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<title>メキシコ在住日本人ブログ</title>
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<description>このブログでは居住地のメキシコから楽しい出来事を日記風にお届けします。</description>
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<title>メキシコの建築事情その１１</title>
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<![CDATA[ 前回まで南米への日本人の移民の歴史について語らさせていただきました。おかげ様でたくさんの方からご感想をいただきました。どうもありがとうございました。　また別の機会に異なった視点から移民の歴史について再度触れたいと思っていますのでどうぞお楽しみにしていただければと思います。<br><br>ここ最近、メキシコ国外に出張することが多いのですが、旅先でお会いする方々とお話する際に必ず話題になることがメキシコのテキーラについてです。テキーラについてかなり尋ねられましたので皆さんにとっても興味深いテーマだと思いましては今回はこのテーマについて語らさせていただければと思います。アルコールが好きな方でもお飲みになられない方でも興味を持っていただければ幸いです。<br><br>テキーラの話の前にみなさんはお酒についてよくご存じですか？私は飲むのは好きなのですがあまり詳しく知らなくていつも飲み仲間に教えてもらっています。<br>以下まずお酒についてお話させていただきます。<br><br>お酒には醸造酒と蒸留酒があるのはご存知かと思います。<br><br>醸造酒は糖分に酵母菌を加えアルコール発酵させたお酒ですね。<br>果実などを原料とする場合はすでに糖分ですので酵母を加えるだけで発酵できます。<br>ワインなどがそうですね。<br>コメや麦など穀物を原料とする場合は発酵の前に糖化する必要がありますので発芽させたりカビを加えたりしてデンプンを糖化させた後に発酵させアルコールを抽出します。<br>日本酒、ビールなどがいい例ですね。<br>これらの醸造酒はかなり古代からあったようです。<br><br>さて、蒸留酒は日本酒、ビール、ワインなどの醸造酒と比べますと新しい酒で広く知られるようになったのは１１-１２世紀頃のようです。<br>蒸留酒は醸造酒を熱して沸点の違いを利用して水よりも低い沸点のアルコールを気化させ、さらにそれを冷却して液化させ、もとの発酵液よりもアルコール濃度(度数)の高い液体となったものです。<br>ビール（状のもの）を蒸溜すればウイスキーに、ワイン状からブランデー、日本酒から泡盛、焼酎などが例です。<br>蒸留酒のもっとも古いものは中国の白酒(パイチュウ)、中近東のアラックではないかと言われていまして、特に中国では宋の時代(10～13世紀)に醸造酒より長期保存がきくということで人気があったようです。<br>日本では14世紀に沖縄に蒸溜技術が伝わり、泡盛の製造がはじます。その後、九州で焼酎がつくられようになりました。<br><br>ヨーロッパでは中世になってから数々の蒸溜酒が生まれていきました。<br>フランス、イタリア、スペインなどのブランデー、アイルランドやスコットランドのウイスキー、ロシアやポーランドのなどのウオツカ、北欧のアクアヴィット、オランダのジュネヴァ(ジン)などさまざまな土地で、入手可能な原料を使って個性的な香味が誕生します。<br>スペインの大航海時代には蒸溜技術がヨーロッパから海を渡り、カリブの島々や新大陸に伝播しラムが生まれます。キューバーのモヒートやヘミングウェイが愛好したダイキリなどのラム酒ベースのカクテルは有名かと思います。<br><br>そしていよいよメキシコのテキーラが誕生します。<br>テキーラの原料は竜舌蘭（マゲイとも言われます）の一種、アガベ・アスール・テキラーナの茎です。　（メキシコだからといってサボテンが原料ではありません。）<br>この植物アガベですがアフリカのアロエに似ておりまして茎の部分が強大な球のパイナップル形状になっています。<br>（スペイン語でパイナップルをピーニャといいますがこの茎の部分も同じ名称で言われています。）<br><br>さてテキーラの歴史は以下のように言われております。<br><br>話は18世紀半ばに遡ります。<br>スペイン統治時代のメキシコにおいて西北の地方のシエラマドレ山脈で山火事がありました。ハリスコ州テキーラ村にほど近いアマチタリャの焼け跡には、黒く焦げたマゲイがごろごろと転がっているほどの大惨事となりました。ところが、あたり一面、独特の甘い芳香が漂っています。不思議に思った村人がひとつのマゲイの球茎を手で押しつぶすと、チョコレート色の汁がにじみでてきます。汁をなめてみると、とてもおいしい甘味がありました。<br>マゲイの球茎が山火事の熱で砂糖を生みだしていたのです。<br><br>これを知ったスペイン人がこの汁を絞り、発酵、蒸溜してみると、素晴らしく格別な蒸留酒が誕生したというわけです。<br>そして蒸溜所が建てられたテキーラ村がこの蒸留酒テキーラの本場となっていきました。<br><br>このテキーラ村は私の住んでいますハリスコ州にありまして中心地グアダラハラからテキーラ村への見学ツアーがあります。<br>（テキーラの飲みながら酔いしれるだけでなく、メキシコならではの催し物たくさんで最高に楽しい旅の思い出になりますので是非お勧めです。）<br><br>ただし、竜舌蘭の茎を原料にした醸造酒はすでに存在していました。"月のピラミッド"で知られる世界遺産に登録されている古代都市テオティワカン。その西暦200年頃に竜舌蘭の一種、アガベ・アトロビレンスの搾り汁を発酵させた醸造酒のプルケ（Pulque）がつくられていたとされます。そして新大陸発見とともに蒸溜技術を持ち込んだスペイン人は、すぐにプルケを蒸溜してメスカル（Mezcal）という蒸留酒を作りました。メスカルについての最古の文献は1538年の課税に関する記録だとされています。<br><br>よって現在でもアガベからつくられる蒸留酒はメスカルと呼ばれ、その中でもテキーラ村を中心とする特定地域で栽培されたアガベ・アスール・テキラーナを原料として、特定地域で蒸溜したものだけをテキーラと特別に呼んでいます。<br><br>さてそのテキーラですが、長い間メキシコ国内で愛される地酒の域を脱することありませんでした。国境を超えてアメリカに、そしてヨーロッパにテキーラが出荷されたのは1873年になります。それでも広く愛飲されるまでには至らなかった。実際、隣国のアメリカへ正規ルートで輸出されるようになったのは1942年以降のことです。<br><br>注目を浴びるようになったのは1949年、テキーラベースのカクテル"マルガリータ"が全米カクテルコンテストで入選し、まずファッショナブルな舞台に登場しました。<br>そしてなんといっても世界中で親しまれるスピリッツとなる最大のきっかけが1968年開催のメキシコ五輪です。<br>この大会でメキシコの文化が発信されるとともに、テキーラの輸出量も伸びていきます。<br>1972年にはローリング・ストーンズのミック・ジャガーがツアー中のメキシコ公演で、カクテル"テキーラ・サンライズ"の熱烈なファンとなった情報が世界のバーを駆け巡ります。翌年にはイーグルスのセカンド・アルバムの中に「テキーラ・サンライズ」という曲が収められ、カクテルやスポーツ、音楽を通じてテキーラ・ファンが拡大していきました。<br>そして、それ以降はウオツカ、ジン、ラムと並び、蒸留酒ビック4として世界で愛されつづけいます。<br>2006年にはテキーラの産地テキーラ村は「テキーラの古い産業施設群とリュウゼツランの景観」として世界遺産に登録されました。<br><br>このメキシコ産テキーラを国内外から守るため、メキシコ政府は1994年に収穫から瓶詰めに至るテキーラの生産過程全般の基準を定め、違反者に対して法的措置を取る事が出来る非営利団体としてテキーラ規制委員会(CRT：Consejo Regulador del Tequila A.C.)が設立されました。<br>全てのテキーラメーカーはCRTの認可が必要となり、テキーラのラベルには原産地呼称を証明するCRTの記載が印刷されています。<br><br>現地の人しか知られていない情報ですがこの政府の法律と規制委員会の設置のきっかけが中国人による悪質な事件だったようです。<br>テキーラの商売が美味しいとわかった中国人は原料を完全も変えた、偽テキーラを格安の値段で売りさばきます。一見テキーラに見え値段も格安なのでバー等に浸透します。ここから事件が起きます。<br>この偽テキーラを飲んだ客が目が見えなくなる、体を壊すなどの事件が相次いで起こり、原因を辿ってみるとこの中国人によるテキーラのコピーが問題だったということがわかりました。<br>これ以降政府が本腰になってテキーラを守ることになったというわけです。　（今でもメキシコ人は中国人にネガティブなイメージが残っているようです。）<br><br>さてこの最高の蒸留酒テキーラですが樽で熟成させ寝かせる期間によって種類の名称が変わってきます。　<br>製造されすぐに瓶詰めされたものはブランコ<br>(Blanco/Silver)。  　<br>2ヶ月～1年未満樽で寝かせたものはレポサド(Reposado/Aged)<br>1年以上またはレポサドよりも寝かせたものであれば<br>アニェホ(Añejo/Extra Aged)<br>3年ほど寝かせたものであれば<br>エクストラ・アニェホ(Extra Añejo/Ultra Aged)<br><br>寝かせれば寝かせるほど琥珀色を呈してきますが樽の香味が加わりブランデーのようになってきます。<br>（樽はカナダから特定の木を特別に輸入しているとのことです。）<br><br>テキーラ独自の風味を味わいたい場合はブランコ、レポサド、高級感を味わうにはアニェホなどがお勧めです。<br>もしテキーラをご注文する機会がございましたら上記の種類に注意してみていただければと思います。風味がそれぞれ異なっています。<br>米国でのバーなどで行きますと米人がテキーラのショットをしたがりますがバーテンダーが出す大抵のテキーラは安めのブランコです。<br>味わうというより強い酒を一気飲みするための目的だからだと思います。　<br>ちなみに最近はかなりの銘柄がありどれもいい味を出しています。<br>私のオススメの銘柄はドン・フリオ（Don Julio）、ホセ・クエルボ（Jose Cuervo）、 エル ヒマドール（el Jimador）、エラドゥーラ（Herradura）などです。<br><br>メキシコにお越しの際は是非美味しいテキーラを満喫していただければと思います。<br><br>以上、長くなりましたが今回はテキーラについてでした。<br>次回はまた別のテーマについて語らさせていただきます。<br>どうぞお楽しみに！！<br>
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<pubDate>Sun, 23 Aug 2015 01:51:04 +0900</pubDate>
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<title>メキシコの建築事情その１０</title>
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<![CDATA[ 前回は日本人の移民の歴史についてでしたがが本日もその続きを語らさせていただきます。<br><br>明治になってから急増する人口問題と貧困問題を解決する方法として政府が海外殖民を模索し続けます。<br>（ちなみには現在の日本は全く逆に人口不足と移民受入国ですが…）<br><br>最初の移民が明治元年のハワイ移民、そしてハワイからアメリカ西海岸に多くの日本人が渡るのですが白人による排日運動の嵐で移民先を南米に目を向けていきます。<br><br>まずはアメリカの代替国としてメキシコが選ばれます。<br>１８９７年、当時明治政府の外務大臣も務めた榎本武揚による榎本殖民団がメキシコ　チアパス州のコーヒー農園の殖民地開拓で渡りましたが失敗に終わります。その後、鉄道開発、鉱山開発の労働者として多くの日本人がメキシコに移民してきますが、彼らの多くはメキシコを経由して条件の良い米国に渡る人が後を絶たなかったため、１９０７年に米国はメキシコからの入国を禁止します。メキシコ移住はその後激減しますが約１０年間、メキシコへの移民数は１万人以上と言われています。<br>ちなみに現在のメキシコに住んでいる日系人は１万２千人と言われていますので彼らの祖先の大部分はこの時期に来ているのかもしれません。<br><br>話は少しそれますが、今でも中南米の貧しい国からメキシコを経由して多くの人たちが米国へ違法侵入しようとしています。<br>米国でより多く稼げ断然リッチな生活が送れる、あるいは残された家族に送金するのを夢見て危険を犯して入国しようとします。<br>上手く米国に入れた人もいますが大部分はその間、暑さと水分食料不足で死んでしまうか、移民局、警察に捕まえられるか、あるいはマフィアによって騙されたり殺されたりするケースが後を経ちません。国境付近には麻薬組織によって作られたトンネルもよく発覚しています。<br><br>ベン・スティーラーのThe heartbreak kidsという映画をご覧になられましたか？<br>主人公のベン・スティーラーがハネムーンでメキシコのロスカボスに行くのですが現地で本当に愛する人に出会い、新婦と別れるのですが彼女にパスポートを引き裂かれてしまいます。<br>そこでメキシコ人たちと一緒に違法的に米国に侵入するシーンがあるのですがまさに現在でもある様子です。<br><br><a href="https://www.youtube.com/watch?v=ON1-SohDqDg" target="_blank">https://www.youtube.com/watch?v=ON1-SohDqDg</a><br><a href="https://www.youtube.com/watch?v=jCHXHzoRQ_Q" target="_blank">https://www.youtube.com/watch?v=jCHXHzoRQ_Q</a><br><br>当時の我々祖先の日本人たちも同じようだったのだと想像できます。<br>実際何度も米国に渡ろうとトライしながら結局行けずメキシコに残った人たちの日本人の町が国境付近メヒカリという場所に存在するという話を前回させていただきました。<br><br><br>話をまた歴史に戻します。<br><br>次に移民社会はペルーに目を向けます。<br>当時のペルーは貧富の格差がある階級社会でしたが奴隷制度廃止や中国人移民の禁止で代替労働者を求めていました。1899年、第一回の日本人移民790人が農業労働者としてペルーに渡り次々に集団移住が始まります。その後、ペルーには1923年まで出稼ぎ移民として約2万1,000人が渡りましたが、奴隷寸前の過酷労働のため、ペルー移民の中には隣国のブラジル、ボリビア、チリ、アルゼンチンへ転住する者も後を絶たなかったようです。　<br>（来月久しぶりにペルーにいってきますのでもう少し詳しい歴史を知ることが出来ればと思っています。）<br><br>以上、ここまで前回触れさせていただきましたがここからはブラジル移民についてです。<br>私が初めてブラジルを訪れた時の印象はここは本当の意味の人種のるつぼだなということです。ヨーロッパ人、アジア人、黒人が完全に差別なく交じり合って出来た移民の国といった感じです。アメリカをみますと各人種同士が独立のコミュニティーを形成し、そこにはお互いに差別があったりするのですが（特に白人による差別）此の国はそれがなく平等に存在しているなと思いました。もちろん、貧富の差と階級による差別は他の途上国同様すさまじいのですが人種同士の偏見と差別は少ないように感じました。　<br><br>話をまた戻します。<br>日本人の米国への移民制限である日米紳士協定を結んだ翌年１９０８年、笠戸丸による第1回ブラジル移住が始まり、約800名がサンパウロ州コーヒー農園に入植しました。<br>その後、米国の排日移民政策の強化と共に、日本人移民は北米から南米へと向かい、国民の海外移住熱も高まりブラジル移住はこの後20年間急増していきます。<br>１９２４年には米国で排日移民法成立が成立し、日本人による米国への移民が完全禁止されたことにより、政府は初めて国策としてブラジル移民事業をスタートさせます。<br>（ちなみにこの排日移民法が反米感情を生じ、太平洋戦争につながったという人もいます。<br><br>１９２８年には大型・新鋭の南米移民船「さんとす丸」を就航させ日本政府、移民会社、船会社の連携によるブラジル移民事業が本格化していきます。1929年にはブラジル拓殖組合が設立され、ブラジルに自営開拓移民のための移住地が次々に建設され、1930年代にはブラジル移住は全盛期を迎えます。<br><br>サントスは首都サンパウロの港の名前です。　以前訪れた時、港に最初に到着した日本人の記念碑がありました。　今でも現地の日系人の間で最初の移民団の歴史には敬意を払っているとのことです。<br><br>1933年～1934年、ブラジルへの日本人移住者は年間2万人を超え、ヨーロッパ人の年間移住者より多くなり、日本人移住を制限する動きが活発化していきます。急増する日本人移民に対してブラジルは1934年「移民二分制限法」を成立させ、事実上日本人移民に門戸を閉ざしました。国策移住が確立してわずか10年。ブラジル国策移住も北米と同じように排日の嵐の中でその幕を閉じます。<br><br>その後、政府はパラグアイへの移民も始めようとしますが満州事変、第２次世界対戦となり移民の歴史が途絶えます。<br><br>南米のどの国も親日派ですが其の中でもブラジルは特別です。<br>そこには確実に日本人が認められ、日本文化が認められ、高い地位が確立されています。<br>当初は農業移住した移民、さらにまったくの原野に開拓移民として入植した移民はたいへんな苦労をしましたが、二世や三世が農地拡大、医療、技術、法曹、政界など多方面に進出するようになり、日系人の地位は高まりました。<br>もちろん、１５０万人日系人の間では勝ち組負け組が存在するのは事実ですが基本的に日本人は尊敬の目で見られています。<br>人口比に比例して社会的成功者が多いのが理由だと思います。。近年は混血がすすみ、純粋な日系人というより、三世以降はブラジルへの完全同化が進んでいます。<br><br>さて1941年の太平洋戦争開始により、アメリカ大陸（北米、南米)への移住は中止されました。ラテンアメリカ各国はアメリカ合衆国に同調し、対日国交断絶や宣戦布告をし、強制収容所に送還されたり、日本人財産の没収、日本語学校の閉鎖等の処置がなされ日系人の方々は大変な苦労をされてようです。<br><br>日本の戦後移住は日本が国際社会に復帰した翌年の1952年に民間主導で再開されました。この移住再開は、祖国日本の荒廃と飢餓状態を憂えたブラジル、アルゼンチン、パラグアイ等の南米日系社会が現地政府に日本人移住者枠を要請し、日本政府の渡航費の貸し付けで実現したものです。　その後日本政府は中南米各国(ラテンアメリカ)と移住協定を結び、海外移住を促進しました。移住協定を結んだ国はボリビア(1956年)、ドミニカ共和国(1956年)、パラグアイ(1956年)、ブラジル(1960年)、アルゼンチン(1961年)の5カ国ですがこれらの国には、日本政府により大規模な日本人集団移住地が建設されました。<br>１９５０～６０年は移民ブームで、農業移民として最盛期は年間7,000人弱が渡航しましたが、日本の高度成長による国内労働力不足で移住ブームは終焉を迎えます。<br>戦後移住再開から1993年までの移住協定締結5カ国への移住者総数は、ブラジル5万人、パラグアイ7千人、アルゼンチン３千人、ボリビア２千人、ドミニカ共和国１千人と言われています。<br><br>戦前・戦後まもなく、海外移住した一世たちは当初「出稼ぎ」意識が強かったと思います。「成功して故郷に錦を飾る」ことを夢みて海を渡ったが、戦争や現地の事情などで帰国できず、多くのものはそのまま現地に定住しました。　<br>中米、南米のどこの国に行きましても我々日本人に優しく尊敬の目で見てくれているのはそういう人たちの頑張りのおかげだといえるのではないでしょうか？<br>日本は完全に豊かな国になりましたが貧しかった時代我々の祖先が大変な思いをして家族を国を守ろうとした歴史を知るのは大切なことだと思っています。<br><br>次回は歴史から離れて建築の話に戻りたいと思いますのでどうぞお楽しみに！<br>
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<link>https://ameblo.jp/quickrendering/entry-12057169403.html</link>
<pubDate>Sun, 16 Aug 2015 01:49:27 +0900</pubDate>
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<title>メキシコの建築事情その９</title>
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<![CDATA[ さてみなさんに質問ですが次の数字は何だと思いますか？<br><br>（１位）ブラジル　1,500,000<br>（２位）米国　1,204,000<br>（３位）ペルー　100,000<br>（４位）カナダ　98,000<br>(５位)　オーストラリア　41,000<br>（６位）アルゼンチン　34,000<br>（７位）メキシコ　20,000<br><br>答えは世界に住んでいる日系人の数です。<br>日系人という言葉の定義は“日本以外の国に移住し当該国の国籍または永住権を取得した日本人、およびその子孫のこと”で現在約300万人以上存在すると推定されています。<br>建築家で言えば、日系２世のアメリカ人、ミノル・ヤマサキ、メキシコで言えばタロウ・ソリージャ、ブラジルで言えばルイ・オータケなどが真っ先に浮かんでくるかと思います。<br><br>我々日本人の先祖の方々が世界各地に移民し、その子孫たちが大部分を占めると思いますが上記数値に代表されるように南米には日系人がたくさんおられます。<br><br>そこで今回はメキシコをはじめとする南米の日系人の歴史、つまり日本人の移民の歴史について語ってみたいと思います。<br><br>千葉県の外房に御宿という場所があります。日本とメキシコの歴史の始まりを語るとき、この場所が非常に重要な歴史のきっかけであることがわかります。<br>江戸時代が始まったばかりの今から約４００年前、当時スペインの領土であったフィリピンのマニラとの同じくスペイン植民地のメキシコ（当時新スペインと呼ばれていた）間でアジアの香料などを運ぶ定期船が出ていました。１６０９年、其の定期船が房総半島沖で沈没し、乗客３００人が漂流していたところを御宿町の町民が必死に救助し、かつ統治していたとなり町の大多喜城城主からの手厚いおもてなしを受けたことから関係が始まります。<br><br>実は私の両親、親戚一同はこのあたりの御宿町、となりの大原町、大多喜町に住んでおります。自分が小さいころ、メキシコの大統領が町を訪れたとことをみんなが大騒ぎしていたことを微かな記憶として残っております。<br>２００９年には日本メキシコ４００周年記念の行事が盛大に催されましたがその起源は上記によります。<br>（メキシコのアカプルコ市と御宿町、クエルノバカ市と大多喜町は姉妹都市を提携しています。）<br><br>その後、乗客していたスペイン総督はロドリゴ.ビベロは家康を訪問し貿易関係を築こうとします。家康は派遣団をメキシコ、スペインに送り関係が本格化しするかと思われましたが日本国内でオランダ、イギリスによる反スペイン運動がおき、結局実現には至りませんでした。　そして１６３９年には２００年以上続く鎖国となってしまいます。<br>ともかく、この時代に日本人が最初にメキシコに渡っておりますがあくまで一時的であり移民とはいえないかと思います。<br><br>本格的に日本人の移民が始まったのは明治になってからです。<br>当時の日本では農村部、都市部の困窮民の救済と急増する人口の問題が深刻となっており、その解消策として海外殖民が国家的事業として推進されていたようです。<br><br>最初の移民は明治元年のハワイ移民、その後のアメリカ移民ですが<br>米国の排日運動や黄禍論の嵐で移民先を南米に向けていきます。<br><br>当時明治政府は列強国との不平等条約を改正することに追われていた。ところが１８８８年にメキシコと日墨友好通商航海条約を結びます。これは日本にとって最初の完全平等条約でありメキシコが最初の友好国となります。<br>この流れの中、１８９７年に政府主導で初めての移民計画“榎本殖民団”が形成されメキシコのチアパス州の日本人殖民地建設のもと殖民団が派遣されます。　本来の目的は当時メキシコで大きな貿易の財源となっていたコーヒー栽培により殖民地の建設を行い集団移民をすることでした。<br>結局失敗に終わりますがこのメキシコ移民は政府の計画移民としてペルーに先立つこと２年、ブラジルよりも１１年早い集団移民計画で南米ではメキシコが初めての集団移民の国です。<br><br>その後、メキシコの鉱山発掘や鉄道建設のための労働者として、日本人が多く移民してきますが劣悪な環境の下奴隷者同然として扱われていたようです。<br>移民の中にはメキシコを足場に条件が断然いいアメリカ合衆国へ転住を希望する者が後を絶たず、不法入国、あるいは国境をさまよう者も多く、1907年合衆国はメキシコからの入国を禁止しました。メキシコ移住はその後激減し、約10年で挫折しましたが、同年までに1万人以上がメキシコへ渡っています。<br><br>ちなみに、米国、メキシコ国境にティフアナ、その隣にメキシカリという市があります。ここには私はまだ訪問していませんが日系人の集団地域があるようです。<br>おそらく、彼らの祖先はメキシコに移民してから、アメリカに渡ろうとしたが出来ず、国境地域に住み着いた人たちだったのではないかと思われます。<br>現在はグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラスなど貧しい中米の国の人たちがメキシコ経由でアメリカに不法入国したり、国境付近でマフィアに利用されたり大きな社会問題となっておりますが、当時貧しかった日本人も同じ状況だったのだと思います。<br>次に始まる南米の殖民計画もそうですが日本を出る前は夢のような話を聞き、いざ来てみると奴隷そのものだったという感じだったようです。実際、当時経済的に発展していた中南米各国は労働力不足から新しい移民先を探していた背景があったようです。<br>（これは今のどの国でも同じようなことが起こっていますよね。）<br><br>また最初にメキシコ移民であるチアパス州に移住した榎本殖民団の方々ですが言葉も何も分からない中、現地のメキシコ人と協力し、日墨協働会社という共同組織を創設し公共工事などを通して殖民地経営を存続したほか、日本語の学校教育を現地のメキシコ人及び日系人子孫に実践しました。なかでも特筆すべきなのが彼らの手によって最初の日本語スペイン語の辞典、西和辞典が編集されたことです。<br>当時日本はスペイン語の入門書程度のものしかなく、移民してきた人たちは言語の壁にぶつかり、意思の疎通も思うにまかせず言語不通のまま異文化世界の中で開拓生活を余儀なくされました。何よりもスペイン語日本語辞典が求められていました。<br>チアパスの日本人移民は現地の人たちと必死にコミュニケーションをはかり、この一冊の辞書を作り上げたようで、この辞書はチアパスに眠る日系人の血と汗の結晶でぼろぼろになるまで使われた聖書のようなものだったと日系人の間で語り継がれているようです。<br>メキシコの重要な実業家で日系人であるメキシコヤクルト社長のカーロス春日さんという方がおられます。<br>チアパス州はメキシコの中でも極めて貧しい州で政府の援助が行き届かない場所なのですが<br>この春日さんはこの歴史を良く理解しているために毎年、チアパス州の教育のために多大な寄付をされております。<br><br><br>日本は次にペルーに目を向けます。<br>当時のペルーは独立国とはいえ、スペイン人が支配する貧富の差の激しい階級社会でした。そのペルーでは奴隷制度廃止や中国人移民の禁止で代替労働者を求めており1899年、第一回の日本人移民790人が農業労働者としてペルーに渡りました。<br>こちらもサトウキビ農園の過酷な労働条件で多くの死者と多数の離農者を出し計画は上手く行かなかったようです。<br>移民者の一部は離農し、一部はアンデスを越え、ボリビアの奥アマゾン源流地帯へゴム園労働者として集団転住しました。（この1899年の集団転住が日本人のボリビア移住の起源となっています。）<br>その後、ペルーには1923年まで出稼ぎ移民として約2万1,000人が渡りました。その後も移民は衰えることなく、自由移民として多くの者(1万2,000人)が渡っていきました。ペルー移民の中にはブラジル、ボリビア、チリ、アルゼンチンへ転住する者も多かったようです。<br>ペルーにいきますと前大統領の藤森さんを始め本当に日本人の名前が多いことに驚かされます。ただ、他の南米もそうですがみんな親日派です。日本人は本当に勤勉で良く働くいいイメージが根強く残っています。<br>また、メキシコ、ペルー移民は出稼ぎ労働者の独身者がほとんどで彼らは現地の女性と結婚し住み着くケースが多かったようです。<br>次のブラジル移民は家族同伴の集団移民だったので独身はペルーに家族持ちはブラジルにと言われていたとのことです。<br><br>ちょっと長くなりましたので次のブラジル移民、パラグアイ移民、アルゼンチン移民に関しまして次回にお話させていただきたいと思いますが中南米への移住はメキシコの1897年から始まりまして太平洋戦争の勃発で移住が中断する1941年まで続きます。その間に日本から中南米に移住した総数は約25万5,000人と言われています。ブラジルへ18万9,000人、ペルーへ3万3,000人、メキシコへ1万5,000人・・・そして最後のパラグアイへは700人で、非常に興味深い歴史です。<br><br>それでは次回も引き続き移民の歴史について語らさせていただきたいと思いますのでどうぞお楽しみに！<br>
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<pubDate>Sun, 09 Aug 2015 01:47:39 +0900</pubDate>
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<title>メキシコの建築事情その８</title>
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<![CDATA[ 前回はメキシコの古代歴史について語らさせていただきましたが今回からは現代に移りまして現在活躍されているメキシコ人についてお話させていただければと思います。<br><br>早速みなさんに質問ですが世界でビル・ゲイツについで最もお金持ちは誰でしょうか？<br>答えはメキシコ人のカルロス・スリム・ヘル氏です。<br><br>今回はメキシコでけでなく世界の富豪、カルロス・スリム・ヘル氏についてお話させていただきますね。<br><br>日本ではあまり知られていませんが２０１３年までビル・ゲイツを抜いて４年連続で世界の富豪のナンバーワンの人です。<br>（２０１４年は僅かの差でビル・ゲイツがトップ）<br>この富豪のレベルになると雲の上の数字になるのですが彼の純資産で７２０億米ドルと発表されています。　ちなみに日本のトップがソフトバンクの孫正義さんの１８４億ドルですのであの孫さんの４倍です。またメキシコのGDPの７％の財産家でもあります。<br>これだけの人ですから、もちろん、メキシコでも英雄の一人です。<br>しかしながら、カルロス氏は事業の主体が中南米であり日本との関わりが薄いため、世界一の大富豪であるにも関わらず日本での認知度は低いと言えますのでカルロス氏とは一体何者なのか振り返っていきたいと思います。<br><br>カルロス氏は1940年1月28日に、メキシコシティの実業家の三男として生まれました。<br>彼の両親は共にレバノンからの移民で、彼の父は一代で莫大な財産を築いた実業家で子どもたちに小さい頃から運用に関する英才教育を授けました。なんとカルロス氏は12歳にして株取引を始めていたそうです。<br><br>やがて大学生となったカルロス氏は、ラテンアメリカのトップ大学とも言われる名門校、メキシコ国立自治大学に進学します。そこでは土木工学（むしろ日本で言う建築構造に近い）を専攻していました。カルロス氏はゼネコンのオーナーでもありますが建築に興味を常に抱いており、今でも建築設計のプロジェクトに参加してくるそうです。<br>ちなみに同校からは、歴代のメキシコ大統領や3人のノーベル賞受賞者も輩出しています。<br><br>大学では数学の教師もしていたそうで２６歳で卒業をしていますが大学時代は同時に不動産などに投資をして財をなしており（不動産投資会社グループカルソを設立）卒業時には３７億円を稼ぎだしていたといいます。やはり幼いころから投資家の英才教育をされているだけあって普通の人とは違いますね。<br>ちなみには彼の会社グループカルソはニューヨークなどでも不動産投資をする他、国内でも２０近くのショッピングモールのオーナーでもあります。<br><br>グループカルソはその後タバコ・自動車部品・飲食雑貨チェーンと多岐に渡って企業買収を繰り返し規模を拡大しました。特に買収しタバコ会社はグルーポ・カルソにとって豊富な資金源となり安定を築き上げます。<br><br><br>そこで１９８２年のメキシコ経済債務危機が起きます。<br>石油に依存したメキシコ経済は累積債務がかさんで国家破綻寸前にまで転がり落ち、国債信用力も地に落ちて通貨は下落していきメキシコはもうだめと世の中は絶望の感に陥っていました。<br>経済的な政府の無策や汚職はその後も続いたので、こういった弱点を見透かされて1994年にはヘッジファンドに狙われてメキシコ発の通貨危機、いわゆるテキーラ・ショックさえも起きています。<br><br>メキシコが債務危機に陥って、メキシコを代表する企業が次々と破綻の危機に追いやられていったとき、ほとんどメキシコは国として「終わっていた」状態のでようでした。<br><br>メキシコ・ペソは切り下げられて、もはやメキシコには将来がないと多くの資産家が国外に逃げていったようです。<br><br><br>この時期の様子をメキシコ人に聞いてみますと凄まじったようです。　なにせ通貨が４分の１まで突然下落し、一般市民は生活に困窮します。　想像してみてください。銀行の預金がいきなり４分の１になってしまうのです。またアメリカのクレジットに頼っていた企業は支払い不能になり毎日のように国内大企業の倒産のニュースが流れていたそうです。<br><br>生き残った企業もお先真っ暗で生き延びるの精一杯だった時期です。企業は次々と潰れていき、金持ちはアメリカに逃げていき、貧困層が街に溢れ、株式市場は壊滅的な大暴落に陥ってしまっていました。<br><br><br>しかし、そのメキシコが史上最悪の国難にさらされているそのときに、カルロス・スリムはチャンスをつかんでいました。<br><br>その経済危機の時期に、カルロス・スリムは倒産寸前の大企業の株を捨て値同然の価格で買い集めていました。<br><br>その後メキシコがようやく立ち直ったとき、底値で買った株を持っていたカルロス・スリムが、メキシコはおろか、世界でも有数の資産家になっていきました。<br><br><br>また1990年代に入るとメキシコには国営企業の民営化の波が押し寄せます。これは絶えず買収を繰り返して会社を大きくしてきたカルロス氏にとって、絶好のチャンスが来た事になりました。<br><br>カルロス氏はメキシコ国営の固定電話会社テルメックス(TELMEX)を公開入札によって買収します。そしてテルメックスは彼らにとってまさにドル箱となりました。<br><br>テルメックスはメキシコ国内全域をカバーする一大企業であり(現在メキシコでの国内シェア90%)、また、アメリカなどの北米圏への出稼ぎ労働者たちがメキシコ国内に国際電話を掛けるときに必ずテルメックスを経由します。国際電話では発信国の通信会社から受信国の通信会社に対して「接続料金」を支払う仕組みになっており、海外に多くの労働者がいるメキシコの状況はテルメックスにとって圧倒的に有利となります。この事により何もせずともメキシコへの国際電話がある度に、接続料金による収入が入りますので凄まじい利益となりました。<br><br>ちなみにメキシコの収入源トップ３は１位：石油　２位：観光　３位：アメリカへの出稼ぎ労働者からの仕送りと言われてぐらい、アメリカに住んでメキシコの家族のために仕送りしている人達が多いので当然家族との密な連絡に欠かせない国際電話は巨大な需要です。<br><br>カルロス氏の将来性を見る洞察力と決断力はすごいと思います。携帯電話の将来がすごいと見るや１９８９年には携帯電話会社テルセルを立ち上げ、固定電話、携帯電話の国内のほとんどのシェアを占めています。<br><br>ちなみにメキシコの携帯電話はとっても高く請求書が来るたびにびっくりします。メキシコの電話料金はOECD加盟国の中で最も高いようです。<br><br>それは国内をカルロス氏の会社で独占しているためで海外の通信事業の利益率１１％に対し国内では６５％と言われていますのでいかに儲けているかがわかると思います。<br>（個人的にはもっと他の企業に頑張って値段を下げてもらいたいです。）<br><br><br>このドル箱の通信事業とカルロス氏が若いころに設立したグルーポ・カルソも国際的なコングロマリットに成長し、製造業や販売業に限らず、太陽光発電・石油開発・水利施設・鉄道などの大規模インフラも手掛け、財閥としての地位を確固たるものにしています。<br><br>2008年には経営不振に陥ったニューヨークタイムズ紙に対して225億円の支援をし、その後少しずつ出資比率7.5%にまで増やし2012年には筆頭株主にとなります。他にも2012年には業績不振に陥っていたアルゼンチンの石油・ガス最大手YPFの株式を6.6%取得しました。<br><br><br>このようにカルロス氏は企業買収、大規模投資を繰り返し現在の世界トップのミリオネアの地位を築きました。<br><br>カルロス氏のすごいところはメキシコの債務危機の時に積極的に投資を行ったことから分かるように、不振に陥った状況をチャンスとして捉える力の強い人物だということです。<br><br>現在、カルロスはビジネスの第一線を三人の息子たちに任せ、第一の関心をメキシコ・ラテンアメリカにおける教育・保健や社会福祉・雇用対策への慈善事業に向けています。<br><br><br>例えば教育面では、2008年に彼が慈善事業のために設立したテルメックス財団とカルロススリム財団から、メキシコ国内の1400の公立学校に10万台以上のコンピュータが寄贈されました。他にもメキシコやラテンアメリカを中心に奨学金や学費補助・自転車の寄贈などの支援を続けています。個人的な寄付も含めて、約16万人の若者の大学進学を支援しました。<br><br><br>2011年には、複合都市開発の一部として、メキシコ、ヨーロッパなの美術品を中心に6万6000点を所蔵する入館料無料の「ソウマヤ美術館」を建設します。美術館の名前はなくなった夫人の名にちなんで名づけられ、愛妻家としての一面を覗かせています。<br><br><br>この美術館、建築的にも非常にユニークですのでメキシコにお越しの際は是非お立ち寄りいただければと思います。　非常に有機的な形状で美しい美術館です。建築に興味を持っているカルロス氏の意見が幅広く取り入れられた設計となっています。<br><br><a href="http://www.jmhdezhdez.com/2012/03/museo-soumaya-fernando-romero.html" target="_blank"></a><br><br>健康に関する慈善事業では、2007年にラテンアメリカ周辺地域の健康問題の対策のために、カルロス・スリム・ヘル研究所を設立しました。更に2010年にはハーバード大学とMITの共同で行っているガンと肝臓病・糖尿病に関するゲノム研究に対して約58億円を出資しています。<br><br><br>また雇用では、その所有する事業によってラテンアメリカ全体で20万人以上の雇用を創出しているようです。<br><br><br>以上カルロス・スリム・ヘル氏のこれまでの生い立ちについて紹介してきました。<br><br>メキシコが誇る位世界一の大富豪の実像を少しでも掴んで頂ければ幸いです。<br><br><br>今回は建築からかなり話がずれましたので次回からまた建築のテーマについて語らさせていただきたいと思います。　どうぞお楽しみに！<br>
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<pubDate>Sun, 02 Aug 2015 01:43:48 +0900</pubDate>
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<title>メキシコの建築事情その７</title>
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<![CDATA[ 前回はメキシコの古代文明のマヤ文明までをお話させていただきました。おかげ様で面白かったというご感想をたくさんいただきましたので今回も引き続きアステカからスペインが征服するあたりの歴史について出来るだけ面白く語らさせていただきたいと思います。<br><br>時は日本の鎌倉時代後半ぐらいに遡ります。<br>メキシコ中部にに凶暴で野蛮なメシカ人という民族がいました。<br>（メキシコという名前はこのメシカに由来しているようです。）<br>メシカ人は周囲の村落を次々に征服し力をつけていきます。（その乱暴なやり方にかなりの反感を買い後々命取りとなります。）<br>１３２５年メシカ人はメキシコ高原のテスココ湖にやってきました。<br>（テスココ湖は現在のメキシコ市中心部です。）<br>彼らはその湖に蛇をくわえた鷲がサボテンにとまっている姿を見ました。これを神のお告げと信じ、湖の中に人工の島を造り、そこにテノチティトランという都市を築きアステカ帝国を建国しました。<br><br>ちなみにメキシコの国旗をみなさんはご存知でしょうか？<br><br><a href="http://es.wikipedia.org/wiki/Bandera_de_M%C3%A9xico#mediaviewer/File:Flag_of_Mexico.svg" target="_blank">http://es.wikipedia.org/wiki/Bandera_de_M%C3%A9xico#mediaviewer/File:Flag_of_Mexico.svg</a><br><br>国旗の中央部には蛇をくわえた鷲がサボテンにとまっている姿が描かれアステカ帝国の伝説を意味しています。<br>ちなみに３色の緑は独立、白はカトリック教、赤は独立を成し遂げるために流した先祖の地を意味しています。<br>ちょっと脱線しますがメキシコの代表的なテキーラの正しい飲み方をご存知でしょうか？　（塩をなめてから飲むのではありませんよ。）　<br>バンデーラ（＝国旗）といって３つの小さなショットグラスが出てきます。一つはライム汁の入ったもの　（＝緑）、もう一つはテキーラが入ったもの（＝白）、最後にピリ辛のトマトジュースが入ったもの（＝赤）が並べられ、これを順に少しづつ飲むのが本当のテキーラの飲み方です。　メキシコのレストランでバンデーラと頼みますとこのように出てきますのでお試しください。<br><br><a href="https://www.flickr.com/photos/oasisantonio/8506227037/" target="_blank">https://www.flickr.com/photos/oasisantonio/8506227037/</a><br><br>話を元に戻します。<br>アステカ帝国は周辺の都市を次々に征服していき南の太平洋沿岸まで版図を広げました。ただ武力による強引な征服は周辺諸国の反感を買い、スペインの来襲時には多くの国が離反して敵に回ることになります。<br><br>アステカ文明はマヤ文明から天文学、建築学を学んでおりますので高度な文明が発達していたようです。　特に天文学は占星術を研究したことでかなり発達していたようであの有名なアステカカレンダーは代表例で国家や人生を左右するツールだったとのことです。<br><br><a href="http://www.crystalinks.com/aztecalendar.html" target="_blank">http://www.crystalinks.com/aztecalendar.html</a><br><br><br>また医療面でもかなり発達していたようで現在でもアステカ人が使用していた薬が結構売られています。現在の西洋的な薬では治らないものが治癒できるアステカ薬があったりします。<br>例えばサボテンの葉を使用した糖尿病の薬など現在でも注目されているものが結構あります。<br><br>さて、このアステカ帝国もスペイン人に征服される時期がきます。<br>１４９２年にコロンブスがアメリカ大陸を発見してからスペインに新大陸ブームがきます。　新大陸ブームといえば聞こえはいいのですけど、ようは金銀を求め泥棒を行い、現地の社会を破壊する残酷なものです。　今でもメキシコといえば銀と言うくらいかなりの鉱山がありますが当時は金もすごかったようで、スペイン人からかなりの量を強奪されたようです。<br>まずスペインはキューバに本拠地をおき、各地への探検隊を組織します。メキシコ担当のリーダーがエルナン・コルテスという人です。<br>コルテスは１５１８年にマヤ文明中心のメキシコ西部のユカタン半島から征服していき、ベラクルスに拠点を設け、ここから中部のアステカを目指していきます。<br>当然アステカにもこのニュースが届いていますが問題だったのはアステカ人の勘違いです。　アステカ人もマヤ人同様、神への生贄をするぐらい宗教心が非常に強いのですが肌の白いスペイン人をアステカ伝説の最高神ケツァルコアトルが戻ってきたと思ってしまいます。<br>ちょうどアステカカレンダーによるとスペイン人が侵入してきた１５１９年はちょうどケツァルコアトルが戻ってくる年でもあったようです。また見たこともない白色の肌を持つ人種を戻ってきた神だと勘違いしたようです。<br>アステカ王のモクテスマ2世は戦うどころかむしろ金銀をスペイン人にあげ最高のもてなしをしてしまいます。　（与えた金は1トン以上と言われています。）<br>これが簡単に征服されてしまう一つの理由ですがもう一つは強引な征服の仕方にアステカへの反感をもっていた民族をスペイン人が味方につけていたことです。またスペイン人たちは大砲や騎兵を持っていたので彼らに叶うわけがありません。<br>結局、アステカ人の猛攻もあったようですが結局、お互いに多くの血を流した後、アステカ帝国は完全に滅亡します。<br>アステカ帝国の首都テノチティトランには20万の人が暮らしていた。当時のヨーロッパでこれだけ大きな町はなかったと言われいます。<br>現在エボラ熱の恐怖が世界中で取りだたされているいますがスペイン人が持ってきた疫病だけで免疫のないアステカの現地民の８割がなくなったと言われいます。<br>スペイン人の残虐な部分はこれだけでは収まりません。彼らの神殿、を徹底的に叩き壊し、その上に教会を建設します。精神的にも完全に侵略するためです。<br>また、この大都市は大きな湖（テスココ湖）で囲まれていますが此の湖に徹底的に破壊した建築物と死体の残骸を投げ埋め立て都市を作りました。　現在のメキシコ市です。<br>従いまして現在のメキシコ市はもともと湖を埋め立てしたものですので常に地盤沈下を起こしております。<br>また多くの死体の上に出来たお墓に住んでいるようなものなので自分はあまり好きではないのですがメキシコ人はあまり気にしていません。むしろ人口２５００万人の世界でももっとも大きい人口を支えるスペースが足りないのでそれどころではないのかもしれません。<br>アステカを占領したスペイン人たちはヌエバ・エスパーニャ（新しいスペイン）という国を作り１８１０年の独立戦争が起きるまで植民地として支配することになります。<br>この間、移住してきたスペイン人と先住民（インディオ）との混血が進み、現在人口の６０％を占めるメスティーソが出来上がります。　残りの２５％が先住民、１５％がヨーロッパの白色人種だと言われています。<br><br>現在のメキシコの文化はアステカまでの古代文化とスペイン、後に一時期侵略をしたフランスなどのヨーロッパの文化の完全融合で成り立っており、非常に面白いです。<br>先住民はもともと海を渡ってきたモンゴル系で我々日本人と同じ先祖のようですので親しみ安いのはこのためだと思います。<br>また、其の上にヨーロッパー、特にスペインの影響も強く受けておりますので建築なども興味深いです。<br><br>とりあえず、メキシコの古代歴史はこの辺りで終わりにしまして次回からまた建築のテーマについて語らさせていただきたいと思います。　どうぞお楽しみに！
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<pubDate>Sun, 28 Dec 2014 04:29:34 +0900</pubDate>
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<title>メキシコの建築事情その６</title>
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<![CDATA[ 前回は隣国の米国の法律についての堅い話でしたので今回はガラ<br>リと話題を変えましてメキシコの古代文明について語ってみたい<br>と思います。建築とも直接は関係ありませんがメキシコを知って<br>いただく上で参考になればと思いますしメキシコに旅行したいと<br>いう気持ちになっていただければ嬉しいです。<br>私自身、歴史の専門家でもありませんので知っている限りわかり<br>やすくいつものように脱線しながら話をさせていただきます。<br><br><br>突然ですがメキシコにはたくさんのピラミッドがあるのをご存知<br>ですか？　私は恥ずかしながらメキシコに来るまで全く知りませ<br>んでしたし興味ありませんでした。　学生の時ピラミッドを見る<br>ためにエジプトに旅行に行きましたがピラミッド＝エジプトと<br>いうイメージを持ってました。こちらで見た時は“えー、<br>メキシコにもあったの？エジプトのコピーじゃないの？”という<br>くらいの感じでした。でも多少歴史を知っていくとかなり高度な<br>文明がこの地に発達していたことに驚かされました。<br><br><br>マヤ文明、アステカ文明はかなり有名でみなさんによく知られて<br>いますがメキシコには結構古い文明が存在してました。<br>（この地域の古代文明をメソアメリカ文明といわれています。）<br><br><br>ちなみに話はそれますが現在世界中で栽培、食される野菜の多く<br>も中南米産のものが結構あります。<br>トウモロコシ・ジャガイモ・トマト・トウガラシ・ピーマン・<br>ピーナツ・インゲン豆・カカオ（チョコレートもメキシコが最初<br>です）。これらはすべて中南米からコロンブス以降世界中に伝播<br>されたものです。<br>したがいまして中南米地域の文明もなかなか侮れないと思います。<br><br><br>それでは順番にメソアメリカの歴史に遡っていきます。<br><br>まずはアメリカ大陸全体でもっとも初期に生まれたとされる<br>オルメカ文明という文明があります。今から３２００年前と言わ<br>れていますので日本で言えば縄文時代から弥生時代にかけて反映<br>した文明のようです。非常にミステリーな文明で現在のメキシコ<br>湾岸のタバスコ州からベラクルス州のあたりのジャングル地帯の<br>密林に位置したところに多くの遺跡が見つかっています。<br>特に巨大な石の頭の像が１６体見つかっていますがこれは大きな<br>もので３メートルの高さ、重さ４０トンにもなるものです。<br>この巨大人頭像は神官か支配者の像ではないかと考えられています。<br><br><a href="http://www.web-mix.ws/pyme/2011/01/las-cabezas-olmecas/" target="_blank">http://www.web-mix.ws/pyme/2011/01/las-cabezas-olmecas/</a><br><br>この巨石人頭像は玄武岩を彫ったものですが見つかったものは人<br>が到底住めそうにない熱帯雨林のジャングルの密林の真ん中や<br>小島に見つかっているということとこの地域に玄武岩は存在しま<br>せんので他地域から輸送しているはずでここまで運ぶ当時の運搬<br>技術が発展していたものと推定されております。また都市を形成<br>されたと思われる神殿や３１メートル高さの粘土のピラミッドも<br>見つかっています。<br>遺跡やそこで見つかった彫刻品の調査からアメリカ大陸の最古の<br>文明であることと絵文字や数字を用い、ゼロの概念を持つなど<br>、数学や暦が発達していたようです。<br>またネコ科のジャガーを神として崇拝していたことで有名で<br>人間とジャガーの融合の像が見つかっています。<br><br><a href="http://www.arqueomex.com/S2N3nCosmovision72.html" target="_blank">http://www.arqueomex.com/S2N3nCosmovision72.html</a><br><br>ちなみに現在この地域（メキシコ湾沿岸）は石油がとれますので<br>多くの石油企業で賑わっております。現地に住んでいます<br>友人曰く、とにかく熱帯雨林で一年中暑くムシムシしていており<br>仕事がなければ住みたくない場所だと言っていました。<br><br>この文明は建築や美術様式がその後のマヤ文明のもとになってい<br>ることから“母なる文明”といわれていますが紀元前２００年ご<br>ろ突然と姿を消した不思議な文明なようです。<br><br><br>次にみなさんよくご存知のマヤ文明です。　<br>マヤ文明は紀元前3世紀から16世紀の間、メキシコ南東部の<br>ユカタン半島（観光で世界的有名なリゾート地カンクーン位置し<br>ています）から、現在のグアテマラにかけて栄えた文明で各文明<br>の中でももっとも広範囲かつ、長期間栄えたので、メソアメリカ<br>の文明の総称としてマヤの名が当てられる事があります。<br>マヤ文明は他の中南米地域からいろいろな影響を受けながら<br>スペイン人がやって来るまで続きました。しかし、決して一つの<br>国にまとまる事はなく、最初から最後まで多数の都市国家から<br>なる集合体でした。かなり長く続いた文明ですがもっとも栄えた<br>時期は日本の律令国家が繁栄した８世紀の奈良平安時代あたり<br>だったようです。<br><br>そうした都市国家のうち、特に有力だったものとしてパレンケ、<br>カラクムル、ウシュマル、チチェン・イツァなどがあります。<br>パレンケ、カラクムルはマヤ文明の最盛期に栄えた都市国家で、<br>当時は互いに対立する立場でした。<br>ウシュマル、チチェン・イツァは後期になって頭角を表した<br>都市で、特にチチェン・イツァは他の文明の影響を非常に強く<br>受けています。<br><br><a href="http://www.chichenitza.com/" target="_blank">http://www.chichenitza.com/</a><br><br>このチチェン・イツァの遺跡は世界遺産に登録され観光名所の<br>ひとつでカンクーンからもすぐ行けます。<br>前にも述べさせていただきましたがカンクーンとそのとなりの<br>プラヤデルカルメン、コスメル島周辺の白い砂浜と透明な海は<br>私見ですが世界でもっとも美しいビーチの一つではないかと思っ<br>ています。　（少なくとも私の友人間では少なくともハワイより<br>断然綺麗ということで一致しています。）<br><br><a href="http://www.yucatan-holidays.com/travel-ideas/beautiful-photos-from-the-beaches-of-cancun/" target="_blank">http://www.yucatan-holidays.com/travel-ideas/beautiful-photos-from-the-beaches-of-cancun/</a><br><br>またカンクーン旅行の多くなメリットはこの周辺に上記のマヤ文<br>明の遺跡群がごろごろしており見どころが沢山なことです。<br>ビーチはとっても綺麗で素晴らしいのですがビーチだけでなく<br>かなりの数の遺跡群（ピラミッドももちろんあります。）が見れ<br>ますので是非オススメします。ビーチは１週間もありましたら<br>飽きてしまいますがカンクーンには古代の歴史を知るかなりの<br>ツアーがありますので充実した楽しい旅が出来ます。<br><br><br>次にマヤと多少時期が重なりますが日本の古墳時代と飛鳥時代に<br>マヤ文明から1000km離れたところにあります<br>「テオティワカン」という文明がありました。<br>後にアステカの領土となった場所で栄えた文明です。<br>首都として巨大な都市を作り、軍事的、経済的、文化的に古代の<br>中南米全体に強い影響を与えました。7世紀半ばにおそらく反乱<br>か、或いは異民族に攻撃されて滅びましたが、伝説的な国家とし<br>てマヤにもアステカにも後々まで語り継がれました。<br>ただ文字記録がまず解読不可能（発見された量が少なすぎる）<br>ため、なぜこれだけ強力な文明になれたのかなど、詳しい事は<br>何一つ分っていません。マヤ文明では中期ごろに当たる3世紀<br>から7世紀ごろに栄えました。<br>ここのピラミッド群感動的です。この時代にここまでの精度で<br>建設出来たのかとても不思議です。<br><br><a href="http://www.arqueomex.com/S2N3nCosmovision72.html" target="_blank">http://whc.unesco.org/en/list/414</a><br><br>メキシコの首都メキシコ市からツアーが出ており簡単に行けます<br>のでお越しの際は必ず立ち寄られてください。私が是非オススメ<br>するのは気球に乗って上空から建築群を見晴らすツアーです。<br>全体も良く見れますし、ピラミッドが真上からゆっくりと見れ<br>ますので最高です。お値段も高くはなかっっと思いますので<br>是非ご利用ください。<br><br>テオティワカンが滅びた後、その周辺では主にトルテカ人と<br>呼ばれる民族が文明を発達させました。<br>このトルテカ人が建てた都市のうち、代表的なものの一つとして<br>ソチカルコ（ショチカルコ）があります。<br><br><a href="http://antropologiamexico.es.tl/TOLTECAS.htm" target="_blank">http://antropologiamexico.es.tl/TOLTECAS.htm</a><br><br>数々の神話と伝説（テスカトリポカとトピルツィンとケツァルコアトルの伝説など）で知られるこの帝国は、メキシコ中央高原<br>を支配したとされ日本の奈良時代から平安時代にかけて栄えた<br>文明です。<br>8世紀から10世紀ごろには、トルテカの影響を受けたマヤ都市<br>の代表がチチェン・イツァ、マヤの影響を特に受けたトルテカ都<br>市がソチカルコと言う感じで、この地域とマヤの地域は互いに文化的影響を与え合っていました。<br><br>トルテカ文明が衰えたあと、その地域では幾つかの国家や民族の<br>興亡が繰り返され、最終的にそれらを征服したのが「アステカ」<br>でした。もともとは周辺の人たちからも野蛮人と看做されていた<br>民族だったのですが、文明化と元々の好戦性が上手く噛み合った<br>のか、古代の中南米で最後にして最大の国家を築くまでに至りました。ただ、滅ぼされたとは言っても非常に巨大で力の有る国家<br>だったため、正式名のメヒカ（メシーカ）がメキシコの語源となるなど、現代までその影響は受け継がれています。<br><br>日本の室町時代にあたるこの巨大文明は奥が深いのでスペイン人<br>がくるまでのこの辺りのお話は次回にさせていただきたいと思いま<br>すのでどうぞお楽しみに！<br>
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<pubDate>Tue, 18 Nov 2014 11:17:14 +0900</pubDate>
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<title>メキシコの建築事情　その５</title>
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<![CDATA[ <br>前回はアメリカとメキシコの建設現場についてお話させていただいたのですがおかげ様でたくさんの感想をいただきました。特に米国の建築関係の法律についてもっと語って欲しいというご意見をいただきましたので今回は自分が日常業務を通じて理解している範囲で米国の建築の法についてお話できればと思います。メキシコも基本的に米国を真似しているところが多いので関連性はあると思います。<br><br>米国の建築の仕事をする上で避けて通れないのが法律です。アメリカは完全に法治国家で契約社会なので問題が起こればすぐに訴えて裁判となります。これは一般的な些細なことでもすぐに裁判になりますのでものすごい数の弁護士が存在します。<br>リベックという７９歳のおばあちゃんがマクドナルドのコーヒーを買ってそれを膝にこぼして火傷を負って後、マクドナルドのコーヒーに欠陥があるとして裁判に訴えた話は有名ですよね。結局、３億円の損害賠償に勝訴したのですから事実関係なしに弁護士次第で結果が変わる世界です。<br>ですから一般的な会社はどこでも専属の弁護士を抱えていて問題があると外部の弁護士団を雇って専属弁護士がチーム作りをして裁判に臨むという形をとります。<br><br>問題が起こりやすい建築の世界も同様で、何かあった際に裁判沙汰になることを前提として自分たちを守っていかなければいけません。<br>当然、保険会社も建築設計専門、建設工事専門、生産工場ごとに分かれています。　裁判になった際弁護士費用もかなりの額になるのであらかじめ保険に入っておく訳です。<br>さて、裁判に勝つ、負けるかは契約の各責任範囲の中で法律に準じているかが問われますので各法律を熟知している必要があります。<br><br>話を建築の法律に戻します。<br>アメリカは州単位で自冶権があり各州が別々の国家であるかのように州ごとに法律が違います。ニューヨーク州建築基準法、カリフォルニア建築基準法、テキサス州建築基準法、…といったぐあいです。<br>ただし５０州の州は国の建築委員会が作成したいくつかのガイドライン（指針）をチョイスし適当に修正し州法を作成しますので私どもはガイドラインをまず学習することになります。<br><br>１５年以上前になりますが以前私が米国の業務を始めた際は建築基準に関しましては多く分けて３つのガイドラインがありました。<br>ニューヨーク州など米国東部から中部の州が採用したBOCA(Building Officials Code Administratorの略)という建築指針、 フロリダ州、テキサス州などの南部の州ではSBC(Southern Building Code),地震の多いカリフォルニア州などの西海岸ではUBC (Uniform Building Code)といった具合です。<br>プロジェクトがニューヨークならBOCA,テキサスならSBC,カリフォルニアならUBCにもとづき設計を行い、各州のBuilding official(州役所)に承認を得れば各州法を特に吟味する必要がありませんでした。（ただし、役人によっては重箱の隅を突かれる場合はありました。）<br><br>それでも３つのメジャーな指針を学ぶのはかなり面倒でしたが米人も効率が悪いということでそれらを統合するムーブメントがあり２０００年にIBC2000(International Building Code 2000)という建築指針が発行されました。<br>IBCは３つの指針のそれぞれの特徴を完全統合したもので画期的なものでした。例えば、設計荷重を例に取れば、地域がら、BOCAは雪荷重が充実し、SBCはハリケーンなどに襲われやすいため風荷重、UBCでは地震荷重が専門的でしたがそれらの詳細な部分を見事にまとめあげています。　この指針後、IBCさえしっかり勉強しておけばどの州でも特に問題ないようになってきました。ただし、IBCはボリュームがかなりある上、３年ごとに大きく改定され続けているので結構大変ではあります。<br><br>またIBCの指針を良く見ますと、各専門部門ごとに別の指針を参照していることから全部を把握することはほとんど不可能ですので各専門分野だけを深く知っておく必要があります。<br>（IBCは一般的な指針です。専門分野ごとに別の指針が数多くあります。）<br>例えば住宅に関しましてはIRC(International Residencial Code),設備などはIPC(International Plumbing Code),防災についてはIFC(Internarional Fire Code)など無数にあります。<br><br>ちなみにアメリカだけの法律なのになぜインターナショナルという名前をつけるのか米人のメンタリティーをいつも疑っています。野球のワールドシリーズなんて名前もそうですが米人は自分たちが世界の中心という潜在意識が多かれ少なかれあるのではという気がしています。<br><br><br>ただ他の国で活躍している友人の話を聞いてみますとそれも一部あたっているかもしれません。　例えば中東で構造設計をしている友人はアメリカのASCE7（American Society of Civil Engineers chapter 7,米国のIBCが参照している荷重指針）の荷重計算で鉄骨はAISC(American Institute of Steel Construction,米国の鉄骨指針)、コンクリートはACI(American Concrete Instiitue、米国コンクリート指針)もとづき設計するように顧客から指定されることが一番多いそうです。２番めに人気なのはBS(British Standard)のイギリス建築基準だそうです。残念ながら日本の建築基準では受け付けてくれないので上記を学んでいるということです。<br>中国で働いている友人も米国基準で設計していることが多いと言ってました。<br>面白いのがブラジルでヨーロッパと米国の文化を両方受けたブラジルはユーロと米国基準をミックスした法律になっているようです。<br>建築の法律も国の力関係を反映しているのかもしれません。<br><br>さて、建築基準ではなく、工業製品に目を移してみますと日本のJIS(Japanese Industrial Standard)に対応するのがASTM(American Society for Testing and Materials、米国の工業製品規格法)で皆さんよくご存知だと思いますがこれはかなりの製造試験範囲を網羅しているだけでなく１３５カ国以上に採用されているそうです。採用している国に製品を輸出する際、それに対応するASTM番号の試験方法による基準を満たしているかどうかが問われます。<br>業者から聞いた話ですが同じ製品でも試験方法によって性能が全く違うのでどの基準での試験結果が非常に大切になってくるそうです。<br>製品の種類によっても全く違うそうですが一般的にASTMが最も厳し目にでて次にドイツのDIN(Deutsche Industrie Normen、ドイツ工業規格)、JISの順だそうです。そのためにASTMがもっとも信頼性があり採用されていると言ってました。<br>（もっともその業者はアメリカ人ですので話を半分くらいに聞いていましたが…）<br><br>それにしてもアメリカは指針の数は多すぎる国です。　これを一人の人が網羅することは不可能なため、各専門分野に分業させ、ライセンスで責任をもたせて専門化させているのだと思います。<br>もちろん、州ごとに法律が違いますので州ごとにライセンスが必要です。ライセンスをもった各専門の担当者が設計図面に判を押し署名し責任を負うことになります。例えば、建築図面には建築家、構造図面にはエンジニア、設備には設備士の担当者の州のライセンス印とサインが一枚一枚付けられます。これがないと役所が許可を出さないだけでなく、見てもくれません。<br>ところでニューヨーク州の建築免許はカリフォルニア州ではまったく使えません。州によってはお金を払い、書類手続きをすることで別の州のライセンスを切り替えてくれるところはありますが、通常は週の建築試験を受け直すことが多いです。　（特にカリフォルニア州は厳しい）<br>またライセンスを維持するために継続学習(Continuous Education)といって大学の単位のように指定期間の開催するセミナー、勉強会などに多く参加して一定以上のクレジットを常に取得していかなければいけません。<br>（これが結構厳しく、お金も時間もかかります。）<br>これによってライセンスをもった建築関連者のクオリティーが維持できているのだと思います。<br>ライセンスに関しましては別の機会にお話させていただきますが米国での仕事に興味のある方はまず、各専門分野のライセンスの試験合格することをまず目指していただければと思います。<br>アメリカで医療分野で働きたい友人が言っていましたが日本の医師免許はアメリカでは無視され（全く考慮されない）、米国の免許をゼロから受け直す必要があると言ってました。<br>建築も今のところ同様ですが近い将来、日本の建築技術を理解してもらい日本の免許が米国の免許に簡単にトランスファーされる日がくればいいなと思います。（少なくともクレジットとして認められれば‥）<br><br>今回は米国の法律の話をさせていただきましたがいかがでしたでしょうか？　次回はメキシコの話に戻りますのでどうぞお楽しみに！<br>
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<pubDate>Fri, 31 Oct 2014 05:19:25 +0900</pubDate>
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<title>メキシコの建築事情その４</title>
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<![CDATA[ 今回はメキシコの建築というよりは建設のことについて語ってみたいと思っています。<br><br>メキシコの建設現場にいくと結構驚かされることがかなり多いです。<br>例えば、現場に入るのに書類手続きをせずに勝手に入れることは当たり前で、ヘルメットをかぶっていない職人が高所作業をしていたり、安全帯なしで登っていたり、現場でビールを飲んでいる人をみつけたりなど勝手気ままな感じがする現場が多数です。<br>もちろん政府がらみの工事は規制があり比較的しっかりしておりますがそれでも日本人の私からするとかなりゆるいです。<br><br>昔日本の工事現場に３ヶ月研修していた時期をよく思い出します。朝、５時に起きて準備をし、７時からはゼネコン主催の朝礼とラジオ体操。ヘルメットと工事着、安全帯をつけ、各会社ごとに社員が一列にならびラジオ体操の後、今日すべきことを各会社の社員の代表が前に出て発表するという学校の朝礼と全く同じでした。工事の間も見回りが常時いてかなり厳しかったのを思い出します。　現場を訪問する方々に対する手続き、注文もかなりありました。安全第一ですので全責任を持つゼネコンからするともっとものことだと思います。<br><br>隣国のアメリカで仕事をすることが多いのですが米国の工事現場は日本程ではありませんがそれなりにしっかりしていると思います。契約社会なので責任問題をはっきりさせるために現場に入ると書類にサインさせられることが多いです。（何かあった場合、これが重要となってきます。）アメリカにはOSHA (Occupational Safety &amp; Health Administration)という工事を含めた非常にパワフルな安全衛生法がありこれがかなり細かい工事詳細の基準を決めております。このOSHAがいわば建設の憲法で絶対なものです。　内容はかなり多岐にわたっており、工事現場での規定のみならず、工事がらみの建築設計の基準、重機の基準、工事メソードの設定、労働者の遵守規定などかなり中身の濃い法律です。　工事現場で何か問題、事故がありますと各会社の保険会社の戦いになるのですが勝者の決めてはOSHAにもとづいているかどうかが問われます。　友人の会社でリフトアップした鉄骨が落ち、死者がでる事故がありました。原因を調べたところ、OSHAで義務付けられている図面への鉄骨重量の記載がなかったとし賠償責任をとられ敗訴したそうです。<br>この法律によって米国の建設の安全が守られているといっても過言ではないでしょう。<br><br>それに比べますとメキシコは何もありませんので比較的自由にできるわけです。（いいのか悪いのかは別として。）工事労働者が現場でアルコールを飲めちゃうわけです。<br><br>ところで工事コストの点では他国と比べて非常に魅力的です。工事コストを見積もるケースがあるのですがメキシコの職人の人件費は高くて時給１０ドル程（１０００円）です。（これは保険代、食事代、交通費など諸経費がすべて込です。）　これがアメリカとなると安くて時給４０ドル、プロジェクトがそれなりのサイズとるとユニオンレイバー（組合）を使用しないといけないので時給６０から１００ドル近くまで跳ね上がります。特にニューヨーク州などはかなり高いです。<br>それを考えるとメキシコの労働費はアメリカの４分の一から１０分の一となります。これがトータルな工事コストに響いてきます。<br><br>人件費が安いからあまり働かないかといえばそうではなく、メキシコ人は教育さえしっかりすればむしろ働き者です。個人的には都合よくベターな条件ばっかり求めて口は達者のアメリカ人労働者よりもメキシコ人は素直でよく働きます。メキシコ人を相手にする場合、会社を家族的な雰囲気にさせて意気に感じさせることが重要であると教わりましたがまさにそのとおりだと思います。　例えば、彼らにとって誕生日はかなり重要です。　誕生日にはケーキなどを用意して全員で祝って上げる、贈り物をあげることなどは必須です。また会社の行事には家族を招待して感謝を伝えるなどこちらにきて学ぶことが多々あります。こういう当たり前に思われることを必ず行うだけでも効果がかなり現れます。一度、会社を家族的な場所と思ってもらうと金銭抜きに人並み以上に働いてくれるのでこちらにとっても助かります。<br><br>クレーンなどの重機についてはコストは米国とあまり変わりません。<br>重機はアメリカなどから輸入しているためだと思います。ただ、アメリカからの重機を中古で購入していることが多く、故障がしょっちゅう起きています。メンテナンスが逐次必要としているみたいです。　（自分は機会があっても高所作業車には乗らないようにしております。）<br>最終的に人件費の差が建設費の安さに直結しますので国外の建設企業がメキシコで物件を受注しようとしても国内の大手企業に全く歯がたたない構図となっています。メキシコで上手くいっている海外会社は基本的に現地のゼネコンと組んで資材のみ輸出し加工と施工は完全にメキシコ企業にさせるのが通常です。　<br>日本とメキシコは自動車産業を中心にFTA(自由貿易協定)を結んでおりましたが最近また更に関税緩和を結んで日本に投資を期待しておりますので両国の建設関係のさらなるつながりも期待したいと思います。<br>
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<pubDate>Mon, 08 Sep 2014 22:27:28 +0900</pubDate>
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<title>メキシコの建築事情その３</title>
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<![CDATA[ メキシコには壁画の３代巨匠がいます。ディエゴ・リベラ、<br>ダビッド・アルファロ・シケイロス、ホセ・クレメンテ・オロス<br>コの3人です。　この中でオロスコがグアダラハラ出身の画家<br>です。　１９１０年ごろのメキシコ革命時期に彼らは一般の人た<br>ちに革命の思想を壁画で伝えました。メキシコ革命は一部の富を<br>搾取していたスペイン系白人に対し、貧しい生活を強いられてい<br>た原住民（インディオ）や混血人（メスティーソ）の農民や軍人<br>が立ち上がった革命ですが貧しい彼らにお金のかかる絵画ではな<br>くだれでも見れる壁画で思想を表現しようとしました。<br><br>壁画の内容は内容としてはメスティーソやインディオの民族主義<br>を表現するため、メキシコの伝統や歴史が多く取り入れられてい<br>ます。<br><br><br>オロスコの壁画もそれをモチーフとしていますが中でも代表的な<br>作品がグアダラハラの世界遺産となっているオスピシオ・カバー<br>ニャス（Hospicio Cabañas）のチャペルの天井にある炎の<br>人です。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/6a/7d/j/o0800060012989707023.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/6a/7d/j/t02200165_0800060012989707023.jpg" alt="hombre llamas" width="220" height="165" border="0"></a><br><br><br>このオスピシオ・カバーニャス（Hospicio Cabañas）です<br>がラテンアメリカでもっとも大きな総合病院かつ孤人院だったよ<br>うで１７９１年にグアダラハラ司教によって作られております。<br><br><br>建物は164メートル×145メートルの巨大な長方形を形作って<br>おり、一階建てで高さは7.5メートルです。チャペルのドーム<br>の高さは32.5メートルでとても美しい建築物です。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/70/09/j/o0500033312989707019.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/70/09/j/t02200147_0500033312989707019.jpg" alt="hospico cabanas" width="220" height="147" border="0"></a><br><br><br>現在は博物館及び公共のお稽古事の場として使用されている他、<br>先日メキシコ、米国、カナダの大統領の会談の場としても使われ<br>ており立派な世界遺産です。<br><br><br>またオロスコの壁画はグアダラハラのあるハリスコ州の州庁舎に<br>もあります。ここにはスペイン人からの独立の際立ち上がったミ<br>ゲール神父の有名な演説の絵画の他、メキシコ初めてのメスティ<br>ーソの大統領ベニートフアレスの壁画が見事に描かれております。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/1a/70/j/o0379047812989707020.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/1a/70/j/t02200277_0379047812989707020.jpg" alt="hidalgo" width="220" height="277" border="0"></a><br><br><br><br>これらのオスピシオ・カバーニャスと州庁舎の２つはグアダラハ<br>ラにご訪問の際は必ず見ていただきたいと思います。<br><br><br><br>もう一つグアダラハラの面白い建築物の一つがサンフアンデディ<br>オス市場です（Mercado de San Juan de Dios）<br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/b5/95/j/o0800060012989707024.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/b5/95/j/t02200165_0800060012989707024.jpg" alt="san juan de rios" width="220" height="165" border="0"></a><br><br><br>１９５８年に建設されたこの自由市場は４０００平米の空間をコ<br>ンクリートシェルで覆っている大空間構造で中に３０００店舗あ<br>るラテンアメリカでもっとも大きい室内市場です。<br><br>中に入っていますとその規模に圧倒されます。野菜、魚、果物、<br>洋服、靴、ｃｄ、ゲームなどなんでも安くあります。<br><br>ここで面白いのが市場のレストランで日本食があることです。実は<br>世界大戦中、当時貧しかった日本から多くの移民がこちらに来て<br>ここでレストランのビジネスをしていたそうです。ここで稼いだ<br>お金を日本に仕送りしていたようで日本に馴染み深い場所でもあ<br>ります。　グアダラハラに有名なCaldo Michiというナマズ<br>の入ったスープがあります。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/0e/b8/j/o0800050712989707021.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/0e/b8/j/t02200139_0800050712989707021.jpg" alt="caldo michi" width="220" height="139" border="0"></a><br><br><br>この料理は当時でこの市場で働く我々の祖先だった方が発明した<br>料理だということです。　<br><br>現在はこちらはあまり日本人がいませんが当時必死の思いで日本<br>を出国し異国の地でメキシコ人相手にビジネスをした我々の祖先<br>の方々に敬意を払いたいと思います。<br>
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<pubDate>Fri, 18 Jul 2014 07:47:43 +0900</pubDate>
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<title>メキシコの建築事情その２</title>
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<![CDATA[ 先日、メキシコの観光地アカプルコで大きな地震がありましたが今日はメキシコの地震についてお話させていただきます。<br><br><br>メキシコも日本と同じく地震があります。私が住んでいるグアダラハラはあまり揺れることがないのですが首都メキシコは大きな地震が頻繁にあります。<br><br><br>メキシコ市に出張に行くたびにいつも地震が来ないか心配になるのですが歴史を知るともっと怖くなります。<br><br><br>アステカ帝国が栄えていたころの１４世紀に初頭に遡ります。<br>アステカ人は非常に宗教心が強く、新しく都を築く場所は蛇をくわえた鷲がサボテンに止まている場所だという神官の予言にも基づき、それがあった現在メキシコ市があるテスココ湖湖岸の島とその周辺の沼地にテノチティトランという大都市を築きました。<br>（現在も蛇をくわえた鷲とサボテンが国旗になっています。）<br><br><br>当時３０万人の人口でパリとイスタンブールにならぶ世界有数の大都市だったと言われています。<br>（ちなみに現在のメキシコ市は人口２５０万人の巨大都市です。）<br>都市は湖に囲まれここを拠点として、西は太平洋沿岸、東は大西洋沿岸、南は今のペルー付近のインカ帝国あたりまであったといわれます。<br><br>１６世紀初頭にスペイン人が侵入し残酷なまでにアステカ帝国を滅ぼします。　男性を殺し女性に乱暴をするだけではなく彼らの崇拝している建物を徹底に壊します。神殿の上にはカトリックの教会が建てられ、物理的だけではなく心理的にも完全に制圧してしまいます。木端微塵につぶされた建物のガラクタや死体は湖の上に捨てられ埋め立ての材料に使われました。そうして出来た地が現在のメキシコ市です。　<br>メキシコ市を訪れる際に思うのはこの巨大都市はアステカの墓場の上に築かれた場所なんだと考えると複雑な気持ちになります。<br><br><br>ともあれ、メキシコ市は湖を埋め立てた上に建設された都市です。<br>従いまして当然地盤が弱いため地震にめっぽう弱いのは当然といえます。現地に住んでいる友達からもよく聞くのですが家の柱が少しずつ傾いてきたとか、梁が水平でなくなってきている、ドアが閉まりにくくなってきたとかよく聞きます。<br><br><br>最新の高層建物はかなり深い地盤まで杭を掘っているので大丈夫かと思いますが古い建物はちょっと危険かと思います。<br><br><br>覚えていらっしゃられるかと思いますが１９８５年９月にメキシコ大地震があり多くの建物が崩壊し１万人以上の死者が出ました。<br>メキシコ市から東京-大阪間ぐらい離れているグアダラハラでさえもかなりの揺れがありパニックぎみだったそうです。<br>（その後、メキシコ市は危険だということで大勢の人がグアダラハラに移住してきて現在のように都市が膨らんできたということです。）<br><br><br>メキシコ大地震のマグニチュードは８ですが震度は5強で他の大地震に比べると大きくないにもかかわらず多くの建物が崩壊した理由はやはり地盤にあったようです。　地盤が弱いため建物が沈下しやすく2秒位の揺れの間隔が長い地震がきたため、一部の建物が共振して倒壊したようです。<br><br><br><br>当時、ラテンアメリカでもっともモダンだとされ上流階級が住んでいたヌエボレオン棟という建物も地震で崩壊しました。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/6b/5e/j/o0720047812989700449.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/6b/5e/j/t02200146_0720047812989700449.jpg" alt="nuevo-leon" width="220" height="146" border="0"></a><br><br>建物の想定荷重より3倍の地震力が作用し低層階にヒビがは入り、建物の固有周期が1秒から2秒になり共振して崩壊にいたったとされています。<br><br><br>この大地震で多くの建物が壊れましたが問題なかった建物もあります。代表例が当時ラテンアメリカで最も高いビルだったラテンアメリカタワーです。<br><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/e4/42/j/o0640048012989700448.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/e4/42/j/t02200165_0640048012989700448.jpg" alt="torrelation" width="220" height="165" border="0"></a><br><br>これは妻に聞いたのですがメキシコ市以外の人は親類の行方が気になりその情報をテレビに委ねていましたが地震の揺れがかなり酷いにもかかわらず建物が崩壊するまで生中継で実況を行い続けた下記の中継はメキシコ人に今でも感動を与えているそうです。<br><br>https:<a href="http:////www.youtube.com/watch?v=4UqbteQsinE" target="_blank">//www.youtube.com/watch?v=4UqbteQsinE</a><br><br><br>現在に話を戻しますと、メキシコの設計は地震があるにもかかわらず一部の重要建築物を除き、耐震設計が甘いと言えます。<br><br><br>メキシコの設計は基本的に米国のものを真似たものになっていますが構造が軽視され意匠性とコストを優先されてしまいます。<br><br><br>そのコストについても賄賂が横行し厳しい役所のチェックがないために（むしろ役人がすすんで汚職しているので）設計が簡単に通ってしまいます。若い世代は此の汚職社会に疲れきっているので数十年後が変わってくると思うのですがこれが実情です。<br><br>個人的に日本のシステムのいい点だと思うのですが日本では大学の建築学科に入るとすべての学生がひと通り構造エリアを学び、実務になると建築事務所と構造事務所が独立に存在しています。<br>したがって建築をされる方が少なからず構造を大切に考えられているということがあると思います。<br>守備範囲がはっきりしている米国でさえもエンジニアリング事務所が独立していて責任範囲がはっきりしています。<br><br><br>メキシコの建築分野ではこれが弱みなところです。構造はあまり重要視されていなく意匠が完全に実権を握っているので設計事務所のなかに一分野として置かれているか、一握りの優秀なエンジニアが個人として下請けとして雇われているのような状況です。　<br>当然、コスト重視ですので徹底的に叩かれますので多くの学生は意匠の方に進みますので構造分野では人材不足です。　構造を希望する優秀な学生は米国など海外に流出しています。<br>しかしながら、最近はデザインが奇抜になってくる傾向があるので当然構造を軽視するどころか、構造を考えないと成り立たない構造デザインが見直しされてきているのはいい傾向だと思います。<br><br><br>世界一のメキシコの億万長者カーロス　スリムの博物館はいい例です。<br><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/16/31/j/o0742052212989700450.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140701/08/quickrendering/16/31/j/t02200155_0742052212989700450.jpg" alt="carlossllimmuseo" width="220" height="155" border="0"></a><br><br><br><br>地震に関しては日本の耐震設計の技術、法律のいい点がメキシコに採用する日が来る日も近いとおしゃっていた役人の方がいましたが早く構造を重要視される日が来るのを待ち望みます。<br>まずは汚職の一掃が先かなと思いますが…<br><br><br>
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<pubDate>Tue, 01 Jul 2014 08:01:22 +0900</pubDate>
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