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<title>哲学系ダイアリー</title>
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<description>哲学関連の勉強日記です。</description>
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<title>終わり</title>
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<![CDATA[ これをもって、本ブログの更新を終えます。<br><br>ここで扱った哲学書は、ほんの僅かで、しかも断片にすぎません。<br>あくまで、導入の役目を果しただけだと思います。<br>本当の勉強は、これから皆さん自身でお願いします。<br><br>素人の勉強にお付き合いいただき、ありがとうございました。<br>
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<link>https://ameblo.jp/philo-diary/entry-10824194567.html</link>
<pubDate>Tue, 08 Mar 2011 11:44:24 +0900</pubDate>
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<title>複雑だからおもしろい、日本人！　『善の研究』（４）</title>
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<![CDATA[ それでは、この本のタイトルでもある「善」について考えてみましょう。<br>善とは一体なんでしょう。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">善とは一言にていえば人格の実現である。これを内より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。外に現われたる事実として見れば、小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達するのである（217頁）。</span><br><br>さっそくですが、疑問が生じます。<br>満足することが、すなわち善であるのか、と。<br><br>実はこの両者は、矛盾するものではありません。<br>現象には、内外の区別はないのでしたね。<br>主観的意識というものも、客観的実在界というものも、同じ現象を違う方向から見たもので、そこにはただひとつの事実があるだけなのです。<br>言うならば、世界は自分の意識により成り立っているもので、そのため、自己と宇宙とは同一物なのです。<br>ですから私たちは、心の中に、真理や美や善の無限の意義を感じることもできるのです。<br>私たちが実在を知るということは、自分の外のことを知るのではなく、自己自身を知ることなのです。<br>ですから、実在する真や善や美というものは、そのまま自分にとっての真や善や美でもなければなりません。<br><br>それでは考えてみましょう、事実として善ではあるけど動機は善ではないものと、事実としては善ではないけど動機は善であるものとを。<br>前者については、それは人格実現を目的とした善行ではないですから、そこから与えられるものは単なる利益にすぎません。<br>それは、小さなものであっても善なる動機から出た行為に劣ります。<br>後者については、その原因を、その人にとっての至誠と他の人たちにとっての善とが必ずしも一致しないではないか、というところにあると考えられるかもしれません。<br>しかしそれでは解釈が間違っています。<br>「至誠」を「真に精神全体の最深なる要求」という意味で用いるならば、この誤解はなくなるでしょう。<br><br>このように、私たちの最深なる要求と最大の目的とは一致する、と考えられるのです。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">我々が内に自己を鍛錬して自己の真体に達するとともに、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合うようになる、これを完全なる真の善行というのである（221頁）。</span><br><br>こうして見ると善行は何だか難しそうですが、実際には誰にでも出来ることでなければなりません。<br>道徳というものは、自分の外にあるものを求めるのではなく、自分にあるものを見出すだけです。<br>最大の善というと、あたかも何か世界的人類的な大事業でもしなければならない、と思いがちですが。<br>何をするかは、その人の能力や境遇によって変わりますから、誰でも同じことをする必要はありません。<br>しかし、やることは違っても、同じ精神で働くことはできるのです。<br>どんなに小さなことであっても、人類愛にもとづき働いている人は、偉大な人格を実現しつつある人ということになります。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きている。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知ればただ（注）に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。……真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである（222頁。「ただ」の漢字は「帝」に「口」）。</span><br><br><br><br>今回で、『善の研究』を終わります。<br>
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<link>https://ameblo.jp/philo-diary/entry-10815214938.html</link>
<pubDate>Sun, 27 Feb 2011 20:43:42 +0900</pubDate>
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<title>複雑だからおもしろい、日本人！　『善の研究』（３）</title>
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<![CDATA[ 意志の統一は、どこから起こるのでしょうか。<br>科学者はそれを、私たちの身体から起こると考えるでしょう。<br>有機体の目的は自己や種の維持発展なのですから、私たちの意志の目的も生活保存にあると考えるのです。<br>だから科学者は、私たちの様々な精神的なものも、この生活の目的ということで説明しようとするのです。<br><br>しかし、「<span style="color: rgb(255, 0, 0);">意志の本を物質力に求め、微妙幽遠なる人生の要求を単に生活欲より説明しようとするのは頗る難事である</span>」（144頁）。<br>もし科学者が考えるように、私たちの意志が単に有機体の物質的な作用によって起こるのであれば、物質にはどのような能力があると考えるべきなのでしょうか。<br>ふたつの考え方があります。<br>ひとつは、物質のなかにも合目的な力が潜在的に含まれているというもの。<br>もうひとつは、物質は単に機械的な力をもつにすぎないので、合目的な自然現象はすべて偶然であるというもの。<br>多くの科学者はおそらく後者を支持するのではないでしょうか。<br>しかし、このふたつの考えは、結局のところその根底は同じであるように思えます。<br>機械的な力にしても、どこかでその力を生じさせるものが内にあるということなのでしょうから。<br>こうしたことに関しては、物理学によって説明がなされるのでしょうが、そうすると結局、真理とは相対的なものにすぎなくなってしまいますよね。<br><br>さらに、実在的に見れば、物体とは意識現象の不変的関係に名づけたものにすぎないので、物体が意識を生じるのではなくて、意識が物体を作るのです。<br>客観的だと思われる機械的な運動も、私たちの論理的統一があればこそ成立するものなので、決して意識を離れたものではないのです。<br>そして意思こそが、私たちの意識の最も深い統一力なのです。<br>外から見ては単なる機械的な運動であったり生活現象にすぎないものであっても、その内面にあるのは意志なのです。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">恰も単に木であり石であると思っていたものが、その真意義においては慈悲円満なる仏像であり、勇気満々たる仁王であるが如く、いわゆる自然は意志の発現であって、我々は自己の意志を通して幽玄なる自然の真意義を捕捉することができるのである（146頁）。</span><br><br>現象を、精神現象と物体現象とに分けて考えるなら、これは理解できないと思いますが、直接経験における具体的事実には内外の区別はなく、むしろこのような考えが直接の事実なのです。<br><br>そして、「<span style="color: rgb(255, 0, 0);">動作は意志の表現である。外より動作と見らるる者が内より見て意志であるのである</span>」（147頁）。<br>
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<link>https://ameblo.jp/philo-diary/entry-10813835531.html</link>
<pubDate>Sat, 26 Feb 2011 15:42:47 +0900</pubDate>
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<title>複雑だからおもしろい、日本人！　『善の研究』（２）</title>
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<![CDATA[ 私たちは、純粋経験の外に出ることはできません。<br>どのような意識であっても、それが統一されているときには、いつでも純粋経験です。<br>しかしこの統一が破れ、他との関係に入ったとき、意味や判断を生じます。<br>意味とか判断とかが出てくるのは、現在の意識を過去の意識に結合するからです。<br>それは現在意識とその他との関係を示すのであって、意識系統における現在意識の位置を示しているに過ぎません。<br>たとえば、ある音が鐘の音だと判断したときには、過去の経験からその位置を定めたのです。<br>こうなると、純粋経験は破壊されます。<br>意味とか判断とかは、不統一の状態なのです。<br><br>さて、人間の実践というものは、すべて行為に集約されます。<br>それでは、行為とはなんでしょう。<br>それは、単なる物体的運動とは違います。<br>目的が明瞭ではない本能的動作とも違います。<br>行為とは、目的が明瞭に意識されている動作のことなのです。<br><br>行為は、動作を伴いますが、それは意識現象から起るものですから、つまり元にあるのは意志です。<br>それでは、意志は、どのようにして起るのでしょう。<br>私たちの身体は、生命保持の運動をするように出来ていて、それに沿って意識が発生しますから、はじめは単純な苦楽の情です。<br>そして、外界に対する観念がはっきりしてくるにつれて、運動は刺激に対して無意識に発するのではなく、まず結果を考えて、その手段となる運動を考えて、それから運動に移ります。<br>つまり、意志が発生するのです。<br>意志が起こるには「動機」が衝動的感情として現れます。<br>それに目的観念である「欲求」が伴います。<br>いくつかある欲求のうち、最も強いものにより動作に移るとき、これを「決意」といいます。<br>私たちの意志とは、このような意識現象全体を指すのです。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">行為の要部は実にこの内面的意識現象たる意志にあるので、外面の動作はその要部ではない（137頁）。</span><br>
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<link>https://ameblo.jp/philo-diary/entry-10810206200.html</link>
<pubDate>Wed, 23 Feb 2011 01:01:17 +0900</pubDate>
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<title>複雑だからおもしろい、日本人！　『善の研究』（１）</title>
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<![CDATA[ 今回から勉強するのは、西田幾多郎（1870-1945）です。<br><br>テキストとして『善の研究』（1950年、岩波書店）を使用します。<br><br><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=14081384" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">善の研究 (岩波文庫)/西田 幾多郎<br><img border="0" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51G59WR0MFL._SL160_.jpg"></a></dt></dl><br>そして、この度の勉強をもって、本ブログの役目を終えることとします。<br><br><br>さて、西田の哲学を知るには、「純粋経験」というものを理解しなければなりません。<br>まずは、経験というものを考えます。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである（15頁）。</span><br><br>たとえば、色を見たり音を聞くとき、まだ、これが外からの働きであるとか、私はこれを感じているとかの考えがないだけでなく、この色この音は何だ、という判断すらない、その前なのです。<br>ですから、純粋経験とは直接経験と同じです。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である（15頁）。</span><br><br>知識は経験ではありませんし、意識であっても他人の意識は自分には経験できませんし、自分の意識であっても過去を想い出すこと、目の前のことであっても判断を下したときにはもう純粋の経験ではないのです。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである（16頁）。</span><br style="color: rgb(255, 0, 0);"><br>現在の意識を分析するとき、その分析されたものはもはや現在の意識とは同じではありません。<br>主客未分の状態とは、たとえば、崖をよじ登っているような場合です。<br>また、音楽家が熟練の曲を演奏しているような場合です。<br>全くの知覚の連続なのです。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡とを保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない（18頁）。</span><br style="color: rgb(255, 0, 0);"><br style="color: rgb(255, 0, 0);"><span style="color: rgb(255, 0, 0);">純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活発なる状態である（21頁。旧漢字は新漢字に改めた。以下同）。</span><br><br>意志の本質というのも、未来にあるのではなく、現在の活動にあるのです。<br>意志というのは、主客の統一なのです。<br>ですから意志はいつも現在なのです。<br>
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<link>https://ameblo.jp/philo-diary/entry-10807358504.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Feb 2011 12:50:20 +0900</pubDate>
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<title>『存在と時間』（３）</title>
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<![CDATA[ 道具がその存在においてありのままに現われてくるのは、それぞれの道具に呼吸を合わせた交渉をしているときです。<br>たとえば、ハンマーをふるって打つときのように。<br>そのとき、存在者を出現する事物として把握しているわけでも、その道具の構造を知っているわけでもありません。<br>ハンマーをふるうということは、その道具的性格についての知識だけではなく、その道具をそれ以上ないほどに自分のものにしているということなのです。<br>ハンマーが単にものとして眺められるだけでなく、手っ取り早く使われるほど関わり合いは根源的になり、ハンマーはそれだけありのままの姿で出会ってくるのです。<br>このような存在様相を「用具性」といいます。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">道具には</span><span style="color: rgb(255, 0, 0); font-weight: bold;">このような</span><span style="color: rgb(255, 0, 0);">「自体＝存在」がそなわっているのであって、道具はだしぬけに出現するものではない。それがもっとも広い意味で手もとに具わってわれわれに用いられるのは、そのためなのである（163頁）。</span><br><br>ただ眺めるだけでは用具的存在者を発見することはできません。<br>たんに「理論的に」眺めるだけの眼には、用具性の了解が欠けているからです。<br><br>さて、そうすると、世界とはどのようなものでしょう？<br><br>現存在が世界＝内＝存在によって構成されていて、その存在には現存在の自己についての了解もそなわっているなら、現存在は世界の了解をもっていることになるのではないでしょうか。<br>世界＝内＝存在に内世界的存在者が出会うと、それの内世界性が現れると同時に、なにか世界というようなものも現れてくるのではないでしょうか。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">してみれば世界とは、現存在が存在者としていつもすでにそのなかで</span><span style="font-weight: bold; color: rgb(255, 0, 0);">存在してきた</span><span style="color: rgb(255, 0, 0);">ところであり、現存在がどのような行き方でそこをめざして行くにしても、いつもただそこへ帰って来るというありさまでしか到着できないところなのである（177頁）。</span><br><br><br><br>今回で『存在と時間」を終わります。<br>
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<link>https://ameblo.jp/philo-diary/entry-10806282007.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Feb 2011 13:14:48 +0900</pubDate>
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<title>『存在と時間』（２）</title>
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<![CDATA[ 現存在は、いつも存在的に経験されているはずです。<br><br>存在について考えようとするとき、まず認識されるのは、自然という存在者ですね。<br>しかし、いくらこの存在者を見ても、そこには認識そのものは見当たりません。<br>また、認識することが存在していることだとすれば、それは認識する存在者にあるはずです。<br>しかし、この存在者（人間）にも、認識は存在していません。<br>それは、外面的なものとしては確認されないのです。<br>認識が、この存在者に所属していて、そして外面的性状ではないのだとすると、それは「内面」にあることになりますね。<br><br><span style="font-weight: bold; color: rgb(255, 0, 0);">認識することは、世界＝内＝存在としての現存在の存在様態のひとつであって</span><span style="color: rgb(255, 0, 0);">、存在的にこの存在構成にもとづけられている（146頁）。</span><br><br>認識することは《世界のもとにすでにある（従事的）存在》にもとづいているのであって、そしてこのような（従事的）存在が現存在の存在を規定しているのです。<br>世界＝内＝存在は、配慮する世界に「気をとられて」いるのです。<br><br>認識的現存在は、どこまでも現存在として外に出ているのです。<br><br>こうした交渉のもっとも身近なものは、ものを操作し使用する配慮です。<br><br>そこで出会う存在者を「道具」と名づけます。<br>たとえば、書く道具、縫う道具、工作する道具、乗っていく道具、測定する道具、など。<br><br>道具は、ひとつだけで存在することはなく、いつでもひとまとまりの道具立て全体で存在します。<br>そしてその本質は、《……するためにあるもの》です。<br>たとえば、インク・スタンド、ペン、インク、紙、下敷き、机、ランプ、家具、窓、ドア、部屋は同じ属性のもとに存在します。<br>一番先に出会うのは部屋です。<br>それは住む道具として。<br>「<span style="color: rgb(255, 0, 0);">この部屋のなかから、備えつけられた「調度」が現われてきて、そしてこの備えつけのなかで、それぞれの「個別的」な道具が現われてくるのである。個別的な道具に気づく</span><span style="font-weight: bold; color: rgb(255, 0, 0);">以前に</span><span style="color: rgb(255, 0, 0);">、いつもすでに道具立ての全体性が発見されている</span>」（162頁）。<br>
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<link>https://ameblo.jp/philo-diary/entry-10800688373.html</link>
<pubDate>Mon, 14 Feb 2011 12:19:01 +0900</pubDate>
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<title>『存在と時間』（１）</title>
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<![CDATA[ 今回から勉強するのは、ハイデガー（Martin Heidegger 1889-1976　独）です。<br><br>テキストとして、『存在と時間』（細谷貞雄訳、筑摩書房、1994年）を使用します。<br><br><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=13958484" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)/マルティン ハイデッガー<br><img border="0" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51CQNJC9qTL._SL160_.jpg"></a></dt></dl><br>ハイデガーは、「現存在」という言葉を使います。<br>現存在とは、「みずから存在しつつこの存在にむかって了解的に態度をとっている存在者」であり、「いつも私自身である存在者」です。<br><br>現存在の存在規定は、「世界＝内＝存在」という存在構成のもとにあるので、現存在を分析するには、この存在構成を解釈しなければなりません。<br><br>この現象は、次の三つのようにいえます。<br>・「世界の内に」ということ。<br>・いつも世界＝内＝存在というありさまで存在している存在者。<br>・内＝存在そのもの。<br><br>内＝存在とは、どういうことでしょう。<br><br>それは、ある物体的な事物（身体）がある存在者の「なか」に存在している、という意味ではありません。<br>「<span style="font-weight: bold; color: rgb(255, 0, 0);">内＝存在とは、世界＝内＝存在という本質的構成をもっている現存在の存在を表わす形式的な実存論的な表現なのである</span>」（133‐134頁。強調原著。以下同）。<br><br>世界の「もとにある」ということが、世界にたずさわり、世界に融けこんでいる、という意味で用いられます。<br><br>世界の「もとにある」存在は、事物が並んでいるというような存在を意味しはしません。<br>「現存在」という存在者と、「世界」という存在者が、並びあっている、というような事態は存在しないのです。<br>存在者が、世界の内部にある存在者に触れることができるのは、それが内＝存在という存在様式をそなえている場合だけです。<br>つまり、「<span style="color: rgb(255, 0, 0);">それが現に存在しているとともになにか世界というようなものが発見されていて、その世界のなかから存在者が触れてきておのれを現し、そうしてそれの客体的存在において近づきうるもののなっている、という場合だけ</span>」（135頁）なのです。<br><br>内＝存在の様式には、たとえば次のようなものがあります。<br>《なにかに関わりをもつ》、《なにかを製作する》、《なにかを整頓し、手入れをする》、《なにかを使用する》、《なにかを棄てたり、なくしたりする》、《企てる》、《やり通す》、《探す》、《問いかける》、《考察する》、《論ずる》、《規定する》など。<br>これらの様式は、配慮という存在様相もそなえています。<br>それには、《やめる》、《怠る》、《諦める》、《休む》や、《ただ……するだけの》など。<br>《なにかをしとげる》、《片づける》、《始末する》や、《なにかを調達する》なども。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">現存在は、本質上このありさまで存在するゆえに、環境的に出会う存在者をことさらに発見し、それを関知し、それを指図し、こういう意味で</span><span style="font-weight: bold; color: rgb(255, 0, 0);">「世界」をもつ</span><span style="color: rgb(255, 0, 0);">ことができる（140頁）。</span><br>
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<link>https://ameblo.jp/philo-diary/entry-10798535556.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Feb 2011 14:07:07 +0900</pubDate>
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<title>『死に至る病』（６）</title>
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<![CDATA[ それでも彼は、自己自身であることを選びます。<br><br>なまじ救済されるよりも、苦悩の方を選ぶのです。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">そこでは彼は自己の存在を憎悪しつつしかも彼自身であろうと欲するのである、惨めなままの自己自身であろうとするのである。彼が彼自身であろうと欲するのは単なる強情の故にではなく、むしろ挑戦せんがためである（119頁）。</span><br style="color: rgb(255, 0, 0);"><br><br>これまで、絶望の種類をみてきました。<br>キルケゴールによると、人は絶望する存在です。<br>しかしまた、救済される方法もあるのです。<br>それは……勉強してみてください。<br><br><br>今回で『死に至る病』を終わります。<br>
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<link>https://ameblo.jp/philo-diary/entry-10798528052.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Feb 2011 13:12:54 +0900</pubDate>
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<title>『死に至る病』（５）</title>
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<![CDATA[ 困難な状態が続いている間は、彼は自分自身であろうと欲しないのです。<br>そういう状態が過ぎ去り、なにか変化が起ると、彼は戻り、再び自分自身となるのです。<br>ある程度までは彼は自己であったのに、しかしそれ以上のものにはならなかったのです。<br><br>真実に自己となるためには、内面をどこまでも追求しなければならないのですが、彼はこの方向から逸れることになります。<br>つまり、彼は自己をもてないのです。<br><br>それでは次に、永遠的なるものについての絶望を考えてみましょう。<br><br>これまでの絶望が「弱さの」絶望であったのにたいし、この絶望は「自分の弱さにかんする絶望」ということができるでしょう。<br>この人は、絶望することが自分の弱さのせいであることを理解しています。<br>しかし、この人は絶望の中に更に深入りし、自分の弱さに関して絶望するのです。<br><br>この絶望は、永遠的なるものと自己自身とを失ったということなのです。<br>この絶望は自己からやって来ます。<br>しかし、この絶望は、度が強まっているだけに、救済に一歩近づいているともいえるのです。<br><br>このタイプの絶望は、世間ではかなり稀です。<br><br>さて、これまでは、絶望して自己自身であろうとほっしない絶望をみてきましたが、ここからは、絶望して自己自身であろうと欲する絶望をみていきましょう。<br><br>この形態においては、再び、自己についての意識が上昇します。<br>この絶望が、受動的な悩みとして外から来るのではなく、自己の行為として直接自己から来ることを意識するのです。<br><br>絶望して自己であろうと欲するためには、無限な自己の意識がなければなりません。<br>このとき人は、自己自身を創ろうと欲するのです。<br>自己を、なりたい自己に創ろうと欲するのです。<br><br><span style="color: rgb(255, 0, 0);">一体彼の具体的自己は実に必然性と限界とをもち、全く規定された或る物であり、一定の能力・素質等々を有し、特定の具体的関係等々のうちにあるものである。しかるに彼はまずもってかの無限なる形式すなわち否定的な自己の助けをかりてこの全体を改造しつつ、そこからして否定的自己の無限形式によって生み出されたところのおのが希望通りの自己を獲得せんと試みる、――そしてその上で始めて彼は彼自身たらんと欲するのである（110頁）。</span><br style="color: rgb(255, 0, 0);"><br>彼は、自己を自分で構成しようと欲するのです。<br><br>ですが、自己が自己自身の主人であるという、まさにこのことが絶望に他ならないのですけどね。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/philo-diary/entry-10797663410.html</link>
<pubDate>Fri, 11 Feb 2011 18:35:23 +0900</pubDate>
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