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<title>えーと、いわゆる、なんていうか、　　　　　　　　　　　　　　　　O3（オースリー）な日々</title>
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<description>原田知世さん（＝O3《オースリー》）にまつわる事どもを、ミーハーなファンが書き散らかしています。</description>
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<title>彼女のまなざし、カメラのまなざし　——「時かけ」「早春物語」、２つの映画について</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#800080" size="5"><b>ミッフィーが愛される秘密</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>世界中の子どもたちから愛されているミッフィー。</p><p>数多くの絵本の主人公である彼女は、いつも、どんなときも、正面を向いています。</p><p>その理由について作者のディック・ブルーナは、</p><p><font color="#008000">「うれしいときにも悲しいときにも目をそらすことなく、読者の子どもたちと<br>正直に対峙（たいじ）していたい」</font></p><p>……からだと述べています。</p><p>なるほど彼女は、涙を流して泣いているときも、必ずこちらを向いている。</p><p>自転車をこいでいるときも、車を運転するお父さんも、読者のいるこちらを向いていて、</p><p>「だめだめ、わき見運転は危ないよ」と、声を掛けたくなってしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190101/06/porepore4989/38/3f/g/o0830030414331163038.gif"><img alt="" height="154" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190101/06/porepore4989/38/3f/g/o0830030414331163038.gif" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>視線をいつも読者に向けて目をそらさないという、まさにそのことが、</p><p>彼女が世界のみんなから愛される理由かもしれない。</p><p>──と考えるのもあながち間違いではないと思わせることを、</p><p>1963年に映画監督のフランソワ・トリュフォーが述べています。</p><p>&nbsp;</p><p><font color="#800080" size="5"><b>「一人称映画」という映画</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>「湖中の女」という映画があります。</p><p>あの私立探偵フィリップ・マーロウが活躍する作品。</p><p>かつて角川映画「野生の証明」で、</p><p>「男はタフでなければ生きて行けない。優しくなければ生きる資格がない」</p><p>という宣伝コピーが使われましたが、</p><p>この台詞を「プレイバック」という小説の中で語ったのがフィリップ・マーロウです。</p><p>彼の小説は多く映画化されましたが、そのうちの一つが「湖中の女」。</p><p>&nbsp;</p><p>「湖中の女」が公開された1947年当時、この映画は斬新な手法で評判を呼びました。</p><p>原作の小説シリーズは、主人公のフィリップ・マーロウ自身が語り手となって、</p><p>「おれは……」と語る「一人称小説」です。</p><p>監督・主演のロバート・モンゴメリーは、それを映像化するにあたって、</p><p>「一人称映画」を試みたのです。</p><p>映画のほぼ全シーンが、主人公マーロウの目から見た視覚の映像となっている。</p><p>マーロウが歩きながら景色を見れば、その移動する景色が映画の画面となる。</p><p>マーロウが依頼者と会って面談すれば、</p><p>マーロウの視点から見た依頼者の姿が映画の画面となります。</p><p>だから観客は、基本的にマーロウ自身の姿を見ることが出来ません。</p><p>ただ、その場に鏡があれば、鏡を通して彼の姿を見ることになります。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190101/06/porepore4989/99/29/j/o0475028514331163631.jpg"><img alt="" height="252" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190101/06/porepore4989/99/29/j/o0475028514331163631.jpg" width="420"></a></p><p><font size="3"><b>「湖中の女［Lady in the Lake］」（1947年）監督：ロバート・モンゴメリー</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>こうした一人称の映像は、現在、シューティング・ゲームなどではおなじみでしょう。</p><p>プレイヤーが、イコール、主人公となるタイプのゲーム。</p><p>ヴァーチャルに近い。</p><p>主人公の視覚で見ている映像が、そのままプレイヤーが目にするゲーム映像となる。</p><p>主人公が右を向くよう操作すれば、画面には右の景色が映し出されます。</p><p>建物に近づいて歩いていけば、建物の景色が迫ってきます。</p><p>その視界の中にゾンビやモンスターが現れれば、主人公の動作として、</p><p>プレイヤーはそれに向かって攻撃を仕掛けることになります。</p><p>そうしたゲームの手法を活かして作られたのが、映画「ハードコア」でした。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190101/06/porepore4989/2a/5e/j/o0283040014331164061.jpg"><img alt="" height="400" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190101/06/porepore4989/2a/5e/j/o0283040014331164061.jpg" width="283"></a></p><p><font size="3"><b>「ハードコア［Hardcore Henry］」（2015年）監督：イリヤ・ナイシュラー</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>たとえば映画「アバター」で、下半身不随のために車いすの生活を送る主人公が、</p><p>人工生命体に意識を憑依させることで、先住民族のアバターとなり、</p><p>生まれ変わるように目覚めるシーンがありました。</p><p>そのとき、彼はベッドから起きて、研究員の制止を振り払い、走り出します。</p><p>まるで自転車の運転を覚えたての子どものようなたどたどしい足取りで、</p><p>けれどすぐに驚異的な身体能力を発揮して跳躍し、施設から脱走します。</p><p>この場面が、アバターとなった主人公の目から見た視覚の映像で語られていました。</p><p>観客は主人公と視覚を共有することで、</p><p>主人公が体験した、自分の足で走ることが出来る喜びの感情を感じ、</p><p>観客もまたアバターを体験することになりました。</p><p>映画「ハードコア」は、その手法が全編で使われるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>事故によって、部分的に肉体を機械として改造された男が、その超人的な運動能力で</p><p>武装集団とバトルを繰り広げる。</p><p>それがほぼ全編、男の目から見た視覚として──つまり一人称の映像で描かれます。</p><p>だから主人公は顔も見えないのですが、役者さんは小型カメラを装着して</p><p>アクションを演じたそうです。</p><p>激しいアクションで生じるカメラのブレも、リアルさを演出する。</p><p>主人公の男は事故で記憶喪失となったのですが、妻から名前はヘンリーだと知らされます。</p><p>観客はそこで自分はヘンリーとして生まれ変わったような錯覚を与えられ、</p><p>活躍する主人公と視覚を共有することで、主人公と同一化し、</p><p>臨場感のある迫真的なアクションを体験することになります。</p><p>&nbsp;</p><p><font color="#800080" size="5"><b>フランソワ・トリュフォー説</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>ところがです。</p><p>「湖中の女」のような一人称映画では、登場人物と同一化するのは難しいと、</p><p>フランソワ・トリュフォーは言います。</p><p>佐藤忠男「完本・小津安二郎の芸術」からの孫引きで恐縮ですが、</p><p>以下、引用します。</p><p>&nbsp;</p><p><font color="#008000">「ロバート・モンゴメリイの演出した愚劣な映画『湖中の女』が、</font></p><p><font color="#008000">当時一部で賞賛されたことがあった。</font></p><p><font color="#008000">しかし主観的カメラとは、主観的シネマの反対である。</font></p><p><font color="#008000">カメラが登場人物のいる場所にあるとき、</font></p><p><font color="#008000">（観客は）登場人物と同一化することは不可能である。</font></p><p><font color="#008000">俳優のまなざしが観客のまなざしと交叉するとき主観的シネマというものが生まれる。</font></p><p><font color="#008000">従ってもし観客大衆が同一化する必要を感ずるならば、</font></p><p><font color="#008000">大衆は自動的に彼が一番多く映画の中でまなざしを交叉した顔、</font></p><p><font color="#008000">即（すなわ）ち一番多く止まって真正面から撮影された俳優と同一化するだろう。」</font></p><p><font size="3"><b>（フランソワ・トリュフォー「ヌーヴェル・バーグの回顧と将来」岡田真吉訳『映画評論』1963年７月号）</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>観客のまなざしを、主人公のまなざしに一致させて、観客が主人公の視点で景色をながめても、</p><p>観客は、主人公と同一化は出来ない。</p><p>むしろ、主人公のまなざしと観客のまなざしが交わるとき、</p><p>観客は同一化出来るのだというのです。</p><p>&nbsp;</p><p>トリュフォーがそう主張した1963年には、</p><p>「ハードコア」のような一人称映画はありませんでした。</p><p>現在のヴァーチャルな技術では、３Dなどの視覚だけでなく、スイーツや花の匂いなどの嗅覚、</p><p>観客席の椅子が振動するというような運動感覚や触覚などを観客が共有することで、</p><p>より臨場感のある体験をする工夫が考えられています。</p><p>そうした技術は、これからもどんどん進化していくでしょう。</p><p>それが、観客を主人公に同一化するよう促すかもしれない。</p><p>しかし、感覚的に同一化する体験が可能になったとしても、</p><p>主人公の心情を理解し、共感し、人間の本質的な同一化ということを考えたとき、</p><p>トリュフォーの主張もなるほどと思われるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>人間は赤ん坊として生まれ、初めてまなざしと出逢います。</p><p>たいていは、母親のまなざしと。</p><p>もしくは、母親のようにケアしてくれる周囲の人のまなざしと。</p><p>そして言葉を覚えるよりも先に、まなざしで会話を交わします。</p><p>あなたはわたしの子ども、愛しているという笑みを含んだまなざし。</p><p>そんな悪戯をしてはいけないと叱るまなざし。</p><p>やがて母親も赤ちゃんのまなざし、その微妙な表情のニュアンスを感じ分け、</p><p>眠くてぐずっているのか、お腹がすいて泣いているのか……などを読み取ろうとします。</p><p>まなざしを交わすという言葉のない会話が、コミュニケーションの第一歩となる。</p><p>&nbsp;</p><p>1980年代、米国で、いわゆる「キレる」子どもたちが社会問題となりました。</p><p>そのときに開発され、効果を上げたのが「セカンド・ステップ」というプログラムです。</p><p>そのレッスンではたとえば、「悲しい」表情をしている子どもの顔のカードを見せて、</p><p>この子は、今、どんな気持ちなのかを話し合うということをします。</p><p>まなざしを交わし合うことで相手の気持ちを想像し、相手の立場に立って考える。</p><p>そんな、ごく当たり前のような基本的なコミュニケーションのステップを積み重ねて、</p><p>感情をコントロールし、対人関係のスキルを身につけさせる。</p><p>逆に言えば、そうしたコミュニケーションの基本が欠けているために、</p><p>子どもによる犯罪が増えるなど、社会のきしみが生じていたと言えるでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>トリュフォーの説は、まなざしとまなざしを交わすというコミュニケーションの基本を、</p><p>擬似的なかたちではありますが、映画の登場人物と観客のあいだに見出すものです。</p><p>&nbsp;</p><p><font color="#800080" size="5"><b>「大人は判ってくれない」——アントワーヌのまなざし</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>トリュフォーはその説を、自作の「大人は判ってくれない」にたどって説明しています。</p><p>この映画は、トリュフォー自身の少年時代を描いたとされる作品です。</p><p>主人公の少年アントワーヌ（ジャン＝ピエール・レオ）は、</p><p>家では、厳しい母親とぐうたらな父親が始終ケンカをしていて、居場所がない。</p><p>学校では、高圧的な教師に叱られる毎日で、居場所がない。</p><p>母親の浮気を目撃したり、作文の盗作がばれたりという事件が重なって、</p><p>家出の果てにタイプライターを盗んで、鑑別所に入れられます。</p><p>&nbsp;</p><p>トリュフォー自身は、彼の分身であるアントワーヌの行いを、</p><p>善いという見方と、悪いという見方の両方から、中立的に描こうとしたといいます。</p><p>彼がいわゆる非行少年となっていくその過程は、シナリオを読んだ人々からは、</p><p>悪い、憎たらしいという感想を得たそうです。</p><p>ところが、フィルムを観た観客からは、同情心をもって見られ、</p><p>少年は悪くないという見方が多くなってしまった、失敗したといいます。</p><p>というのは、無意識的にアントワーヌを真正面から撮影するシーンが多くなってしまい、</p><p>観客が彼に感情移入したためだというのです。</p><p>つまり、<font color="#008000">「一番多く止まって真正面から撮影」</font>をした。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190101/23/porepore4989/54/8b/j/o0400028714331637000.jpg"><img alt="" height="287" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190101/23/porepore4989/54/8b/j/o0400028714331637000.jpg" width="400"></a></p><p><font size="3"><b>「大人は判ってくれない［Les Quatre Cents Coups］」（1959年）監督：フランソワ・トリュフォー</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>映画のカメラは基本的に、しゃべっている人物を映します。</p><p>しかし、「大人は判ってくれない」のカメラは、アントワーヌから離れず、</p><p>たとえば鑑別所の女性係官と彼が会話をする場面では、しゃべる係官の顔は映さず、</p><p>アントワーヌの顔ばかりを映していました。</p><p>必ずしも真正面からのアングルばかりではありませんでしたが、</p><p>無意識だったにせよ、彼の顔を映そうとするカメラの意志が感じられました。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど、しゃべる人物の顔を映さず、その台詞を聞く相手の表情を映すというのは、</p><p>特別というわけではなく、まあまあ、珍しくはない撮影法でしょう。</p><p>&nbsp;</p><p><font color="#800080" size="5"><b>「初恋のきた道」——ディのまなざし</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>同じような場面が、チャン・イーモウ監督作品「初恋のきた道」にもありました。</p><p>主人公の少女、チャオ・ディ（チャン・ツィイー）が、盲目の母親と会話をする場面。</p><p>母親が台詞をしゃべっているときも、カメラはディから離れることなく、</p><p>ディの顔をずっと映し続けていました。</p><p>そしてこの映画全般、やっぱり彼女をとらえるショットが多く、</p><p>彼女がカメラを向いている――彼女のまなざしを真正面からとらえる撮影が</p><p>多用されています。</p><p>&nbsp;</p><p>物語は、現在、中国の都会で暮らす男が、老父が亡くなったという報せを聞いて、</p><p>過疎化の進む故郷の小さな山村へ帰るところから始まります。</p><p>老母とともに葬列を出そうとして、そこで、まだ彼が生まれる前、</p><p>話に聞いていたのでしょう、老父母がまだ若かった頃を追想する。</p><p>&nbsp;</p><p>40年以上前、老父は、町からこの村の学校へ赴任してきたばかりの20歳の教師でした。</p><p>老母は、そんな青年教師にあこがれる18歳の村の娘でした。</p><p>素朴な村の娘、チャオ・ディにとっては、初恋。</p><p>しかし自由恋愛が珍しかった当時、彼女はその恋心を伝えることなど出来ません。</p><p>持っている少ない洋服の中から、少しでも華やかなピンクの新しい服に着替える。</p><p>せめて彼の姿を一目でも見ようと、学校近くの井戸へ遠回りして水汲みに行く。</p><p>新築の学校の柱に巻く布を、心を込めて織る。</p><p>毎日、子どもたちを送る彼を待ち伏せして、けれど、林の中に姿を隠し、</p><p>遠く離れたところから彼を見つめる。</p><p>――そんな彼女の姿をカメラは、<font color="#008000">「一番多く止まって真正面から撮影」</font>します。</p><p>観客は、ディのまなざしとまなざしを交わすことで、</p><p>彼女に感情移入し、そのひたむきな恋心に共感することになります。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190101/23/porepore4989/27/c9/j/o0600033814331637786.jpg"><img alt="" height="237" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190101/23/porepore4989/27/c9/j/o0600033814331637786.jpg" width="420"></a></p><p><font size="3"><b>「初恋のきた道［我的父親母親］」（1999年）監督：チャン・イーモウ</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>だから、観客は彼女を応援せずにはいられないわけです。</p><p>文化大革命の混乱で彼が町へ連れ戻されたとき、手料理を食べさせようと、</p><p>彼が乗る馬車を追いかけて必死に走る彼女に、心の中で声援を送らずにはいられない。</p><p>しかもこのとき、草原を駆ける彼女をカメラは、遠景のロングショットで撮りません。</p><p>バストショットで近づいたままパンニング（水平移動）させ、彼女の表情を追いかける。</p><p>そうした撮影のやり方をすることで、観客は彼女の心情に寄り添うことになります。</p><p>&nbsp;</p><p><font color="#800080" size="5"><b>小津作品のまなざし、ミッフィーのまなざし</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>出演者が真正面を向いてカメラに視線を送るのは、バラエティでは当然です。</p><p>カメラの向こうの視聴者と視線を合わせようとする。</p><p>演説や政見放送などでは、そうすることで効果的に観衆や視聴者の心をつかみます。</p><p>しかし、演劇やドラマや映画では、</p><p>観客、もしくはカメラの向こうの視聴者に視線を送ることは一般的にはありません。</p><p>不自然だからです。</p><p>舞台では、観客の座っている方の側面を、いわゆる「第四の壁」と呼んで、基本的には、</p><p>そちら側はないものとして演技をします。</p><p>（たとえば「古畑任三郎」で主人公が、突然ドラマを中断し、視聴者に向けて語り出すような、</p><p>第四の壁を破るようなメタ的な手法も多々ありますが。）</p><p>&nbsp;</p><p>ところが、小津安二郎作品の登場人物たちは、ごく自然にカメラと正対し、</p><p>観客に視線を送ってきます。</p><p>というのも、登場人物が会話をする、</p><p>その話しかける相手の位置にカメラがあるという設定だからです。</p><p>「初恋のきた道」のチャオ・ディが、真正面に向いていたのは、</p><p>彼女が視線を送る恋人の青年の位置にカメラがあるという設定で、</p><p>彼女の表情をとらえていたからです。</p><p>&nbsp;</p><p>だから小津作品では、ふつうに日常の会話を交わすように、</p><p>たとえば笠智衆さんがカメラに話しかけてくる、</p><p>つまり、私たち観客に向かって話しかけてくる。</p><p>観客は、ごく自然に笠智衆さんと向き合いながら、</p><p>登場人物たちの友だち同士の会話、あるいは家族の会話の輪の中に混ざっているような</p><p>――その物語に参加しているような、錯覚に陥ることになります。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190103/06/porepore4989/1c/a5/j/o0400030314332288292.jpg"><img alt="" height="303" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190103/06/porepore4989/1c/a5/j/o0400030314332288292.jpg" width="400"></a></p><p><font size="3"><b>「晩春」（1949年）監督：小津安二郎</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>そして登場人物はどんな気持ちなのだろうかと想像して感情移入し、</p><p>観客自身の経験や人生と照らし合わせて考え、自分自身を振り返ってみたりするようになる。</p><p>笠智衆さんとまなざしを交わすことで、ああ、父親ってそんなふうに考えるんだよな、とか、</p><p>アントワーヌとまなざしを交わすことで、そうそう、思春期の頃って、</p><p>居場所を探そうとして見つからなくて、どうしようもないことばっかりしちゃうんだ、とか、</p><p>チャオ・ディとまなざしを交わすことで、ああ、こんなおれにも、こんなふうに</p><p>初恋にときめく純真な時代があったんだよなあ、などなど、</p><p>むくつけき中年男が少女の姿を観て、自分の胸に手を当ててしまったりするわけです。</p><p>即（すなわ）ち<font color="#008000">「一番多く止まって真正面から撮影された俳優と同一化」</font>する。</p><p>&nbsp;</p><p>その<font color="#008000">「真正面から撮影された俳優」</font>の最たる俳優が、ミッフィーです。</p><p>彼女は、真正面しか向いていない。</p><p>そして眉毛もない彼女の点々の目は、無個性で、たいていニュートラル状態。</p><p>うれしいんだか、悲しいんだか、とりたてて主張するような演技をしません。</p><p>だからこそ、物語の文脈によって、また読者の想像力によって、</p><p>読者それぞれの胸の中で、いろいろなニュアンスの表情を見せることになる。</p><p>そして彼女は読者の子どもたちに身近で親しい存在――つまり友だちになるのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190103/06/porepore4989/13/dc/j/o0306030414332288331.jpg"><img alt="" height="304" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190103/06/porepore4989/13/dc/j/o0306030414332288331.jpg" width="306"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><font color="#800080" size="5"><b>「時をかける少女」芳山和子は、ミッフィーである</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>さて、前振りが思わず長くなってしまいましたが、「時をかける少女」です。</p><p>&nbsp;</p><p>「時をかける少女」でもまた、しゃべっている人物を映すのではなく、</p><p>台詞のあいだ、カメラが吸い寄せられるように主人公ばかりを映すシーンがありました。</p><p>&nbsp;</p><p>土曜日、理科実験室で謎の煙と匂いをかいで気を失った主人公・芳山和子（原田知世）は、</p><p>翌日曜日、朝遅くぼんやりと起きてきて居間で紅茶を飲みます。</p><p>そんな和子に母親が「お父さんはゴルフへ行って……」と語りかけますが、</p><p>カメラは母親ではなく、和子の表情を映し続けます。</p><p>このとき、和子は軽くタイムリープをして、洗濯物を運ぶ母親の位置がワープし、</p><p>紅茶が急にさめて湯気がなくなるという現象が起こる。</p><p>そのためにこうしたカメラワークが使われたのですが、</p><p>このシーンだけでなく、全般的に、カメラは和子の表情を追い続けます。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、場面によってだと思いますが、撮影当時のことを大林宣彦監督が述懐しています。</p><p>知世さんに、相手役が監督だと思うよう、監督に語りかけるように演技しなさいと指示し、</p><p>そして監督は、カメラのすぐ隣りに立ったというのです。</p><p>知世さんは、監督に視線を送り、監督に話しかけた。</p><p>つまり、映像としては、監督のすぐ横のカメラにまなざしを送り、</p><p>カメラの向こうの観客に話しかけた――彼女は<font color="#008000">「真正面から撮影された」</font>わけです。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190103/22/porepore4989/1c/f4/j/o0400026814332744296.jpg"><img alt="" height="268" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190103/22/porepore4989/1c/f4/j/o0400026814332744296.jpg" width="400"></a></p><p><font size="3"><b>「時をかける少女」（1983年）監督：大林宣彦</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>この場面に限らず、カメラは和子のまなざしに近寄っていき、</p><p>自分が獲得してしまった能力と、そのためにもたらされる局面への不安に揺れる、</p><p>あるいは、自分の中に芽生えた淡い恋心に気づいてとまどう、</p><p>そんな和子の表情に寄り添います。</p><p>それはちょうど思春期の模糊とした不安に揺れる少女の時間そのものを切り取るようでした。</p><p>&nbsp;</p><p>そしてラスト。</p><p>和子の意識の記憶は消されているものの、未来で深町クン（高柳良一）と再会し、</p><p>大学の廊下ですれ違います。</p><p>その後二人はどうしたか？　という結末は観客ひとりひとりの想像に委ねられ、</p><p>余韻と含みを残してフェイド・アウトしていき、物語は閉じられる……。</p><p>&nbsp;</p><p>と思いきや、主題歌のイントロの印象的なリフとともに、ポーンと画面が切り替わって、</p><p>理科の実験室で倒れていた芳山和子がムックリと起き上がり、主題歌を歌い出します。</p><p>そのときの彼女は、原田知世であったかもしれません。</p><p>NGシーンをはさみつつ、物語を振り返るように各場面場面で彼女が歌う。</p><p>紙吹雪を散らして祝福する共演者に囲まれながら、ちょっと恥ずかしそうに歌う彼女は、</p><p>カメラと真正面に向いています。</p><p>&nbsp;</p><p>やがて<font color="#008000">「過去も未来も星座も超えるから　抱きとめて」</font>と歌い終わった彼女は、</p><p>カーテンコールの拍手の中、普明閣の灯篭のある境内の向こうから下駄履きのまま、</p><p>懸命に<font color="#008000">「過去も未来も」</font>超えるように走り、トテトテトテとかけて来ます。</p><p>そしてカメラ（観客）の前に来て止まり、羞じらうようにチラリと視線を横に走らせた後、</p><p>（大林監督によると、</p><p>このとき知世さんは「監督、OKですか？」とうかがうために横を向いたそうですね。）</p><p>改めてカメラ（観客）と真正面に向き合い、はにかむような笑顔を見せる。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190110/07/porepore4989/66/4a/j/o0300018814336360196.jpg"><img alt="" height="188" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190110/07/porepore4989/66/4a/j/o0300018814336360196.jpg" width="300"></a></p><p><font size="3"><b>「時をかける少女」（1983年）監督：大林宣彦</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>この瞬間、観客は、少女のまなざしを受けとめ、かけて来た少女を<font color="#008000">「抱きとめ」</font>るのでしょう。</p><p>そしてこの瞬間、芳山和子（＝原田知世）は、ミッフィーになるのだと思います。</p><p>つまり、観客それぞれの胸の中で、身近で親しい存在に。</p><p>&nbsp;</p><p><font color="#800080" size="5"><b>「早春物語」のカメラのまなざし</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>主人公に近寄っていく「時をかける少女」の撮影のし方の真逆とも言えるのが、</p><p>「早春物語」の撮影のし方です。</p><p>トリュフォーは、「主観的シネマ」という言葉を使っていました。</p><p>「時をかける少女」がもしも「主観的シネマ」と呼べるなら、</p><p>「早春物語」は、「客観的シネマ」ということが出来るでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>澤井信一郎監督は、「早春物語」のパンフレットに原稿を寄せています。</p><p><font color="#008000">「過去の二作品『野菊の墓』『Wの悲劇』では、私は主人公の女の子を<br>大変な熱い思いを込めて見つめましたが、今度は極めて冷ややかに突き離しました。」</font></p><p>と、強がりのようにユーモラスに書いておきながら、結局突き離すことが出来ず、</p><p><font color="#008000">「畜生、こんな筈ではなかったのに。」</font>と白旗を上げて、</p><p><font color="#008000">「正直なところ、私は十七歳を愛しています。」</font>と白状して締めくくっています。</p><p>&nbsp;</p><p>澤井監督は、「野菊の墓」（1981年。松田聖子主演）では、</p><p>映像が水平に移動する横の動きを多用して、映画画面を構成していました。</p><p>が、こちらの「早春物語」では、上下に移動する縦の動きを多用しています。</p><p>そしてカメラは、ロングショットやミディアムショットが主体。</p><p>&nbsp;</p><p>人物を撮影するカメラとの距離は、心理的な距離と比例します。</p><p>カメラが近づいて人物を映すクローズアップは、その人物の心情に近づくことになる。</p><p>観客はその人物の気持ちを、身近に、いきいきと感じることになります。</p><p>たとえば、怒っている人物がクローズアップになると、</p><p>その怒りの感情が迫力をもって、ダイレクトに伝わってきます。</p><p>けれども逆に、ロングショットで描かれると、どんなに激しい怒りを持っていても</p><p>観客は彼を遠い距離から客観的にながめることになる。</p><p>&nbsp;</p><p>俯瞰から見たりするような、画面の縦の動きにも、そうした効果があると思います。</p><p>そして主人公を文字通り<font color="#008000">「突き離し」</font>た距離から描くことによって、</p><p>彼女をより客観的な目で見ることになります。</p><p>&nbsp;</p><p><font color="#800080" size="5"><b>「早春物語」に見る縦の構図</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>「早春物語」のオープニングは、空撮で始まります。</p><p>鎌倉の海岸でウィンドサーフィンする姿を、空撮の俯瞰からながめる。</p><p>そこからカメラは海岸近くの高校へと移動し、</p><p>グラウンドで、豆粒のような生徒が野球をしていたり、歩いている姿をとらえる。</p><p>そしてカメラの視点は校舎の建物に回り込むように円を描いたかと思うと、</p><p>パッと上空から地上へと切り替わって、校舎の中の教室にいる主人公、</p><p>沖野瞳（原田知世）と友人、牧麻子（仙道敦子）のシーンとなります。</p><p>そしてエンディングもまた空撮。</p><p>教室の中の会話から、高校の全景を見下ろす空撮となって鎌倉の町を俯瞰し、</p><p>遠ざかっていくようにして終わる。</p><p>地上の俗世的な物語を、空から見下ろす視点で眺めるかのようです。</p><p>いわゆる「上から目線」。</p><p>&nbsp;</p><p>撮影ロケ地も、高低差のある建物や景色が選ばれています。</p><p>たとえば、麻子の恋人がいる海岸と、その砂浜を麻子と瞳が見下ろす喫茶店。</p><p>そして、階段や坂が実に多い。</p><p>▶沖野家の住宅は、階段の坂を登った途中にあります。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190103/22/porepore4989/41/cb/j/o0600031714332745927.jpg"><img alt="" height="222" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190103/22/porepore4989/41/cb/j/o0600031714332745927.jpg" width="420"></a></p><p><font size="3"><b>「早春物語」（1985年）監督：澤井信一郎</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>▶瞳と麻子が待ち合わせて歩く鎌倉駅の階段。</p><p>▶瞳が暇をつぶすために歩く原宿の歩道橋の階段。</p><p>▶瞳と梶川真二（林隆三）が訪れた箱根の大湧谷にも、数段の階段があり、</p><p>二人は、階段の上と下で縦になりながら、会話をします。</p><p>▶瞳が歩いた、神田ニコライ堂近くの階段。</p><p>▶小林稔侍さんがマスターをしていた喫茶店「ランタン」も、店内に階段のある店でした。</p><p>▶写真部の瞳が「春」を撮ろうとした十一面観音で知られる杉本寺の階段。</p><p>▶やはり「春」を撮ろうとして瞳が、桜咲く頃に梶川と出会い、新緑の頃に再会する来迎寺。</p><p>そのお寺の長い階段も、縦の構図に効果的に使われていました。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190103/22/porepore4989/10/f6/j/o0300041414332745993.jpg"><img alt="" height="414" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190103/22/porepore4989/10/f6/j/o0300041414332745993.jpg" width="300"></a></p><p><font size="3"><b>「早春物語」（1985年）監督：澤井信一郎</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>また撮影も、カメラを左右に振る「パン」ではなく、上下に振る「ティルト」が多い。</p><p>その大半が、上から下へと移動する「ティルト・ダウン」です。</p><p>▶竹中常務（平幹二朗）宅を訪問した梶川たちが暇乞いをする玄関先を俯瞰からティルト。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190103/22/porepore4989/52/af/j/o0600031714332745866.jpg"><img alt="" height="222" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190103/22/porepore4989/52/af/j/o0600031714332745866.jpg" width="420"></a></p><p><font size="3"><b>「早春物語」（1985年）監督：澤井信一郎</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>▶瞳と待ち合わせた麻子が鎌倉駅前の横断歩道を走るシーンを俯瞰。</p><p>▶瞳と梶川が踊るパーティーでのダンス・シーンを天井のシャンデリアからの俯瞰。</p><p>▶夜の東京駅丸ノ内側の街路で、瞳が赤いボールを蹴るシーンも、</p><p>最初は街路樹のイチョウ越しからのティルト・ダウン。</p><p>▶箱根・芦ノ湖畔のレストラン駐車場でのキス・シーンも、</p><p>最初はゆっくりとしたティルト・ダウンから。</p><p>&nbsp;</p><p>そのシーンでキスをされたとき、思わず身体を固くして瞳が、</p><p>「（キスは初めてじゃない）何度も、何度もある」とつぶやくところになって、</p><p>ここで、クローズ・アップ。</p><p>背伸びをしながらも、自分の中にわき起こる感情に気づいて揺れ動く、</p><p>そんな瞳の心情に迫るようなクローズ・アップでした。</p><p>全般にロングやミディアムが多いと思うのですが、こうしたポイントポイントでは、</p><p>瞳のクローズ・アップやバスト・ショットが的確に使われています。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば、命がけで恋に殉じようとする同級生の沢田真佐子（早瀬優香子）と会って、</p><p>自分も傷ついてもいい、自分もこの恋にかけようと決心する場面。</p><p>深夜の病院の待合室で、梶川から母親とのなれそめと別れの真実を聞かされ、</p><p>「これ、恋だと思う」と心情を吐露してキスへと至る場面。</p><p>南米へ独り旅立つ梶川を見送るために、空港へ突然現れる場面。</p><p>そこから、一つの恋を乗り越えようとするかのように歩き出す場面。</p><p>そうして颯爽と街の人通りの中へ踏み出していく……。</p><p>&nbsp;</p><p>――こうして並べてみると、けっして少なくはないのですが、</p><p>それ以上にロングやミディアムが多いからこそ、</p><p>瞳のクローズ・アップが印象的に見えるのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p><font color="#800080" size="5"><b>主観的なまなざしと客観的なまなざし</b></font></p><p>&nbsp;</p><p>赤川次郎さんの原作「早春物語」では、瞳が殺人を犯してしまいます。</p><p>映画は、そうした原作ほどではないにせよ、内容は、かなりハードです。</p><p>同級生は、教師と不倫の末に心中する。</p><p>母親の親友は、三角関係に悩んで自殺未遂する。</p><p>そのために梶川は母親と別れることになり、彼女の娘と20数年後、偶然に出逢うわけです。</p><p>しかし映画の客観的な描写は、そうしたドロドロした世界の内面に入り込むことをしません。</p><p>出来事として語るだけ。</p><p>&nbsp;</p><p>そして少女は、一つの恋と真剣に向き合い、一つの経験として乗り越えていく。</p><p>それは、心中するような恋に比べれば小さな恋かもしれませんが、</p><p>あるいは、殺人を犯すような物語に比べれば小さな物語かもしれませんが、</p><p>その小さな物語は、客観的に、しかしブレずに描かれます。</p><p>瞳は、再婚する父親に嫌味を言い、義母を攻撃し、</p><p>会社の場所を尋ねたおばさんに失礼を言うような、いやな女の子として描かれます。</p><p>が、けれども、この小さな物語を見終えたとき、彼女がかわいく見えてくるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>「時をかける少女」の芳山和子は観客とまなざしを交わし合い、</p><p>正面から見つめられることによって、観客の心のアニマとして、</p><p>観客の心に住みつくことになりました。</p><p>&nbsp;</p><p>一方「早春物語」の沖野瞳は、一つの恋を真剣に生きた少女として、</p><p>客観的に描かれることによって、観客に味わい深い印象を残すことになりました。</p><p>&nbsp;</p><p>「主観的シネマ」と「客観的シネマ」。</p><p>その２つの映画に出演し、２つの視点で描かれたことは、</p><p>女優・原田知世にとって、非常に幸福だったということは間違いありません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/porepore4989/entry-12429848799.html</link>
<pubDate>Tue, 01 Jan 2019 06:33:17 +0900</pubDate>
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<title>「半分、青い。」（10）──おれが鈴愛ちゃんを半分嫌いになった理由　その３</title>
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<![CDATA[ <p>若い頃にお世話になった人に再びお願いをするため、付け届けのカツ丼を贈る。</p><p>が、依頼の件がダメになったとわかると、途端に付け届けの品を引っ込める。</p><p>&nbsp;</p><p>──たとえばこの役を、トリックスターのねずみ男がやるとしたら、</p><p>視聴者は納得して、笑いとはいかないまでも楽しむことが出来るでしょう。</p><p>貸本マンガ時代の初期の鬼太郎も、こうしたことをするキャラクターでした。</p><p>しかし、正義のヒーロー的な立ち位置となってからはやりません。</p><p>&nbsp;</p><p>それを朝ドラのヒロインがやった。</p><p>&nbsp;</p><p>私たち視聴者は、毎朝、毎朝、彼女と顔をつき合わせ、親しみを感じています。</p><p>ましてや生まれる前の胎児の頃から見守り、子ども時代の成長をながめ、</p><p>青春時代の苦悩を目撃し、応援してきたヒロインです。</p><p>一歩つき放した距離から、客観的に彼女をながめることが出来ない。</p><p>おれは、彼女をおもしろがることは出来ませんでした。</p><p>&nbsp;</p><p>またたとえば、これが鈴愛10代20代のときのエピソードであれば、</p><p>その年月の差の分だけ距離を感じ、客観的にながめることが出来て、</p><p>あるいはおもしろがることが出来たかもしれません。</p><p>けれどこのとき鈴愛はもうアラフォーで、一人の娘を育てるシングルマザーで、</p><p>彼女とほぼ同世代の視聴者は、自分自身、もしくは身近にいるおとなの女性に重ねて、</p><p>彼女を分別のある女性としてながめるわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛には「心の真ん中」と「心の周辺」の区別がありませんでした。</p><p>子どももまた、最初は「真ん中・周辺」「表・裏」の区別がないのですが、</p><p>成長するに従って、心のどの部分をメインに据えるか、</p><p>どの部分をピックアップして相手に示して伝えるか──を学んでいきます。</p><p>人間の「死」というものがまだ理解出来ず、曾祖父の通夜で故人の布団に寝てみたり、</p><p>あるいははしゃいだり笑ったりする幼児も、</p><p>周りの厳粛な雰囲気を感じとったり、教え諭されて、</p><p>葬式では笑ってはいけないというようなことを学ぶようになります。</p><p>フロイトによれば、</p><p>主に父親や母親を通じて為される、こうした社会や世間からの要請は、</p><p>私たちの人格の一部となります。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし成人してからも、私たちは社会や世間からの要請を感じて生きています。</p><p>それは、常識とかルールとかマナーとかモラルと呼ばれるもの。</p><p>若いときには特に反発を感じ、トリックスター的な生き方に魅かれたりするものですが、</p><p>社会や世間の中で暮らしていくうちに、応じるところは応じるようになり、</p><p>合わせるところは合わせていくようになったりします。</p><p>アウトサイダー的なトガッた生き方をする人であっても、</p><p>年齢とともに「まるくなった」と言われるようになったりします。</p><p>それがいわゆる「処世術」といえばそれまでですが、</p><p>より良く生きていくために必要な「成長」「成熟」でもあると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>「人間っちゅうのは、大人になんかならへんぞ。</p><p>ず～っと子どものままや。」</p><p>と、仙吉（中村雅俊）さんは言っていましたが、</p><p>40歳近くともなれば、</p><p>自分がどんな立ち位置にいて、この言葉を発すれば、相手がどう受け取り、</p><p>どんな影響を及ぼすか──という見識を持つくらいの「成長」はあっていい。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/f6/7f/g/o0090008014299747303.gif" width="90"></p><p>鈴愛は、「律をささえたい」と言い出しました。</p><p>&nbsp;</p><p>律の母親の和子さんが死に至る心臓病であることがわかったためですが、</p><p>律は、妻がいる身で、絶賛子育て真っ最中。</p><p>そこへ、一度は結婚という選択もあり得た関係の、離婚したばかりの幼なじみの女性が</p><p>「ささえたい」と告げれば、それがどういう意味を持つのか、わかりそうなものです。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛は、</p><p>マーくん（＝朝井正人：中村倫也）や涼ちゃん（＝森山涼次：間宮祥太朗）に対しては</p><p>ストレート過ぎるほどに自分の恋心を、裏表なく、素直にアピールしていました。</p><p>──ヒラヒラ近づいて来たなと思うと、スーッと行ってしまう。</p><p>そんな鈴愛ちゃんは「金魚みたいだ」とマーくんに言われると、鈴愛の方から、</p><p>「金魚……、すくって下さい」。</p><p>こんなに大胆でストレートな　“I Love You”　は、普通なかなか言えるものではありません。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが、律への想いについては驚くほどにシャイ……というよりかなり屈折しています。</p><p>10代のときには、律への恋心などまったくないと宣言しておいて、</p><p>自分はマーくんと恋におち、</p><p>律が伊藤清（古畑星夏）と恋人同士になったことを認めていた鈴愛です。</p><p>なのに、いざとなったら「律は私のものだ！」と清さんと張り合いました。</p><p>律が怒って「ルール破ったのそっちじゃん」と去っていくのは当然です。</p><p>&nbsp;</p><p>まあ、恋愛感情というのは理性で律せない無茶苦茶なものなのかもしれませんが、</p><p>そんな鈴愛ですから、</p><p>「『ささえたい』というのは親友という意味で」と後で釈明しても信用出来ません。</p><p>「心の真ん中」と「心の周辺」が明らかに分離していて、</p><p>表と裏で言うことが違っているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば、若き日の瀬戸内寂聴さんが、不倫であっても自分の恋を貫いたように、</p><p>表も裏も関係なく律への恋慕の心を真ん中に据えて、世間からの批判や炎上を乗り越え、</p><p>より子さんや子どもたちへの罪悪感も一生背負いつつ、</p><p>それでも律への不倫（純粋な恋心）を貫いたとしたら、トリックスターの面目躍如です。</p><p>それはそれで喝采と声援を送りたいとおれは思います。</p><p>（朝ドラとして、昨今の風潮を鑑（かんが）みれば、却下されるかもしれませんが。）</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、不倫は鈴愛の本意ではないようです。</p><p>後日、母親・晴さんとお酒を飲みながらの語らいで、</p><p>律を助けたい、（と言っても不倫したいわけでなく）律の家庭もうまくいってほしいと、</p><p>カメラの向こうの視聴者に「これが本音なのだ」と主張したげに言っていました。</p><p>しかし、だとしたら、１対１の関係を思わせる「ささえたい」というような</p><p>重い言い方ではなく、</p><p>「律。律の力になりたい。何かあったら言ってくれ」</p><p>というような表現になるのではないでしょうか。</p><p>それがたとえ恋愛という色合いをまったく持たない（つまり不倫の意志はない）</p><p>ただの支援だとしても、それを口に出したら、どんな意味を持つか。</p><p>世間が知ったらどんな誤解を招くか、より子さんの耳に入ったらどうなるか、</p><p>いくら裏表のない鈴愛でも、40歳間近であれば、少しくらいは配慮していいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>来訪したボクテが酔った勢いで、13年も前に律がプロポーズをした件を持ち出し、</p><p>２人の気持ちを問いただすのは、視聴者も含めて周囲の人々が二人の気持ちをわからず、</p><p>ずっとモヤモヤしているためです。</p><p>幼い頃からいっしょだった二人は互いに互いをわかっているつもりでいながら、</p><p>気持ちを言葉にしてきちんと伝えない、ただそれだけのために、ずっとすれ違いを続けている。</p><p>それも、モヤモヤの原因です。</p><p>このとき、律はきっぱりと自分には妻子がいると断りますが、</p><p>鈴愛の方は、否定をしながら、この後も、恋心を匂わせる展開となります。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/f8/d1/g/o0090008014299747288.gif" width="90"></p><p>まあ、ずっとモヤモヤさせながら、結末を引っぱるのは恋愛ドラマの定石かもしれませんが、</p><p>なにしろ、心理的な過程がさっぱりわからない。</p><p>&nbsp;</p><p>象徴的だったのは、朝の放送の後番組「あさイチ」のMCのひとり、</p><p>博多華丸さんが述べた感想です。</p><p>&nbsp;</p><p>律が突然、鈴愛にプロポーズをした回。</p><p>律と鈴愛はケンカ別れをして以降、連絡もとらない５年間の空白があり、</p><p>恋人・伊藤清さんとのその後の関係もわからない。</p><p>キミカ先生（余貴美子）のお祝いで関係者一同が会したとはいえ、</p><p>２人が会えるかどうかはわからないという状況。</p><p>そこへ菜生ちゃんが車を飛ばしてくれたおかげで奇跡的に再会を果たしたその数分後、</p><p>何の脈絡もなく晴天の霹靂ともいうべきプロポーズをするのです。</p><p>&nbsp;</p><p>それを見た華丸さんが思わず、</p><p>「おかしいやろ？　なんで、あんた、急に……。</p><p>プロポーズのオフサイドだ！」</p><p>この感想には、多くの視聴者が「うん、うん」うなずいたと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>おれはツイッターをチェックすることはないのですが、話題を耳にして、</p><p>北川悦吏子さんのツイッターをのぞいてみました。</p><p>すると、</p><p>&nbsp;</p><p>「あのですね。「半分、青い。」は急展開、ではなく、スライスオブライフなのですよ。</p><p>普通、映画や舞台など、二時間程度の枠でよくやられるこの手法。</p><p>これを、１５６回かけてやってみようとしたわけです、私。」</p><p>&nbsp;</p><p>と書かれているのを見かけました。</p><p>「スライスオブライフ（slice of life）」は、</p><p>「平凡な日常生活のなにげない場面を切り取った一幕」</p><p>という意味で使われることが多いと思うのですが、</p><p>ここでは、「人生の断面」を切り取ってつなげるということなのでしょうか。</p><p>しかし、だとすれば、物語はすべて「スライスオブライフ」です。</p><p>&nbsp;</p><p>何かの事件や誰かの人生体験を、24時間、365日すべてを逐次描くことは出来ません。</p><p>それを物語にするということは、その断面、断面のどの場面をピックアップして、</p><p>どの場面をカットするかということです。</p><p>つまり、ポイントとなる場面は詳細に語り、その他の場面は省略する。切り捨てる。</p><p>２時間程度の映画や舞台やドラマに限らず、</p><p>すべての物語は、その場面、場面の取捨選択にかかっています。</p><p>&nbsp;</p><p>「プロポーズ」というのは律にとって重要な「人生の断面」です。</p><p>が、そこへ至るまでの過程や感情の動き、心理的な必然性を語る場面がなければ</p><p>成立しません。</p><p>もしも、気まぐれに何となくプロポーズした、結婚相手は誰でもよかった……</p><p>などなどの理由であったとすれば、それが語られるべきです。</p><p>少なくとも、鈴愛を恋愛対象として、または結婚相手として意識するようになったという</p><p>律の心情の変化が語られるべきでしょう。</p><p>それがまったくはしょられてしまったら、視聴者はついていけません。</p><p>感情移入することも、応援することも、理解することも出来ない。</p><p>律の心を想像することも出来ない。</p><p>プロポーズの舞台となった駅の「夏虫」という名にもこだわりがあったようですが、</p><p>おれはサプライズな展開にびっくりさせられただけで、</p><p>何かしら心を動かされるということがありませんでした。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/5e/4b/g/o0090008014299747313.gif" width="90"></p><p>このドラマでは、肝心の場面がしばしばはしょられる。</p><p>もしくは、ナレーションの一言ですまされることが多いように思います。</p><p>&nbsp;</p><p>律の結婚生活もそうでした。</p><p>妻のより子（石橋静河）さんとの仲がうまくないと噂され、</p><p>より子さんが、律の出世や息子の成績のみに汲々とする寒々しい姿が描かれていました。</p><p>ナレーションでは、こうしたより子の不機嫌の理由を律はわかっていた、</p><p>律は、愛が足りない、人をどうやって愛せばいいかわからないのだと</p><p>語られていました。</p><p>確かに律は少年時代、ペットの亀のフランソワしか友だちがいないという設定でした。</p><p>しかし、ブッチャーたち梟会の仲間とワイワイ高校時代を送り、</p><p>上京してからは親友マーくんと出逢い、</p><p>大学ゼミでもたぶん教授や仲間とうまくやっていたと思われる彼が、</p><p>「愛が足りない」とは思えません。</p><p>また、初恋のひとであり、恋人となった清を思いやり、</p><p>一方、友人の一線を画しながらも、誠意をもって鈴愛を思いやった律が、</p><p>「人をどうやって愛せばいいかわからない」とは思えません。</p><p>母親が重病と聞けば、仕事を無理して実家に戻って寄り添い、仲間を気遣う律は、</p><p>どう見ても愛にあふれる人です。</p><p>その彼が、一度は愛して結婚したより子さんをどうして愛せないのか？</p><p>&nbsp;</p><p>これを、より子さん側の視点で見たらどうでしょう？</p><p>もしも、恋人あるいは夫となった男性の心の中に自分以外の女性がいて、</p><p>その存在の大きさに圧倒されるとしたら、どう思うでしょう。</p><p>その女性はあくまでも幼なじみで友人で、男女の仲ではないのだと聞かされます。</p><p>しかし、どうやら同じ病院で同じ日に生まれた運命的な女性らしく、</p><p>義理の父と母はその女性と昵懇（じっこん）の仲で、</p><p>その女性を嫁にと望んでいたような節があるのです。</p><p>よしんばその女性に関するいっさいが秘密にされ、情報が何も聞かされていないとしても、</p><p>それだけ一家と親密な女性の存在に気がつかないということはあり得ないでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>かつて恋人だった伊藤清さんが、そんな鈴愛の存在を知ってバトルを挑んだのは当然だと思います。</p><p>より子さんの場合は、電話でのやり取りでニアミスをする程度の展開でした。</p><p>けれど、「あっ、律。聞いてくれ」と、夫の名を呼び捨てにする女性からの電話が、</p><p>離れて暮らす夫の実家へ、いきなりかかってくるわけです。</p><p>声の主の正体は、すぐに想像がついたでしょう。</p><p>「私、萩尾律の妻ですが、主人に何の御用でしょうか？」</p><p>と、ちょっと喧嘩腰な対応をするのは当然です。</p><p>それでもより子さんは、鈴愛の存在に気づかないという設定なのか、フリなのか、</p><p>鈴愛のことには言及せず、口にも話題にもしませんでしたが。</p><p>&nbsp;</p><p>より子さんは、バトルを仕掛けるわけではない。</p><p>やさしい夫を、たぶんなじるわけでもない。</p><p>どこにもぶつけられない鬱憤と、</p><p>夫から愛されていないのではないかという不安と淋しさに追い込まれ、</p><p>妻として、女性としてのプライドを傷つけられ、</p><p>それが、夫と息子を自分の手で世間から認められる一流にしたいというような、</p><p>あるいは、会社の婦人会やPTAのマウンティングで優位を感じたいというような、</p><p>偏った情熱へ向かわせたのではないか。</p><p>──と、これはあくまでもおれの妄想ですが、そんな想像も出来るように思います。</p><p>それを律はわかっていて、自分ではどうすることも出来ないのではないか。</p><p>&nbsp;</p><p>まあ、これが単なる妄想だとしても、</p><p>律の妻であるより子さんの目から見れば、自分がどんな存在であるか、</p><p>結婚と離婚を経て妻という立場を経験してきたアラフォーの鈴愛ならわかるはずです。</p><p>ほんとうに律を助けたい、律の家庭がよくなってほしいと願うなら、</p><p>鈴愛自身が律との接触を控えるのも手だてのひとつです。</p><p>あるいは、律と会うときは、より子さんと連絡し、より子さんを通して会うとか、</p><p>律が娘のカンちゃん（＝花野：山崎莉里那）にマンガを読み聞かせてくれたりすれば、</p><p>世話をしてくれるのはありがたいけれど、</p><p>自分の息子との時間をもっと作ってあげてほしい──と言うみたいな、</p><p>そんな心遣いを見せてほしいところでした。</p><p>律へ連絡するときには携帯ではなく、家庭電話にして母親・和子さんの声を聞き、</p><p>和子さんの病状を気遣うというキメ細かな心遣いが出来る鈴愛なのであれば。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/2a/2e/g/o0090008014299747309.gif" width="90"></p><p>しかしここへ来て、「鈴愛応援団」と呼べるような、鈴愛を取り巻く包囲網が</p><p>如実に明らかになってきたように思います。</p><p>&nbsp;</p><p>キミカ先生は、律が弱っているようだから力になってあげてほしいと、</p><p>妻のより子さんに相談するのではなく、鈴愛に頼んでくる。</p><p>来訪した裕子は、鈴愛と律の２人の関係は「ナチュラル」で「オープン」で、</p><p>「じんと来た」と大絶賛します。</p><p>暴走する鈴愛のストッパー的な役割の母親・晴さんも、</p><p>律は特別な親友だという鈴愛の言葉にうなずき、</p><p>ええ友だちを持ってよかったねえと、深過ぎるほどの理解を示していました。</p><p>律の母親・和子さんは、律の母子手帳と育児日記を預かってくれと、</p><p>嫁にではなく鈴愛に託します。</p><p>律の父親・弥一（谷原章介）さんは鈴愛に、律の力になってくれてありがとう、</p><p>ただそこにいるだけで、鈴愛ちゃんは律の力になってくれたと礼を言います。</p><p>&nbsp;</p><p>これではより子さんにとって、夫の実家は完全アウェイです。</p><p>実家へ行くと、「人の家は息がつまるわ」と言い、</p><p>外の空気を吸いたくなるのもわかろうというものです。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、この応援団ぶりが、鈴愛の頑張りにエールを送るというよりは、</p><p>みんながみんなイエスマンで、</p><p>鈴愛の都合のいいように動いてくれる、とりなしてくれる人々であるように</p><p>感じられたのでした。</p><p>誰も鈴愛のツッコミ役にまわらない。</p><p>そしてストーリー展開も、実に鈴愛の都合のいいように動いていきます。</p><p>&nbsp;</p><p>センキチカフェにひとり反対していた晴さんは、いったん家出をしますが、</p><p>和子さんとの会話で、すぐに帰ってきて賛成派にまわります。</p><p>親の資金と仙吉さん直伝のレシピが売りで開店したセンキチカフェは、</p><p>何の苦労もなしに繁盛したようです。</p><p>そして娘のカンちゃんの「スケートがしたい」きっかけではありますが、</p><p>鈴愛が東京へ行きたいと考え出したとき、センキチカフェには、</p><p>健人（小関裕太）と麗子（山田真歩）のカップルという後継者が用意されていました。</p><p>晴さんの世界一周旅行という夢を奪って借りた資金を倍返しにするという約束も忘れ、</p><p>仙吉さんの五平餅の味を継ぐという使命もそこそこに、</p><p>けれど、律と５秒間だけ抱きしめ合うという、</p><p>まるで「不倫」ドラマのせつない名シーンと見間違うかのような別れだけは忘れずに、</p><p>かくて鈴愛は再び東京へと旅立ちます。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/f6/7f/g/o0090008014299747303.gif" width="90"></p><p>北川悦吏子さんという作家は、安易な予定調和を嫌う方であると思います。</p><p>物語を進行させる役割のコマとして、登場人物を緻密に配置し、</p><p>予定通り、想定通りに筋が進んでいくというのではなく、</p><p>いきいきと登場人物が動きだし、ストーリーを引っ張っていく。</p><p>だからドキドキさせられ、ラストがどうなるかわからない、というようなドラマが多い。</p><p>&nbsp;</p><p>ですが今回のドラマでは、鈴愛が上京してから後に挫折し、故郷へ戻る。</p><p>そして再び上京して成功するという、</p><p>おおまかな筋書きが最初にありきだった気がしてなりません。</p><p>同じ日に同じ病院で生まれるという運命的な二人は、</p><p>しかし、簡単に結ばれたとしたら、予想通りのごくありがちな展開です。</p><p>そこにはすれ違いがあって、視聴者をヤキモキさせなければならない。</p><p>視聴者の予想を裏切って、それぞれ結婚して家庭までもつことになる。</p><p>それでも信頼関係を保ちながら、さまざまな紆余曲折を経たその後で</p><p>再び出逢い、共同作業をすることで成功に導かれる。</p><p>──そんな設計図の路線通りに書き進められた……ような気がするのです。</p><p>&nbsp;</p><p>そのためには、律からプロポーズされても鈴愛は断らなければならないし、</p><p>涼ちゃんは理不尽な離婚を突きつけて、鈴愛を故郷へ帰らせなければならない。</p><p>鈴愛はセンキチカフェに長居することは許されず、東京で起業しなければならないし、</p><p>律は結局は離婚しなければならないし、会社を辞めなければならない。</p><p>……ことになってしまったような気がするのは、やはりおれの勝手な妄想でしょうか。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/f8/d1/g/o0090008014299747288.gif" width="90"></p><p>鈴愛は、「～たい」という自分の望みをストレートに遂げようとします。</p><p>そのためには、東京での就職先のチャンスがほんの少しでもあれば見逃さないし、</p><p>親の虎の子の旅行資金も利用する。</p><p>その強引さは、時として社会や世間との軋轢を生み、</p><p>中途半端にトリックスター的なところは、世間の目から見たとき、</p><p>エゴイスティックなものとして映ることになります。</p><p>自分自身の望みのための努力がエゴイスティックに見え、</p><p>また、スタンドプレーに見えてしまう。</p><p>&nbsp;</p><p>高校時代、鈴愛が教室でスタンドプレーをしても</p><p>浮くことなく、いじめられることなく、和やかに日々を送ることが出来ていたのは、</p><p>律の配慮のおかげで、律が緩衝剤になってくれたおかげだと、</p><p>ナレーションで語られていました。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、律がいなくても、おとなになって社会に出てからも、</p><p>鈴愛を取り巻く応援団包囲網は、あくまでもやさしい。</p><p>「おまえ、アホか」「そら、おかしいやろ」と、</p><p>学生時代は、ブッチャーや菜生ちゃんがツッコんでくれましたが、</p><p>社会人になってからは誰もツッコまない。</p><p>鈴愛にマイナスのことをつぶやいたり、批判したり、反発することもなく、</p><p>「鈴愛、いいね！」の大合唱で、都合よく動いてくれるように思われます。</p><p>そのために鈴愛が「裸の王様」になってしまうのではないかと</p><p>心配してしまうほどです。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛は、周りの人々への感謝を忘れてはならないと思います。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/5e/4b/g/o0090008014299747313.gif" width="90"></p><p>鈴愛が生まれて初めて人から好きだと告白された相手は、裕子でした。</p><p>裕子は自分のことを他人にしゃべれない性格で、</p><p>そんなかたくなな心をやわらかくしてくれたのが鈴愛だったと言っていました。</p><p>結婚してマンガの世界を離れても、子育て真っ最中でも、何かと心配してくれ、</p><p>マンガに挫折しボロボロになった鈴愛のそばにいてくれたのも裕子でした。</p><p>&nbsp;</p><p>裕子が仙台に居を移し、鈴愛が岐阜に帰ってからも、訪ねて来てくれた。</p><p>そのときは、裕子は看護学校へ入って２年目。</p><p>主婦をしつつアラフォーから看護師を志すのは並大抵のことではないと思いますが、</p><p>実習で知った現場の大変さ、厳しさに心が折れたのだと鈴愛に打ち明けます。</p><p>そんな裕子の苦悩に鈴愛がどれだけ寄り添えたのか──はわかりません。</p><p>しかし裕子は、鈴愛の笑顔を見たかったんだと言って、仙台へ帰っていきます。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、今度は鈴愛が、正規の看護師になった裕子に必ず会いに行くと、</p><p>指切りげんまんの約束を交わした、その約束を果たせないまま、</p><p>2011年３月11日がやって来たわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>裕子が行方不明であるという知らせがあって地震から２週間あまり、</p><p>けれど遺体は確認できず、行方不明の状態が続きました。</p><p>その間、ボクテや秋風羽織は居ても立ってもいられず、仙台へ飛びましたが、</p><p>鈴愛は動きませんでした。</p><p>TVの情報も見ようとしませんでした。</p><p>そこへ、裕子の死が確定となったことを知らされ、</p><p>&nbsp;</p><p>「君がいなくなって、私の世界は半分になった。</p><p>まだ子どもの頃、片側だけの聴力をなくした事よりも、何千倍もショックだ」</p><p>&nbsp;</p><p>という鈴愛の詩的な独白となります。</p><p>&nbsp;</p><p>娘のカンちゃんが震災ショックの不安感から学校でおもらしをしてしまい、</p><p>けれど裕子の行方不明を気にしている鈴愛に心配をかけたくないと、</p><p>そのことを言わなかった。</p><p>ということで、カンちゃんだけでなく、鈴愛も不安定だったことがわかります。</p><p>しかし知らせを聞いても鈴愛は仙台へ向かわず、岐阜に向かう。</p><p>そこで裕子の死と向き合うことをやっと決心し、仙台の裕子の家を訪ねることになります。</p><p>それだけ、ショックが大きかったということなのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、悲しいことは悲しいとわかるのですが、</p><p>え？　鈴愛は「世界が半分になった」と思えるほど、ショックだったのか？　と、</p><p>ちょっと意外に思ってしまいました。</p><p>というのは、裕子に対する鈴愛のエピソードがあまりに稀薄なのです。</p><p>例によって、その過程のドラマが省略され、ごっそり抜け落ちている。</p><p>裕子は鈴愛に声援とラブコールを送り、鈴愛をささえてくれました。</p><p>しかし、鈴愛がそれに感謝したり、裕子を「ささえたい」と願って動くような、</p><p>そうした肝心な場面が見事にないのです。</p><p>たとえば、震災前、看護師となって苦労する裕子を鈴愛が訪ねるというような場面が</p><p>１シーンもないのです。</p><p>&nbsp;</p><p>裕子の霊前を訪ねた鈴愛に、夫の洋二（山中崇）さんが、</p><p>裕子の遺した携帯の録音を聞かせる件（くだり）は、すっかり朝から泣かされてしまいました。</p><p>けれど目をゴシゴシやりながらも、おれは違和感を禁じ得ませんでした。</p><p>&nbsp;</p><p>節電などの協力を含めて日本中が息を詰めて東北を見守っていた当時の空気感や、</p><p>津波の被害は逃れたとはいえ、被災地である仙台の緊張感はなかった。</p><p>当時を知る視聴者は、その感じをひとつも共有出来なかったと思います。</p><p>まあ、それはそれでかまいません。</p><p>でも、それよりも何よりも、鈴愛に対する裕子の伝言の言葉の大仰さに</p><p>リアリティーを感じられなかったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>当時の裕子がどんな切迫した状況だったのか。</p><p>津波が押し寄せた後だったのか、そこで助かって患者さんの救助と避難をしていたとしたら、</p><p>裕子は何で亡くなったのか。──は、わかりませんが、</p><p>これから死を迎えようかというとき、息子と夫には二言三言、ボクテには一言、</p><p>しかしそれに比べて、鈴愛には言葉をつくして、「私の分まで生きてくれ」とまで語ってくれる。</p><p>家族をそっちのけで、「鈴愛、生きろ」と語ってくれる。</p><p>それだけ裕子は鈴愛のことを想ってくれたのだろうとは思うのですが、</p><p>あるいは、主人公を盛り立てるための作劇効果だろうとは思うのですが、</p><p>その言葉のしつこいほどの大仰さ。</p><p>そして「世界が半分になった」という鈴愛のショックの度合いの大仰な表現と、</p><p>それにしては裕子に対する鈴愛のエピソードのあまりの希薄さが相まって、</p><p>何だか悲劇を盛り上げるための鈴愛のスタンドプレーに見えてしまった。</p><p>そのスタンドプレーのために、裕子が利用されたようにさえ思われたのでした。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛は、裕子に感謝を、周囲の人々に感謝をしなければならないと思います。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/5e/4b/g/o0090008014299747313.gif" width="90"></p><p>──というわけで、ドラマの後半期になって、</p><p>おれが鈴愛ちゃんを半分嫌いになった理由を、長々、クドクド述べてしまいました。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、嫌いだからといってすべてを切り捨てる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。</p><p>携帯番号のリストから削除してやれ。排除しろ。……みたいな、</p><p>◯か╳かみたいなやり方は違うと思います。</p><p>人間は、◯か╳かの二者択一のデジタルではけっして割り切れない。</p><p>&nbsp;</p><p>半分嫌いになりましたが、もしかしたらそれは半分好きの裏返しかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>100円ショップ勤務の時代。</p><p>鈴愛が夫の涼ちゃんを「ささえたい」とねがい、</p><p>彼の脚本執筆のために献身的に協力する覚悟を決めたとき。</p><p>鈴愛は、今までは自分の夢をかなえるために頑張って生きてきたけれど、</p><p>「これからは人のために生きよう」と思ったのだと、</p><p>三おば（藤村三姉妹）に語っていました。</p><p>なるほど、鈴愛が誰かのために何かをしようとしたのは、以降も、</p><p>この時の涼ちゃんに対して、娘に対して、律に対して……と限られています。</p><p>出来れば、裕子に対しても、何かして欲しかったですが、</p><p>人は、そうそう誰かのために何かをしてあげられるものではありません。</p><p>たとえばわが身を振り返ってみれば、誰かのために何かをしたのかと問われれば、</p><p>一人二人数えられるかどうか。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど、最後の最後で、鈴愛は、ガンの手術をした母親・晴さんのために、</p><p>律は、今は亡き母親・和子さんを想いながら、</p><p>人にやさしい扇風機「マザー」を完成させました。</p><p>たとえ冷房完備という時代になったとしても、</p><p>それは二人の母親だけでなく、老齢を迎えた多くの母親（だけでもなく多くの父親）、</p><p>そして裕子が考えたように、病床にある多くの人々の役に立つのでしょう。</p><p>あるいは</p><p>「寝ていても団扇（うちわ）の動く親心」</p><p>という川柳のような、母心そのもののような風を、きっと子どもたちにもたらすのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛は人々のために何かを成し遂げたのだと思います。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/f8/d1/g/o0090008014299747288.gif" width="90"></p><p>北川悦吏子さんは、半年以上にわたる長い執筆のあいだ、体調が悪化し、</p><p>２度ほど救急車で運ばれ入院して、ベッドで書いたときもあったそうですね。</p><p>もしもの場合には、岡田惠和さんに脚本の代役を頼んでのぞんだということですが、</p><p>結局、締め切りを一つも落とすことなく完走された。</p><p>それはとてもすごいことで、精いっぱいの拍手と「お疲れさま」を言いたいです。</p><p>&nbsp;</p><p>ですが、おれは鈴愛ちゃんを半分嫌いになりました。</p><p>それは変わりません。</p><p>&nbsp;</p><p>だけど、約10年前、手術の影響で苦しんでいた最中（さなか）の北川悦吏子さんが、</p><p>「抜けるような青い空」</p><p>と原稿用紙にたった一行だけ綴ったというその青い色は、</p><p>おれはやっぱり信じたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛が物語の中で幾度か仰いだ「半分、青い」その空の、濁りのない青い色。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-weight:bold;">【了】</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/porepore4989/entry-12417761836.html</link>
<pubDate>Sun, 11 Nov 2018 06:40:45 +0900</pubDate>
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<title>「半分、青い。」（９）──おれが鈴愛ちゃんを半分嫌いになった理由　その２</title>
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<![CDATA[ <p>さて、ここで思い出されるのが、鈴愛の小学校時代、</p><p>国語の授業で先生が出していたテストの問題です。</p><p>&nbsp;</p><p>──かぐや姫が月に帰ったとき、おじいさんとおばあさんはどんな気持ちだったか？</p><p>次の中から選びなさい。（複数回答可）</p><p>（１）さびしかった。</p><p>（２）かなしかった。</p><p>（３）せつなかった。</p><p>（４）せいせいした。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちの心の中にわいている、感情やら意志やらの気持ちというのは、</p><p>本来はもやもやとした曖昧模糊なものです。</p><p>その上、他人や周囲の環境に反応しながら、たえず変化し続けている。</p><p>そんな中で強くわき起こったり、大きな割合を占めるものに、</p><p>私たちは言葉を与え、すくいとり、それを意識として組み立てて整理し、</p><p>それが自分の気持ちだと思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど、言葉はいつも近似値です。</p><p>ボキャブラリーのまだ少ない小ちゃな幼児が、</p><p>頭が痛いのに「ポンポンが痛い」と訴えることがあるように、</p><p>おとなだって自分の気持ちを正確に言い表せないことがあります。</p><p>またたとえば、嫉妬や後悔や不安などいろいろ複雑なニュアンスの気持ちがあるのに、</p><p>あるいは、感動した、素晴らしい、心がときめいたというという場面で、</p><p>ただ単純に「ヤバイ」の一言で片付けてしまったりもします。</p><p>すくい取った自分の気持ちを、そんなたった一言で表すことで、</p><p>それとは別な感情や想いを取り逃がしたり、</p><p>もしかしたら大切かもしれないナイーブな部分を切り捨てることもあります。</p><p>&nbsp;</p><p>かぐや姫のおじいさん、おばあさんの気持ちにしても、</p><p>上の４つの選択肢だけということはないでしょう。</p><p>月の世界へ行っても、幸せになってくれよという気持ち。</p><p>おまえがうちの竹林に生まれてくれたおかげで幸せだった、</p><p>おまえと過ごせた時間は宝物だった、ありがとうという気持ち。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな一方で心の中には、程度の差こそあれ、</p><p>欲望やねたみ、そねみ、利己的な気持ちや計算もあります。</p><p>帝（みかど）さまがあれほどつくして下さるのに逆らうなんて、</p><p>なんと畏れ多いことをしでかしてくれたことか。</p><p>残されたわたしたちの、肩身の狭くなる身にもなってみろ。</p><p>かぐや姫がわたしたちの言うことをきいて、帝さまのご寵愛を受けてさえいれば、</p><p>わたしたちは天下に並ぶべくもない長者になって、今以上の贅沢が出来たものを。</p><p>老い先短いわたしたちを捨て置いて、自分だけ桃源郷のような月の世界へ行くなんて、</p><p>なんという薄情者なんだ。</p><p>……などという気持ちも、ひょっとしたら隠れていたかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>また、テストで律が選び、鈴愛が先生に説明したように、</p><p>自立して自分の手を離れ旅立つわが娘にさびしさを感じながらも、</p><p>これまでの子育ての苦労を終えて肩の荷を下ろし、</p><p>「（４）せいせいした」という気持ちもあったかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、学校の先生が（１）から（３）までを「正解」と決めつけたように、</p><p>愛する娘と別れ別れになったのだから、さびしく悲しくせつないに違いない、</p><p>それが人情というものだという概念を、社会や世間は求めます。</p><p>そうした“求め”や“期待”や“ほのめかし”や“圧力”に応じて、</p><p>子どもたちも「正解」を覚えようとします。</p><p>その「正解」に自分の気持ちを合わせようとする。</p><p>そんな気持ちばかりに囚われれば、それは「いい子」という仮面になったりもする。</p><p>しかし私たちは、大なり小なり、</p><p>他人に合わせるため、見せるための仮面を使い分けているものです。</p><p>&nbsp;</p><p>若き日の律（佐藤健）の大学受験がアクシデントで失敗となったとき、</p><p>母親の和子さんが彼を評して語っていました。</p><p>「あの子は、心の真ん中のところを人に言わないんです」</p><p>すると、</p><p>──いやいや、心の真ん中のところなんて、おいそれと人に言うわけないやろ！</p><p>と、その場にいた、鈴愛以外の全員が胸の内でツッコミを入れていました……。</p><p>みたいなことを、ナレーションの廉子（風吹ジュン）さんが語っていました。</p><p>&nbsp;</p><p>和子さんの言葉を聞いた鈴愛は、</p><p>律とは親友で、何でも包み隠さず話してきたつもりなのに、今までの会話は全部、</p><p>パンの耳のような「心の周辺」で話していたそら言だったというのか？</p><p>……と、ショックを受けたといいます。</p><p>そこで鈴愛は、川のほとりで律を問いつめ、</p><p>律はプライドの鎧（よろい）を脱ぎ、自分の挫折について語るという展開になります。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり鈴愛には「心の真ん中」と「心の周辺」の区別がない。</p><p>表も裏もない。</p><p>おそらくは律との会話だけでなく、全般的にそういう傾向があるということでしょう。</p><p>「真ん中」も「周辺」もなく、</p><p>心に浮かんだことを「羽根のように軽い」その口で、口に出してしまう。</p><p>相手に合わせよう、周りに合わせようという抑制や配慮がない。</p><p>忖度（そんたく）がない。</p><p>&nbsp;</p><p>だから高校生時代の鈴愛の憧れの初デートのときも、</p><p>当時流行だった（？）ブリッコを決めて、女の子らしいオシャレな話題を選ぶことなく、</p><p>拷問器具のメカニズムについての興味を、相手に忖度することなく滔々と語り出し、</p><p>男の子（小林クン＝森優作）にドン引きされることになりました。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/5e/4b/g/o0090008014299747313.gif" width="90"></p><p>（１）～（３）のように社会や世間から求められる、</p><p>いわゆる常識的な、あるいは「建前」と呼ばれる「正解」「正論」に対し、</p><p>これらからはずれた、たとえば（４）「せいせいした」というようなマイナスな気持ち。</p><p>それは私たち人間のリアルとして作家は看過出来ないのだろうと</p><p>前にグダグダ書きました（<a href="http://porepore4989.blog68.fc2.com/blog-entry-76.html" target="_blank">http://porepore4989.blog68.fc2.com/blog-entry-76.html</a>）。</p><p>それは、太古の昔から神話や昔話で語られてきたことでもありました。</p><p>&nbsp;</p><p>いわゆるトリックスターもその一つです。</p><p>&nbsp;</p><p>トリックスターの一人（一柱）と目されているのが、古事記に登場するスサノオノミコト。</p><p>彼は、荒れすさぶ暴風雨の神といわれますが、</p><p>お母さんに逢いたい、死んだお母さんに逢いに死者の国（根の国）に行きたいと</p><p>幼児のように駄々をこねたりもします。</p><p>そして姉・アマテラスノオオミカミのいる高天原（たかまがはら）へ昇ると、</p><p>いたずら者、暴れん坊ぶりを発揮する。</p><p>田んぼの畦（あぜ）をつぶして溝を埋めるのはまだしも、</p><p>神聖な大嘗祭を行う神殿に大便をまきちらし、</p><p>果てには、神の神聖な着物を織る機織場（はたおりば）へ、</p><p>皮をはいだ馬の死体を投げ込みます。</p><p>パンクです。第二次反抗期です。</p><p>しかしそのために機織り女（め）が死んでしまい、</p><p>怒り、嘆き悲しんだアマテラスは、天の岩戸の洞窟に隠れて閉じこもります。</p><p>そこで世界は太陽を失い、真っ暗な闇となる。</p><p>この有名な「天の岩戸」事件を仕出かした張本人──元凶がスサノオです。</p><p>&nbsp;</p><p>……と、ここまでの彼の来歴をみると、とんでもない極悪人ですね。</p><p>ところが、この事件以後、物語は好転していきます。</p><p>天の岩戸の前で、アメノウズメノミコトが舞いを踊る。</p><p>踊りは激しくエスカレートして、着物ははだけられ、自然そのままな姿をあらわにする。</p><p>すると神々がどおっと笑い、はて、何事かとアマテラスが岩の戸を開けることで、</p><p>洞窟から出てくることになります。</p><p>「笑い」によって、事件が解決する。</p><p>世界を白くして（＝明るくして）、神々の面（おもて）も白くした（つまり面白くした）</p><p>アマノウズメノミコトがすべての芸能の元祖であると、</p><p>能の世阿弥も書いていました（「風姿花伝」）。</p><p>&nbsp;</p><p>母親不在のために心がすさみ、姉を頼っても、姉は世界の長として忙しく、</p><p>しかも粗暴な自分を疎んで怖れ、遠ざけるありさま。</p><p>そこでスサノオがひき起こした家庭内暴力ならぬ、度を超した家庭外暴力が、</p><p>しかし結果的には世界を変えることになります。</p><p>「笑い」の価値を改めて発見し、芸能というエンターテインメントも起こっていく。</p><p>スサノオは罰を受けて手足の爪を抜かれ、高天原を追放されますが、</p><p>追放されて降りた下界で、ヤマタノオロチを退治し、英雄神となります。</p><p>&nbsp;</p><p>トリックスターというキャラクターは、秩序を破るものです。</p><p>時に秩序を破壊する。秩序を逆転させる。ひっくり返す。</p><p>時に乱暴者として、スサノオが神聖な神殿を糞尿まみれにしたように、秩序を貶める。</p><p>時に、シェイクスピア「夏の夜の夢」でも知られるイギリスの妖精パックのように、</p><p>いたずら者として、秩序を混乱させる。</p><p>時に、北欧神話のロキのように、悪だくみを行う者として、秩序を嘲る。</p><p>&nbsp;</p><p>時に、豊後の吉四六（きっちょむ）のように、いたずら者、ペテン師、とんち者として、</p><p>秩序にぎゃふんといわせて、秩序を笑う。</p><p>昔話や民話には、吉四六さんの他にも、肥後の彦一、江差の繁次郎、土佐の泰作、あるいは</p><p>一休さん（実在の一休禅師を離れ、小僧時代の彼の活躍が昔話に伝えられています）などなど、</p><p>民衆の中から現れたトリックスターがいて、日本各地で活躍しています。</p><p>&nbsp;</p><p>そしてトリックスターは、時に、泥棒、盗人でもあります。</p><p>ギリシア神話のプロメテウスは、ゼウスをとんちでだまし、おかげで火を取り上げたゼウスから</p><p>火を盗み出します。</p><p>アイヌ神話のオキクルミは、天界から穀物の稗（ひえ）を盗み出します。</p><p>ネイティブ・アメリカンの神話では、</p><p>コヨーテが水の怪物の子どもを盗んで洪水をもたらし、</p><p>ウサギが天界から火を盗み、</p><p>ワタリガラスが月を盗みます。</p><p>&nbsp;</p><p>いずれも、モラルとしては褒められることではありません。</p><p>欲望、怒り、ねたみ、嫉み──煩悩の体現者だったりします。</p><p>しかし、理性ではない本能的なエネルギー（生きる力）の体現者だったりもします。</p><p>自分の欲望に素直で、欲望を抑えようとしない。</p><p>時に怒りの感情に身をまかせ、また時に抜け目のないずるがしこさで、</p><p>それが、秩序を脅かし、秩序を吟味させる。</p><p>そしてそれが、結果的に、硬直した状況に風穴を空けることになります。</p><p>飛躍と変革をもたらすことになる。</p><p>プロメテウスやウサギは人間に火をもたらし、</p><p>オキクルミは人間に稗をもたらして飢えから救い、</p><p>コヨーテは人間を地上に住まわせることになり、</p><p>ワタリガラスは世界に月をもたらしました。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/2a/2e/g/o0090008014299747309.gif" width="90"></p><p>秩序が望むような「正論」や「正解」ではない心の部分。</p><p>それは時として、モラルや法からもはずれた「悪」です。</p><p>けれどそんな悪人は、私たちの日の当たらない心の部分の体現者でもあります。</p><p>だから昔から、悪人が活躍する物語に私たちは魅せられ、胸躍らせてきました。</p><p>たとえば、主人公がピカレスク（悪漢）の小説。</p><p>たとえば、ヴィラン（悪役）が魅力的な映画。</p><p>たとえば、社会からはみだしたアウトローが跋扈（ばっこ）する「水滸伝」のような物語。</p><p>またたとえば、石川五右衛門や鼠小僧、白浪五人男といった泥棒が活躍する</p><p>歌舞伎や講談の世界。</p><p>それは「ルパン三世」にもつながる系譜です。</p><p>&nbsp;</p><p>また、「悪」には至らないまでも、そうした負の部分のありのままを、</p><p>たとえば落語は、笑いに包みながら私たちに見せてくれます。</p><p>&nbsp;</p><p>中でも、たとえば、「胡椒の悔やみ」という噺。</p><p>ある男が、葬式のお悔やみのやり方について教えてくれと、兄貴分の男を訪ねます。</p><p>男は笑い上戸で、自分の親父の葬式のときにも大笑いをしたという強者（つわもの）。</p><p>兄貴は、胡椒を授け、これを一口なめれば涙を流さずにいられない、</p><p>泣きながら悔やみの言葉を言えばいいとアドバイスします。</p><p>そこで葬式に行った男、いざ悔やみというときに、胡椒を一口でいいというのに、</p><p>しこたま舐めたからたまりません、</p><p>ボロボロ涙が出るのはいいけれど、口の中は燃えさかる火事のよう。</p><p>「水を一杯下さいっ」とあわてて頼んで一気に飲み干し、</p><p>落ち着いたところで、挨拶の続き──。</p><p>「この度は、お嬢さまがお亡くなりということで……」</p><p>と、このとき、水を飲んだおかげで胸がスーッとして、</p><p>「ウフッ……ああー、いい心持ちだ」。</p><p>&nbsp;</p><p>明石家さんまさんが、吉本興行の先代の社長が亡くなられたときの葬式の話を、</p><p>TVで話していました。</p><p>さんまさんは次の仕事の関係のため、黒の喪服ではなくグレーのスーツに腕章を着けて</p><p>出席したそうです。</p><p>するといっしょに出席したジミー大西さんは、それがおかしくてたまらない。</p><p>その上ジミーさんは人の真剣な顔を見ると笑ってしまうのだそうで、</p><p>一人だけグレーの服で、キリッと真剣な顔をしているさんまさんがおかしくて、</p><p>式の最中、ずっと笑ってしまい、さんまさんはえらい迷惑をしたということです。</p><p>まるで「胡椒の悔やみ」の実写版ですね。</p><p>&nbsp;</p><p>葬式といえば、人が死に、その人生を終えたことを悼む神聖な儀式。</p><p>遺族や友人も悲しみに打ちひしがれているときに、笑うというのはとんでもない、</p><p>人の道にもとるアンモラルな行為ということになります。</p><p>しかし、肉親や親友の死であれば別ですが、</p><p>ちょっと顔見知りという程度の人の死であれば、格別に思い入れがないこともあります。</p><p>なのに、ことさらに沈痛な表情をつくって真剣な顔をしている人を見れば、</p><p>笑ってしまうこともあるのでしょう。</p><p>笑いは「緊張の緩和」なので、葬式という大きな緊張の場ではなおさら可笑しい。</p><p>普通なら、抑えて我慢するところを、ジミーさんは素直に出してしまった。</p><p>落語は、そうした私たちが抑圧しているような心の部分も素直に語って見せてくれます。</p><p>かぐや姫のテスト問題でいえば、</p><p>（４）「せいせいした」と答える心の部分です。</p><p>&nbsp;</p><p>そもそも芸能の元祖、アメノウズメノミコトは、モラルを踏み外して卑猥だと非難されようとも、</p><p>生命そのものの舞いを踊ることで笑いをもたらし、世界を明るくし、世界を暗闇から救いました。</p><p>エンターテインメントというのは、モラルとは違う心の部分の性質に関係するのでしょう。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/f8/d1/g/o0090008014299747288.gif" width="90"></p><p>さて、鈴愛は、一種のトリックスター的な色合いを持つキャラクターです。</p><p>いえ、と言っても、乱暴者でもないし、詐欺師でもないし、泥棒でもありません。</p><p>が、しかし、秩序や社会や世間におもねろうとはしない。</p><p>&nbsp;</p><p>ドラマの各週のサブタイトルは、</p><p>「生まれたい！」「東京、行きたい！」「すがりたい！」「幸せになりたい！」などなど、</p><p>「～たい！」という、鈴愛の願望、欲望、望みをストレートに言い表したものでした。</p><p>今振り返ってみると、当たり前と言えば当たり前ですが、</p><p>そのどれもが、鈴愛の身の内からわき起こってきた望みであることがわかります。</p><p>&nbsp;</p><p>「汝の欲することをなせ」</p><p>&nbsp;</p><p>というのは、</p><p>ある物語の主人公が異界を冒険するにあたって、その世界の王女から与えられた</p><p>唯一の指針でした（ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」）。</p><p>これはまさしく鈴愛とともにある言葉だと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>彼女は、先生に言われたから～する、親に言われたから～する、ということはしません。</p><p>友だちやみんながやっているから〜する、流行だから～するということもありません。</p><p>「長いものには巻かれろ」式の望みでも、付和雷同の望みでもありません。</p><p>ブッチャーが鈴愛を評して、</p><p>「鈴愛の辞書には、仕方ないからこうするっていうのはない」</p><p>と言っていた通りです。</p><p>ただ、自分の心の中にわき起こる「～たい！」と向き合い、それを掲げる。</p><p>それが彼女のエネルギーとなり、彼女の羅針盤となる。</p><p>そのために失敗してコケて挫折しても、時に抜け目のないずるがしこさで、</p><p>時に「とんち」ならぬ「アイデア」で乗り切り、成し遂げようとします。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/f6/7f/g/o0090008014299747303.gif" width="90"></p><p>しかしトリックスターは、取り扱いが難しい。</p><p>彼（彼女）は社会や世間に合わせようとするどころか、むしろ秩序を破る者です。</p><p>秩序側の価値観を揺さぶるため、視聴者は異和感を感じ、刺激され、心を揺さぶられます。</p><p>けれどそれは一方で、視聴者が共感しにくいということでもあります。</p><p>&nbsp;</p><p>スサノオが神殿を穢し、馬の死体を家に投げ入れるなどの、度の過ぎたいたずらは</p><p>心のどこかでちょっとした小気味よさを伴いますが、</p><p>それが人ひとりを殺してしまうとなるとただの理不尽な暴力で、</p><p>その場面だけを見せられたら、視聴者（聞き手・読者）は彼に共感はできないでしょう。</p><p>スサノオがもしもSNSをやっていたら、炎上するところです。</p><p>&nbsp;</p><p>かぐや姫が天人に付き添われ、この世ならぬ光とともに月へと帰っていく。</p><p>「行かないで」と涙ながらに娘の名を叫び続けていたおじいさん、おばあさんが、</p><p>そんな感動のクライマックスのすぐ後で、それまでの心理的な描写や何の説明もなしに、</p><p>「あー、せいせいしたのお」</p><p>と腰を下ろし笑い合う。</p><p>そんな場面だけを見せられたとしたら、視聴者は共感するどころではありません。</p><p>やはり炎上必至です。</p><p>&nbsp;</p><p>トリックスターは、既成の秩序に対して簡単に「Yes」を言いません。</p><p>むしろ「No」を突きつける者です。</p><p>社会や世間の「正解」に違和感を感じる私たちの心の陰の部分を</p><p>拡大して見せてくれる者です。</p><p>時として社会や世間からはみ出し、時として常識はずれとなる。</p><p>だから世間の物差しの中で暮らしている私たちは、すぐには共感できにくい。</p><p>どころか、反感を持つことにもなります。</p><p>世間に同調しなければならないという昨今の空気の中では、</p><p>少しでも同調しない者が現れれば、みんなで攻撃するといった風潮もあります。</p><p>&nbsp;</p><p>また、社会や世間が求める調和的な「正解」ではない部分を、</p><p>ただ、たれ流せばいいというものでもありません。</p><p>それが「毒舌」と呼ばれ、おもしろがられることもありますが、</p><p>どんな立ち位置なのか、どんなキャラクターであるのかが問われるところです。</p><p>ウィットや愛嬌や人に対するやさしさのない「毒舌」は、単なる「悪口」です。</p><p>やはり、トリックスターは、取り扱いが難しい。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/5e/4b/g/o0090008014299747313.gif" width="90"></p><p>また、距離感ということもあります。</p><p>&nbsp;</p><p>明石家さんまさんが、ジミー大西さんと出席したお通夜の話をラジオでしていました。</p><p>と言っても先述のエピソードとは別の、元マネージャーのご尊父の通夜だったそうです。</p><p>当時も多忙のこと、番組のスケジュールのやりくりだけでなく、</p><p>共演者のスケジュールの調整までやっと頼み込み、最終で駆けつけたのだそうです。</p><p>だからでしょう、ジミーさんは礼装ではなく、ジャージ姿でした。</p><p>そして通夜の席は和室の畳部屋だったので、長時間の正座。</p><p>そこへお焼香と言われ、ジミーさんは祭壇に行こうとする。</p><p>ところが足はすっかり痺れて動かないため、膝をついて這うように向かっていった。</p><p>するとジャージのズボンがずり下がってお尻まるだし状態になってしまったんだそうです。</p><p>さんまさんは必死に笑いをこらえ、これはアカン、これはあまりに失礼過ぎると、</p><p>バーンと頭を殴ったら、それがいけなかった。</p><p>その場のみんながいっせいに「ブッ」と吹き出し、爆笑になってしまったといいます。</p><p>&nbsp;</p><p>故人は大変なさんまさん贔屓（びいき）だったそうで、</p><p>奥さんからも「ぜひに」とのことで、さんまさんも無理してお通夜に駆けつけたわけです。</p><p>着いた当初は「よく来て下さった」と飛び上がらんばかりに喜んでいたその奥さんが、</p><p>それから10分もたたないうちに起こったこの事件で、</p><p>「さんまさんらに帰ってもらい」</p><p>と隣りの部屋で言っているのがふすま越しに聞こえてきたそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>芸人さんが集まる吉本興業の社葬の会場であれば、</p><p>不謹慎ながらも、あるいは笑える事件として流せるところだったかもしれません。</p><p>このエピソードを聞くリスナーの私たちの方は、まったくの部外者で、</p><p>だから客観的に、笑って聴くことができます。</p><p>ご家族も、長い時間が経てば、もしかしたら笑い話にできるかもしれません。</p><p>しかし、当時のこの場にいたご家族であれば、たとえ洒落のわかる方だとしても、</p><p>笑うことは出来ないでしょう。</p><p>帰ってもらうように言うのは当然です。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり、笑えるか、笑えないかは、距離感の問題でもあるのです。</p><p>落語「胡椒の悔やみ」にしても、葬式の喪主や遺族の立場の視点に立てば笑えません。</p><p>話し手はそこには触れません。</p><p>そこからは距離を置いた、客観的なところから</p><p>あくまでも世間とはちょっと変わったおかしい男の話として語る。</p><p>だから「おかしい」が「可笑しい」に変わります。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181109/05/porepore4989/f8/d1/g/o0090008014299747288.gif" width="90"></p><p>取り扱いが難しいといっても、トリックスターが主人公の物語は数多くあります。</p><p>はみだし者のアウトサイダーや、社会や世間をアッといわせるいたずら者は、</p><p>「いい子」の主人公にはない魅力をもって活躍します。</p><p>が、そんなトリックスター的な要素を脇役が背負うことも多いようです。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえばマンガ「ゲゲゲの鬼太郎」に登場するねずみ男は、</p><p>トリックスターの系譜に連なるキャラクターと言えるでしょう。</p><p>彼は、主人公の鬼太郎が「正義」を掲げ、「正論」「正解」の側の立場に立ったとき、</p><p>アンチのように生まれ、活躍するようになりました。</p><p>下品で意地きたなく、自分の欲望に正直で、がめつく、こずるさもあって、</p><p>状況次第で、鬼太郎の味方にも敵にもなる。</p><p>そんなキャラだから、彼が時おり垣間見せる人の良さや哀愁がギャップとなって、</p><p>それが好感度のアップにもなっています。</p><p>彼をおもしろがって、推しキャラにする人はいたとしても、</p><p>しかし、彼のすべての行動を支持して感情移入する人は少ないでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>私たち読者（視聴者）は、特に子どもたちの場合、基本的には正統的なヒーローの側、</p><p>恐ろしい妖怪から人間を守ってくれる鬼太郎の側に立って物語を楽しみます。</p><p>ねずみ男とは一歩離れた距離から彼をながめる。</p><p>だからこそ彼をおもしろがることが出来るとも言えます。</p><p>しかし距離が近ければ、私たちは簡単には彼をおもしろがることが出来ません。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちが朝ドラで、毎朝、毎朝、目にして親しみ、</p><p>感情移入して一喜一憂をともにするヒロインは、距離が近いのです。</p><p><a href="https://ameblo.jp/porepore4989/entry-12417761836.html" target="_self"><span style="font-weight:bold;">【つづく】</span></a><br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/porepore4989/entry-12417761742.html</link>
<pubDate>Sat, 10 Nov 2018 05:55:57 +0900</pubDate>
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<title>「半分、青い。」（８）──おれが鈴愛ちゃんを半分嫌いになった理由　その１</title>
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<![CDATA[ <p>ええい、正直に書いちゃいます。</p><p>&nbsp;</p><p>以前は、楽しみにしていました、毎朝08：00。</p><p>08：00になると、時報を合図に、</p><p>いそいそ、ウキウキとリモコンのチャンネルをNHKに切り替えていたのですが、</p><p>実を言うと、その作業が後半期はすっかり義務的となりました。</p><p>星野源さんのさわやかな歌声が聞こえてきても、</p><p>テレビの前に座るのがちょっと億劫になってきたのです。</p><p>それは、和子（原田知世）さんロスという理由ばかりではありません。</p><p>（和子さんが亡くなるまでの数回は、涙、涙でした…。）</p><p>&nbsp;</p><p>どうしてちょっと億劫になってしまったのか？</p><p>──脚本の中に浮かび上がる“鈴愛ちゃん”（演じている永野芽郁さんではなく）に</p><p>ついて行けなかったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>いえ、いかにもNHK的な、朝ドラ向きなヒロインを期待していたわけではありません。</p><p>上品で優しく思いやりがあって、とか、</p><p>健気で頑張り屋さんな、万人から慕われる「いい子」、とか、</p><p>八方を囲む人々のその誰からも非難されることのない、とか、</p><p>品行方正で優等生なヒロイン──とか。</p><p>むしろ、そんなイメージを打ち破るような面白さを期待していたはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>ですが、毎朝毎朝、生活の一部のようにながめ、ヒロインとつきあっていくうちに、</p><p>「え？　鈴愛ちゃん？」</p><p>と思うことが多くなってきたのです。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/01/c1/g/o0090008014262800421.gif" width="90"></p><p>鈴愛ちゃんが10代、20代のうちは、笑って見ることが出来たんです。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛は、上京して秋風羽織（豊川悦司）の元で仕事をし始めると、</p><p>おまえは飯の用意をするアシスタント「メシアシ」「炭水化物要員」だと言われます。</p><p>まあ、昔の芸事の師匠だったら、当たり前です。</p><p>炊事、清掃と雑事をさせながら、師匠や先輩の仕事ぶりを見せ、そこから盗めと教える。</p><p>弟子はその他の時間を使い、睡眠を削って描いた成果を師匠に見せて認めてもらう。</p><p>──てな具合いの徒弟制度は、もうはるか遠い昔のことです。</p><p>それはわかります。</p><p>が、しかし、師匠の完成作品を人（物）質にして、窓から投げ捨ててやる、</p><p>わたしにもペンを持たせろと脅すのは、</p><p>「そりゃ鈴愛ちゃん、ちょっと違うんやないの？」と声を掛けたくなるところです。</p><p>けれどそんなことも、生意気盛りな10代の子のちょっと行き過ぎた暴走であれば、</p><p>コミカルな展開の、強いアクセント的な一エピソードです。</p><p>秋風も、「こいつは面白いやつだ」と感じたような節があります。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛は、師匠の絵コンテを捨ててしまったと疑われて師匠の怒りを買い、</p><p>解雇（クビ）を言い渡されました（結果、それは濡れ衣でしたが）。</p><p>マンガは、一人でも、机一つあればどこでも出来る仕事で、</p><p>独学で雑誌に投稿し続けてプロになった人は大勢います。</p><p>たとえ師匠をしくじっても、マンガは描ける。</p><p>事実、ボクテ（＝藤堂誠：志尊淳）は、秋風塾を破門になっても描き続け、</p><p>流行作家となりました。</p><p>しかし鈴愛は、「マンガが描きたい」と律に泣きつきながらも、</p><p>故郷（くに）の実家に帰って農協で働き、タマネギを売るんだと言い出します。</p><p>「ちょっと鈴愛ちゃん、そんなに簡単に夢をあきらめていいの？</p><p>マンガが描きたいなら、なんで自分で一度も原稿に向かおうとしないの？」</p><p>と、ボクテならずとも声を掛けたくなるところです。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし鈴愛は、マンガを描こうとはせず、</p><p>故郷へ帰る前に、置きみやげ的な秋風へのサプライズを考えます。</p><p>秋風が自分の子どものように可愛がっていた、</p><p>今は亡きペットたちの肖像を描いてパネルにして贈るのです。</p><p>手紙には、犬を亡くすのが怖くてもう飼えないという先生のために贈るのだ、</p><p>と書かれていましたが、</p><p>この週のサブタイトルが、「謝りたい！」。</p><p>どうやら、謝罪というか、謝意をあらわす贈り物であるようです。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど、東山魁夷、梅原龍三郎、平山郁夫、横尾忠則…もどきの画家に描かせた</p><p>犬＋うさぎの肖像画を飾って、豪勢な墓をこしらえ、もう何年も偲んでいる秋風です。</p><p>又聞きでしか事情を知らないような、まだ弟子とも他人ともつかない相手、</p><p>ましてや過失とはいえ、渾身の絵コンテを捨ててしまった（と思われる）相手から、</p><p>今さら大きなパネルを贈られたところで、それが慰めになるのか、どうか。</p><p>そもそもそのいわゆる恩返しが、鈴愛の心からの誠意なのか、どうか。</p><p>むしろ、相手の趣味や愛するものにヨイショすることで商談を取り付けるような、</p><p>「秀吉の草履取り」的なアピールで、よしんば罪を許してもらおうとするような、</p><p>そんな計算高さとスタンドプレーがチラホラ透けて見える気がしました。</p><p>&nbsp;</p><p>ここで秋風が感激して、解雇を取り消すなどと言ったら鼻白むところですが、</p><p>秋風は案の定、「アホらしい」と言って手紙を放り投げます。</p><p>でも、そうすると、裕子（清野菜名）やら、律（佐藤健）やら、</p><p>ひしもっちゃん（＝菱本若菜：井川遥）まで巻き込んでせっせとパネル作りをした</p><p>あの一騒動は何だったのでしょう？</p><p>まあ、文化祭の延長みたいな感じで、ちょっと盛り上がりはしましたが。</p><p>&nbsp;</p><p>またたとえばデビュー作が雑誌に載ると、弟に「車を買ってやるから」とだまし、</p><p>大量に読者アンケートはがきを書かせるというちょっとした策略も、</p><p>そこに軽く姉貴風を吹かせる「ちゃっかり屋さん」的な愛嬌がありました。</p><p>結局、功を奏したのは、家族やボクテの自主的な応援協力だったのですが。</p><p>&nbsp;</p><p>こうした「え？　鈴愛ちゃん？」と違和感を感じる瞬間があっても、</p><p>それは10代20代の若気の至りで、むしろ好ましいと思って、笑って流せたのです。</p><p>ところが、30代40代となってくると、違ってきました。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif" width="90"></p><p>いちばん笑えなかったのは、離婚して実家へ出戻ってきた鈴愛が、</p><p>祖父・仙吉（中村雅俊）さんの友人の西村（酒向芳）さんに就職の口利きを頼む場面です。</p><p>&nbsp;</p><p>約束の車も買ってくれない自由放題な姉に代わって</p><p>実家を任された弟の草太（上村海成）は苦労の末に「特製カツ丼」をヒットさせます。</p><p>実家に戻ってその行列ぶりを目にした鈴愛は、渡りに舟とばかりに、</p><p>ちょうど繁盛している実家に母娘ともども厄介になろうと決め込んで、</p><p>のんきにまんじゅうを頬張ったりしている。</p><p>しかし善意にあふれる西園寺（旧姓・木田原）菜生（奈緒）ちゃんたち梟町の人々は、</p><p>そんな鈴愛の就職先を心配してくれるわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>そして母親・晴（松雪泰子）さんから「働かざる者食うべからず」と宣告されて</p><p>鈴愛も就活に動きだし、</p><p>10数年前、高校卒業の鈴愛に農協への就職を世話してくれた西村さんに再び頼む。</p><p>そこで、評判の特製カツ丼をお重にして、「どうぞ」と２つ西村さんに差し出します。</p><p>喜びながらも西村さん、年齢も年齢で力にはなれないと、やんわり断ります。</p><p>すると鈴愛は差し出したお重を１つ、そろ～りと引っ込めようとする。</p><p>そこで西村さん、「そういえば昔、内定をとりつけたと思たら断られたなあ」と言うと、</p><p>「その節はどうも」と鈴愛が言い、引っ込めようとしたお重を戻すという場面。</p><p>&nbsp;</p><p>おそらくここは、ギャグ的な場面なのでしょう。</p><p>しかし笑えませんでした。</p><p>祖父の親しい友人で、世話にもなっている西村さんへの誠意はまるでないのかと</p><p>ここで真面目ぶってもしょうがないのですが、</p><p>鈴愛の計算高さばかりが鼻について、寒々とした後味の悪さを感じたのでした。</p><p>&nbsp;</p><p>もしかしたら、抜け目がないけれど、人情の機微に通じているといった、</p><p>藤山直美さんあたりのキャラクターだったら、</p><p>愛嬌たっぷりに演じて笑いになったかもしれません。</p><p>（永野芽郁さんに愛嬌がないというわけではもちろんありません。）</p><p>&nbsp;</p><p>しかしそれにしてもツッコミは必要でしょう。</p><p>「まったく鈴愛ちゃんにはかなわんなあ」とか、</p><p>「昔とちっとも変わらんねえ、鈴愛ちゃんは」</p><p>──みたいな、ため息半分の柔らかめなツッコミを西村さんが入れて、</p><p>「すいません、てへ」ということになれば、まだわかるのですが。</p><p>&nbsp;</p><p>思えば、鈴愛の周りにはツッコミ役がいないのです。</p><p><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/8f/42/g/o0090008014262799077.gif" width="90"></p><p>そしてこの場面のあたりから、鈴愛は空気を読まない傍若無人ぶりをいよいよ発揮し、</p><p>百円ショップ店員としてこつこつ働いていた東京時代にははっきりと形にならなかった、</p><p>やりたい放題が加速していくことになります。</p><p>&nbsp;</p><p>喧嘩友だちで口は悪いけれど、幼なじみの</p><p>ブッチャー（＝西園寺龍之介：矢本悠馬）が彼なりに心配して就職を勧めると、</p><p>「ブッチャーに使われるくらいなら物乞いをする」と毒づいた挙げ句の果てに、</p><p>突然まさかの「わたしは社長になる」宣言。</p><p>どんな起業をするのかと思いきや、ふたを開けてみれば、つくし食堂の２号店。</p><p>鈴愛のいない間、傾きかけたつくし食堂を切り盛りして立て直した、</p><p>いまは実質的な店主（いわば社長）である弟の草太は無視でそっちのけです。</p><p>&nbsp;</p><p>じゃあ、資金集めに奮闘するのかと思いきや、</p><p>まさかの「お母ちゃんのへそくりがあるやないか」発言。</p><p>朝から晩までずっと働きづめだった晴さんが、人生にたった一度旅をしたいといい、</p><p>パンフレットまでそろえていた世界一周のその夢の資金を奪い、踏みにじる。</p><p>親のスネをかじるのが10代なら、まだ理解が追いつきそうですが、</p><p>このとき鈴愛はもう人の親で、アラフォーです。</p><p>「転んでもただでは起きない」「立っている者は親でも使え」を地で行くような</p><p>「生きる力」なのかもしれませんが、</p><p>「え？　鈴愛ちゃん？」と思わずつぶやかずにいられませんでした。</p><p>&nbsp;</p><p>まあ、一般的な脚本だったら、たとえばこうなるかもしれません。</p><p>鈴愛がひとり資金集めに奔走する。</p><p>その苦労を目の当たりにしていた晴さんが、</p><p>実は老後の夢のために貯めていたという虎の子のお金を「使いなさい」と渡す。</p><p>──みたいな展開は、まあ、ベタですが、</p><p>鈴愛のひたむきさがわかれば、視聴者は応援しようという気になります。</p><p>そのあたりを脚本家の北川悦吏子さんはたぶん百も承知で、</p><p>あえて裏切ったのだろうと思います。</p><p>このドラマの脚本は、視聴者を裏切ってくれるのですが、</p><p>それがここではしかし、いい意味ではなく、悪い意味で裏切られたように思いました。</p><p><a href="https://ameblo.jp/porepore4989/entry-12417761742.html" target="_self"><span style="font-weight:bold;">【つづく】</span></a></p>
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<link>https://ameblo.jp/porepore4989/entry-12417760563.html</link>
<pubDate>Fri, 09 Nov 2018 06:26:34 +0900</pubDate>
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<title>「半分、青い。」（７）──うどん屋事件における西寛一氏への大いなる弁明</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>──「うどんのマンモス西」</p><p>──「ホセ・メンドーサのコークスクリュー」</p><p>&nbsp;</p><p>「あしたのジョー」が名作とはいえ、発表されたのは半世紀前です。</p><p>こんなワードがピンと来る人は、今の世の中、世代的にどれくらいいるでしょうか？</p><p>ましてや女性となると、</p><p>この男性向けのスポ根マンガを知る人はどれくらいいるでしょう？</p><p>朝ドラの台詞にホセ・メンドーサが登場するのは斬新だと思いますが、</p><p>多くの視聴者が置いてけぼりにされたのではないか。と、気になるところです。</p><p>&nbsp;</p><p>もっとも、「西のうどん事件」の初出は「東京・胸騒ぎ編」でしたね。</p><p>秋風羽織がボクテを破門する際に語られていましたっけ。</p><p>&nbsp;</p><p>かく言うおれは、リアルタイムでアニメは目にしていたものの、</p><p>当時は幼くて内容を理解していたとは言いがたく、</p><p>ライバルの力石徹が死んでから以降は、とんと見なくなっていました。</p><p>しかしその後、連載終了からだいぶ経った頃、</p><p>思春期になってからマンガを読みはじめ、</p><p>古本屋を漁ってはこつこつとコミックを買い集め、</p><p>アルバイトをするようになってやっと全巻をそろえ、</p><p>最終話を読んだときには、もう、もう、</p><p>力尽きて灰のように白くなった主人公・矢吹丈を目のあたりにして、</p><p>ショックのあまり頭の中が真っ白になる……。</p><p>という経験を味わったひとりです。</p><p>&nbsp;</p><p>だから「マンモス西」「ホセ・メンドーサ」と聞けばピンと来る。</p><p>二人の立ち位置は、「挫折した敗者」と「成功したチャンピオン」です。</p><p>が、しかし、マンモス西が、ドラマの中で卑怯者のように扱われるのには、</p><p>いささか異議をさしはさみたいところなんです。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>「半分、青い。」では、登場人物がみんな</p><p>何かしら弱さや卑しさを抱えた、人間的な人間として描かれます。</p><p>が、基本的に悪人は登場しません。</p><p>&nbsp;</p><p>萩尾律（佐藤健）の初恋相手である伊藤清（古畑星夏）と、</p><p>結婚相手であるより子（石橋静河）は、</p><p>鈴愛側の一方的な視点からすっかり「悪役」にされてしまいましたが、</p><p>「悪人」ではありません。</p><p>より子さんが、愛情よりも夫の出世と息子の成績に固執するに至ったのには、</p><p>律にも原因があるのだとナレーションで語られてはいましたが、</p><p>本来は、もっと人間的な厚みが「ドラマ」として描かれるべきところです。</p><p>&nbsp;</p><p>悪人の行為ではない。</p><p>けれど、作者に何かこだわりがあるのでしょうか、</p><p>アイデアの盗用という過ちを犯す行為が、同工異曲のように３回繰り返し描かれます。</p><p>&nbsp;</p><p>１）</p><p>ボクテ（藤堂誠＝志尊淳）が鈴愛からマンガのアイデアを拝借する。</p><p>鈴愛にはきちんと断っているので盗用ではないのですが、</p><p>後ろめたさがあったのでしょう、師匠の秋風羽織（豊川悦司）には伝えていませんでした。</p><p>秋風から「作品の息の根をとめる行為だ」と指摘され、破門。</p><p>それが負い目となりずっと引っかかっていて、10数年後、</p><p>作品を「生かす」ために、同じ作品を再び描くことになりました。</p><p>&nbsp;</p><p>２）</p><p>元住吉祥平（斎藤工）が、追い込まれた状況を打開するため、</p><p>弟子の森山涼次（間宮祥太朗）の映画のアイデアを拝借するかのようにして、</p><p>自分が監督となる。</p><p>……といっても、脚本を書いた涼次の仕事をきちんと認めているわけで、</p><p>盗用というわけではありません。</p><p>まだ実績のない助監督の代わりに名の知れた監督がメガホンをとることはありがちです。</p><p>現場によって違いますが、そうやって脚本が認められ、あるいは仕事が認められ、</p><p>何回か助監督やスタッフを務めた後にはじめて監督への道は拓けたりするもので、</p><p>脚本が採用されたからといって、いきなり監督を任せられる例はそう多くはないでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえばアニメ「この世界の片隅に」などで知られる片渕須直監督は、</p><p>弱冠（？）29歳のとき、アニメ「魔女の宅急便」の監督に抜擢されます。</p><p>ところが、その予定でずっと準備を進めていたところ、</p><p>スポンサーの意向で、宮崎駿さんが監督を担当することが決まる。</p><p>それで片渕さんは演出補へまわって作品に関わることになったそうです。</p><p>もしかしたらこだわりはなかったのかもしれませんが、</p><p>片渕さんが監督としてデビューするのは、それから約10年後のことでした。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、元住吉監督は、</p><p>映画監督になりたいという涼次の切実な望みと努力をじゅうぶんに知りながら</p><p>そのチャンスの芽を摘んでしまったということで、</p><p>友人として裏切るような行為が自分で許せなかったのでしょう。</p><p>カタツムリ２の企画の頓挫など、いろいろな絡みがあったのかもしれませんが、</p><p>そのために自殺まで考えた彼は、それだけピュアだったのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>３）</p><p>そして、津曲雅彦（有田哲平）。</p><p>こちらは未遂となりましたが、文字通りの盗用です。</p><p>律と鈴愛が苦労を重ねて作り上げた、</p><p>風がやさしい「そよ風の扇風機」のアイデア（及び試作品とデータ）を盗んで、</p><p>そのまま大手電機メーカーへ売り込もうとしました。</p><p>&nbsp;</p><p>会社を倒産させ、代わりに始めたラーメン作りも中途半端。</p><p>そんなダメ親父でないところを息子を見せたいというカッコつけが動機の出来心でした。</p><p>しかし、その息子から、正直で強いお父さんこそカッコいいと教えられることで</p><p>思いとどまることになりました。</p><p>このとき、会社倒産のときにトンズラした前科のある津曲さんが、鈴愛から、</p><p>「一度うどんを食った西は、また食うんじゃないのか？」と言われるわけです。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/8f/42/g/o0090008014262799077.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/8f/42/g/o0090008014262799077.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>ボクシングの中で「減量」というのは、大きなテーマです。</p><p>&nbsp;</p><p>「あしたのジョー」の矢吹ジョーと力石徹は、少年院で出逢い、</p><p>最初は喧嘩で、そして次にはボクシングの四角いリングで拳を交わします。</p><p>そこで力石はジョーをライバルと認め、勝負はプロボクシングの世界へと続いていく。</p><p>しかし二人には大きな体格差があり、どちらかが体重を調整しなければ試合が成立しません。</p><p>そのため力石は、タイトルの獲得よりも、</p><p>ジョーとの闘いを行うために、ウェルター級から２階級下のフェザー級へ、</p><p>さらには限界を超えてその下、ジョーのいるバンタム級を目指します。</p><p>それは、おおよそ15kgの減量という試練。</p><p>&nbsp;</p><p>おれは10kgほどのダイエットをしたことがあります。</p><p>（その後、病気の影響で元に戻ってしまいましたが。）</p><p>が、それはただブヨブヨの脂肪をちょっと減らしただけのことで、</p><p>日頃から鍛錬し、余計な贅肉のないほぼ筋肉のボクサーとは根本的に違います。</p><p>そのボクサーが15kgも減量するというのは、これは想像を絶する過酷さです。</p><p>それを力石はやり遂げようと、肉どころか内臓（はらわた）や骨まで削るような</p><p>文字通りの「死闘」を展開します。</p><p>食事はもとより水も制限し、皮膚や唇がカラカラにひからびて、</p><p>まるで幽鬼のように頬がこけるまで汗の一滴まで絞りつくし……。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな力石の壮絶な姿が描かれる展開の最中に、</p><p>マンモス西のうどん事件は起きるのです。</p><p>少年院時代からジョーとともに励み、プロボクサーとなった西は、</p><p>そのリングネームの通りマンモスな体格で、いちばん重いヘビー級。</p><p>当時、日本で試合をするためには、ミドル級へとウェイトを落とさなければならず、</p><p>西も、約９kgの減量の真っ最中でした。</p><p>それが、苦しい。</p><p>それが、つらい。</p><p>コーチでジムの会長である丹下段平のおっちゃんは、体重管理にも厳しい。</p><p>その目を盗んで、西は真夜中、寝床を抜け出し、屋台のうどん屋へ、</p><p>夜な夜なうどんを食いに通っていたのでした。</p><p>&nbsp;</p><p>と、その現場を、ジョーに見つかる。</p><p>ボクシングという戦場で必死に自分自身と戦う力石を知るジョーにすれば、</p><p>その弱さ、甘さは、ボクサー失格であり、裏切り行為でした。</p><p>ジョーにボディをかまされ、西は鼻からうどんを飛び散らせて倒れ込みます。</p><p>その痛みよりも、自分のダメダメさを悔いて泣き続けます。</p><p>&nbsp;</p><p>……と、ここまでが有名な「マンモス西のうどん事件」です。</p><p>秋風羽織がボクテを破門する際に、</p><p>「一度やるやつは二度やる。</p><p>一度うどんを食った西はまた食う。</p><p>弱虫はず～っと弱虫だ。」</p><p>と、言い、</p><p>そう言われたボクテは、涙をぬぐいながら鈴愛に向かって、</p><p>「僕は西だ。僕を殴ってよ、ジョーみたいに」</p><p>と、懇願していました。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/88/cf/g/o0090008014262801393.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/88/cf/g/o0090008014262801393.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>巨漢の西寛一（本名）は、少年院送りになったほどの暴れ者でしたが、</p><p>実は小心で神経が細かく、世話焼きで、賢さもあり、</p><p>そのどこかおっとりとしたユーモラスさは、ムードメーカーとしても</p><p>ジョーをサポートする役割を果たしていました。</p><p>が、しかし、この一件で、ジョーや力石のいる真剣勝負の舞台から自ら転げ落ちる。</p><p>原作者・高森朝雄（梶原一騎）さんも、物語の重要なサブ・ポジションから、</p><p>エキストラ的なポジションへ転落させることを考えたような気配があります。</p><p>出番も少なくなる。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが、漫画担当のちばてつやさんが描くところの西は、この一件以来、</p><p>目つきが鋭くなって寡黙になり、迫力が増すのです。</p><p>男の顔になる。</p><p>それまでは、隙さえあればサボろうとしていたトレーニングも黙々とこなし、</p><p>ことあるごとにこぼしていた泣き言や愚痴もいっさい口にせず、</p><p>必死に汗する姿が描かれます。</p><p>その後、時にジョーからは「このうどん野郎！」となじられることもありましたが、</p><p>自分に負けてうどんに手を出すようなことはもう二度となかったはずです。</p><p>けっして派手ではありませんが、ひとつひとつ勝ち星を積み重ね、</p><p>戦績を上げていく。</p><p>ジョーがスランプとなり、地獄の底で這いずり回るようなときも、</p><p>ずっと味方で、仲間でした。</p><p>&nbsp;</p><p>一度うどんを食ったけれど、西は、もう二度と食わなかった。</p><p>弱虫はず～っと弱虫、ではなかったのです。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/01/c1/g/o0090008014262800421.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/01/c1/g/o0090008014262800421.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>ジョーと力石は闘い、そのあまりに過激な減量のために力石は命を落とします。</p><p>ショックを受けたジョーは、さんざんの迷走の末に、自分の心と闘い、</p><p>やがてまた改めてボクシングと向き合うようになる。</p><p>そうして新たなライバルたちと闘いを交わしていくのですが、</p><p>20歳となる頃、１年足らずで身長が６㎝も伸びるという、遅ればせの成長期を迎えます。</p><p>当然ウェイトも増し、２階級上のライト級に手が届きかねない体となる。</p><p>&nbsp;</p><p>本来ならば、負担の少ない１階級上のフェザー級あたりに照準を合わせて体を作れば</p><p>無理のないベストな試合が出来るのですが、</p><p>ジョーはそれを拒絶して、バンタム級にこだわります。</p><p>というのもバンタム級は、力石が命を賭して降りてきてくれた階級だから、というのです。</p><p>この辺が泣けるんですよね。</p><p>そのためジョーは、力石にも劣らぬような過酷な減量地獄に身を置くことになります。</p><p>&nbsp;</p><p>それでもリングに立ち続け、成長しながら闘い続けるジョーにやがて、</p><p>世界チャンピオン、ホセ・メンドーサと試合うチャンスが巡ってきます。</p><p>しかしそのときにはもう、ジョーの身体と脳神経は、</p><p>毎回ギリギリの闘いを戦い続けた果てのパンチドランカーの症状に冒されていたのでした。</p><p>それでもジョーはリングにのぼるという。</p><p>&nbsp;</p><p>そんなジョーに、紀（のり）ちゃんこと林紀子が問いかけます。</p><p>（この時の紀ちゃんは、ジョーの症状のことについては知りませんでした。）</p><p>&nbsp;</p><p>──身体が伸び盛りなのに、食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まず。</p><p>来る日も来る日も、薄暗いジムの中で、汗とワセリンと松ヤニにまみれながら、</p><p>縄跳び、シャドーボクシング、サンドバッグの繰り返し。</p><p>たまに明るいところへ出るかと思えば、まぶしい照明だらけのリングという檻の中で、</p><p>お客にヤジられ、座布団を投げつけられながら、</p><p>犬の噛ませ合いみたいに血だらけになって殴り合うだけの生活……。</p><p>そんな「惨め」で「悲惨」な、「青春と呼ぶにはあまりに暗過ぎる」青春で、</p><p>それでいいの？　それでさみしくないの？</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>林紀子は、コンビニもまだない時代、日用雑貨を売る近所の林屋商店の看板娘で、</p><p>いわば庶民的な、「下町の太陽」的な存在です。</p><p>「あしたのジョー」以前のちばてつやさんの作品世界ではおなじみなヒロインのタイプ。</p><p>明るく優しく、元気で快活な働きもの。</p><p>もしも「お嫁さんにしたい良妻賢母」ランキングがあったとしたら、</p><p>つくし食堂で働く楡野晴（松雪泰子）さんと、二位三位を争うかもしれません。</p><p>あ、おれ的にはもちろん、一位は原田知世さんです。</p><p>&nbsp;</p><p>紀ちゃんはジョーと西を応援していて、二人がプロテストに合格したときには、</p><p>手作りの刺繍入りのトランクスをプレゼントしたものでした。</p><p>ジョーへの淡い恋心を思わせるような描写もあります。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、時とともに、ジョーと紀ちゃんの立ち位置の違いが鮮明になってきます。</p><p>紀ちゃんにすれば、ボクシングはスポーツのひとつで、</p><p>そんなスポーツのために命を賭け、生きるの死ぬだのという感覚が信じられません。</p><p>──ボクシングばかりが人生じゃない。</p><p>たとえば自分が働く小さな林家商店の仕事だって、</p><p>「つつましく地道に、下町の人に愛されながら働く毎日だって」意義があると言います。</p><p>もしもこのとき紀ちゃんが結婚していて、主婦の立場だったとしたら、</p><p>子どもや家庭を大切にして育てる毎日も意義があるのだと付け加えたでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>これは、私たち一般人が共感し、共有する、世間で一般的な幸せの価値観です。</p><p>まあ、煩悩多き私たちは、こうしたシンプルな幸せでは飽き足らず、</p><p>もっと成功したい、もっとお金が欲しい、もっと人より勝ちたい……などなど、</p><p>さまざまな欲望や夢を乗っけて、けれども乗っけ過ぎて、</p><p>何がほんとうの幸せなのかを見失っていたりするわけですが。</p><p>&nbsp;</p><p>プロボクシングという職業も、そのピラミッドの頂点に立つチャンピオンともなれば、</p><p>ましてや世界のチャンピオンともなれば、大金も、名誉も手に入る。</p><p>そんなドリームをすべて手にした男が、天才、ホセ・メンドーサです。</p><p>得てしてそういう成功の陰では、家庭をないがしろにしたり、</p><p>私生活が破綻したりというパターンがありがちです。</p><p>が、ホセは、絵に描いたような円満な家庭にも恵まれています。</p><p>彼は世界の王者であるとともに、よき夫であり、よき父親でした。</p><p>まさしくミスター・パーフェクト。</p><p>&nbsp;</p><p>しかしジョーは、同じボクシングを目指しながら、</p><p>チャンピオンという地位も、金も、名誉も、その眼中にありません。</p><p>家庭というものを知らずに孤児院で育った彼には、家庭という幸福も目に入りません。</p><p>紀ちゃんが言うところの一般ピープルの（小市民的ともいえる）価値観についても、</p><p>「そこにも人生はあるだろう、ほのぼのとした幸福ってやつがよ」</p><p>と認めながら、しかし、</p><p>「この矢吹丈にはご縁がねえってこった！」</p><p>と、蹴飛ばすかのように拒否します。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/88/cf/g/o0090008014262801393.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/88/cf/g/o0090008014262801393.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>ロッキー・バルボア（シルヴェスター・スタローン）は、</p><p>映画「ロッキー」で、チャンピオンベルトを獲得出来ませんでした。</p><p>が、恋人エイドリアン（タリア・シャイア）のハートを獲得します。</p><p>その後、「ロッキー２」で二人は結婚し、つつましいけれど、ささやかな家庭を築く。</p><p>エイドリアンは夫の身体を心配してボクシングに反対し、ロッキーは逡巡します。</p><p>やがて出産間近だったエイドリアンは、過労と心労が重なって倒れ、</p><p>出産は成功したものの、昏睡状態に陥る。</p><p>必死の看病もあって命をとりとめ、やっと目が覚めたエイドリアンに、ロッキーは、</p><p>「おれはボクシングをやめてもいい」</p><p>と告げます。</p><p>しかし、夫のすべてを理解したエイドリアンが放った言葉は、</p><p>「勝って」</p><p>でした。</p><p>かくしてロッキーはトレーニングを再開して再びチャンピオンに挑戦し、</p><p>物語はロマンスを絡めたサクセス・ストーリーという、</p><p>いかにもハリウッドらしい展開となるわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>ジョーにも、ロマンスがあります。</p><p>対ホセ・メンドーサ戦。</p><p>パンチドランカーとなったボロボロの身体で、</p><p>廃人となるか、あるいはたぶん死を覚悟してリングに上がろうとするジョーに、</p><p>プライドの高い「鉄の女」白木葉子が、初めて女心と涙を見せて、愛を告白します。</p><p>そして試合に出ないよう、必死に引き止める。</p><p>しかしジョーは、「おれはボクシングをやめてもいい」とは言いません。</p><p>葉子の気持ちに対して、「ありがとう」を言いますが、</p><p>「リングには、世界一の男ホセ・メンドーサがおれを待っているんだ」</p><p>と言い置き、リングに向かいます。</p><p>彼の中には、ボクシングをやめるという選択肢はなかったでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>では、ジョーは、何のためにリングに上がるのか？</p><p>なぜボクシングに命を賭けるのか？</p><p>&nbsp;</p><p>ジョーは、歴代のライバルたちと死闘を繰り広げた結果、</p><p>力石徹を死に至らせたばかりでなく、ウルフ金串を引退に追い込み、</p><p>カーロス・リベラを、間接的にですが、廃人に追いやるきっかけを作りました。</p><p>彼らに対しての想いもあったでしょう。</p><p>が、しかし、そうした「負い目」や「義理」だけでボクシングをしているのではないと</p><p>ジョーは言います。</p><p>上述の紀ちゃんの「それでいいの？」という問いに対してこう答えます。</p><p>&nbsp;</p><p>──ボクシングには充実感がある。</p><p>汗と血にまみれ、死にものぐるいになって噛み合いっこをする中に、充実感がある。</p><p>「そこいらの連中みたいにブスブスとくすぶりながら不完全燃焼」するようなのではない、</p><p>「ほんの瞬間にせよ、まぶしいほど真っ赤に燃え上がる」ような、</p><p>すべてを燃やしつくし、あとには「真っ白な灰だけが残る」……ような、充実感。</p><p>そんな充実感が、「わりとおれ、好きなんだ」。</p><p>……というのです。</p><p>&nbsp;</p><p>そしてホセ・メンドーサとの死闘の末の、有名なラスト・シーン。</p><p>燃えかすも何も残らない完全燃焼を果たし、</p><p>まるで死を暗示するように、</p><p>まさしくただ「真っ白な灰だけ」になったように、全身真っ白となって、</p><p>けれどその口元にどこか満足げな、</p><p>いかにも彼らしい笑みをたたえたジョーの姿が描かれることになります。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/8f/42/g/o0090008014262799077.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/8f/42/g/o0090008014262799077.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>ジョーは、修羅の世界を貫き、生き抜いたのだと思います。</p><p>修羅道──仏教で説く六道のうちのひとつ。</p><p>24時間、365日、休みなく、ずっと戦いを続けるという修羅の世界。</p><p>&nbsp;</p><p>もっとも仏教では、修羅は「勝他の心」を持つのだと説明することがあります。</p><p>「勝他」──他人よりも勝とうとする。勝（まさ）ろうとする。</p><p>常に自分と他人を較べて、他人よりも勝ちたい、他人よりも上に立ちたいと欲し、</p><p>ともすれば自分におごり、他人のよさを認めずに、軽んじる。</p><p>&nbsp;</p><p>しかしジョーにおいては、この「勝他の心」をまるで持ち合わせていないでしょう。</p><p>強い相手に勝とうと挑み、リングのマットへ沈めるために闘いますが、</p><p>それは相手を憎み、恨み、相手をないがしろにすることではありません。</p><p>ひょっとしたら、勝ちと負けという区別にもこだわらない。</p><p>ジョーにとって互いに拳を交わし合うことは、むしろ相手を認めることでした。</p><p>互いの命と命をぶつけ合うような死にものぐるいの勝負をすることで、</p><p>言葉にならない言葉を相手と交わし合う。</p><p>それは百の言葉を弄する対話よりも、</p><p>百倍深い魂の交感をすることだったかもしれません。</p><p>少なくとも力石徹との関係はそういうものだったと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>ジョーは、他人に勝つためというよりは、</p><p>互いに全力で闘い合うことで、一瞬のまぶしいほどの充実感を得るために闘い続けました。</p><p>それが拳闘──ボクシングの本質であったりするのでしょう。</p><p>ジョーのやり方は不器用で、ときに泥臭いものですが、</p><p>そんな修羅の世界に殉じるその姿は、純粋であるがゆえに胸を打つのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/01/c1/g/o0090008014262800421.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/01/c1/g/o0090008014262800421.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>さてしかし、マンモス西──西寛一は、</p><p>ジョーのような修羅になることは出来ませんでした。</p><p>また、ホセ・メンドーサのような天才でもありませんでした。</p><p>凡人です。</p><p>８回戦ボクサーになるほどの成績はもちろん優秀なものですが、</p><p>ジョーや力石やホセの前では、凡人に見えてしまいます。</p><p>西自身も、うどん屋の一件以来、自分の弱さ、甘さを自覚して、</p><p>つまり凡人であることを認めて、だからこそ人一倍努力して、</p><p>８回戦ボクサーにまで昇りつめることが出来たのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>が、しかし、手の指の骨折が理由だとはいえ、</p><p>橋の下にあった丹下ジムがたたまれるのを機に、ボクシングから引退することは、</p><p>彼にとっては自然の流れだったかもしれません。</p><p>そして西は、それまでアルバイトで働いていた林家商店に就職します。</p><p>ジョーはからかって「模範青年」と呼びますが、</p><p>まさしく「模範」的な働きものとして、商才を発揮するようにもなります。</p><p>&nbsp;</p><p>それは紀ちゃんが言っていた、</p><p>「つつましく地道に、下町の人に愛されながら働く毎日」という世界。</p><p>ジョーの住む世界との違いに改めて気づいた紀ちゃんが、</p><p>結婚の相手に西を選ぶのは当然です。</p><p>二人は結婚し、</p><p>ささやかだけれど、「ほのぼのとした幸福ってやつ」に満ちた家庭を築きます。</p><p>&nbsp;</p><p>それは、小市民的といえば、小市民的。</p><p>平凡といえば、平凡。</p><p>しかし、少年院へ流れ着くまで、荒れに荒れた少年時代を経て、</p><p>さらには弱肉強食のボクシングの世界をくぐってきた彼にとっては、</p><p>価値のある平凡さだったでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>天才でも修羅でもない西。</p><p>彼は、ときに弱音を吐き、ときに失敗し、ときにうどんを口にしてしまう。</p><p>それは、凡人である私たちの鏡に映った姿です。</p><p>そしてそれは、天才・秋風羽織になれずにマンガの筆を折った鈴愛の姿でもあります。</p><p>けれどそれから頑張って、西は人間としての強さを獲得し、</p><p>それゆえボクシングをあきらめ別の仕事に就いたとしても頼れる男として、</p><p>紀ちゃんのハートをつかんだのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛もまた、マンガの道をあきらめ、別の仕事に就いたとき、</p><p>涼ちゃんと出逢ってそのハートをつかみました。</p><p>そうして結婚という人生の新たな局面を迎えた鈴愛に、</p><p>秋風羽織はビデオからメッセージを贈ります。</p><p>&nbsp;</p><p>──「人生もまた、物語だ。</p><p>今日から君は、毎日毎日、少しずつペンを入れて、</p><p>森山鈴愛という物語を描き続けることになる。</p><p>この物語に締め切りはない。</p><p>一コマ一コマていねいに、大切に、描きなさい。」</p><p>&nbsp;</p><p>天才でも修羅でもない、平凡な人間にも人生があり、物語があります。</p><p>平凡な人間たちが織りなすその物語の舞台は、私たちに身近な日常の世界。</p><p>それは、「岐阜・故郷編」で描かれた大衆食堂や商店街の人々の世界でもあります。</p><p>&nbsp;</p><p>またたとえば、同じ朝ドラの「ひよっこ」で描かれたドラマ世界でもあります。</p><p>飛び抜けて波瀾万丈というわけではありません。</p><p>けれど平凡な人生であっても、たとえ何かを成功させるヒロインでなくても、</p><p>父親の失踪とか、働く工場の閉鎖という問題が起こるわけです。</p><p>たとえばまた「岐阜・故郷編」でも、</p><p>片耳が難聴となる障害とか、家族との死別とか、病気という困難があるわけです。</p><p>それでも明るい方へ、明るい方へと、</p><p>「締め切り」のない毎日の「一コマ一コマ」を大切に生きていこうとする人生がある。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな「ほのぼのとした幸福」を願う世界を、ジョーは反発するように拒否しましたが、</p><p>ジョーにとっては、実はないものねだりでした。</p><p>それは彼が手を伸ばしても届かない、平凡という名の幸福のかたちでした。</p><p>秋風羽織にとってもまた、手を伸ばしても届かない世界だった。</p><p>彼が、「つくし食堂」に惹かれたのは、</p><p>仙吉（中村雅俊）さんの五平餅を気に入ったからという理由だけではないでしょう。</p><p>平凡な幸福という、自分にない世界を体現する鈴愛の家族に惹かれたのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/8f/42/g/o0090008014262799077.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/8f/42/g/o0090008014262799077.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>──「井の中の蛙（かわず）、大海を知らず」。</p><p>&nbsp;</p><p>これは言うまでもなく、広い世界を見ずに、上には上がいることを知らずに、</p><p>自分の狭い了見だけで考えたり、おごったりする浅ましさをいうことわざです。</p><p>が、律の初恋の人であり、恋人であった伊藤清は、こう言っていました。</p><p>&nbsp;</p><p>──「井の中の蛙（かわず）、大海を知らず。</p><p>されど、空の青さを知る」。</p><p>&nbsp;</p><p>地方で天才だと騒がれていた律は、全国区の大学レベルの中ではそれほどでもなかったと知る。</p><p>その胸中を告白したとき、やはり弓道の全国大会で自信を失ったという清ちゃんは共感し、</p><p>彼を元気づけようと、誰かが言っていた言葉として言うわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、「空の青さを知る」というのは、</p><p>カエルの負け惜しみではない、ひとつの真実だと思います。</p><p>ささやかでちっぽけな井戸の上にも、水平線の続くグローバルな海の上にも、</p><p>同じく青い空が広がっている。</p><p>大海に出て、自分より大きなウミガメやクジラが泳いでいることを知ったとしても、</p><p>空が青いという、ごく当たり前のことを忘れたりすることがあるかもしれません。</p><p>そんな大海を知らなくても、逆に、薄暗く狭い井戸の底にいるからこそ、</p><p>天井の小さなまるい窓から見える蒼天の明るい青さに気づけるということもある。</p><p>&nbsp;</p><p>「チャンピオンにおれはなる」</p><p>「てっぺんに立ったらどんな風景が見えるか、見てみたい」</p><p>──そういう夢や野望もアリでしょう。</p><p>少しでも上を目指すという努力も必要です。</p><p>しかし、世界の覇者となったり、一位を獲得したとしても、</p><p>それゆえに見過ごしてしまいがちなことがある。</p><p>平々凡々として、地方ローカルだったり、二流三流だったりしても、</p><p>それゆえに気づくことの出来る空の青さ、空の深さというものもある。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば、菜生（奈緒）ちゃんの実家の洋品店「おしゃれ木田原」。</p><p>岐阜の地方都市のふくろう商店街にある、普通のお店です。</p><p>ここは流行の最先端とは言いがたく、都会の一流店のセンスからいえば、</p><p>「ダサい」ということになるでしょう。</p><p>いわば、「井の中の蛙」です。</p><p>「おしゃれ木田原」なのに、「オシャレ」ではないと言われたりもしていました。</p><p>けれど地域密着型のこのお店では、お客の好みに合わせ、</p><p>お客が気に入るようにという、当たり前のサービスが出来ます。</p><p>鈴愛の農協への就職が決まったときには、ばっちりとカスタマイズしたスーツを</p><p>お祝いの心を込めてあつらえてくれたものでした。</p><p>それは、まあ、友だちのよしみであったとしても、</p><p>そうした心遣いやお客との交流は、</p><p>都会の店ではなかなか見られないのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>またたとえば、家族とのなにげないひととき。おんぶで背負われた母親の背中の体温と匂い。</p><p>たとえば、友人とのくだらないおしゃべりのちょっとした一言で、何だかなごんでしまう瞬間。</p><p>たとえばまた、ふと目にした屋根の上の月。平凡だけれど、やたらに美しく見える日常の一コマ。</p><p>井戸の中にいても、空の青さがしみるときがある。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/88/cf/g/o0090008014262801393.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/88/cf/g/o0090008014262801393.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>天才ではない、二流三流だったりする平凡な、普通の人生であったとしても、</p><p>やっぱり山あり谷ありです。</p><p>鈴愛の人生は、かなりの山あり谷ありだと思います。</p><p>秋風羽織は短い手紙で、</p><p>「人生は、希望と絶望の繰り返し」</p><p>と言っていました。</p><p>どんな平凡な人生でも、生きてくっていうのは、そういうものなのかもしれませんね。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛は、繰り返すその山々のあいだで、その谷々のあいだで、</p><p>青い空を見上げていました。</p><p>&nbsp;</p><p>──墓参りのときに、家族じゅうで亡くなった祖母に呼びかけ、声を届かせた青空。</p><p>&nbsp;</p><p>──くらもちふさこ「おしゃべり階段」ではないけれど、</p><p>少女からおとなへの階段を昇るような成長期を過ごした高校の階段の窓から見た青空。</p><p>&nbsp;</p><p>──漫画家を辞めて引っ越す軽トラックの荷台の上で、走る風とともに仰いだ青空。</p><p>&nbsp;</p><p>──東北大震災で亡くなった裕子（清野菜名）の家を訪れたときに埠頭で見つめた青空。</p><p>&nbsp;</p><p>──そして、ラスト・シーン。律が発明した、雨の音がきれいに聞こえる傘の中で、</p><p>母娘３人の心の中に広がった青空……。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛は、岐阜の小さな井戸の中のカエルだったときも、いつも青い空を見ていました。</p><p>東京という大海へ乗り出し、泳いでも泳いでも溺れそうになったときも、</p><p>頭上にあるのは、いつも青い空でした。</p><p>そして人生の荒波の中でもみくちゃになっても、凪いで見えるときも、</p><p>やっぱりいつも青い空を見ていたように思います。</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん人生は、いつも晴天ばかりとはいかない。</p><p>むしろ、滞った曇り空や、憂鬱な雨がほとんどです。</p><p>ときには絶望的などしゃ降りに見舞われ、ときには台風もやって来る。</p><p>けれど鈴愛は、いつも青い空を見ていました。</p><p>だって、鈴愛の聞こえる右耳では、どんなに激しい雨音を感じようとも、</p><p>聞こえない左側は、いつだって晴れの青空。</p><p>半分、青い。</p><p>&nbsp;</p><p>ドラマは最終回を迎えましたが、鈴愛は2018年現在もどこかで青い空を見ているのでしょう。</p><p>ひょっとしたら東京のどこかで。</p><p>ひょっとしたら私たちのすぐ隣りで。</p><p>そしてひょっとしたら、台風の被害にあった岐阜の故郷で。</p><p>&nbsp;</p><p>彼女の見ているその青い色は、やっぱり抜けるような、</p><p>明るく清々しい色だったりするのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/porepore4989/entry-12410929283.html</link>
<pubDate>Wed, 10 Oct 2018 07:33:21 +0900</pubDate>
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<title>「半分、青い。」（６）──たったそいだけのこと。</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center; ">&nbsp;</p><p>さかのぼること、第78回。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛（永野芽郁）が、漫画家としてほぼ10年のキャリアを積んでいた時代。</p><p>が、スランプに陥り、マンガのネームに苦心惨憺。</p><p>その最中に律（佐藤健）が結婚したことを知り、フラフラ大阪へ飛んで、</p><p>彼の新婚家庭を目の当たりにするという暴挙を展開していました。</p><p>それは自分を追い込み、自分の現実を見つめるための手段で、</p><p>つまりマンガ作りのための行動だ。</p><p>──と、取って付けたような理由を付け、</p><p>だからネームを一気に描き上げたのだと言って、秋風羽織（豊川悦司）に</p><p>「見て下さい！」とネームを差し出します。</p><p>&nbsp;</p><p>演出は、このときの鈴愛の顔を真っ正面からとらえ、</p><p>カメラは長回し気味で、鈴愛の表情と向き合います。</p><p>この場面を演じる永野芽郁さんが絶妙でした。</p><p>&nbsp;</p><p>無邪気な好奇心と、生きるエネルギーをたたえたケロンとした瞳で、</p><p>相手の目をのぞきこむようにまっすぐに見つめる。</p><p>これまでの鈴愛は、たいていそんな表情でした。</p><p>が、それが、今回はそんな表情のようでいて、そうではありません。</p><p>キラキラ目のキラキラが消えていて、</p><p>それが仮面のような、作り笑顔のようなものであることがわかる。</p><p>&nbsp;</p><p>そしてネームを見た秋風が「まあ、いいんじゃないか」と</p><p>お茶を濁すような肯定で取り繕ったとき、感情を爆発させます。</p><p>&nbsp;</p><p>そのネームがクズであることは、誰よりも鈴愛自身がわかっていた。</p><p>それを承知で、それでもどうにもならなくて、</p><p>師匠から叱られることを覚悟で提出したネーム。</p><p>&nbsp;</p><p>発奮すれば何とか成長できるのではないか、</p><p>まだ伸びしろがあるのではないかと思うからこそ、師は弟子を叱咤するものです。</p><p>およそ10年の苦闘の末に創作に行き詰まり、</p><p>さらに律を失った絶望の中で自棄（やけ）になったようになって、</p><p>精も根も尽き果てたようになっている、</p><p>そんな今の鈴愛を鞭打つことは、さすがの秋風も出来なかったでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし叱ってくれない秋風に、鈴愛は噛みつきます。</p><p>見限ったのかといって噛みつきます。</p><p>まったくの八つ当たりです。</p><p>&nbsp;</p><p>そしてさらに鈴愛は八つ当たりを飛び火させて、</p><p>当時は漫画を離れて家庭に入っていた裕子（清野菜名）にも噛みつきます。</p><p>──「逃げたやつに何がわかる！」</p><p>&nbsp;</p><p>流行作家となっていたボクテ（藤堂誠：志尊淳）にも噛みつきます。</p><p>──「売れてるやつに何がわかる！」</p><p>&nbsp;</p><p>さらに自分に来ていた見合いの縁談が流れたことを知ると、</p><p>ああ、結局そうか、やっぱりか、自分の左耳の障害が原因かと決めつけます。</p><p>まったくの被害妄想です。</p><p>&nbsp;</p><p>錯乱＆逆上して口走ったこれらの言葉は鈴愛の本心でないことはわかります。</p><p>&nbsp;</p><p>ライバルでもある裕子やボクテの成功に</p><p>「けなるさ」（いても立ってもいられない羨ましさ）を感じたとしても、</p><p>「友だちにいいことがあったら人生は２倍楽しくなる」と言って</p><p>その成功を心から喜んでいた鈴愛でした。</p><p>自分の“居場所”は家庭にあると決断して筆を折った裕子の人生の選択を、</p><p>鈴愛は認め、応援していたはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>本心ではない。</p><p>けれど、心の中の何％かに、あるいは意識の奥の方に、</p><p>そうした嫉妬心やら劣等感やら被害者意識やらの欠片（かけら）がザラザラあって、</p><p>それがいざとなったときに、心の破れ目から噴き出してくる。</p><p>&nbsp;</p><p>そして「わたしには何もない」と鈴愛は泣き叫びます。</p><p>（このときの永野芽郁さんは、鈴愛でした。）</p><p>子どものように泣き叫びます。</p><p>30歳近くになっても、結婚出来ていない。</p><p>恋人もいない。</p><p>お金もそれほどにはない。</p><p>青春を注ぎ、人生を賭けた頼みのマンガもどん詰まり。</p><p>確かに「何もない」。</p><p>絶望のドン底です。</p><p>&nbsp;</p><p>けれども。</p><p>けれどもしかし、ほんとうに「何もない」のでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/8f/42/g/o0090008014262799077.gif"><img alt="" contenteditable="inherit" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/8f/42/g/o0090008014262799077.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>幸せか、幸せでないかというのは、</p><p>何を幸せの物差しにするかという、基準の価値観でまったく違います。</p><p>&nbsp;</p><p>晴（松雪泰子）は、秋風に手紙を書きました。</p><p>芸術はわからないけれど、自分の娘は芸術家でないことはわかる、</p><p>平凡な娘には、平凡な道を歩ませてほしいと。</p><p>晴さんにとって、女の幸せは家庭に入り、子どもを産み、育てること。</p><p>その価値観でいえば、鈴愛には確かに「何もない」。</p><p>不幸の限りこの上ないということになります。</p><p>&nbsp;</p><p>彼女の価値基準は、旧時代的、時代錯誤と非難されようとも、</p><p>世間一般に厳然と根を張っている大きな物差しのひとつです。</p><p>どこかの政治家さんが「子を産め」と推奨するのとはまったく違う意味で、</p><p>人間が太古の昔から脈々と築いてきた物差しです。</p><p>時にそれは女性が幸福を得るための福音であり、</p><p>時にそれは女性を締めつける堅牢な呪縛ともなっています。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/01/c1/g/o0090008014262800421.gif"><img alt="" contenteditable="inherit" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/01/c1/g/o0090008014262800421.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>フィリップサンダーや、マルタンなんとかという流行ファッションに身をやつし、</p><p>お化粧バッチリで、ブランドものの高級バッグか何かを男に貢がせ、</p><p>繰り返す合コンの中から、金回りのよさげないい男（ひと）を見つけて</p><p>ゴールインすれば、Winner＝勝ち組──。</p><p>それが裕子の価値観であり、たどった道でした。</p><p>これは当時の裕子のみならず、</p><p>バブルの崩壊後もバブルを引きずっていた90年代という時代の</p><p>幸せの価値観であったかもしれません。</p><p>その物差しからすれば、鈴愛は、Looser＝負け組。</p><p>彼女には「何もない」ということになります。</p><p>&nbsp;</p><p>時代と密なマンガ界に身を置きながら、けれど鈴愛は時代と無関係でした。</p><p>バブル崩壊や、トレンディドラマや、阪神大震災や、</p><p>「絶滅危機のトキに待望の赤ちゃん誕生」というような時代のニュースも、</p><p>鈴愛には関係ありませんでした。</p><p>彼女は、ずっと高校生を生きていた。</p><p>30歳近くになっても、青春真っ盛りのときめきの時間を生きていました。</p><p>連載マンガ「一瞬に咲け！」では、文化祭の話を３ヶ月にわたって描き、</p><p>高校半年間の話をその時点で３年以上にわたって描いていたといいます。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、このドラマでは、たとえば80年代ではTV番組やカセットなどなど</p><p>その時代の風俗を描いて視聴者の共感を得ていたはずです。</p><p>90年代でも、作者は時代の風俗を描こうとしたのだと思われます。</p><p>時代とは無縁の鈴愛を、</p><p>ハプニング的にディスコ「マハジャロ」のお立ち台に登らせて踊らせてみたり、</p><p>律に会いにいく時の鈴愛の中に、</p><p>レダハーというブランドにこだわる女ごころを垣間見せたりしています。</p><p>（貯金を下ろして買ったレダハーのワンピースは、結局身につけませんでしたが。）</p><p>&nbsp;</p><p>けれどやっぱり鈴愛は時代の本流とはかけ離れていて、</p><p>作者は、むしろ裕子の生き方に時代を背負わせたのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>もっとも裕子はもともと、家庭の不和の中で居場所を失い、</p><p>居場所を見つけようとして秋風塾に身を投じ、次には結婚に身を投じたのでした。</p><p>修業時代、鈴愛は、毛布を掛けてくれるやさしい裕子が</p><p>看護師になったという夢を見ています（ちょっと強引な伏線の入れ方ですね）。</p><p>&nbsp;</p><p>経済的にも恵まれ、結婚当時は「インテリアコーディネーター」という、</p><p>いかにもカッコよさげなカタカナ職業を語っていた裕子でしたが、</p><p>仙台に行って、おそらくは嫁姑問題など、語られない苦労もあったでしょう。</p><p>2008年に岐阜の梟町を訪ねて来た際には、</p><p>子育てが一段落して看護師の資格を取り、</p><p>その年齢に関わらず新人ナース２年目として頑張っていることを鈴愛に語っていました。</p><p>時代を駆け抜けてきた（ある意味、時代に翻弄されてきた）彼女ですが、</p><p>アラフォーに至って、やっと本来の自分の居場所を見つけたのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>（ちなみに裕子は、この後、2011年にも仙台在住であるとすると……。</p><p>やはり彼女は時代を背負っているように思えます。）</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>結婚。子育て。よき家庭づくり。</p><p>仕事を成功させる。</p><p>経済の発展＝金を儲ける。</p><p>流行に乗る。人気を得る。</p><p>一番になること、他人より優位に立つことで自分の価値を確かめる。</p><p>──こうした世間の価値観、一般的な物差しではかるとしたら、</p><p>当時アラサーの鈴愛には、まさしく「何もない」わけです。</p><p>まさに挫折。翼の折れたエンジェル。</p><p>まさに絶望。にっちも、さっちも。</p><p>しかし視聴者は、ヒロインがそんな時にこそ、</p><p>彼女が絶望とどう向き合うか、</p><p>それからどんなふうに生きていく姿を見せてくれるか、</p><p>固唾をのんで注視しつつ、彼女のこれからを見守ることになります。</p><p>&nbsp;</p><p>祖母と死別した祖父を元気づけるために糸電話というアイデアを思いつき、</p><p>自分の障害をむしろおもしろいと思って、ゾートロープのアイデアを思いついた鈴愛。</p><p>障害のために雨の音が片耳でしか聞こえないことを、</p><p>悲しいと思うか、おもしろいと思うかはその人次第と言っていた鈴愛。</p><p>そんな彼女は、</p><p>「道の先をふさぐ影にアイデアを」投じることで壁を越えて行くのではないか。</p><p>世間一般の物差しではない価値観を指し示してくれるのではないか。</p><p>と、おれは秘かに期待していました。</p><p>が、その価値観を示してくれたのは、祖父・仙吉（中村雅俊）さんでしたね。</p><p>&nbsp;</p><p>仙吉さんは、否定しない人です。</p><p>鈴愛の挑戦も生き方も、そして彼女の存在をも、まるごと肯定してくれる存在でした。</p><p>そして仙吉さんは、世間一般の価値観も否定しません。</p><p>後年、彼は、</p><p>「鈴愛、教えたるわ」</p><p>と言って、90年近くの年輪を重ねて得た人生の真実を鈴愛に伝授します。</p><p>いわく、</p><p>「人間っちゅうのは、大人になんかならへんぞ。</p><p>ず～っと子どものままや。」</p><p>&nbsp;</p><p>競争したら、勝ちたい。</p><p>人には好かれたい。</p><p>お金は、欲しい。</p><p>子どもの頃のそんな望みや欲望は、</p><p>社会に出てエラそうな御託を語るような大人になっても、実は本質的に変わらない。</p><p>90歳近くの老齢に達しても変わらないというのです。</p><p>いわゆる煩悩。</p><p>いわゆる人間の業（ごう）というものを仙吉さんは否定しません。</p><p>自ら認めます。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛の弟・草太（上村海成）が名物メニューのカツドンを開発し、</p><p>さびれて傾きかけていたつくし食堂を救った。</p><p>それは奇跡的に素晴らしいことで、仙吉さんも心の底から喜んでいたことでしょう。</p><p>が、しかし、その一方で、「カツドン」ばかりの注文がコールされる中、</p><p>60年以上焼き続けてきた自慢の五平餅にはお声が掛からず、</p><p>すねていたというのです。</p><p>美食家・秋風羽織も絶賛するほどの腕を持つ職人であれば当然です。</p><p>「（すねるなんて）子どもみたいやな」という鈴愛の言葉に</p><p>仙吉さんはうなずきます。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、だからと言って、「カツドン」の失脚を望むわけではありません。</p><p>自分の仕事を放棄するわけではありません。</p><p>すねる自分の気持ちを自分で認めながら、その上で、</p><p>「カツドン」に舌を打つお客の笑顔を素直に喜び、</p><p>家族のことを想い、自分の仕事をすることに変わりはありません。</p><p>草太が自宅で朝ご飯を食べてこないと、嫁さんが作ってくれないのかと心配する。</p><p>孫の遊び相手となり、みんなの相談相手にもなる。</p><p>彼の結論は、ごく当たり前の、ごくシンプルなものでした。</p><p>&nbsp;</p><p>「五平餅焼いて、おいしいって食べてくれる人がいて、うん。</p><p>こいでよかったんやって思った。</p><p>そいだけのことや。」</p><p>&nbsp;</p><p>結果的には２号店「センキチ・カフェ」が起ち上がることで、</p><p>五平餅は再び脚光を浴びることになりました。</p><p>自分の味と技術を継承しようと孫が名乗り出てくれたことは、</p><p>大いなる喜びであったでしょう。</p><p>が、しかし、たとえ２号店の話がなかったとしても、</p><p>仙吉さんのすることは変わらなかったのではないでしょうか。</p><p>自分の出来ることをする。</p><p>注文の数が少なかったとしても、いっしょうけんめい五平餅を焼いて、</p><p>それでおいしいと食べてくれる人がいたら、それでよかったと思える。</p><p>たった、そいだけのこと。</p><p>そこに幸せの価値がある。</p><p>仙吉さんにとっての、幸せをはかる基本の物差しがある。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/01/c1/g/o0090008014262800421.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/01/c1/g/o0090008014262800421.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>マンガに挫折し、「わたしには何もない」と鈴愛が絶望していたとき、</p><p>仙吉さんは、電話で鈴愛に自分の秘密（？）を語りました。</p><p>&nbsp;</p><p>飼い犬の名前も、孫の名前も、自分で付けることがなかった仙吉さんです。</p><p>それにはネーミングセンスの良し悪しもありますが、</p><p>自分からイニシアチブをとることがなかったということでしょう。</p><p>周りから朗らかで人の善い好々爺と思われていて、実際、朗らかで人の善い好々爺でした。</p><p>が、しかし、人間・楡野仙吉は、</p><p>その心のうちに重い戦争体験を抱えていたというのです。</p><p>その体験は、誰にも話すことはありませんでした。</p><p>孫（草太）から問われても語らず、代わりにサザンオールスターズを歌ったものです。</p><p>けれど、もうひとりの孫（鈴愛）が絶望のドン底でもがいているという事情を知ったとき、</p><p>秘めていたそのエピソードのひとつを初めて語ったのでした。</p><p>&nbsp;</p><p>仙吉さんは、満州で終戦を迎えたといいます。</p><p>見つかったら捕虜にされるか、殺されるかという状況の中、</p><p>現地の人にかくまってもらい、２週間ほど洞窟のようなところで暮らす。</p><p>大戦中、「アンネの日記」のアンネ・フランクはナチスの目から逃れ、</p><p>約２年の間、隠れ家での潜伏生活を余儀なくされました。</p><p>寒さや飢えと闘いながら、他人に見つからぬよう、24時間緊張を強いられ、</p><p>大きな声を立てて笑うことも許されない。</p><p>仙吉さんも似たような状況だったのでしょう、</p><p>陽の光の射さない暗い洞窟の中で、身をひそめ、じっと時間を過ごす毎日。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど１日のうちの15分、たった15分だけ、太陽の傾きの加減で、</p><p>洞窟にキラキラ光の差し込むことがあったそうです。</p><p>仙吉さんは、その15分を楽しみに、その15分を支えにして、生き抜くことができた。</p><p>そして絶望にあえぐ孫・鈴愛に言います。</p><p>──だいじょうぶ。どうにでもなる。人間は強い。鈴愛はことのほか強いぞ。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、ここで見逃してならないのは、仙吉さんの強さです。</p><p>15分間、洞窟に光が差したとしても、そこに美しさを見い出し、楽しみと思う感性がなければ、</p><p>どうということのない、ただの現象です。</p><p>飢えに苛まれる逃亡生活の中で、それを眺めてもお腹がふくれるわけではない。</p><p>危険が遠のいてくれるわけでもない。</p><p>半分しか聞こえない雨の音を、悲しいと思うか、それともおもしろいと思うかはその人次第。</p><p>15分間の光の情景を、つまらない現象だと思ってスルーしてしまうか、</p><p>それとも楽しみと思って日々の支えにするか──というのも、やっぱりその人次第です。</p><p>&nbsp;</p><p>希望を胸に上京した若き日の律は、</p><p>大学をおもしろいと言い、東京をおもしろいと言い、秋風塾をおもしろいと言いました。</p><p>そんな律を評して鈴愛は、「律は幸せを見つける天才だな」と語っていました。</p><p>しかし、死と隣り合わせの状況の中で、</p><p>洞窟に差し込む太陽の光の情景をおもしろいと感じ、</p><p>その15分間を楽しみにして、過酷な逃亡生活を生き抜いた仙吉さんは、</p><p>まさしく「幸せを見つける大天才」だと断定していいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/88/cf/g/o0090008014262801393.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/88/cf/g/o0090008014262801393.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>漫画家・ちばてつやさんも、仙吉さんと同じように、やはり満州で終戦を迎えたひとりです。</p><p>日本が敗れた混乱の中、内地（日本）へ引き揚げることがかなわず、</p><p>一家で知人の中国人にかくまってもらい、数ヶ月を過ごしたそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>仙吉さんは兵隊さんでしたが、ちばてつやさんは当時６歳。</p><p>お父さんは民間人ですが、一家６人、捕まって殺される可能性もあった。</p><p>ふつうに暴行や略奪が横行する中で、人に見つかるわけにはいきませんでした。</p><p>小さな窓から顔を出すだけで、外から人に見つかってしまう。</p><p>そんな危険にも注意を払いながら、薄暗く狭い屋根裏部屋で家族６人、</p><p>やはりアンネ・フランクのように、潜伏生活を送ったそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>長男てつやさんを筆頭に、男ばかりの４人兄弟。</p><p>遊びたい盛りでしたが、もちろん外へ出ることは出来ず、</p><p>狭い屋根裏部屋では体を動かして遊ぶことも出来ず、おもちゃもありません。</p><p>家を出るときに持って来た２冊の童話集は何度も読みつくし、ボロボロ。</p><p>&nbsp;</p><p>そこで絵を描くのが上手だったてつやさんが自分で絵本を描くようになったといいます。</p><p>満州ではお父さんが印刷会社に勤めていたので、ハンパ紙だけはたくあさんありました。</p><p>そうして作った絵本を、字の読めない弟たちにお母さんが読んであげる。</p><p>後年、漫画家となって多くの読者を沸かせたちばてつやさんです。</p><p>絵ばかりでなくストーリーテリングの才能も、その片鱗があったのでしょう。</p><p>小さな弟たちは、もう貪るように夢中になって読み、次回作を待ちわびます。</p><p>そんな弟たちの笑顔が見たくて、てつやさんは絵本作りを工夫していく──。</p><p>&nbsp;</p><p>そのときの体験が、漫画家となったきっかけかもしれないと、</p><p>後にちばてつやさんが、マンガ「屋根うらの絵本かき」で描いています。</p><p>&nbsp;</p><p>当時のちばさんと幼い兄弟、そして一家にとっては、その手作り絵本こそが、</p><p>洞窟に太陽の光が差し込む15分間であったのだろうと思います。</p><p>暗い潜伏生活の中でキラキラと輝いていた。</p><p>&nbsp;</p><p>──絵本をいっしょうけんめい描いて、おもしろいって読んでくれる人がいて、</p><p>そいでよかったんやって思う。</p><p>ただ「そいだけのこと」です。</p><p>&nbsp;</p><p>それは、漫画家・ちばてつやの原点であるのでしょう。</p><p>「絵本」がマンガに変わり、</p><p>読んでくれる相手が弟ではなく、顔の見えない何万人に変わっても、</p><p>そして娯楽と情報にあふれた時代になったとしても、</p><p>たぶん原点は変わらない。</p><p>&nbsp;</p><p>これだけの大御所であれば関係ないかもしれませんが、</p><p>マンガでも、その業界には競争があり、人気主義や商業主義との葛藤などなど、</p><p>山積みな問題が多々あったりするのでしょう。</p><p>また、いかにアイデアを絞り出し、いかに無から有を作るかという</p><p>鈴愛が七転八倒していた“産みの苦しみ”は、</p><p>たとえちばてつやさんであっても、秋風羽織であっても、</p><p>必ずついて回るものであるに違いありません。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど、そうした諸々（もろもろ）を背負ったとしても、</p><p>また、大量生産と大量消費のマスメディアとなった中で忘れられがちだとしても、</p><p>マンガをいっしょうけんめい描いて、おもしろいと読んでくれる読者がいて、</p><p>それでよかったと思う──ただ「そいだけのこと」という、</p><p>その原点は、変わらないのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、食べる物に困らず、大きな声で笑っても殺されることのない、平和なこの時代、</p><p>昼も夜も電灯が煌煌と明るく部屋を照らす──、そんなこの時代にあっても、</p><p>仙吉さんが洞窟で見つけた太陽が差し込む15分間は、私たちに必要なのではないでしょうか。</p><p>物質的に豊かで、経済的に恵まれたとしても、</p><p>その15分間が見つけられずに暗闇をさまよっている現代人は少なくないのではないか。</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに、陽が差し込む１日のうちのたった15分間は、</p><p>毎朝放送される朝ドラの15分間と重ねられているんでしょうね。</p><p>ドラマを観て泣いたり笑ったりするその15分間が、</p><p>生きる楽しみとなったり、その日１日の元気の素になったりすることも、ある。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>ドラマの中で裕子が、再三口ずさんでいた、シーナ＆ロケッツ「You May Dream」。</p><p>「東京・胸騒ぎ編」のラストの波止場で裕子、鈴愛、ボクテの３人が、</p><p>青春という時代のフィナーレを飾るように、この歌を歌い踊っていましたね。</p><p>これは、星野源さんの主題歌「アイデア」のもうひとつのかたちです。</p><p>&nbsp;</p><p>半分しか聞こえない雨の音を、悲しいと思うか、おもしろいと思うかはその人次第。</p><p>世界をどうとらえるかという見方、その「アイデア」によって世界は変わる。</p><p>星野源さんは、こう歌います。</p><p>&nbsp;</p><p>「涙こぼれる音は　咲いた花が弾く雨音」</p><p>&nbsp;</p><p>悲しくてやりきれなくて落とした涙のしずくの音は、</p><p>見方を変えれば、雨に打たれても強く咲く花がしずくを弾く音に聞こえる。</p><p>「アイデア」（発想）を変えることで、「道の先をふさぐ影を」乗り越えようとする。</p><p>そんな雨の音で、「歌を歌おう」というのです。</p><p>そして、そんな雨の音で歌ったこの歌よ、「すべてを越えて届け」と星野源さんは歌う。</p><p>&nbsp;</p><p>「You May Dream」でのアイデア（着想、考えや概念）は、恋でした。</p><p>恋をするそのときめきが、瀟々と降り注ぐ憂鬱な雨の音を、サンバのリズムに変える。</p><p>雨の音を、憂鬱と思うか、サンバのリズムと思うかはその人次第──というわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>「あなたの事想うと</p><p>すごく胸があつくなるの</p><p>いつもはユーウツな雨も</p><p>サンバのリズムにきこえる」（You May Dream）</p><p>&nbsp;</p><p>「人生・怒濤編」で鈴愛は、涼ちゃん（森山涼次：間宮祥太朗）と踊っていましたね。</p><p>「Singin' in the Rain（雨に唄えば）」のジーン・ケリーさながらに、</p><p>どしゃぶりの雨の中を、二人で。</p><p>涼ちゃんに恋していた彼女には、憂鬱な雨も素敵なリズムに聞こえていたでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>若き日の鈴愛が出逢ったアイデア（着想、考えや概念）は、秋風羽織のマンガでした。</p><p>そのマンガを読んだとき、</p><p>「世界の色が変わった」</p><p>と、鈴愛は言います。</p><p>それは、真っ暗な洞窟の絶望の中にいた仙吉さんが出逢った、光射す15分間でした。</p><p>それは、憂鬱な雨音をサンバのリズムに変えるときめきでした。</p><p>秋風羽織のマンガがもたらす胸の震えとときめきが、鈴愛の世界を変える。</p><p>そして鈴愛の人生を変えます。</p><p>それは、「You May Dream（ユーメー・ドリーム）」、</p><p>鈴愛が目指す夢となりました。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/8f/42/g/o0090008014262799077.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/8f/42/g/o0090008014262799077.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>けれどマンガというその夢をほぼ10年のあいだ追いかけた末、</p><p>30歳を前にした八方ふさがりの現実の中で、</p><p>若き日に出逢った夢のときめきをすっかり忘れてしまっている鈴愛がいます。</p><p>&nbsp;</p><p>「何があっても、すべてあの時のときめきから始まっていることを</p><p>忘れるものか」（くらもちふさこ「いつもポケットにショパン」より）</p><p>&nbsp;</p><p>若き日の鈴愛が出逢った「いつもポケットにショパン」の名言が、</p><p>このドラマでも再三登場するのですが、鈴愛はすっかり忘れていたりするのです。</p><p>&nbsp;</p><p>アイデア（発想力）はある。</p><p>けれど構成力に欠け、アイデアから生まれた事件が、後から後から、</p><p>川をどんぶらこと流れてくるけれど、そこからストーリーが広がらない──。</p><p>まるでこのドラマを匂わせるようなストーリー作りの欠陥を、裕子が指摘し、</p><p>鈴愛が自ら認めていました。</p><p>それが自分の致命的な弱点だと自覚していて、その構成力を高めるため、</p><p>忙しい連載の最中も、映画の梗概をノートにまとめるという努力を人知れず続けていた。</p><p>&nbsp;</p><p>脳に糖分を供給すれば絵コンテが描けると思い、気持ち悪くなる胸を抑えながら、</p><p>大量のスイーツをかきこんでいた。</p><p>&nbsp;</p><p>（※ちなみにこれは逆効果です。</p><p>明治の文豪・森鴎外のスイーツ好きは有名で、</p><p>甘い餡たっぷりの饅頭をご飯に入れ、茶漬けにして食べるほど。</p><p>饅頭などの糖分は手っ取り早くブドウ糖となって脳を活性化させるので、</p><p>そこから彼の名作が生まれたと言われたりもします。</p><p>が、それにも程度というものがあって、</p><p>日常的にカロリー豊富な食生活を送る現代で、しかも大量に糖分を摂取するとなると、</p><p>インスリンの分泌のバランスが崩れ、脳へのエネルギー供給が絶たれてしまい、</p><p>反対に頭の働きが悪くなるといいます。</p><p>鈴愛が必死にスイーツを食べれば食べるほど頭は馬鹿になるわけで、</p><p>それでも必死に机にしがみつく姿は悲劇的でした。）</p><p>&nbsp;</p><p>しかし何より鈴愛は、ペンだこが何層にも固い小山を作るほどペンをにぎり、</p><p>描いて、描いて、描きまくりました。</p><p>&nbsp;</p><p>そんなほぼ10年の努力を続けた鈴愛は、しかし、原点であるときめきを忘れます。</p><p>そして、マンガをいっしょうけんめい描いて、おもしろいと読んでくれる読者がいて、</p><p>それでよかったと思う──ただ「そいだけのことや」という、</p><p>仙吉さんの価値観に至ることはありませんでした。</p><p>&nbsp;</p><p>秋風羽織に護られながらとはいえ、ほぼ10年ものあいだ続けて来れたのには、</p><p>たとえ人気が先細りになったとしても、それを支えてくれていた読者がいたはずです。</p><p>いっしょうけんめい描いたものが、誰にも何にも伝わっていなかったのか？</p><p>後に、彼女のマンガのファンだったという涼ちゃんが現れたわけですが、</p><p>彼だけではないはず。</p><p>かつて鈴愛が秋風羽織にときめいたように、</p><p>“楡野鈴愛”にときめいた人だって、必ずしも皆無だったとは限らないはずです。</p><p>それを、切り捨てていいのか、どうか。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが鈴愛は、新たな価値観に気づくことが出来ず、</p><p>新たな自分に至ることが出来ないまま、ただ、挫折を選びます。</p><p>だから世間一般の価値観にとらわれたまま、自分には「何もない」と言い、</p><p>懸命に生きたほぼ10年間を全否定し、切り捨てます。</p><p>「カッコ悪い」黒歴史として封印し、</p><p>娘のカンちゃん（花野：山崎莉里那）にも隠し続けることになりました。</p><p>&nbsp;</p><p>それは「Scrap and Build（古い物を壊して新しくつくり変える）」のようにも見えます。</p><p>けれど、新しい「Build」の方のアイデア（着想、考えや概念）がない。</p><p>それ以後の10数年で、涼ちゃんと出逢い、結婚を経てカンちゃんを授かり、</p><p>さらには岐阜に帰って奮闘するわけですが、</p><p>世間一般の価値観から脱することはなく、</p><p>だからずっと「挫折」を引きずっているように見えます。</p><p>漫画家として、ものづくりの作り手として生きたほぼ10年を否定した鈴愛は、</p><p>映画づくりの作り手である涼ちゃんを、家族として一時は応援したものの、</p><p>作り手として苦悩するその心情を１ミリほども理解することはありませんでした。</p><p>離婚は涼ちゃんから言い出した、あまりの身勝手＆理不尽な申し出でしたが、</p><p>鈴愛は涼ちゃんの存在そのものを切り捨てます。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/88/cf/g/o0090008014262801393.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/88/cf/g/o0090008014262801393.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>しかし、ここへ来て（第135回）、律は、</p><p>「あの時のときめき」──「いつもポケットにショパン」の名言に触れ、</p><p>つまり、自分の原点に気づきました。</p><p>律の原点は、ものづくり。誰かのためにものを作って、喜んでもらうこと。</p><p>ものを作った「その先に、誰かの笑顔があるといい」ということ。</p><p>ロボット工学というものづくりの最先端にいて、しかしビジネスと忙しさにまぎれ、</p><p>律が忘れていた原点でした。</p><p>それは、五平餅をいっしょうけんめい焼いて、おいしいと食べてくれる人がいて、</p><p>それでよかったと思う──ただ「そいだけのこと」という、</p><p>仙吉さんの原点に通じるものです。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛もまた、いわゆる「小商い」というステージにたどり着きました。</p><p>大量生産と大量消費という世の中で、</p><p>少数でもいいから、心を込めてものを作って届けることで、相手の笑顔を見たい。</p><p>それは加藤恵子（小西真奈美）さんのグリーンのタオルであれ、</p><p>五平餅であれ、</p><p>ロボットや、からくり機械であれ、</p><p>はたまたマンガや映画やTVドラマであれ、</p><p>そのものづくりとしての基本は変わらないのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>最終回まであとわずか。</p><p>鈴愛はどんなアイデアを生み、どんなものを作ることになるのか。</p><p>見守りたいです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif"><img alt="" height="80" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180909/10/porepore4989/c8/a7/g/o0090008014262800678.gif" width="90"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>あ、いえいえ、そうそう、もうひとつ。</p><p>&nbsp;</p><p>あの第78回のシーンで、鈴愛が「わたしには何もない」と言ったとき。</p><p>おれは、マンガ「ワンピース」の一場面を思い出したのでした。</p><p>&nbsp;</p><p>物語の第60巻で、主人公ルフィは、兄のエースを喪います。</p><p>エースは弟を助けるために身を挺してかばい、命を奪われました。</p><p>そのショックでルフィは、兄を失ったばかりか、</p><p>「どんな壁も越えられると思うておった“自信”」も、</p><p>「疑うこともなかった己（おのれ）の“強さ”」も失います。</p><p>&nbsp;</p><p>自分が天才で、秋風羽織をも越えられるという自信をもっていた鈴愛と同じです。</p><p>若いときの“根拠のない自信”──うぬぼれという勘違いは、ひとつの武器です。</p><p>うぬぼれの無鉄砲な自信が、突破口を開くエネルギーにもなります。</p><p>しかし、その世界の奥深さを知るほどに自信は目減りする。なくしていくことになる。</p><p>その自信を失うところから、改めて努力を積んでいく覚悟を決めることもあります。</p><p>その自信を失うことで、すべてを失ってしまったという絶望感にとらわれることもある。</p><p>──まさしく「おれ（わたし）には何もない」。</p><p>&nbsp;</p><p>そうして自分を責め、泣きながら自分の体を傷め続けるルフィを、</p><p>しかし、海賊ジンベエは投げ飛ばし、「無いものは無い」のだと言い放ちます。</p><p>そして「失ったものばかり数えるな！」と言うのです。</p><p>&nbsp;</p><p>「確認せい！　お前にまだ残っておるものは何じゃ！」</p><p>&nbsp;</p><p>そう問われてルフィが自分の胸に手を当てたとき、</p><p>心に浮かび上がったのは、ゾロやナミやウソップやサンジたちの顔。顔。顔。</p><p>そしてポロポロあふれ出る涙とともに口をついて出てきた言葉は、</p><p>&nbsp;</p><p>「仲間がいる"よ」</p><p>&nbsp;</p><p>でした。</p><p>&nbsp;</p><p>「わたしには何もない」と泣き叫んだ鈴愛にも、仲間が「いる」んですよね。</p><p>その瞬間、泣いて震える鈴愛をハグして包み込んだボクテ。</p><p>心配して取り囲んでいた裕子。秋風羽織。ひしもっちゃん（菱本若菜：井川遥）。</p><p>&nbsp;</p><p>鈴愛が上京する前、母親の晴さんは言いました。</p><p>──世の中にはいい人ばかりではない。悪い人もいる。</p><p>けれど梟町では、家族も友だちも隣人もやさしく、本当によくしてくれる。</p><p>その梟町で育った鈴愛は、そうした世の中の厳しさを知らない。</p><p>そんな鈴愛を、厳しい東京へ、ましてや競争の厳しいマンガ業界へ出すわけにはいかない、と。</p><p>&nbsp;</p><p>けれどもいざ上京してみれば、厳しい東京、厳しいマンガ業界という中で、</p><p>いろいろな齟齬やいざこざや喧嘩があったりの末に、</p><p>よき師、よきスタッフ、よき友に恵まれることになりました。</p><p>それには、裏表のない彼女のキャラクターによるところもあるでしょう。</p><p>しかし鈴愛は、基本的に、家族や友だちや周囲の人に恵まれている。</p><p>支えられている。</p><p>そのことを鈴愛はけっして忘れてはならないと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/porepore4989/entry-12403678008.html</link>
<pubDate>Sun, 09 Sep 2018 10:51:25 +0900</pubDate>
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