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<title>明快解説！　学校で習う勉強の本質</title>
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<description>「国語と道徳、どう違うの？」「分数の割り算はどうしてひっくり返してかけるの？」子どものころ、誰もが一度は感じる素朴な疑問。多くの人はまともに答えをもらえないまま学校を卒業します。「ああ、すっきりしたい！」そんな方のためのお部屋です。</description>
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<title>書写の教科書について</title>
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<![CDATA[ <p>今回は書写の教科書について書きます。</p><p>といっても短めに。</p><p>&nbsp;</p><p>私の子どもの頃は、「書き方」とか言われていたような気がします。</p><p>ちなみに私は、字が汚かった。</p><p>校内でも１，２を争うような汚さでした。</p><p>&nbsp;</p><p>両親、兄弟はみな字がきれいでした。</p><p>だから、遺伝ではない。</p><p>逆に、家族はみんな、自然に字がきれいだったから、私の字を「汚い」とはいうものの、どうしたらきれいに書けるかというのは、教えてくれませんでした。</p><p>自然にかけるから、逆にきれいな書き方のコツというものを意識できないわけです。</p><p>これでは逆に、教えられないわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>ものすごくコンプレックスをもっていたわけではないが、</p><p>どうしたはずみでか、２０歳過ぎにペン字の市販の本を買って練習しました。</p><p>といっても、真剣に何時間も練習したわけではありません。</p><p>ちょっとしたコツが書いてあったので、それを知って、実践しただけです。</p><p><span style="color:#0000ff;"><b style="font-weight:bold;">そのコツの例は後程書くとして</b></span>。</p><p>&nbsp;</p><p>それ以降、私は、職場では、「きれいな字を書く人」ということになりました。</p><p>また、家族も驚きました。久しぶりに実家に帰って字を書くと、</p><p>「きれいになったね」と驚くのです！</p><p>&nbsp;</p><p>私にしてみれば、大して練習もしてないのに、</p><p>「なんだ、こんな簡単なことで多少はきれいな字と認識してもらえるようになるのか」と思ったものです。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">字がきれいかどうかは、単に、ちょっとしたコツの問題でした。</span></b></p><p>もちろん、習字で段位をとるような方と比較するようなものではありません。</p><p>ただ、日常では、それで十分なレベル、という意味です。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>で、ここからが本題なのですが、</p><p>「こんなことなら小学校の時、こういうコツを教えてくれていればよかったのに」</p><p>と思ったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、逆に期待もしたのです。</p><p>もしかしたら現代の書写の教科書は、そうしたコツを載せてくれているのではないか、と。</p><p>&nbsp;</p><p>なんだかんだいって、今の小学校の教科書は、私の時代よりは確実に「進化」しています。これまで国語や歴史については批判めいたことは書いてきましたが、基本的には「こんな教科書で勉強したかった」と思いたくなるようなものになっています。</p><p>いろいろ工夫がされているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>そこで、小学校２～５年生までの書写の教科書を今回見てみたのですが・・・</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">残念ながら、がっかりでした。</span></p><p>&nbsp;</p><p>記憶の中の、私の頃使っていた教科書と教え方がかわっていない。</p><p>&nbsp;</p><p>以下に、（私が問題と思った）問題点を挙げます。２つあります</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">１、習字に割かれているページが多すぎる</span></b></p><p>習字は今の時代（いや、私の頃から）、もはや伝統芸能の世界のものです。</p><p>習字自体は否定しませんし、美しい習字を見ると、やはり「きれいだな・・」と思います。</p><p>しかし、日常生活で使うものではありません（ペン字すら、今の時代は使う機会が少ない）。例えていえば、尺八や和太鼓のようなものです。</p><p>ところがざっと見て、その習字が、教科書の中で、分量的にざっと８割くらいを占めているのです。</p><p>これは実用的ではない。</p><p>しかも腹が立つのは、必ず「<b style="font-weight:bold;">しんにょう</b>」（「道」とか「遠い」の部首？の部分です）の練習が目立つように見開きでのっているのですね。しんにょうって、無茶苦茶難しいと思いませんか？　そんなものをことさら練習させる、というのはどうかと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">２、ペン字の教え方が変わっていない</span></b></p><p>きれいに書くコツのようなものは、「はらい」とか「はね」とかの違い、用語の説明までしかありません。私が期待したような「コツ」は、ほとんど皆無。せいぜい、「ひらがなは漢字より小さめに書きましょう」との一文を見つけたくらい。あとは、書き順とかいった、「国語の方で習うんじゃない？」というような内容も多い。</p><p>そして一番の問題は、</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">あいかわらず、うすい灰色の印刷の上をなぞらせる形式が踏襲されていること。</span></b></p><p>&nbsp;</p><p>ありましたよね？</p><p>「<span style="color:#bfbfbf;"><span style="font-size:1.96em;">こんないんさつのうえをなぞらせる練習のページが</span></span>」</p><p>&nbsp;</p><p>あれはなぞるだけだから、私でもできました。</p><p>字が下手だった私が断言します。<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">このなぞり方式では、うまくなりません！</span></b></p><p>&nbsp;</p><p>いや、もう少し正確に言うと、いわゆるもともとセンスのある子なら、これだけで感覚的にきれいな文字がどういうものか理解して、きれいな字をかけるようになるかもしれません。</p><p>しかし、もともと字が汚い、あるいはセンスのない子にとっては、なんの意味もありません。</p><p>例えていえば、算数の苦手な子に、模範解答を丸写しさせているようなものです。</p><p>算数が得意な子なら、模範解答を読むだけで、「ははーん」とわかります。</p><p>でも、算数が苦手なこの場合は、丸写し方式は苦痛なだけです。</p><p>&nbsp;</p><p>これでは、子ども全体を平均的に字をきれいにする授業にはなりません。</p><p>むしろ、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">「字のセンスのある子」を見分けるための教科書</span></b>にしかすぎません。</p><p>「この程度の内容の教科書で字がきれいに字が書ける子はセンスがあるから、コンテストにでることを勧めてみようか」</p><p>という選抜のための本になっていると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>しかもですよ、「おむすび」とか「結果」とか、２～３文字の練習を数回くり返して書かせる（それも毎度の通り、最初は例のうすい印刷をなぞる形で）という退屈な練習が延々と続いたあと、いきなり、はがきの文面をながながと（例によって印刷の上を）なぞらせるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>「おじいちゃん、おばあちゃん、お元気ですか。</p><p>わたしは今、なわとびを毎日がんばっています。</p><p>この前、二重とびができるようになりました。</p><p>今度会った時に見てください。</p><p>いつまでも元気でいてね」</p><p>&nbsp;</p><p>このはがきの文面の前に練習していた文字が、「おむすび」とか「すみれ」とか、成長」なのです。なんの脈絡もありません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>私が昔買ったペン字の本は、非常に実用的でした。</p><p>以下に例をあげますと、</p><p>まずひらがなの書き方です。一文字一文字、コツがある。</p><p>代表的なものをいくつかあげますと、</p><p><span style="font-size:1.96em;">「あ」と「お」の違い。</span></p><p><span style="font-size:1em;">　この２つの文字、同じような、「の」の字を基本にしたような形なので「丸く書く」「円のイメージ」が強いですが実は<span style="color:#0000ff;"><b style="font-weight:bold;">まったく違う形と思ったほうがいい</b></span>。</span></p><p>「あ」という字は、基本的に少し縦長に書くのです。縦長方形。</p><p>そして、最後の「の」ののばすところは、くるっと丸くするのではなく、下にやや直線的に伸ばすようにします。流す感じ。</p><p>大して「お」は、「の」のところは、「の」のような丸い形ではなく、平たく横長につぶして書きます。また、最後の「の」の書き終わりは、それこそ内側・中心にすこし丸める感じにします。</p><p>また、「あ」と「お」の縦の棒のところも、「あ」はやや曲線。「お」はむしろしっかりとした直線です。</p><p>あと、「お」の最後の「てん」は、できるだけ本体から離れ気味にして書くと、かっこよくなります。</p><p>まだ細かいところはいろいろあるのですが、さすがに文章で説明するのは難しいので、このくらいで。</p><p>&nbsp;</p><p>他にも、<span style="font-size:1.96em;">「か」</span></p><p>これは、子どもは下手に書きがちです。</p><p>どこが難しいかというと、最後の「てん」（「カ」以外の斜め棒）を、どうしても「カ」に近づけて書いてしまうのです。それこそ「カ」にくっつかんばかりにして書いてしまう。</p><p>これも「お」の最後の「てん」と同じで、「こんなに離していいの？」と思うくらいに「カ」と話して書いてやると、バランスがよくなります。</p><p>いわゆる中心線（この用語もあまり好きではないのですが）が、「カ」と「てん」の間にあるのがいい。<br>&nbsp;</p><p>あと、<span style="font-size:1.96em;">「め」と「ぬ」</span></p><p><span style="font-size:1em;">私が子どものときは、この違いがまったくわからなかった。</span></p><p><span style="font-size:1em;">「ぬ」は、「め」の最後のところをくるっと丸にするもの、という程度からぬけだせなかった。</span></p><p>今ではこの２つは全く違う字に見えます。</p><p>「め」は、正真正銘の「丸」のイメージです。</p><p>大して「ぬ」は、横につぶして書く。横長方形。少なくとも絶対に「丸」のイメージではありません。</p><p>形全体のバランス的にはどちらかといえば、「め」と「あ」が似ている。「ぬ」と「お」が似ていると考えてよいと思います。</p><p>もう少し書くと、「め」は、ひらがなの中でも、より小さめに書くとよいとのことです。</p><p>&nbsp;</p><p>続いて漢字。</p><p>教科書だと、「林」なんてのは、「木」よりも幅が狭くなると書いてある。</p><p>それでは不十分で、</p><p>「林」とか「羽」とかいった、同じ形が並ぶものは、あとから書く方を少しだけ大きめに書くのがコツだそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>また、「品」や「器」といった３～４個同じものが並ぶ場合も、それぞれ「口」を、少しずつ大きさを変えてやる。「品」だったら、書く順に、「大、小、中」。「器」なら（今手元に資料がないですが確か）「中、大、小、中」の順。</p><p>&nbsp;</p><p>あとは、「皿」「西」「四」といった字は、横長に書くことを意識する。</p><p>「目」なんてのは、逆に少し縦長にしてやる。</p><p>&nbsp;</p><p>他に、漢字全体（あるいはひらがなも）にいえることは全体に横棒は少しだけ右上がりに書くとか。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>残念ながら、今回書店に行ってペン字の本をいくつか見たのですが、</p><p>私が昔買ったのが一番よかったような気がします。<br>それでも、教科書よりはましだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>とにかくコツです。練習ではなく、できるだけたくさんの具体的な文字一つ一つについて、コツが書いてあるものがおすすめ。</p><p>&nbsp;</p><p>あとは、形というコツ意外に、書くときに筆圧が高くないかとか、少し意識してやる。</p><p>するとそのうち、上手い人の字とかみたとき、</p><p>「あ、これはこういうふうに真似してみよう」とか、考えるようになります。</p><p>&nbsp;</p><p>あと、最後に大事なことは、</p><p><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">「きれいでなくても丁寧に書くことはできる」</span></b></span></p><p>ということです。</p><p>私も、子どものころ、汚いことは汚かったが、</p><p>テストなど大事なところでは丁寧に書くことは絶対にこころがけました。</p><p>だから、「読めない」ということで減点されたり仕事で苦情を言われたことはありません。</p><p>どうしてもお子さんがきれいな字が書けないのなら、しかたありません。</p><p>その代わり、丁寧に書くようには言ってやって、丁寧に書いたらほめてやってください。</p><p>&nbsp;</p><p>あと、以下のような疑問はでるかもしれません。</p><p>私がこのように挙げたコツの理屈自体が、</p><p>小学生の頭にとってはまだ理解が難しいのかもしれない、ということです。</p><p>でも、それだったら、「は」の字や「り」の字の、</p><p>一画目と二画目を<b style="font-weight:bold;">「つなげるように」</b>と抽象的にアドバイスしているのはどうなのか、と思います。よくありますね、この書き方。「つなげるように」。</p><p>これは精神論に近い。精神論が悪いとまでは言いませんが、単なるコツよりは理解しにくいはずです。</p><p>そんなことを書くくらいなら、たとえば「は」の字の結びなら、「横の結び」などこれまたわかりにくい表現をするのではなく、「ひらたい丸を意識しましょう」とか書いたほうが役に立つと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>＜おしまい＞</p>
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<link>https://ameblo.jp/qchan2021/entry-12766172841.html</link>
<pubDate>Sun, 25 Sep 2022 18:00:57 +0900</pubDate>
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<title>給食の完食について</title>
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<![CDATA[ <p>さて、これからはもう少し気楽に（雑に）、あと、多少の主張をいれたことを書きたいと思います。</p><p>ただし、私の個人的日記ではないので、これを読む方にとって、（考え方や見方、生活上のことで）有益であるような内容を、と思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>今回は、上記のことです。</p><p>私の子どものころから、「給食は完食」という、なにか不文律のようなものはありました。</p><p>当時はあまり、気にもしてませんでしたが。そういうものかな、と。</p><p>&nbsp;</p><p>今の私は、この、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">給食完食を美徳とするような見方に、断固反対</span></b>しています</p><p>（別に普段学校に乗り込んでいって主張しているわけではありませんが）。</p><p>特に、クラス全体で給食を完食しよう、というのが反対です。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">親野智可等</b>さんも同じように反対されているので、そうした反対論がもっと広まって、給食完食のスローガンなどバカバカしい、ということになってくれればいいと思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>私よりは親野智可等さんの方が何度も繰り返し、あるいは重要な論点を書いておられるので、興味のある方はそちらをぜひどうぞ。</p><p>&nbsp;</p><p>私が給食完食に反対する一番の理由は、それが子どもの健康に悪いし、</p><p>なにより<span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">それで子どもが亡くなっているから</span></b></span>です。</p><p>&nbsp;</p><p>２０１２年に調布市で、当時小学校５年生だった乳製品アレルギーの女の子が、</p><p>チーズ入りチヂミをおかわりして、その後アレルギーで亡くなりました。</p><p>亡くなるまでの経緯としては、担任教諭の確認ミスとか、エピペンを打つ判断の遅れとか、いろいろな要因が重なったようです。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、<u style="text-decoration:underline;">アレルギーへの対応どうこうの前に、</u></p><p><span style="font-size:1.4em;">私が問題に思うのは、その子におかわりをさせた、ということです。</span></p><p>&nbsp;</p><p>いや、もちろん表面上はその子がおかわりを申し出たことになっています。</p><p>しかし、これは調べれば簡単にわかることなのですが</p><p>（例えばこれ：<a href="https://www.nishinippon.co.jp/item/o/45199/" rel="noopener noreferrer" target="_blank">給食と食物アレルギーを考える（上） 東京・死亡事故の母語る 「理解深め見守りを」｜【西日本新聞me】 (nishinippon.co.jp)</a>　）、</p><p>実はその子は普段はおかわりしない子だったそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>その先はわかりますね？</p><p>&nbsp;</p><p>その学校だかクラスだかに、「給食完食」という集団目標があったのです。</p><p>それで、チヂミは普段から給食メニューとしては人気がなく、あまっていた。</p><p>それをご丁寧にも担任の先生が、「誰か食べる人はいないか？」と教室内を歩いて回ったらしい。</p><p>その子は、クラスに貢献したい、という気持ちでおかわりを希望したそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>給食完食などというスローガンがなければ、</p><p>その子はおかわりなどしなかったと思います。</p><p>だって担任が誰かおかわり志願者を募るまで、欲しいとはいってないのですから。</p><p>&nbsp;</p><p>こんなばかばかしいことで、一人の人間の命がなくなるのは、許せないと思います。</p><p>私に言わせれば、また子どもを持つ親からすれば、</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">極端な話、自分の子どもの命が無事であるためならば、</span></b></p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">給食なんてどれだけでもあまらせるべきです。</span></b></p><p>そうではないですか？</p><p>&nbsp;</p><p>結果的にはこの事故は、</p><p><b style="font-weight:bold;">子どもの命の危険性よりも給食完食を重視したために起きた、</b></p><p>という見方もできるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>私は声を大にして言いたい。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.96em;"><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">給食完食って、子どもの命を危険にさらしてまで頑張らなきゃいけないほど価値のあることか？</b></span></span></p><p>&nbsp;</p><p>くり返しますが、たとえ１人の子どもの命にとっても、です。あたりまえですね？</p><p>１０人亡くなったら大変だからやめましょう、じゃないんです。</p><p>こんなくだらないことで、１人でも亡くなるのは、あってはいけないはずなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>この事故に対し、２０１３年、調布市立学校児童死亡事故検証委員会が</p><p>「<b style="font-weight:bold;">調布市立学校児童死亡事故 検証結果報告書</b>」</p><p>というのを出しており、その概要版がネットでも見られます。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/sports/018/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2013/06/05/1335638_5.pdf">調布市立学校児童死亡事故検証結果報告書概要版 (mext.go.jp)</a></p><p>&nbsp;</p><p>その報告はざっと見る限り、丁寧な検討がなされているとは思いました。</p><p>そして、「事故発生の要因」のところには、</p><p>「しかし，担任は食育の推進という視点から給食を完食するという目標達成のあまり，おかわりがもたらす影響について注意を怠った。」</p><p>とまでは書いてある。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが、「事故防止への提言」のところになると、</p><p>「給食指導に関する提言 担任は食物アレルギーがあり除去食対応が必要な児童がいる場合，日常から 様々な対応に心掛けるとともに，命の教育の充実や人権尊重の教育等をとおし て，児童がいじめられることがないよう，教育的指導及び配慮を行うこと。」</p><p>という具合で、給食完食という目標達成の妥当性への疑問はおろか、担任が過剰に目標達成に拘泥する姿勢への問題提起すらなされていない。</p><p>&nbsp;</p><p>（考えてみれば、この担任もある意味では被害者です。よい教師だったかどうかはともかく、子どもを死なせたいとは思っていなかったはずです。それがこんなことになってしまって、その後の人生にあとをひかないわけがありません。メンタル的に、今でも先生ができているのかどうか、心配にすらなります。そして、今も先生をしているとすれば、決して給食完食を目標にはしないでしょう。）</p><p>&nbsp;</p><p>ここまででもう給食完食反対は完璧（というか、命の前には給食完食側の根拠があまりに脆弱）だと思いますが、もう少し、理屈的に詰めてみます。</p><p>&nbsp;</p><p>最近は食育とかフードロスとも絡めて、</p><p>「食べ物を無駄にしないために私たち（子ども）ができることは」</p><p>という感じで給食完食がスローガンになることもあるようです。</p><p>そういう内容がどこかの中高一貫校の入学試験（適性検査）で、</p><p>生徒同士の会話という形で問題文に挙げられていたようで、さすがに唖然としました。</p><p>そこまで給食完食の妥当性について疑問をもたないとは。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.96em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">理屈上、給食を完食するのは不自然</span></b></span>なのです。</p><p><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">子どもが無理して食べないとクラスで完食はできない</span></b></span>のです。</p><p>つまり、<span style="color:#0000ff;"><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;">完食は、子どもの体に負担がかかる</b></span></span>。</p><p><span style="color:#000000;"><span style="font-size:1em;">いいかえれば、</span></span><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#0000ff;">給食は、クラス全体ではあまるのが必然</span></span></b>なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>なぜか？</p><p>&nbsp;</p><p>まず考えてみましょう。</p><p><b style="font-weight:bold;">フードロスを防ぐ一番シンプルで、個々人が取り組める方法</b>はなにか。</p><p>&nbsp;</p><p>簡単です。</p><p><b style="font-weight:bold;">自分が食べれそうな分だけ、とること。注文すること。</b></p><p>&nbsp;</p><p>ところが、です。</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">給食というのは、ひとクラス単位で配られる</span></b>わけです。</p><p>であれば、ひとクラス分が食べれそうな量をあらかじめ調節しておくべきです。</p><p>&nbsp;</p><p>そうでなければおかしい。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;"><span style="font-size:1.4em;">必要量以上を割り当てておいて、「完食しないとフードロスになる」「悪いことだ」というのは責任転換</span></span></b></p><p>です。</p><p><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">食べる方が悪いのではなくて、勝手に盛り付けた方の問題</span></b></span></p><p>です。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが、集団というのは、どうしても急な人数の増減が生じます。</p><p>急用である人が参加できないこともあれば、飛び入りで誰か入ることもある。</p><p>そして、<b style="font-weight:bold;">学校のクラスというのは、欠席で減ることはあっても、増えることはありません</b>。</p><p>急な欠席に対し、いくらなんでもその日のそのクラスの給食の割り当てを調節するのは不可能です。つまり、<span style="color:#0000ff;"><b style="font-weight:bold;">どうしてもクラス全体の給食量は、余剰にならざるを得ない</b></span>のです。</p><p>&nbsp;</p><p>加えて、給食を食べるのは子ども、ということを考慮しなければいけません。</p><p>&nbsp;</p><p>大人であれば、パーティーの食事の量が全体で少な目であっても、我慢できます。</p><p>それに、パーティーなんてその時１回限りのことですし。</p><p>帰りにどこかに寄って小腹を満たすことも簡単にできます。</p><p><b style="font-weight:bold;">子どもは育ちざかり</b>です。</p><p>食べたい子はもっと食べたいし、<b style="font-weight:bold;">必要量が不足する、というのはやはり避けたい</b>。</p><p><b style="font-weight:bold;">であれば、多めに作らざるを得ない</b>でしょう。</p><p>逆からいえば、そんなにフードロスをさけたい、給食完食させたいのであれば、</p><p>クラス全体の量を少なめにすればいいのです。</p><p>しかし、それはまずいとみんな思うはずです。</p><p>給食完食は達成できても、確実に空腹をかかえた子どもが何人か出る、という状況というのは。</p><p>だから、配膳する量は、どうしても多めになる。</p><p>そしてそれを、完食しようという。</p><p>&nbsp;</p><p>今の給食完食は、過剰にならざるを得ない給食を必要以上に詰め込んで完食させる、という異常な事態にほかならないのです。なんでそれが美談のイメージなのか。</p><p>&nbsp;</p><p>（ここで思いついたブラックジョークとしては、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">先生たちもクラスの一員として配膳してもらうのではなく、先生たちだけの給食にして、先生たちは先生たちで完食を目指す、ということをやってみたらいい</span></b>と思います。どれだけ無茶なことを子どもに要求しているか、すぐにわかる。）</p><p>&nbsp;</p><p>こう考えると、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">今の「給食完食＝善」という神話は、フードロス対策や食育とはむしろ反する</span></b>とさえいえると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>フードロスの基本である、必要なだけととる、という、「自分に必要な量」というのがわからなくなる。</p><p>&nbsp;</p><p>自分に必要な量というのは自分で経験をつんで把握するしかありません。</p><p>それが、自分よりもクラス全体（他人）のことを気にして量を考えないといけないのだから、自分にとって必要な量を感覚的につかむのがおろそかになる。</p><p>&nbsp;</p><p>食育的にも、上記したように、クラス全体としては絶対に過剰な量が配布されるのですから、<u style="text-decoration:underline;">クラス全体で完食すれば基本的にはカロリーオーバーの量をとることになる</u>。望ましいはずがありません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.96em;"><span style="color:#ff0000;">だいたいフードロスを気にするなら、学校で完食することにこだわらずに、自宅に持ち帰りOKにすればいいんです。</span></span></b></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>おなかいっぱいでちょっと苦しいときに「給食完食の目標のため」と無理してその場で食べるのと、とっておいて後でおなかが空いたときに食べるのと、どっちが食べ物を大事にしてるかって話です。</p><p>&nbsp;</p><p>日本ではなかなか普及しませんが、いわゆる外食でのドギーバッグが良いといわれているのといっしょの理屈です。</p><p>&nbsp;</p><p>親野智可等さんも強調されているのですが、子どもは体格も個人差が大きいし、その日の体調もあるし、時期によって小食だったり食べるのが遅いとかいろいろなのですから、それを一様に決まった時間内に必ず完食しろ、というのは不自然なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>「子どもだと自宅持ち帰りOKにしたとき、途中で食べたりとか食中毒とか何かと面倒」というなら、その指導をする方がよっぽど食育になります。</p><p>&nbsp;</p><p>こんな簡単なことがわからず、いつまでたっても給食完食主義がまかりとおって疑問の声が小さいのが腹が立ちます。</p><p>くりかえしますが、人の命がかかわっているからです。</p><p>だから腹が立つのです。</p><p>&nbsp;</p><p>それにしても、私の子どもの頃もやはり完食絶対という感じでしたが、</p><p>自分の分だけ完食すればよかったような気がします。</p><p>クラス全体の連帯責任のような傾向になっているようなのも、気になります。</p><p>&nbsp;</p><p>＜おしまい＞<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/qchan2021/entry-12756189353.html</link>
<pubDate>Sun, 31 Jul 2022 08:11:44 +0900</pubDate>
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<title>今後についての告知</title>
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<![CDATA[ <p>ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。</p><p>&nbsp;</p><p>以前にも書きましたように、このブログは以下の趣旨で書いてきました。</p><p>&nbsp;</p><p>・昔学校の勉強で疑問だったことについて、自分なりに結論ができたことで、他の方の参考にしてもらえるかもしれないことを書いてみる。</p><p>・よって、学校科目をテーマにした一種の本のようなものなので、ある程度書ききったらそれで終了。</p><p>&nbsp;</p><p>私の中では、特に「なぜ小説を勉強するのか」と「歴史とはなにか」が二大テーマでした。</p><p>&nbsp;</p><p>ようやく書き終われました。</p><p>&nbsp;</p><p>ですので一応、これでひと段落です。</p><p>思ったより疲れた、というのが率直な気持ちです。</p><p>書かなかったらもやもやしたままだったと思うので、</p><p>書いたほうがよかったことは確かですが、充実感よりは、やっと終われるという感じの方が強いです。</p><p>&nbsp;</p><p>たくさんブログを書かれている人はすごいなあ、と思います。</p><p>すごいエネルギーですね。</p><p>こんなにエネルギーがいるものだとは。</p><p>しかも私などは、考えを書きたいだけなので、</p><p>写真とかビジュアルはなにも工夫してません。</p><p>きちんと更新されている人を、つくづく尊敬します。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、今後は気が向いたときにちょこちょこ書きます。</p><p>テーマも小さいものなので、１回で１つのテーマ、みたいな感じになると思います。</p><p>テーマの中身も勉強科目に限りません。例えば、給食のこととか。</p><p>また、先に書いたような、疑問だったことへの結論というよりは、</p><p>「こうしたらいいんじゃないかな」というような、（生意気にも）現在の教え方に対する提言みたいなものになると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>半年に１回ほど見ていただければ幸いかと。</p><p>・・・いや、わかりません。</p><p>&nbsp;</p><p>そうですね、やっぱりモチベーションが大事なので、</p><p>義務感よりは、私の中で、「これはやっぱり書きたい！」と思った時、</p><p>書くことになると思います。趣味ですからね。</p><p>&nbsp;</p><p>それでは、失礼いたします。</p>
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<link>https://ameblo.jp/qchan2021/entry-12751620115.html</link>
<pubDate>Sun, 03 Jul 2022 23:06:48 +0900</pubDate>
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<title>歴史とはなにか（おまけ・技術史のすすめ）</title>
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<![CDATA[ <p>さて、歴史とはなにか、についてのおまけです。</p><p>これまでよりは、（理屈が）荒く書きます。</p><p>&nbsp;</p><p>これは、今の歴史の教科書に関する私なりの要望です。</p><p>&nbsp;</p><p>いつもと同じように、結論から書きますと、</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#0000ff;"><span style="font-size:1.4em;">もっと技術史を体系的に取り上げてほしい</span></span>と思うのです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>今の歴史教科書は、記載の中心が、その当時の社会制度の変遷に置かれ過ぎていると思うのですね。</p><p>ときどき、文化とか、芸術関係の記載が出てくる。古今和歌集とか源氏物語とかです。あれもバラバラな感じで、きちっとしたまとまりをもって理解しにくいのですが・・・</p><p>&nbsp;</p><p>それよりも、技術の記載があまりにも少ないと思うのですね。</p><p><b style="font-weight:bold;">技術って、大事</b>じゃないかと思うのです。</p><p>芸術と技術、どちらが大事か、という問いは不毛だと思うのでしませんが。</p><p>&nbsp;</p><p>人の営みを難しい表現で「文化」と「文明」という見方で分けると、</p><p>やはり学校で勉強する歴史は「文明」よりの内容の方がふさわしい気がします。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、文化が美術、芸術的な側面が大きいのに対し、文明は、技術という感じです。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">技術、というと、車とかパソコンとかスマホがイメージ</b>されるかもしれません。</p><p>そうしたものも取り上げてもいいのですが、</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">私が想定している技術とは、もっと基本的な、根底的な技術のことです。</span></b></p><p>&nbsp;</p><p>私がここでいう技術史の具体的な中身でいえば、</p><p>たとえば<span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">水道</span></b></span>です。</p><p>水を井戸や川からくんでくるのではなく、溝や管を作って、町に「ひいてくる」。</p><p>これがどれほど生活に重要なことか。</p><p>江戸時代の江戸は最盛期、１００万の人口を誇ったといいます。当時世界一。</p><p>人口が多ければいいということではないですが、やはり１００万というのはすごい。</p><p>それができたのは、決して奥の細道でもなければ浮世絵でもなく、一つには水道がきちんと普及していたからではないでしょうか（この間、ブラタモリを見てその普及について知ったのですが・・・）。</p><p>&nbsp;</p><p>世界史レベルでも、けっこう技術史というのは隅に追いやられている感じがします。</p><p>一番有名なのはイギリスの<b style="font-weight:bold;">産業革命</b>でしょうが。</p><p>あとは、<b style="font-weight:bold;">紙</b>とか<b style="font-weight:bold;">印刷技術</b>。</p><p>なぜか日本史では<b style="font-weight:bold;">鉄砲の伝来</b>が非常に重要視されます。</p><p>&nbsp;</p><p>重要は重要なのでしょうが、それだけポン、と出されても、という感じがします。</p><p>個人的には、いろいろ知ると、それに勝るとも劣らない技術はたくさんあると思うようになりました。「こんな基礎的なことを自分は知らなかったのか」と。</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん、ここ１００年でしょうか？　電気・ガス・上下水道・情報通信網など、過去に比べけた外れの勢いで発展したので、歴史として記載するのはバランス感覚が問われるとは思いますが。</p><p>&nbsp;</p><p>また、今でも電気や水道が使えない国や地域がたくさんあることも知っています。</p><p>つまり、そういうのがなくては人が生きていけないという書き方では困ります。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、私たちがより豊かに、可能性説でいえば「幸福、平和になる」ために、生活の基盤として、技術の進歩は欠かせません。</p><p>水道のない地域でも、ないことを選んでいるのではないはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>そういう意味では、<span style="font-size:1.4em;">体系的に技術の発展を学ぶ</span><span style="font-size:1em;">の</span>は大事なことではないかと思うのです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>私も詳しくはないので断片的になりますが、ここからは、具体例をもう少し出してみましょう。そこでイメージしていただきたい。こういう技術は、果たして基本的知識（例えば公民における三権分立とか歴史における明治維新とか）として知っていなくていいのか、と。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば誰が発明したのかわかりませんが、<b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#ff0000;">車輪</span></span></b>の発明は人類にとって非常に重要でした。</p><p>回転運動を水平運動に、水平運動を回転運動に変えるという仕組みは、仕事の効率を圧倒的に改善したはずです。今でもそれは、歯車とかねじとかモーターといった部品に使われています。</p><p>&nbsp;</p><p>昔、関口宏のサンデーモーニングの、確か新春スペシャルで、「人類にとって最も重要な発明はなんだったか」というテーマの回がありました。</p><p>番組に出演していた芸能人の方々は、テレビとかパソコンとか答えていたのが、世界の学者さんなどはかなり多くの人が「車輪の発明は非常に重要でした」と答えていたのが今でも記憶に残っています。</p><p>&nbsp;</p><p>また、技術という意味を広くとれば、<b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#ff0000;">家畜の利用</span></span></b>というのも大きかった。これも、仕事、あるいは移動の効率にとって大きな意味を持ちます。</p><p>&nbsp;</p><p>メキシコのマヤ文明などは、車輪と家畜ということを「発明」しなかったそうです。だからほろんだ、ということではないけど、もし知っていたら、さらに高度な文明を築いていたでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>インフラ、ということでは<span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">灌漑設備</span></b></span>ということももっと強調されてもいいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>先に挙げた<span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">電気</span></b></span>、<span style="color:#ff0000;"><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;">上下水道</b></span></span>というのも、都市の生活に欠かせません。</p><p>いったいいつのころからどうやって電線は普及していったのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>下水といえば<span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;">トイレ</b></span>はどうか。これはいらないか・・・</p><p>&nbsp;</p><p>材料、という点では、<span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">コンクリート</span></b></span>の発明も挙げてよいと思います。</p><p>実はローマ時代にもコンクリートは使われていたそうです。</p><p>私たちは、コンクリートがどうやって作られているのか、意外としりません。</p><p>せいぜいセメントに近いものとか、タンクローリー車に入っているくらいでしょう。</p><p>あれだけ大量に使って、コンクリートの材料は不足することはないのか？　</p><p>それも知りません。</p><p>コンクリートはどちらかというと人工的で、木に比べて嫌われるイメージですが、ダムや高速道路、ビルなどの建設の際には、やはり欠かせない材料です。コンクリートなしでは都市の景観をつくることはできません。</p><p>&nbsp;</p><p>それならば、<span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">プラスチック</span></b></span>も挙げなければなりません。</p><p>問題点も多く、特に最近は悪者扱いされていますが、これだけ利用されているのならば、プラスチックがいつ頃どうやって発明されて、それまでの材料とどう違ったから爆発的に利用されるようになったのか、一応の歴史は押さえておいてもいいのではないでしょうか。</p><p>プラスチックのなかった頃と比べて、今は圧倒的に便利になった（便利という側面だけみれば、幸福になったわけです）のですから、プラスチックのなかった時代の不便さはどんなものだったのか、冷静に比較しておく必要があると思うのです。そして、今後、その便利さをできるだけ保ったまま、プラスチックゼロを目指すということになると思います。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">半導体</span></b></span>も忘れてはなりません。産業のコメ、などと言われていますが、多くの人はどういうものだかさっぱりイメージがわかないのではないでしょうか。私もそうですが。</p><p>いや、仕組みまで知るのは難しいにせよ、半導体が実際にどのようなものか、写真とかだけででも見ておいて損はないと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>あと、<b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.96em;"><span style="color:#ff0000;">電波</span></span></b>。電気ではなく、電波。電波も大事です。携帯電話が使えるのも、電波のおかげです。技術史という点では、携帯を教えるのではなく、より根本的な、電波を教えるべきだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>他にも、インフラとして、<span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">海底ケーブル</span></b></span>。これも大事そうです。私は今でも信じられません。太平洋を横断する長さのケーブルが実際に走っていることが。よくそんな長さのケーブルを作ったものです。また、すでに１９世紀から海底ケーブルはあったとのこと。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>まだまだありそうですが、私も専門家ではないので、あまり的外れなことを書いてもおかしくなるのでこの辺にしておきます。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど、私の言いたいことはわかっていただけたのではないかと思います。</p><p>私は素人だから、だからこそ一般的な「知らないのが常識」なことがわかるつもりです。</p><p>そして、その「知らないのが常識」なことが、「技術」ということに関してはとても偏っていると思うのです。「電波？　そんなもん知らん」と平気な顔をしてスマホをいじったり、ガラスやコンクリートのことを考えずに美術館に行って浮世絵や印象派を見て「よかったね」というのは、どこかバランスを欠いていると思うのです。人間が今の社会を営んでいくにあたって、優先順位として知っておくべき基礎的な知識は、印象派でしょうか、電波でしょうか。</p><p>極端な話、印象派はなくなっても生活は成り立つし、それで美術がなくなるわけではない。けれど、電波は今の社会にとって必要不可欠なはずです。</p><p>また、重要な技術の知識の中でも、バランスが悪い。例えば遺伝子の技術は重要だろうし、その知識はほとんど常識です。それに比べて電波というのは意識されない。かなりこれもバランスが悪いと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>以上、ありがとうございました。</p><p>これで本当におしまいです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/qchan2021/entry-12751616183.html</link>
<pubDate>Sun, 03 Jul 2022 22:42:48 +0900</pubDate>
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<title>歴史とはなにか（8）</title>
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<![CDATA[ <p>さて、ここまで、歴史とはなにかについて書いてきました。</p><p>&nbsp;</p><p>歴史の記述が変わりうること。</p><p>&nbsp;</p><p>それは歴史が文系科目であり、人の社会の中での約束事に関する科目であるため</p><p>（それに対して自然の世界の約束事・仕組みを探求するのが理系、自然科学）。</p><p>また、現在の価値観から過去の重要なことが何かを抜き出す作業なので、</p><p>現在の価値観が変われば重要と感じられることも変わってしまうため</p><p>（その意味で、歴史は現在と過去の対話であること）であること。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、現在の価値観は「全人類の幸福と平和」という、</p><p>かなり普遍的といってよい価値観になってきているため、</p><p>それに基づいて記載された現在の歴史教科書はかなり普遍性</p><p>（時代がたっても通じる）を持っているだろうということ。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、この究極の価値観に向かってどのように人間が可能性を広げてきたか、</p><p>それが歴史の記載のポイントではないか。</p><p>これを可能性説と名付けたこと。</p><p>&nbsp;</p><p>まとめると、こんなところでしょうか。</p><p>私のオリジナル（と思っているところ）は、可能性説、というところですね。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>可能性説をとれば、今の教科書で<b style="font-weight:bold;">張飛</b>、<b style="font-weight:bold;">関羽</b>や<b style="font-weight:bold;">マリーアントワネット</b>が重視されない理由もなんとなく納得できます。</p><p>歴史上の人物というのは、有名だからのせる、かっこいいからのせる、</p><p>ということではないのです。</p><p>常に、</p><p><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;">「可能性を広げる」</b></span><span style="font-size:1em;">、そこに</span>貢献する行為をしたかによって判断する。</p><p>&nbsp;</p><p>張飛や関羽はその時代の強い武将であったということであって、</p><p>戦争における戦い方の可能性を広げたわけではありません。</p><p>というよりも、戦争そのものが現代では全人類の幸福と平和にとって役立たない、</p><p>むしろなくすべきものと判断されています。</p><p>だから、基本的に、どれほど戦争がうまい将軍でも、歴史の教科書にはのらない。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">ナポレオン</b>は戦争がうまい将軍だったから教科書にのったのではなく、</p><p>その後皇帝になっていろいろしたり、</p><p>その前のフランス革命という大きな可能性を広げた事件の顛末の一部として、</p><p>記載する必要がある、ということだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>マリーアントワネットはどちらかというと愚かな人、ということであって、</p><p>かといって人類にとって二度と繰り返してはいけない過ちをしたわけでもないので、善悪どちらからみても、人間の可能性を広げたというわけではないのです。</p><p>&nbsp;</p><p>源平合戦の<b style="font-weight:bold;">義経</b>の活躍よりも<b style="font-weight:bold;">御成敗式目</b>のほうが歴史的に価値があるのも、</p><p>武家政権のための法令ということで、</p><p><b style="font-weight:bold;">武士の社会に一つの約束事ができた</b>、という意味で可能性が広がったと考えることができます。</p><p><b style="font-weight:bold;">鎌倉幕府成立</b>、というのも、政治をするのが貴族だけだったのが、</p><p>武士という身分が政治を行うという一つの可能性をみせた、という点で重要です。</p><p>&nbsp;</p><p>逆に、</p><p><span style="font-size:1.4em;">可能性説からみると、今の教科書にはのっているが本当はあまり重要そうでないもの</span>も目に付くようになりました。</p><p><b style="font-weight:bold;">大阪冬の陣</b>のあと徳川方が外堀まで埋めたのなんて、どうでもいいじゃん、いらないんじゃないか？　</p><p>いやそもそも、<b style="font-weight:bold;">冬の陣夏の陣</b>すらなくてもいいんじゃないか、とか。</p><p>自分の中で、可能性説を検証してみたわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ところがいろいろ検証していて<span style="color:#0000ff;"><span style="font-size:1.4em;">ふとつまづいた</span></span>のが、江戸時代における大名の扱いでした。よくご存じの、<b style="font-weight:bold;">親藩・譜代・外様</b>というやつです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="font-size:1.96em;">ん？</span>　</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;"><span style="font-size:1em;">これって、現代の「人類の平和・幸福」にとって、なんの意味があるのだ？</span></span></b></p><p>どういう可能性を広げたことになるのだ？</p><p>&nbsp;</p><p>ここまでの可能性説からみれば、これはいりません。</p><p>しかし、直観的に、これを教科書から削除するのはさすがにまずい気がする・・・</p><p>&nbsp;</p><p>どうしたものか・・・</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>それで考えてみるに、</p><p><span style="font-size:1.4em;">徳川家康はなんのためにこんな譜代とか外様とかにわけたのだろう</span></p><p>と疑問が出てきました。</p><p>&nbsp;</p><p>どう考えても、日本人全体の平和とか幸福とかを願ってのことではないわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>すると、面白いことに気づきました。</p><p>この辺は、可能性説を考えだしてよかったと思うのですが、</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">この大名の区分けは、どう考えても徳川家存続のために考え出したものとしか思えない。</span></p><p>&nbsp;</p><p>いや、より正確には存続のためではなくて、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">存続のため「だけ」</span></b>の制度ではないか、と。</p><p>&nbsp;</p><p>徳川家康への見方が変わりました。</p><p>&nbsp;</p><p>私はそれまでおめでたくも徳川家康のことを、</p><p>「戦国乱世を終わらせ世界にもまれにみる長期の平和な時代の礎を作り上げた人」</p><p>という側面から見過ぎていました。</p><p>&nbsp;</p><p>江戸時代はたしかに平和なイメージです。身分制度がきついとか、いろいろ問題はあったかもしれないが。</p><p>そして、家康が、再び戦乱が起こらないようにと工夫をこらしたのは事実だろうと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>しかしそれは、<span style="font-size:1.4em;">平和を第一に願ってのことではない</span></p><p>と今では思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>「民のことを思って」「日本全体の平和を考えて」とかではなかったと思うのです。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">家康が一番に重視したのは、きっと</span></p><p><span style="color:#0000ff;"><span style="font-size:1.4em;">「徳川家の存続」</span></span></p><p>だったと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">とにかく徳川家が代々平和に君臨できること。</span></b></p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">そのためには戦乱が起きてはこまるから、二次的に平和が続くような仕組みを工夫せざるを得なかっただけのことではないかー。</span></b></p><p>&nbsp;</p><p>そういう意味では、あとから評価されるようになった江戸時代に華ひらいた文化などは、家康にとってはどうでもよかったに違いありません。</p><p><b style="font-weight:bold;">楽市楽座</b>をつくった<b style="font-weight:bold;">織田信長</b>の方が</p><p>「みんなが幸せになるためにはどうしたらいいだろう」</p><p>と考えていたように思います。</p><p>&nbsp;</p><p>家康の場合は、他人なんかどうでもよくて（生かさず殺さず）、</p><p>もっともっと豊かになろうという欲もなくて（遺訓も、そう考えて読むと、あまり前向きなものではありません）、</p><p><span style="font-size:1.4em;">ひたすら現状維持、徳川家の存続だけを考えていた</span>のではないか、と思います。</p><p>&nbsp;</p><p>そういう意味では非常に消極的な生き方だったのかもしれません（戦国時代で明日をもしれぬ場合には、身の安全それすらも大変なことだったかもしれませんが）。</p><p>偉人のイメージにあるような志の高さはそれほどなかったのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>来年の大河ドラマは家康が主人公だそうですが、ドラマの中で家康が</p><p>「この戦乱の世を終わらせて、平和な時代を作らねば」</p><p>などというセリフを言ったら、たぶん私は嘘くさいと思ってしまうと思います。</p><p>そうではなく、</p><p>「うーん、どうやったらわしの孫の孫のそのまた孫の代まで、徳川家が将軍職を安泰に続けられるかなあ」とそればかり悩む姿だったら、リアル、と思うでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし一方で、代々の将軍がすべて徳川存続だけを考えていたのではないでしょう。</p><p>社会全体の発展的安定、日本全体の繫栄のためにはどうしたらよいか、</p><p>そういう視点からいろいろ考えていろいろやったから、<b style="font-weight:bold;">徳川吉宗</b>は重要なのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>さて、話がそれました。</p><p>現代の価値観を基準にしてみた場合、外様・譜代の区分はいかにも意味がありません。</p><p>とはいえ、それを歴史の教科書から削除するのもためらわれる。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;">どうするか？</p><p>&nbsp;</p><p>というか、そもそも、家康自身に、いや、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">当時の多くの人にとって、「全人類の幸福・平和」などという価値観があったのかどうか疑問である</span></b>、ということに気づきました。</p><p>&nbsp;</p><p>平和がよいとかという考えがまったくなかったとは言いませんが、今の目からみると、ずいぶん不格好なものだったに違いありません。</p><p>男尊女卑とか、身分制度とか、普通に前提でしたし。</p><p>&nbsp;</p><p>そう考えると、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">現代の価値観の物差しを過去の人の考えや行動に無理やり当てはめるのはおかしなこと</span></b>だと気づきます。</p><p>&nbsp;</p><p>また、当時の社会の常識から考えても、</p><p>たとえば家康が「人類みな平等。普通選挙制で将軍を決める」などということを理想と考えていたら、天下統一も江戸幕府も作れなかったに違いない。</p><p>&nbsp;</p><p>であるならば、</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">当時の社会や家康の考え方の限界を踏まえることが必要</span></b></p><p>だということになります。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">当時の社会情勢という条件の中で、時の権力者であった家康がどこまで考えることができたか、どこまでは実行することができたか、それは現実的であったか、結果として社会がどうなっていったか。</b></p><p>&nbsp;</p><p>そういうことであれば、譜代や外様を学ぶ意味もでてきます。</p><p>江戸時代はそうして安定を保とうとした、ということ。</p><p>実際にそれはある程度有効であったでしょうし、また限界でもあった。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#0000ff;"><b style="font-weight:bold;">そう考えると、大阪冬の陣の外堀埋めとか、徳川による豊臣家、源氏による平家の徹底したせん滅、というのも歴史として学ぶ意味があります。</b></span></p><p>&nbsp;</p><p>当時はそのようにだましたり、敵を徹底的に根絶しないとその後の安定が難しかったと考えられます。</p><p>実際に平家が頼朝を生かしたばかりに、源平の合戦（戦争）が再発した、と考えることはできます。もし平清盛が頼朝を処刑していたら（それが他の面でよいかどうかは別として）、源平の合戦という戦争は起こっていなかったわけですから。</p><p>&nbsp;</p><p>角川の「日本の歴史」を読むと、時代をさかのぼって<b style="font-weight:bold;">奈良時代以前ですと、もう少しやり方が原始的な感じ</b>です。</p><p>敵がいたらとにかく「謀反の疑い」ということで粛清してしまう。やり方が毎回同じで単調極まりない。</p><p>時代が下っていくにつれ、いい悪いはともかく、いろいろなやり方がでてきます。複雑になっていく。考え方が多様になっていくといいますか。</p><p>&nbsp;</p><p>そういうふうに、その当時の考え方の限界まで含めて可能性説を考えれば、かなり疑問が解消する、と考えました。</p><p>それをぱっと一行で表わすのは難しいですが。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>これでだいたい私の「歴史とはなにか」についての考えは整理できました。</p><p>不完全な部分もあるとは思いますが。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、小説のときと、同じことを思います。</p><p>&nbsp;</p><p>私の可能性説が完全とは言いませんが、</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;"><span style="font-size:1.4em;">どうして教科書に、歴史を学ぶ意味とかを書いてくれないのでしょうか。</span></span></b></p><p>江戸時代の大事なことはこれこれ、鎌倉時代の大事なことはこれこれ、ということではなく、どうして大事と考えているのか、それを冒頭に書いてほしいわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>特に思うのは、平安時代、<b style="font-weight:bold;">藤原道長</b>のことを考えるときです。</p><p>つまり、可能性説からみたときの、現在の歴史という教科への不満の一例です。</p><p><b style="font-weight:bold;">このことを書いて、私の「歴史とはなにか」についての考えを終わりたいと思います。</b></p><p>&nbsp;</p><p>道長が娘たちを次々と天皇に嫁がせて権力を得た、というのは有名です。</p><p align="left"><b style="font-weight:bold;">「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」</b></p><p>という歌も、これまた有名。</p><p>&nbsp;</p><p align="left">しかし、考えてみると、<span style="font-size:1.4em;">道長について学ぶことってこれだけ</span>なのです。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">それ以外はあまり深く学ばない。せいぜい間接的に紫式部のパトロンだった、ぐらいです。</p><p align="left">&nbsp;</p><p>これは、可能性説を通して考えてみると、おかしいのです。</p><p align="left">可能性説から考えると、現代から見て、あるいは当時の限界から見て、道長がどんな可能性を広げたの？という疑問がわく。</p><p align="left"><span style="color:#0000ff;"><b style="font-weight:bold;">単に自分と自分の一族をうまく繁栄させた</b></span>、というだけです。</p><p align="left">それだけいわれても、可能性を広げたとはいいにくい。</p><p align="left"><span style="color:#0000ff;"><b style="font-weight:bold;">道長は実際にどんな政治をしたのか、当時の社会にどんな影響を与えたのか？</b></span></p><p>教科書では、出世した以外のことはほとんどわからない。</p><p>なのに、平安時代を代表する歴史的人物になってしまっている。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば<b style="font-weight:bold;">豊臣秀吉</b>ならば足軽から太閤になった、という経歴で歴史に名を残した、ということになってしまう。そうではない。太閤になったならないが秀吉の主な功績ではありません。天下統一をなしとげたことが一番大事なはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>可能性説であえて説明するならば、以下のようになります。</p><p>&nbsp;</p><p>「このように、平安時代に権力をにぎるやり方は天皇家とつながることが一番だった」という一文が入り、それが前の奈良時代（先ほど書いた、謀反という言いがかりのやり方）や、後につづく鎌倉時代（武力を背景にしたやり方）と違う、そういう限界があった、という解説になるとは思われます。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、それだけだと、当時は<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">「とにかく権力の座について好き勝手なぜいたくをするのが大事だ」</span></b>という考え方しかなかったということになる。</p><p>&nbsp;</p><p>その前の奈良時代だと、<b style="font-weight:bold;">聖武天皇</b>の<b style="font-weight:bold;">東大寺</b>とか<b style="font-weight:bold;">国分寺</b>とか、国をどうまとめていくか、とか考えていたはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>だとすれば、平安時代は貴族たちは政治そっちのけで遊んでばかりいた、ということになり、現代からみるとあまり尊敬できたものではない・・・という書き方にならないとおかしい。</p><p>&nbsp;</p><p>少なくともヒトラーについては、やはり「こういうことは間違いであった」という書き方になっているはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>それがどうも、道長という人物の教科書での取り上げ方を見ると、あまりネガティブな感じに描かれていない。どちらかというと偉人に近いスタンスで書かれている感じがします。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば、こういう見方で書くことは可能なはずです。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">「平安時代は、貴族たちは自分たちの出世や贅沢がとにかく大事という考え方がメインであった。遊んでばかりいた（その中で文化も生まれたことは生まれたが）。</b></p><p><b style="font-weight:bold;">現代から見るとちょっと学ぶところの少ない時代である。だから各地で反乱とか起きて、そのうち武士にとってかわられたのも無理はない。</b></p><p><b style="font-weight:bold;">そういう、なかば現世的・退廃的な、発展に限界のあった平安時代を象徴する代表的な人物が藤原道長である。政治的にはなんの功績も残さなかった（それは同時代の他の貴族も同様だったが）にもかかわらず、天皇に娘を嫁がせるという才能だけ（その才能が一番大事という変わった時代であった）は突出していたために、平安時代の中でもっとも成功することができた。そして、周囲の貴族も彼をもっとも成功した人物と評価した」</b></p><p>&nbsp;</p><p>可能性説なら、こう書いたほうがしっくりきますし、平安時代を学ぶ意味も感じられます。</p><p>&nbsp;</p><p>道長がどういう手段で出世したのか、という事実だけ書いてある教科書では、実際には何も学びようがない、単なる物知り博士になっているに過ぎない、というのが私の率直な思いです。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">生類憐みの令</b>もそういう意味では学ぶ価値が出てきます。</p><p>江戸時代のような権力体制だとこんなバカバカしいことがまかりとおってしまう、という政治体制の限界を代表しているから（<b style="font-weight:bold;">徳川綱吉</b>死後、すぐに撤廃されたそうです）。</p><p>&nbsp;</p><p>応仁の乱とかも、いまいち頭に入りにくいのはそのせいかもしれません。</p><p>「これこれこういう基準で、応仁の乱は重要だと判断しました」</p><p>という判断基準を書いてほしいわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>最後まで読んでいただき、ありがとうございました。</p><p>&nbsp;</p><p>もう一つだけ、後日おまけを書きたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>＜一応本編は終了＞</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/qchan2021/entry-12749180856.html</link>
<pubDate>Sun, 19 Jun 2022 22:25:55 +0900</pubDate>
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<title>歴史とはなにか（7）</title>
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<![CDATA[ <p>私は前回、</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1em;">「歴史とは、人類の可能性をどのように広げてきたかを記録したもの」</span></b></p><p>&nbsp;</p><p>であり、その可能性の判断基準については、</p><p style="text-align: left;">　「　『（現代においては、）全人類の平和と幸福の実現』</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　というような道徳的なものになる　」</p><p>&nbsp;</p><p>と書きました。特に、「現代においては」というのはどういうことか。</p><p>&nbsp;</p><p>これをまた、例をあげて説明します。</p><p>&nbsp;</p><p>一番わかりやすいと思うのは、絶対王政と呼ばれる、フランスのブルボン朝。</p><p>&nbsp;</p><p>もし、「朕は国家なり」という言葉で有名なルイ１４世が「フランス史」（あるいはもしかしたら「世界史」すらも）という本を作ったら、どうなるか。</p><p>&nbsp;</p><p>必ずや、ブルボン家がどう始まってどう発展していった、という記録が主になるでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>逆に言えば、すべての過去の出来事は、「ブルボン家の平和・幸福・繁栄にとって何が重要であったか」という視点から取捨選択されます。</p><p>そこにはフランス市民の暮らしのレベルであるとか治安の状態とか、フランスの人口がどうなっていったかとかいうことは、意味がないのでのせない、ということになる。</p><p>それよりはベルサイユ宮殿がどのくらい大きくなっていったかの方が大事。</p><p>世界史においても、ブルボン朝にとって大事でないものはすべてカット。侵略してフランスの領土になった土地については、フランス領になる前の状態は少しくらいは記載するでしょうが、他は特に記録する価値なし、ということになるでしょう。</p><p>だって目的が、「今後ブルボン朝が発展していくための資料」なのですから。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、もしブルボン家が世界征服をしていたら、歴史の教科書はそういう内容になっていたはずです。</p><p>そんな教科書はブルボン家に関係する人以外誰も面白いとは思わないでしょうが・・・</p><p>&nbsp;</p><p>これはある意味、仕方のないことなのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>「歴史とはなにか（5.5）」あたりに書きましたが<a name="_Hlk101083379">、</a></p><p><span style="font-size:1.4em;"><a name="_Hlk101083379"></a></span><span style="font-size:1.4em;"><a name="_Hlk101083379"><b style="font-weight:bold;">歴史が文系科目である以上、学ぶ内容は「真実」「事実」ではなく、「その時学ぶ価値のあること」なので、中身が変わりうる</b></a></span></p><p><a name="_Hlk101083379"><span style="color:#000000;">のです。</span></a></p><p><a name="_Hlk101083379"></a></p><p>そして、教科書にのせる内容を決めるのは「えらい人」（なんと表現すれば適当なのかわからないので、こういう書き方にしました。支配的、というだけでもなくて、立派な人、学識のある人という意味も入れてもよいと思います）の側なので、「えらい人」の価値基準で中身が決まるわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>もっとも、ここは誤解しやすいところですが、歴史が直接「えらい人」にとって都合のよい中身になるとは限りません。正確に言えば、「えらい人」が大事にする価値観にそって中身が決まる、ということです。</p><p>「えらい人」が汚職とか悪いことをしていても、立派な価値観をもっていれば、その汚職を歴史に記録することを認めるかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>実際には今の日本はたぶん、政治家や文部省の方が、</p><p><span style="font-size:1.4em;">「歴史学者さんの判断を尊重しよう」</span></p><p>という価値判断のもとに（これも立派な価値判断ではあります）歴史学者さんに歴史の価値判断を全面的に任せ、歴史学者さんが「これが重要な出来事であった」と取捨選択して教科書を作るという間接的な仕組みになっていると思います。</p><p>だから、政治家の人がまずいことをしても、政治家の人が歴史の教科書に直接影響をあたえることはできにくくなっていると思います。</p><p>これはこれでうまい仕組みで、やはり「学問というのは真実（普遍性）を追求するものである」という中立性をうまく保つ仕組みになっている。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>話が少しそれましたが、だから、時代ごとに歴史の中身は変わってしまうわけです。<span style="color:#0000ff;"><b style="font-weight:bold;">「そんないい加減なものなら勉強する気にならない。いつ役に立たなくなるかわからない」</b></span></p><p>という気にもなりそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、そんな中で、今の日本、あるいは多くの国の歴史の教科書は、おそらくかなり「真実」というか、究極の歴史に近づいている、という気がします。</p><p>そういう意味では、今（ここ４０～５０年ほどでしょうか）歴史という科目を勉強している私たちは、歴史上かなりラッキーといえるかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>どうしてかといえば、先ほども書いたように、ブルボン家の価値基準の教科書であれば、ブルボン家の終了とともに、その教科書の中身も古くなってしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">現代の価値基準は、　</span></b>－これはおそらくここ１００年未満でようやく人類がたどり着いた価値基準であり、かなり画期的と思うのですが－　<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">おそらく今後未来永劫二度と変わりえないようなもの</span></b>だからです。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">「全人類の平和と幸福」</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">人間にとって、これ以上の価値があるでしょうか。</span></p><p>&nbsp;</p><p>あるとすれば、人間を超えた全生物を含めたものになるくらいしか想像できません。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">この価値を基準にして、人類がこれまでどんな変遷をたどってきたか、と記録したものなら、そうそう価値が古くなるとは思えないのです。</span></b></p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">１９４５年までは</b>日本では女性に参政権がなかったのですから、それ以前の歴史の教科書づくりにおける価値基準は、部分的にせよ<b style="font-weight:bold;">「全男性の平和と幸福」をもとにしていた可能性が高い。</b></p><p>女性がいくら虐げられていても、それは重要なことではないとみなされていた。</p><p>だから、戦前の歴史教科書で今勉強しても、それは役にたたない。それどころか有害かもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、少なくとも私が子供のころにはすでに、性別を超えた全人類の平和と幸福を前提に歴史の教科書が作られていたと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>だから、それからウン十年たった現代の角川の「日本の歴史」を読んでいても、大きな流れに違いはない（もっとも私も当時何を習ったか、かなり忘れているのですが）。</p><p><b style="font-weight:bold;">流れについていけるということは、昔習ったことが役に立っているということ</b>です。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ面白かったのは、以前も書いたように、<b style="font-weight:bold;">「シャクシャインの戦い」</b>とか<b style="font-weight:bold;">琉球がどのように薩摩に支配されていったか</b>、という、明らかに習った覚えのないことが書かれてあるのは目を引いた。</p><p><span style="font-size:1.4em;">これは、むしろ、私の可能性説を支持する変化</span>だと思いました。</p><p>&nbsp;</p><p>「全人類の平和と幸福」という価値基準に照らしたとき、<span style="color:#0000ff;"><b style="font-weight:bold;">全人類にはアイヌの人や琉球の人も含まれている</b></span>わけなので、いわゆる<b style="font-weight:bold;">内地</b>（北海道での本州の口語的呼び方）や<b style="font-weight:bold;">本土</b>（沖縄での本州の口語的呼び方）の「日本人」のことだけ書いていては日本史としては不十分である、ということになったからだと思います、</p><p>&nbsp;</p><p>もし日本史の教科書が「日本人（狭い意味での日本人）の平和と幸福」という価値基準をもとに作られていたら、やはりシャクシャインの戦いは「のせなくてよい」、という判断に今もなっていると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>全人類、という目で考えると、Ａさんだけ、Ｂさんだけ、というわけにはいかない。</p><p>全人類はどうであったか、ということになるから、どうしても、全人類（日本史なら日本に住む全部の人）に影響を大きく与えることになる、当時の社会構造とか政治体制の記載が増える、ということになります。</p><p>その意味では、<b style="font-weight:bold;">明治維新</b>というのは大事になる。文明開化、という技術的なことだけではありません。おそらくそれまでの貴族社会や武家政治は「全日本人の幸福、発展」という価値観（目標としてもよいかもしれません）から考えると、ものすごく限界が強かったと思うのです。<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">過激な言い方をすれば、平和と幸福の可能性があるのは貴族か武士だけ、という前提だった</span></b>わけですから。</p><p>明治維新で、それまでと比べものにならないくらい、格段に「全ての日本人の幸福」に向けて、可能性が広がったということになります（まだ男尊女卑ですが）。</p><p>&nbsp;</p><p>だから、蛇足になりますが、<b style="font-weight:bold;">前回私が例に出した「イワシクリームソーダ」が、もしも世界中に広まって、</b></p><p><b style="font-weight:bold;">「おお、このイワシクリームソーダを食べると非常に考えが穏やかになって戦争もする気にならないし、互いを思いやる気持ちも増すし、頭もさえていろいろ発明発見も飛躍的に進む。また、栄養価も優れていて保存もきくから世界中の食糧問題も解決された。しかも環境にやさしい」ということになったら、やはりそれは人類の可能性を広げたことになるので、歴史の教科書に乗るでしょう。</b></p><p>&nbsp;</p><p>ただし、特定の種類の食べ物がその栄養素の特殊性によって直接そこまで人間の歴史に影響をあたえた例はないと思います。食べ物はあくまで体を維持する栄養素に過ぎない。つまり、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">「生物としての体と栄養」という自然科学の分野の話</span></b>なのです。</p><p>特定の食糧が歴史（文系の分野・人の世界）に登場するのは、しいて言えば、飢饉に強いかどうかの関係で触れられるとか、江戸時代のように、貨幣として米が扱われたという特殊事情があるか、ぐらいでしょうか。あとは、食べ物ではないがアヘンなど、人間の脳に直接的に影響をあたえる薬物とか。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ここまでくれば改めて書くまでもありませんが、ナチス・ヒトラーが、歴史に記録されるのは当然というか、外してはならないわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>ヒトラーが単なる大量殺人者であれば、歴史には残らない可能性もある。子供向けマンガとかヒーローものの悪役にあるように、単純に世界征服とか人類を支配するとかだったら（しかし、支配した後どうするつもりなのでしょうね、ああいう悪者たちというのは。人間を働かせて、自分たちが贅沢するということなのでしょうか）、それは単純に「人類の敵」ということになるので、それはもう、どのような歴史書にも乗りにくいと思う。</p><p>しかし、（ここが表現として難しいのですが）ヒトラーは自分のやっていることが、（少なくともドイツにとって）正しい⇒人類の歴史にプラスの可能性を開くと信じていたと思うのですね。<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">「俺は世界征服をして好き放題暮らすんだ」ということではない</span></b>と思うのです。そして少なくともヒトラーの台頭を許してしまった社会の情勢とか仕組みとかがあった。そういうことが、ほんの１００年弱前に起きてしまったので、ではそれが起きる可能性が絶対にないように、今後どうしたらいいのか、ということをしっかり考えなければならない、ということになります。それは原爆も同じ。</p><p>だから、ヒトラーは歴史に記録すべきだけど、単なる殺人鬼、たとえば切り裂きジャックなんて人は、歴史にのせることが難しいと言えます。</p><p>&nbsp;</p><p>可能性説をとると、歴史の教科書の疑問点が解消しやすくなります（いや、そのために考えだしたのですが）。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえばアポロ１１号の月面着陸。これは科学技術的には偉大なことのはずですが、可能性説からみると、「それが人類全体にとってどう利益になるのか」わからない、といっていいでしょう。少なくともまだわからない。将来月や火星に人類が住めるようになったら、その始まりはアポロ１１号だった、ということで、歴史の教科書上の位置づけがはっきりするのでしょうが。まだはっきりはしていない。ということで、今の教科書でも扱いは小さいはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>また、逆なことも言えると思います。現代において人類にとって十分可能性が達成されたことは、教科書的には扱いが小さくなる。</p><p>例えば戦国時代の国ごとの境界線。</p><p><b style="font-weight:bold;">今や一つの日本という国になってしまった以上、覚える意味は薄い</b>わけです。</p><p>境界線がどうあるべきか、どう決めるべきか、ということは、可能性としてはもう解決済みであるから、記録としては重要ではない、ということになる。</p><p>他にも、昔の通貨の単位とか、度量衡の単位もそうかと思います。</p><p>この辺りは、ルーツ説に近い。</p><p>ルーツ説とは、現代社会の問題がどうして起きているのかをさかのぼった流れを歴史とするのでしたね。解決済みのことはさかのぼる意味がないから、ルーツ説では重視しにくい。</p><p>可能性説としては、ある程度可能性が広がって、これ以上広げようがないということになったら、そこで終了です。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>また、可能性説としては、「人類がどのように可能性を広げてきたか」ということですから、偶然の事故とか自然災害に対しては、いくら規模が大きくても、価値としては小さくなるように思います。</p><p>過去の「歴史的」な大地震や台風などの世界中で犠牲者の数は相当なものが少なくありません。しかしその扱いは歴史上は、比較的小さい。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば、<b style="font-weight:bold;">「9.11」</b>と言えば、誰しもがアメリカで起きた同時多発テロを思い出し、そのショッキングな映像とともに、歴史的な事件と認めると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが同じ年の２００１年１月に<b style="font-weight:bold;">インド西部地震</b>というのがあって、この地震の死者は約２万人なのです。9.11は、約３千人。</p><p>年は違いますが、２００４年の<b style="font-weight:bold;">スマトラ島沖地震</b>になると、死者・行方不明者２３万人です。桁が１つどころか２つ違う。</p><p>&nbsp;</p><p>スマトラ島沖地震はまだそのころの報道を覚えておられるかと思いますが、インド西部地震になると、日本人で知っている人は少ないと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">なぜ圧倒的に9.11の方が有名なのか。</span></p><p>&nbsp;</p><p>「（失われた人命の）数の問題ではない」という理屈はあると思いますが、それでは9.11が歴史の教科書にのる説明にはなっても、インド西部地震がのっていない説明になっていない。</p><p>&nbsp;</p><p>可能性説から考えれば、こうです。</p><p>アメリカは先進国であり、その大都市ニューヨークは、ある意味「人類の平和・幸福」の最先端をいっていたといえる。</p><p><span style="color:#0000ff;"><b style="font-weight:bold;">今の段階での人類が幸福の可能性を追求した一つの答え</b></span>なわけです。</p><p>都会が好きかどうかはともかく、ニューヨークとは、どの国でも「あんな都会がうちの国にも１個くらいほしいなあ」ということはあると思います（幸運にも日本には東京があります）。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">そのニューヨークが、よその人間から憎まれ、野蛮な形で攻撃を受けた。また、そういうことが起こりえるという可能性に気づかされてしまった、ということが、歴史的に重大だ</span></b><font color="#000000">、</font>という判断になるのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>これが例えば、（あまりよい想像ではありませんが）同じニューヨークが大型台風の被害にあい同じくらいの犠牲者を出した、ということだと、ここまで歴史上の事件として記録されるかは疑問です。「都会の意外なもろさ」という点ではふり返ることになるのでしょうが。</p><p>&nbsp;</p><p>日本でいえば<b style="font-weight:bold;">関東大震災</b>で、死者は約１０万人です。</p><p>しかし、やはりあの頃、大正のときの一番の歴史的事件かといわれると、ちょっと扱いが違うようです。</p><p>自然災害に対してどう安全な対策を行うのか、というのも、「人類の幸福・平和」の一分野としては大事ではあるのですが、あくまで一分野であるということになるのでしょうか。</p><p>それか、まだ課題としては未来に解決すべき分野であり、それよりは今は人間の作っている社会構造のほうがいろいろと喫緊に解決すべき課題が大きい、ということになるのかもしれません。社会構造のほうでいろいろ解決できてから（最近言われるSDGｓですね）、その後、自然災害への対策が歴史上の大事な課題になるのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>このように考えると、やはり歴史というのは、（5）で紹介したＥ.Ｈ.カーさんの言葉、</p><p><span style="font-size:1.4em;">「歴史は現在と過去の対話である」</span></p><p>ということになるなあ、と思うのです。</p><p>&nbsp;</p><p>現在の価値観、今なら「全人類が云々」という価値観を基準にして、その価値観あるいは目標に向け、これまでどのように人間が可能性を広げていったか。</p><p>現在の価値観からみて過去を取捨選択する作業といえます。</p><p>であれば、過去について同じ分量の事実が記載してあっても、その時代その時代の価値基準によって、「これは歴史の教科書にのせるべき」「これはいらない」という判断が異なってくると思われます。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、しつこいようですが、現代は、その価値基準がかなり普遍的なものになっているので、それにそって書かれた歴史もかなり普遍的（長持ちする）と考えることができそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>やれやれ、長くなりましたが、ようやくこれで歴史とはなにかについて、一息つけました。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、ここまできても、最後にもう少し引っかかるところが出てきたのです。</p><p><br>＜もう少し続く＞</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/qchan2021/entry-12748786044.html</link>
<pubDate>Fri, 17 Jun 2022 17:55:44 +0900</pubDate>
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<title>歴史とはなにか（６）</title>
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<![CDATA[ <p>やれやれ、ようやく④にこれました。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">「　④&nbsp;&nbsp; 私なりに考えだした『歴史とはなにか』</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　　に対する答えを書いてみたいと思います。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　　ただ、最終的に（今の時点で）たどり着いた結論が</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　　非常に複雑なものになってしまったので、</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　　書き方としては、最初の発想から始めて、その後、</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　　私自身の自問自答の過程をたどっていくやり方を</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　　とっていこうと思います。　　　　　　　　　　　」</span></p><p>&nbsp;</p><p>よろしくお願いします。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>私なりの「歴史とはなにか」について、</p><p>実際には<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">年表説</span></b>のところで書いた<span style="font-size:1.4em;">素朴な疑問</span>から出発しました。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">「なぜ大悪党のヒトラーの名前が歴史に残って、</b></p><p><b style="font-weight:bold;">　その辺の道路のごみ拾いをしているボランティアの名前は残らないのか」</b></p><p>&nbsp;</p><p>ヒトラーの方はともかく、ボランティアの人の名前が残らない方をまず考えました。</p><p>結論・・・というほど深く考えるまでもなく、</p><p>ごみ拾いというボランティア行為は<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">「新しいことではないから」</span></b>とすぐ考えつきました。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">「新しいことをする」、</span></b></span></p><p><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">これが大事なのではないか</span></b></span></p><p>と思ったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>あたりまえと言えばあたりまえですね。</p><p>人間はまねができる生き物です。ある意味、まねが簡単にできる。</p><p>逆に言えば、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">一番最初に何かを思いついたり、発明したりするのが難しい。</span></b></p><p>最初の一歩さえ与えられれば、それを続けていけばいいだけ。</p><p>であれば、最初が一番大事、ということになる。</p><p>最初ができれば、そこから可能性が広がるわけです。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;">そう、<span style="color:#000000;"><span style="font-size:1.96em;"><b style="font-weight:bold;">可能性</b></span></span>。　　　　</p><p>この「可能性」という言葉をひらめいたとき、私なりの歴史の答えの原形ができました。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.96em;"><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">「歴史とは、人類が</b></span></span><span style="font-size:1.96em;"><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">可能性をどのように</b></span></span><span style="font-size:1.96em;"><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">広げてきたかを</b></span></span><span style="font-size:1.96em;"><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">記録したもの」</b></span></span></p><p>&nbsp;</p><p>となりました！</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ここで、よりわかりやすくという意味で、別の例をだします。</p><p>&nbsp;</p><p>日本史とか世界史、というと大きすぎるので、<b style="font-weight:bold;">「飛行機の歴史」</b>としてみたら、どうなるでしょう。</p><p>飛行機の歴史で、何が大事になるでしょう？</p><p>&nbsp;</p><p>飛行機の大型化とか、高速化とかいろいろあるのでしょう。</p><p>人によって意見の違いもあると思います。</p><p>しかし、</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">特に大事なこととして疑いないのは、ライト兄弟の初飛行</span></b></p><p>ではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>何年に人を１００人以上乗せて飛べるようになったとか、</p><p>何年にマッハを超えられるようになったとか、</p><p>そんなことを覚えるよりは、</p><p>というよりそれらを大事なこととしてもし年表に書き込むのなら、</p><p>当然、ライト兄弟の初飛行は年表にのせないとおかしいでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>なぜなら、飛行機の歴史にとっては、</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">飛ぶかどうかが大事なことであって、</span></b></p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">規模とか速度は、その延長線上に見えてくるもの</span></b></p><p>だからです。</p><p>抽象的にいえば、量的変化ではなく、質的変化が重要だ、</p><p>ということになると思います。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">飛行機という乗り物の可能性を広げてきた重大事件はなんだったのか。</span></p><p>&nbsp;</p><p>その視点が定まれば、飛行機の歴史の年表に記す価値があることがなんだったのか、かなりシンプルに決まってくる感じがします。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">普通の歴史も、それと同様に考えればいいのではないか、</b>となるわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>ヒトラーとボランティアのことはどうか？</p><p>これも、飛行機の歴史ならどうか、と考えてやればいい。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">飛行機の歴史で、<span style="color:#0000ff;">無事に、無難に予定通り飛んだ記録</span>と、</span></p><p><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#0000ff;">事故の記録</span>は、どちらが年表にのせる価値があるか。</span></p><p>&nbsp;</p><p>望ましい望ましくない、善悪という判断基準なら、予定通りの飛行のほうがよいことに決まっています。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、<span style="color:#ff0000;">事故の記録</span>というのは、忘れてはならない記録です。</p><p>こんな失敗があった、こういう事故が起こりえる・・・</p><p>それもまた、</p><p><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#ff0000;">「二度と起こしてはならない」という意味では、</span></span><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#ff0000;">そのあとの可能性に貢献する</span></span></p><p>ものです。</p><p>&nbsp;</p><p>事故を無視していたら、また同じ事故を起こしかねない。</p><p>それに対して、無難な飛行の記録というのは、最初の一回は別として、</p><p>以後は過去と同じことをくり返しているだけであり</p><p>（もちろんそのように安全に運航できるよう努力されている整備士やパイロットなどスタッフの方の努力には感謝と敬意を表しますが）、</p><p>その事実を表面的に知っただけでは将来の可能性を広げることにはつながりにくい。</p><p>&nbsp;</p><p>日本航空さんを例に出して申し訳ないですが、</p><p>もし「日本航空の歴史」という本があるとして、その年表が、</p><p>「〇〇年〇月〇日、成田―ホノルル間のジャンボが飛行時間〇〇時間で無事に飛行」とかばかり書いてあって、</p><p><b style="font-weight:bold;">御巣鷹山の事故</b>について「社史に残す価値なし」と判断して何も記載がなかったら、「それはおかしい」ということになるはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>また、ボランティアでも、一般的なボランティアの名前を記載することは歴史にはなりません。</p><p>しかし、ウイキペディアによると、<b style="font-weight:bold;">日本のボランティア元年は阪神・淡路大震災の年</b>といわれているとのこと。</p><p>そこから、ボランティアというものがどのように生まれ、発展し、広がっていったのかという形で「ボランティアの歴史」ということを記載することはできそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>さて、普通の歴史に戻りましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>歴史とは、可能性の記録である。これを、<span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#0000ff;"><b style="font-weight:bold;">「可能性説」</b></span></span>と呼ぶことにします。</p><p>ネーミングとしては今までの中で一番語呂が悪い感じがしますが、しかたない</p><p>（人類がどこまで限界を突破したか、という意味で語呂としては「限界説」というのも考えましたが、誤解されそうなのでボツ）。<br>&nbsp;</p><p>ただここで、<span style="color:#0000ff;"><span style="font-size:1.4em;">可能性の中身を考える必要</span></span>が出てきました。</p><p>&nbsp;</p><p>禅問答のようになっていきますが、では、可能性とはどんな基準で判断するのか。</p><p>「新しいこと、今までになかったことが歴史として記載する価値基準」</p><p>とはいったものの、</p><p>&nbsp;</p><p>では、私がイワシの刺身とカスタードクリームとイカの塩辛をまぜてメロンソーダに入れたものを、<span style="font-size:1.4em;">「イワシクリームソーダ」</span>と名付けて売り出したとします。</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">「これは人類で初めてやったことだ！」</span></b></p><p>として、歴史にのるでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>・・・あまりにもばかばかしい例えなので、さすがにその答えはすぐわかりますが、</p><p>では最近あった<b style="font-weight:bold;">タピオカティーブーム</b>はどうなのか？</p><p>スイーツの歴史にはのるかもしれないが、普通の歴史にはのせる価値はあるのか？</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">飛行機ならば「機械で人が飛ぶ」</b>ということだし、<b style="font-weight:bold;">スイーツならデザート</b>なので、</p><p>対象がはっきりしています。だから、何が新しいかもわかりやすい。</p><p>それに対して、普通の歴史とは、何を対象にしているのか？</p><p>&nbsp;</p><p>結論から言えば、現代においては、</p><p><span style="font-size:1.4em;">「全人類の平和と幸福の実現」</span></p><p>などという道徳的なものになるというのが、私が直観的に思いついた答えです。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">全人類が幸福になるために大事であったこと</span></b></span></p><p><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">（そしてその目標に向かって努力する際に参考になること）は何か。</span></b></span></p><p>そういう観点から見て、どんなことが過去に新しく試みられ、何が成功し何が失敗したのか。</p><p>それを歴史として記録していくのです。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">今後は、この「全人類が云々・・・」という価値基準も含めて、可能性説と呼ぶことにします。</b></p><p>&nbsp;</p><p>長くなってきたので、いったん区切ります。</p><p>&nbsp;</p><p>＜続く＞</p>
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<link>https://ameblo.jp/qchan2021/entry-12746490923.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Jun 2022 19:41:02 +0900</pubDate>
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<title>歴史とはなにか（5.7）</title>
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<![CDATA[ <p>さて、前回の③の続きです。</p><p>&nbsp;</p><p><a name="_Hlk104575516"><span style="color:#000000;">前回は、</span></a></p><p>以前は×であったことが、しくみ（人間の社会の約束ごと）が変われば〇になる。これが、文系科目の特徴であること。</p><p>そういう点では、歴史という科目も、内容がかわりうる、昨日まで間違いだったものが明日からは正解になることを運命づけられているといえること。</p><p>というところまで書きました。</p><p>&nbsp;</p><p>例をあげれば、地図記号とかもそうですが、国語でも、少しずつ単語の意味が変わっていったりはする。英語もそう。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">歴史が文系科目である以上、学ぶ内容は「真実」「事実」ではなく、「その時学ぶ価値のあること」になる</span>のです。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、（これは今後の伏線として<span style="color:#000000;">書いておくのですが、）</span></p><p><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">昔に比べれば文系科目はより普遍的にはなっている</b></span></p><p><span style="color:#000000;">と思います</span>。</p><p>それは、人間社会が発達したから。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば江戸時代などは身分制度とかがありましたから、</p><p>そこでの文系科目の中身は身分制度を前提としたものになります。</p><p>普遍性としてはどうしてもおかしくなる。</p><p>&nbsp;</p><p>極端な話、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">奴隷制度が正しい、とされていたころの法律は、学んでも直接には意味がない</span></b>でしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、今は基本的人権とか自由や平等といった価値観がかなりしっかりしてきています（男女平等などどこまで実現されているかは別として、理想としては）。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば平等の概念がひっくり返って「不平等の方が正しい」ということにはおそらくならないと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>であれば、そうした普遍性がある程度しっかりした上で築かれている法律や経済、社会のしくみというのは、そんなに大きく変わる可能性は低くなる。</p><p>&nbsp;</p><p>１００年前と現在の１００年間と、現在から１００年後の１００年間なら、</p><p>後者のほうが、ある程度は変化が少ない、つまり、そのまま通じる可能性が高い。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>さて、話をもどします。</p><p>&nbsp;</p><p>文系科目、という以外に、別の観点から見ても、歴史という科目は、非常に内容があやしげになりがちと言ってもいいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">いろいろある社会科の科目の中で、</span></p><p><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">歴史は「王道」</span></b></span></p><p><span style="color:#000000;">というイメージ</span>があります。</p><p>一番幅をきかせているというか。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど、地理、歴史、公民と分けると、</p><p><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">歴史が一番データがいい加減になる可能性が高い。</span></b></span></p><p>&nbsp;</p><p>たとえば地理で、コメの収穫量とかは、正確なデータがでます。</p><p>なにせ、今のことですから。</p><p>それぞれの農産物の生産量の多い県がどこか、これは間違いが起こりようがない。</p><p>&nbsp;</p><p>公民でも、制度上の大きな変化（先ほどの裁判のしくみなど）があれば、</p><p>内容上はかわりますが、その代わり一度起こればそれはそれで、</p><p>「これからはこうですよ」とはっきりしている。</p><p>また、過去の制度でも、「以前はこうだった」という知識としては間違いではない。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">歴史というのは過去のことで、なかなか確かめようがない。</span></b></p><p>ほぼ確からしいとしかいいようがない。</p><p>&nbsp;</p><p>だから、私の頃に習った有名な<b style="font-weight:bold;">「士農工商」</b>は、いったいあれはなんだったのか、ということになる。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">公民の「かつての裁判制度はこうだった」という知識ですらなく、</span></b></p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">「過去にはこう習った」という思い出話でしかない。</span></b></p><p>&nbsp;</p><p>そうなると、</p><p>「士農工商はなかったというが、本当にそうか？またしばらくしたら、『やっぱり士農工商はあった』という話にならないか」</p><p>と疑ってしまいたくなります。</p><p>あくまで、習った時代の、歴史に対する考え方でしかなくなってしまう。</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">それでは、過去の時代の勉強をしているのか、今の（過去に対する）考え方や見方を勉強しているのか、わからなくなる。</span></b></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>あまり書きたくないのですが、非常に切実な例としては、今のウクライナの問題。</p><p>ロシアはあくまで、</p><p>「ウクライナのネオナチから市民を守る」</p><p>「ロシア軍は一般市民や建物は攻撃などしていない」</p><p>と主張しています。</p><p>そうした主張と矛盾する映像が提出されても、「フェイクだ」と一蹴。</p><p>現在、リアルタイムですらこういう状況です。</p><p>もしこの戦争がなんらかの程度でロシアに有利な形で終了したとします。</p><p>そうすると、少なくともロシア国内の歴史書・教科書には、</p><p>上記の主張は「真実」「歴史的事実」として記載されるわけです。</p><p>そのまま２０年、５０年、１００年たったとき、もはや物理的な検証に限界が出てくると（時間が過ぎれば過ぎるほど、当然そうなります）、それは本当に歴史的事実、ということになってしまう。</p><p>「２０２２年に端を発した戦争は、当時のウクライナ国内のネオナチに対してロシアが果敢に介入し、解決した」という「事実」が確定されるわけです。</p><p>それに対して、今現在でもロシアに批判的でない国々も多いわけですから、世界規模での歴史書になると、もしかしたら「２０２２年の戦争に対しては、ロシアが間違っているとはいえないという意見もあり、さまざまな見方がある」とか「ネオナチが実際にいたという意見もある」という記載が出る可能性があるわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>また、<span style="font-size:1em;">実は王道の歴史より、</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">実際の役立ち度としても地理や公民の方が上ではないか</span></p><p>と思ってしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p>一番役立つのは公民でしょう。</p><p>何度も書きますが、裁判制度とか、国会のしくみとかは、小中学校で習ったことがそのまま社会常識として生きます。</p><p>なにかトラブルがあったら弁護士さんに相談すればいいのだな、とみんな知っている。</p><p>逆に、小中学で習わなかったら、そういうことも知らずに社会にでることになる。これは恐ろしいことです。</p><p><span style="color:#0000ff;"><span style="font-size:1.4em;">公民は絶対に習わないといけない。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>地理も、役に立ちます。</p><p>卑近な例ですが、旅行にいったときにそこの名物がなにかということが見当がつく。また、その地域の気候も地理でならうのです。</p><p>現実の生活に密着しています。</p><p>&nbsp;</p><p>それに比べると、歴史はねえ・・・</p><p>旅行に行った時のトリビアとしては役に立ちますが、そのレベルです。</p><p>私としては、それよりもその土地の名物が何かを知っておいたほうが、お土産を買うときにも実際的です。</p><p>&nbsp;</p><p>＊　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊</p><p>&nbsp;</p><p>さて、③の後半をやります。</p><p>歴史を学ぶ意義について。　こちらは簡単にやります。</p><p>&nbsp;</p><p>ここまであいまいにしてきたのですが、</p><p>どうして私は物語文（小説）のときのように、</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">「なぜ歴史を勉強するのか」とか「歴史を勉強するとなんの役に立つのか」</span></b></p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">という問いではなく</span></b><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">「歴史とはなにか」という問い</span></b></p><p>を立ててしまったでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>我ながらここまできて不思議に思ったのです。</p><p>しかし、<span style="font-size:1.4em;">これこそが、歴史の本質</span>なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり、</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">「何を歴史とするか」といえば、</span></b></p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">「意味がある」「役に立つ」というような観点から歴史を決めるに違いない</span></b></p><p>のです。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">社会に役に立たないような単なる事実の羅列は歴史ではない</span>はずです。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば、</p><p>「２０１１年３月１１日１４時４６分に〇〇市の〇〇病院の〇〇号室で生まれた子供の名前」</p><p>というものは、事実として特定はできるでしょうが、それは関係者以外にとって覚える重要性のないことです。</p><p>そうではなくて、「<b style="font-weight:bold;">３.１１</b>」といえば、忘れてならないのは<b style="font-weight:bold;">東日本大震災</b>であるわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>だから、「歴史とはなにか」という問いに答えられれば、</p><p>自然とそのルールによって記述される歴史は「学ぶ意味のあること」になるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">「なぜ歴史を勉強するのか」＝「歴史とはなにか」</span></b>であり、</p><p>きちんとした歴史とは、勉強する価値のあること、ということになるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>＜続く＞</p>
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<link>https://ameblo.jp/qchan2021/entry-12746486005.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Jun 2022 19:09:07 +0900</pubDate>
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<title>歴史とはなにか（5.5）</title>
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<![CDATA[ <p>さて、③まで終わりました。</p><p>④にいく前に、（１）で書いたように、少し寄り道します。③です。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">「　③　ここで少し外れて、</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　　　　文系科目としての歴史や、</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　　　　歴史を学ぶ意味という見方から考えてみます。」</span></p><p>&nbsp;</p><p>まず、文系科目としての歴史、ということについて。</p><p>&nbsp;</p><p>文系、理系という分け方があります。</p><p>理系は算数、理科</p><p>文系は国語、社会科</p><p>&nbsp;</p><p>なんとなくご存じの方も多いと思いますが、私はなんとなく、</p><p>算数、理科が得意だと理系、国語が得意なら文系</p><p>という得意不得意の分け方だと思ってました。</p><p>進路決定の場合は、特に算数が得意かどうかで決まるような気がします。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、本質的にはもう少し深いものがあるようです。</p><p>&nbsp;</p><p>例として２つ挙げてみます。</p><p>&nbsp;</p><p>まず一つ目。</p><p>以前、「<b style="font-weight:bold;">スタップ細胞</b>」なるものがあるかないかという話がありました。</p><p>発見者という人がテレビ会見を開いた時のことです。</p><p>確か、日本全国が注目していました。　何を言うのか？</p><p>&nbsp;</p><p>「スタップ細胞はありまーす！」</p><p>と言いました。</p><p>&nbsp;</p><p>あの時の、見ていた人の反応が、文系理系できれいにわかれたのが印象的でした。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1em;"><span style="color:#0000ff;">文系の人は、その人そのもの、その人の発言のしかたに注目しました</span>。</span></b></p><p>発見者の真摯な表情、訴え方をみて、</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">「あれは嘘をついているとは思えない」</span></b></p><p>と判断する人が多かった。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが、<span style="color:#000000;">私を含めた</span><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">理系の人間は、発見者の訴え方なんか見ていなかった。</span></b></p><p>それよりも、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">新しい実験データ、事実がでてくるかどうかに注目した。</span></b></p><p>結果としてなにもでてこなかったので、「これでは会見を開いた意味がない」と判断しました。</p><p>&nbsp;</p><p>二つ目。</p><p>高校で文理に分かれるとき、数学が一番得意だった友人が、</p><p>「俺は文系にいくぜ。俺は人間に興味があるからさ」</p><p>と言っていました。</p><p>&nbsp;</p><p>当時はいまいちその言葉の意味がピンときませんでした。</p><p>今は、本質的な言葉だと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>前置きが長くなりました。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#ff0000;">文系科目とはなにかというと、</span></span></p><p><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#ff0000;">人間の世界の約束事・仕組みをまなぶ教科</span></span></p><p>であるといえます。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#ff0000;">対する理系科目は、</span></span></p><p><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#ff0000;">人間以外の、自然の世界の約束事・仕組みをまなぶ教科</span></span></p><p>になります。</p><p>&nbsp;</p><p>理系科目とは、そういう意味では、割と普遍的なのですね。</p><p>人類が存在しない、はるか昔の星や生物の成り立ちとか、</p><p>人間がいなくても起こりうる物質同士の反応など。</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">人間不在の世界でも通用することを学ぶ。</span></b></p><p>これを難しい言葉で<span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">自然科学</b></span>という。</p><p>&nbsp;</p><p>対して文系科目とは、言語である言葉もそうですが、</p><p>人間の世界の約束事を学ぶ。</p><p>法律も、経済もそう。</p><p>これを難しい言葉で<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">社会科学</span></b>という。</p><p>&nbsp;</p><p>だから、文系科目を勉強すると、人間の世界（社会）がどういう仕組みで動くか、ということに詳しくなれるといえばなれる。</p><p>一方で、人が作り上げた世界なので、人によって簡単にその内容がかわってしまう。</p><p>そういう意味では、自然科学より、普遍性には欠ける。</p><p>&nbsp;</p><p>「普遍性に欠ける」というと反発される方も見えるかもしれませんが、私から言わせると、どうしてもそういう面があります。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば地図記号とか裁判のしくみとかでも、決まりを変えてしまうと、今までの知識が通用しなくなるわけです。</p><p>それに対して、一定の温度の真水１Lに対してとける塩の量というのは人間のルールで変えることができません。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#0000ff;">「それでも地球は回る」とは言えるが、</span></span></b></p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#0000ff;">「それでも郵便局の地図記号は『〒』だ」とは<u style="text-decoration:underline;">言えない</u></span></span></b></p><p>わけです。</p><p>&nbsp;</p><p>スタップ細胞があるかないかのテレビ会見。</p><p>これも、考えてみれば、自然科学と社会科学の分野の取り違えから来ています。</p><p>&nbsp;</p><p>「スタップ細胞」なるものは、人間の世界のことではない。</p><p>自然の世界でのことです。</p><p>&nbsp;</p><p>だから、<span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">それがあるかないかというのは、自然の世界の言葉＝「データがあるかどうか」で判断しないといけない</b></span></span>わけです。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが、テレビ会見から「やはりスタップ細胞はあると思う」と判断した人の根拠は、会見をした発見者の人の<span style="font-size:1.4em;">訴え方</span>でした。</p><p>それは、</p><p><span style="color:#0000ff;"><span style="font-size:1.4em;">「人間同士はこういう言い方をするときは真実をのべていることが多い」</span></span></p><p>という人間の世界での約束事だったわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>自然の世界でのことに、人間の世界での約束事を当てはめようとしてもうまくはいきません。</p><p>&nbsp;</p><p>逆もまた同じです。</p><p>&nbsp;</p><p>例えば、昨今の経済学というのはなにやら難しい数式を駆使して行う分野のような印象があります。</p><p>しかし、私のごく個人的な考えとしては、人間の世界のことですから、自然科学の方法（数学）を純粋に当てはめるのは限界があると思われます。</p><p>&nbsp;</p><p>また、いわゆる「理系」の人は人の気持ちがわからない、頭が固いとかいわれることがあります。</p><p><b style="font-weight:bold;">「ぼく、オタリーマン。」</b>というマンガをかいたよしたにという人が、<b style="font-weight:bold;">「理系の人々」</b>というマンガも書いていますが、理系の人間は「で、結論は？」という感じですね。理屈があれば人は動く、と思うところがあるというのは、自然相手のやり方が人相手にも通じると思ってしまうところにあると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>そういうことに気を付けるだけでも、かなり多くの勘違いが防げると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、歴史に話をもどすと、歴史は文系科目である社会科の一分野です。</p><p>よって、人間の世界のしくみを学ぶ教科となります。</p><p>ところが上記で書いた通り、人間の世界のしくみというのは、その時その時の人間のやり方によって変わってしまうわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>それについて典型的な例としては、裁判員制度。</p><p>私たちの時にはそんなものはありませんでした。</p><p>すると、<span style="color:#0000ff;">当時、「裁判とは」というテストで、仮に「一般の市民も判決に加わることがある」なんて選択肢を選んだら、完璧に×</span>でした。</p><p>&nbsp;</p><p>あるいは、成人の定義。ちょうど、２０歳から１８歳にかわりました。</p><p>これも、極端にいえば、<span style="color:#0000ff;">２０２１年度までは、「成人は２０歳から」の選択肢を選ばないと間違い</span>になっていたわけです。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#ff0000;">以前は×であったことが、しくみが変われば〇になる。</span></span></p><p><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#ff0000;">これが、文系科目の特徴</span></span>です。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、歴史も文系科目である以上、学問としての「真実性」には限界があることを免れないと言えます。（長くなったので次回に続く）</p>
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<link>https://ameblo.jp/qchan2021/entry-12745082847.html</link>
<pubDate>Fri, 27 May 2022 21:58:20 +0900</pubDate>
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<title>歴史とはなにか（５）</title>
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<![CDATA[ <p>さて、（１）で書いた、</p><p>&nbsp;</p><p>「　<span style="font-size:1em;">①&nbsp;&nbsp; 歴史とはなにか</span>ということについて、よくある認識をあげてみます。</p><p>　　そしてそれらの認識についてそれぞれ、私なりに納得のいかない理由を書いてみ</p><p>　ます　」</p><p>&nbsp;</p><p>というのがやっと終わりました。</p><p>&nbsp;</p><p>要約すると、</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#0000ff;">年表説</span></span>だと、「なにを大事にして年表にのせるのか、その基準がわからない。ボランティアの行為よりもヒットラーの方がのせる価値があるというのが納得いかない」</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#0000ff;">教訓説</span></span>だと、「平家を滅ぼした源氏や、豊臣家を滅ぼした家康のエピソードなどから見ると、反道徳的な教訓を得てしまいそうなところが納得いかない」</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#0000ff;">ルーツ説</span></span>だと「現代社会のことを知るのに、本当に平安時代とかまでさかのぼらなければいけないのか納得いかない。また、現代社会のことを知るのに必要なことだけ学んで、必要でないと判断したことは切ってしまっていいということになりかねないということが納得いかない」</p><p>&nbsp;</p><p>となります。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>さてここから②に入ります。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">「　②&nbsp;&nbsp; 次に歴史とはなにかについて、</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　　ネット検索した結果をとりあげます　　」</span></p><p>&nbsp;</p><p>「読解力とは何か」のときもそうでしたが、</p><p>今回も、自分の頭で勝手に考えて、ある程度の結論になってから、</p><p>「あれ？　世間ではどう考えているんだろう」と調べるくせが私にはあります。</p><p>今回も、自分なりの答えをある程度だしてから、慌てて検索しました。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが、ネット検索すると、<span style="color:#0000ff;"><b style="font-weight:bold;">意外にも「歴史とはなにか」ということについて、種々雑多な意見がないのです。</b></span></p><p>&nbsp;</p><p>あれ？　みんな、あんまり「歴史ってなに？」「なんでこんなの覚えなきゃいけないの」とか、疑問に思わないのかな？</p><p>&nbsp;</p><p>一つだけ、真正面から答えたものがありました。</p><p>そして、それ一つだけ、といってよさそうでした。</p><p>かなり昔の本で、<b style="font-weight:bold;">Ｅ.Ｈ.カー</b>という人の<b style="font-weight:bold;">「歴史とはなにか」</b>という本です（岩波新書）。</p><p>&nbsp;</p><p>確か、子どものころ、自宅の本棚に置いてあったな・・・ちょっとめくったが、それっきりだった。今でも通用するんだ・・。</p><p>それはさておき、そこにのっていた言葉は、</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;"><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.96em;">「歴史は現在と過去の対話である」</span></b></span></p><p>&nbsp;</p><p>と書いてありました・・・・・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>なるほど！</p><p>&nbsp;</p><p>全体的に見れば、私の答えと同じでした。ある意味では安心。</p><p>そして、別の意味で、半分安心し、半分苦笑。</p><p>&nbsp;</p><p>だって、</p><p><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">「歴史は現在と過去の対話である」では、</span></b></span></p><p><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">言い方はなんかかっこいいけど、ほとんど理解不可能</span></b></span>です。</p><p>&nbsp;</p><p>これだけで「おおっ、そうか！」と納得できる人なんていないと思いますよ。</p><p>それが苦笑の理由。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、安心というのは、「歴史とはなにか」について、カーさんとやらがすごくわかりやすく、私よりわかりやすく説明してくれれば、</p><p>「あちゃー。これなら、『この本読んで』で終わっちゃうよ」</p><p>になるところでした。</p><p>&nbsp;</p><p>これではわからないだろうから、私が書くことに意味がでてこようというもの。</p><p>それが安心の理由です。</p><p>&nbsp;</p><p>私が④で長々と、しかしできるだけわかりやすく書いて、その結論として最後に、</p><p>「・・・というわけで、これを一言でいえば、歴史とは現在と過去の対話、という言い方もできると思います」</p><p>とつなげれば、きれいにまとまります。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>以上で、②はおしまいです。</p><p>&nbsp;</p><p>②&nbsp;&nbsp; の結論としては、</p><p>・意外にも、表向きは「歴史とはなにか」について、それほどいろんな意見があるわけではないよう、ということ。</p><p>・そんな中で、カーさんという人の昔の説明が今も生きているようだということ。</p><p>それが私の考えと矛盾しなさそうであるということ。</p><p>&nbsp;</p><p>以上です。　（続く）</p>
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<pubDate>Tue, 24 May 2022 18:11:50 +0900</pubDate>
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