴、ねたみの心を落ち着かせていただいたか解りません。また今回の内容はは基本かもしれませんが、誤解（自分の都合で判断する）と偏見を生むかもしれません。それだけ方便無しにかたると仏教はストレートでクールに感じるかもしれません。しかしそのままでは難儀であり、上級者向けかもしれません。<br>とにかくそれを噛みしめて日々の生活を見ていくことが第一と感じております。勝手な生意気な文章を掲載し<br>たことをお許し下さいませ。<br>　　　　　南無釈迦牟尼仏　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　合掌</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pakolabuddha/entry-12297717058.html</link>
<pubDate>Tue, 01 Aug 2017 11:45:20 +0900</pubDate>
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<title>ＰＡＲＴ５２：１９９９年８月２５日「仏教的不幸とは」</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/c4/06/g/o0271009613995243599.gif"><img alt="" height="96" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/c4/06/g/o0271009613995243599.gif" width="271"></a></p><p style="text-align: left;">更新が遅れ気味で申し訳ございません。仕事が変わりなれてはきたのですが、なかなか文章のネタというか書くエネルギーが湧いてきませんでした。無理してたくさん書くよりも（言い訳）内容を吟味して、、、（吟味するほど無かったりして）　とにかく今回は「不幸」について考えてみたいと思います。そしてそれは同時に「幸福」を見つけることかもしれません。<br>　「不幸」と漠然と言われてもなかなかピンとこないものです。欲しい物が手に入らないような小さいことから病気、経済的問題、思想や恋愛等ほとんどが幸不幸に関わってきます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">また人それぞれによってその感じ方が違います。不幸は苦なのでしょうか？仏教でいう「苦」とは一体何を指しているか考えてみましょう、仏教では人生皆苦ということがあります。そのまま理解してしまうと、刹那的で投げやりのように取れなくもありませんが、そのようにこの人生皆苦を判断するのは危険です。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">ここでいつも書いていることではありますが、現代の情報化の進歩による簡易な情報の入手や一部分のみで安易に評価してしまう浅さにより仏教の教えは誤解されがちであります。</p><p style="text-align: left;">ブッダの説法は待機説法であります。その人々に合わせた説法であります。その人の状態、レベルに合わせて色々に変化させての説法であります。当然自分では理解しにくいことも多くなります。</p><p style="text-align: left;">そこをよく踏まえた上での理解をしばしば求められます。安易な判断は誤解を生むのも当然ですが、無理矢理信じようとするのも危険であります。教えは氾濫しておりますが、よく噛みしめて味わうことが大事と思っております。<br>　仏教でいう苦は一般的にいう苦とはだいぶ違います。普通は求めることがかなわないことが苦でありますが、仏教ではその求めること自体が苦だと説きます。過ぎた欲求が苦だというのであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">本来は全て苦という教えではありますがそれはある意味上級者向けかもしれません。人生皆苦、だから素晴らしいと思い、だから信仰出来る！とはそう簡単には行かないと思います。</p><p style="text-align: left;">とりあえず在家では過ぎた欲求が苦を生む、いやっ苦そのものであると理解できると思います。例えば私事ではありますが、自分の収入以上の物を購入したとします。なんとかローンを払う為に節制します。</p><p style="text-align: left;">また引き落とし日は不安でありますし、購入した物も大事で壊れるんじゃないか？盗まれるのではないか？と日々心配であります。</p><p style="text-align: left;">それが生活上どうしても困るものであるならいざ知らず、ただの趣味であるならばまさに「過ぎたこと」であります。</p><p style="text-align: left;">そして一度この過ぎたものでも手に入れてしまうと今度はさらに無理してもっと良いものを求めてしまいます。さらにこれが物でなく人であったりすれば狂ってしまいます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかしこんな過ぎた物を手に入れないで現状で我慢していればそんな苦労もなく過ごせたはずであり ます。<br>　逆に例えば「歌手になりたい！」と熱望する方がいるとします。それで死ぬほど努力するとします。この努力は「苦」なのでしょうか？<br>一概にそうです！とは言い難い面もあります。それは目標に向かって邁進しているからであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし仏教的「苦」はこの様なことも含んでおります。マイナスイメージで捕らえがちな「苦」ではありますが、仏教的「苦」は一般的な「努力」も含んだ良い悪いを超えた表現であります。</p><p style="text-align: left;">よく「若いうちは苦労は財産と思え！」なんていうこともございますが、この言葉の苦労は肯定的な苦であります。つまり不幸ではありません。「不幸」という定義はその人自身により左右され、あくまで、当事者が感じることであり、第三者が勝手に判断するのは危険でありますし、「不幸」と自身で決めてしまい、鬱に走るのも逆にそれを人生のバネにするのもその人自身でしか成し得ないことであるようであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;"><br>　仏教でいう「苦」とは平常心でいられない状態全てを含んでいるように思えます。また人生皆苦には生きているもの全てに対する慈愛の祈りが含まれているように感じます。それは「がんばりましょう！」という人生に苦労があるのは避けられない事実をあらためて覚悟しましょう！という祈りと、今一度自分の立場、状態を客観的にながめて平常心で判断できるように努めましょう！という祈りが含まれているようにも感じます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">「人生皆苦」このたった四文字には今回書いたこと以外にもいっぱい意味がふくまれる深い教えでブッダが説いたと感じる次第であります。つまり冷静に正確に世の中を眺められるブッダからでた言葉ですので、普通の価値観でしかも自分の都合で判断するのは危険です。「俺が絶対だ！」や「神様のいうことは無条件に信じます！」の両方が強い限りブッダの言葉は聞こえてきません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">自尊心が出てこようとするのを押さえ、ただ鵜呑みにすることなく、ひいき差別無しにして、客観的に自分自身を眺めることからブッダの教えが聞こえてくるように感じます。それは同時に自分が何者なのかを追求してきます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">認めたくない部分にも光りをあててきますのでひじょうに難儀し ますが、そこが楽しい？？ところであります。（マゾ？）しかしそのように努めているとなにか安堵の感が湧くときがあります。それは諦めたのではなく、明らかになったのであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">だらけるのではなく、自分自身の一大事が解ってくるのかもしれません。仏教でいう「ただ生きる」とは流されるとか諦めるの逆であります。明らかになった自分自身を見つめることにより、より生きる素晴らしさや糧や忍耐力がつくものであると思っております。そして客観的に眺めることにより一人生まれ一人死すのではありますが、それには多くの人々生物、物や因縁、業が混然一体となり成り立っていることも知らされます。それにより協調性も生まれます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;"><br>　話しが飛んでしまいがちですいません。「不幸」とはその人が思ったときが不幸であります。またどんなにブッダの教えをよんでも本当に不幸と一般的に言える状況の方も多くいらっしゃいます。どのように前向きに考えようとしても、限界もあるのが普通の人間であります。その時は右往左往し、泣き続けるしかございません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">仏もいっしょに泣いてくれます。それは自分自身が仏であるという事実をもってしてもであります。それでも平常心でいられる方もいるかもしれませんが、取りあえず直面中はオロオロするしかありません。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にもそのような言葉がございます。しかしそれは生き物としてはひじょうに普通であり、健康的なことであります。あのように法華経に精通し、大自然ととけ込めた宮沢賢治さんでもそうなのです。しかし若くして涅槃に入られた賢治さんは不幸であったでしょうか？</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">各宗派の祖師方も不幸であったでしょうか？信仰で救われたのでしょうか？そういう一般的な信仰を超え、自分自身を了解でき、自分と他人、いやっ全てを許せたからこそ納得できちゃんと最後を迎えられたのではないかと思います。その秘めたる強さや安定感は恐るべきものが あります。その方々に「幸せでしたか？」ときけばきっと「幸不幸も無い、ただ死すべし」とでも言われそうです。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかしきっと受け入れているはずであります。それは自分自身が生かされていた事実と世の中をしっかり見聞出来ていた証拠であると思います。それを幸せととれば幸せでしょう。きっと幸不幸という概念が無くなっていたのかもしれません。しかし私は凡夫<br>ですので、きっとのたうちまわるでしょう。でもそれを認められるように努めたいとだけ考えております。（ムリムリ！）<br>　　　　南無釈迦牟尼仏　　　　　　　合掌</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pakolabuddha/entry-12297715636.html</link>
<pubDate>Tue, 01 Aug 2017 11:38:58 +0900</pubDate>
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<title>ＰＡＲＴ５１：１９９９年８月８日「介護って！」</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/a0/bd/j/o0168027513995238186.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="275" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/11/pakolabuddha/a0/bd/j/o0168027513995238186.jpg" width="168"></a></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　最近、介護法とやらがでちまたで騒がれています。しかし根本はこれから進む高齢化時代に、財源が不足することは目に見えております。その為の「逃げ！」というと大袈裟かもしれませんが、とにかくこの先に対するビビリから発生しているように感じます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">人ごとではありません。北欧のようには行くのは難しいことはすぐにわかります。また未来の若い会社員が月給３０万円のうち２０万円が税金です！では納得も行かないでしょう。なぜこんなことを今回書き始めたかと申しますと、私事で誠に申し訳ございませんが、最近転職いたしまして、（またか！）電気系サラリーマンに縁を切り（切れてませんが、友情は）、つまりダッサラでございます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　そして以前より願っていた「介護」という業務に就かせていただいたわけでございます。それも最初は普通に想像するＴＶ等でも見かけるいわゆる「老人ホーム」か「精神障害者施設」を狙っておりましたが、なかなかというか運良くというか、こちらも人不足ですが予算無し、そして年齢制限という企業とにた不況的現状がございまして、なかなか就職口がございませんでした。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかし救ってくれる神もいらっしゃるようでございまして、というかそういう縁がございまして、（くどい！）なんとか「介護」が主業務である職場を得ることに成功致しました。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">しかも介護に関わる仕事を探しているうちに、いろいろとその世界が見えてきます。介護といっても施設内での巡回介護や、在宅者への派遣介護、そして身体障害者、精神障害者、お年寄り、病者と様々で、またその中でもあくまでも一方的に介護する方法、介護というより介助と言いますか、生活をする上でどうしてもご自身では難しい部分を助ける方法、心から身体から自己管理の部分までケアする介護とまあ上げていったらきりがございません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それだけケースバイケースでありますし、その業務を行う側によっての決まり、方針によっても大きく違います。また介護法以前というか現在は、自治体まかせであったわけですので、地区によって大きくこれまた違います。２３区でみても隣と隣でぜんぜん違うということであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">まったくどうなっているのか？の連続であります。また障害のある方との接点も分離教育の中では進んでボランティア等に参加しない限り、なにかベールに包まれた別世界の出来事になっております。この情報化時代になぜかなかなか入ってこない、進んで情報入手しない限りなかなか真実が見えてこない世界なのかもしれません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それは仏教でいう正しく見るという行為から外れているのかもしれません。バブル後の日本はさらに「見たくないものは見ない」の傾向が強くなったように感じます。生まれ、老い、病み、死ぬの四苦は触れないように努めるのがおしゃれとでも言いましょうか？そのように過ごすのが文化的とでも錯覚しているかのように思えます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">もちろん自分もしかりです。人間の欲望の根元はこの四苦を見ないで、考えないで過ごすためのものが多分にございます。これが解決したならばまさに「涅槃」であり成仏であります。　話がそれましたが、私が行わせていただいているのは重度身体障害者の方で自立生活を行っている方の訪問介護であります。たいがいが一人暮らしをされています。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">そのお宅にお邪魔して、食事、排泄、買い物、洗濯掃除等のいわゆる家事プラスといった感じのことをさせていただく業務であります。しかし普通のヘルパーとは違い、個人的な旅行や趣味、意見の交換、部屋探しから本当に信頼が確率すればお金の管理、生活プランや思想にいたるまで家族のようで、また友人のように情報、価値の共有化が必要になる職場であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">なにか職場という表現が合わないようにも感じる程です。一体この仕事は仕事なのか？などと戸惑うことすらしばしばであります。しかし良いことずくめではありません。売り上げが目標ではありませんので、ある意味目標が人生や価値観になってきます。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">つまり売り上げを上げれば優秀という公式が当てはまりません。人という部分が強く出てきます。つまり、仕事としてのみ考えれば介護テクニックによって優劣を決められますが、それよりも人間性とか人情という企業ではきれい事とされる部分（企業でも大事ですが）が特に追求されてくるというか丸裸にされる業務であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">本当の営業マンは商品ではなく、自分を売り込め！というのが古くからある鉄則ですが、（最近崩れてきたりして）それのごとくその人で決まってしまう恐ろしい側面も持っています。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">そしてもう一つ恐ろしいことはこの障害のあるかたとともに生きる介護者という立場に慣れていくうちに、世間とのギャップに気がつかなくなることがあります。分離社会のもう片方からもう片方に自分が移動したことに気がつかないでかやの中で安心してしまいそうであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">私は前職を生かしてなんとかこの分離という重いベルリンの壁を破壊したいと願っていたのですが、人間楽に流れるのごとく、流されているように感じます。つまり安心してしまっているのです。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">以前の友人に色々聞かれます。当然もう片方の世界を知りたいのでしょう。そして私の説明を興味深く聞いてくれます。しかし何か外国の話を聞くかのような距離を感じます。（外国に距離を感じるのもグローバルではないのですが）</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">つまりその話を聞いて満足する。自分の位置の確認と、見ないできた（そういう意識はないと思いますが、深層心理で働いているかも）ことをフィルターを通して見ているわけであります。このフィルターが煩悩であります。私もそれを使って参加しているのかもしれません。もしかしたらそのフィルターが強いからやれたのかもしれません。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;"><br>しかし一つ良いことがありました。それは「介護してやってる！」とか俺は良いことをしている！」とかしてやったんだから礼くらいしろという気持ちはありません。仏教の布施は第一段階としてはこちらからの無償の一方的な与えであります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">そして本来の布施はといいますと、与える方も受ける方もまったくなにが起きたかも気にしない状態であります。これは双方に関係してきますので、ひじょうに難儀であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">インドでは今でもこれが可能な人々もいらっしゃいます。私はそれで飯を食べさせていただいておりますので、布施とは違います。しかし他人は「良いことをしている」と見られる時もあります。しかし障害者の方からすれば「本来自分でやりたいのに、出来ないから渋々」という考え方もあることを忘れてはなりません。そこに大きな壁があるのです。ボランティアとしても尊いことではありますが、自分はボランティアするほどの余裕が（お金とか時間だけの余裕というより心の広さ）あるなんて、なんて果報ものなんだろう。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">ボランティアすることで、救われている。と逆にボランティアさせていただいているという気持ちが素晴らしいボランティアと思います。（難しいですが）また介護をしていて思うのですが、介護しているとなぜか介護者が逆に救われている。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">介護によってこちらが与えてもらっている。手足になるかわりになにかを頂いていると感じることが多いのも事実であります。不思議ですが強く誰もが感じているようであります。それはアイデンティティの確立でもなければ、優越感でもありません。とにかくなにかを頂いているのです。つまりギブアンドテイクになっていると思っております。「福祉なんて偉いわー」という人がいます。しかしそれは違います。「偉い」という発想はきっとですが、失礼を覚悟で言いますと、「助けてやってる」という心から出てきている可能性（全てそうではありませんが）があるからであります。そうでなく普通に接してこそその厚いベルリンの壁が破れるのです。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">遍路していても同じです。「若いのに偉いわー」とか「かんしんかんしん」と言われたことがございます。しかし遍路中は確かに仏道修行のように見えますが、私だけかもしれませんが、弘法大師とともに歩かせてもらい、おまけにこんな一般的に余裕のある時間を頂いているわけですし、しかも無理矢理ではなく、自分で行かせてもらっているわけで、おのれが救われんが為にがんばっている、がんばらせていただいている状態であります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">それはある意味自己中心的行動のまさに最中であります。歩いている人は様々な問題がある方も多いでしょう。しかしおのれの為であるかたが多いのも事実であります。しかし仏道修行として、衆生済度の為ならば素晴らしいのかもしれません。しかし私の場合は違っていると思っております。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">つまり御大師さんにすがって救いをもらうためのの交換条件の旅であります。がんばるから助けてね！的歩行にほかなりません。天台宗の歩行禅である千日回峰行、真言禅、座禅とは大きく違います。しかしやがてそのようになってくることもございますが、あくまで、発端はどれも同じですが、つまりおのれが成仏したい！真理を見たい！から出てきていることは普通であります。しかし私はほぼ交換条件としての歩行であったようです。もっと精進しなければと思います。介護もしかりです。安心の為の介護から交換条件、ナルシストからの解脱の介護になりたいものであります。今回も支離滅裂！！！お許しくださいませ。戦没者の菩提を祈ります。<br>南無阿弥陀仏　南無阿弥陀仏　南無阿弥陀仏　　　合掌</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/pakolabuddha/entry-12297714718.html</link>
<pubDate>Tue, 01 Aug 2017 11:34:54 +0900</pubDate>
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