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<title>ふぃろノート</title>
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<description>哲学とは何だろう？それは、知を愛する営み、とよく言われる。では、誰が知を愛するのだろう？職業哲学家だろうか？このブログの答えは、「そんなの誰でも」だ。哲学は、あらゆる人に開かれているべきだ。これは、ぼくの読書記録と哲学に対する考えを、ゆる～く綴った日記。</description>
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<title>『道徳の系譜』～ニーチェ思想の入門書～その④</title>
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<![CDATA[ <p>これで『道徳の系譜』は最終回だよ～。</p><p>&nbsp;</p><p>・・・・・・</p><p>&nbsp;</p><p>４．『道徳の系譜』について思ったこと</p><p>&nbsp;</p><p>(a)反駁の難しさ</p><p>&nbsp;</p><p>『道徳の系譜』では、日ごろ我々が信じている（いや、より厳密に言うとキリスト教世界の道徳で信じられている）「善と悪」が、実際は強い人間が定めた「よい」と「わるい」という道徳的価値に対する「反感（resentiment）」によって創作された彼岸物にすぎないと主張されている。</p><p>隣人愛、善きサマリア人などに象徴される善行は、実際は「反感」が生み出した病的な吐しゃ物に過ぎないことが看破されている。</p><p>この「反感」が生み出した病気は人類を疲弊させ、より病弱にし、輝きを失わせ、醜悪にするものとして描かれている。</p><p>そして、強い人間が法を創り、弱者を支配する、より健康的で美しい世界がやって来ることを、超人の到来と共に期待している雰囲気が本書には漂っている。</p><p>しかし、そうは言っても、「よい」「わるい」の前史的な、強い人間が弱い人間を虐げることが「よい」こととされ、高貴なこととされる世界は好ましいのか。</p><p>例えば、障害を負っている人は（目が見えない、歩けないといった人は）、障害のない人と殴り合いのケンカをした時、ほぼ確実に負ける。</p><p>それは、「戦い（bellum）」においては、障害者は弱者に分類される可能性が非常に高い、というか、慎重な表現をやめれば、障害者は弱者になるということだ。</p><p>だが、もし超人の到来した世において、その弱者を苦しめるためだけに責めさいなむことが「よし」とされたならば、弱者はただ強者の布いた法によって、無意義に苦しむことを余儀なくされる。</p><p>そして、それに反抗することは、原理上できない。</p><p>何故なら、虐げられているのは弱者であり、強者に勝つことはあり得ないからだ。</p><p>もちろん、強者が「恩赦」によって、弱者をいじめないことを「よし」とすることもあり得よう。</p><p>だが、ニーチェの描く前史的な時代を認めてしまっては、強者の暴政を認めないわけにはいかない。</p><p>もし、障害の有無に関わらず、あなたがその世界で弱者とされてしまえば、殺されたって嫌とは言えない。</p><p>&nbsp;</p><p>こうした弱肉強食の世界に対して、「道徳的な立場から」反駁することは不可能だ。</p><p>「それは善くないのでは」などと言うことは、間違ってもできない。</p><p>「それは、あなたが弱者だから、強者に対して精神的な復讐を加えるために「善くないのでは」などと言っているだけで、それは彼岸の論理、或いは、病弱な人間の抱く単なる「反感(resentiment)」にすぎない」と、切り返されるに違いない。</p><p>我々が日常的に考えている人権、ヒューマニズム、「道徳」の立場から、ニーチェの描く前史的な世界に否と言うことはできないのだ。</p><p>何故なら、その我々の「道徳」がひっくり返されてしまっているのだから。</p><p>そういう意味で、反駁が難しい本だと思った。</p><p>（不可能というわけではなく、難しい。それだけひっくり返されてしまっている。）</p><p>&nbsp;</p><p>(b)民主主義について</p><p>&nbsp;</p><p>本書の中で、ニーチェは何度か、民主主義について批判を加えている。</p><p>理由は、自明と思われるが、強い人間が支配する世界（ニーチェはこの前史的な世界が再び到来することを夢見ているように思う）と民主主義はどう考えても相容れないからだ。</p><p>つまり、民主主義は弱々しい、病弱な、うらなりの人間どもが、何故か強い人間まで一緒くたにして統治してしまう謎の政体、というよりは、人間を衰退させる禍々しい政体だと捉えた。</p><p>それはつまり、既に充分病的な人間から、強さと輝きをますます奪い取ってしまうということになる。</p><p>民主主義は人間を＜美＞から遠ざけるから害悪だ、というのがニーチェの大方思っているところだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>反対に、プラトンは『国家』の中で、政体を５つに分類した。</p><p>かなりはしょるけど、一番いいのは哲人の治める世界。</p><p>民主主義は、４番目にいい政体とされた（つまり、下から２番目、いい政体というか、どちらかというと悪い政体）。</p><p>その理由は簡単だ。</p><p>人間は、よほどの才能を付与されていない限り、何が善で何が悪かということを知ることはできないというのがプラトンの根本的な考えだ。</p><p>哲人となりうる限られた人間は、優れた哲学的トレーニングによってそれを知り得るかもしれないが、パンピー（一般人、のことだよ。笑）にはそんなこと万に一つにも不可能だ。</p><p>パンピーはどっちかと言うと、欲望に目を曇らされているから、何が正しいかなんてわかりっこない。</p><p>パンピーは大人しく、哲人が教えてくれる正しい道を、素直に聞いているがよろしい。</p><p>哲人統治こそが、パンピーが正しく生きられる唯一の道だ。</p><p>むしろ、パンピーたちが自分たちを統治するとなったら大変だ。</p><p>欲望に目を曇らされ、何が正しいか全然わかってない人たちが民主主義なんておっぱじめようものなら、その政治共同体が欲望によって突き動かされ、正しい状態からどんどん遠のいてしまう。</p><p>民主主義は人間を＜善＞から遠ざけるから害悪だ。</p><p>これが、プラトンの大方思っていたところだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>なんか、似ている。笑</p><p>&nbsp;</p><p>(c)強い人間が、何を欲するか</p><p>&nbsp;</p><p>強い人間は、自らと、自らの行いを「よい」とすることで、新しい正義を打ち立てる。</p><p>つまり、強い人の欲望が、そのまま正義になる。</p><p>このこと自体に疑念を挿むことが、我々の「道徳」の立場からはかなり難しいことは(a)で述べた。</p><p>でも、何を欲望するのだろう。</p><p>強い人間は、何を欲するのだろう。</p><p>これで、「アメリカの大統領になること」なんて言ったら、ただのお笑いだ。</p><p>一体、強い人間は、その人自身の暮らす世界の構造から、自由になれるのだろうか。</p><p>超人がこんなことを言うのかは知らないが、試しに「青は『よい』」と日本語で言わせてみよう。</p><p>これは、greenとblueが「よい」という意味なのだろうか。</p><p>それとも、blueがよくて、greenは関係ないのだろうか。</p><p>何かの本で読んだが、アフリカのある地域には、色に関する名前を二つしか持たない民族があるという。</p><p>二つの色とは、「明るい色」と「暗い色」だ。</p><p>その民族の人に「青は『よい』」と言って、意味が伝わるだろうか。</p><p>超人は何語をしゃべるのだろう。</p><p>超人は、自らの言語の制約を超えることはできるのだろうか。</p><p>言語に限らずとも、自らの暮らす世界を超えていけるのだろうか。</p><p>「コーラが飲みたい」「漫画が読みたい」「ゲームをしたい」「パソコンはマックがいい」・・・。</p><p>時代的・地理的・言語的制約を、超人はどうやって乗り越えるのか。</p><p>そして、その欲望を規定しているのは構造でないという保証はあるのか。</p><p>もし構造が超人の欲望を規定するというのであれば、超人とは一体何者なのか。</p><p>超人が何が「よい」もので何が「わるい」ものかを決めることが、構造を離れて一体可能なのか。</p><p>大体、ニーチェが『道徳の系譜』自体の根拠にしているのはなんとも曖昧なニーチェ流言語学だが、gut（よい）とschlecht（わるい）だってドイツ語だ。</p><p>超人はドイツ語で語るのか？</p><p>超人は、非歴史的存在でありうるのか？</p><p>&nbsp;</p><p>・・・・・・</p><p>&nbsp;</p><p>以上、ニーチェの『道徳の系譜』（木場深定訳、岩波文庫）を読んだ。</p><p>おもしろかった～。</p><p>また次の読んだら書きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/philonote/entry-12238530183.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Jan 2017 00:00:00 +0900</pubDate>
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<title>『道徳の系譜』～ニーチェ思想の入門書～その③</title>
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<![CDATA[ <p>続きだよ～。</p><p>要約は今回で終わり。</p><p>次回の記事には思ったことを書きます。</p><p>&nbsp;</p><p>・・・・・・</p><p>&nbsp;</p><p>３．禁欲主義は何をもたらしたか？</p><p>&nbsp;</p><p>(a)または、宗教は何をもたらしたか？</p><p>&nbsp;</p><p>「良心の疾しさ」がもたらしたのは、むせ返るような剥き出しの苦しみ。</p><p>「理由も目的もわからずに、自己自身によって苦しめられている」（１７９ページ）人間に、救いの手を差し伸べたのは、禁欲主義だった。</p><p>または、宗教だった。</p><p>または、（ヨーロッパの場合には）キリスト教だった。</p><p>キリスト教は、人類が経験している苦しみに一つの解釈を与えた。</p><p>それは、我々の苦しみの原因は我々自身の中にあるという、人間は生まれながらに罪人であるという解釈。</p><p>こうして、「病人は「罪人」にされたのだ」（１８０ページ）。</p><p>この処置は、決して「良心の疾しさ」という病気を治癒するものではなかった。</p><p>むしろ、麻酔をかけて、苦しみを和らげること以外には、何の効果もなかった。</p><p>しかし、それでも禁欲主義は、人間が苦しむ理由を与えることによって、人間の生活を意味のあるものにした。</p><p>意味を手にした人間は、むしろ、苦痛を渇望するようにまでなった。</p><p>妄想の軛の下に、自らが生み出した麻酔薬に神経を冒されながらも、人間は苦しみに意味を見出した。</p><p>「これまで人類の上に蔓延していた呪詛は苦しみの無意義ということであって、苦しみそのものではなかった。―そして禁欲主義的理想は人類に一つの意義を提供したのだ！」（２０７ページ）</p><p>しかし、そこに、科学が到来した。</p><p>&nbsp;</p><p>(b)または、科学は何をもたらしたか？</p><p>&nbsp;</p><p>当時のヨーロッパで急速に発展した（そして現在も発展を続けている）自然科学によって、宗教的自然観はその誤謬を暴かれた。</p><p>宗教は権威を失い、「客観的な」（とされる）科学が勝利した。</p><p>しかし、それでは、科学は宗教の反対物なのだろうか。</p><p>そうではない、とニーチェは言う。</p><p>まず、科学はそれ自体で独立し得るものではない。</p><p>科学の根底には、真理の価値自体に対する信仰があり、それゆえ科学は形而上学的信仰の上に建てられている。</p><p>前提なき科学、純粋に「客観的な」科学など存在しない。</p><p>そして、真実の「過重視」（１９６ページ）という点では、つまり、真実を、神を問題とすることが、「全然許されてなかった」（１９５ページ）という点において、科学は宗教と同じ土台に立っている。</p><p>真実の過重視は、哲学が長い間無自覚に依拠していたことでもある。</p><p>その上で、科学は禁欲主義を決して弱めはしないとニーチェは指摘する。</p><p>科学的真実によると、どうやら人間は神の子ではないらしい、ということになる。</p><p>科学によって、人間は世界の中心から、神の寵愛を受けるかけがえのない地位から振り落とされ、人間は単なる動物へとなりさがってしまった。</p><p>しかし、「人間は自己の生存の謎について彼岸的な解釈を必要とすることがより少なくなったとでもいうのであるか」（１９８ページ）。</p><p>いや、実際、科学が禁欲主義的理想を打ち砕いたことで、むしろその理想を、苦しみや存在の無意義に対する何らかの意味づけを、麻酔を、酔狂を、夢を、幻想を、彼岸を、より一層求めるようになったのではないか。</p><p>なぜなら、「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである」（２０８ページ）から・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>・・・・・・</p><p>&nbsp;</p><p>要約は以上だよ～。</p><p>次回は思ったことを書くよ～。</p>
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<link>https://ameblo.jp/philonote/entry-12238529268.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Jan 2017 01:06:31 +0900</pubDate>
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<title>『道徳の系譜』～ニーチェ思想の入門書～その②</title>
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<![CDATA[ <p>続きだよ～。</p><p>&nbsp;</p><p>・・・・・・</p><p>&nbsp;</p><p>２．「良心の疾しさ」の起源</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、単に「よい」「わるい」を「善」と「悪」にすげ替えるだけであれば、キリスト教はなぜ人々の心にまで原罪の観念を植え付けたのだろうか。</p><p>もう少し深い詮索が必要なようだ。</p><p>&nbsp;</p><p>(a)人間の最も根本的な欲求は、苦しめること</p><p>&nbsp;</p><p>ニーチェは、世界を突き動かす根本的な衝動を、力への意志（あるいは、権力への意志）だと見ている。</p><p>より高貴な存在へ、より強力な存在へ、より健康な存在へ、より美しい存在へと向かう意志、これが世界の根源だと見ている。</p><p>そして、高貴な存在は、自分より劣った貧弱で下賤な存在を、苦しめることに快感を見出すというのだ。</p><p>刑罰の起源も、この苦しめることに端を発する。</p><p>目は見ることを目的とし、手は掴むことを目的とする。</p><p>それと同じように、刑罰にも目的（例えば、犯罪の抑止、罪人の更生、など）があると考えるのは誤りだ。</p><p>前史時代、刑罰とはただひたすら強者が弱者を苦しめる以上の、何物でもなかった。</p><p>最古の国家における法律、それは、強者の、最上の権力の眼から見て、何が許され何が禁じられるべきかについての「命令的な宣言」（８７ページ）にすぎなかった。</p><p>そして、その暴力的な法律により裁かれ罰を受ける弱者は、「良心の疾しさ」を感じることもなく、刑罰を甘受した。</p><p>前史時代、「良心の疾しさ」などというものは存在しなかった。</p><p>刑罰を受ける者の心にあるのは「思いがけなくまずいことになった」という感じだけであり、「自分はあんなことをすべきでなかった」という感じなどは生じない（９７ページ）。</p><p>刑罰は「人間を手なずけはしても、人間を「より善く」はしない」（９７ページ）。</p><p>では、「良心の疾しさ」は、一体どこから生まれたのだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>(b)「良心の疾しさ」を生んだのは、内向きの攻撃性</p><p>&nbsp;</p><p>ここで、一つの矛盾が生じる。</p><p>人間は力への意志によって常に導かれている。</p><p>前史時代、そして、最古の国家において、強者は力への意志を存分に発揮した。</p><p>しかし、強者の暴政の前になすすべもなかった弱者は、力への意志をどこに向けたのか。</p><p>自分自身へと向けたのだ、というのがニーチェの答えだ。</p><p>強者に抗うことができない弱者は、出口を求めてさまよう自らの攻撃性を、自分自身へと、内側へと転じることによって、それを解消したというのだ。</p><p>つまり、「良心の疾しさ」は、自由の本能、力への意志から生まれた、能動的な、毒を持った果実だった。</p><p>自分自身を責め、苛み、痛めつけ、苦しめることで得られる能動的な愉悦、それこそが「良心の疾しさ」の正体だ。</p><p>すなわち、「この悦びは残忍の一種なのだ」（１０３～１０４ページ）。</p><p>「良心の疾しさ」はついに宗教的な意味を帯び始める。</p><p>自らを苛むことに快感を見出した人間は、神を生みだし、創造物である神の前で自らの絶対的無価値に嘆く。</p><p>そうした神は、偶像以外の何物でもなかった。</p><p>「人間獣が行為の野獣たることを少しでも妨げられるとき、奴は何を思いつくことか！どんな途轍もないことが、どんな乱心の発作が、どんな観念の野獣性が直ちに勃起することか！」（１１０ページ）。</p><p>こうして、自らの攻撃性の捌け口を自分自身に求めた人間は、その内攻した攻撃性によって、ついに自らに苦しむ者と成り果てた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>・・・・・・</p><p>&nbsp;</p><p>まだ続くよ～。</p>
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<link>https://ameblo.jp/philonote/entry-12238519299.html</link>
<pubDate>Tue, 17 Jan 2017 13:43:26 +0900</pubDate>
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<title>『道徳の系譜』～ニーチェ思想の入門書～その①</title>
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<![CDATA[ <p>今回読んだのは、ニーチェの『道徳の系譜』。</p><p>道徳に関する根本的な価値の転倒を狙った三本の論文集だ。</p><p>箴言、もしくは、アフォリズムによって自らの哲学を語ることの多かったニーチェが、珍しく論文という形式でその思想を示した。</p><p>箴言には解釈が必要だが、本書に含まれる論文にはその解釈に必要な基礎的な考え方が明確な形で書かれている。</p><p>しばしば誤解されることの多かったニーチェは、自らの哲学に対する弁護という使命も本書に託した。</p><p>そのため、これはニーチェの思想への入門書、もしくは手引きとも言える。</p><p>以下、各論だ。</p><p>（※なお、一部ユダヤ人に関する部分で差別的と受け取られる向きのある表現が含まれるが、ニーチェの本に関するブログ筆者の読書記録という性格上筆者の見解を表すものではないため、特に割愛はしないことを断わっておく。）</p><p>&nbsp;</p><p>１．「よい」と「わるい」について</p><p>&nbsp;</p><p>(a)「よい」と「わるい」の起源はどこか</p><p>&nbsp;</p><p>道徳的に「よい」ことと「わるい」こととされている事柄は、いつから「よく」なり、いつから「わるく」なったのか。</p><p>つまり、「よい」と「わるい」という道徳的価値の起源はどこにあるのか。</p><p>ニーチェによると、この問いに対してイギリスの心理学者たちの与えた説明は、まったくもって、的を外している。</p><p>すなわち、イギリスの心理学者たちは、「非利己的な行為は、その行為を示され、その行為によって利益を受け取った人が、その行為のことを『よい』と呼んだのだ」という。</p><p>だが、ニーチェは、全く逆の発想をする。</p><p>「よい」事柄は、行為を受けた側が決めるものではなく、行為者が「よい」と決めたことが「よい」事柄となったのだ。</p><p>では、その行為者とは何者だったのか。</p><p>そして、その行為とはどんなものなのか。</p><p>&nbsp;</p><p>(b)高貴な者、強い者が「よい」。下賤な者、弱い者は「わるい」。</p><p>&nbsp;</p><p>「よい」行為と「わるい」行為を決めた者は誰か。</p><p>それは、力のある人間だった、というのがニーチェの主張だ。</p><p>ニーチェによると、高貴な人、強力な人、より高位にある人が、自分自身と自らの行いを「よい」と定め、反対に劣った人、下賤な人、弱い人を「わるい」と呼んで蔑視したのが、「よい」と「わるい」という道徳的価値の起源だという。</p><p>その論拠となっているのが、ニーチェ流の言語学だ。</p><p>例えば、ドイツ語のschlecht（わるい）は、schlicht（素朴な）と同義である、とニーチェは言う。</p><p>高貴な、力のある人間に比べて、より劣った素朴な人間のことを、「わるい」と呼んだのがschlechtの原義だという。</p><p>また、ラテン語のbonus（よい）は、dounus（二つの）から派生したと考えてよいという。</p><p>bellum（戦い）、duellum（同じく、戦い）、duen-lum（二つのものの争い）の中にdounusという言葉が含まれているとすれば、bonusはそのまま「戦士」という意味だと受け取っていい、とニーチェは語る。</p><p>この言語学的解釈に妥当性があるのかどうかは、正直不明だ。</p><p>『悲劇の誕生』の読書記録にも書いたように、ニーチェは時々とんでもないほど強引な論理によって持論を進める。</p><p>このニーチェ流言語学に学問としての正確性があるのか、むしろ結論ありきの無理やりの論法ではないか、と問うことには一定の意味がある。</p><p>とはいえ、ニーチェは、「よい」と「わるい」という道徳的価値の起源を、高貴な力強い人々に求めた。</p><p>前史においては、強い人間が「よい」と決めれば、それは「よい」行いになったのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>(c)キリスト教の勝利と、「よい」「わるい」の道徳的価値の転倒</p><p>&nbsp;</p><p>翻って、現代では「よい」「わるい」の道徳的価値は、全く転倒してしまっている、とニーチェは考えた。</p><p>その根底にあるのは弱者の抱いた「反感（resentment）」、そしてキリスト教のヨーロッパにおける勝利だ。</p><p>強い人間が支配する世界において、弱い人間はどのように生きればいいか。</p><p>下賤な者にとって、高貴な者に戦いを挑み勝利することは不可能だ。</p><p>そこで、弱者は精神的な戦いで勝利することを思いついた。</p><p>すなわち、この弱者（ニーチェが僧職的人間と呼んだ人々、それはユダヤ人を指す）はキリスト教を発明することによって、強者に対して精神的な戦いを挑んだのだ。</p><p>「惨めなる者のみが善き者である。貧しき者、力なき者、卑しき者のみが善き者である。[…]彼らのためにのみ至福はある。―これに反して汝らは、汝ら高貴にして強大なる者よ、汝らは永劫に悪しき者、残忍なる者、隠逸なる者、飽くことを知らざる者、神を無みする者である。」（３２ページ）という論理で身を守ることによって、現実の世界では勝てない相手に対して、空想の世界で精神的な復讐を果した。</p><p>こうして、前史時代では「よい」とされていた強者が「悪い」者となり、「わるい」とされていた弱者が「善い」者となることで、道徳的価値がひっくり返った。</p><p>言いかえれば、「よい」「わるい」という道徳的価値が、「善」と「悪」というもう一つ別の道徳的価値によって置き換えられたと言える。</p><p>これを成し遂げたのは弱者であるユダヤ人の抱いた「反感」と、その反感が創り上げたキリスト教という名の巨大な妄想だった。</p><p>こうして、人間は強さを失い、同時に強い人間に対する憧れと畏敬の念が失われてしまった。</p><p>「人間を見ることは今ではもう倦怠を感じさせる―これがニヒリスムでないとすれば、今日ニヒリスムとは何であるか・・・・・・　われわれは人間に倦み果てているのだ・・・・・・」（４６ページ）。</p><p>どこか病的な弱々しさ、不健康な、青白い顔をしたうらなりの道徳、そしてニヒリスムが現代を覆っている。</p><p>ニーチェの描いた画は、人間が強さと輝きを失い荒廃したヨーロッパの世界だった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>・・・・・・</p><p>&nbsp;</p><p>次回に、続きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/philonote/entry-12238519094.html</link>
<pubDate>Mon, 16 Jan 2017 04:03:37 +0900</pubDate>
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<title>『悲劇の誕生』～詩人の翼は象牙の塔を超えて行く～その③</title>
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<![CDATA[ <p align="left">前回の続きだよー。</p><p align="left">これで終わりにします。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">・・・・・・</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">６．『悲劇の誕生』の評価</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">非常におもしろく、詩的な書物だと思う。</p><p align="left">２点、気になった個所を挙げると以下のようになる。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">(a). 雑だろｗｗ</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">なんか、論理が強引。まぁ、それ自体が論理主義、ソクラテス主義へのアンチテーゼになっているけど、たとえば、ソクラテスが「知者のみが有徳」とか「美であるためには論理的でなければならない」と言った、とニーチェは言うわけだけど、まず、個人的にソクラテスがそこまでポジティブなこと（ポジティブというのは肯定文という意味でのポジティブなこと）を言った記憶がない。というか、そんな印象がない。プラトンの対話篇はぼくは何冊か読んでいる。ソクラテスはその中で主人公のようにして出てくるわけだけど、基本的には「私は何も知らない。あなたは何かを知っているようだが、それは「思わく」にすぎず、結局あなたも私と同じように何も知らない。私があなたより優れている点は、あなたはあなたが何も知らないことを知らないが、私は私が何も知らないことを知っている。マル。」というスタンスだ。つまり、ネガティブ（何も肯定的なことを言わないという意味でネガティブ）なのだ。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">もちろん、プラトンの対話篇に出てくるソクラテスがプラトンの創作であることは疑いないし、中期作品ぐらいになると、プラトンの言い分もかなり入ってくる（例えば『国家』１０巻の神話の挿入など。もちろん、これはこれでプラトンの「高貴な嘘」かどうかという議論はある）けど、初期の、あまりプラトンの創作が入ってないやつ、例えば『ソクラテスの弁明』とかには、「死刑になるの怖くないの？死ぬんだよ？マジで怖くないの？」みたいなこと聞かれて、「だって、死んで生き返ったヒトいないから死んだ後どうなるのか知らないじゃん。もしかしたらさらなる幸福が待ってるかもしれないし。なんで君は死が恐ろしいものだとわかるの？そんなこと、君ほんとに『知って』いるの？」みたいなことを言う人だ。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">真のソクラテスがどういう人物だったかは、主にはプラトンと、あとアリストファネスの『雲』という劇にもちろっと出てくるけど、ソクラテス自身は何も書かなかった人なので、そうした他人の書いたものの中に出てくるソクラテスを通じて想像するしかできない。けれども、あまりポジティブなことを言う人ではなかったという「印象」をぼくは受けている。まして、「論理が、科学が、この世の謎を全て解明できる」という「科学主義」の源流みたいに言うのはちょっと疑問符が残る。何故なら、ソクラテス自身が、最初は自然科学を求めたが、これでは世界のことはちっともわからんと言ってその道はやめた、みたいなことを田中美知太郎の『ソクラテス』という岩波新書で読んだ気がするからだ（この読んだ気がするというてきとーさｗでも確かにどっかで読んだ記憶がある）。いずれにせよ、すっげー強引なやつだなニーチェｗって思った。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">ただ、この強引さはぼくの印象だけではなく、実際にそうでもあるらしい。例えば、ソクラテス主義を推し進めたとニーチェが主張しているエウリピデス。実際、文献学的には、ソクラテスとエウリピデスを関連付けて考えることは、「きわめて問題である」（秋山英夫、『悲劇の誕生』解説、２６３ページ）らしい。また、ボン大学教授ヘルマン・ウーゼナーによると、「こういうものを書いた者は、学問的には死んだも同然である」（同、２５８ページ）と公言していたという。他にも、「なんで？」「理由がわからんｗ」と思うところが多々あった。例えば、そもそも合唱団が「ディオニュソス的」で、舞台が「アポロ的」っていうところも、そう考えていい理由が全くわからなかった。これはニーチェの独創ではないのかと。もちろん、ぼくがギリシア悲劇について詳しいわけでもないし、背景となる専門知識を持たないから理解できないだけなのかもしれないが、とにかくロジカルギャップが目立った。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">(b). 発想の素晴らしさ</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">とはいえ、発想がやはりダントツに素晴らしい。特に、「ディオニュソス的」と「アポロ的」という術語を考え付いたのが秀逸。上には論理がよくわからんと書いたが、論理をすっ飛ばして考えると、なんておもしろい悲劇の記号的解釈なんだろう！合唱団が「ディオニュソス的」世界を作り、そして舞台が「アポロ的」幻想でそれを救済するなんて解釈、かっこよすぎる！なんて中二病なんだ！素晴らしい！ブラボー！</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">そして、ソクラテスを科学主義の元凶と見ること。これも、ソクラテス像や、あとプラトンの対話篇とかの正統な解釈とは全然言えないと思うけど、でも確かに科学主義というものは近代ヨーロッパにはあったと思うし、そしてそれが今でも世界中に拡散していると思う。一部で科学主義を修正する動きはあるけど、大方の人は科学がいずれはこの世の謎を全て解明すると思っているんじゃない？科学主義は、いわば近代の病なのかもしれない。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">確かにいろいろなものをうまく説明しているようには見えるけれども。そして、その科学の恩恵を受けてぼくは日々生きているし、そのおかげでブログも書けるし、ついでに言えば出版印刷技術のおかげで『悲劇の誕生』を読めるわけだけれども。でも、もっと大きな歴史の流れで考えると、確かに「科学」について一歩どころか百歩も千歩も引いて考える必要が、近代という世界にはあるのではないか。ソクラテスがその源流と言えるのかどうかは厳密には謎だけど、巨視的には合っているように思うし、『悲劇の誕生』はとても素晴らしい問題提起をしているのではないだろうか。学術的には正統と言えないかもしれないが、詩人ニーチェはディオニュソスとアポロから翼を賜り、象牙の塔を超えて羽ばたいて行ったのだ・・・。笑</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">・・・・・・</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">以上、全３回に及んだニーチェの『悲劇の誕生』の読書記録でした。</p><p align="left">個人的なメモの意味もあるけど、何か役に立てばいいなー。</p><p align="left">『悲劇の誕生』読みたいと思ってくれたり、そうなったらいいなー。</p><p align="left">ありがとうございました。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">今回使った本は、『悲劇の誕生』（ニーチェ著、秋山英夫訳、1966年、岩波文庫）でした。</p>
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<link>https://ameblo.jp/philonote/entry-12234450595.html</link>
<pubDate>Tue, 03 Jan 2017 04:41:20 +0900</pubDate>
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<title>『悲劇の誕生』～詩人の翼は象牙の塔を超えて行く～その②</title>
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<![CDATA[ <p align="left">前回の続きだよー。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">・・・・・・</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">３．アッティカ悲劇における「ディオニュソス的」なるものと「アポロ的なるもの」</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">ニーチェは古代ギリシアのアッティカ悲劇（アッティカというのは大体アテネのあたりを指すらしい）を、人類史上最高の芸術と考えた。「ディオニュソス的」と「アポロ的」というキーワードを念頭に置きつつ、アッティカ悲劇がどのようなものだったか見てみよう。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">(a). まず大まかに、古代ギリシアの劇について</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">ざっくり言って、古代ギリシアにおいて、劇場は「ろうと」のような形をしていた。俳優が演じる舞台を中心として、観客がほぼ半円形に、舞台を取り囲む。中心に近づくにつれ低くなるので、観客が舞台をぐるりと囲んで覗き込むような格好となる。その観客と舞台の間に、合唱団というのがいて、歌ったり踊ったりする。古代ギリシアの戯曲を読むと、合唱団の歌った詩もけっこうな分量書いてある。伴奏とか音楽効果、などというレベルのものではなく、確実に演劇の構成上何らかの役割を与えられている。では、その役割は何か？という問いに対するニーチェの解が、めっちゃ独創的。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">(b). アッティカ悲劇は合唱団から生まれた</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">シラーとかも引用しつつ、ニーチェは合唱団の役割についてこう語る。まず、合唱団は、舞台で演じられている事象が、ぼくたちが日常生活で接する世界とは違う、文学的世界だということを示す、一種の記号的役割を担っているという。つまり、役者たちが今から見せるのは、仕事とかパンツ見たいとか筋肉見たいとかいう、日々の雑念とは完全に切り離された空間である、ということを観客に知らしめる役割を合唱団が負っているというのだ。こうして、ギリシアの神々が舞う舞台に没入する準備が、観客の側に整う。まぁ、平凡な言い方すれば、日々の雑念や煩悩から舞台を守る防波堤として機能している、というところか。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">そして、重要な点は、単に観客を日常世界から切り離すだけではなく、合唱団はさらに観客と一体になり、ディオニュソス的世界へと、神話的な、根本原理の世界へと、観客をいざなう、、、と、ニーチェは言っている。もはや、「あなた」や「私」のような観客は存在せず、観客は合唱団と一体になり、世界とも一体になって、そして、世界の真理を直観する。そして、苦しむ！生の現実を直観することで、ディオニュソスの酒に陶酔しながら苦しむ！じゃ、その救いをどこに求めればいいのか？その答えを、アッティカ悲劇は用意している。それは、舞台の上に、あるというのだ。「アポロ的」夢の世界が。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">(c). 舞台上のアポロ的夢幻に救われる</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">合唱団によって世界の根本原理を直視させられた観客は、しかし舞台の上に目を向けることで、現実（ここで現実というのは、日々の仕事とかパンツとか筋肉ではない。荒っぽい表現をすれば、それらはただの現象にすぎない。ここでの「現実」は、すべてそうした現象の根本となっている、世界そのものを指す）から救われる。なぜなら、舞台の上には、「アポロ的」な力によって個体化され、しかも「アポロ的」夢の力で理想化された神々がいるからだ。「ディオニュソス的」現実と一体となった観客は、舞台の上へと眼差しを向けることで、世界との一体化を解かれて再び個体化され、夢のヴェールで理想化された神々に自己を投影できるようになる。そして、この個体化・理想化を経た神々の姿というヴェールを通して、「ディオニュソス的」根本原理に相対することとなる。それは、悲劇という舞台装置を通して、仮象の現実を見ることを意味する。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">すなわち、「ディオニュソス的」な役割を果たす合唱団と、「アポロ的」な役割を果たす舞台。この二つの様式の対立が最高の形で実現しているのがアッティカ悲劇だ、というのがニーチェの大まかな主張だ。しかし、アッティカ悲劇自体は、短命に終わった。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">４．悲劇の死</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">悲劇の死は、哲学の祖、ソクラテス（とその弟子のプラトンなど）によってもたらされたとニーチェは恨みを込めて言う。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">(a). 論理を執拗に追求したソクラテス</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">ソクラテスは、アテナイの街でいろんな人たちと議論を交わした。その結果分かったのは、当時「知識人」と呼ばれていたヒトたちが、実は何も分かっていないということだ。例えば、正義とは何かとソクラテスが聞いたとする。対話の相手は、「正義とはA」だと答える。すると、ソクラテスは、では「Aとは何か」と質問するので、相手は「AとはBだ」のように答える。そして、「ではなぜBか」「Cだからだ」「Cなのは何故だ」「Dだからだ」と問答は続くが、ここでAとDが矛盾をきたしたりする（まぁ例えば「正義とは法を守ることだ」という主張から出発して、「法の中には悪法もある」ときて、「法律は必ずしも正義ではない」となり、最初の主張と齟齬をきたす、というように）。で、相手は恥ずかしい思いをしたり怒り出したりするのだが（プラトンの中期の対話編などを参照。特に、『ゴルギアス』がおすすめ）、ここでのポイントは、プラトンがあくまでも論理的な思考を基に、相手を反駁していることだ。ニーチェによると、ソクラテスは「知者だけが有徳である」（１２０ページ）、「美であるためには、すべてが意識的でなければならない」（１２３ページ）と考えていたという。あらゆることを論理に帰結させたソクラテスは、弟子のプラトンの力も相まってギリシアを論理万能主義とでもいえるものに陥れた。それは、論理の力が、人間を幸福にするという楽天主義とも捉えられ、ひいては現代の科学主義にも連なるものだとニーチェは言う。結局は、ソクラテス主義とも言える論理の偏重が、悲劇の崩壊を招いたという。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">(b). エウリピデスのソクラテス主義と悲劇の死</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">アッティカ悲劇を殺害したソクラテス主義。それが象徴的に現れているのが、エウリピデスの劇だという。エウリピデスの作る劇には、必ず序詞（プロロゴス）が付されており、その序詞の中で、主人公は自分が何者であるか、これからどういうことが起こり、劇はどういう結末を迎えるのか、ということを一通り語ってしまう。その根底にあるのは、まさに、「美であるためには、すべては意識的でなければならない」（１２０ページ）という、ソクラテス主義だ。つまり、劇の筋などに観客が頭を悩ませるようでは、俳優の「語り」、つまり劇の詩を、観客が「意識的に」理解できないと考えた。同時に、直観でしか捉えられない混沌とした「ディオニュソス的」世界を、劇の世界から遠ざけようとしたのもうなずける。こうして、エウリピデスに象徴されるように、ソクラテス主義、ないしは「科学主義」が、劇の世界からディオニュソスを締め出し、アッティカ悲劇の息の根を止めた。残ったのは、矮小な論理主義であり、アッティカ悲劇はその論理主義の前に潰えた、とニーチェは言う。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">５．悲劇の再生？</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">こうしてソクラテスの科学主義に息の根を止められたアッティカ悲劇だが、現代ドイツ（当時の、ね）で息を吹き返している、とニーチェは言った（なお、この見解にはニーチェ自身後で後悔したらしく、1886年に『悲劇の誕生』に添えられた「自己批判の試み」には、「私の心にうかんだあの壮大なギリシアの問題に最近の事がらを混ぜて、これを台なしにした」（２０ページ）と、反省文が書かれている）。それは、バッハ、ベートーベン、ワーグナーと続くドイツ音楽の精神に現れているという。では、何故そのようなことが現代（当時の、ね）に起きたか。その理由について、ニーチェは、科学主義に照らして、このように述べる。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">それというのは、科学というのは必ず壁にぶち当たるからだ。まぁ、科学主義、そしてその源流である論理的ソクラテス主義は、この世の科学的謎を、全て論理で、計算式で、説明してやろうとするし、それができると考える(positivismとも言えるだろうか）。でも、そういう「科学的人間」は、すべてを論理で説明することなんで、実はできないんじゃないかと、ひそかに感じ始める。その、ソクラテス主義に対する疑念、楽天主義に対する疑念を抱いた時、その「科学的人間」は見る。深淵から覗いた、「ディオニュソス的」世界を。全てが謎に隠されたまま、謎を謎として飲み込む、混沌に包まれた世界の根本原理を。しかも、その根本原理は、科学では到底説明不可能なしろものなのだ。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">かくして、科学主義は打ち破られ、「科学的人間」は「ディオニュソス的」世界の中で、恐怖に襲われる。この、科学が限界点に辿り着いたと人々が感じ始めた時代、それが現代（当時の、ね）なのだと、ニーチェは感じ取った。そして、その「ディオニュソス的」科学的恐怖の時代の救いとなるのが、「アポロ的」幻想であり、ディオニュソスとアポロの二柱の神の対立をワーグナーが、そして現代ドイツ音楽が、見事に表現する道を見つけつつある、とニーチェは思ったわけ。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">ギリシアにおいて、芸術は悲劇から科学へという形で終焉を迎えた。現代ドイツにおいては、科学から悲劇へという流れで、すなわち、まさに「逆の過程で」（１８１ページ）、悲劇が再生しつつある、と。我がドイツこそが、現代の悲劇誕生の旗印になるという勇敢なニーチェの掛け声も、しかし結局は失敗に終わった（というのがニーチェの見解）、、、やはり、「自己批判の試み」にあるように、若気の至りだったということだろうか。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">・・・・・・</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">今回は、ここまでー。</p><p align="left">次回、『悲劇の誕生』の評価について書こうと思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/philonote/entry-12234450345.html</link>
<pubDate>Tue, 03 Jan 2017 04:35:07 +0900</pubDate>
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<title>『悲劇の誕生』～詩人の翼は象牙の塔を超えて行く～その①</title>
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<![CDATA[ <p>今回読んだ本はニーチェの『悲劇の誕生』(1872)。岩波文庫の、秋山英夫訳。</p><p>概要とか各論は、下を読んでください。</p><p>&nbsp;</p><p>１．概要</p><p>&nbsp;</p><p>ニーチェの処女作として知られる『悲劇の誕生』。テーマは芸術だ。鍵となるのは、「アポロ的」「ディオニュソス的」という二つの概念。</p><p>&nbsp;</p><p>暗く重たい世の真実を暴く「ディオニュソス的」な視点と、そして、その暗い真実を美しいヴェールで覆い隠す「アポロ的」な視点が、真の芸術には欠かせない。この二つの観点を見事に統合したのが、古代ギリシアの悲劇だった、というわけ。そして、その悲劇が失われた理由と、現代ドイツ（といっても、当時の）において、ディオニュソスとアポロが奇跡の再会を遂げつつある・・・ということを、だいたい主張している。まぁ、概要はそんなところ。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>２．「ディオニュソス的」と「アポロ的」とは</p><p>&nbsp;</p><p>(a). っていうか、ディオニュソスとアポロって誰？</p><p>&nbsp;</p><p>ディオニュソスとアポロは、ギリシア神話に登場する神々。ディオニュソスは酒神。詳しくははしょるが、生まれるまでゼウスの太ももに縫い込まれていたとも。この酒神を讃えるディオニュソス祭（バッコス祭などとも）では、女たちが半狂乱で騒ぎまくったらしい（岩波文庫から『バッコイ』という本も出てて、なんとなく雰囲気わかると思う）。</p><p>&nbsp;</p><p>アポロは、ギリシア彫刻とかでもよく見る、たくましい身体を持つ弓の名手。ホメロスとか読むと、どうやらけっこう強い。戦争中、アポロが「味方しようっと」と腰を上げると、けっこう戦線を押し上げることができる。まぁ、戦争の行方もヒトの運命も、神の意思次第というのが古代ギリシアの世界観らしい。いずれにせよ、よく言われるように、強くて筋肉もりもりで美しくしなやかな身体を持つアポロには、当時の人が思い描いた人間の理想像が反映されている。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>(b). で、「ディオニュソス的」と「アポロ的」って何？</p><p>&nbsp;</p><p>上に書いたように、ディオニュソスは酒の神、対するアポロは美しき理想の神だ。</p><p>さて、この世の真理は、痛み・苦悩・死・・・まぁ、そんなところだと、ニーチェは見ている。ディオニュソスの教師とされる、賢者シレノスの語るところによると、「一番よいことは[...]、生まれなかったこと、存在しないこと、無であることだ。しかし、おまえにとって次善のことは―死ぬことだ」（４４ページ）。暗くて重い世界の真相。それを直観的に暴くのが、「ディオニュソス的」芸術だ。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、そんなものをまざまざと見せつけられては、ぼくたちは明日を生きようとは思えない。というか、次善の策が、死ぬことだなんて言われちゃ、今日を生きようとすら思えない。そこで登場するのが、「アポロ的」芸術だ。「ディオニュソス的」芸術が提示せんとする世界の痛々しい現実を、美のヴェールで覆い隠してくれるのだ。「アポロ的」芸術は現実を隠し、仮象の世界へと、我々をいざなう。</p><p>&nbsp;</p><p>「ディオニュソス的」芸術が暴露するのは、死が次善の策という世界の現実。その現実をひしひしと感じつつも、「アポロ的」幻惑の世界へ逃げ込むことで、ぼくたちは救われる。明日を生きようと思うことができる。まぁ、ありていに言えば、苦すぎる世界の現実を、オブラートに包んで直視できるようにしたというかんじ？（ただし、実際に見ているのは現実の仮象、つまりまぼろしだが。）</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>(c). ディオニュソスは統一的、アポロは個体化を促す</p><p>&nbsp;</p><p>ニーチェの世界観では、この世を支配する根本原理はたった一つ。「あなた」という個人も、「私」という個人も、この根本原理の前では、全く同じものだ。というより、一つの世界意思が、あなたという個人や、私という個人に現象したにすぎない、といった方がニーチェのニュアンスが伝わるだろうか。たぶん、ショーペンハウアーの影響（特に、『意思と表象としての世界』）をすごい受けてると思うんだけど、そういうことは専門家の人たちに任せることにする。とにかく、苦しい世界、生まれない方がよかったような世界の現実、それはそのまま、むき出しの真実でありニーチェが根本原理と捉えるものだが、それを直観的に見抜き、それと一体化するのが、「ディオニュソス的」なるものだ。あなたという個人（あるいは、個人と思われているもの）も、私という個人（あるいは、個人だと私が思っているなにか）も、その一つの根本原理を前に溶解し、吸収される。ここでは、個体化は何の意味も持たない。「あなた」と「私」は世界意思と同化し、個体という概念は消滅する。その意味で、「ディオニュソス的」原理は、非常に統一的な原理だ。</p><p>&nbsp;</p><p>反対に、アポロは、「ディオニュソス的」芸術によってぼくたちが（この時点で、「ぼくたち」「私」「あなた」という概念自体が消滅しているが）直観することが可能になったたった一つの世界意思、根本原理から、ぼくたちを再び引き離してくれる。根本原理と一つになったぼくたちを根本原理から引き離し、「あなた」と「私」に分け、ぼくたち一人一人が生きるに値する人間であることを確信させてくれる。「ディオニュソス的」芸術の前では個体は意味をなさないが（何故なら、あらゆるもの、あらゆる現象が根本原理に吸い込まれ、それと同一化しているから）、「アポロ的」芸術が、世界の原理を美のヴェールで覆い隠してくれることで、ぼくたちは真実から引き剥がされ、また「あなた」と「私」になることができる。そういう意味で、アポロは個体化を促し、そして生きることを勧めてくれる。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>(d). まぁなんにせよ、芸術は大事</p><p>&nbsp;</p><p>まぁなんにせよ、ニーチェによると、芸術は大事らしい。ニーチェは言う。「ひとたび見抜いた真実の意識のうちに、今や人間はあらゆる所に存在の恐怖あるいは不条理しか見ない。[...]この時、意志のこの最大の危機にのぞんで、これを救い、治癒する魔法使いとして近づくのが芸術である。芸術だけが、生存の恐怖あるいは不条理についてのあの嘔吐の思いを、生きることを可能ならしめる表象に変えることができるのである。」（７８ページ、７９ページ）</p><p>&nbsp;</p><p>・・・・・・</p><p>疲れたので、続きは今度書きます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/philonote/entry-12234436698.html</link>
<pubDate>Tue, 03 Jan 2017 01:28:17 +0900</pubDate>
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