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<title>「ありがとう」　その一言が　世界を救う</title>
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<description>人は自ら感謝されることを望み努力している。しかし、感謝されようと自己研鑚するあまり、他人に感謝することを怠ってはいないだろうか。ここでは、私が感謝の必要性に至った思索の経緯と、日々の感謝の実践を書き記すことにする。</description>
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<title>岐阜基地航空祭</title>
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<![CDATA[ 　昨日は、岐阜基地航空祭を見学。<br>　天候に恵まれ、青空の中を、数々の戦闘機等が飛行展示を行う。<br><br>　それにしても、各機種のなかなかのエンジン音。自衛隊に対しては、賛否両論あるだろうし、岐阜基地のある各務原市の方々の中にも、いろんな意見はあると思うけど、こうした航空祭が開催されるには、<font color="#FF0000"><strong>地元の方々のご理解あってのことなんだろう</strong></font>なぁ、と思うと、つくづく感謝の気持ちである。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20141124/21/platy-alog/10/00/j/o0800045013139324296.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20141124/21/platy-alog/10/00/j/t02200124_0800045013139324296.jpg" alt="" width="300" height="150" border="0"></a><br>
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<pubDate>Mon, 24 Nov 2014 21:28:38 +0900</pubDate>
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<title>お金を借りることは素晴らしいことだ(3/3)</title>
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<![CDATA[ 　<font color="#FF0000"><strong>多くの資源は存在する量が明確である</strong></font>。それを人々で共有するのか、権力者などの特定の誰かが占有するのかは、その社会の在り方やそこに住む個人に依拠する問題であるが、いずれにせよ、総量は明示的なものである。しかし、<font color="#FF0000"><strong>お金という資源だけは別</strong></font>なのだ。<font color="#FF0000"><strong>金融という手段を用いることによって、発行されているお金の総量を上回るお金を社会に流通させることが可能になる</strong></font>のである。それは、昨日の事例のように、お金を借りることによって達成されるとともに、その借りる量が多いほど、社会に流通するお金の量は大きくなるのである。<br><br>　このように銀行が預金と貸し出しを繰り返し行うことで、実際のお金の発行量以上のお金を社会に流通させるようにすることを「信用創造」と呼び、信用創造の結果としてお金の流通量が増加することの影響具合を「乗数効果」と呼ぶ。インターネットなどで「信用創造」と検索すれば、より詳しく専門的な解説が見ることができるが、ここでは割愛する。ただここで申しあげたいことは、<font color="#FF0000"><strong>お金を借りるという行為は、社会全体の見た目の貨幣資源を増大させるという素晴らしい行為</strong></font>なのである。称賛されることはあっても、けっして非難されるような行為ではないのである。ただし、あくまで称賛されるのは「お金を借りる」という行為のみであり、当然ながら、そのお金は返済されるという前提である。<font color="#FF0000"><strong>借りたお金を返さないことを肯定するつもりない</strong></font>と、最後に改めて断っておく。<br>
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<pubDate>Sun, 23 Nov 2014 21:16:40 +0900</pubDate>
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<title>お金を借りることは素晴らしいことだ(2/3)</title>
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<![CDATA[ 　（日本銀行が発行している<font color="#0000FF"><strong>「ベースマネー」</strong></font>、金融機能の効果である<font color="#0000FF"><strong>「信用創造」</strong></font>、世間に流通している<font color="#0000FF"><strong>「マネーサプライ（マネーストック）」</strong></font>、といった用語を検索いただければ、より詳しく解説されているサイトもあると思いますが、念のため説明します）<br><br>　たとえば、現状のお金の量が少ないと判断した日本銀行が、１００の資金を追加で発行して市中銀行Ａに供給したとする。<br><br>　市中銀行Ａはこの１００の資金を任意の企業Ｂに融資する。資金を借入れた企業Ｂは、当然ながら用途があってその資金を借入れたわけであり、その用途先である別の企業Ｃに借入れた１００を支払うことになるであろう。支払いを受けた企業Ｃは、その資金をすぐに使う用途がなければ、一度銀行に預け入れるだろう。ここでは、市中銀行はＡしかないものとすると、企業Ｃは銀行Ａに１００を預け入れる。<br><br>　企業Ｃから１００の預金を手に入れた銀行Ａは、Ｃが預金を引き出したいという場合に備えて一定金額は手元に残すが、可能な限り貸し出しを行って、利息を稼ごうとする。銀行の経験上、その手元に残しておく金額を預け入れられた金額の１０％とするならば、Ｃの預金１００のうち、９０を別の誰かに貸し出すことができるわけである。そして新たに企業Ｄが銀行Ａから９０の借入を受けたとしよう。企業Ｄも当然ながら用途があって資金を借り入れたわけであり、その用途先である企業Ｅに９０を支払うとする。支払いを受けた企業Ｅは、その資金をすぐに使う用途がなければ、一度銀行に預け入れるであろう。すると銀行Ａは企業Ｅの預金として９０を受け入れ、再度一定金額（ここでは１０％の９とする）を手元に残して、可能な限り貸し出しを行うとする。<br><br>　ここで興味深いことは、<font color="#FF0000"><strong>資金そのものは日本銀行から１００追加されただけであるにもかかわらず、その資金が巡りめぐった結果として、企業Ｃの預金が１００増加し、企業Ｅの預金が９０増加し、という資金の連鎖が繰り返される</strong></font>のである。仮に銀行が自らの手元に残しておく金額を１０％とするならば、<br>100+90+81+・・・・・　（一般式でいうならば、100+100*(1-10%)+100*(1-10%))^2+100*(1-10%)^3+…となる）<br>≒100*(1/0.1)<br>=1000<br>となる。すなわち、日本銀行が１００の資金を追加で発行すると、各企業の預金口座が合計で１０００増えるのである（銀行が手元に残す金額が１０%の場合）。<br><br>　ちなみに、銀行が手元に残す金額を預金の２０%（すなわち、預金のうち８０%を貸し出すことができる）とするならば、企業Ｃに１００、次の企業Ｅに８０、と資金が連鎖的に回ることになり、この場合は<br>100+80+64+・・・・・　（一般式でいうならば、100+100*(1-20%)+100*(1-20%)^2+100*(1-20%)^3+…となる）<br>≒100*(1/0.2)<br>=500<br>となる。このケースでは日本銀行が１００の資金を追加で発行すると、各企業の預金口座が合計で５００増えるのである。<br><br>　つまり、銀行が貸し出しを増やす、言い換えれば、<font color="#FF0000"><strong>誰かがお金を借りれば借りるほど、企業や人々の預金残高という見かけ上の預金の合計が、実際に発行されたお金の量を大きく上回ることになる</strong></font>のだ。<br><br>　もちろん、だからといって際限なく借入することを許容すべきというのではない。しかし、現在の経済は、誰かが借金をすることによって（現在は政府がその役割を担っているのだが）何倍にも膨れ上がった資金のもとに成り立っているのである。つまり、<font color="#FF0000"><strong>誰も借金をしなくなれば、この世の中に溢れる資金量は減少する</strong></font>のである。<font color="#FF0000"><strong>私が不可思議に感じるのは、その事実を認識することなく、借金をすること自体を否定しておきながら、世の中に溢れる資金量は変化しない前提で、経済政策を主張する人がいるということ</strong></font>である。<br>
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<link>https://ameblo.jp/platy-alog/entry-11955667503.html</link>
<pubDate>Sat, 22 Nov 2014 21:32:38 +0900</pubDate>
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<title>お金を借りることは素晴らしいことだ(1/3)</title>
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<![CDATA[ 　このようなタイトルを書くと誤解を招く恐れがあるので、先に断っておくが、本稿では、<font color="#FF0000"><strong>お金を借りるという行為は、社会に対して有益であることを紹介する</strong></font>が、それは決して返さなくてよい、ということを意味するわけではない。<font color="#FF0000"><strong>借りたものは返すという前提のうえで、お金を借りることの有益性を紹介したい</strong></font>。<br><br>　最近の世論を見ていると、借金をすること＝悪いことであるかのような風潮が感じられる。日本の国債の発行残高を取り上げて、日本が崩壊すると叫ぶ識者もおられる。もちろん、お金を借りる行為も、その程度が行き過ぎた場合は、マイナスに作用することもあるだろう。しかし、現在の論調は、借りることそのものまでも否定するようなものに、私には見えるのだ。<br><br>　<font color="#FF0000"><strong>分かりやすいた例えを挙げるならば、お酒に近い</strong></font>。酒は百薬の長と呼ばれるように、アルコールと適度に付き合うことは、むしろ人間の身体にとってプラスに働きうる。しかし、行き過ぎてしまえば、アルコール依存症や急性アルコール中毒のような病気になってしまう。ただ、<font color="#FF0000"><strong>その負の側面だけをとらえて、酒は危険な物、酒を飲むことを禁止しよう、ということにはならない</strong></font>であろう。<br><br>　しかしながら、お金を借りることについては、昨今の日本社会の状況が影響してか、その効用が理解されることなく批判されているように見えてならない。酒は百薬の長と言われるように、<font color="#FF0000"><strong>お金を借りる行為は信用創造という効用をもたらす</strong></font>にも関わらずである。もちろん、日本社会の現状が、どの程度なのかの判断は人それぞれであろうが、少なくとも信用創造については（経済学や、他のサイトのほうがおそらく詳しいであろうが）説明をしておくべきであろうと思うのだ。<br>
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<link>https://ameblo.jp/platy-alog/entry-11955190193.html</link>
<pubDate>Fri, 21 Nov 2014 17:58:55 +0900</pubDate>
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<title>失意からの出会い</title>
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<![CDATA[ 　昨晩、スマホの充電を忘れたところ、今日の夕方ごろにスマホのバッテリーが無くなってしまった。「仕方ない」。そのように思いながら、ふと気付くことがあった。<font color="#FF0000"><strong>「夕方にスマホのバッテリーがなくなっても、案外困らないな」</strong></font>と。<br><br>　もちろん、万が一、緊急の連絡があったならば困っていたのかもしれない。しかし、平時においては、たいして困ることはないのだ。普段、スマホを触っていることが多いけど、<font color="#FF0000"><strong>「情報収集」という名目のもと、時間つぶしにスマホを眺める。そんな時間が多い</strong></font>のだ。<br><br>　今日の帰り道。<font color="#FF0000"><strong>カバンの中で1週間近く寂しそうに佇んでいた書籍に、そっと手が伸びる</strong></font>のであった。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/platy-alog/entry-11954922884.html</link>
<pubDate>Thu, 20 Nov 2014 23:08:23 +0900</pubDate>
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<title>無邪気でいること</title>
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<![CDATA[ 　私の家は、小学校の近くにある。朝や夕方など、時間があった日には、通学する小学生と遭遇することが出来る。<br><br>　それにしても、<font color="#FF0000"><strong>小学生は無邪気</strong></font>だ。ときに危なっかしいことや、大人に対して失礼なことも言ったりする。しかし、<font color="#FF0000"><strong>それらの発言や行為には悪意がない。無知による過ちである</strong></font>。そうであるがゆえに、大人がそれを正すように諭せば、子どもたちは素直に受け入れてくれる。<br><br>　大人になり、社会の様々なルールを知っている相手だと、そうはいかない。危なっかしいことや失礼なことをされると、<font color="#FF0000"><strong>そこには何か悪意があるのではないかと詮索してしまう</strong></font>。詮索する私に問題があるのだろうか、それとも意図を含む相手に問題があるのだろうか。<br><br>　逆もまた然りだ。こちらが何の意図もなく純粋に何かをしようとしても、<font color="#FF0000"><strong>相手に詮索されてしまう</strong></font>ことがある。これは詮索される私に問題があるのだろうか、それとも疑い深い相手に問題があるのだろうか。<br><br>　いずれにしても、<font color="#FF0000"><strong>そのような関係では、なかなか信頼関係が築くことは難しい</strong></font>。<br><br>　大人でありながら無邪気でいるということ。これは達成不可能な矛盾した要求なのであろうか。
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<link>https://ameblo.jp/platy-alog/entry-11954401348.html</link>
<pubDate>Wed, 19 Nov 2014 18:59:48 +0900</pubDate>
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<title>自利があっての利他である(4/4)</title>
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<![CDATA[ 　私は、「世のため人のため」ではなく、自らの知的好奇心を満たすこと（自利）に重点を置いて生きているのであるが、世の中の森羅万象がつながりあっているという事実に気付いてからというもの、<font color="#FF0000"><strong>知的好奇心を満たしたいという自利の精神が、結果としての利他の精神を生み出すことを実感しはじめている</strong></font>。<br><br>　というのも、自分の知らない世界を知れば知るほど、（世の中は森羅万象がつながりあっているので）、その新たに知った存在（人にしても、技術にしても、文化にしても、経験にしても）のすべてが、今の私に間接的には影響を与えていることを理解できるからだ。<font color="#FF0000"><strong>そのことを理解すると、その存在に対して有難いという感謝の想いを抱き、その感謝の想いが、社会に対して何か良いことを還元したいという利他の心へとつながる</strong></font>。そのように感じているのだ。<br><br><font color="#0000FF"><font size="4"><strong>①自らの好奇心を満たすため、新たな出会いを求めて活動する（自利）<br>↓<br>②世の中は森羅万象がつながっているため、新たな出会いが、実は自らに影響していると気付く（認識・分析）<br>↓<br>③自らに影響していると気付き、有難いと思う（感謝）<br>↓<br>④この有難いという気持ちを何か表現したい。その相手、もしくは別人への恩返しを実践する（利他）</strong></font></font><br><br>　<br>　ただ、この流れになるには、いくつか重要なポイントがあると自分でも思う。その一つは、<font color="#FF0000"><strong>他人の存在が自らに影響していると気付いたときに、それを利用してやろうと考えるか、有難いと考えるかという点</strong></font>である。正直言って、私自身も営業目的（つまり利用しようという目的）で新たな出会いを求めることがあるのは事実である。しかし、私も含めて、できれば多くの人が、<font color="#FF0000"><strong>そうした出会いから感謝の想いに至り、それが利他の精神につながれば、どれほど良い社会が出来上がるのであろうか、と思う</strong></font>のだ。<br><br>　そうした想いを込めたのが、ブログタイトルの「『ありがとう』　その一言が　世界を救う」なのである。<br>
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<link>https://ameblo.jp/platy-alog/entry-11953975048.html</link>
<pubDate>Tue, 18 Nov 2014 18:18:10 +0900</pubDate>
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<title>自利があっての利他である(3/4)</title>
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<![CDATA[ 　昨日は、<font color="#FF0000"><strong>お釈迦様の教えの最優先事項は自らの修行</strong></font>と述べたが、修行とは一体何であろうか。もちろん、私にも明確には分からないことであるが、あくまで私自身が考えること、そして私自身が実践していることを紹介しよう。<br><br>　私は、<font color="#FF0000"><strong>人間の「人間としての」本能的な欲求は、知的好奇心である</strong></font>と考えている。が、まずはこれについて解説したい。<br><br>　人は「オギャー」と産まれたときから、お乳を飲みたいといったような、食欲や睡眠欲などの、生命体として、すなわち<font color="#FF0000"><strong>「ヒトとして」欲求を有している。ただこれは、決して人間特有のものではなく、生物としての本能のようなもの</strong></font>であろう。<br><br>　では「人間として」というものを考えるとどうであろうか。お金を稼ぐとか出世したいといったものであろうか。私に言わせれば、それらは物事を学んだ後に生じる欲望であって、「人間としての」本能的な欲求ではないと思う。というのも、２歳や３歳くらいの子どもが、お金を稼ぎたいとか出世したいと言うだろうか。おそらく言わないだろう。むしろ、２歳や３歳くらいの自我が芽生えた子どもたちが良く言うこと。それは、見たり聞いたり触れたものについて、「お父さん（お母さん）、あれって何」と問いかけることではないかと思う。ゆえに私は、<font color="#FF0000"><strong>人間の「人間としての」本能的な欲求は、知的好奇心であると考える</strong></font>のだ。<br><br>　このような考えに至ってからというもの、私は「世のため人のため」というよりも、<font color="#FF0000"><strong>自分の知らない世界を学ぶこと、つまり自分の知的好奇心を満たすこと（自利）に重点を置いて生きている</strong></font>。それがお釈迦様の述べた修行にあたるかどうかは分からないが、<em><font color="#0000FF">社会的な優劣や貴賤にとらわれることなく</font></em>、自分の知らない人と出会い、自分の知らない知識と出会い、自分の知らない境遇と出会うことを心掛けているのだ。<br>
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<link>https://ameblo.jp/platy-alog/entry-11953529994.html</link>
<pubDate>Mon, 17 Nov 2014 16:41:24 +0900</pubDate>
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<title>自利があっての利他である(2/4)</title>
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<![CDATA[ 「世のため人のため」というフレーズ。<br><br>　<font color="#FF0000"><strong>他の人が発言されているのを聞くと、素直に「あー、素晴らしいお考えの持ち主だなあ」と称賛することができる</strong></font>。しかし、<font color="#FF0000"><strong>自らを省みると、「私は、世のため人のため、を最優先に自己犠牲して生きています」などとは、おこがましくて到底言うことが出来ない</strong></font>。まだまだ完璧な人間ではないし、自分は自分である以上、ときに自分の価値観を優先させたくなる時が必ず来るものであろう。<br><br>　そのようなとき、<font color="#FF0000"><strong>大乗仏教は自己犠牲の利他を称賛するが、一体どこまで自己犠牲をすれば良いのだろうか。それを極めたとき自分の存在の意味は何であろうか、といった哲学的問答が、私の頭の中を駆け巡る</strong></font>のだ。<br><br>　その点、お釈迦様の教えは、私にとっては素直に心の中に入ってくる。<font color="#FF0000"><strong>あくまで優先事項は自らの修行であって、利他はそれに付随してくるもの</strong></font>であるとおっしゃるのだ。そのように言われれば、<font color="#FF0000"><strong>自らの修行に注力すれば良いのであり、限界を超えた自己犠牲を意識する必要がなくなる</strong></font>のである。<br>
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<link>https://ameblo.jp/platy-alog/entry-11953063691.html</link>
<pubDate>Sun, 16 Nov 2014 15:14:12 +0900</pubDate>
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<title>自利があっての利他である(1/4)</title>
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<![CDATA[ 　誤解されるかもしれないが、冒頭で次のことを言おう。<br><br>　私は<font color="#FF0000"><strong>「世のため人のためではなく、自分を優先して生きている」</strong></font>と。<br><br>　この言葉の真意については、あとでお釈迦様の話を出して説明するが、最近の世の中（特に東日本大震災以降）は、世のため人のために尽くすことが推奨されている。<font color="#FF0000"><strong>それは非常に素晴らしいことであり、決してそれを否定するつもりはない</strong></font>。<br><br>　たしかに、お釈迦様がお亡くなりになってから７００年ほど経った頃に広がった<font color="#FF0000"><strong>「大乗仏教」では、「自己犠牲」の利他が特徴であり、自己犠牲の利他という善行を積むことで成仏できるといわれている</strong></font>が、それは一理あるだろう。そして、大乗仏教の空般若思想を説いた般若心経が広まっている現代において、そうした大乗仏教的な自己犠牲による利他が理想とされることも十分に理解できる。<br><br>　ただ、大乗仏教より７００年前に広まった、お釈迦様の仏教では、自利と利他の関係が、実は逆であるらしい。つまり、<font color="#FF0000"><strong>はじめにあるのは自利</strong></font>なのだ。断っておくが、それは決して欲望のままにしてよいという意味ではない。<font color="#FF0000"><strong>自分の修行の道を最優先にし、それを他者にも教えることで、人の役に立とうとする。つまり、自利の産物としての利他なのである、ということ</strong></font>だ。<br><br>（※１００分de名著シリーズの般若心経を参照しております）
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<link>https://ameblo.jp/platy-alog/entry-11952835924.html</link>
<pubDate>Sat, 15 Nov 2014 22:51:03 +0900</pubDate>
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