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<title>ふぁらおの恋愛相談室</title>
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<description>恋のT字路に迷い込んだときに、お立ち寄りください。恋愛の特権階級がお待ちしております。</description>
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<title>「非生産性」という宝</title>
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<![CDATA[ <p>　諸君は人間の三大欲求というものを御存知であろうか？知らないもののために、ここに明記しておこう。</p><p>&nbsp;</p><p>・食欲</p><p>・睡眠欲</p><p>・性欲</p><p>&nbsp;</p><p>の３つである。</p><p>&nbsp;</p><p>　確かに、人間の営為の殆どは、その源流をたどっていくとこの３つから派生しており、三大欲求という考え方は的を得ているといえる。働いてお金を稼ぐのは、日々の食料を確保し、食欲を満たすためである。旅先でよい旅館に泊まろうとするのは、ゆったりとした気分を味わいよく眠り、睡眠欲を満たすためである。メイクをしたりファッションに気を遣うのは、異性の気を引き、性欲を満たすためである。無論、行動の動機というものは複雑多岐なものであるが、それでも根本にはやはり三大欲求が屹立する。</p><p>&nbsp;</p><p>　しかしこの中でも、性欲は、他の２つの食欲、睡眠欲とは性質を異にする。それは、生きていくために必要不可欠か否か、という点である。</p><p>　人間は、何も食べなければ一週間ほどで死亡してしまう。食欲というのは、餓死に対する警告である。睡眠に関しても、まったく眠らない日々を続ければ体調に異変をきたしてしまう。睡眠欲があるからこそ、このままでは体がおかしくなってしまうということに気づくことができる。</p><p>　だが、性欲の場合はどうであろうか。仮に性行為が皆無だったとしても、人間が生命活動を停止するには至らないだろう。性欲がなかったとしても、別に必要最低限の生活をきたすことはない。確かに、種の保存、すなわちヒトという種を存続させるという観点からみると、性欲というのは不可欠な欲求である。しかし、個人レベルとなると、そうはいえないだろう。よって、性欲は人間の生命活動という点から見ると不要という結論に至る。</p><p>&nbsp;</p><p>　では、性欲は食欲や睡眠欲に比して価値の低い欲求なのだろうか？小生は、この問に対して声を大にして「否」と答える者である。「必要性」と「価値」はまったくの別問題である。</p><p>&nbsp;</p><p>　人間の活動は、かまえて生命活動だけではない。ただ動いているだけであれば、それはもはや人間ではない、いや、生物ではない。機械である。ロボットである。性欲に突き動かされながらエッチな妄想を繰り広げる、これこそが、我々を我々たらしめている、存在意義そのものなのである。食事と睡眠を取れば、人間は動くことができる。しかし、なんのために動くのかという最終目的を形成するものこそが、性欲なのである。よって、我々が生き続ける限り、性欲は実は不可欠な欲求なのである。</p><p>&nbsp;</p><p>　経済学者のジョルジュ・バタイユは「消費の概念」(1933)という論文において、人間の消費活動について以下のように区分しているので、その言葉の一部を引用したい。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　人間の活動は、生産と保存のプロセスにすべて還元されるのではなく。エネルギー消化の活動は、はっきりと弁別される二つの部分に分割される。第一の部分は、なにか還元可能なものであって、一定の社会に属する諸個人が、生命を存続させ、生産活動を持続させるのに必要な最小限に生産物を使用する、という行為によって表される。それはすなわち、<u>生命の存続と生命活動の維持のための基本的な条件</u>である。<u>第二の部分は、非生産的といわれる消費によって表される。</u>即ち、奢侈、葬儀、戦争、祭礼、壮麗な記念碑の建立、賭、</p><p>見世物、芸術、倒錯的な性行動（生殖という目的から外れたもの）などが示すのは、少なくとも原始的な環境のうちでは<u>、目的をそれ自体のうちに持つ活動</u>がかなり多くある、ということである。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>倒錯的な性行動を「生殖という目的から外れたもの」に限定したことに対してだけは、小生は上記の性欲の必要性という観点から反駁したいのであるが、重要なのは、バタイユが「非生産的な消費」に言及している点である。</p><p>&nbsp;</p><p>　奢侈、葬儀、戦争、祭礼、壮麗な記念碑の建立、賭、見世物、芸術、倒錯的な性行動…</p><p>&nbsp;</p><p>なんとも汚らしくも美しいものではないか！これこそが、人類に対する讃歌である！そして、これらの美しき「非生産的な消費」の多くの源流こそが、性欲になるのである。</p><p>&nbsp;</p><p>（余談になるが、バタイユは経済学者として成功する前は、ポルノ小説を書いていた。また、エロティシズムにも韓進を持ち、著書を出している。「非生産的な消費」に何らかの価値を見出していたのだろう。なんとも見上げたLoverである。）</p><p>&nbsp;</p><p>　Loverを志す者たちよ、非生産的であれ！なぜなら、それこそが我々を我々たらしめる、讃歌の響きであるからだ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/piyopiyo7342/entry-12606366620.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Jun 2020 20:45:18 +0900</pubDate>
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<title>「恋」と「愛」</title>
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<![CDATA[ <p>　恋愛を語るに当たって、まずはじめに問い直さなければならない問題がある。これまでの小生のブログを読んだ諸君の中には、「この人の言う「恋愛」とは、何を対象として、何を目的としているのだろうか」という疑問を感じたものも少なくないはずである。</p><p>　そこで今回は、「恋愛」という言葉を、「恋」と「愛」に分けて、文字通り一字一句考えていく。</p><p>&nbsp;</p><p>①「愛」</p><p>　「愛する」ということばの使用範囲は、かなり広いものである。「妻を<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">愛する</span></span>」「恋人を<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">愛する</span></span>」といった、異性を対象とした使い方以外にも、「犬を<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">愛する</span></span>」「車を<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">愛する」</span></span>「故郷を<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">愛する</span></span>」というように、人間以外の生き物、非生物、概念的な名詞など、非常に多くの名詞を目的語にとる。熟語としても、「人類<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">愛</span></span>」「隣人<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">愛</span></span>」「<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">愛</span></span>校心」「動物<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">愛</span></span>護」など、愛の対象として非常に広範なモノや概念を対象としていることがわかる。つまり、「愛」という言葉は、ありとあらゆるものに対して向けられる感情を指す、壮大で抽象的な言葉であるといえる。</p><p>&nbsp;</p><p>②「恋」</p><p>　「愛」という言葉の対象が非常に広範に渡るのに対して、「恋」という言葉の対象は狭いものであり、性的欲求を前提とする。「花子に恋する」「太郎くんに<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">恋する</span></span>」「隣の子に<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">恋する</span></span>」とは言うものの、「車に<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">恋する</span></span>」という言い方は、ごくわずかな詩的な表現を除けば使われない。またその詩的な表現についても、「車に<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">恋する</span></span>」と言えば、「まるで異性に抱くかのような感情を抱くほど、車のことが好きである」という比喩表現であり、やはり性的欲求のニュアンスの上に成り立っている。このように、「恋」という言葉は、あくまでも性的欲求を前提としており、専ら異性を対象とする（例外として、LGBTなどでは同性に対して用いる場合もあるかもしれないが、今回の記事では話をシンプルにするために割愛する）。</p><p>&nbsp;</p><p>　</p><p>　お分かりいただけただろうか。「恋愛」という言葉は、その対象が広範にわたり、抽象的な意味合いの強い「愛」という言葉と、異性を対象とし、性的欲求を前提とする「恋」という言葉が組み合わさってできた言葉なのである。</p><p>　そして、これらの２つの言葉は、相互補完的な関係にある。「恋」は、「愛」という抽象的な言葉に「異性、性的欲求」という限定的な指向性を付与する。「愛」は「恋」という言葉に、壮大な問題系への接続回路を開いてくれる。</p><p>　つまり、「恋愛」という言葉は、卑近な色恋を対象としつつも、人類や世界といったダイナミックな問題へのアプローチも可能にするものである。なんとも素晴らしい言葉ではないか！</p><p>&nbsp;</p><p>　小生が恋愛を語るのは、単に卑近な問題に対しての解答を与えるためではない。それらの卑近な問題に対する思考を通じて、大いなるテーマを解き明かすためである。故に、小生が恋愛について語る際には、性的欲求を意識しつつも、語る内容はそれだけにとどまらない。</p><p>　</p><p>　諸君、今日も、目に入った異性に対して性的欲求を感じたかもしれない。だが、決して恥じることはない！諸君がその性的欲求から世界の真実を探求し、真なるloverとなった瞬間、国連事務総長と同じくらい、否、それ以上に、世界について、人類について考えているのである！</p><p>&nbsp;</p><p>　なぜなら、そのとき諸君は「恋」と「愛」をしているのだから。</p>
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<link>https://ameblo.jp/piyopiyo7342/entry-12601630565.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Jun 2020 20:49:46 +0900</pubDate>
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<title>「ディズニー好き」の欺瞞</title>
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<![CDATA[ <p>　千葉県在住の小生がTinderなどを見ていると、プロフィールに「ディズニー」と書いてある人が多く見受けられる。彼ら・彼女らは「ディズニーが好き」ということを一種のステータスとして、恋愛の武器にしようとしている。</p><p>　しかし、このような行為は見当違いも甚だしいといえる。誤解のないように始めに行っておくと、小生はディズニーは決して嫌いではない。『モアナと伝説の海』も『アナと雪の女王』も拝見しており、興味を持っている。だが、いや、だからこそ、「ディズニー好き」の人たちには疑問を感じるのである。</p><p>　</p><p>　ディズニーがアメリカで生まれた際には、移民が自らの故郷を思い出し、アイデンティティを再認識するコンテンツであった。何も頼ることのないアメリカの荒野において、ミッキーを見て、遠い故郷のペストを、苦しいが懐かしい思い出として脳内に蘇らせる。アラジンを見て、自らの故郷オリエントに思いを馳せ、オリエント人としての自分を意識する。</p><p>　しかし、日本ではどうだろうか。「ディズニー好き」を標榜する人たちは、アイデンティティを見失っているが、臭いものに蓋という具合にそこに「ディズニー好き」という看板をかぶせているのである。すなわち、欺瞞である。真実と愛に対する詐欺師である。</p><p>　</p><p>　このような、アイデンティティの探求から目をそむけ、有耶無耶にしてしまおうという人間に、どうして愛を探求することができようか。アイデンティティの喪失というのは、現代社会ではありふれた問題であり、故に、確固たるアイデンティティを持たぬものに恋愛の資格がないとは、小生は思わない。迷い続けていても、loverとなり得る。しかし、これを放棄した人にloverは務まらない。ディズニーのアトラクションの長蛇の待機列で何も考えずに手をつないでいるようなカップルはloversとは言わない。それは「心と真実を失った者の吹き溜まり」に過ぎない。</p><p>&nbsp;</p><p>　「ディズニーは永遠に完成しない。世界に想像力がある限り成長し続ける。」</p><p>&nbsp;</p><p>これはウォルト・ディズニーの名言である。同じように、「恋愛も永遠に完成しない。」なぜなら、完成した恋愛があるとしたら、それは恋愛としては死んでいるからだ。前回の記事で述べたように、愛は常に変化し、活動し続けることであるからだ。</p><p>　</p><p>　諸君、自己を、真実を探求し続けたまえ。決して、そこから目をそらしたり、偽ろうとしてはいけない。その行為こそが恋愛なのだから。</p>
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<link>https://ameblo.jp/piyopiyo7342/entry-12600412825.html</link>
<pubDate>Fri, 29 May 2020 20:19:06 +0900</pubDate>
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<title>キリギリスとアリ</title>
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<![CDATA[ <p>　よく、小説や映画、ドラマなどで、「永遠の愛」という言葉を耳にする。</p><p>　ここで諸君に改めて問いたい。「永遠の愛」などというものは、そもそも実在するのだろうか。また、もし仮に実在するとして、それは真に心地よいものだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　人間は、永遠を尊いもののように扱い、刹那を否定する。近年では、人生百年時代なる標語のもと、人生設計という言葉を耳にする機会も多いのではないか。また国際社会では、持続可能な社会を訴えるSDGsが叫ばれている。このようにして、永遠というものに少しでも近づこうと手を伸ばし続けてきたのが、あるべき人類史として今なお屹立する。</p><p>　しかし、だ。永遠というものが本当に幸福のあるべき姿なのであろうか。小生は思うのである。予測不可能な未来のために、堪え続けるのが本当に幸福なのかと。固着した「幸福」が、真に幸福なのかと。</p><p>　そんなことは断じてありえない。なぜなら、人間の生の本質は、活動し、変化し続けるものだからである。ゾーエ―ではなく、ビオスこそが人間の自然な状態である。そして、その動的な状態の結晶こそが、恋愛なのである。　</p><p>&nbsp;</p><p>　彼らは言う。我々が今勤勉になることで、老後に資金の蓄えをつくり、安心して暮らせると。</p><p>　嘘をつけ！名もなき未来のために人間性を破却する人でなしめ！</p><p>　老後を長く生きたところで、決して永遠にはなれない。なるほど、医療発達により、人間の肉体は99.9999……まで永遠に近づけるかもしれない。だが、100の永遠は絶対に勝ち取れない（勝ち取ったとすれば、そのときはすでに死を迎えている）。現在から目をそむけ、そのようなありえない夢想に固執するだけの者に、未来を語る資格はない。我々の幸福は、恋愛を謳歌する刹那にこそ存在する。</p><p>&nbsp;</p><p>彼らは言う。我々が化石燃料の消費を抑えることで、子々孫々に持続可能な環境保護社会を受け継ぐことができる。それにより、人間は永遠の座にまた一歩近づくことができると。</p><p>　嘘をつけ！名もなき未来のための自己犠牲に陶酔する偽善者め！</p><p>　我々が環境保護をするのは、そこにいる動物たちへの愛に基づかなければならない。メスをめぐって戦うシロクマを見たいからだ！ペンギンのセックスを見たいからだ！そして何より、そこに彼らの愛があるからだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　永遠とは、活動・変化を捨てたという言う意味で、一種の死である。永遠は顔を持たない。そんなものに肩入れすることは、人間性を失ってしまう。</p><p>　対して、愛は、活動し、変化し続けることである。顔の見える者への、刹那的で、無償の感情である。確かに愛は持続しない。しかし、その刹那、恋愛をしていることだけは絶対に消えない。</p><p>　</p><p>　恋愛とは、活動し続けることである。恋愛とは、変化し続けることである。恋愛とは、生きることである。</p><p>　真なるloverになりたいと思うのであれば、その刹那の愛を謳歌せよ！それは春雪のごとく消え去るものかもしれないが、今、恋愛をしているということだけは真実なんだ！</p><p>　「永遠の愛」など求めてはいけない。そんなものは、「死にながらにして生きる」という、ただの二律背反である。故に、俗悪極まる。</p><p>　</p><p>　「アリとキリギリス」の逸話から、何を学べるか？勤勉さか？</p><p>　否。キリギリスが真のloverであるということだ。彼らの生み出す愛の歌に、毎年秋になると我々は魅了され、我々自信の愛を見出す。なんとも立派なloverではないか！</p>
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<link>https://ameblo.jp/piyopiyo7342/entry-12599724455.html</link>
<pubDate>Tue, 26 May 2020 22:08:30 +0900</pubDate>
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<title>眼鏡をかけて恋愛をするべからず</title>
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<![CDATA[ <p>　諸君に改めて問おう。諸君が今見ているものは、＜真なる世界＞か？</p><p>&nbsp;</p><p>　大方の人が、自分は＜真なる世界＞を見ている、と、当然のように答えるだろう。しかし、小生に言わせれば、おそらく諸君の６～７割は、答えを誤っている。この６～７割とは、眼鏡やコンタクトレンズを装着している者である。</p><p>&nbsp;</p><p>　眼鏡やコンタクトを装着している諸君は、そっと外してみよう。諸君の眼前には、ぼんやりとした世界が広がるだろう。文字はぼやけて見え、絵は判別できない。人によっては、顔が判別できない者もいるかもしれない。</p><p>　そう、そのぼんやりとした世界こそが、諸君の内にある＜真なる世界＞である。眼鏡をかければ、ものがはっきりと見える。しかし、それは＜真なる世界＞ではない。</p><p>　しっくり来なければ、顕微鏡や望遠鏡を想像すればよいだろう。ぶつぶつとした葉緑体の映るものを見て、誰が葉っぱと思うだろうか。ぼこぼことしたクレーターを見て、誰が月だと思うだろうか。</p><p>　すなわち、レンズを通して映し出される世界は、本質的には、我々の内にある＜真なる世界＞とはかけ離れた不自然なものである。レンズを通して映し出される世界は、光の屈折現象により映し出される現実の虚像にすぎない。ただ、眼鏡をかけて見える世界が日常生活に都合がよいという理由から、我々は眼鏡を見ている世界が真実であることを自明の理として受け入れているにすぎない。</p><p>&nbsp;</p><p>　だがしかし、恋愛とは、自身の内にある＜真なる世界＞を指す言葉である。たとえそれが判然としないものであっても、それを抱擁せねばならない。</p><p>　例えば、諸君が愛しき人に「今週末会わないか？」と連絡したとしよう。すると、それに「今週末はちょっと忙しくて」と返事が来る。諸君は想像するだろう。本当に忙しいのか、それとも暗に断っているのかと。あるいは、返事を送った側も考えるだろう。「自分の返事によって、断ったと思われてしまうかもしれない。」「断ったことで、今後気まずい関係になりはしないか」と。</p><p>　その通りである。この行き詰まりの思考状態こそが、＜真なる世界＞であり、恋愛である。しかし小生が浮世を垣間見た所だと、これを理解せず、未知の世界に対して一定の解を与えた上で、それを仮定として行動する者も少なからず見受けられる。すなわち、「相手が自分のことを嫌いなわけがない」や、「〇〇さんはうまい言い逃れをするようなタイプではない」などと、決めた上で行動する者である。</p><p>　小生に言わせれば、このような人物はloverの風上にも置けない。このような人物は、日常生活においては、「自信がある」「行動力がある」というように高い評価を受ける場合もしばしばある。しかし、＜真なる世界＞を至上とするloverとして見ると、もってのほかである。</p><p>&nbsp;</p><p>　故に、小生は提言する。ただ迷妄を抱擁せよ、と。なぜなら、それが＜真なる世界＞である。その結果漏れ落ちる叫びや嘆きがあるとすれば、それは恋愛の乳である。</p><p>&nbsp;</p><p>　我が恋愛革命は、＜真なる世界＞からの逃避ではない。＜真なる世界＞の探求である。</p><p>　</p><p>　一流のloverになろうとするのであれば、＜真なる世界＞を見出すことを忘れた者に愛の鳥は止まらないということを、ゆめゆめ忘れてはいけない。眼鏡を外し、迷妄のうちの＜真なる世界＞を抱擁せよ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/piyopiyo7342/entry-12598791052.html</link>
<pubDate>Fri, 22 May 2020 19:49:53 +0900</pubDate>
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<title>我が戀愛革命の降誕</title>
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<![CDATA[ <p>　今、我が胸裡に一羽の鳥が飛来した。愛という名の鳥である。</p><p>&nbsp;</p><p>　鳥は告げる。</p><p>　「今こそ、恋を語れ」と。</p><p>&nbsp;</p><p>　鳥は告げる。</p><p>　「今こそ、愛を語れ」と。</p><p>&nbsp;</p><p>　鳥は告げる。</p><p>　「今こそ、恋を伝えよ」と。</p><p>&nbsp;</p><p>　鳥は告げる。</p><p>　「今こそ、愛を伝えよ」と。</p><p>&nbsp;</p><p>　ああ、我が鳥よ！その羽で我を抱擁したまえ！</p><p>　ああ、我が愛よ！その口吻で我を溶解したまえ！</p><p>&nbsp;</p><p>　さればこそ、我は愛の伝道者足り得ん。</p><p>&nbsp;</p><p>　鳥は叫ぶ。</p><p>　「今こそ、戀愛を革命せよ」と。</p><p>&nbsp;</p><p>　鳥は飛び去り、蒼穹を舞う。</p><p>　我は立ち去り、双眸を濡らす。</p><p>&nbsp;</p><p>　今ここに、我は高らかに宣言する。</p><p>　「我こそが、戀愛に選ばれしものである。今こそ、諸君らを革命せん」と。</p><p>&nbsp;</p><p>　ああ、恋よ！愛よ！光を失いしものよ！</p><p>　今こそ、その凱歌で、虚空を曇らせよ！</p>
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<link>https://ameblo.jp/piyopiyo7342/entry-12598540210.html</link>
<pubDate>Thu, 21 May 2020 16:58:00 +0900</pubDate>
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