<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>pirukuruのブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/pirukurun/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/pirukurun/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>浜名湖と脱原発と関東大震災朝鮮人虐殺問題</title>
<description>
<![CDATA[ <p>「ウナギ」と「スッポン」が名産で知られる静岡県にある浜名湖は、</p><p>日本で10番目に大きな湖です。</p><p>&nbsp;</p><p>その湖の形から、</p><p>富士山を作った巨人「ダイダラボッチ」がコケて出来た手形とも言われる湖です。</p><p>&nbsp;</p><p>浜名湖には「弁天島」と呼ばれる場所と「今切口」と呼ばれるものがあります。</p><p>&nbsp;</p><p>実はこれ1498年に起きた「明応の大地震」とソレに伴う津波の際より、</p><p>浜名湖と海を隔てていた地盤の弱い部分が決壊したために出来たものです。</p><p>&nbsp;</p><p>弁天島は今は「島」ですが、</p><p>実は明応の大地震で持ちこたえた地盤であり、</p><p>地震があった今切れた場所だから「今切」といい、</p><p>この津波と地震により焼失した村が引っ越したために、</p><p>弁天島北岸に位置する庄内半島には、</p><p>村櫛という新しい街ができました</p><p>&nbsp;</p><p>海とつながっている部分が今切口で、</p><p>7つの人工島のような住宅居住地が弁天島です</p><p>&nbsp;</p><p>「明応の大地震」に持ちこたえた強固な地盤かもしれませんが、</p><p>津波の危険性が高くても、再び居住する人が多かったのは、</p><p>望郷の念が強かったかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>現存している陸地部分が「弁天島」という名前になり、</p><p>その他の陸地が地震によって消失し、海の沈んだという事から、</p><p>当時の地震と津波がいかに巨大なものだったかがわかります。</p><p>&nbsp;</p><p>さて本題ですが、</p><p>在日朝鮮人にとって地震といえば「関東大震災」という忌まわしい歴史があります。</p><p>&nbsp;</p><p>大正12年9月1日に相模沖を震源とするM7.9の大地震で、</p><p>190万人が被災、10万5000人余りが死亡し、</p><p>建物の被害は全壊が10万9000棟、全焼が21万2000棟を記録した大震災であるとともに、</p><p>未曾有の大震災によりパニックに陥った日本人によって、</p><p>在日朝鮮人6415人の罪なき命が私刑により虐殺されたとされています。</p><p>&nbsp;</p><p>なぜ在日朝鮮人は虐殺されたのでしょうか</p><p>&nbsp;</p><p>韓国学会や日本左派の主張によると、</p><p>&nbsp;</p><p>当時の朝鮮半島は日本の植民地で人類史上類を見ない搾取と差別を繰り返しており、</p><p>震災を千載一遇のチャンスとばかり日本人を襲うという</p><p>デマを信じたから起きた悲劇としています</p><p>&nbsp;</p><p>つまり、当時の日本人の多くは朝鮮人に恨まれているという自覚を持っていたからこそ、</p><p>震災という世情不安からパニックになり、朝鮮人を虐殺したということです。</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん、デマによって6415人もの在日朝鮮人が虐殺されたのはデマですが、</p><p>井戸に毒を投げ込んだといったデマによって、</p><p>事実無根の罪で虐殺された在日朝鮮人がいることは事実です</p><p>&nbsp;</p><p>この辺りは複雑なので詳しく書いていきます。</p><p>&nbsp;</p><p>そもそも大日本帝国の統一見解として、</p><p>一般朝鮮人は概して純良であると認められるが、</p><p>一部の不逞鮮人の輩が幾多の犯罪を敢行し、</p><p>その事実を宣伝せらるるに至った結果、</p><p>震災によって人心不安の折から興奮の極、</p><p>往々にして無実の鮮人または内地人を不逞鮮人と誤って</p><p>自営の意味を以って危害を加えた事犯が生じた</p><p>&nbsp;</p><p>日本の教科書の記述はわかりませんが、</p><p>つまり、一部の在日朝鮮人が震災の混乱に乗じて「暴動」や「犯罪行為」を繰り返したために、</p><p>日本人が自衛のために自警団を結成したが、</p><p>震災というパニック状態から、</p><p>無関係の在日朝鮮人や日本人に私刑(リンチ)を加え死傷させたというのが、</p><p>関東大震災における朝鮮人虐殺の正体です。</p><p>&nbsp;</p><p>まず、6415人が虐殺されたとするデマの根拠ですが</p><p>当時、日本に滞在していた在日朝鮮人の合計が約8万人で、</p><p>このうち東京に滞在していた在日朝鮮人は約9000人</p><p>近隣各県に約3000人となり、</p><p>首都圏で約1万2000人が住んでいたことになります。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、被災直後に東京市内だけで約6800人</p><p>神奈川県各所では約1000人が住居を失い、あるいは日本人の死刑から逃れるために</p><p>保護された記録が存在します。</p><p>&nbsp;</p><p>さらにここから、洪水による溺死や瓦礫から発見され、圧死した</p><p>在日朝鮮人が1960人という記録もあります。</p><p>&nbsp;</p><p>さらに震災時に警察によって逮捕された不逞鮮人が約160人います。</p><p>&nbsp;</p><p>ここから計算すると、首都圏に在住する在日朝鮮人が仮にすべて虐殺されても</p><p>最大人数が2100人なので、どう計算しても6415人にはなりません。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、当時は日本に密航した朝鮮人も多かったため、</p><p>実数以上の在日朝鮮人が首都圏にいた可能性はもちろんあります。</p><p>ですので、これを根拠に6415人が虐殺された事を否定する根拠にはなりません。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし6415人という数字は、李承晩が創設した大韓民国臨時政府の機関紙である</p><p>「独立新聞」が挙げた数字で、どのように算出したのか根拠が明らかにされていません。</p><p>&nbsp;</p><p>また大韓民国臨時政府が英字版で出版された小冊子「日本人での朝鮮人大虐殺」では、</p><p>首都圏に居住していた在日朝鮮人の総数を大きく上回る2万3059人が虐殺されたと</p><p>されています。</p><p>&nbsp;</p><p>あまり知られていませんが、</p><p>朝鮮総督府が発表したとされる</p><p>震災で虐殺された在日朝鮮人の総数は233人という数字を信用せず、</p><p>その後本国の内務省が、その死者の数を再調査した結果、</p><p>震災時に私刑によって亡くなった在日朝鮮人遺族に対して、</p><p>地方官が各朝鮮人遺族のもとに訪問し、弔慰金を830人に支払い謝罪しています</p><p>&nbsp;</p><p>これは、日本政府が虐殺を認めた確固たる証拠ですが</p><p>大韓民国臨時政府が主張する虐殺された人数と</p><p>日本政府（朝鮮総督府）の発表した人数の間に開きがあるのが</p><p>都合が悪かったのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>そもそも虐殺の定義を明確にしなければなりません。</p><p>&nbsp;</p><p>虐殺というのは「罪のない」在日朝鮮人が私刑にあって初めて成立する話であり、</p><p>「不逞な暴徒」を自衛のために自警団が殺害したとしても虐殺にはなりません</p><p>つまり、「不逞な暴徒」という事実無根の罪を被らされ殺害されたものだけが、</p><p>虐殺の被害者といえます。</p><p>&nbsp;</p><p>即ち、震災時に在日朝鮮人が暴動などの犯罪を起こしていないのであれば、</p><p>1000人前後の亡くなられた方全員が被害者になるということです</p><p>&nbsp;</p><p>では、当時の日本はどうだったのでしょうか</p><p>&nbsp;</p><p>当時は電話は一般家庭に普及しておらず、</p><p>ラジオ放送の実用化もされていませんでした</p><p>&nbsp;</p><p>通信手段はもっぱら電報で報道手段は新聞が主たるものでしたが、</p><p>首都圏にあった新聞社は地震によって印刷機能を失い、</p><p>東京日日新聞、報知新聞、都新聞を除く13社は火災によって焼失し、</p><p>最も早く復旧した東京日日新聞でさえ9月5日付の夕刊でした</p><p>&nbsp;</p><p>ですので、首都圏以外の新聞社は、</p><p>伝聞や記者による現地取材に頼らざるを得ません</p><p>&nbsp;</p><p>その結果、新聞の一面には</p><p>「津波が赤城山麓まで達する」「政府首脳の全滅」「伊豆諸島の大噴火が原因」「三浦半島が陥没した」などの未確認情報が躍りました</p><p>&nbsp;</p><p>さらに、こうした記事の中には、</p><p>朝日新聞の9月3日の号外の様に、朝鮮人が「暴徒化」したという内容も含まれていました</p><p>&nbsp;</p><p>この記事はデマだったのでしょうか</p><p>あるいは、実際に在日朝鮮人は暴徒化していたのでしょうか</p><p>&nbsp;</p><p>少なくとも、朝日新聞が報じた記事の内容については、</p><p>大日本帝国第一師団が情報の真贋を確かめるべく調査したところ、</p><p>まったくの虚偽報道とすぐに判明したので、</p><p>翌日にはデマだという告知宣伝文を陸軍が各所に貼って回りました</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、大日本石鹸株式会社の当時専務だった細田勝次郎が、</p><p>河北新報に語った自身の目撃談や体験談として、</p><p>横浜における朝鮮人の暴動を証言し、</p><p>品川に在住した日本電子学生の西郷秀夫は、</p><p>横浜方面から武装した朝鮮人の一団が略奪や放火をするので、</p><p>日本人が対抗し多くの朝鮮人を殺したが、</p><p>中には、日本人も朝鮮人と間違えられたため、殺されたとする証言を北海タイムスにしています</p><p>&nbsp;</p><p>東京都部長判事長だった長岡熊雄の回顧録には、</p><p>横浜の暴動は凄まじく、強姦や殺人、強盗を繰り返していたとの証言もあります。</p><p>&nbsp;</p><p>朝日新聞のように匿名情報ではない実名報道も嘘だったのでしょうか</p><p>&nbsp;</p><p>先ほども書きましたが、震災に便乗し</p><p>犯罪を犯して捕まった在日朝鮮人が160人います</p><p>&nbsp;</p><p>司法省の記録を参考にすれば、その罪状は</p><p>流言飛語、放火、脅迫、強盗、強姦、傷害、公務執行妨害、放火殺人未遂、殺人、強姦殺人、</p><p>橋梁破壊、爆発物所持、窃盗、鉄砲所持、毒殺予備など合計27件156名で、</p><p>このうち4名は自警団によって負わされたケガが理由で逮捕された後に死亡しました</p><p>&nbsp;</p><p>この逮捕者の中には、</p><p>爆発物取締法違反や、鉄砲火薬取締法違反で逮捕されたものもいます</p><p>&nbsp;</p><p>姜徳相は「関東大震災と朝鮮人」という著書の中で、</p><p>被災地で爆弾や銃を持っていても暴動があった証拠ではないと述べていますが、</p><p>では逆に、被災地で爆弾を鉄砲をもってなぜウロウロしていたのでしょうか</p><p>&nbsp;</p><p>それを目撃した日本人が自警団を結成したとしても自衛の範疇といえます</p><p>また、毒殺予備で逮捕者もでている様に、</p><p>被災地で毒薬を持っていてウロついていた朝鮮人を目撃し、</p><p>「井戸に毒を入れている」というデマが発生したことは、日本人だけが原因なのでしょうか</p><p>&nbsp;</p><p>当時の東京のシンボルタワーだった凌雲閣が倒壊した状況です<br>今に直せば東京タワーやスカイツリーがポキって折れたのと変わりません<br>そんな状況で日本人が冷静であるワケもありません</p><p>&nbsp;</p><div>そもそも、</div><div>9月5日に戒厳司令部は以下の様な通達を出しています</div><div>&nbsp;</div><div>「不逞鮮人については、</div><div>三々五々群を成して放火を遂行また未遂の事件も無きにしも非ずも<br>既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、<br>最早決して恐る所は無い</div><div>出所不明の流言飛語に迷わされて</div><div>軽挙妄動きをなすがごとき考慮するが肝要であろう」</div><div>&nbsp;</div><div>9月8日には、<br>東京地方裁判所検事の南谷智悌は井戸の中に毒を入れるなど<br>一部のデマを否定しますが、<br>合一部の不逞鮮人が幾多の犯罪を敢行したのは事実であるとして、<br>窃盗事件や婦女陵辱を挙げています</div><div>&nbsp;</div><div>そんな中で、<br>内務大臣兼帝都復興院総裁に就任した後藤新平は<br>朝鮮人に関する暴動など犯罪行為に対し報道規制をしました</div><div>&nbsp;</div><div>新聞が「デマ」に加担しているなどと臆面もなく云う学者がいますが</div><div>のちに読売新聞社長になる正力松太郎は<br>&nbsp;</div><div>「朝鮮人の悪行を紙面に載せるのは対立を煽る為ではなく<br>被災した日本人に注意喚起を促すためで<br>報道を規制して帝都の治安を本当に護れるのか?」</div><div>&nbsp;</div><div>と後藤新平に詰め寄ると</div><div>&nbsp;</div><div>「朝鮮人の暴動があった事は事実だし<br>自分も知らないわけではない<br>だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば<br>彼らとてそのまま引き下がらないだろう?<br>必ずその報復がくる<br>報復の矢先が万が一にも御上（天皇家）に向けられるような事があったら<br>腹を切ったくらいでは済まされない<br>だからココは自警団には気の毒だか引いて貰う」</div><div>&nbsp;</div><div>つまり、朝鮮人による暴動があったと新聞が書く事で<br>日本人自警団が在日朝鮮人に対する憎悪を深め在日朝鮮人への報復が熾烈を極める<br>それにより更に朝鮮人側の暴動がエスカレートし<br>摂政宮（昭和天皇）などに向かう事を恐れたのです</div><div>&nbsp;</div><div>その結果、道規制が解かれた後に<br>各社は一斉に震災時に実際に起きた不逞鮮人の蛮行を大々的に報道しました<br>伝聞ではなく逮捕された案件を中心です</div><p>&nbsp;</p><div>つまり、当時の混乱の中で日本人の多くが<br>「暴徒化した在日朝鮮人」を恐れたのはデマだけが原因ではなく<br>事実として不逞鮮人が起こした蛮行がありデマを信頼する状況があったからです</div><div>&nbsp;</div><div>しかし、強迫観念に取り憑かれ集団ヒステリー状態になった自警団は<br>不法行為を行っている在日朝鮮人と対峙しただけではなく<br>在日朝鮮人は語頭に濁点が来ないので<br>「15円15銭」や「ガキグゲゴ」を上手く云えないと、例外なく私刑を加えました<br>&nbsp;</div><div>その為に在日朝鮮人だけではなく、<br>在日中国人や日本人でも方言を話す者や聾唖者も多くが「鮮人狩り」に巻き込まれ<br>被災から免れながらも、<br>在日中国人2名日本人56名の尊い命が自警団の手によって奪われました<br>&nbsp;</div><div>もちろん、在日朝鮮人の中にも「不逞鮮人」とは違い<br>「朝鮮人」だからという理由で虐殺された者も相当数いるはずです</div><div>&nbsp;</div><div>千田是也という俳優の芸名の由来は、<br>千駄々谷で関東大震災の時に朝鮮人と間違えられた為に<br>「鮮人だコレは」と「千駄々谷のコリアン」をもじって付けられましたし<br>&nbsp;</div><div>後の大阪市長になる中馬馨も<br>在日朝鮮人と間違えられ私刑に遭った際に<br>「死を覚悟する暴行」を受けた事を回顧しています</div><p>&nbsp;</p><div>その一方で、<br>虐殺から在日朝鮮人を護った日本人もいます</div><div>&nbsp;</div><div>横浜では鶴見警察署長の大川常吉は、<br>保護下にある在日朝鮮人を<br>私刑目立てに奪取を企てた日本人群衆1000人を前にし<br>&nbsp;</div><div>「朝鮮人を諸君には渡さん!!<br>この大川を殺してから連れていけ!!<br>そのかわり諸君らとは命の限り闘う!!」と高々に宣言した<br>&nbsp;</div><div>すると群衆からは、</div><div>&nbsp;</div><div>「井戸に毒を撒いた朝鮮人を守るのか!!」</div><div>&nbsp;</div><div>などという声が上がった為に<br>&nbsp;</div><div>「毒が入れられた水を持って来い!!その井戸水を俺が飲んでやる!!」</div><div>&nbsp;</div><div>と言い放ち、</div><div>毒が入れられたと謂われる井戸水を飲んで群衆を追い払ったいう逸話や、<br>&nbsp;</div><div>横須賀鎮守府の草鹿龍之介大尉が先頭に立ち<br>「朝鮮人が漁船で首都攻撃を目論んでいる」などのデマを信じた<br>海軍陸戦隊が実弾の使用申請を求めた際にも許可せず<br>逆に在日朝鮮人を約500人保護しました</div><div>&nbsp;</div><div>そして362人の日本人が、<br>事実無根の在日朝鮮人やや在日台湾人や日本人に対し暴行を加えた為に</div><div>逮捕されています</div><div>&nbsp;</div><div>せっかく地震と津波から難を逃れたのにも関わらず<br>事実無根で殺された者たちは無念の死だったと思いますが<br>コレが関東大震災の朝鮮人虐殺の真実です</div><div>&nbsp;</div><div>そして、もしもの話ですが<br>在日朝鮮人あるいは外国人が首都圏直下の大震災に見舞われた時に<br>外国人による略奪なりレイプ事件が多発した場合には<br>自警団が結成され同じく事実無根の罪で外国人が私刑に遭わないという保証は<br>歴史を紐解いて考えた場合に一切無いとも個人的には思います</div>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/pirukurun/entry-12532834036.html</link>
<pubDate>Sat, 05 Oct 2019 18:10:44 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>従軍慰安婦の捏造方法とバック・トゥ・ザ・フューチャー</title>
<description>
<![CDATA[ <p>「バック・トゥ・ザ・フューチャー」という映画はご存知でしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>世界中で大ヒットしたSF映画ですが、</p><p>あの映画が完成するまでにはいろいろな紆余曲折がありました。</p><p>&nbsp;</p><p>この映画の主演はマイケル・J・フォックスで、</p><p>脚本段階から彼自身にオファーを出す前から、彼が主演する前提でつくられたのですが、</p><p>当時の彼は「ファミリータイズ」というTVドラマの撮影の真っ最中でした。</p><p>&nbsp;</p><p>そのためにマイケル・J・フォックスに見た目が似ているという理由だけで、</p><p>エリック・ストルツがキャスティングされ、撮影が開始されました。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、見た目が似ているだけで採用したために、</p><p>映画の見どころの1つとして考えていたドクとの掛け合いがシックリこなかったらしく、</p><p>&nbsp;</p><p>プロデューサーだったスティーブン・スピルバーグは、</p><p>「このまま映画を完成させても絶対にヒットしない」という決断を下し、</p><p>1/3ほど撮影が終わった時点で、彼を降板させます。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、当初から主演予定のマイケル・J・フォックスの空き時間を利用して、</p><p>映画を最初から作り直すことになりました。</p><p>&nbsp;</p><p>こういて空き時間を利用して撮影されることになり、</p><p>しっくりこなかったドクとの掛け合いも改善され、映画は完成し、</p><p>その甲斐もあってか世界的に大ヒットしました。</p><p>&nbsp;</p><p>しかしこの映画完成するまでに改良された点は、これだけではありません。</p><p>&nbsp;</p><p>映画製作当初のタイムマシーンは、冷蔵庫を改造したものでしたが、</p><p>映画を見たこともがマネして冷蔵庫内に閉じ込められることを懸念し、</p><p>急遽DMC-12という車体を利用することとなりました。</p><p>&nbsp;</p><p>当初のクライマックスは、核実験場に行き、核爆発を利用することでタイムスリップする予定でしたが、</p><p>製作費の関係で、時計台に落雷を利用してタイムスリップする事に変更されました。</p><p>&nbsp;</p><p>脚本担当者だったボブ・ゲイルは、</p><p>「製作費がなかったおかげで、結果的に映画が面白くなった」</p><p>と回顧しています。</p><p>&nbsp;</p><p>製作費の少なさはほかのシーンでも簡単に見つけることができます。</p><p>&nbsp;</p><p>舞台となる架空の街「ヒルバレー」を新しく作る予算もロケをする製作費すら、当時はなかったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>この映画は、全編ユニバーサルスタジオ内で撮影されています。</p><p>&nbsp;</p><p>クライマックスでもカギを握る時計台のある場所は、</p><p>1962年に制作された「アラバマ物語」のために作られた、コートハウススクエアと呼ばれる、</p><p>ユニバーサルスタジオ内のオープンセットを改良して撮影されました。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり、1つの名作を作り上げるには、</p><p>ちょっとした「工夫」と「偶然」が必要なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>同じように、1つの「戦争犯罪」を作り上げるには、</p><p>ちょっとした「工夫」と「偶然」が必要です。</p><p>&nbsp;</p><p>1950年に公開された映画「暁の脱走」</p><p>&nbsp;</p><p>原作は田村泰次郎の「春婦伝」で、</p><p>黒澤明が脚本を書き、当時大スターだった山口叔子が主演を務めた</p><p>華中戦線で捕虜となった日本人兵士と慰問歌手の打算なき恋物語を描いた映画です。</p><p>&nbsp;</p><p>当初は原作通り、慰安婦と日本兵の脱走恋物語を制作する予定でしたが、</p><p>GHQの検問官から、</p><p>「日本兵と慰安婦」では大衆映画としては扇情的すぎる、という理由で</p><p>慰問歌手に変更されました。</p><p>&nbsp;</p><p>決して従軍慰安婦の存在がタブーだったからではありません。</p><p>&nbsp;</p><p>ですから、劇中では「これだけ兵士がいるのに慰安所が無いとは非常識だ」というセリフや、</p><p>酌を求めた慰問歌手は「私は慰安婦じゃないのに！！」と憤慨するセリフもあります。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり言葉だけで「慰安婦」も「慰問所」も何か、観客が分かっていたのです。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、田村泰次郎の原作では慰安婦の国籍は「朝鮮籍」で、</p><p>「赤十字の看護婦」だと親に騙されて妓生に売られた設定でもありました。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり「慰安婦」＝「公娼婦」がいたのは当たり前の話でした。</p><p>&nbsp;</p><p>当時の新聞（1933年6月30日)の東亜日報で、朝鮮人女性を拉致し中国人に売っていた</p><p>「朝鮮女性人身売買組織」を日本政府が検挙したという記事や、</p><p>&nbsp;</p><p>1939年8月31日の東亜日報では、職業あっせん業者の中に、</p><p>悪徳紹介業者がおり、騙された女性の数が釜山近郊だけで100人を超えるという記事があります。</p><p>&nbsp;</p><p>軍慰安所従業員募集等に関する通達によれば、</p><p>従軍慰安婦の募集に際して、誘拐など軍の威信を貶める悪徳業者による斡旋は禁止されていました。</p><p>&nbsp;</p><p>この様に、朝鮮人は女性を拉致したり、騙したりして女性を売買していることも、</p><p>「暁の脱走」が公開された当時は、当たり前の話だったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ですが、最初の転機が訪れます。</p><p>&nbsp;</p><p>1973年に千田夏光が「従軍慰安婦」という小説を発表します。</p><p>&nbsp;</p><p>「従軍慰安婦」という造語が完成した瞬間です。</p><p>&nbsp;</p><p>物語は、北九州の貧村に住む4人の娘が1000円の借金のカタに置屋に売られ、</p><p>女子挺身隊の名目で従軍慰安婦として売春を営んだ結果、</p><p>わずか数日で1000円以上稼ぎだしますが、前線の帝国陸軍のために従軍慰安婦を続け、</p><p>最後には中国で戦死するという悲話です。</p><p>&nbsp;</p><p>小説はすべてフィクションで、翌年に映画化もされています。</p><p>&nbsp;</p><p>この作品で、「女子挺身隊に動員された20万人がおり、およそ5～7万人は強制連行された」との記述があります。</p><p>&nbsp;</p><p>この「従軍慰安婦」の記述を根拠として、韓国挺身隊問題対策協議会の代表である、尹貞玉は</p><p>「女子挺身隊＝従軍慰安婦」で「従軍慰安婦は強制連行された」と唱えています。</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに、アメリカのアイゼンハワー公園に在米韓国人によって建てられた</p><p>従軍慰安婦の石碑に刻まれている</p><p>「強制連行された従軍慰安婦20万人」という数字の根拠も、この小説が根拠だったりします。</p><p>&nbsp;</p><p>ただし、この小説だけで戦争犯罪が成立するわけではありません。</p><p>&nbsp;</p><p>次の転機は、かつて日本共産党員として下関市議会選挙に立候補し、</p><p>129票を核として落選した過去のある吉田清治が1983年に「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」という本を出版します。</p><p>&nbsp;</p><p>この本の中には、済州島で朝鮮人250人を慰安婦にするために日本軍が狩りだしたと記されており、</p><p>このセンセーショナルな内容に「戦争犯罪追及」を社是とする朝日新聞の植村隆という貴社が掲載しました。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、1989年にこの本が翻訳され、韓国国内で発行されると、</p><p>済州新聞の女性記者だった、許栄善と韓国郷土史研究家の調査で「捏造」と断定され、</p><p>むしろ、</p><p>「済州島で慰安婦205名徴発」日本の恥知らずな商魂に済州島民ら憤慨</p><p>こんな記事が韓国の新聞に載る有様でした。</p><p>&nbsp;</p><p>ですが、1991年に朝日新聞の植村隆という貴社が懲りる事なく再び「従軍慰安婦」の生き証人だった</p><p>金学順のインタビューを朝日新聞に掲載します。</p><p>&nbsp;</p><p>ここで1つ疑問が生まれます。</p><p>&nbsp;</p><p>植村隆はなぜここまで「慰安婦」に拘ったのか。</p><p>&nbsp;</p><p>答えは彼の家族にあります。</p><p>&nbsp;</p><p>金学順は、「太平洋戦争遺族会」の会員でした。</p><p>&nbsp;</p><p>「太平洋戦争遺族会」とは、</p><p>日帝時代を経験した人なら、だれでも参加でき補償金を受け取ることができると宣伝し、</p><p>韓国国内で会員を募り会費を集めて運営されている団体で、韓国国内や日本国内で</p><p>日本政府や日本企業に対し、個人賠償や戦後補償裁判を繰り返している団体です。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、植村隆の義理の母親である梁順任が「太平洋戦争遺族会」の理事長です。</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに裁判は日本でも最高裁まで争いましたが、すべて敗訴しました。</p><p>裁判費用として会員3万人からかき集めた15億ウォンは消え、</p><p>梁順任は職員をもって行方を消した詐欺容疑者です。</p><p>&nbsp;</p><p>つまりゲスな勘繰りをすれば、</p><p>&nbsp;</p><p>日本の戦争犯罪をでっちあげ補償金詐欺師の梁順任が、</p><p>義理の息子である植村隆と共謀して「従軍慰安婦」を</p><p>でっち挙げることに成功したという事になります。</p><p>&nbsp;</p><p>少し脱線しますが、</p><p>当時元慰安婦だった文玉珠が、</p><p>3年間の慰安婦時代に貯金した25145円の返還請求訴訟を日本で起こしました。</p><p>&nbsp;</p><p>当時日本帝国陸軍大将の年収が約7000円の時代に、</p><p>3年間でそれ以上の額を貯金できたということは、日本帝国陸軍の大将よりも</p><p>高給取りだったことになりますし、そもそも強制連行された人間が貯金などできるのでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>少なくとも、従軍慰安婦問題の発端となった吉田清治は後に、</p><p>「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」はフィクションだったことを認めたうえで、</p><p>「人権屋に利用された私がバカだった」と、歴史研究家の秦郁彦に対して後悔の弁を語っています。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/pirukurun/entry-12499555723.html</link>
<pubDate>Tue, 30 Jul 2019 21:48:53 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>竹島と松島と石島と独島と于山島</title>
<description>
<![CDATA[ <p>愛知県の竹島</p><p>&nbsp;</p><p>鹿児島県の竹島</p><p>&nbsp;</p><p>豊臣秀吉が天下と取った頃は「松島」と呼ばれ</p><p>幕末からは「竹島」と呼ばれる様になった島根県「竹島」</p><p>&nbsp;</p><p>豊臣秀吉が天下を取った頃は「竹島」と呼ばれ</p><p>幕末からは「松島」と呼ばれる様になった</p><p>慶尚北道鬱陵の「鬱陵島」</p><p>&nbsp;</p><p>慶尚北道鬱陵郡には「竹嶼(竹島)」があります</p><p>&nbsp;</p><p>慶尚北道鬱陵郡「独島」</p><p>&nbsp;</p><p>この中で、愛知県の「竹島」や鹿児島県の「竹島」には</p><p>領有権問題は存在しません。</p><p>&nbsp;</p><p>豊臣秀吉の頃に「竹島」と呼んだ頃の「竹島」には</p><p>領有権問題は存在しません。</p><p>&nbsp;</p><p>慶尚北道鬱陵郡にある「竹嶼（竹島）」にも</p><p>領有権問題は存在しません。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、島根県の「竹島」と慶尚北道鬱陵の「独島」には領有権問題は存在します</p><p>&nbsp;</p><p>まず、島根県「竹島」は過去と現在では</p><p>名称が変わったという事実も知ってください。</p><p>この事が実は自体を複雑にしているのです</p><p>&nbsp;</p><p>そもそも、李朝は「空島」政策というモノを採っていました</p><p>&nbsp;</p><p>朝鮮半島や中国で猛威を振るった「倭寇」ですが</p><p>実は、倭寇を装い略奪を繰り返す「偽倭寇」（朝鮮では仮倭と呼ぶ）が</p><p>相当数存在しており、朝鮮半島の周囲の離島を拠点にしていた為に</p><p>1417年に太宗が仮倭寇対策として</p><p>離島を無人にする政策を取りました</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>つまり、「島を空（から）にする」という意味で「空島（からじま）」です</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>その結果、新羅に従属するまで独立国だった于山国（鬱陵島）も</p><p>「空島政策」の対象の島で、島民を本土に移住させ無人島になりました</p><p>&nbsp;</p><p>この島は、良質な「竹」が自生しており</p><p>無人島だったこの島を日本人は「竹島」と呼び</p><p>&nbsp;</p><p>たびたび「竹」や</p><p>アワビやアシカなどを海産物を目当てに渡航していました</p><p>&nbsp;</p><p>ただ国内の事情から「空島」政策は取っていても</p><p>李朝は自国の領土だと思っていたので</p><p>無断で立ち入る日本人に対し</p><p>1614年に対馬藩を通じて抗議をしようとしますが</p><p>しかし</p><p>江戸幕府は大阪の陣で忙しく相手にしませんでした</p><p>&nbsp;</p><p>その後</p><p>鎖国時代になり渡航は許可制になります</p><p>&nbsp;</p><p>許可制になった理由は</p><p>竹島（鬱陵島）が朝鮮半島に近いので</p><p>往来に制限をかけない事で</p><p>李朝との「密貿易」に利用される事や</p><p>竹島（鬱陵島）を通じ諸外国と「密貿易」を行う懸念があったからです</p><p>&nbsp;</p><p>その結果</p><p>米子藩（鳥取県）の大谷家・村川家が独占的に</p><p>「竹嶼（鬱陵島）渡海許可証」を受け</p><p>葵の紋の旗を船に掲げ「竹島（鬱陵島）」に渡航していました</p><p>&nbsp;</p><p>1692年に事件が起きました</p><p>&nbsp;</p><p>大谷･村川家が</p><p>無人島だと思われていた竹島（鬱陵島）に</p><p>武装した朝鮮人が53人ほどいたのです</p><p>&nbsp;</p><p>帰国した大谷･村川家は米子藩に伝え</p><p>米子藩から竹島（鬱陵島）に朝鮮人がいた事を幕府に伝えると</p><p>「日本側に負傷者がいなく無事に帰って来たなら問題ない」との回答</p><p>&nbsp;</p><p>1693年に再び大谷・村上家が竹島（鬱陵島）に向かうと</p><p>やはり武装した朝鮮人がいたので</p><p>3人ほどを「密航者」として捕まえて日本に帰国しました</p><p>&nbsp;</p><p>江戸幕府は対馬藩を通じ</p><p>李朝に朝鮮人を引き渡す事と同時に</p><p>「竹島（鬱陵島）は日本の領土」という事を伝え</p><p>朝鮮人の「密航」を厳しく取り締まる確約と取る様に命令します</p><p>&nbsp;</p><p>江戸幕府からの命令という事もあり</p><p>藩主だった宗義倫が自ら釜山まで赴き</p><p>身柄の引渡しをすると同時に</p><p>竹島（鬱陵島）は日本の領土である事を認める交渉を開始します</p><p>&nbsp;</p><p>両班内で最高権力者だった権大運は</p><p>李朝が竹島（鬱陵島）を日本領と認めない事を口実に</p><p>再び日本による朝鮮討伐が起きる事を危惧し</p><p>穏便に済ませようと画策します</p><p>&nbsp;</p><p>しかし李朝側も</p><p>竹島（鬱陵島）が「日本領」と認めたくはありません</p><p>&nbsp;</p><p>その結果</p><p>竹島（鬱陵島）は空島政策を取っているので「無人」であり</p><p>今後は朝鮮人が竹島（鬱陵島）に渡航する事を徹底的に取り締まる</p><p>逆に日本人が竹島（鬱陵島）に渡航する事は自由とする</p><p>&nbsp;</p><p>ある意味では玉虫色の決着を図ろうとしました</p><p>&nbsp;</p><p>しかし</p><p>両班内での権力闘争で権大運は敗れ失脚し</p><p>変わりに最高権力者になった南九万になると</p><p>まとまりかけていた玉虫色の李朝側からの提案は白紙にされ</p><p>&nbsp;</p><p>竹島（鬱陵島）は空島政策を取っているので「無人」であり</p><p>朝鮮人が竹島に渡航する事を徹底的に取り締まるかは</p><p>李朝内部の問題で日本には関係ない</p><p>空島政策を取っているとはいえ李朝領土なのだから</p><p>渡航するには李朝の許可を得る事</p><p>&nbsp;</p><p>李朝側が強硬姿勢に転じ</p><p>対馬藩主だった宗義倫も病死します</p><p>&nbsp;</p><p>ココで江戸幕府は</p><p>老中だった阿部忠秋が交渉打ち切り</p><p>武力による竹島（鬱陵島）領有も視野に入れ</p><p>開戦する「大義名分」があるかに関し</p><p>1695年に米子藩に対し</p><p>竹島（鬱陵島）は米子藩の領土の根拠など17の質問状を送りました</p><p>&nbsp;</p><p>その返答は</p><p>単なる無人島なので領有した事は無い</p><p>竹島（鬱陵島）は隠州地域（隠岐）離島であり</p><p>大谷・村上家は米子藩の藩民でも</p><p>竹島（鬱陵島）の管轄は松江藩（島根県）なので詳しい事は解らない</p><p>&nbsp;</p><p>ソレを受け松江藩に17の質問状を送りました</p><p>&nbsp;</p><p>松江藩は</p><p>竹島（鬱陵島）の存在は昔から知っていたが</p><p>無人島（倭寇が隆盛だった頃に認識したという事です）のままにしたのは</p><p>自国民を移住させるホド価値のある島ではない</p><p>との回答でした</p><p>&nbsp;</p><p>そして江戸幕府は「無用の小島」と結論付け</p><p>竹島は李朝の領有する土地だと結論付けます</p><p>&nbsp;</p><p>そして鎖国政策を実施していたので</p><p>無人島では無く李朝の領土になった竹島（鬱陵島）への渡航も「禁止」しました</p><p>&nbsp;</p><p>その結果</p><p>地図には竹島は李朝領土として描かれる様になりました</p><p>&nbsp;</p><p>コレを日本では竹島の一件と云いますが</p><p>ココで終わった話を蒸し返そうとする安龍福が登場します</p><p>彼は</p><p>竹島（鬱陵島）で1度捕まったアトに李朝に送り返された人物ですが</p><p>自費で10人ほどの人数を連れ日本に渡り（正確には隠岐島に漂着）</p><p>&nbsp;</p><p>彼は釜山出身で</p><p>釜山には日本人街もある土地柄のせいか</p><p>日本語が喋れた為に</p><p>漂着して取り調べを受ける際に</p><p>嘆願書を見せ</p><p>「于山島は李朝領土ニダ」と</p><p>漂着していた理由を密漁などでは無く</p><p>李朝の使者を装い謁見を求めますが</p><p>「異人の窓口は長崎だから（笑）」と相手にもされませんでした</p><p>&nbsp;</p><p>ココで「于山島」という得体の知れない島が登場します</p><p>&nbsp;</p><p>安龍福によると</p><p>「李朝の領土ニダ」と云う「于山島」とは</p><p>竹島（鬱陵島）より北東に50里（20km）ほど行った島だとの話です</p><p>&nbsp;</p><p>「于山島」とは</p><p>朝鮮半島最古の歴史書「三国遣記」より登場する「幻の島」です</p><p>&nbsp;</p><p>1530年に描かれた八道総図には</p><p>「于山島」は竹島（鬱陵島）より手前に描かれているのに</p><p>実際には存在しないからこそ「幻の島」となってしまったのですが…</p><p>&nbsp;</p><p>ただ</p><p>漂着した安龍福が「通政大夫」という官職の札を持っていたので</p><p>対馬藩より李朝に対して安龍福を照会すると</p><p>1697年２月14日に李朝より</p><p>「安龍福は漂流した愚民で得体の解らない嘆願書を持って申し訳ありません</p><p>「于山島」なんて妄言ですので本国で刑に処します」</p><p>&nbsp;</p><p>そして日本から帰国した安龍福は不正渡航では無く</p><p>妄文作成の罪で流罪となりました</p><p>&nbsp;</p><p>今では安龍福は</p><p>民間人でありながら日本と領土紛争を行なった人物として</p><p>愛国烈士として韓国で呼ばれていますが</p><p>実際には何の成果も上げていません</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに安龍福の云う</p><p>竹島（鬱陵島）より北東に50里（20km）ほど行った場所には島など存在しません</p><p>松島（竹島）は竹島（鬱陵島）南西に100km行った島ですので</p><p>距離どころか方向すら違うので…</p><p>&nbsp;</p><p>さて</p><p>竹島の一件では一切何ら話題にならなかった松島（竹島）ですが</p><p>実は竹島の一件を境に問題を作ります</p><p>&nbsp;</p><p>松島（竹島）は良質の漁場でしたが</p><p>竹島（鬱陵島）に渡航する際の休憩所でもありました</p><p>そして北前船の主要航路の１つ（目印）で</p><p>ある意味では有名な無人島でした</p><p>&nbsp;</p><p>松島（竹島）への渡航はOK</p><p>竹島（鬱陵島）への渡航はNGとなったのですが</p><p>&nbsp;</p><p>竹島（鬱陵島）の竹は</p><p>実は日本国内では高値で取引された良質の竹だったのです</p><p>&nbsp;</p><p>松島（竹島）に渡航すると虚偽の報告をし</p><p>竹島（鬱陵島）に渡航した竹を伐採し帰港した事で</p><p>逮捕された漁民の記録も日本にはあります</p><p>&nbsp;</p><p>この結果</p><p>竹島（鬱陵島）と松島（竹島）が混同される様になっていったのです</p><p>&nbsp;</p><p>つまり</p><p>「松島（竹島）」に行ってくると言いつつ</p><p>嘘を付いて「竹島（鬱陵島）」に行く事が公然化し</p><p>ドッチの島に行くのも「竹島行ってくる」になったのです</p><p>&nbsp;</p><p>シーボルトが作成した地図では</p><p>竹島（鬱陵島）を「松島」と表記し</p><p>松島（竹島）を「竹島」と表記しています</p><p>&nbsp;</p><p>さて</p><p>ナゼ「松島（竹）」は松も生えていないのに「松島」と呼ばれたのでしょう?</p><p>&nbsp;</p><p>一説には「松・竹・梅」が由来とも云われています</p><p>日本列島から近い順に「松・竹・梅」の冠を付けたというモノです</p><p>&nbsp;</p><p>…梅島は?</p><p>存在しません（笑）</p><p>&nbsp;</p><p>安龍福が</p><p>「李朝の領土ニダ」と云う幻の島「于山島」が「梅島」だったかもしれません</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに</p><p>黒船を率いて来航したペリー提督が所有した日本地図には</p><p>&nbsp;</p><p>アルゴノート島</p><p>ダージュレ島</p><p>ホーネット岩礁と書かれています</p><p>&nbsp;</p><p>ホーネット岩礁は緯度経度からも松島（竹島）だと解ります</p><p>ダージュレ島の緯度経度からも竹島（鬱陵島）だと解ります</p><p>&nbsp;</p><p>…ではアルゴノート島とは一体ドコなんでしょう?</p><p>&nbsp;</p><p>また</p><p>1770年に李朝で書かれた「東国文献備考」によると</p><p>「于山島」は</p><p>倭が所有する所謂「松島（竹島）」と呼ばれている島であると記されています</p><p>&nbsp;</p><p>結局の所</p><p>「于山島」はドコなのか解りませんが</p><p>どうも</p><p>この時代には「幻の島」が存在するようです</p><p>&nbsp;</p><p>さて</p><p>時代は江戸幕府から明治政府になります</p><p>&nbsp;</p><p>1877年</p><p>明治政府は「朝鮮国交際始末内探書」というモノを作成します</p><p>&nbsp;</p><p>コレには</p><p>竹島（鬱陵島）と松島（所在不明）が朝鮮領土となったと書かれています</p><p>ナゼ松島が所在不明かというと</p><p>松島は竹島（鬱陵島）の隣島であると記されているため</p><p>竹島（鬱陵島）から松島（竹島）まで90kmの距離があり</p><p>実際に松島（竹島）なのかという疑問が個人的にはあります</p><p>&nbsp;</p><p>同じく「朝鮮国交際始末内探書」には</p><p>朝鮮半島から竹島（鬱陵島）までの距離は</p><p>200km（実際には140km）</p><p>竹島（鬱陵島）から松島（所在不明）まで</p><p>160km（実際には92km）</p><p>松島（所在不明）から隠岐まで</p><p>320km（実際には160km）</p><p>この様に</p><p>やはり松島だけ実測に直した場合には異常に誤差が激しいので</p><p>敢えて松島（所在不明）とします</p><p>&nbsp;</p><p>ある意味では「幻の島」が存在したのかもしれません</p><p>&nbsp;</p><p>この報告書には</p><p>竹島（鬱陵島）も松島（所在不明）も</p><p>特に書き留めるホドの島では無いとも書かれています</p><p>&nbsp;</p><p>この報告書を得て</p><p>1877年に</p><p>太政官指令として「竹島外一島は日本領土では無い」と決定しました</p><p>&nbsp;</p><p>1900年</p><p>大韓帝国は勅令41号を発布し</p><p>鬱陵島と竹嶼と石嶼は朝鮮領土としました</p><p>&nbsp;</p><p>ここで「石嶼」なる得体のしれない島が登場しますが</p><p>大韓帝国勅令41号以前に</p><p>朝鮮半島の歴史上に「石嶼」が登場した事はありません</p><p>&nbsp;</p><p>また「石嶼」が一体ドコに存在する嶼なのか</p><p>大韓帝国勅令41号には距離が一切書かれていません</p><p>&nbsp;</p><p>ただし</p><p>石嶼に関しては</p><p>石嶼をハングル語で発音すると「トクト」</p><p>独島をハングル語で発音すると「ドクト」</p><p>発音だけはヨク似ています</p><p>&nbsp;</p><p>日本国内では</p><p>1904年に竹島を領土編入貸下願が</p><p>島根県の漁業関係者から明治政府に嘆願されます</p><p>&nbsp;</p><p>1905年１月に明治政府は</p><p>現在の「竹島」を鳥取県に編入する事を閣議決定しました</p><p>&nbsp;</p><p>ドコの国にも属さない無人島は</p><p>先に占有した国の領土に編入できるという「先占」を根拠に編入しました</p><p>&nbsp;</p><p>ただし</p><p>1906年5月19日</p><p>大韓帝国で発行された「皇城新聞」によれば</p><p>&nbsp;</p><p>外洋100里にある本郡所属だった「独島」が</p><p>5月4日に日本の領土になったと大韓帝国に伝えたと書かれています</p><p>&nbsp;</p><p>初めて「独島」という名前が登場した瞬間です</p><p>&nbsp;</p><p>韓国では</p><p>「石嶼（トクト）を日本に取られたニダ」という</p><p>大韓帝国政府高官という話を聴いた新聞記者が</p><p>「独島」（ドクト）と誤って聴いた事が</p><p>「独島」という名前の誕生だと考えられています</p><p>&nbsp;</p><p>それにしても</p><p>「皇城新聞」によると</p><p>外洋100里とは朝鮮半島から40km離れた島と記載されていますので</p><p>その場合には</p><p>竹島（鬱陵島）よりも朝鮮半島に近い島という事になって</p><p>一体ドコの島を指しているのか全く解りません</p><p>&nbsp;</p><p>また</p><p>大韓帝国は「独島」が自国領土だったとしても</p><p>アッサリ日本に割譲したという事にもなります</p><p>&nbsp;</p><p>この歴史経緯が「竹島」と「独島」領有権の根幹です</p><p>&nbsp;</p><p>終戦後</p><p>&nbsp;</p><p>まず</p><p>GHQ677号覚書で</p><p>一部の外郭地域を政治上行政上日本から分離する事が決定しました</p><p>この一部外郭地域には</p><p>沖縄諸島や小笠原諸島や済州島や鬱陵島や竹島が含まれていました</p><p>&nbsp;</p><p>そして</p><p>GHQ1033号覚書で</p><p>日本漁業に関する活動可能領域を</p><p>GHQ677号が定めた一部外郭地域は含めない</p><p>いわゆるマッカサーラインと呼ばれる漁業可能地域が完成します</p><p>&nbsp;</p><p>韓国はサンフランシスコ条約締結の交渉で</p><p>自国領土として竹島と対馬と波浪島を自国領土に編入する事を</p><p>アメリカに要望しています</p><p>&nbsp;</p><p>ココで</p><p>「波浪島」という得体の知れない島が登場しますが</p><p>存在しません</p><p>&nbsp;</p><p>アメリカは</p><p>「波浪島」はドコにあるか尋ねると</p><p>日本海に存在する島で鬱陵島の近くにある島だが</p><p>波の加減で消える島と答えています</p><p>&nbsp;</p><p>つまり</p><p>幻の島「于山島」です（笑）</p><p>&nbsp;</p><p>崔南善という早稲田大学を卒業し</p><p>３・１独立運動の独立宣言文の草案を書きながら</p><p>コロって日本側に寝返り</p><p>日本併合時代には朝鮮史の第一人者として</p><p>大日本帝国朝鮮史編集委員の委員に選ばれ</p><p>満州国の建国大学では</p><p>政府自ら朝鮮史の教授就任を指名されたホドの韓国きっての知識人です</p><p>&nbsp;</p><p>その彼が「波浪島」は存在すると云ったので</p><p>要求に組み入れたのですが</p><p>大日本帝国の作成した海路図を使い</p><p>1951年米国は鬱陵島の周囲180km探索し</p><p>韓国山岳隊と韓国海軍は</p><p>済州島の周囲180kmを探索したのですが</p><p>結局は見つかりませんでした（笑）</p><p>&nbsp;</p><p>対馬に関しては歴史上たった1度も朝鮮が統治した事が無い為に</p><p>一瞬で却下されます</p><p>&nbsp;</p><p>さて</p><p>この結果</p><p>韓国が要求した波浪島と対馬が却下されます</p><p>&nbsp;</p><p>竹島に関しては1952年に</p><p>米国は日本に演習場として使用する通達をし日本は受け入れます</p><p>しかし韓国政府には通達していなかった事から</p><p>韓国国土院が竹島を測量中に</p><p>米国による爆撃演習に巻き込まれるという事件も発生しています</p><p>&nbsp;</p><p>韓国が要求した自国に編入すべき３島のうち</p><p>波浪島は「存在しない」為に領土に編入できない</p><p>対馬は「歴史上統治した事がない」為に編入できない</p><p>しかし</p><p>竹島は「ヨク根拠は解らない」が米国は日本領としているようだ</p><p>その上</p><p>現在はマッカーサーラインの関係で日本側は立ち入る事は出来ない</p><p>&nbsp;</p><p>李承晩は朝鮮史の権威だった崔南善に対し</p><p>「独島」の領有が可能な歴史事実は韓国側にあるのかを質問すると</p><p>李朝時代の竹島の一件</p><p>太政官指令による竹島外一島は自国領外と定めた事</p><p>大韓帝国勅令41号で「石嶼」という名前で日本より先に領土に編入した</p><p>以上の事から大義は「韓国側」にあると進言します</p><p>&nbsp;</p><p>結果</p><p>1952年マッカーサーラインが破棄される3ヶ月前に</p><p>李承晩ラインと呼ばれる</p><p>単純にマッカーサーラインを踏襲しただけの軍事境界線を引いたのです</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに</p><p>「李承晩ライン」を制定したのは全力で朝鮮戦争の最中です</p><p>北朝鮮・中国と韓国と米国を始めとする多国籍軍が熾烈な戦いをしている中</p><p>韓国は貴重な海軍戦力を使い</p><p>日本の海上巡視船に16回の攻撃し</p><p>日本漁船328隻も拿捕し3929人をも抑留し</p><p>44人の死傷者を出しているのです</p><p>（死者が出たのは李承晩ライン内の済州島近海ですが）</p><p>&nbsp;</p><p>当然ですが</p><p>日本も米国も抗議しています</p><p>&nbsp;</p><p>そもそも</p><p>「李承晩ライン」は竹島の領有権と関係なく</p><p>&nbsp;</p><p>「いかなる水域も漁業を行おうとする他国民を排除してはならない」</p><p>「管轄権は関税徴収や衛生目的のモノであり</p><p>沿岸国が漁業を独占する為の管轄権は認めない」</p><p>&nbsp;</p><p>完全な国際海洋法違反であり</p><p>あまり知られていませんが</p><p>韓国政府側も</p><p>李承晩ラインが国際海洋法違反を犯した事の非だけは</p><p>日本政府に一貫して認めています</p><p>&nbsp;</p><p>1954年8月15日</p><p>アメリカは韓国に対し「竹島」を国際司法裁判所に付託するように勧告し</p><p>1954年９月25日</p><p>日本は国際司法裁判所に付託する提案をします</p><p>しかし韓国は応じませんでした</p><p>1962年3月12日日本は２度目の国際司法裁判所に付託する事を提案しますが</p><p>やはり応じる事はありませんでした</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに</p><p>李承晩ラインというのは意外な形で解消されます</p><p>&nbsp;</p><p>李承晩ラインの解除の条件は</p><p>常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた</p><p>在日朝鮮人472人を放免し在留特別許可を与える事</p><p>日本政府が摘発した韓国人密入国者を強制送還せず</p><p>日本国内に在留特別許可を与え解放する事</p><p>韓国政府が要求し</p><p>日本側は要求を飲みました</p><p>&nbsp;</p><p>コレが竹島問題の歴史的な流れです</p><p>&nbsp;</p><p>竹島は紛争地域ではありません</p><p>&nbsp;</p><p>紛争地域にする為には</p><p>実効支配している韓国軍が駐留するか</p><p>領有権を主張している日本が自衛隊を駐留させなければ「紛争地」にはなりません</p><p>&nbsp;</p><p>現在の竹島には「重武装した警察官」しか駐留していません</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>李明博大統領が竹島に上陸しましたが</p><p>日本の首相も島根県から水中翼船でもチャーターして</p><p>上陸すればイイと思うのですが…</p><p>&nbsp;</p><p>竹島に上陸しようとるす日本の総理大臣に向けて</p><p>韓国の警察が逮捕なり拿捕なり威嚇射撃なりをすると思いますか?</p><p>そんな事をしたら</p><p>完全に戦争になりますよね（笑）</p><p>&nbsp;</p><p>日本の国内だというのに</p><p>日本の総理大臣が行く事が出来ない場所が存在するとは変な話ですよね？</p><p>&nbsp;</p><p>行けないという事は</p><p>ある意味で「日本の領土ではない」と認めていると個人的には思います</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/pirukurun/entry-12422638962.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Nov 2018 18:07:32 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>展覧会の絵の謎と朝鮮人強制連行</title>
<description>
<![CDATA[ <p><span style="font-size:1em;">モデスト・ムソルグスキー</span></p><p><span style="font-size:1em;">旋律の美しさよりロシアの一般民衆の姿を表現することを求め続け</span></p><p><span style="font-size:1em;">交響詩「はげ山の一夜」やオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」などで知られる</span></p><p><span style="font-size:1em;">ロシア民俗楽派を代表する一人です。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">そんなロシア民俗楽派を代表するモデスト・ムソルグスキーには、</span></p><p><span style="font-size:1em;">全く売れない画家の友達ヴィクトル・ハルトマンがいました。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">そのヴィクトル・ハルトマンは、</span></p><p><span style="font-size:1em;">画家として大成することなく39歳という若さで人知れず高いし、</span></p><p><span style="font-size:1em;">死後は、人知れずペテルブルグでヴィクトル・ハルトマンの遺作の</span></p><p><span style="font-size:1em;">展示会が開催され、友人だったモデスト・ムゾルグスキーも展示会に</span></p><p><span style="font-size:1em;">訪れます。そして、展示会に飾られていた遺作10作品から、</span></p><p><span style="font-size:1em;">インスピレーションを受け、ピアノ組曲「展覧会の絵」を創りだし、</span></p><p><span style="font-size:1em;">そのピアノ組曲「展覧会の絵」はモデスト・ムソルグスキーの代表作</span></p><p><span style="font-size:1em;">となりました。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">さて、</span></p><p><span style="font-size:1em;">「展覧会の絵」の10曲の題名は、</span></p><p><span style="font-size:1em;">すべてヴィクトル・ハルトマンの題名を踏襲しています。</span></p><p><span style="font-size:1em;">現在「展覧会の絵」のモデルになった10作品は、</span></p><p><span style="font-size:1em;">世界中に散逸して一同に還す事は不可能な状態ですが、</span></p><p><span style="font-size:1em;">ヴィクトル・ハルトマンの</span></p><p><span style="font-size:1em;">「バレエ（トリヴィ）」の為の衣装デザイン」は</span></p><p><span style="font-size:1em;">展覧会の絵第5組曲「ひよこの殻を付けた踊り」</span></p><p><span style="font-size:1em;">「バリのカタコンベ」は</span></p><p><span style="font-size:1em;">展覧会の絵第8組曲「カタコンベ/ローマ時代の墓」</span></p><p><span style="font-size:1em;">「キエフの死の門の設計図」は</span></p><p><span style="font-size:1em;">展覧会の絵第10組曲「キエフの大門」</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">しかしその中で唯一</span></p><p><span style="font-size:1em;">展覧会の絵の第4曲「ピトロ」だけが謎に包まれています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">なぜなら、「ピトロ」と題したヴィクトル・ハルトマンが、</span></p><p><span style="font-size:1em;">ペテルブルグで開催された遺作展示会以降、</span></p><p><span style="font-size:1em;">現在に至るまで行方不明のままになっているからです。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">一体ヴィクトルハルトマンが描いた「ピトロ」という絵は、</span></p><p><span style="font-size:1em;">どのようなものだったのでしょうか？</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">ピトロとは日本語に訳せば「牛車」です。</span></p><p><span style="font-size:1em;">嬰ト短調は日本では「演歌」に頻繁に用いられる音調で、</span></p><p><span style="font-size:1em;">悲しげな感じが強い曲で、童謡の「ドナドナ」のテイストが</span></p><p><span style="font-size:1em;">近い感じの絵ではないかと想像することができますし、</span></p><p><span style="font-size:1em;">あるいは隠語の意味である「虐げられた人」を踏襲している</span></p><p><span style="font-size:1em;">絵の可能性もありますが、真相は藪の中です。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">さて、</span></p><p><span style="font-size:1em;">岩波書店の広辞苑で「朝鮮人強制連行」を調べてみますと</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">「日中戦争・太平洋戦争期100万人を超える朝鮮人を</span></p><p><span style="font-size:1em;">内地、樺太、沖縄、東南アジアなどに強制的に連行し、</span></p><p><span style="font-size:1em;">労務者や軍夫などとして強制終了された事。</span></p><p><span style="font-size:1em;">女性の一部は日本軍の慰安婦とされた。」</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">この様に記載されています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">大阪大学名誉教授の谷澤栄一や、上智大学名誉教授の渡部昇一などは</span></p><p><span style="font-size:1em;">広辞苑の「朝鮮人強制労働」の記載に関して、史実と異なる記述であり、</span></p><p><span style="font-size:1em;">左翼側のイデオロギーに基づく記述は辞書に値しないと批判し、</span></p><p><span style="font-size:1em;">岩波書店に訂正と謝罪を行うべきであると主張しています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">また2004年の大学入試センター試験の世界史Bに</span></p><p><span style="font-size:1em;">「日本統治下の朝鮮で第二次世界大戦中、日本への強制連行が行われた」</span></p><p><span style="font-size:1em;">という回答を正しい選択肢とする問題が掲載されました。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">受験生の中には、第二次大戦当時の言葉として存在しなかった「朝鮮人強制連行」が</span></p><p><span style="font-size:1em;">確定的史実として出題され、思想の自由を奪われたとして、大学入試センターに対し、</span></p><p><span style="font-size:1em;">この問題を採点から除くことを求める仮処分命令を申し立て、さらには、東京地方裁判所に</span></p><p><span style="font-size:1em;">申し立てる者も出る騒ぎとなり、安倍晋三が事務局長を務め、中川昭一や高市早苗などが</span></p><p><span style="font-size:1em;">会員を務める、自民党の議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が</span></p><p><span style="font-size:1em;">国会で問題にしました。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">このように「朝鮮人強制連行」という言葉には、</span></p><p><span style="font-size:1em;">従軍慰安婦の強制連行と同様に、大きな問題を抱えています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">朝鮮人の強制連行はあったのか、それとも無かったのか。</span></p><p><span style="font-size:1em;">在日朝鮮人は強制連行の被害者とのその子孫なのか。</span></p><p><span style="font-size:1em;">この真相自体は決して藪の中ではありません。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">実は「朝鮮人強制連行」という言葉がクローズアップされた理由が問題を複雑にしているのです。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">まずはその理由を簡単に説明します。</span></p><p><span style="font-size:1em;">「朝鮮人強制連行」がクローズアップされるきっかけになったのは、北朝鮮への帰還事業です。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">は？なぜ？？と思われるかもしれませんが、事実です。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">北朝鮮基幹事業が日本国内で推進されるようになると</span></p><p><span style="font-size:1em;">韓国政府やそれを支持する在日韓国人などが抗議をし、</span></p><p><span style="font-size:1em;">日本政府や国際機関へ働きかけました。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">その主張は、</span></p><p><span style="font-size:1em;">「在日朝鮮人の大多数は日本が強制的に労働させられる為に連れてこられたのにも関わらず、</span></p><p><span style="font-size:1em;">再び北朝鮮に強制的に移送しようとしている」</span></p><p><span style="font-size:1em;">というものでした。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">1959年2月25日、東京で開催された在日韓僑北韓送還反対中央民衆大会の決議文には</span></p><p><span style="font-size:1em;">「現在日本には約60万人の韓国人が駐留していますが、この大部分は、第二次世界大戦中、</span></p><p><span style="font-size:1em;">日本が強制的に労働せしめる為に連れてきたものです」</span></p><p><span style="font-size:1em;">この様に記載され、</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">1959年7月1日、韓国政府が発表した「在日韓人の北送問題に対する政府の立場」では、</span></p><p><span style="font-size:1em;">「日本が植民地として韓国を占領した1905年から1945年の期間中、200万人の韓国人が</span></p><p><span style="font-size:1em;">日本に移住することを強要された。1945年日本が降伏した後、134万人の韓国人が、</span></p><p><span style="font-size:1em;">現在の大韓民国の地に送還されたが、彼らが受けた不当な待遇に対し、何の補償も</span></p><p><span style="font-size:1em;">受けられないで送還されたので、残る65万人の韓人は日本に残る道を選んだ。」</span></p><p><span style="font-size:1em;">と記載されました。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">これらの主張に対し、日本の外務省は反論のために、</span></p><p><span style="font-size:1em;">1959年に「朝鮮人渡航等に関する外務省発表」を公表しました。</span></p><p><span style="font-size:1em;">「戦前に日本国内に来日した在日朝鮮人は、自ら内地に職を求めてきた</span></p><p><span style="font-size:1em;">自然発生的な個別渡航者と工鉱業や土木作業などによる募集に応じて</span></p><p><span style="font-size:1em;">契約に基づき内地に渡航した者と、徴用により日本に駐留する者であり、</span></p><p><span style="font-size:1em;">この内、国民徴用令で来日し居留する朝鮮人は245人である」</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">日本の保守系の言論人やネトウヨが、1944年9月に日本政府が国民徴用令による徴用で、</span></p><p><span style="font-size:1em;">日本に渡航し、居留した朝鮮人は僅か245人で、終戦時の在日朝鮮人の実数と遥かに</span></p><p><span style="font-size:1em;">かけ離れていることを根拠に、「在日朝鮮人は強制連行の被害者ではない」と主張する元ネタです。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">外務省が徴用を「強制連行」と定義した事で、</span></p><p><span style="font-size:1em;">日本保守系の言論人やネトウヨは、日本人の15～45歳までの男子と、</span></p><p><span style="font-size:1em;">16歳～25歳までの女子は徴用されたが、それは強制的なものだったとし、</span></p><p><span style="font-size:1em;">応じない場合には、「非国民」として制裁を受けた時代、当時の朝鮮人は</span></p><p><span style="font-size:1em;">大日本帝国の国民であり「強制連行」という言葉で朝鮮人だけの被害者性を</span></p><p><span style="font-size:1em;">特権化し、また日本の加害者性だけを強調することに否定的であり、</span></p><p><span style="font-size:1em;">この観点から「朝鮮人強制連行」を否定します。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">さて、この外務省発表がされた当時、憤慨した人物が在日朝鮮人の朴慶植です。</span></p><p><span style="font-size:1em;">実は彼は「総連系」の在日朝鮮人です。</span></p><p><span style="font-size:1em;">元来ここは、韓国側の主張を崩すために発表された外務省の発表に憤慨する</span></p><p><span style="font-size:1em;">必要性はないはずですが、</span></p><p><span style="font-size:1em;">憤慨した理由に関しては、東京大学准教授の外村大によると、</span></p><p><span style="font-size:1em;">「史実（実体験）とかけ離れた発表だったから」ということです。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">つまり朴慶植はそもそも論として、</span></p><p><span style="font-size:1em;">1959年に「朝鮮人渡航等に関する外務省発表」が出される4年前の1955年に、</span></p><p><span style="font-size:1em;">日本の法務省法務研修所の法務研究報告「在日朝鮮人の推移と現状」で、</span></p><p><span style="font-size:1em;">1939年9月以降の労務動員については、「日華事変以後の戦時体制下にあって</span></p><p><span style="font-size:1em;">政府は朝鮮人を集団的に日本内地に強制せしめる策を採った」と結論付けているのだから、</span></p><p><span style="font-size:1em;">法務研究報告「在日朝鮮人の推移と現状」で問題としている、</span></p><p><span style="font-size:1em;">1937年により施行された「朝鮮総督府による労務動員計画」と</span></p><p><span style="font-size:1em;">1942年により施行された「朝鮮総督府朝鮮労務協会による官主導の労務者斡旋」こそが</span></p><p><span style="font-size:1em;">「強制連行」であり、それを外務省が無視し、</span></p><p><span style="font-size:1em;">徴用のみを強制連行として問題と扱ったことに憤慨したのです。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">ところで、朝鮮総督府による労務動員計画とはどのようなものだったのでしょうか。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">朝鮮総督府の事務官が「大陸東洋経済」1943年12月1日号で、朝鮮総督府朝鮮労務協会による</span></p><p><span style="font-size:1em;">労務者募集に関し、「募集人数を地域ごとに割り振り半ば強制的に行っています」と答えていますので、</span></p><p><span style="font-size:1em;">総統に乱暴だったということは解ります。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">具体的には、朝鮮総督府で1936年まで政策顧問を務めた鎌田澤一郎が、</span></p><p><span style="font-size:1em;">1950年に発表した回顧録「朝鮮新話」では、</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">戦争が次第に苛烈になるに従って、朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方</span></p><p><span style="font-size:1em;">労務徴用者の割り当てが相当厳しくなってきた。納得の上で応募させていたのでは、</span></p><p><span style="font-size:1em;">その予定数になかなか達しない。そこで群とか村とかの労務係が深夜や早暁に、</span></p><p><span style="font-size:1em;">突如男手のある家の寝こみを襲い、或いは田畑で働いている最中にトラックを廻して</span></p><p><span style="font-size:1em;">何気なくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成し、北海道や九州の炭鉱に送り込み</span></p><p><span style="font-size:1em;">その責を果たすという乱暴なことをした。ただ、総督がそこまで強行せよと命じたわけではないが、</span></p><p><span style="font-size:1em;">上司の鼻息を窺う、朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやってのけたのである</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">このように書かれています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">末端の官吏や公吏が強行した理由を、金賛汀は複数の証言から</span></p><p><span style="font-size:1em;">割り当て人数に関しての意義は面長（村長）すらも断ることができなかったと述べています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">1940年12月、関東軍通化憲兵隊の報告では、</span></p><p><span style="font-size:1em;">鶴岡炭鉱で働かせるための募集をしたが、人が集まらなかったので「強制募集」をし</span></p><p><span style="font-size:1em;">140人を集めたが、15人は現地に着く前に逃亡したという記録もあります。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">その一方で、崔基鐫は自らの体験として、朝鮮総督府朝鮮労務協会による労務者募集に関しては</span></p><p><span style="font-size:1em;">恐怖したと記す一方、同時期に行われた三菱手稲鉱業所が朝鮮半島で1,000名の鉱夫を募集した際には、7,000人の応募者が殺到し、応募者を選別するための選考試験を実施し、合格者の全員が歓喜に溢れたと綴っています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">特別高等警察の報告によると、1944年の福岡県飯塚市住友鉱業所における労務斡旋と逃亡事件によれば、5月24日、朝鮮総督府朝鮮労務協会によって斡旋された朝鮮労務者72人のうち、54人が住友工業所に来往する前に逃亡</span></p><p><span style="font-size:1em;">5月27日朝鮮総督府労務協会によって斡旋された朝鮮労務者37人のうち、2人を除く35名が来訪する前に逃亡</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">その一方で西岡力によれば、</span></p><p><span style="font-size:1em;">日本に斡旋された朝鮮労務者が移送中や就業中に逃亡し、</span></p><p><span style="font-size:1em;">自分自身で就職口を捜す朝鮮人を「自由渡航者」と呼ぶのが一般的だったとし、</span></p><p><span style="font-size:1em;">この「自由渡航者」は処刑の対象（朝鮮半島に送還する）だったと書き記されています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">山口公一によれば、</span></p><p><span style="font-size:1em;">九州地域で就労する朝鮮人炭鉱労働者は「タコ部屋」に入れられ、12時間を超える平均労働時間で</span></p><p><span style="font-size:1em;">賃金は日本人の半分、強制的に貯金と朝鮮労務係のピンハネの結果、労務者の手元には一切対価が渡らなかった。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">君島加彦は、朝鮮人労働者の中で賃金が手元に入らないことに対し、抵抗運動として企業や斡旋者と衝突した事例もあると述べています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">しかし、その一方で崔基鐫は、北海道で就労する朝鮮人炭鉱労働者は、休日に札幌でショッピングを楽しむものや銭函湾で舟遊びをするものなどで溢れかえったといい、鄭大均は、朝鮮人労働者を日本人が管理することは稀で日本刀を持たせ朝鮮人に高圧的な態度で管理していたのは、労務者を斡旋していた朝鮮人だと記しています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">李性国によれば、松代大本営に徴用された朝鮮人7,000人は無給であり、</span></p><p><span style="font-size:1em;">その過酷な労働環境から逃げ出すものが続発するために「見せしめ」として拷問されたものや</span></p><p><span style="font-size:1em;">天皇陛下の「御座所」を掘削した朝鮮人は、秘密漏洩を恐れ、180人が殺害された。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">しかし、その一方で、飯島滋明によれば、</span></p><p><span style="font-size:1em;">西松組や加島組の募集で、松代大本営造営にかかわった朝鮮人労務者25万4千人は、</span></p><p><span style="font-size:1em;">食事や寄宿舎も日本人労働者と変わらなかったが、ひじょうに劣悪な環境だったために、</span></p><p><span style="font-size:1em;">ストレスのはけ口として日本人労働者のリンチに逢うことは日常的だったが、</span></p><p><span style="font-size:1em;">ただし給料はピンハネされることなく、満額もらっていたと記しています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">金英達は、在日朝鮮人が「強制連行」という言葉を使う場合は、</span></p><p><span style="font-size:1em;">国民徴用令で徴用されたものを指して使用する場合は、非常に少なく、</span></p><p><span style="font-size:1em;">国家総動員法により徴用された朝鮮人労働者を指し、</span></p><p><span style="font-size:1em;">また戦時動員の中で具体的な暴力的なケースのみを「強制連行」としていないことを問題とし、</span></p><p><span style="font-size:1em;">強制連行は「神話」だとしています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">これはどういう事でしょうか？</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">朴慶植によって1965年に「朝鮮人強制連行の記録」が発表されました。</span></p><p><span style="font-size:1em;">それを皮切りに、</span></p><p><span style="font-size:1em;">1967年に松村高夫が「日本帝国主義化における植民地労働者/在日朝鮮人・中国労働者を中心にして」を発表</span></p><p><span style="font-size:1em;">1968年に高村直樹が「第二次世界大戦前夜/炭鉱における朝鮮人労働者」を発表</span></p><p><span style="font-size:1em;">1975年に金賛汀が「証言/朝鮮人強制連行」を発表</span></p><p><span style="font-size:1em;">1977年に戸塚英夫が「日本帝国主義の崩壊と移入朝鮮人労働者」を発表</span></p><p><span style="font-size:1em;">1978年に藤原彰が「日本軍と朝鮮人」を発表、畑中康男が「記録・朝鮮人労働者の戦い」を発表</span></p><p><span style="font-size:1em;">1979年に山川昭次が「朝鮮人・中国人強制連行研究史論」を発表</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">これらの研究所により「朝鮮人強制連行」に関する書籍や研究論文が続々と発表されます。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">その結果、左派系日本人は、戦時期の動員計画段階により朝鮮人は募集や官斡旋という形で</span></p><p><span style="font-size:1em;">強制的に行われた事実がある上で、外務省が徴用も強制連行と認めたのだから、日華事変以降来日した在日朝鮮人はすべて「強制連行の被害者」であるという論調に変貌していきます。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">その後大蔵省管理局「日本海外活動に関する歴史調査」に記載された1939年～1945年までに来日した</span></p><p><span style="font-size:1em;">朝鮮人移入労働者が72万4737人、その家族10万7699人のすべてを「強制連行」の被害者だとしているのです。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">しかし、強制的だったと法務研修所が結論付けた、朝鮮総督府朝鮮労務協会による斡旋者数である1万4515人やその他に加算されるべき、本来自由意志ではなく、強制的に斡旋された朝鮮人がいたとしても、募集という自由意志で来日した朝鮮人もいるので、1939年～1945年までに来日した朝鮮人移入労働者72万4737人とその家族10万7699人をすべて強制連行の犠牲者とせず、「強制連行」の定義を明確にした上で、実数や被害を算出するべきなのに</span></p><p><span style="font-size:1em;">右派系日本人は徴用を論点に「強制連行」はなかったと主張し、</span></p><p><span style="font-size:1em;">左派系日本人は国家総動員法で来日した総数が「強制連行」だと主張し、</span></p><p><span style="font-size:1em;">まったく議論が噛み合わない状態です。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">「強制連行」というあいまいな定義の言葉だけが独り歩きした結果、朝鮮人強制連行は学術論争ではなく、左右のイデオロギー論争に陥り、左派系は朝鮮人の犠牲者数を多くするために、強制連行の範囲を広くし、右派系日本人は犠牲者数を少なくしたいために、強制連行の範囲を狭くし、朝鮮人強制連行自体そのものを否定している。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">即ち、この論争は歴史の事実を解明するのではなく、自分たちの心情を正当化したい論争に陥って</span></p><p><span style="font-size:1em;">結果として強制連行を「神話化」しているといえます。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">ちなみにですが、外務省の1959年の記録によれば、</span></p><p><span style="font-size:1em;">国家総動員法制定前から来日し、居住する在日朝鮮人は38万8359人</span></p><p><span style="font-size:1em;">国家総動員法制定後に来日し、居住する在日朝鮮人は3万5016人</span></p><p><span style="font-size:1em;">国民徴用令で来日し、居住する在日朝鮮人は245人</span></p><p><span style="font-size:1em;">終戦後から日本国籍を焼失する1952年までに来日し、居住する在日朝鮮人は7万2036人</span></p><p><span style="font-size:1em;">戦前に日本で誕生した在日朝鮮人2世は、17万3311人</span></p><p><span style="font-size:1em;">戦後に日本で誕生した在日朝鮮人2世は、20万8828人</span></p><p><span style="font-size:1em;">ですので、どの様に定義しても、国家総動員法施行前に来日し、居住する在日朝鮮人のほうが多いので、在日朝鮮人の子孫すべてが強制連行されたものとその子孫ということはありませんが、</span></p><p><span style="font-size:1em;">日本には少なからず、自由意志ではなく、強制的に斡旋された朝鮮人がいることも事実です。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">逆に、国家総動員法が施行された後に、来日した朝鮮人の人数が、</span></p><p><span style="font-size:1em;">終戦後に朝鮮人が日本国籍を喪失する迄の戦後動乱期に来日し、居住する人数よりも</span></p><p><span style="font-size:1em;">少ないことを深く精査するべきだと思います。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">そもそも「強制連行」という言葉を世に広めたといわれる朴慶植も、</span></p><p><span style="font-size:1em;">「文字通り解放された日は、強制連行、強制労働からの解放の日であった</span></p><p><span style="font-size:1em;">すべての強制連行被害者は先を争うように帰国を急いだ」としっかり記載してますし、</span></p><p><span style="font-size:1em;">韓国政府に対して戦前の大日本帝国の被害者、いわゆる「強制連行」の被害者に対する</span></p><p><span style="font-size:1em;">補償申請者は39人しかいません。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">鄭大均は、朴慶植を筆頭にした「強制連行」に関する書籍は、当時の日本社会で一般に</span></p><p><span style="font-size:1em;">認知されることはなかった。しかしこれが日本国内で一般認識となったのは、</span></p><p><span style="font-size:1em;">学生運動が収束し、1980年代になり、学生運動に参加したであろう学生が、</span></p><p><span style="font-size:1em;">彼らがマスコミに収束した後に、朝日新聞や毎日新聞などが「朝鮮人強制連行」に関する報道を</span></p><p><span style="font-size:1em;">盛んに発表したからだと結論づけています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">実際「世界同時革命」を標榜した重信房子の著書「わが愛の革命」のゴーストライターを務めた</span></p><p><span style="font-size:1em;">極左色が強い脚本家の佐々木守は、</span></p><p><span style="font-size:1em;">「今の日本の諸悪の根源は天皇制であり天皇批判ができれば何だっていい」という理屈で</span></p><p><span style="font-size:1em;">TBSに対し、学術的に信ぴょう性が薄かろうと、</span></p><p><span style="font-size:1em;">天皇制を批判できるものは何でも取り上げることを推奨した岩佐曜一との対談で、回顧し、</span></p><p><span style="font-size:1em;">黒岩重吾は、朝鮮南部を倭が支配していたことすら口にすることができない時代に突入したと回顧しています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">その結果、日華事変以降に強制で多くの朝鮮人が日本に連れてこられたことは事実であっても、</span></p><p><span style="font-size:1em;">戦後、朝鮮人が自由を回復した後に、日本に残り在日朝鮮人が自分たちで選んだ行為を無かった事にし、日本に残り続ける理由を「強制連行の結果」とするのは、自己責任において決断と選択を繰り返す事が主体的に人間が生きる事であるが、「強制連行」の論者は、在日朝鮮人を「責任能力の無い被害者」に仕立て上げ、それが「なんでも人のせいにする韓国人」という不名誉な通念を日本国内で補強した結果、反差別を謳う「のりこえネット」の共同代表である辛淑玉が、</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">「北が日本人女性を拉致したのは嘘だと思う。もし仮に北が日本人を拉致したとしても</span></p><p><span style="font-size:1em;">日本人は批判できるだろうか？膨大な数の朝鮮人を国家の名の下に拉致した歴史的な事実がある。</span></p><p><span style="font-size:1em;">今なぜ日本に多くの朝鮮人がいるか考えてみてほしい。自国の歴史を忘れた発言が多すぎる」</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">この発言のように「強制連行」を持ち出せば、何ら日本のマスコミは問題視しない魔法の言葉と化し、</span></p><p><span style="font-size:1em;">ぎゃくに、この発言を在日朝鮮人の創意と捉える一部ネトウヨは行動界隈は、</span></p><p><span style="font-size:1em;">在日朝鮮人に憎悪を向ける悪循環を生み出していると思います。</span></p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/pirukurun/entry-12415617504.html</link>
<pubDate>Tue, 30 Oct 2018 23:58:48 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
