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<title>もっと考えてみる　〜考え過ぎる生き方を〜</title>
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<description>僕は考えることが好きです。考えている時間も好きです。普段考えていること、考えるきっかけになったこと、または「考える」そのものについて、書いていこうと思います。</description>
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<title>気持ちは湧いてこないといけないものだと思っていないだろうか</title>
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<![CDATA[ 何かをしている時に「気分が乗らない」という話はよく聞く。<br>正直、僕もそれはよくある。<br><br>ただ、そういう時にいつも思う。<br>「僕は本当、ダメなやつだな」<br><br>よく言うセリフ、よく聞くセリフは、<br>「そういう時にダメだなんて思わなくていいんです」<br>というような言葉だ。<br><br>が、しかし、僕は真逆のことを考える。<br>そんな僕はダメ。<br>そして、「ダメなんだ」ということを認めなければ前に進むことはできない。<br><br>ダメと思わないのなら、気分が乗らないからやれないという気になる。<br>しかし、ダメと思うのなら、気分が乗らなくてもやろうという気になれるのである。<br><br>それは一体どういうことなのか？<br><br><br>感情、思考、気持ち、気分、<br>こういう、いわゆる「やる気」に関わってしまうようなこと、<br>または、行動、生活に大きく関わってくるであろうものって一体どこから来ているんだろう？<br>なんてことを考えてみます。<br><br>例えば「やる気がでない」という気持ちが出てしまった場合。<br>その状態自体はまったく問題ない。そんなもんは誰でも結構ないもんだ。<br>ただ、「やる気がある状態」でなければいけない。と思っていないだろうか？<br><br>むしろ、やる気はどこからくるのか？っていう話をしたい。<br><br>僕は思う。<br>「やる気が出ない」という感情、または感覚、どんよりした感覚によって、<br>「あぁダメだ」となり、行動ができないんだけど、その感覚はどこから作られるのかと言えば、<br>「過去」なのです。<br><br>過去の経験が、その気持ちを作るんです。<br><br>「やる気が出ない」というか、<br>「やる気は湧き出てくるものだ」とか、それに付随して、<br>「気持ちは湧き出てくるものだ」「愛情は湧き出てくるものだ」<br>という感覚を持っている人は多いと思うんだけど、<br>僕は、そういった一連のあらゆる感情は結構、過去の経験が作ってしまうんじゃないかなって思うんです。<br><br>実際、そうなんです。<br>何が言いたいのかって言えばね、湧き出てくる必要なんてない。<br>湧かないんです。<br><br>あえて言うのなら「作る」という言葉の方が正しいと僕は思うんです。<br>湧くのではなく、「ある」なんです。<br><br>やる気の無い感情を作る過去があるんです。<br>やる気が出てくる感情を作る過去があるんです。<br>それを、今と置き換えて出るか出ないかを判断して感情を作っているだけなんです。<br><br>それなら、本当に「やる気を湧かせる」ということを考えてみるのなら、<br>それは、やる気の無い状態から出てこなければおかしいでしょう。<br><br>「やる気が出ない」と考えて、「湧いてくる」と考えるのなら、<br>やる気が出ない時ほど、湧かせなきゃいけないでしょう。<br>なんてことを考えるんです。<br><br>まぁ、反論の余地はいろいろあるだろうけど、<br>僕は、そう思うの。<br><br>湧き出てくるものじゃない。<br>「作るものだ」とね。<br><br>子育てもそう。妻もそう。友人もそう。仕事仲間もそう。いろいろそう。<br>総称して「信頼」というもので表現するのなら、<br>それ自体は、自分の中で自分が練り込んで作らなければ生まれないと思う。<br>信頼なんつーものは。<br><br>だからね、こう思うんです。<br><br>「やる気が出ないから、やろう」<br>「子供、かわいくないけど、かわいがろう」<br>「妻、愛想悪いしうざいけど、愛そう」<br><br>僕は、これが「湧く」の本当の姿だと勝手に思っている。<br><br>感情に支配されず、感情に関係なく行動を起こしていくことで、<br>本当にその感情が出てくるんだけど、まさに「源泉となる行動」は、<br>こういうことだと思う。<br><br>めっちゃやりたくないけど、やろう。<br><br>そうなると、過去の経験から生まれる感情なんてどうでもよくなって、<br>人からの話もどうでもよくなって、自分が今感じているのもどうでもよくって、<br><br>「僕は一体何がしたいのか？」<br><br>を、行動の指針にすることができる。<br>そして、それに準ずる行動を起こせるようになる。<br><br>と思う。<br><br>湧き出てくるものを大切にしている人は多くいると思う。<br>自分の気持ちに素直になって・・・とか、よくわからないことを言う人もいる。<br><br>でも、これの正体はまったく違う。<br>自分の気持ちではなく、自分の過去のパターンにあてはまる生き方をしようっていうことになる。<br><br>自分の気持ちというか、「思考」と「感情」は別物なんだ。<br>怒りの感情が出てくるのに「怒りたくない」と僕らは思っているものなのさ。<br>だから「怒りとうまく付き合おう」とか「怒りをギャグに変えよう」とかってするわけだ。<br>なぜそうなのかと言えば、「怒りたくはない」という源泉があるからなんだ。<br><br>なのに、感情に身を任せてしまったら、<br>バカな直感、お天気やの感情（分泌されるホルモン）に行動が支配されると、<br>人生大変になるよ。<br><br>でも、感情に身を任せて。というカウンセラー多すぎて背筋が凍るね。僕は。<br><br>だから、湧き出てくるものに準ずる必要はない。<br>それは、まったく大事なものじゃない。<br><br>大事なのは、能動的であること。<br>過去のパターンから脱出すること。<br>挑戦すること。挑戦し続けることなんです。<br><br>何かを変えたい！と思うのなら、<br>感情とか、気持ちとか、そんなものよりも、<br><br>『意思』<br><br>を持って行動した方が良いと思います。<br>意思って何かって？簡単です。<br><br>四六時中覚えている言葉＝『◯◯◯』＝意思<br>これでいい。<br><br>この『』の中に入る言葉は、みなさん次第。<br>僕で言うのなら「能動的であれ」とかになるわけです。<br><br>感情をコントロールはできませんが、<br>感情とは関係のない行動っていくらでもできます。<br><br>いくら顔に出ていようが、いくら言動が少なくなろうが、いくら雰囲気が悪くなろうが（笑）<br>感情に合わせずに理想的だと思う行動をとり続けていくことができます。<br>その方が絶対いいよ。<br><br>思考と感情のつじつまを合わせる必要はない。<br>別物なんです。<br>矛盾しているべきです。<br><br>なんてことを考えると、湧いて出てくる気持ちなんてどうでもよくなってくる。<br>自分次第って、そういうことだと思う。<br><br><br>けれど・・・<br>でも、なんといいますか、あれですね、<br>子供を抱いている時に感じる心地よい気持ちはね、<br>湧いて出てきているような気はします。（笑）<br><br>ただ、僕はさ、宇宙人みたいな娘の顔を見て、<br>「おばあちゃんみたい」「どう見てもかわいくはない」と思ったけど、<br>「かわいくないだけで、かわいがりたい、かわいがろう」って思っているんです。<br><br>今は本当にかわいい顔になりましたけどね。<br>僕は、そういうのもとても大事だと思う。<br><br>全部が全部そうというわけではないけれど、<br>必要に応じて、感情を無視してやり続けた方が良いことも絶対あるよ。<br><br>それで精神が壊れるということもあるかもしれないけど、<br>それはね、栄養不足と筋力不足の可能性もありますよ。<br><br>ちゃんと食べて、ちゃんと運動していれば、<br>結構ストレスフリーな生活を送ることができるんです。<br><br>それは、人生をより豊かに生きる僕の中でのコツなんだけどね。<br><br>ということを考えていると、<br>感情なんてどうでもいいんです。<br><br>反応として出るものは出しておきながら、<br>ぜんぜんちがうことをしていけばいいんですよ。<br>って僕は思う。<br><br>なんてね。<br>ま、人それぞれいろいろあるだろうけど、僕は自分のこの生き方が好きだな。
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<link>https://ameblo.jp/pfpmt/entry-12386713684.html</link>
<pubDate>Wed, 27 Jun 2018 12:05:07 +0900</pubDate>
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<title>『この世の中に障害者なんていないんですよ！！』という人</title>
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<![CDATA[ ↑こんな馬鹿な意見がまかり通るのは日本だけなんじゃないの。<br>とか、思っちゃうね。<br>すごいよね。<br>こういうことをマジで思っているのなら注意が必要だと思うよ。<br><br>考えてみてください。<br><br>「この世に障害者はいない」<br><br>と言う人。<br>足が無い人にそれを言えるんですか。<br>手が無い人にそれを言えるんですか。<br><br>「言えない」とでも言うつもり？<br>いやいや、言ってんだよ。あんた。<br>もっと考えて発言した方が良いと思うよ。<br><br><br>「この世に障害者はいない」<br><br>それは、障がい者に対して健常者と同じであれと言っているってことだよね。<br>「こちら側に来い」ってことだよね。<br><br>なに言ってんの。<br>無理な人は無理なの。無理なんだって。<br>赤ちゃんに10キロのダンベル持てって命令すんなって。<br>しょうがないんだって。それが障がいっていうものなんだから。<br><br>何がどうであれ、いろいろ考えた方が良いことはあると思うけど、<br>普通ではないんですよ。だから「障がい者」って言われるんですから。<br><br>普通じゃないことを認めてあげないとかわいそうだと僕は思うよ。<br>普通じゃないことを認めるからこそできることってたくさんあるんですよ。<br><br>障害者がいない→支援する必要はない→残された障害者はどうなる？<br>そんなことも想像できないんだね。<br><br>障がい者を支援する制度を作るのは、障がい者じゃないんですよ。<br>健常者なんです。その健常者が、そんな馬鹿なことを言って、<br>それが本当にまかり通るなら、今でも十分にダメな制度なのに、<br>もっとダメになるよ。<br><br><br>いや、でもね、たまに居るんですよ。<br><br>「わたしを障がい者だと思わないでください」っていう人。<br><br>なぜ、そんなことを言えるんだと思いますか？<br><br>それは、親がその子を、障がい者として接しているから、<br>人よりも労力と時間をかけて、献身していて、かつ、<br>「それに気付いていないから」なんですよ。<br><br>それをわかっておいた方が良いと思うよ。<br><br>それをわかっていて、なおそうやって言うのなら、<br>口が悪くて申し訳ないけれど、ただのアホだと思うよ。<br><br>だから、気付いていないくらいの方がまだマシなんですよね。<br><br><br>昔、手しか動かなくて、しゃべることも出来ない子がいて、<br>ただ、指を器用に動かして、何を言いたいのかを伝えられるっていう人いがいてね、<br>その子がまた、本とか出したりして、親を諭したりして、人格者なんですよ。<br><br>昔、すごく本が売れた気がするね。<br><br>で、そんな子が言うんです。<br>「わたしを障がい者だとは思ってほしくない」ってね。<br><br>その気持ちはわかるよ。<br>その気持ちを想像することもできるよ。<br>そこまで落ちぶれちゃいないよ僕だって。<br><br>でもね、これね、もっともな意見だけど、そのもっともな意見のおかげで、<br>世の中の風潮がおかしな方向へ行ってしまうんですよ。<br><br>悪いけど、その個人的な思いを言うのは良いんだけれど、<br>それはあなただけであって、障がい者全てにそれが適用できるというような、<br>そういう発言に聞こえてしまい、さらに本もとっても売れたもんだから、<br>「障がい者なんていない」っていうバカが意見を言う人が出てきちゃったかもしれないでしょ。<br><br>ま、その人のせいじゃないけどね。例え話で使わせてもらってるけれど。<br><br>障がい者の中でも、あなたは才能があって天才的で親と環境に恵まれているのだけれど、<br>そうではない一般的な障がい者は（表現がおかしいのはすいません）、<br>そんなことなくて、支えられて生きていかなきゃいけないんです。<br><br>支える人は、「障がい者」として支えないと、支え方間違えますから。<br>障がい者が健常者として支えられると、困るだけでしょ。<br><br>日本は昔からそうなんです。<br>障がい者に対して「健常者と同じになれ」という教育方針なんです。<br><br>日本の障がい者の数は、世界に比べるとかなり少ないんです。<br>6%弱くらいなんですよ。全体のね。<br><br>他の国に行くと、そんなことなくて、<br>欧米では15%以上いるし、WHO基準では10%以上はいるらしい。<br><br>これね、日本って障がい者が少ないんだ！って思うでしょ。<br>違うんですよね。<br><br>日本は「障がい者」と認定される条件が厳しいってだけなんです。<br>定義が厳しい。その他の国は、定義が日本よりも甘い。<br><br>だから、逆にこう捉えられる。<br>「日本は障がい者が住みづらい国」<br><br>それもそのはずです。<br>「障がい者なんていない」っていう意見が自然に出ちゃうくらいの国なんだから。<br>当の本人たちからしたら、住みづらくてしょうがないんじゃないの。<br><br>僕にはわからないこともたくさんあるけれど、<br>想像しようという努力はしていたいと思うんです。<br><br><br>「障がい者は障がい者ということを当人も周りの人も認識した方が良い」<br>と言うこと、それを差別と言うのなら、それこそそんな馬鹿な意見はないよ。<br><br>障がい者を健常者として扱うのも立派な差別なんですよ。<br><br>じゃぁ、障がいを持っている人が健常者のような働きができるのかって言えば、できないんだけど、それを見て「お前は使えない！」とか、言うんですかって。<br><br>「言わない」とでも言うつもり？<br>違うでしょ。言うんだよ。言ってんの！！<br><br>「こっちに合わせろ」って言う意味でしょ。<br>障がい者も健常者に合わせて生きろってことなんじゃないの？<br><br>それってどうなんですか。<br><br>男に女になれとは言えない。（なってる人もいるけれど）<br>女に男になれとは言えない。（なってる人もいるけれど）<br><br>それなら、障がい者に健常者になれとは言えないでしょ。<br>（そういうつもりで接してくれという障がい者の方はいるけれど）<br><br>とても難しい問題だし、僕の表現にものすごく語弊を生みそうなんだけど、<br>ただ、健常者の方に言いたい。<br><br>「障害なんてない」という発言から生まれるアイディアや発想は、<br>絶対に障がい者を苦しめることになる。<br><br>そういうことをイメージできないようなクズにはなりたくない。僕はね。<br><br>僕も完璧じゃないし、<br>正直、そこまで語気を強めて言うことでもないかもしれないし、<br>まぁ、誰が何を思おうが考えようが自由だとは思う。<br>そりゃそうなんだけど・・・<br><br>ただね、僕は僕が、そう思いたくないだけ。<br>何を言われても、そこは揺るがないから。<br>そして、僕ももっと、そこに関して勉強をしたいなって思うんだよね。<br><br><br>そういうことを真剣にイメージして、「差別だ」と言われようとも障害の定義を考えて、<br>それでいて、具体的にどう支えていこうか？を考えて行動をしていくとどうなるのって。<br><br>「国を動かそう」「行政を動かそう」って活動をしていくことになるんですけど。<br><br>「障害なんてない」とか言う馬鹿な人がね、そういう行動を起こしている人にクレームを言って、そういう行動を起こしている人が何かを帰ることに嫌気がさしてしまったらどうするの？って。<br><br>「認めてくれた、やったね」とか思うの？<br><br>思わない。とか言わせないよ？<br>そう思うから、そんな馬鹿なことが言えるんじゃないの？<br>で、その後、何もしないんでしょ？<br><br>言うだけ言って、何もしない。<br>言うだけ言って、具体的な解決策を何も言わない。<br>言うだけで終わる。<br><br>それは、あらゆるところで絶対やっちゃダメなことなんです。<br>問題提起するのなら、解決提案をしていきましょう。<br><br>だから、考えなさすぎる人が多いんですよ。本当に。<br>考えなさすぎ。<br>それを「バカ」って言うんです。<br><br>もっと考えた方が良いと思います。<br><br>逆に言えば、自分がいかに「バカなのか？」を把握すると良いと思います。<br>僕もそうですから。僕もまだ。バカだから、こんなところに居るんです。<br>バカなりに、バカから脱する方法を考えているってことです。<br><br>ということでね、<br>稀に居る、自分を障がい者と思わないでくださいっていう稀有な人は置いておいて、<br>障がい者は、その障がいに苦しんでいる場合も多くあるんだから、<br>それはそれで、できることを具体的にしてあげたいよねって思うだけだけどね。<br><br>そんなことを思ったんです。<br><br>ある活動家に対して「障害者なんていないよ。障害者の気持ちになって考えたら障害者なんて言葉は使えない」というコメントを見て、<br>「こういう馬鹿なことを平気で言えるような人にはならないでおきたいな」って、<br>僕が個人的に思っただけです。<br>ただそれだけです。<br><br>
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<pubDate>Mon, 18 Jun 2018 06:00:00 +0900</pubDate>
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<title>社内不和</title>
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<![CDATA[ 朝、会社に来たら社内が綺麗になっている！<br>手狭な事務所が広く感じる！<br><br>なのに、逆に席が1つ減っている。<br>人数そのものに変化は無いのに。<br><br>あなたに聞こう。<br>会社に来たら自分の席が無くなっていたらどう思う？<br><br>ものすごく憤りを感じないですか？<br>あたりまえですね。<br>自分がされたらいやですよね。<br>そんなこと普通しないでしょ。<br><br>でもね、自分がされたら嫌なことをあえてするとかでもなく、<br>席を無くしてやろう！という意識もなく、<br>そういうことをしちゃうんですよ。<br><br>つまり、そうしていることに気付いていないのです。<br>バカでしょ。<br><br><br>話をわかりやすくしましょう。<br><br>会社には常時いる人間が6人います。<br>手狭だったので会議室も使いながら作業をしていましたが、<br>「会議室は会議室なので使うのはやめよう」<br>という発言があり、そうしようということで会議室を使わないことにしました。<br><br>で、手狭な事務所で狭いながらもがんばっていたのです。<br>6人座って。<br><br>ただ、ある時ある社員が事務所の掃除をしてくれたのです。<br>それで、手狭な事務所が綺麗になっているのですが・・・<br><br>席が1つ足りないんです。<br>どういうつもりなのかな？と思って眺めていたんですけれど、<br>誰も気付かないんです。席が5つしかないことに。<br><br>バカでしょ。そこにいる全員。<br><br>正直、ものすごく腹が立ったね〜。<br>ただね、ここでの問題点はね「そういう意識がない」ってことなんです。<br><br><br>もっと話を細かくいうと、<br>その席を無くされている人の悪口を言っているらしい人が1人いるんですよ。<br><br>で、その悪口を言っている人の肩を持つ人が1人いるんです。<br><br>2対1なんですが、悪口言われている対象は悪口を言われていることに気付いていません。<br>ただ、「どうも態度が悪い」というようなことを暗に聞いたりはしています。<br><br>悪口を言うのも、悪く思うのも、別に良いと思うんだけど、<br>態度には出すなよっていつ話そうかなって思っていたんですけれど、<br>態度どころか、そういうことしちゃうの？っていう落胆が僕にありました。<br><br>気付いてないんです。たぶん。<br>気付いているんだとしたら、悪です。<br><br>ただ、それを見てそのほかの人たちもすぐにそれに気付かない。<br>無関心なんです。<br><br>なんでだろうね。<br>一緒に仕事をする人に対して、何かを思うのは当然あるだろうけれど、<br>なんでそういうことを普通にできちゃうんだろうね。<br><br>まぁいいけれど。<br>とりあえず、僕は少し後ろからそれを見て、<br>フォローするべき人をフォローしようと思った。<br><br><br>どちらが悪いとか、どっちの方がタチが悪いとか、かなり難しい問題ではあるけれど、<br>僕の中で「気付いてやってるやつ」と「気付かずやってるやつ」は、同レベルでタチが悪い。<br><br>タチが悪いという話ではないけれど・・・<br>というか、ある意味心遣いではあるのだけれど。<br><br>セブンイレブンでアイスコーヒーのLを2つ購入しました。<br>Rの2倍の量があるので、基本的にコーヒーを入れる時間はRの2倍かかります。<br>まぁ、少々早くはなるのですが・・・<br><br>前の人が、Rを2つ購入していました。<br>コーヒーの台は2つしかありません。<br><br>そのRの人、1つをセットして、もう一方を僕に譲ってくれたのでした。<br>いい人っぽいですね。気を使ってくれてありがとうって話ですよね。<br><br>でも、僕は正直「迷惑だなぁ」と思ったのです。<br>「なんでそういうことするんだろう」って思ったものです。<br>一見、僕はひどいやつです。<br><br>しかし、考えてみてください。<br><br>Rを2つ並べてやると、時間は「1」ですみます。<br>その後、僕がLを「2」でやるわけですから、合計時間は「3」になるのですが、<br><br>Rを1つずつやると時間は「2」になり、<br>僕はLを1つやると時間が「4」になるんです。<br><br>言ってる意味わかりますか？<br>つまりですが、その人が僕に1台譲ってくれたことにより、<br>僕は余計な時間「1」を使うはめになり、<br>さらにその人も余計な時間を「1」使うはめになっているのです。<br><br>それに気付かない、とてもやさしいその人の心遣いはですね、<br>まぁ、言ってしまえばありがた迷惑なのです。<br><br>気を配るっていうのは、そういう意味で考えるとかなり難しいんです。<br>迷惑に気付いていない気配りもあるんですよね。<br><br>まぁ、よく言う「エゴ」か「自己満足」かって話になるけれど、<br>僕はね、まぁ、人も自分も満足できる状態になれると良いなと思うね。<br><br><br>ま、「良いことをしよう」と言う気があるので、☆は5つ中、3つくらいではあるけれど。<br>少し工夫すれば、ものすごく良くなれるからね。可能性しかない。<br>だから、迷惑だけれども、その人を信じて何も言わないのもまた1つ、良いことではあるのではないかなと。<br><br>しかし、悪いことに気がつかない奴は、☆1ですね。<br>悪いことをしていることに、気付いてほしい。切実に。<br><br>でもそれは、ある意味「自分を把握できていない」ということでもあるのです。<br><br>自分のことをしっかりと見つめることができるのなら、<br>それくらい、簡単に気づくだろう。
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<link>https://ameblo.jp/pfpmt/entry-12381202725.html</link>
<pubDate>Tue, 05 Jun 2018 08:33:12 +0900</pubDate>
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<title>話が変わっていることに気付かない人</title>
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<![CDATA[ 「生きる」ということの意味を考えている時に、僕はこう考える。<br><br>「生きる意味」に限らず、言葉で遊んでみれば視野は広がる。<br><br>「生きている意味」とは何か。<br>「生きた意味」とは何か。<br>「生きてきた意味」とは何か。<br>「生きていく意味」とは何か。<br><br>そして、「生きる」とはなんなのか。<br><br>生きている意味と生きた意味は全然違うはずだ。<br>だから、その時点で視野は広がるだろう。<br><br>また、過去と現在と未来で考えると意味が変わってくる。<br><br>過去をどう生きてきたのか？<br>これまでどう生きてきたのか？<br><br>そして、未来。<br>未来の僕は生きた意味をなんて言うんだろうか？<br>「なんて言いたいのか？」<br>ということを考えると、結局「生きる」とは一言では形容し難いものになってくる。<br><br>それが「考える」ということである。<br><br>考えるという行動を取っていると、1つのことを突き詰めるためにあらゆる要素が出てきて混乱してしまう可能性があることにも気付けるのだが、<br>そこから、その「1つ」にまた話を戻しながら考えていくという作業が必要になる。<br><br>つまり、思考は勝手に右往左往するのだ。そんなに慌てなくてもいいのに、あっちこっちに飛んで行く。<br>それを元に戻す作業は、意識しなければ絶対に出来ない。<br><br>みんな、いつのまにか「考える」から「思い巡らす」に変わってしまうのだ。<br><br>僕が横断歩道に立って、ふとラジオで話していた「炭酸も添加物ですよ」という話を思い出していた時に、<br>無添加物にこだわり、添加物を毛嫌いし、添加物で子供がアホになるとばかり言っていながら、その当の本人の娘は皮膚がかゆいかゆい！と言って、大変だ・・・<br>みたいなことを言っていたことを思い出していた時に、「添加物とか気にしている人の娘が、添加物気にしない人の子供達よりも、かゆいんだな」<br>と、なんだかなぁって思っていたりしたのだけど。<br><br>そこから「添加物って何？」「炭酸すら添加物だよ？」「添加物の定義って何？」「世の中のほとんどが何かを添加しているよ」「というか料理に醤油を入れたらそれは『添加』なんだけど・・・」「添加物の定義がわけわからず添加物がどーのこーの言ってんじゃないの？」<br>っていうことを考えていた。<br><br>添加物は、ただの化学物質なのだけれど、世の中の全てが化学物質なので、添加物という考え方にそもそも偏りがあるのだけれど・・・<br><br>「あ、そう言えば僕、この間沖縄そばを無添加で作っていたら全然美味しくできなくて、しょうがなく味の素を使ったなぁ。一応まとまってはいたけれど、でもやっぱり「添加物っぽい味」というか、「味の素の味だなぁ」と思って、失敗だなーって思ったりしたので、今度作り直したいなぁ。」なんて考えていた。<br>そうだ。今度作ろう。今度作る時は、豚肉とかどこで買うかなー。出汁は茅乃舎だしがいいなー。塩はあまり変な塩を使わないようにはしたいけど、自然塩も硫黄の匂いすごいからなー。なんともなー。<br>そういえば、ラーメン最近作ってないなー・・・<br><br>と、長くなってしまったのだが、最初の「炭酸は添加物」という話はどこへ？というように、思いは暴走していくのである。<br><br>ものの例えで、炭酸は添加物ということに意識を集中し、突き詰めて考える必要はまったくないのだけれど（笑）、<br>でも、「生きる」ということを考えるのなら、そこは「生きる」に戻して考えた方が良いだろう。<br><br>生きることを考えているのに、いつのまにかラーメンにまで思いが発展していく。<br>いやいや！ラーメン関係ないっしょ！いや！ラーメンを生きがいにしている人もいると思うけどさ！僕にはとりあえずは関係ないんだから、話戻さないと！！！<br><br>という具合に、ブレまくる思考を一定のところへ戻し、さらに保つ必要があるのである。<br><br>さて、仕事をしていても、話をしていても、人間関係でも、健康のことであっても、投資家も、トレーディングをしていても、心の中に「まったく関係のない何かの思考」が暴走していないだろうか。<br>そんな状態で、何かを極めようなんてできるだろうか？いいや、出来ないのだ。<br><br>1つを突き詰める状態を「集中」と言うのだが・・・<br>人間は集中力が散漫になる傾向がある。リスクを回避するためだ。<br><br>これまで、集中し過ぎて頭をぶつけたり、集中し過ぎて人の話を聞いていなかったり、なにかと集中状態は日常生活で良くない結果を生んでしまうのだ。<br>それを学習している僕たちは、あえて集中しないように自然としてしまうのである。<br><br>となれば、1つのことを考えるのではなく、あえて意識を散漫にさせることにより、<br>外の情報にも気が向くように仕向けていると考えるのであれば、まさに思考が暴走する理由はわかるのだが・・・<br><br>それは、1人で過ごしている時にはそこまで必要無いのである。<br>むしろ、10%くらいを外に向けていれば、90%くらいは集中しても大丈夫なのである。<br>役者さんの感覚は、そんな感じのはず。集中しているのだけれど、俯瞰して見ているのだ。<br>というか、時間を決めればいいだけの話でもある。50分とか。10分休憩するとか。<br><br>しかし、集中していたとしても、俯瞰している部分がなければ、話の本筋を元に戻すこともできないのだから、俯瞰的な視点は常に確実に必要になってくる要素でもあるはず。<br><br>ということで、お気付きの方もいるであろう。<br>僕も、タイトルとは裏腹に話がどんどん発展していってしまうのだ。<br>「本題はどこへ？」と思ったあなたは、頭が良い。<br><br>さぁ、ここで話を戻そう。<br>話が変わっていることに気付かない人。<br><br>まさに、今の思考と同様なことを、他人に向けてやっちゃう人がいるのだが・・・<br>「集中力無い人なのかな？」と思ってしまうのである。<br><br>むしろ、全ての考えが浅いからこそ、思考が暴走してしまうのだから・・・<br>そういう人は「浅はかな考えしか持っていないのだろうか」と僕は勝手に考えてしまう。<br><br>さて、前述した「生きる」についてだけれど、<br>僕はその「生きること」を子供に置き換えて話をしている。<br><br>「子供のために生きる」というところを考えるのあれば、<br>僕は「思想」と「財産」と「名誉」を残したいと考える。<br>ほぼ、後世に残せるもののほとんどが、この3つに帰属するだろう。<br><br>名前を変えるのであれば、<br>「家訓」と「お金」と「賞賛」である。<br>まだまだ言い方を変えてみれば、<br>「哲学」と「土地」と「尊厳」とかだ。<br><br>僕は、この3つを子供に残したい。<br>正直、その3つを残すために生きていると考えても全然良いと思う。<br><br>大いなる構想はありつつも、まずは子供達だけでいい。<br>今僕の元にいる2人の子供達に、僕は残していきたいものがあるのだ。<br><br>ま、もう1つあるのだけれど、それは「血」である。「血統」である。<br>とにかく、僕は僕の血を残したい。受け継がれていくものが、血と共にあればいいなと思っている。<br><br>と、生きる意味については、まだまだ話ができるのだけれど、その「生きる意味」についての話をしている時に、こんなことを言い始める輩がいるのだ。<br><br>「生きることは不条理だ」と言い始め、「子供に何かを残せるのは良いことだけどでも最終的には子供が決めることだし」などと言い、「最終的には笑っていることが大事なんじゃないか」という、よくわからない話に終始する輩が居るのだが・・・話にならない。<br><br>「生きる意味」の話をしているのに、<br>「生きること」の話になっている。<br>「生きることの意味」ではなく、「生きること」の話に終始している。<br>それに気付いていないのだ。<br><br>そういうことじゃなくて、「なぜ生きているのかな？」という話をしたいのに。<br>「生きるってこういうことだ」の体裁だけの話をしている。<br>それに気付かないのだ。<br><br>一概には言えないのだが・・・それを言ってきた当の本人、そいつだけはバカであることは確実なのだ。理由は後述する。<br><br>はたまた、ぼんやりと僕の言う「子供のために」を否定してもいるのである。うざい。そしてバレバレである。<br>その浅はかで軽薄で軽はずみにもっともらしいことを言っているようで話の本質から自然とズレてしまう人は、<br>「あぁ、あなたは物事を深く考えられないのね。もっともらしい言葉を並べてはいるけれど、ただ僕を否定したいだけなのね・・・。」<br>と判断されてもおかしくはないだろう。<br>少なくとも、僕はそう判断している。<br><br>（この人ね、本当に浅はかで気持ちの悪いストーカー予備軍のめちゃくちゃな奴なんすよ・・・。本当にうざいんよ。やめてほしいって何度言ってもわからないんだよね。本当に嫌なんだけど、なんなんだろう。っていう奴なんだけどね。）<br><br><br>話がずれていることに気付いていない人は、この記事に書いたように深みが無いと判断しても、むしろされてもおかしくはないだろうと思う。<br><br><br>しかし、最後にここで1つ、実は補足説明があるのだ。<br><br>それは、「話をあえてずらす」という意識があるのであれば、まったく問題が無いということだ。<br><br>そんな意識をしっかりと自分が持っていて「うまくずらせた！」と思うような人間は、<br>これまた、「その話の道筋を立てることができる人」ではあるので、思考がしっかりしているとも言える。（意識している場合に限る）<br><br>だから、結局は「表裏一体」なのだ。<br>「話がズレる」のか「話をズラす」のか、どちらかである。<br>それが「どっちなのか？」なんて、極論を言えばわからない。わかるはずがないのだ。<br>その表裏一体を、僕が言葉だけを聞いて判断するのも、<br>また「浅はかこの上ないぞ僕」なのである。<br><br>軽率だの、むやみだん、軽はずみだの、言いつつ、そう思うことは実際にありつつも、<br>最後の最後には「さて、自分はどうだろう？」とは考える癖は付けておこう。<br><br>それが出来るのなら、自分は話の本筋をしっかり見つめられる人間で居られるはずだ。<br>生きる意味というよりも、生きるために必要なのは、「自分を成長させること」なのだから、その要素を常に残すためにも、自分はどうだろう？の自問は常に必要なのだ。<br><br>結局、奥深い人というのは、「自分をより知っている人」「自分を探求する人」なのである。<br>そうすると、自分と相手を置き換えて考えられることも増えていく。結果「想像力」が身に付いていくのだが・・・<br><br>このつづきはまた今度にしよう。
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<link>https://ameblo.jp/pfpmt/entry-12372590521.html</link>
<pubDate>Tue, 01 May 2018 08:27:43 +0900</pubDate>
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<title>「結局はあなたが何をしたいか？なんだよね」ってやつ</title>
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<![CDATA[ という意見に対していつも思うことは、話の中でその話題が出てしまった瞬間に「あぁ、この人は話を聞くことを放棄した」ということ。<br><br>あなたが何をしたのか？というのをあなた自身が一度しっかり考えてみたら？<br>それならまだわかるのだけれども。<br><br>あなたが何がしたいのか？で、それをやればいいじゃん。<br>というので話を強制終了させようとしているのを見ると、<br>あぁ、考えることがそこまで得意ではないのかなと、思ってしまう。<br><br>僕は「なんでそんな冷たいこと言うの？」といつも思う。<br>この意見を聞いて。<br><br>この類の言葉はあらゆるところで言葉を変えて存在している。<br>その筆頭がこれである。<br><br>「最終的にはその人の自由なんだから応援してあげればいい」<br><br>このもっともな意見に、誰もが同調しそうな意見に、僕は反旗をひるがえす。<br>そんな冷たいこと言うなよ。<br><br>その言葉を、子供に言えるのか？<br>そして、そういう育て方が正しいのか？<br>正しい正しくないではっきり言わせてもらうと、それは間違っている。<br><br>「子供の自由」といって、ヒラヒラと自由に育てているであろう子供が、<br>周りの人間にどれだけ迷惑をかけているのかということに気付かない奴は多い。<br><br>うるさい。騒がしい。何か起こす。<br>それを見て親は「あぁあぁ」と言っているだけ。<br>周りに気を使わない。バカ親である。<br><br>その育て方により、周りの見えない子供が育つことで、誰が一番損をするのかと言えば、その子供本人なのである。<br>しかし、損をし始めた時に親は言うのだ。「あなたの選んだ道なのでしょう？」<br>まさに、バカ親である。こんなアホに育てられたくはない。<br><br>だから、本人の自由ではないのだ。<br>本人は自由ではないのだ。しがらみがあり、誰かが関わっているのだ。<br>本当の自由はこの世には存在しない。<br><br>それを理解した上で、「あとは好きにしなさい」なら良い。<br>しっかり教えて、しっかり伝えて、しっかり育てて、ダメなことはダメ、良いことは良い。人として大切な「考えの仕方」を教えた後に、<br>「それを守りながら、あとは好きにしなさい」なら良い。<br><br>しかし、なんの思想も無く、「自由だ自由だ」と言うのは間違っているというか周りに多大なる迷惑をかけていると思うぞ僕は。<br><br>実際、そういう発言をする大人がいる。<br>「その人の自由なんだから好きにさせてあげることが大切だと私は思う」<br>そこで僕は反論した。<br>「いいや、僕はそうは思わない。僕は『言わせてくれ』って思うし、逆に『口出ししてくれ』とも思う。その方が深い付き合いって言えるのではないか」<br><br>この話はその時に解決を見せることはなかったのだが・・・<br>後日、その発言をしたある大人に、ある頼まれごとをされたことがあるのである。<br>だから、やってあげたのだが・・・<br>それはそれは、もう、簡単な仕事のはずなのに、どんどん難しくなっていくのである。<br>なぜなら？<br><br>「その仕事をする上でその後に起こる可能性があることを考えていないから」<br><br>この一言に尽きる。<br>そうして、平気で僕に迷惑をかけてくるのである。本当に迷惑だったのだが・・・<br>お礼の1つも無い。（無償でやってあげた。お金もらってないから）<br><br>このことも踏まえて、その他のいろいろも踏まえて、そもそもの僕の考え方も踏まえて。<br><br>「あなたの自由」「あなたがどうするか」「あなたが何をしたいのか」<br>この意見を率先して言うのは、というかこの類の言葉は、<br>「考えたくないという象徴」なのではないか。と僕は考えてしまう。<br><br>僕は、もっと突っ込んで話をしたい。<br>突っ込んで話をすると、話の脈絡がめちゃくちゃな場合もあることがわかる。<br>めちゃくちゃだよ？と言ってあげると、考えがまとまりやすくなる。<br>「だから、自分が何をどうしたいのかわからなかったんだ」となることもある。<br><br>「あなたの自由に」という趣旨の言葉でその会話の流れをストップさせてはいけない。<br>それは、話を聞きたく無い、考えたく無い、ということだ。<br>いいや、話を聞け。そして考えろ。ということである。<br><br>とは言うものの・・・<br>いろいろ聞いた後に、「そこから先は、やっぱりあなたの自由」なのだけれど。<br>ただ、僕は口出しさせてほしいと思っている。<br>僕にとっては、友達も知人も家族も仲間とも、こういう話をしていたいと思うから。<br><br>「あなたの好きなことをすればいいけれど、でもこれだけは言わせてほしい」<br><br>というスタイルで、言わせてほしいと思う。<br>まず1つ言えることは、自由でいいから、考えた方が良いと思うよ。<br><br>引き寄せ？シンクロ？宇宙にお任せ？宇宙人？神？仏？<br>そんなくだらないこと言ってないで、自分の頭で考えてください。
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<link>https://ameblo.jp/pfpmt/entry-12372555675.html</link>
<pubDate>Tue, 01 May 2018 08:07:55 +0900</pubDate>
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<title>『パワハラに気付けよバカが』と思う時</title>
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<![CDATA[ まえもって言っておくことは、<br>「あえてパワハラをしているのだ」という意識を持っているのであれば、<br>まぁパワハラしたっていいんじゃないだろうかとは思う。<br><br>パワハラって何か？と問われれば、正直僕には明確な答えを出すことは出来ない。<br><br>だから「パワハラなんてするな」とは言えない。<br><br>しかし、パワハラであろうことをしている奴で、そのつもりのない奴らを見る場合、それに対しては非常に嫌悪感を抱く。<br>「自分のしていることくらい把握しろよ」と思う。<br><br>これが、組織に歪みを与えていることを理解していない。<br>「あなたのために言っているの」と言って、ただのパワハラ。<br>何かにつけて文句を言い、文句だけを言い、改善したことには何も触れず、また文句を言う。<br><br>バカか。<br>お前みたいな奴が上司で居るからこの会社は伸びないのだ。アホが。<br><br>と、正直思ってしまう。<br><br>さて、何がパワハラなのか？というところを考えたいとは思うんだけど、<br>とりあえず、今日は僕の個人的な愚痴に終始する。<br><br>前述の通り、上司が部下に対して、「とりあえず気付いたことだけを言う」という状態で、かつ「悪いことしか言わない」であり、さらに「標的が一人の部下だけ」という場合は、パワハラと判断して良いのではないかなと思う。<br><br>というか、ただのイジメと言っても過言ではない。<br>それでいて「自分は彼のために言っている」という気で居るのだ。<br><br>バカである。<br><br>僕が「こいつ本当にうぜーな」と思ったことがある。<br>それは、「連絡事項を個別にしてきたことにいらつく」と、該当する奴が話していた時である。<br>要は「仕事のことを直接LINEしてきた」と言っていたのだ。<br>それくらい別にいいだろ・・・。<br>注意しても良いとは思うけど、それで怒る必要は無いと思うのだが。<br>そもそも、お前どんだけ心狭いねん。アホか。<br><br>さらに「こいつバカなんじゃねーの」と思ったことがある。<br>それは、ある女性社員がコンビニへお水を買いに行った時に「お水を買いに行く時はお前が率先していけよ。重いんだから」というようなことを部下に言っていたことだ。<br>というか、それくらい買いに行かせてもいいでしょ。コンビニすぐそばだぞ。というか、いつも彼が買いに行ってるんだけどね。<br><br>何も見えていない。バカなのか？それ注意することか？アホか？<br>いいや、ただのバカなんだろう。<br><br>そして、おそらくだけど、その女性が「私が行くわ」と率先して行っただけの話なのだ（実際にそういうタイプの女性なのである）。<br>なのに、そういう背景を考えずに表面的な物事だけを見て言及するのは、バカだと思うぞ僕は。<br><br>そして「こいつ頭悪いわ」と思ったこともある。<br>それは、産休で休んでいる子が自宅で作業を手伝ってくれて、こういう仕事を進めています（まぁ手当もあるので時間がある時に手伝ってもらうのは良いと思う）というような話をした時に、<br>「いちいちそんなこと言ってくる理由はなんなの？手当もっと上げろって意味なの？」というようなことを部下がいなくなった時に言っていたことである。<br>それ、気にするところなのか。というかただのイチャモンじゃないか。うざい。本当にうざい。<br><br>着目する箇所になんの意味も無く、さらにはそれを直したところでなんの生産性も上がらないと思うのは僕だけだろうか。<br><br>むしろ、お前が何も教えていないだけじゃないのか・・・。<br>そもそも、お前、なんも考えてないクズ野郎だなって僕はよく思っているぞ。<br>本当に頭が悪い。ってよく思うけどな。<br><br>世の中にはクズがいる。<br>身内であってもクズがいる。<br>そんなクズにならないためには、自分がいかにクズな行動をしてしまっているのか？に気付くことが大事だ。<br><br>僕は、どんなクズ行動をしているのだろうか・・・。<br>ということである。<br>僕も、気付かないところでアホをしているだろう。<br>それに気付きたいと思う。<br><br><br>ということで、部下の彼は、身内で固められた小さな会社の中で、毒された奴らにいじめにあっている訳だ。<br>どうでもいいことで怒られ、どうでもいいことで注意され、生産性の無いことを求められ、さらに結果を出してもまったく褒められない。まったく褒められない。ものすごく頑張っているのに。<br><br>可哀想。このうえない。<br><br>だから、そういう発言（バカな悪口）が出そうな会話をしている場合は、裏で僕がフォローし、目の前で話をちゃっちゃと進めて、部下の彼も密かにコントロール、褒めてあげ、仕事を振り、仕事術を教えて、<br>そして、僕自身は喧嘩にならないような発言を心がけていて、僕は誰からも信頼を置いてもらえるような立場には今のところは一応なっているのだけれど・・・<br><br>どうしたものか。<br><br>いじめっ子は、いじめていることに気付かないことがあるんだな。<br>気付くイジメもあるけれど、陰湿で浅はかで気持ち悪い、気付かないイジメは世の中に多くあるんだろう。<br><br>「これくらいのことで・・・？」と、バカは言いそうなもんだ。<br>お前なら、その「これくらいのこと」で死んでしまうくらいのダメージを受けるだろう。<br>イメージできないのだから。<br><br>僕は、いじめられるのが嫌いで、いじめの辛さも知っているつもりなので、そのくらいのことでどれだけ辛いのか、彼の気持ちがわかる。<br><br>人間はそんなに強くない。<br>お前も相手も。<br><br>「これくらいのことで」って、突然相手に期待を寄せるような発言をするのはやめてくれ。なぜそこは、「そりゃそうだ」って思えないんだろう。<br>そう。バカだからである。<br><br>はぁ・・・。しかし、どうしたものか。<br>まさに、そのバカ共と僕が身内であることを考えると・・・、<br>非常に頭が痛い。<br><br>どうやって注意していこうかと考えているが・・・、バカに何を言っても、バカで浅はかでクズな答えしか返ってこないので、どうしたものかと思っている。<br><br><br>頭の中で何を思っていてもいい。<br>ただ、あきらめないことが大事なのではないかなと僕は考える。<br>だから、それでも、僕らはバカがバカでなくなるように、僕ができることをしていきたい。<br>そして、僕がいかにバカであるのかも、僕自身が考えていきたいと思う。
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<link>https://ameblo.jp/pfpmt/entry-12372393860.html</link>
<pubDate>Mon, 30 Apr 2018 16:41:56 +0900</pubDate>
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<title>感情の解放の有効期限は【1日（24時間】が最高だろうと思う訳</title>
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<![CDATA[ みなさんは「感情の解放」が自分に良い影響を与えるということはご存知であろうか。<br>いわゆる心理セラピストが抽象的な言葉を相手に言わせて涙が出てしまうあれである。<br>それを体験することで「人生が良くなる」らしいのだが・・・<br>僕はそれ、まったくとは言わないけれど、1日しか効果が無いものだろうなと思っている。<br>それは、感動する映画と同じことだ。<br><br>心の奥底にあるものを認識する？<br>違う。涙が出る言葉があるだけであって、心が解放される訳ではない。<br>そもそも、それをしている人も、それをされている人も、劇的に変わった後の話を一切聞かない。<br>実際、それを体験している感じを目の前で見たことがあり、その人は泣いていたけれど、後日はと言えば特に変化はしてなかった。<br>はっきり言って、僕もそれをされるとたぶん涙が出るんだと思うのだが・・・<br>涙が出てもなんの意味もない。すっきりもしない。ただ、目が腫れて疲れるだけだ。<br><br>心を洗うとは言うけれど、僕にとっては涙を流したくはない。涙でしか心を洗えないと言うのなら、僕は心を洗わなくても構わないというくらいに涙を流したくない。<br><br>そもそも知っているだろうか。<br>誰だか忘れたけれど、心理学の研究家みたいな人の統計では「涙を流すことで心にどんな影響を与えるのか？」を調べた結果「特に意味がない」という結論を導き出したなんていう話を知っているだろうか。<br>それが本当かどうかはわからないし、それはもちろん人それぞれではあろうけれど、ただ、「客観的に見れば意味は特に無い」ということなのである。<br><br>涙を流して何が変わるんだろうか。<br>涙は自動的に出てしまうものだけれども、あえて出すことで何が変わるというんだろうか。<br><br>いいや、変わることは変わる。それはたったの1日だけ。<br>次の日になってみれば、また元に戻るのだ。だいたいの人が元に戻ってしまうのだ。<br><br>失恋をした人が、失恋をした日に大いに涙を流す訳だから、<br>「涙も枯れてしまった」と言っていつまでも意気消沈している人が居る。<br>それは、どう説明すればいいんだろうか。<br><br>うつ病の人が、話を聞いてもらって、キーワードとなる言葉を口から出して涙を流してすっきりして、<br>で、その人はどうなるのかと言えば、「すっきりした気分である」だけで、中身は何も変わらないのである。<br>と、僕は思う。<br><br>僕だって、何度泣いてきたかわからない。その度に「なんかすっきりした」という気分になって、明日から頑張ろう！って思えるようになった。<br>気がしていたけれど・・・、すぐに元に戻るのである。<br>泣いたことなんてすっかり忘れて・・・。<br><br>じゃぁ、今の僕はと言えば、「考えの仕方」があるのだ。様々な時と場合に応じて、自身を強くするべく考えているのである。<br>どう考えるのかと言えば、「辛いだけで、耐えればいい」と考えるだけなのだ。<br><br>「気持ち悪いだけで、気持ち悪いと感じたまま過ごしていよう」と思えれば、いつの間にか気持ち悪さに慣れる。<br>すると、それが普通になって、気丈に振る舞うことができる。大丈夫で気丈夫。<br>「気丈」というのは、有事に冷静でいられることを言うのである。僕はその境地を目指したい。<br><br>さて、「辛いだけで、辛いままやり続けよう」と考えることが出来れば、辛いことを「辛い」と認識できるので、<br>「何をどうするべきか？」を明確に考え始めることが出来るのである。<br>実際、その作業には涙は必要がない。必要なのは、心に並べる言葉なのだ。<br><br>「どんな言葉で何を考えるのか？」<br><br>実際、「辛い」を言葉にしてみればいいだけである。<br>そして「何がどう辛い」と思えるのなら、「何がどう辛いのだから、何をどうしていけばいいのか？」を考えればいいのだ。<br><br>しかし、涙を流しながら「何がどう辛い」と言っている人の多くは、<br>「それなら何をこうしていけばいいんじゃないの？」と言うと「でも」や「けど」と言う。<br><br>そんなことを言っている人が大泣きしてもなんの意味もない。<br>根本的な考えの仕方を変えなければ、意味が無いのだ。<br><br>と、僕は考える。<br><br>最近、世に蔓延るカウンセラー達には申し訳が無くも思うけれど（友人もいるので）、<br>そのカウンセリングは何の意味もない。お金の無駄である。<br>そんなことよりも、もっと考えた方が良い。考えることを放棄するのはやめた方がよい。<br>涙ながらに辛さを吐露するだけでなく、その後の「それなら」を考えた方がよい。<br>原因を探るだけに終始するのではなく、原因なんか変えられないのだからこれからどう振る舞うのか考えるべきである。<br>だから、意味が無いことをやってみるのはいいけれど、続けるのはもうよした方が良いと僕は思う。<br><br>ただ、それを体験した人は「絶対に良い」と言い張るんだろうが・・・<br>何がどういいのか？と言えば「立ち向かえるようになりやすい」とか、結局抽象的なものである。<br><br>かと言って、僕のことブログも意味が無いと言えば意味が無い。<br>「だから何？」と言われればそれでおしまいなので、結局同じ穴のむじなであることには変わりないのかもしれないけれど、<br>同じあなぐまなのであれば、僕は「泣かず強くよく考えて生きるクマ」くらいの方が良い。<br><br>だから、もっと考えた方がよい。<br>泣くことや、感情を出すことは、ちょっとした刺激を得るには良いけれど、<br>人生の大半以上の時間を占めることとなる「思考」という時間は、<br>親しき中にも礼儀あれ、思考をいつまでもし続けるからこそ思考を大切にした方が良い。<br><br>意識したことがあるだろうか。<br>「思考のプロであろう」とか「思考とは人生である」とか、「思考で至高を目指す（ダジャレ）」とか。<br><br>あなたは今、何を考えているのか？<br>あなたはカウンセリングを受けている時、何を考えているのか？<br>あなたはカウンセリングを受けた後、何を考えているのか？<br>あなたは明日、何を考えているのか？<br><br>絶対にバラバラである。<br>となれば、カウンセリングに意味は無いと言える。<br><br>だから、1つだけ、あなたが究極に極めるべく「何か」を思考のベースにした方が良い。<br><br>四六時中、あらゆることを考えつつ帰属する思考のふるさととは、一体どこなのか？<br><br>それが、僕にとっては、「子孫に残す物」なのである。<br>子孫に何を残すのか？という話は膨大になっていくのだけれど、<br>常にそこへ戻ってくることで、あらゆる思考がそこにつながった思考になっていく。<br><br>「それは本当に子供に伝えたいことだろうか？」<br><br><br>やはり、そう考えるとわかることがある。<br>だからこそ、僕は子供達に伝えたい。<br><br>「泣くな」<br>「泣いてもいいが何も変わらないことを知っておけ」<br>「泣いても意味は無いけれどあえて泣くならそれでも良い」<br><br>そして、<br><br>「笑っていなさい」「笑わせなさい」<br><br>そう伝えたい。<br><br>とまぁ、ちょっとキザな文章になってしまったのだけれど、<br>たまにはアトラクションがあっても良いけれど、<br>基本的にはそれに頼らず、自分の頭でしっかり考えた方が良いんじゃないのかな？って、僕は思います。
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<link>https://ameblo.jp/pfpmt/entry-12371155255.html</link>
<pubDate>Wed, 25 Apr 2018 19:06:43 +0900</pubDate>
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<title>臨死体験が起こる理由</title>
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<![CDATA[ 臨死体験・・・。<br><br>死ぬような何か重大な事件や事故、または出来事が起こるのは非常に嫌だけれど、なぜか惹かれてしまう「臨死体験」というもの。<br>それもそのはず。その時に見た光景、景色、起きた出来事、感じたものは、この現代に生きている場合にはおおよそ、体験できないようなことを体験できるからである。<br><br>タイムトラベル、ピラミッドの建設風景、リアルな過去の景色、自分の体験とリンクする過去の不思議な体験が自分と関係があるだとか、空を自由に飛べる、なのに物に触れられる、風を肌で感じる、かと思えば何があっても痛くはない、むしろ痛みは感じるけれど不快じゃ無い不思議な感覚、と思ったら壁を透き通っていくこともできる・・・。<br>というような、超不思議体験が盛りだくさんの臨死体験、または不思議体験談が盛りだくさんだからこそ、惹かれてしまうのが臨死体験なのではないかなと思う。<br><br>「本当なのかな？」と思うような、「本当っぽい！」と思わせるような、マジにリアリティの感じる臨死体験談ですが・・・<br>ちょっと、僕の解釈でこの臨死体験についてバッサリ切らせてもらいますとですね、全部「夢」で片付きます。<br><br>それも「明晰夢」というやつで全て解決。<br>「はい。誰にでも起こせるのですね・・・」<br>という、夢だけに「夢の破壊」です。<br><br>「夢を壊さないで」と言われるやつですが・・・、夢なんだからしょうがないでしょ。<br><br>それ、少し勉強してから「臨死体験なんてどうでもいいや」って僕は思うに至りました。<br>体験したくもないし、体験するってことは現世に戻ってくるってことだから、もしそういう機会があるのなら（若いうちにあるのは嫌だけどもう死んでもいいくらいに思える年老いた時に来るとして）、僕は戻らずそのまま逝きたいなぁって思った。<br><br>むしろ、その「夢」の方を意識的に体験してみたことによって、意識的に夢の中でいろいろなことを試してみましたが、まさに「生きているかのような夢」を見ることができました。これは本当、すごいんです。それを明晰夢っていうんですけど。<br><br>さて、その「明晰夢」ですが・・・<br><br>まずね、時々「臨死体験の時にした何かが現世に残っている」という話がありますが、それはただの思い込みですね。<br>人間は記憶を捏造するプロと言っても過言ではないほど、記憶って簡単に作られてしまうんです。<br><br>こんな実験があるそうです。<br>ある小学生子供に、体験したことのない昔の話をその兄貴に話し続けさせました。<br>3週間ほど「お前は昔、強盗と当たったことがある」みたいな内容だったと思うのですが、それを覚えているか？と答えると当然のことながら「覚えていない」と当初は言っていました。しかし、3週間言い続けたのちにそれを聞いたら「鮮明に覚えている」と話し始めたのでした。体験していないのに。<br><br>というようなことっていくらでもあります。<br><br>例えば僕で言えば、「こんな夢を見たんだよね」と話していたら「そんな記事あったぞ？」と言われて、実際に調べてみたらそんな記事があったんですよ。で、これは夢で予知夢を見たのではなくて、夜中に起きて無意識に携帯を見ている時の光景がぼんやりしすぎてまるで夢のなかにいるかのような感じだっただけなんですよ。実際に見たことが夢で見たような感じになることすらある。<br><br>だから、「こういうマークを付けて来た」という類の話は全て、ちょっとした「勘違い」から「記憶が捏造」されている可能性しかありません。残念ながら。<br><br>「謎のなんとか」とか言いますが、ただのたまたま着いた傷みたいなものに、程の良い理由が作られて、その記憶が作られてしまったっていうだけじゃないのかな。残念すぎるでしょ。でも、限りなくそれがこの現世での道理に近い理論なのではないかなと僕は考える。<br><br>ただし、そういう「明晰夢」を見たことだけは事実なので、体験自体を否定する訳ではありません。リアルにその体験そのものは出来るんです。ただし、何度も言うようにそれは「ただの自分の夢」ということなのです。<br><br>こうしたある種の「夢」はぶち壊した方が良いと僕は思います。なぜなら、そういう解釈をした時点で、「あなた個人の夢が世界を変えるの？？？」「あなた個人の夢が真実？事実になるの？」っていうことになりますから。ほら、「なんだかなぁ」っていう、この胸のあたりの気持ち悪さを感じ始めてしまった人は、それは新しい視野を開拓している途中、というような感じなのではないかなって僕は考えます。<br><br>さらに、実際のところ、それを否定するのではなくて「そうなっちゃうよね」っていう共感は大いにできるようになります。「そうだよね」と、僕のように不思議な話が大嫌いであっても、その「原因」がわかれば「そういう解釈になっちゃうのはわかります」ってなります。だから「そうなんだよね〜」って、嫌いな相手の意見を受け入れることができます（笑）。<br><br>ただただ、何度も言いますが残念ながら全て夢です。夢なのです。<br>それも「明晰夢」という、超リアルに、まるで夢じゃないかのような夢を見ることが人間は時々あるのですが、それなのです。<br>または、夢の中で「これ夢だ」と気付くことが明晰夢なのですが、それに気付いた瞬間に、意識がありますから、夢を意識的に見ることができるだけで、そのリアリティには度肝抜かれます。<br><br>それほどに体験が濃い夢のために、勘違いが起こりやすいのです。<br><br>という視点で見ていくと、世の中に溢れる臨死体験、または不思議体験、その全て、「あぁ・・・夢かぁ・・・」となります。<br>その瞬間、思い込みが無くなり、視野が開けて、思考が柔軟になり、新しい発想が出てきたりとか、するかもしれない。じゃぁないですか。<br><br>だから、僕は、壊し続けたい。漠然と信じ続けてきたいろいろを、ぶっ壊していきたいと考えています。そのためには、「なぜなのか？」を常に突き詰めて考えていく必要がありそうなんです。
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<link>https://ameblo.jp/pfpmt/entry-12367896167.html</link>
<pubDate>Fri, 13 Apr 2018 13:00:00 +0900</pubDate>
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<title>納得と諦めは同義語か</title>
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<![CDATA[ ある時、ふと思いついたのがタイトルのこれだ。<br><br>何かを頼まれて、それを断る時に考えるべきことってなんだろうって思ったら、「諦めさせるプレゼンテーション」ではないだろうか。「それなら諦めて他の方法を考えるか・・・」と思わせるのは、納得なのではないだろうか？<br><br>それなら、あらゆるプレゼンテーションを考える時に、この2つの方向性から考えてみてはどうだろうかって考えた。<br>「納得させるため」と「諦めさせるため」は、似ているようで、同義語のようで、ニュアンスはまったく違うけど、結果はほぼ一緒。その「ニュアンスの違い」という視点で見ていくと、プレゼンする内容にも変化が付けられそうだ。それが「発想の転換」だの「柔軟な思考」だのにつながっていくのではないか。<br><br>僕は「多角的視点で人生を生きたい」という願望がある。多角的視点とは何かと言えば、5と5を足せば10なんだけれど、10を作るためには1と9でも、2と8でもいいわけで、っていう感じのものの見方ができるのが良いなっていうこと。<br><br>ある一人の人格が作られた理由は、「親のせいだ」「環境のせいだ」というのは事実だと思う。親が悪い。環境が悪い。境遇が悪い。人それぞれが持つ宿命は千差万別。それにより、何かが変わる。仮に僕とあなたが同じ顔で生まれたとしても、住んでいる環境がまったく違うのだから、「顔つき」は絶対に変わる。同じ顔であってもだ。<br><br>だから、人格や性格は環境が作るものであって、それで別に良いんだ。<br><br>だ・け・ど。<br>「だからと言って、一概には言えないよね」と僕は考えたいのだ。<br><br>僕は正直、環境のせいで僕の性格が作られたとは思っていない。思っていないけど、作られている事実を知るとおもしろいという話はしてきた。ただ1つだけ言えることは、僕は僕が思うようにも生きてきているということである。僕は、僕の自由な意思でここまで育ってきた。<br><br>だから僕は、「性格は自分が作るもの」だとも思う。<br><br>環境が作り、自分が練り上げる、その全ての結果が、僕のいう人間を作ってきた。<br><br>というように、多角的に考えたい。いろいろなこと「0か1か」なんて言わず、「1」じゃなくて、「0.2が5つあるのだ」と考えることが多角的思考なのではないかなと僕は思っている。<br><br>さて、そういう意味で考えるのであれば、プレゼンテーションの最後の目的である「成約」を獲得するために、あらゆる方向で考えるための材料として「納得」と「諦めさせる方法」なんていうアプローチでいろいろと考えてみてはいかがだろうか？と、思いついたわけだ。<br><br>そもそも、これを思いついた理由は、ある仕事上での頼まれごとをした人が、頼んだ人に「無理、できない」と簡単に断ったことが起因となって、「ふざけるな」と喧嘩になってしまった状況を見る機会があったからである。仕事なんだから、受けなきゃいけない。僕もその通りだと思う。<br>ああいうものを見ていると「やりたくないことをやらない主義」の人たちってクソだなと僕は思うんだけれど、実際にこうして、やらないことによって事なきを得るという選択をする奴とはやっぱり一緒に仕事は出来ない。ハッキリ言ってダメ過ぎだ。それは。<br><br>とまぁ、そんなことを見ている時に、「断るのなら、断るプレゼンテーションをちゃんとしろ」と僕は思ったわけだ。仕事の中での身内にもしっかり、なぜやらない方がよいのか？をプレゼンできる方が、当然のことながらお客さんにもプレゼンが上手にできるでしょう。<br>身内にプレゼンできない人が、他人にプレゼンできるのか？無理だろう。する機会なんていくらでもあるのだから。ということを考えた時に、「諦めさせる方法を考えなきゃいけないよ」っていう話を思いついたのである。<br><br>さて、ここから本題に入っていくのだけれど・・・<br>僕はこの時に思った。「納得と諦めは同義語だ」と思いついた矢先、それが「そうである理由」を僕はすんなりと理論立てて考えることが出来るわけだけど、それは「そうでなければいけない」という思考になっているからであって、その他の意見を寄せ付けない、独自の無理やりな思考になっているのではないか？と。<br><br>あと、昔はいろいろと工夫したり、努力したりしている人が、突然勉強しなくなって「持論が一番なのだ」とばかりに、自分の言葉しか話さなくなり、挙句の果てには「自分の手には強い力がある」とか「病気を治せる」というわけのわからないことを言い始めたりして、アホかと思っていたりするんだけれど、この「思いつきが正しい」かのような振る舞いをする思考は、僕を、今僕がアホかと言った人種にしてしまうのではないかなと危惧したわけだ。<br><br>じゃぁどうするのかって。もっと考えなければいけない。もっともっと考えなきゃいけないんだよね。思いつきが本当に正しいのか？って。僕から言わせれば「自分がどうしたいのか？」も、思いつきでしかない。それが全ての答えのように思っている人たちはたくさんいるけれど、はっきり言ってそれは間違いだ。自分がどうしたいのか？よりも、「何をどうすれば一番良い形に近づけるのか？」を考えた方が良いと僕は思う。<br><br>自分がどうしたいのかなんて、ほとんどの人がわかっている。それができない理由は、「自分がしたいことをすると、自分が思うような良い結果は得られない」と思っているからだ。それは、「そういうことを考えるきっかけ」としては良いことだけれど、だからと言ってそれを信じて突き進むのは思考を放棄するきっかけになりかねないと思う。バカになってしまう。<br><br>もっと、一言じゃ済まないような思考をしなければいけない。「それはそうだけど、これもこうで、あれもそうで、それもあれなんだよね。大変だ」くらい考えた方が良い。<br>たった1つの答えを求める癖は改めなければ、クズに成り下がりかねない。僕はそれが嫌だから、注意している。考えたい、もっと考えたいと思っている。<br><br>「考えすぎ」と言われることがあるけれど、「お前は考えなさすぎ」と僕は思っている。<br><br>「考えて出た言葉は良い言葉ではない」「自分の言葉じゃない」とか言うやつもいるけれど、僕は「もっと考えてから話して」とよく思う。脈絡のない、ストーリーの無い、起承転結もない、オチもない、なんだからよくわからない単語を並べたみたいなトークを聞いていて「ふんふん」と聞いているフリをしながら「だから何？」「本題は？」といつも思っている。<br><br>だから、考えなければいけない。考えて考えて、考えて考えて、考え尽くした時、誰かの言葉を自分の言葉として話すことが出来るほどの奥深さは身についているんじゃないかなと思う。ま、それはちょっとぼんやりとした感覚ではあるのだけれど。<br><br>何より、誰かの言葉の解釈を考えて、「こう思う」「俺はこう思う」「これってこういうことなんじゃないの？」と話しをしている方が、僕は圧倒的に楽しく思う。<br><br>ということで、何が言いたいのかと言えば、それらしい、もっともらしい、良き言葉を思い浮かんで、それを話したい衝動に駆られた時に一度、足を止めて考えてみてはいかがでしょうか。ということである。<br><br>そんなやつら10人集まって、例えば何かの会議や打ち合わせをしたとしよう。ものすごい会になるんじゃないかなって僕は思う。それは、とても楽しいものになりそうだなって思う。
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<link>https://ameblo.jp/pfpmt/entry-12367258660.html</link>
<pubDate>Tue, 10 Apr 2018 11:50:05 +0900</pubDate>
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<title>過去の何が今の僕を作っているのかはわからないもんだ</title>
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<![CDATA[ 自分の思いでを振り返っていると、自分は昔から何も変わっていないんだなって思うことがあります。また、「とある何か」がきっかけで、それが強烈に心に残っているはずだけど、なぜそうなのか？をまったく覚えていないこともあるんだなって思いました。<br><br>僕は「不自由の中に自由を」って言葉が好きなのですが、なぜ好きなのか忘れていました。考え方とか、何をどう考えるのかとか、今の僕自身が数々の本を読んで、実際にやってみたり、経験してみたりして、より理解が深まってきたとは思うのですが、そのきっかけとなったことがなんだったのか？と言えば、それはまったくわかりません。<br><br>わからないって思っていたんだけど、昔の書類を整理している時にとある詩を見つけたんです。誰が書いたのかも不明なんですけど、これを昨日改めて見た時に僕は、なんか、人生って何にどう影響を受けるのかわからないもんなんだなって思いました。<br><br>あの時見た時は「ふーん」って感じだったはずなのに、こういう考え方が好きな今の僕が居るっていう感じでしょうか。<br><br><br>ーーー<br><br>「自由とは？」<br><br>自由ってなんだろう? 夢って何だろう?<br>なんか、漠然としてるよね。反対にして考えてみようか?<br><br>不自由って、どんな時?<br>「本当はこうしたいのにできない時」「我慢しなきゃいけない時」<br>う～ん、他にも・・・何かのルールや規制を自然に受け入れられない時。<br>必要だと思うものが足りない時。<br><br>法律とか・道徳とか・・・世の中にはたくさんの決まりごとがあるけど、普段はあまり不自由は感じていないね。なら、不自由を感じたときに不自由が生まれてるのかなあ。<br><br>そうすると全部、心の中の出来事になっちゃうね。<br><br>ルールを無視したときは、心が痛いね。後ろめたさを感じてしまう。道徳や常識はうまく人と折り合っていくための基本なんだから。<br>そうすると、人や社会とうまくつきあっていくことと、不自由を感じることのバランスをとらないといけない。おかしな気もするけど、不自由を感じながら、うまくやらなければならないなんて・・・<br>顔で笑って、心で泣いて。ってところかな?<br><br>夢ってなんだろう? きっと、不自由を感じたり、できなかったこと・してはいけないことをできるようにすることなんだろうなあ。<br><br>不自由さの中に、自由を求め。自由を成し遂げることを夢に描く。<br>夢は望みを持つことによって生まれてくるものなんだね。それは感情的に「こうしたいのに～」という、子供心から出てくるんだね。そして、論理的に理路整然と「こうすれば、こうなるな」っていう大人心で夢を叶えるのだね。<br><br>子供心とは、夢を描く。大人心は、その夢を叶えるものなんだ。<br>そして、子供心は自由を喜び・満喫し、無邪気に楽しむ。規制があれば抵抗して泣いてみるし、ダダをこねる。大人心は、不自由を「自分が妥協できるもの」と「できないもの」に分けて、できないものは「長く継続する夢」として、成し遂げるように努力するものなんだね。<br>だから、夢は厳密にいえば、「感情的に成しえなかった、今までのすべての事」<br><br>幸せってなんだろう。きっとそれは個人の中にあるもので、何か外側にあるものじゃない気がするなあ。<br><br>あなたの夢はなんですか? <br>「今までしたいと思ってできなかった全部です」<br><br>たくさんあるのですねえ?　<br>「そうですよ」「でも、それは思い出した時々によってちがうんです」<br><br>思い出した事が夢になるのですか? <br>「ええ、だから満足も成し遂げたらあまり長くは続きませんね」「環境も人も僕に、刺激や抵抗を与えて、その都度思い出させてくれるものなんです」<br><br>物や人は、あなたに夢を与えるものですか? <br>「そう・・だから、いつも幸せなんです」<br><br>不自由の中の自由。抵抗の中の夢。思い出させる幸せ。<br>「結局、自由で、終わらない夢があって・・・生きることは幸せそのものなんです」<br><br>ーーー<br><br>何がなんだかわからない感じではありつつも、この詩の暖かさと少しの深みが、僕の人生の指針にいつの間にかなっている。<br>「自由」がわからないから、反対に考えてみる。とか、そういう思考の仕方、僕は今まさにやっていこうと思っていることだから。<br><br>おもしろい。<br>何がどう、今の自分を作っているのだろう？<br>それを知るのは、本当におもしろい。<br>そして、いつでも「そうだったんだ」という時の衝撃はね、ショッキングであって、気持ちが良いものだね。
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<link>https://ameblo.jp/pfpmt/entry-12366474786.html</link>
<pubDate>Sat, 07 Apr 2018 11:03:36 +0900</pubDate>
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