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<title>pentotenのブログ</title>
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<title>そろそろ解放してはくれまいか</title>
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<![CDATA[ <p>男の人が女の人に期待することがもたらすことから、そろそろ解放されたい。</p><p>時代は変わって女性も強くなったとはいえども期待に応えようとしている女性はいまだ多く、自然とそうなってしまって本音がどうだったかもわからなくなっているように見える。考えもせず、期待に応えてしまっているように見える。</p><p>男性皆がそうだと思っているわけではないが、心の底では口ごたえはしてほしくないのだろうし、褒めてほしいのだろうし、駄目なところには気づかず、受けいれてほしいのだろうなと思う。</p><p>そう思っていること自体はあまり問題ではなく、素晴らしい業績は称えるし、頑張っている姿は応援するし、駄目なところなんてあって当たり前なのだから、それもひっくるめて受け入れる構えは万全なのだから、思う存分、何でもやってほしい。</p><p>それでも、例えば婚活に力を注ぐ妙齢の女性たちを見ていると、そうあることが男性に好まれることだと感じ取ると、選ばれるために、自然と、そうですね、すごいですね、全然知らなかったと振舞う。</p><p>それが身について、どんな場面でもそうなってしまう。それが男性相手でなくても、そうなってしまう。</p><p>これのもたらす弊害は、能力のあるかもしれない女性も自分を出さなくなってしまい、能力があったのかなかったのかもわからなくなってしまう。うまくできる人もいるかもしれない。出したり出さなかったり。</p><p>組織など小さな集団の中にいれば、それによって、特別すごくないことまですごいことになったり、そんなことしないでくれよと思うことに歯止めが利かなくなったりする。</p><p>面白くできることが、何も起こらなくなったりする。</p><p>私は期待に応えている訳ではない。でも、素晴らしいと思えば褒めるし、この人の言うことはもっともだと思えば尊敬し、尊重する。</p><p>だから、もっと堂々と、自信を持って、女性を含め、世間にに対峙してほしいと思う。</p><p>そして、そろそろ選ばれないことにおびえる女性たちを解放してはくれまいか。</p><p>更には、その余波で面倒に巻き込まれる私たちを解放してはくれまいか。</p><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/pentoten/entry-12046719207.html</link>
<pubDate>Sun, 05 Jul 2015 02:11:47 +0900</pubDate>
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<title>心配な人</title>
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<![CDATA[ <p>昨日まで心配な人がいた。それは、十五代目　酒井田柿右衛門。</p><p>５～６年前に、十四代目と共に柿右衛門窯での制作風景を紹介する体のドキュメンタリー番組に出ていたところを初めて見た。</p><p>イメージとしては、世界に誇る柿右衛門窯、伝統と格式を守るため、たくさんのことを犠牲にしてそれを成し遂げる人生を送る、厳しい世界に生きる人たち。。</p><p>ところが十五代目は、飄々としていた。父　十五代目に叱られる場面も多く挟み込まれ、スケッチをしてもどこか適当？ジャージ姿と、大丈夫か、十五代目！と心配せずにはいられない人となりだったからだ。</p><p>十四代目の自分を律し仕事一筋に人生を捧げる威厳に満ちた立ち居振る舞いとは、あまりに対照的で、また、それをそのまま映し出すドキュメンタリー番組にもショックを受けた。</p><p>見終えた感想は、一言、大丈夫なのか、十五代目。</p><p>そして、昨年、十四代目が亡くなった。</p><p>昨日、何気なくテレビを見ていると、勘三郎が自らの背負う重圧を振りほどくヒントを探すべく、さまざまな業界の、偉大な父親を持つ跡継ぎたちと対談するという番組が始まった。</p><p>すると、出てきたのだ。十五代目が。</p><p>さすがに柿右衛門窯の継承者となった十五代目はジャージ姿ということはなかったが、あの飄々とした感じは、そのままだった。勘三郎の切羽詰った、本気で今陥っている迷宮から抜け出そうとする態度とは裏腹に、十五代目は飄々としていた。</p><p>いろいろな角度から疑問を投げかける勘三郎、それを受け止めるでもなく、かわすでもなく、ただ、ありのままに返答する十五代目。そこには気負いもなければ嘘も感じられなかった。</p><p>そして思った。この人のペースは、こういうペースなのかもしれない。</p><p>その後、気になって十五代目の作品を見てみた。５～６年前に見たスケッチとは違っていたが、線が弱い感じの印象の薄い作品。それでも、十五代目は、もう十五代目なのだから、このままのペースで進んでいくのだろう。そして、いつか、十五代目の柿右衛門を見つけるときがくるのだろうな。</p><p>だから、もう心配するのは終わりにした。</p><p>なんとなくだけど、十五代目は覚悟をしているんだろうな、と昨日は思えたからだった。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/pentoten/entry-12023035980.html</link>
<pubDate>Wed, 06 May 2015 00:34:29 +0900</pubDate>
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<title>ニヤのような女の子に会った</title>
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<![CDATA[ <p>高校生の頃、「ＴＯＹ」という漫画を夢中になって読んでいた。</p><p>今となっては、何がそんなに面白かったのだろうかと思いもするが、最近、その漫画に出てくるニヤという女の子みたいな女の子に会った。</p><p>年の頃も漫画の中のニヤと同じくらいだ。学校に行かず、誰とでも打ち解け、ショートカットで一見男の子と見紛う風貌や独特なファッション、一人で行動するところまでそっくりだと思った。</p><p>その漫画を読んでいた頃、私は地方の小さな町に住んでいたから、漫画の中の人たちは漫画の中だけのことで、そんな人たちがいると実感することなどなかった。</p><p>少々大人になって、大人の登場人物たち、バンドマンやその周りにいたような人たちは、たくさん見るようになった。でも、ニヤには会ったことがなかった。</p><p>ニヤみたいな女の子は、よく知らない子だけれども、目を見ると、怯えや好奇心や防御心や猜疑心や人を見分ける勘や人にかわいがられる術みたいなものが全部詰まっているのが見て取れた。</p><p>全部、計算などしてないというのも伝わった。それだけに、途中で私も躊躇してしまったのだ。</p><p>下手なことを言ったり、下手な表情をしたら、心を閉ざされるだろうなと感じたからだ。</p><p>だいぶんな大人になった私も、こんな魅力的な子に心を閉ざされるのは嫌だな、と思った。</p><p>だから自分の心が純粋な感じになった時に目を合わせようと思った。</p><p>歯医者に行って、「舌を下げてください」と言われると、どうしても緊張して上に上がってしまうのと同様、意識するとうまくいかない。やむなく、正面に立たず、横に立っておやつを渡したりした。</p><p>日ごろＳＮＳやメールなど、文字での意思疎通は危険だと気をつけている私だったが、こういう状況下では有効だった。ニヤみたいな女の子に、会えてよかったと伝えることができた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/pentoten/entry-12022633119.html</link>
<pubDate>Tue, 05 May 2015 00:42:05 +0900</pubDate>
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<title>感動する努力と権利</title>
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<![CDATA[ <p>「THE KILLING 闇に眠る美少女」という海外ドラマを見ていた。</p><p>デンマークの犯罪ドラマをハリウッドでリメークしたもので、シアトルを舞台に、ゆっくりと暗～いテンポで進み、ショーランナーであるヴィーナ・サドが、セリフとセリフの間にドラマがあると語っているとおり、何気ないやり取りが続き、１話を見終えても、あれ、今日は何かあったかな・・・と思い返すこともしばしばあるようなドラマだった。</p><p>雨天と曇天の多いシーンに、シアトルとはこういう土地柄なのだろうかと思ったが、人に聞くとそんなことはないらしい。心に闇を抱えた登場人物たちに陰鬱な空気感、そして、遅々として進まぬ事件の展開にも負けず、私は見続けた。</p><p>２度も放送終了が発表されながらも、今年に入って、日本でも最終シーズンが放送された。</p><p>そして最終回、とんでもない感動の波に襲われた。</p><p>今まで頑張って見続けて本当によかったと思った。ただ見ていただけで、演技プランを立てたり、表現方法に悩んだり、何のジレンマにも陥ってもいない、そんな自分さえも称えたくなった。</p><p>理由は書くまい。</p><p>ただ、途中から見たり、流し見したりしていては味わうことができない、１話も逃さず、何なら何回か繰り返しみた者にしか訪れない感動に、私の心はテレビの前で震えた。</p><p>マラソンでゴールシーンだけを見ても、野球で逆転満塁サヨナラホームランだけを見ても、ボクシングでノックアウトの瞬間だけを見ても感動とはいかない。</p><p>過程を見て、一喜一憂したり、なぜそうなのかと考えたり、そこに至る背景を知れば知るほど、感動は増幅するものなのかと思う。</p><p>私はいつも、感動を探して暮らしている。感動の瞬間を待って、音楽をじっくりと聴く。ボクシングの試合を見に行く。本を読む。人の話を聞く。素人の踊りの発表会に行っても感動の種はないかと捜し求める。</p><p>当然のことながら感動することなんてめったにないけど、感動したときは、人間ってすごいな、生きててよかった、人生が彩られるものだ。</p><p>感動を与えられる側の人は、血のにじむ思いをしているのだろうな。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/pentoten/entry-12022623260.html</link>
<pubDate>Mon, 04 May 2015 23:57:35 +0900</pubDate>
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