<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>家具デザインに生きる仕事師のブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/papaoland/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/papaoland/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>デザイン、家具、オフィス、ワークスタイル、クリエイティブ、ブランド、ロゴタイプのこと、あれこれを書いていきます。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>自己紹介　子供時代から会社員時代まで</title>
<description>
<![CDATA[ 私の紹介、話せば長くなりますが・・・。<br><br>1956年に群馬県佐波郡（現在は伊勢崎市）で生まれました。<br><br>幼稚園児の時、家族全員で群馬から東京の文京区音羽町に引っ越しました。<br>新たな幼稚園には途中入園できずにいたので、小学校入学の日は友達ができる嬉しさでいっぱいだったようです。<br><br>その日の教室で「むすんでひらいて」の伴奏に合わせ、<br>私は手を動かして歌い始めたが、周りの皆は手は動かさないで歌うだけでした。<br>歌の二番では私も手を止めてしまった、ということを母から聞きました。<br>いま大人になってみると、手を動かして元気にうたう歌のような気がしますが、<br>皆さんどう思いますか？<br><br>小学校時代はその後、中央区の越前堀へ。そこは家内工業や倉庫が多く、一学年一クラスという子供の少ない地域でした。日本橋高島屋デパートのおもちゃ売り場に足しげく通い、無料の射撃で、動物のマスコットを集めまくっていました。<br><br>その後、世田谷区世田谷へと引っ越しました。<br>世田谷はまだ畑や垣根が多くどこか田舎のようでホッとした記憶があります。<br>多摩川に魚釣りに行ったり、駒沢オリンピック公園で真っ暗になるまで遊んでいました。<br><br>勉強の方は、なかなか好きになれず、ガレージの中で、プラモデルや工作をしているような少年でした。<br><br>大学までいって勉強はしたくないと思っていたのですが、家に遊びに来ていた姉の友人が、<br>工業デザインを学んでいるという話に、そういう大学だったらと思い直し、予備校に一年通い入学を果たしました。<br><br>そこではデザインの基礎と専門分野では家具や室内計画やプロダクト製品のデザインを学んできました。グラフィック、ディスプレイ、プロダクトという垣根を超えて行き来した仲間と、ダーツや鍋を囲んでいた頃は、楽しい思い出となりました。<br><br>卒業制作のテーマは、「壁」にしました。西洋の部屋はかっちりとした壁で仕切られているが、<br>日本家屋では、襖や障子などでフワッとしていて壁とも言えないような軽い存在ということに着目してみました。<br>あるとき、壁が餅のように飛び出してきてソファになる夢を見ました。<br>そのイメージをもとにして、壁が一瞬にソファや棚に変形してしまう壁ユニットをデザイン制作しました。<br><br>そんな遊びの延長のようにデザインと戯れていた期間はあっという間に過ぎ、社会人への関門に向かいます。<br>工業デザインといえば、自動車とか、カメラとか、家電とかの就職希望が多い中、そういう商品にあまり興味もなく、かといって他にデザインしたい対象も思いつきませんでした。<br><br>たまたま自動販売機のメーカーの求人があったので、何か新しそうでいいかなぐらいの軽い気持ちで志望しました。就職口には殆ど困らない年だったのが幸いし、就職できました。<br><br>そのころ、週末は会社のテニスクラブに参加したり、社内スキーツアーに行ったりしてました。<br>会社の出張では、新幹線で飲むために、つまみを買いにいくのが新人の私の役目です。どっぷり会社員生活にはまっていきました。<br><br>しかし入社５年の頃には、自動販売機ならではの平面上でのグラフィックデザインへの興味が薄れてきて、もっと形をいじる立体デザインをしたいと思い始めてきました。<br><br>転職がまだ一般的ではない時代で、技術者系の転職雑誌もないころです。<br>業界トップで安定して成長する会社をやめるというのは、ありえなかったと思いますが、母校の大学を訪ねてみると、小さなメーカーの募集があり、転職を決断しました。<br><br>はじめは、ステンレスのくず入れ灰皿などを扱う小さな会社でしたが、新しいオフィスビルがどんどんと建っていく中で、建築設計事務所からの高級品志向のニーズに合った、上質でデザインの良いステンレス製品が売れまくっていきました。<br><br>そして駅前開発や大型施設などへの大きなモニュメントまでも作る会社となりました。<br>もうそのころは、ステンレス以外にガラスや石や木などあらゆる素材を駆使したものを<br>作り出していました。<br><br>私も随分と設置作業の手伝いに行ったものです。その時は殆どは徹夜作業でした。<br>設計室に戻っても、設計作業の頭にすぐに切り替わらず、鉛筆の線が思うように描けないぐらいでした。<br><br>はじめ見開きのカタログだったものが、その厚さを一年ごとに一センチづつ増やしていく位に<br>、瞬く間に成長し一流ブランドを確立していきました。<br>それこそ土日も無く仕事に明け暮れる毎日を過ごしました。<br><br>結婚したばかりでもあり、たまには週末に夫婦で街に出るのですが、喫茶店に立ち寄ると寝てしまい、次の店でもまた寝てしまうという風でした。<br>そんな寝る間を削って働いていても、製品を作り上げるごとに感動の連続でした。<br><br>しかしある日、妻の一言がありました。「この会社にいても報われない」と言うのです。<br>会社や社長の話をしたとき、会社への不信感や不安感を感じたようでした。<br><br>私も設計だけでなくデザインをしたいという思いもどこかにあったので、すぐその日に転職先を探しました。その時には、技術系の転職雑誌「ベルーフ」というのがあり、そこにあった会社に直ぐに応募しました。<br><br>そこはオフィス家具や文具を扱う会社でした。<br>そこのオフィスは今まで見た事もない、パネルシステムという家具で作られた斬新な職場でした。<br>そして仕事は企画業務というもので、製造業者さんとのモノづくりや仕入れ交渉やカタログ計画まで行うというものでした。<br><br>苦手な数字や書類を扱わなければならない仕事で、まったく戸惑うことばかりで、悩みながらやっていました。その後、会社の方針で、メーカーを目指そうといういう大きな家具工場建設プロジェクトが始まりました。<br><br>モノづくりにじっくり向き合いたいと思っていたのと、工場が実家に近いということもあり、<br>工場勤務の社内公募にすかさず手をあげました。<br>その時は、設計でも何でもやろうと思っていたのですが、デザインの仕事が出来る事になりました。<br>立体デザインを目指してから１０年ほどが経っていました。<br><br>オフィス家具を開発する仕事は、単に家具をデザインするだけでなく、オフィス空間全体の計画をしていきながら、その場にふさわしい形や機能に合わせてモノをデザインしていく仕事です。<br><br>新たな魅力ある空間や仕事場を作り出す面白さがオフィス家具の仕事にはあります。<br>この会社でオフィス家具ビジネスと出会って、本当にやりがいを感じていました。<br><br>その当時、この会社を退職するとは、私自身も全く考えていませんでした。<br><br><br>独立編につづく。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/papaoland/entry-11876745347.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Jun 2014 14:43:09 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
