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<title>ありの道ホテルや、その他、いろいろ考察</title>
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<description>ありの道ホテルや、その他、いろいろ考察</description>
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<title>カーボンブラック卸について説明＆紹介</title>
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<![CDATA[ 京野　　失礼ですが、奥さんは、小倉三郎君のお姉さんぢやいらつしやいませんか。<br>夫人　　いゝえ。<br>京野　　さうですか。それはどうも……。小倉といふのは僕の友人なんですが、丁度その姉さんが土屋といふ姓になつてゐるといふ話で思ひ出したんです。<br>夫人　　土屋なんていふのは、ざらにありますわ。<br>京野　　さうでせうか。でも、同胞のやうに似てゐるといふのは、さうざらにはありませんよ。また、失礼かも知れませんが、小倉つていふのは、奥さんそつくりですからね。<br>夫人　　無理に似せておしまひにならなくつても、ようござんすわ。御退屈でしたら、お話のお相手ぐらゐ、してさしあげますわ。（腰をおろす。笑ふ）<br>京野　　いやだなあ、さう皮肉に出られちや……。しかし、小母さんだつておんなじレコードには聴き飽きてらつしやる筈ですよ。<br>夫人　　ちよつと、お待ちなさい。人のことを小母さんだなんて、あなたは、いつたい、おいくつ？<br>京野　　僕、二十一です。小母さんは？<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/qimw2avc/entry-11442089705.html</link>
<pubDate>Fri, 04 Jan 2013 20:23:52 +0900</pubDate>
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<title>ブラックジャックによろしくについて説明＆紹介</title>
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<![CDATA[ 異教韃靼人、カルマック族、及び蒙古人は、奴隷を使用せず、そして一般により［＃「より」に傍点］平和な無害な生活を送り、彼らの唯一の富を成す家畜と家禽の生産物で満足している、と云われている。彼らは掠奪のために戦争をすることは滅多にない。そして以前の攻撃に対する復讐をする場合以外には、その隣人の領土に滅多に侵入しない。しかしながら彼らには破壊的戦争がないわけではない。囘教韃靼人の侵入が、彼らをして、不断の防禦と復讐とを余儀なからしめる。そしてカルマック族と蒙古人の近親種族の間には争闘が存在しているが、これは支那の皇帝の巧妙な政策に煽動されて、これら諸民族のいずれかが全滅に瀕するほどの敵意をもって、行われているのである１）［＃「１）」は縦中横、行右小書き］。<br>アラビア及びシリアのベドウィーン族は、大韃靼の住民よりも安穏には生活していない。牧畜状態の性質そのものが戦争に対する不断の機会を与えるように思われる。ある時期に一種族が用いる牧場はその所有地の一小部分でしかない。一年の間に広大なる領土が相次いで占有される。そしてこの全体はその種族の年々の生活資料を得るために絶対に必要なのであり、そして所領と考えられているから、それをちょっとでも侵害すれば、たとえ種族が非常な遠隔地にいても、正当な戦争理由であると主張される１）［＃「１）」は縦中横、行右小書き］。同盟と近親関係とがこれらの戦争をより［＃「より」に傍点］一般的ならしめる。流血を見れば、それを贖うには、より［＃「より」に傍点］多くの血をもってしなければならぬ。<br>
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<link>https://ameblo.jp/qimw2avc/entry-11431809047.html</link>
<pubDate>Fri, 21 Dec 2012 18:16:54 +0900</pubDate>
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<title>スケール製造について説明＆紹介</title>
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<![CDATA[ だが少くともこの感覚は動物的な性能――本能［＃「本能」に傍点］――ではないであろう。そうすれば之は一つの教育されたる素質――教養［＃「教養」に傍点］――だということになるであろう。処が教養は全く一つの歴史社会的条件の所産でなければならない。そこで吾々はこう問わねばならなくなる、如何なる歴史社会的条件が歴史的感覚を完成するかと。かかる条件を充す社会形態は併し、現在に於ては［＃「現在に於ては」に傍点］、一つの進歩的・変革的なる階級［＃「階級」に傍点］なのである。<br>　実際、人々は見るべきである、茲では歴史的感覚――この具体的論理能力――のための素質が比較的欠乏していることや、又その教育が不完全であるということが、階級意識［＃「階級意識」に傍点］によって如何に補われているか、という一つの事実を。比較的凡庸な且つ無教育な一介の労働者は、往々にして、大学教授達よりも、又大新聞の顧問達よりも、如何に容易に真理への正常な感覚を持つことが出来るかを。――それであるから、時代錯誤の虚偽が無意識的であるのは外でもない、それが階級性を持った虚偽、階級的虚偽［＃「階級的虚偽」に傍点］であるからである。時代錯誤者が真理の階級性を何等かの意味ででも否定しようと欲するのは、であるから偶然ではない。それは必ずしも彼等の無知からではない。<br>　時代錯誤は、無意識的であるが故に、自らを正当化し得るという期待を有つことが出来る（この虚偽が組織的で執拗である所以は之である）。そこで即ち人々は論理［＃「論理」に傍点］を完全に非歴史的［＃「非歴史的」に傍点］なものとしようと欲する。
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<link>https://ameblo.jp/qimw2avc/entry-11419059470.html</link>
<pubDate>Mon, 03 Dec 2012 17:42:28 +0900</pubDate>
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<title>井村昭治や、その他、いろいろ考察</title>
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<![CDATA[ だが此の際、意識（個人）の概念も亦、マルクス主義によって、従来のものから根本的に変革されなければならない。従来の個人的意識［＃「個人的意識」に傍点］はもはや此の際、そのままでは意識概念として役立たないことが見出される。意識は個人が持つことに疑いはないとしても、その個人が吾々によれば、もはや個人としての個人ではなくして、社会人としての個人でなければならない。そうすれば個人の意識も亦、もはや個人的意識としての個人意識ではなくて、何か社会的意識［＃「社会的意識」に傍点］としての個人意識でなければならなくなる。そればかりではない、個人を主体とする代りに、却って個人を超越した何かの社会形態――階級とか身分とかその他の集団とか――を主体とするような意識も、そこでは考えられることが出来、或は考えられねばならなくなるかも知れない。意識は個人という鎖から切り離され、個人的意識［＃「個人的意識」に傍点］の概念から離脱しなければならない。意識は、たとい夫が個人の意識［＃「個人の意識」に傍点］であろうとも、個人的意識［＃「個人的意識」に傍点］の概念によって把握されてはならない。意識は何かの意味で社会的意識［＃「社会的意識」に傍点］――尤も之は社会に就ての意識や社会が持つ意識とは限らない――でなくてはならない。吾々の社会概念による社会［＃「社会」に傍点］が、実質的に結び付くことの出来る処の意識［＃「意識」に傍点］は、何かこのようなものとして理解されねばならないのである（第一章参照）。<br>　さて、マルクス主義乃至唯物史観による、社会と意識との関係は、既にプレハーノフによって一応定式化せられた。社会構造に於ける基底から上層建築［＃「上層建築」に傍点］への展開は、彼に従えば、
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<link>https://ameblo.jp/qimw2avc/entry-11413263735.html</link>
<pubDate>Mon, 26 Nov 2012 05:08:22 +0900</pubDate>
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