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<title>外天公・相馬義胤</title>
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<description>福島県浜通りの英雄、相馬義胤を描いたブログ小説です。</description>
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<title>あとがき</title>
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<![CDATA[ <p>あの東日本大震災から、今日で1年が経ちました。</p><br><p>私は、故郷へ帰るときの、列車の車窓から見る浜通りの自然が大好きでした。</p><br><p>今は原発事故の為に、電車は通っておりません。 外天公が眠る、</p><p>南相馬市小高区の同慶寺にも入ることが出来ません。</p><br><p>しかし、きっといつか、原発事故も収束し、浜通りは復活します。そしてまた、</p><p>あの素晴しい自然をゆっくり眺めることが出来る日が来ると信じています。</p><br><p>私はきっと外天公が、戦国時代に守り抜いた浜通りの復興を、どこかで</p><p>見守って下さっていると信じています。</p><br><p>最後に、昨年の震災でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈り致します。</p><br>
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<pubDate>Sun, 11 Mar 2012 22:48:29 +0900</pubDate>
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<title>第五章　外天公・相馬義胤</title>
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<![CDATA[ <p>　二代将軍となった秀忠は、ある時、大名衆を集めて江戸城にて酒宴を開いた。秀忠は利胤を試し、利胤に対して、</p><br><p>「政宗に杯をすすめよ。」</p><br><p>　と言った。驚いた利胤は中座し、土井利勝を呼び、</p><br><p>「それがしの父は政宗と不仲であり、いくら上様のご命令とあれども、お受けすることは出来ません。」</p><br><p>　と言い、利勝は秀忠にそれを伝え、その場は無事に済んだ。</p><br><p>　またある日、政宗は井伊直孝の仲介で利胤と和解しようとしたが、この話を聞いた利胤は、</p><br><p>「相馬家は伊達殿のお陰で本領を安堵することが出来ました。その事に関しては感謝しておりますが、伊達は相馬にとって長年の仇敵であるため、私的に和解することは出来ません。」</p><br><p>　と断り、伊達との敵対関係を貫いた。</p><br><p>　ところがその利胤は、寛永二年九月十日に四十五歳の若さで他界した。</p><br><p>　残された利胤の嫡子である六歳の虎之助は、奥州中村藩の二代藩主となり、義胤はその後見役となった。</p><br><p>　虎之助は佐竹義宣より「義」の字を貰い、祖父と同じく「義胤」と名乗った。義胤は老体に鞭を打って同じ名の孫を補佐した。</p><br><p>　そして寛永十二年の冬、八十八歳の義胤は危篤に陥った。義胤は、十六歳になった孫の義胤に次の遺言を残した。</p><br><p>一、幾度登城するといえども、始めての御礼の様に慎むべきこと。</p><br><p>一、弓馬は侍の嗜む所、読書は諸用の本、いずれがかけてもゆくゆく不足となろう。</p><br><p>一、内の者に恥じよ。</p><br><p>　また、孫の義胤の近習や小姓などに対しても次の遺言を残した。</p><br><p>一、行儀などは乱すべからず。万稽古の時、別の雑談は無用である。読書勤学の時は、下々がそれぞれ好む書物などを開いて見るのも後々役に立つもの出る。</p><br><p>一、奉公の儀を心掛けるのは、主人の為、身の為にもなるであろう。生を享ける物は苦の無いことはあろうはずがないのである。</p><br><p>一、主人と雑談の時は、気分のはずみで卑しい調子を出すべきではない。世間話などもよく考えてからお話致すべきである。</p><br><p>　こうして最後まで相馬領と家臣・領民を思い、寛永十二年十一月一六日に義胤は静かに息を引き取った。戒名は蒼霄院殿外天雲公大居士と名づけられ、人々からは外天公と呼ばれた。</p><br><p>　義胤の遺体は、遺言により遺体に甲冑を着せ、伊達家の領地である北側を向けて、小高の同慶寺に葬られた。義胤は死後、相馬領の守護神となったのである。</p><br><p>　一方の政宗も寛永十三年の春に病にかかった。その年の五月一日に病を押して江戸城に登城し、三代将軍の家光に謁見した。家光は五月二十一日に政宗の屋敷に見舞いに行ったが、その三日後の五月二十四日に息を引き取った。義胤の死後、半年のことである。</p><br><p>　こうして両雄の死去により、長年にわたる義胤と政宗の長い戦いは終わったのである。</p><br><p>　（完）<br></p>
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<pubDate>Sat, 17 Dec 2011 18:18:19 +0900</pubDate>
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<title>第四章　義胤と天下人（九）</title>
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<![CDATA[ <p>　一方の政宗は、小十郎に対し、</p><br><p>「小十郎、家康のあの顔を見たか。天下人をからかうのも面白いものじゃ。」</p><br><p>「殿もよっぽどのひねくれ者ですな。相馬を助けて欲しいのであれば、素直にそう言えば良いではないですか。」</p><br><p>「まあ固いことを言うな。しかしこれで家康は相馬を潰せまい。家康が死んでわしが天下を狙う時には、義胤は味方してくれるかもしれんな。」</p><br><p>　両者の思惑をよそに、義胤・蜜胤は本領安堵の知らせを大いに喜び、御礼を言上する為に、家康・秀忠に謁見した。家康は義胤・蜜胤に対し、</p><br><p>「今回の件、潔く真実をありのままに訴訟した事、殊勝である。これからは我らの為に大いに忠誠に励まれよ。」<br>と伝えた。</p><br><p>　その後、義胤は家督を蜜胤に譲って隠居し、蜜胤は奥州中村藩の初代藩主となった。蜜胤は秀忠の側近である土井利勝より「利」の字を貰い、名を「利胤」と改めた。さらに同じく秀忠の側近である土屋忠直の妹を秀忠が養女として迎え、利胤に嫁がせた。</p><br><p>　こうして相馬家は譜代大名に近い存在となり、利胤は徳川への忠誠の証として、慶長十六年、居城を小高城から伊達領に近い中村城に移し、政宗への備えとした。</p><br><p>　一方の政宗は、徳川政権が磐石になるに従い、天下取りの野心を捨て、家康や秀忠から信頼される様になった。元和二年に家康は病に倒れ、枕元に政宗を呼び、秀忠の将来を託して逝去した。<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/peddki/entry-11103073345.html</link>
<pubDate>Sat, 10 Dec 2011 17:53:49 +0900</pubDate>
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<title>第四章　義胤と天下人（八）</title>
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<![CDATA[ <p>　丁度その頃、家康の家臣・本多正信が下野国結城で鷹狩りに出ていることを聞き、密胤は門馬甚右衛門を正信の元へ遣わした。</p><br><p>　甚右衛門は正信に今までの経緯を涙ながらに話し、正信は、</p><br><p>「それがしは江戸に戻ったら評議を行い、家康公に注進したいと思う。そなたらは江戸へ行って旗本衆を通して言上されよ。」</p><br><p>　と伝えた。</p><br><p>　やがて密胤たちは江戸に到着し、法華宗の寺を宿舎とした。密胤はその寺の住職と懇意の旗本・藤野宗右衛門に取り成しを願った。</p><br><p>　宗右衛門は、</p><br><p>「お話は承りました。他にこの話を家康公に言上できる譜代衆の知人は居りませんか。」</p><br><p>　と密胤に尋ねたが、密胤には譜代衆の知人はいない。そのとき門馬吉右衛門が、</p><br><p>「若殿、それがしに心当たりがあります。どうかそれがしを殿の元に遣わして下さい。」</p><br><p>　と言うので、密胤は吉右衛門を義胤の元へ遣わした。</p><br><p>　義胤の元に戻った吉右衛門は、義胤に対して言った。</p><br><p>「殿、旗本の島田次兵衛という方を覚えておりますでしょうか。以前、秀次公の関白就任の折、白洲に控えて暑さを堪えていた島田殿に、日傘に使われるようにと円座をお貸したではありませんか。」</p><br><p>「確かに覚えておる。しかしそれはかなり昔の事で、島田殿は覚えておるであろうか。」</p><br><p>「今では島田殿は奉行職にあります。殿の事を覚えて下されば、きっと力になって下さると思います。どうか島田殿に書状をお書き下され。」</p><br><p>　と吉右衛門が強く勧めるので、義胤は島田次兵衛宛てに書状を書いた。</p><br><p>　吉右衛門は書状を江戸に持ち帰って密胤に渡し、宗右衛門を通して次兵衛に届けた。</p><br><p>　次兵衛は義胤の事を覚えていた。次兵衛は密胤の宿舎を訪ね、</p><br><p>「あのときのご恩は忘れておりません。それがしからも本多正信殿に相馬の事をお願致しましょう。」</p><br><p>　と密胤に伝えた。</p><br><p>　下野で甚右衛門の話を聞き、次兵衛の訴えを受けた本多正信は、家康に相馬家の処遇について相談した。</p><br><p>　家康は相馬の処遇について大いに迷い、長年の宿敵と知られた政宗を呼んだ。</p><br><p>　政宗は小十郎と供に家康の元を訪れると、家康の脇には本多正信が控えていた。</p><br><p>　家康は政宗に尋ねた。</p><br><p>「実は義胤の倅が江戸へ来て、今回の仕置きに対して訴訟を起こしておるのじゃ。上杉征伐の折、そなたが自領に戻る際、相馬領に一晩泊まり、もてなしを受けたというのは誠か。」</p><br><p>「はい、義胤は愚の付くほど実直で、卑怯な事を人一倍嫌う男です。それがしが僅かな手勢しか連れていなかったので、それがしを泊めてくれたのでしょう。義胤が卑怯な男であれば、それがしは夜襲にでもあって討ち取られていたでしょう。」</p><br><p>　それを聞いた正信が口を開いた。</p><br><p>「なるほど、政宗殿を襲わなかったと言う事は、石田殿や上杉殿の味方をしなかったと言う事ですな。」</p><br><p>　それを聞いた政宗は、笑顔を浮かべて言った。</p><br><p>「義胤が三成や景勝と通じていたかは分かりませぬが、訴訟に倅を遣して来るとは、相馬も覚悟を決めておる様ですな。改易となれば、また一揆が起こるでしょう。その時はそれがしが鎮めて見せます故、その際はそれがしが相馬領を頂きましょう。」</p><br><p>　家康は呆気にとられたが、気を取り直して再び政宗に尋ねた。</p><br><p>「相馬家は将門公の子孫と聞いているが、それは誠か。」</p><br><p>「真偽の程は分かりませんが、相馬家の旗印は、将門公以来の繋ぎ馬であり、毎年将門公伝来の『野馬追い』なる神事を行っているそうです。」</p><br><p>　政宗はさらに笑顔を浮かべて言った。</p><br><p>「なんと家康殿ともあろうお方が、将門公の亡霊を恐れておられるのですか。」</p><br><p>「そのような事は無い。少し興味があっただけじゃ。」</p><br><p>　家康は声を荒げて言った。</p><br><p>　実際は、家康は将門公の亡霊を恐れていた。というよりは、信仰していた。家康は将門公を祀る神田明神で関が原の戦勝祈願を行い、また江戸城築城の際には神田明神を江戸城の鬼門の方角に移し、江戸の守り神とした。</p><br><p>　政宗が帰った後、家康は正信に言った。</p><br><p>「政宗め、あやつは何を考えておるのじゃ。義胤は政宗を助けのだから、相馬の改易は考え直そう。」</p><br><p>「殿、ここで相馬を助ければ、きっと殿の為に忠誠を尽くし、伊達への押さえとなりましょう。ここは相馬の改易を取り消すべきかと思います。」</p><br><p>　正信の薦めもあり、家康は孫の家光誕生の恩赦として、相馬の改易を取り消すことにした。<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/peddki/entry-11096466705.html</link>
<pubDate>Sat, 03 Dec 2011 15:02:57 +0900</pubDate>
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<title>第四章　義胤と天下人（七）</title>
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<![CDATA[ <p>　慶長六年は相馬家に不幸が続出した。まず三月には義胤の弟である郷胤が亡くなった。四月には三胤の妻が亡くなり、十月には義胤の父、盛胤が亡くなった。しかし翌七年はさらに相馬家にとっての危機が訪れたのである。</p><br><p>　慶長七年五月、義胤は苅野沢にて野馬追いの神事を行っていた。当時の野馬追いでは現在の「甲冑競馬」や「神旗争奪戦」等は行われず、騎馬武者が野性の馬を敵に見立てて追い込み、妙見社に奉納するという軍事訓練の要素が強いものだった。現在の野馬追いの三日目に小高神社で行われる「野馬懸」が当時の野馬追いの形を残している。</p><br><p>　その野馬追いの神事の最中に、佐竹義宣からの飛脚がやってきた。義宣からの書状には、佐竹は関が原の合戦にて石田三成に通じていた為、常陸の領地を没収され、秋田へ転封となった事と、義胤も同罪として所領を没収され、佐竹の家臣として秋田領内の一万石が配分される事が書かれていた。</p><br><p>　義胤は野馬追いの神事が終わると、一族・家臣を牛越城に集めて、書状の内容を話し、皆の意見を聞いた。皆が驚いて静まり返っている中で、三胤が口を開いた。</p><br><p>　「父上、それがしは納得がいきませぬ。我が相馬家は、三成殿の味方をした訳でも、三成殿に通じていた訳でもありません。佐竹殿の家臣となって秋田に行くよりは、江戸に上って訴訟し、相馬家の潔白を証明し、家康殿の直参として相馬の名を残したいと思います。」</p><br><p>　それを聞いた義胤は、</p><br><p>「三胤、よく言った。わしも此度の仕置きには納得がいかなかった。そなたは江戸に上って訴訟して参れ。」</p><br><p>　こうして三胤は、名前を「密胤」と変えて江戸へ向かう事となった。お供には門馬甚右衛門・門馬次右衛門・原近江・門馬吉右衛門など十六人が選ばれた。</p><br><p>　江戸に向かう途中、密胤は思いがけない人物と再開した。泉胤政である。胤政は密胤が領地没収に対して江戸に訴訟に行く話を聞き、直江兼続がしきりに止めるのも聞かず、上杉景勝に暇を申し受けて江戸へ向かっていたのである。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/peddki/entry-11089729134.html</link>
<pubDate>Sat, 26 Nov 2011 14:05:00 +0900</pubDate>
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<title>第四章　義胤と天下人（六）</title>
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<![CDATA[ <p>　一方、泉胤秋の婿である泉胤政は、相馬家を出奔して上杉景勝の家臣となっていた。胤政は牛越城の普請の際に公儀の奉行と胤政の奉行が喧嘩をしたために追放されたとされているが、義胤が直江兼続の為に秘密裏に派遣したのかもしれない。</p><br><p>　慶長五年九月、胤政は直江軍に加わり最上境にいた。合戦の初日は、直江軍の総指揮は佐井道二が執ったが、人数に勝る直江軍は最上軍を攻めあぐね、勝負は付かずに終わった。</p><br><p>　その日の夜、胤政の元に同じく上杉に仕えていた石川光昌や、義胤の勘当を受けて相馬から上杉家に仕えた滝迫日向がやってきた。</p><br><p>　その時、胤政とその従者たちや日向は、</p><br><p>「今日の戦は相馬流の配備で戦っていれば、きっと勝つことが出来たであろう。人数に頼って敵を恐れているから勝てなかったのだ。」</p><br><p>　などと話していると、それを聞いた光昌は、</p><br><p>「なるほど、確かにその通りである。それがしが兼続殿に話してみよう。」</p><br><p>　光昌は兼続にそのことを話すと、兼続は喜んで答えた。</p><br><p>「相馬は伊達の侵攻を受けても侵されず、常に勝利を収めていると聞いている。その戦を知っている者がわが軍にいるとは心強い。明日の合戦は泉胤政に頼むことにしよう。」</p><br><p>　こうして胤政は明日の合戦で直江軍の指揮を執ることとなった。胤政は相馬では千人ほどの指揮を任されたことはあったが、直江軍は一万人を越える大軍である。大軍を指揮する自信は無かったが、相馬の名を汚してはいけないと思い、思い切って引き受けた。</p><br><p>　翌日、出陣の前に滝迫日向・金沢備前・小栗内膳の三人を呼び、貝、鐘、太鼓の各鳴物を誰が鳴らすかを決め、鳴物によって軍勢の進退を合図することとした。</p><br><p>　やがて合戦が始まり、直江軍の先鋒、滝迫日向が十間乗り出すと最上軍の先鋒、九戸備後も十間乗り出すと言う駆け引きが数度繰り返された。</p><br><p>　胤政は九戸備後が出ている間は勝てないと思い、敵が入れ替わるのを待った。やがて敵が入れ替わる様子を見せ、九戸備後も見えなくなったので、「今が好機」と法螺貝を吹かせ、鐘や太鼓を叩かせ、泉勢百十九人を率いて突撃すると、佐井道二や他の諸将たちは胤政に続き各々の軍勢を指揮して、最上勢に一気に打って掛かった。</p><br><p>　敵が混乱した所を、更に直江軍は競って突き進んだ為、やがて敵は壊走した。敵が逃げた先に城があり、直江軍はその城を包囲した。</p><br><p>　兼続はこの勝利に喜び、兼続自らが胤政に対して、総大将とも変わらぬ馳走を用意した。また胤政の元には祝いの品や手紙が殺到した。</p><br><p>　しかし城を包囲している最中に、関が原にて石田三成が敗走したという知らせが入った為、直江軍は城の包囲を解いて米沢へ引き返した。</p><br><p>　兼続は胤政の軍功に対し、六万石の城主に取り立てるつもりであったが、結局は関が原の敗戦により叶わなかった。<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/peddki/entry-11083266393.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Nov 2011 19:49:58 +0900</pubDate>
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<title>第四章　義胤と天下人（五）</title>
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<![CDATA[ <p>　一方、政宗の相馬領通過を聞いた義胤は、牛越城にて評定を開いた。まず義胤が、</p><br><p>「此度の政宗の相馬領通過について、皆思うべきことを述べよ。」</p><br><p>　と言うと、岡田胤景は、</p><br><p>「此度の事は、政宗を討ち取る、またとない好機であります。それがしが大将となり夜襲をかけて政宗を討ち取ります故、これを機に当家は三成殿や景勝殿に味方すべきです。」</p><br><p>　と言い、水谷胤重は、</p><br><p>「政宗を討つことは簡単です。しかし、僅かな兵を率いて敵地の通過を依頼してきた政宗を騙し討ちにすることなど、武士としてあるまじき行為です。また此度の戦は、武勇、智略共に秀でた家康公が勝利すると思われ、政宗を討ってしまえば、当家はそのために家康公に滅ぼされてしまうでしょう。」</p><br><p>　と言った。それを聞いた義胤は、三成との友情と当主としての責任の間での葛藤はあったが、思い切って口を開いた。</p><br><p>「わしは胤重の意見に賛成である。駕籠の鳥の様な状況の政宗を討つのは卑怯である。また、わしは三成殿とは懇意とはいえ、七将が兵を挙げたときの三成殿の取り乱し様を考えると、三成殿は大将の器ではないと思う。此度は政宗の要求どおり、相馬領に政宗を一泊させ、無事に通過させようではないか。」</p><br><p>　こうして政宗の為に標葉郡の涼ヶ森にある花光院を宿舎とし、兵糧三百俵、大豆百俵を進呈した。政宗は義胤の厚意に感謝の意を伝えたが、政宗は兵糧については用意があるとして受け取らなかった。</p><br><p>　政宗の饗応役は、岡田与三右衛門が付いた。その夜、花光院の境内に馬が放たれ、警護の者も慌て騒ぎ出した。すると政宗は薙刀を持って供の侍と縁に出て、与三右衛門に、</p><br><p>「あの物音は何事か。」</p><br><p>　と聞くと、与三右衛門は、</p><br><p>「放馬の騒ぎがあっただけにございます。お気になさらないで下さい。」</p><br><p>　と答えた。</p><br><p>　その後、暫くして、警護の為に立て掛けて置いた百本ほどの槍が一気に倒れ、警護の者がまた騒ぎ出した。再び政宗は薙刀を持って供の侍と縁に出て、与三右衛門に、</p><br><p>「今度は何があった。」</p><br><p>　と聞くと、</p><br><p>「警護のための槍が倒れただけにございます。お気になさらないで下さい。」</p><br><p>　と答えた。政宗は与三右衛門に対し、</p><br><p>「この度の警護は、誠に神妙丁寧である。もし何かあれば伊達に来られよ。」</p><br><p>　と言い、自筆の証文と盃を与えた。</p><br><p>　寝床に戻った政宗は、笑いをこらえて独り言を呟いた。</p><br><p>「義胤め、今度はおぬしがわしを試すか。」</p><br><p>　この一連の騒動は、実は義胤がかつて宮森の道場で政宗に驚かされそうになった事を思い出し、与三右衛門に政宗を驚かすよう命じたものであった。後に与三右衛門は義胤に、</p><br><p>「政宗殿は常に堂々としており、さすがに大将の気性を備えておりました。」</p><br><p>　と伝えた。義胤はそれを聞き、政宗と三成を比較し、三成に味方しないことを決めた。</p><br><p>　次の日の朝、領内の案内役として、新館彦左衛門が政宗に付き添った。</p><br><p>　義胤は政宗の行列を牛越城から見物した。政宗は牛越城の近くに差し掛かると、金の三蓋笠の馬印を差し上げて、暫く牛越城を見上げていた。義胤は馬印を見ると政宗の存在に気づき、政宗が自分に礼を言っているように見えた。</p><br><p>　駒ヶ嶺の近くまで差し掛かると、彦左衛門に対し政宗は、</p><br><p>「ここまで大儀であった。ここから先は自領である故、道はわかっている。」</p><br><p>　と言い、脇差を与えて自領へ戻っていった。<br></p>
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<pubDate>Sat, 12 Nov 2011 17:52:00 +0900</pubDate>
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<title>第四章　義胤と天下人（四）</title>
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<![CDATA[ <p>　慶長五年、三成は豊臣恩顧の大名を集めて、家康を討とうと企んでいた。それに呼応した会津の上杉景勝は領内の城を補修し、会津に新しい居城として神指城の築城に取り掛かった。この動きに対して家康は、景勝に謀反の疑いありとして、景勝に上洛して申し開きをするよう促したが、景勝はこれを拒否した。この時、直江兼続が家康に送った書状が、俗に言う「直江状」である。</p><br><p>　「直江状」に激怒した家康は、景勝が謀反を起こしたとして、会津征伐の兵を挙げた。政宗は北方の信夫口から景勝の領土に攻め入るように命じられ、大阪より自領に戻る事になった。</p><br><p>　政宗は上杉領を避けて自領に戻る為に、かつての宿敵である相馬領を通らなければならなかった。政宗は小十郎に向かい、</p><br><p>「わしが相馬領に行けば、義胤は三成や景勝に味方し、わしを討とうとするだろうか。」</p><br><p>　小十郎は一笑して言った。</p><br><p>「義胤殿は義に厚く、卑怯なことが嫌いな事は、殿も良くご存知ではありませんか。それに義胤殿とて、此度の戦は家康殿が勝つことは解っておられましょう。僅かな手勢で相馬領の通過を願い出れば、義胤殿は無事に通して下さるかと思います。」</p><br><p>「では義胤は家康殿の味方になると言うのか。」</p><br><p>「いや、三成殿や景勝殿への義理もあります故、中立を貫くでしょう。そうなれば家康殿は三成殿と懇意であった義胤殿の所領を没収するでしょう。」</p><br><p>「そうか、それは寂しいのう。義胤とは戦で雌雄を決したかった。」</p><br><p>「では義胤殿に恩を売っておいては如何でしょう。殿のお陰で所領が安堵されたとなれば、いずれ殿が天下を狙う際に力になってくれるやもしれません。それがしが一足先に相馬領へ参ります故、殿は相馬領で一泊なされませ。」<br></p><p>「何と、長年の宿敵の領地に一泊せよと申すか。」</p><br><p>　それを聞いた小十郎はまた一笑し、</p><br><p>「それがしは一足先に相馬領に参りますので、殿は岩城境でお待ちください。」</p><br><p>　小十郎は相馬領の鹿島に着くと、牛越城の義胤に使者を使わし、</p><br><p>「この度、家康公の上杉征伐において、伊達軍は信夫口より攻める様に命令を受けて自領に戻ることになりました。上杉領を避けて自領に戻る為には、相馬領を通過しなければなりません。また兵士たちも大阪からの長旅にて疲弊しております。どうか相馬領にて一泊させて頂き、無事に自領までお帰しください。」</p><br><p>　と伝えた。</p><br><p>　また小十郎は盛胤付家老の佐藤左近と対面し、この度の戦は家康が必ず勝つので、相馬家は三成の味方をしないよう説得した。<br></p>
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<pubDate>Sat, 05 Nov 2011 14:02:40 +0900</pubDate>
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<title>第四章　義胤と天下人（三）</title>
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<![CDATA[ <p>　慶長三年八月十八日、秀吉が死去した。</p><br><p>　翌四年閏三月三日には五大老の一人、前田利家が死去した。これにより石田三成を憎む加藤清正・細川忠興・浅野幸長・福島正則・黒田長政・池田輝政・加藤嘉明の七将が、三成を討ち果たそうと兵を挙げた。</p><br><p>　その知らせを聞いた義胤は、真っ先に手勢を連れて三成の屋敷に向かった。</p><br><p>　三成は屋敷に籠っていたが、義胤を見ると、抱き付かんばかりに寄って来た。三成は、かなり取り乱して言った。</p><br><p>「それがしは豊臣家の為に、誰よりも尽くして来たつもりである。なぜそれがしが殺されなければならんのだ。」</p><br><p>「三成殿、しっかりなされよ。そのことはそれがしも十分承知しております。」</p><br><p>「そうであった。こういう時こそ、気を確かに持つべきであった。しかし義胤殿が味方してくれれば頼もしい限りだ。」</p><br><p>「いえ、戦にしてはなりませぬ。何とか事態を収拾させる方法を考えましょう。」</p><br><p>　そこへ佐竹義宣も手勢を連れてやってきた。</p><br><p>「おお、義胤殿も来られておったか。三成殿は我等でお守り致そう。」</p><br><p>　そこで三人は、いくら七将が猛将揃いとはいえ、女には手を出さないだろうと考え、三成を女駕籠に乗せ、宇喜多秀家の屋敷に行くことにした。</p><br><p>　秀家の屋敷に着くと、三成は、</p><br><p>「皆に迷惑は掛けられん。それがしは家康殿の屋敷に行く。」</p><br><p>　と言い出した。七将を影で操っていると言われる家康の懐に飛び込もうと言うのである。</p><br><p>　三成は、義宣や秀家の家老と共に伏見の家康の屋敷に向かった。</p><br><p>　三成を迎えた家康は、本多正信の、</p><br><p>「ここで七将に三成を討たせれば、彼らをさらに増長させることになりましょう。」</p><br><p>　と言う助言に従い、閏三月七日に、三成に騒動の責任を取らせ佐和山に蟄居させた。</p><br><p>　三成を討つことが出来なかった七将は不満を抱えたまま、八月中には各々の領地に戻った。義胤も三胤を大阪に置き、小高へと戻った。<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/peddki/entry-11063597746.html</link>
<pubDate>Sun, 30 Oct 2011 18:25:16 +0900</pubDate>
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<title>第四章　義胤と天下人（二）</title>
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<![CDATA[ <p>　天正十八年八月九日、秀吉は黒川城に入城し、奥州の仕置を決めた。</p><br><p>　大崎・葛西・石川・白河などの所領が没収され、蒲生氏郷に会津・岩瀬・安積など四十二万石を与え、葛西・大崎の三十万石が木村吉清・清久親子に与えられた。</p><br><p>　芦名義広は、盛重と名を変えて会津の回復を願い出たが、叶えられずに常陸の江戸崎に四万五千石を拝領した。岩城常隆は、小田原に参陣したが陣中で死去した為、岩城の地は佐竹義重の三男である岩城貞隆が入嗣して受け継いだ。</p><br><p>　残念ながら義胤の元には、政宗に奪われた新地・駒ヶ嶺の地は帰って来なかった。</p><br><p>　この話を聞いた義胤は、愕然とした。政宗が己の野心の為に沢山の血を流して侵略した会津・岩瀬・安積などが呆気なく没収され、西国の大名に引き渡されたとなると、義胤は何のために政宗と戦って来たのだろうかと思い、空しくなった。</p><br><p>　もし義胤が政宗に降伏していれば、石川・白河などと同様に所領は没収されていたかもしれない。義胤の「相馬が滅びようとも政宗と戦う。」と言う決意が、相馬の地を救ったのである。</p><br><p>　その後、大崎・葛西にて一揆が勃発し、政宗がこれを扇動した疑いが掛かったが、うまくごまかし、政宗と氏郷が一揆を鎮圧した。秀吉は木村親子の領地を没収し、大崎・葛西の地を政宗に与え、代わりに長井二郡と田村郡・安達郡・信夫郡・伊達郡・刈田郡の五郡を没収し、五十二万石とした。政宗より没収した地は氏郷にあたえ、九十二万石とした。</p><br><p>　やがて氏郷が病没し、幼少の嫡子・秀行には九十二万石を治めるのは難しいとされ、秀行は宇都宮十八万石に減封され、没収した会津は上杉景勝に与えられた。</p><br><p>　義胤はその後、豊臣家の大名として秀吉に仕え、石田三成や佐竹義宣、上杉家の直江兼続らと交流を深めた。</p><br><p>　義胤の嫡子・虎王は元服の際、三成が烏帽子親になり、三成の「三」の字を貰って「三胤」と名乗った。三胤は芦名盛重の義理の妹を娶り、三胤と盛重は義兄弟となった。</p><br><p>　加えて、義胤は自分の娘を佐竹義重の三男、岩城貞隆に嫁がせ、相馬と佐竹は重ねて親類となった。</p><br><p>　また、慶長三年に義胤は居城を小高城から牛越城に移した。<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/peddki/entry-11055593272.html</link>
<pubDate>Sat, 22 Oct 2011 14:12:50 +0900</pubDate>
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