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<title>欧州路のブログ</title>
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<title>パン粉製造の情報について</title>
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<![CDATA[ 旅館料理屋のたぐひが、わりに多い。これも自分とは縁のなささうな贅沢な構えである。<br>　たまには、事務所や、寺や、土蔵などがある。やはり、さういふところは、なんとなく張合ひがない。仕事の最中を、誰かに見てゐられるといふことは、そんなに意識はしなくつても、それはそれで、邪魔にならないばかりでなく、むしろ、気が張つて調子のつくものである。<br>　ひと通り仕事の終つたところを、旦那がやつて来て、――ほゝう、見違へるやうになつた。これやまた、たいしたもんだ、と、目をみはり、どうかすると、それがまた、品のいゝ若づくりの細君が一緒ででもあらうものなら、熊川忠範は、ひときわ面目を施し、硫酸水に荒れた手で鼻をこすり、わざとそつぽを向いて煙草をふかすのである。<br>　彼の仕事は、たしかに丁寧を極めてゐた。しかし、その半面、能率がおそろしくあがらないことも事実であつた。当節の商売は、それでは割に合はぬといふことを悟らないのは彼だけで、親方は、ついに業を煮やした。<br>
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<link>https://ameblo.jp/pwiql0e/entry-11431577065.html</link>
<pubDate>Fri, 21 Dec 2012 10:55:06 +0900</pubDate>
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<title>グラフィックデザインの情報について</title>
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<![CDATA[ 古代には、市 といはれる処は、大抵山近い処にありました。磯城長尾市 宿禰と言ふ家は、長い丘の末に、市があつた為でせう。此が、穴師の山人の初めと言はれる人です。布留の市もさうで、大倭の社に関係があります。河内の餌香の市などは、やゝ山遠くなつてゐます。これなどは、商行為としての交易場だつたのでせう。「うまさけ餌香の市に、価もてかはず（顕宗紀・室寿詞）」などあるのも、市が物々交換を行うた時代を見せてゐるのです。山祇系に大市姫があり、伝説では、山姥の名にもなつてゐます。此はみな、市と冬祭りと山姥との聯絡を見せてゐるのです。此交易の行事が、祭りの日の鷽換へ行事や、舞人の装身具・作り山などについた物を奪ひ合ふ式にもなつて行つたのです。
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<link>https://ameblo.jp/pwiql0e/entry-11422270675.html</link>
<pubDate>Fri, 07 Dec 2012 20:30:22 +0900</pubDate>
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<title>ホテルユーハオについての説明・解説する</title>
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<![CDATA[ ここに西田哲学の人気があるのだ。尤もここから、反動的な「宗教復興」などのための依り処を引き出すことも、西田博士自身の、又人々の、自由にぞくするのだが。<br>「全体」の魔術<br>――高橋里美教授の哲学法<br>私は「『無の論理』は論理であるか」で以て、西田哲学の特色づけを行った。西田哲学がアカデミカルかジャーナリスティックかというようなことをムキになって喋っている人もいるが、問題はそんな処にあったのではない。博士の「無」の立場からは、多分哲学的な諸問題・諸関係の意義の解釈 は出来るだろうが、哲学的であろうとなかろうと、現実の問題は、実際問題 は、こういう形而上学的な解釈の立場と方法とでは解決出来るものではない、ということが要点だったのである。<br>　西田幾多郎博士の「無」の立場乃至方法と対比出来るのは云わば有 の立場乃至方法で、今日わが国でこれを代表するものは田辺博士である。田辺博士はその「絶対弁証法」（即ち Real-Ideal-Dialektik）によって所謂観念論的弁証法（ヘーゲル）と唯物弁証法（マルクス主義）との総合に到達出来ると考える。この田辺哲学の特色づけの一端も亦、私はかつて拙著『現代哲学講話』〔前出〕で触れて見たことがある。<br>　処で、弁証法と云えば、観念論的であろうと唯物論的であろうと、更に又絶対的なものであろうと、とに角それは運動・過程の立場に立っている。事物や世界や意識をその動態に於て把握しようとすればこそ、一般に弁証法という方法が必要になるわけだからである。<br>
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<link>https://ameblo.jp/pwiql0e/entry-11416534489.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Nov 2012 13:54:10 +0900</pubDate>
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