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<title>新しい道</title>
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<description>私たちの生きている社会の基本的な概念や構成要素を改めて確認し、世界の中でのこの国に固有の条件を確認し、近い将来において私たちの社会のありうべき可能性を考えてみたいと思っています。</description>
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<title>理性と感情</title>
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<![CDATA[ <p>私は少年時代からナチズムに興味を持っていました。中学生のときには社会主義に興味を持ち、学生時代を通じて共感を抱いていました。資本主義の人類を呪縛する力を理解するようになったのは社会人になってからのように思います。<br>すでに還暦をすぎ、社会人としてのキャリアを終えたいまになっても、ナチズムへの興味は続いています。社会主義については1990年のソ連崩壊を見るまでもなく、すでに20代のころから失望していました。なぜなら、社会主義、さらに共産主義はその理論において、人間の感情や欲望を無視する、とまで云わないまでも軽視していると思われたからです。<br>ナチズムについては、いまでは全く共感するところがありませんが、人間の根源的な感情や不安感情に訴える力、魅力という点で、いまも興味を持っています。それは人間の逃れがたい弱さを虜にする媚薬と云ってもいいのかもしれません。<br>資本主義は人類が生み出した最も強靭なシステムであり、社会思想と云えるでしょう。なぜなら人間の欲望を肯定し、それを燃料として駆動する精緻で合理的なエンジンのような社会を実現するからです。<br>ただ、忘れてはならないのは競争を肯定する社会においては、必ず勝者と敗者が存在するということです。敗者にも生存する権利を認め、復活戦に挑む機会を与える、寛容で多様性のある社会を維持することに留意しなければならない。<br>敗者が固定されてしまうと精神的にも、生活のうえでも格差が広がり、これを放置すれば少数者への富と機会の偏在を促すことになります。その結果として、富と機会を得られない側に固定された多数の市民の中に、社会への怨嗟（ルサンチマン）が蓄積されていく。それがナチズムやファシズムへの呼び水になることは歴史が教えています。<br>人間は知性を有していますが、同時に感情の動物でもあります。生存に必要な欲求を越えた多様な欲望を持つ、おそらく唯一の動物でもあります。よりよい社会、バランスの取れた安全な社会を構築するための処方箋を考え出すだけの知性を、人間は持っているし、実はすでにそれを理性では理解しているのでしょうが、感情と欲望がその実現を常に妨げるのです。<br>世界の各地で教条主義的な宗教や思想、非合理な陰謀論が市民、大衆の心を捕え始めています。この国でも社会への怨嗟を動機とする殺傷事件が多発しています。個人テロが蔓延し始めていると云ってもいいでしょう。残念ながら私たちの世界は理性を離れ、感情と欲望の側へ流れつつあるようです。その先に待つのは破滅的な惨状であることは、これもまた歴史が教えているのですが。<br>&nbsp;</p>
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<pubDate>Thu, 21 Aug 2025 14:33:05 +0900</pubDate>
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<title>80年目の夏</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>以前「新しい道」で、日本は先の大戦での破滅的敗戦から70年の間、一度も戦争をせず、他国においてこの国の名のもとに一人の命も奪っていない。これは大きな外交上のメリットであり、できることなら戦後100年になってもこのメリットを保持していたいものだ、と述べたかと思います。その思いはいまも変わりませんが、世界の変化がその実現をますます難しいものにしています。<br>　筆者の両親は戦争経験者でした。両親から戦中戦後の悲惨な体験を聞かされて育ちました。東日本大震災の直後、津波に破壊された東北の市街の映像をテレビで見ていた母が、「終戦直後の東京みたいだわ」と呟いたのを覚えています。「よほど辛いことがあっても、戦争のときのことを思えば我慢できる」何か不幸なことがあると、母はそう口にしていました。<br>　旧職業軍人の一部を除いて、ほとんどの戦争経験者は「何があっても戦争をしてはいけない」「戦争だけは二度としてはいけない」と云います。それは記憶に刻みつけられた体感からくる感情であり、理屈を超えた意思なのだと思います。<br>　20世紀の終わりまで、そうした体感を持った人たちがまだ多く生存していました。それが理屈を超えたブレーキとなって、この国が「戦える」国になることを、抜ける剣を持つことを抑えてきました。しかし、21世紀も1/4を経た今日、戦争の体感を持つ人たちのほとんどはすでに世を去り、体感による戦争への忌避ブレーキは効かなくなってしまいました。<br>　人間は高度な知性を持ついっぽうで感情の動物でもあります。強烈な体験から生まれた感情は、しばしば理性を凌駕します。そうした感情を多くの市民が共有していれば、それは強い社会的なブレーキにもアクセルにもなるのです。<br>「失敗学のすすめ」の畑村氏によれば、失敗の経験による教訓の社会的有効期間はおよそ60年だとされています。その間に当事者がいなくなり、当事者意識が希薄になってしまうからです。80年という時間の経過が、体感からくるブレーキを無効にするのは当然と云えるでしょう。体感としての戦争体験を持たない世代は、記憶ではなく記録として、資料やデータを通して戦争を識るしかありません。<br>　この25年の間に世界の変化は加速し、経済的な相互依存による国際平和という、資本主義に基づく幻想は見事に裏切られ、国連安保理の常任理事国による隣国への侵略という事態に至って、いまや我々は国際法も国連による抑止も通用しない世界に生きています。<br>　本当に残念なことですが、自分の国はまず自分たちで守って見せなければならない、そうしなければ他国からの支援も得られない、という国際政治の現実を目の当たりにしています。「戦争をしない」けれども、有事には「戦える」国にならなくてはならない。抜ける剣を持たなければならない、という現実です。<br>　そして、持つからにはその剣の遣いかた、いつ抜くのか、抜いたときに何が起こるのか、どうすれば抜かずに生き残れるのか、それを真剣に考えなければならない世界に生きているのだという自覚を持たなくではなりません。<br>体感によるブレーキを失った以上、これからの操縦には理性によるブレーキしかありません。感情や情緒に流されることなく、Fakeに踊らされることなく、正しく検証された記録や資料、データに基づいて、どのような剣を持つのか、持ったうえでどうしたら抜かずに生き残れるのか、この国の行く先を選択していかなければなりません。<br>　そして、何よりも忘れてならないことは、戦争は畢竟人と人との殺し合いだと云うことです。記録や資料が示す数字は確かに理性的な判断の基になりますが、その数字の背景には多くの人の死があり、その死者の一人ひとりに家族や友だちや愛する人がいた、と云うことです。<br>いつかあなたもその一人になるかもしれないのです。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/raven2017/entry-12920734948.html</link>
<pubDate>Mon, 04 Aug 2025 13:53:22 +0900</pubDate>
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<title>政治と金と有権者</title>
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<![CDATA[ <p>与党議員の裏金疑惑で喧しい師走となりました。</p><p>相変わらず与党政治家と金のスキャンダルです。昭和の時代から一向に解消される気配はありません。内閣支持率は20％を下回りそうなほどの危機であるはずなのに、替わって政権を担えるような有力な野党も今の議会には存在せず、来年１月の通常国会では政治資金規正法の改正案が議論されそうですが、どうせお手盛りの与党案で小手先の規制強化がなされて手打ちになるのでしょう。ざる法はざる法のままで終わるに違いありません。</p><p>残念ながら、今のこの国には汚い与党と無能な野党しか存在していないようです。</p><p>そんな国の国民は不幸だ、とは思いません。なぜなら、そんな議員たちを選んだのは私たち国民だからです。</p><p>これもすでに「新しい道」で述べたとおり、この国の主権者は国民です。国民が選挙を通じてこの国の在り方を決めることに参加する権利が憲法で保障されているのです。選択に参加できる以上、その結果について責任を負わなければなりません。選択には常に結果に対する責任が伴うのです。主権者である国民が主権者として担うべき責任を自覚しない限り、自分たちの求めるような国の在り方は実現するはずがないのです。</p><p>おそらく政治資金規正法の改正では根本的な解決は望めないでしょう。</p><p>「政治には金がかかるのだ」「選挙には金がかかるのだ」それが現実であるなら、その現実を変えるにはどうしたらよいのでしょう。</p><p>なぜそんなに金がかかるのか？公設秘書のほかに多くの施設秘書を雇わないと政治活動ができない。実際には自分の選挙区のあらゆるイベント、祭り、集会に顔を出し、こまめに地元の陳情を受け付け、できるだけ多くの企業、団体に挨拶に行き、名前と顔を売る。対立候補より少しでも多く、自分で回れないところは秘書に回らせる。いわゆる溝板選挙です。しかし有権者の側がそんなことで投票先を左右されなければ、自分たちの選ぶ議員にそんなドさ周りではなく、提唱する政策や、公共のために行動した実績だけに基づいて投票するようになれば、そんなに多くのスタッフを抱える必要もないし、今の時代、金をかけない情報発信する手段はいくらもあるはずです。</p><p>そうは言っても、現実には、特に地方の選挙区では、そう簡単に市民の意識を変えることはできません。法律が規制を変えることよりも、人の意識を変えることのほうがよほど難しいし、時間もかかるものなのです。</p><p>それでも、ルールを変えることによって、市民、有権者の意識の変化を促すことはできるのではないでしょうか。</p><p>例えば、</p><p>１）国会議員の定年制を導入する。衆議院銀の被選挙権を25歳から65歳までとする。</p><p>２）現職にあった親と同じ選挙区からの立候補を禁止する。</p><p>３）同じ選挙区からの連続選出回数を3回までとする。</p><p>&nbsp;</p><p>１）は法律を作り、予算を承認する議員を一般社会の現役世代に担わせるため。</p><p>２）は世襲議員が選挙において圧倒的に有利となるような不公平を避けるとともに、選挙区における利権構造の固定化を抑制するため。</p><p>３）は有権者と特定の候補者の相互依存関係（癒着）を切り離すため。</p><p>上記のどれか一つでも実現できれば、有権者の意識も少しは変わると思うのですが。</p><p>筆者の期待は甘いでしょうか。</p>
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<link>https://ameblo.jp/raven2017/entry-12834453456.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Dec 2023 18:39:32 +0900</pubDate>
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<title>2023年を終えるにあたって</title>
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<![CDATA[ <p>とっくに忘れられたブログかとは思いますが、今年を終えるにあたっての個人的所感を述べておこうと思います。</p><p>残念ながら日本の国際的な競争力と地位の低下は歯止めがかからないようです。</p><p>経済力しかり、安全保障についてもしかり、技術力においても20世紀末に比べて見る影もないくらい沈下しています。</p><p>世界の変化を目の当たりにしながら、自分の国の産業の構造も、政界の構造も、教育制度も変えることができない。貧困の拡大も格差の拡大も解っているのに、じわじわと国民が貧しくなっていっているのに、この期に及んでなお「無事」にしがみついて、必要と解っている変化を先延ばしにしている。</p><p>来年以降もこの国の衰退は続いていくことでしょう。希望は限りなく薄いと筆者は感じています。</p><p>&nbsp;</p><p>ウクライナ戦争の長期化はもはや避けられないでしょう。そのことによって世界の分断とブロック化が進行していくことになるでしょう。そしてウクライナの勝利は不可能になっていくだろうと思います。</p><p>ロシアのような資源と広大な国土に恵まれた国と戦争をして、まがりなりにも勝利するには二つの可能性しかないのです。そのことは歴史が示しています。まともな総力戦をやれば、必ず最後はロシアが勝利することになります。ナポレオンもヒトラーも最後はロシアに（ソヴィエトに）敗れました。近世以降ロシアが国家として戦争をして敗北したのは２回だけです。</p><p>それは1905年の日露戦争と1917年の第一次世界大戦です。</p><p>日露戦争は圧倒的に国力で劣る明治日本が、総力を振り絞って一年足らずの短期に戦術上の勝利を重ね、ロシアが総力戦に乗り出す前に第三国（アメリカ）の仲介を得て何とか形ばかりでも勝ったようね体裁を整え、それでも日本政府の当初からの戦略目的（南満州からロシアの影響力を排除する）を実現した、とういものです。あと半年戦争が継続していたら、日本は確実に敗北していたはずです。</p><p>そして、すでに「新しい道」で述べたように、日露戦争の戦費調達のために背負った莫大な借金（国債）を完済するのに1980年代までかかりました。</p><p>第一次世界大戦でのロシアの敗北は1917年に起こった「10月革命」のためです。長引く戦争と犠牲者の増大により前線の軍内部で兵士の反乱が起こり、首都ではボルシェビキが指導する革命が起こり、内部からロシア帝国が崩壊したことによって戦争継続が困難になったのです。</p><p>この二つの歴史上の事実が教えているように、ロシアのような大国に勝利するには、短期間に軍事的勝利を確保しつつ、第三国の仲介によって有利な条件で講和するか、ロシア国内の要因によって戦争継続を困難にさせるか、しかないのです。</p><p>ロシアのウクライナ侵攻からすでに2年、この秋の反転攻勢も失敗に終わったことで、もはや日露戦争型の停戦、終戦は不可能になりました。一方でこれほどの兵士の犠牲を出しながら、言論の弾圧を受けながら、ロシア国内でのプーチンへの支持は崩れず、兵士の組織的反乱も起こっておらず、現体制が内部から崩壊するような兆しは見られません。来年3月にプーチンが再選されればあ、この戦争は何年も続き、最後にはロシアが勝利するでしょう。そのとき私たちは武力による現状変更を国際社会が阻止できなくなった世界に直面することになります。日本はそんな世界でどう生きていくことになるのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/raven2017/entry-12834374015.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Dec 2023 02:29:24 +0900</pubDate>
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<title>治療薬はどうした？</title>
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<![CDATA[ <p>今回は簡潔にいきます。</p><p>新型コロナウィルス感染流行も第8波に入ったと云われるようになりました。</p><p>国民の多くが去年がら待ち望んていたのが経口治療薬です。</p><p>国産の治療薬開発は2020年から始められていて、少なくとも塩野義製薬が開発していた経口治療薬は今年9月には認可される予定だったはずです。</p><p>それが厚労省の審査会を通らなかったために11月（今月）の再審査を待つことになったと報道されました。</p><p>第８波到来が叫ばれる一方で、塩野義の治療薬承認の話は一向に出てこない。</p><p>いったいどうなっているのでしょう？</p><p>9月の審査の際にも、医療の現場では認可されることが強く望まれていました。</p><p>軽症段階で服用することでウィルスの増殖を抑制する効果があることはすでに確認されているのですから、重症化を防ぎ、医療現場の負担を軽減する可能性は充分にあったのです。</p><p>しかし、マニュアル通りの認可基準では個々の症状についての改善効果、例えば頭痛が治まるとか、咽喉の炎症がひくとか、明らかな解熱効果があるとか、が確認できなかった、という理由で認可されなかったのだ、と云われています。</p><p>しかし、新型コロナウィルスのパンデミックに特化して考えれれば、感染が確認された時点でウィルスの増殖を抑え、インフルエンザ程度の症状までで重症化を防ぎ、回復に導く、と云うことで充分に有効であると思うのです。</p><p>流行の拡大時にも医療現場の負担、患者の負担ともインフルエンザ程度に抑えられれば、with coronaでの経済活動も維持できることになります。</p><p>第７波が終息しているうちに承認を進めて使えるようにしておけば、今頃大騒ぎをしなくても済んだはずです。</p><p>なのになぜ国産の治療薬が認可されないのか？</p><p>何事にも果断さを欠く今の政権のやる気のなさなのか？</p><p>前例に固執する厚生官僚の因循姑息な官僚体質のせいなのか？</p><p>あるいはすでに認可されているアメリカ製治療薬の利権が絡んでのことなのでしょうか？</p><p>日本における新薬承認は先進国の中で最も時間がかかると云われています。</p><p>その実態は国民に広くオープンになっておらず、伏魔殿のようです。</p><p>慎重、と云えば聞こえはいいですが、欧米で認可されるものが日本では認可されなかったりする。日本だけが欧米人に比べて繊細な肉体を持っている、とでも云いたいのでしょうか？　だとしたらあからさまな人種差別でしょう。</p><p>日本国民はいつまで待たされるのでしょうか？　</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Mon, 21 Nov 2022 20:08:33 +0900</pubDate>
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<title>新しい道　修正９（国民の意志）</title>
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<![CDATA[ <p>ロシアのプーチン大統領の愛読書のひとつが、トルストイの「戦争と平和」だそうです。この長大な小説の末尾には、これまた長大なエピローグが添えられています。トルストイはそこでこの小説を書いた動機と、この小説によって述べようとした主題を自ら論じています。それは、歴史を作るのは民衆の力、「国民の力」であるということです。</p><p>ナポレオン率いるフランスとその支配下にあるヨーロッパ諸国の大軍による侵略によってモスクワを占領されても戦い続け、ついにナポレオンを敗走させ、ロシアの国土から追い払ったのは、なによりもロシアの民衆、国民の意志と力だった、と云うのです。</p><p>&nbsp;</p><p>現在進行しているウクライナ戦争を見ても、それが証明されているように思われます。皮肉なことに、ロシアのプーチンの侵略に対して国民の意志を発揮しているのはウクライナですが。</p><p>祖国の国土奪還を戦争目標とするウクライナは、すでに9か月の総力戦に耐え、ウクライナ軍はいまだに高い士気を維持しています。一方で軍事大国であるはずのロシアは、当初圧倒的な兵力と物量をもって侵攻したものの、初めから士気の低さが指摘されており、戦況が悪化しても民意の離反を恐れて総動員をかけることができずにいます。軍事大国であっても、民意がついてこなければ総力戦は実現できないということです。</p><p>戦争の長期化で兵員不足に窮したロシアでは、部分動員を始めましたが、始めた途端に成人男性の国外脱出が加速し、わずか２週間で20万人を超える国民が国外へ逃げてしまいました。動員された人数よりも国外へ脱出した人数のほうが多いというありさまです。</p><p>&nbsp;</p><p>独裁政権の下では強権によって言論を弾圧し、反対派を暴力で排除したうえでメディアを操作し、強力なプロパガンダによって民意を誘導することで、国民の意志を政権の望む方向へ統一しようとします。現在のロシアでもある程度それは成功しているように見えます。</p><p>かつてナチスは「一つの民族、一つの国家、一人の指導者（総統）」というスローガンを国民に刷りこみ、ヒトラーへの忠誠を求めました。実際に多くのドイツ国民はヒトラーを熱狂的に支持したのです。</p><p>しかし、こうしたマスメディアを支配しプロパガンダをくり返すことによって民意を誘導し、国民の意志を統制することができたのは20世紀までのことでしょう。</p><p>21世紀はインターネットの普及により世界的な情報革命の最中にあります。SNSによって個人が情報を発信し、情報を集めることができる時代です。政府による情報統制には限界があるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも、最終的に勝利したのは民主主義国家が主体の連合軍でした。20世紀においてさえそれが歴史の示す現実だったのです。</p><p>一見したところ民意の誘導と統制が容易で、国家総動員体制を取りやすい独裁国家のほうが、戦争には有利なように思われますが、何故民主主義側の勝利に終わっているのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>このブログでもくり返し述べてきたように、民主主義という制度は手間も時間もコストもかかる政治システムです。選挙を行うにも、議会を維持するにもそれなりに費用がかかりますし、手間もかかります。議会での議論を経なければ法律を作ることも、予算を成立させることもできません。議会での議論を通じて、あるいは選挙運動を通じて、自分たちの政策に対する国民の理解と支持を訴え続け、民意の支持を、すくなくとも選挙で勝てるだけの支持を取り付けなくてはなりません。</p><p>戦争のような非常事態に対応するには不利なように思われます。独裁政権のほうが即断即決、命令一下迅速に軍事行動を起こして、効率よく総力戦を戦えそうです。</p><p>しかし、局地紛争ならともかく、国家間の総力戦となると戦争は長期化します。逆に戦いが長期化すれば総力戦にならざるを得ません。長期戦を戦い続けるには軍人や官僚組織だけでなく、一般国民の生活にも重い負担を求めなければならなくなります。犠牲も甘受してもらわなければなりません。本当の意味で国民の意志と力が問われるのはこの段階なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>国民に負担を求め、犠牲を受け入れてもらうためには、最低限以下のことが必要であると筆者は考えます。</p><p><!--[if !supportLists]-->１．<!--[endif]-->多くの国民にとって納得できる、同意できる戦争目的が明確に説明されていること。</p><p><!--[if !supportLists]-->２．<!--[endif]-->自由な議論が行える環境の下で国民の総意に基づいて成立した政府の決断であること。</p><p><!--[if !supportLists]-->３．<!--[endif]-->戦争を遂行している政府が自分たちが選択した政府であるという自覚を国民が持てること。その自覚によって自分たちにも戦争についての責任があるという意識を持つこと。</p><p><!--[if !supportLists]-->４．<!--[endif]-->自らの国土と自由への愛着。</p><p>&nbsp;</p><p>１は国民の総意形成に不可欠です。２は政府への信頼を維持するうえで不可欠です。３は国民が自ら当事者意識をもって事態を受け止めるために不可欠です、それがなければ国民は戦争によって強いられる負担と犠牲に耐えられないでしょう。</p><p>４は祖国防衛戦争においてしか通用しない条件です。侵略者に敗れれば、侵略者の意志の下で国民の意志は制約され、もはや自分たちの意志で自分たちの運命を決定することができなくなるのです。移住を強制され、自分たちの国土を捨てなければならなくなるかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>これも「新しい道」の中で述べましたが、民主主義が他の統治システムより優れている点は、統治される国民自身が主権者であるということです。言い換えれば、統治される国民が自ら国家の運命（＝自分たち国民の運命）の決定に参加できる、ということです。</p><p>知らない間に誰かが決めたことでこんなひどい目にあってしまった、ということにはならない。ひどい目にあったとしても、それは自分たちが選択に参加した結果なのです。ですから国民は主権者としての選択に責任を感じなければなりません。</p><p>ですから、上記の１から３の要件を満たすたことができるのは民主的な制度、政府を持つ国家だと云うことになります。</p><p>また、４についても、国民の自由と民主主義が実現されている国では、それを守るために国民は積極的に戦おうとするでしょう。もともと独裁政権の下で服従を強いられている国民であれば、強いられた服従の一部として戦争を受け入れるでしょうが、生命と生活の安全が保障されるならば、支配者が変わることにさほど抵抗は示さないでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>戦争において国民の意志は国家の継戦能力を支える最も重要な要素なのです。</p><p>過去のベトナム戦争を見ても、現下のウクライナ戦争を見ても、それは明らかです。</p><p>どれほど優れた装備を持っていても、物量と動員力を持っていても、民意が支えなければ戦争は続けられないのです。</p><p>日本は民主主義国家です。日本が現実に侵略を受けたとき、地域紛争に巻き込まれたとき、民主的な選挙で選ばれた政府の下で、その決断に従って戦い抜く国民の意志を日本国民は示せるでしょうか？　その責任と覚悟を意識できる国民なのでしょうか？</p><p>残念ながら筆者には疑問です。</p>
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<link>https://ameblo.jp/raven2017/entry-12769860245.html</link>
<pubDate>Mon, 17 Oct 2022 15:53:51 +0900</pubDate>
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<title>新しい道　修正８（経済安全保障）</title>
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<![CDATA[ <p>すでにくり返し報道され、解説されているとおり、ロシアによる合理性を欠くウクライナへの侵攻、習近平指導の下での中国の一方的な現状変更への行動を受けて、冷戦終結以来続いてきた経済のグローバル化が見直されつつあります。</p><p>日本でも経済安全保障という言葉が使われるようになりました。</p><p>筆者が社会人になったのは1980年代の初めです。最初に勤めた会社で貿易実務を担当しました。当時は製品の輸出先によってはCOCOM（対共産圏輸出規制委員会）による規制に抵触しないか確認を要するケースがありました。世界は資本主義経済圏と社会主義経済圏に分断されていました。経済的な関係がまったくなかったわけではありませんが、様々な規制や政治的な理由により、大幅に制限されていました。当然それぞれの市場も限られていました。</p><p>1989年に冷戦が終結し、ソ連が崩壊し、ロシアが資本主義経済へ移行すると、1990年代から世界経済は急速にグローバル化していきました。市場経済という共通のルールの下で、世界全体がひとつの経済圏となり、ひとつの市場となっていったのです。社会主義国であるはずの中国が、改革開放の流れの中でWTOに加盟したのは象徴的な出来事でした。</p><p>1990年代から2020年までの約30年間、世界の経済は、地球上で最も安く供給できるところから原料を調達し、最も安く加工できるところで加工製造した製品を、世界市場へ向けて販売する、という共通の資本主義のゲームを世界中に広げようとしてきました。そうすることで、民族、宗教、文化的な価値観の違いを越えて、世界の国々が同じゲームに参加し、互いに経済という共通の絆で絡み合うことによって、相互依存の関係を成立させる。それが経済関係に根ざした相互の安全保障を実現すると考えられてきたのです。</p><p>しかし、資本主義は競争を肯定するシステムです。競争には必ず勝者と敗者がいます。ゲームが大規模になり、掛け金が上がるほど、勝者と敗者の間の格差は大きくなります。相互依存と云いながら、格差が固定していくと、そこには不公平感が生まれます。その蓄積が資本主義経済の手に絡み取られた世界に軋みと歪みを産んでいくことになります。</p><p>もしかしたら資本主義一辺倒で走り続けた30年で、すでにこのシステム、このゲームには機能不全が生じていたのかもしれません。いずれにせよ、今年2月のロシアによるウクライナ侵攻は、経済的相互依存による安全保障という理想の脆さを世界に突きつけました。</p><p>東欧の2か国の半年の戦争によって、世界の食料供給は大きな影響を受け、多くの国がエネルギーの供給危機に直面しています。</p><p>&nbsp;</p><p>日本は資源を持たない国です。国際的なサプライチェーンのどこかが破綻すれば、産業も経済もたちまち影響を受けることになります。まして日本が紛争の当事者となるようなことになれば、数か月で産業は麻痺し、経済は破綻してしまうでしょう。</p><p>地震と火山活動の活発な日本でエネルギーの自給率を確保するには、再生可能エネルギーの開発促進と、水素エネルギーの実用化促進しかないと考えます。</p><p>もちろん、日本は開かれた経済を維持すべきであり、海外からの原料の供給を確保し、海外に製品の市場を求めていかなければ、今日の国民の生活水準を維持することは不可能です。</p><p>しかし、ウクライナ戦争開始以来のロシアとEU諸国の状況を見れば、今後はエネルギー、諸原料、食料、肥料、食品原料、レアメタル、等々、その供給元を少なくとも社会的価値観を共有できる諸国に求める必要があるでしょう。少なくとも政治的に信頼できる国でなければならないでしょう。</p><p>本当に残念なことですが、世界は再び二つのブロックに分断されようとしています。アメリカ、EUを中心とする民主主義に基づく社会的価値観を共有する国々のブロックと、ロシア、中国など、民主主義には拘らない、独裁政治や専制政治を肯定する国々のブロックです。</p><p>日本は当然ながら前者の一員ですし、今後ともそうあるべきだと思います。従って日本にとっての優先的な原料の供給元も製品の市場も前者の経済圏となっていくことになります。</p><p>&nbsp;</p><p>世界が二つの経済圏に分割されれば、当然ですが原料の供給元の選択肢も限られてきます。必ずしも最も安いところから供給を得られるとは限りません。加工、製造についても同様です。最も安く加工できるところに工場を置けるとは限りません。市場についてもしかりです。市場が世界の半分になれば、それだけ生産量も販売量も減少することになります。</p><p>製品によっては価格の上昇が避けられないでしょう。エネルギーについても、安価な輸入エネルギーに全面的に依存することが安全保障上の懸念となる以上、コストの高い自給エネルギーも使っていかなければならないでしょう。</p><p>非常時に対応する準備、備えだけでなく、世界経済のブロック化が進行したとしても安定したサプライチェーンが確保できるような国際関係を再構築していくこと、そして、その結果として生じるであろう国民生活への様々な負担（電気料金、ガス料金、食品価格、等々）を経済安全保障のいわば保険料として国民に甘受してもらうよう説明を尽くすこと。いずれも必要になってくるでしょう。</p><p>世界は変わってしまったのです。国民のMind Setも変わらなければならないでしょう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/raven2017/entry-12767843428.html</link>
<pubDate>Wed, 05 Oct 2022 14:25:41 +0900</pubDate>
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<title>国葬が行われました</title>
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<![CDATA[ <p>以前にも述べたとおり、筆者は安倍晋三という政治家は、功罪相半ばする極めて日本的な政治家の一人だと評価しています。</p><p>功罪それぞれの内容については今後さらに多くの事実が明らかにされ、研究が進んだのちに評価が定まってくることでしょう。</p><p>彼の政治家としての偉大さを首相在任期間の長さを持って証左とすることには疑問があります。確かに国勢選挙に勝ち続けたということは、その都度国民に支持された、と云うことになるのですから、人気はあった、と云われれば否定できません。</p><p>しかし、忘れてはならないのは、第二次安部政権は、その前の民主党政権への国民の幻滅の反動として誕生したと云うことです。そして、その後今日にいたるまで、政権を争い得るような強力なとは云わないまでも、「まとも」な野党が国会に存在していないという「不健全」な政治状況の中で実現した長期政権だったということです。</p><p>外交で大きな成果を上げた、と云う声も多いようですが、小泉政権の後はすっと首相が1年そこそこで変わるという状態が続いていましたから、安定した政権が諸外国から歓迎され、厚遇されたのは当然の成り行きでしょう。</p><p>ところで小泉政権は北朝鮮訪問を実現し、拉致被害者を5人連れ戻しました。安倍政権は8年余りかかってどんな外交成果を残したでしょう。</p><p>佐藤栄作は首相として沖縄返還を実現し、ノーベル平和賞を受賞しましたが、国葬はされませんでした。</p><p>これも以前に述べたことですが、安倍政権は強い国民の支持によって無敵だったのではなく、議会にまともな敵がいなかったのです。</p><p>議会にまともな敵がいなかったために、彼の政権はしばしば議会を軽視する傾向を見せました。結果的に今日の国際情勢（ウクライナ戦争と台湾海峡の緊張）の中では有効な法整備だったと云えると思いますが、安保法制を成立させた過程もそうでしたし、政権終盤で明らかになった不正疑惑への対応についてもそうでした。</p><p>そうした政権与党の議会軽視の姿勢がそのまま後継政権に引き継がれた結果が、法的根拠が薄弱なままの国葬の強行だったのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>日本の社会科の教科書では議会（国会）の役割を立法（法律を作る）、政府の役割を行政（法律を施行する）、裁判所の役割を司法（法律を守る）ということで三権分立を教えています。それぞれの機能としてはそのとおりですが、この定義、説明は不十分です。</p><p>そもそも議会は何のために作られたのか。それは君主（権力）が勝手に税を取り立てることを阻止するため、勝手に税金を使うことを阻止するためです。ですから、三権分立の民主主義の下では、主権者であり納税者である国民を代表して、為政者である政府がどのように税金を使うのか、正しく税金が使われているのか、を監視することが議会の第一の役割なのです。</p><p>ですから議会の承認なしには政府は予算を成立させ、予算に従って行政活動を実施することはできないことになっています。戦前の大日本帝国憲法でも、予算の承認権は衆議院に与えられていました。戦前の政府と云えども、予算の承認権によって衆議院による制約を受けていたのです。</p><p>今回の国葬には明確な法律上の根拠がありません。法律上の根拠のない事業を全額国費（税金）で行うというのに、議会の承認はおろか、諮問さえしないうちに行政府の一存で決めてしまい、実行してしまった。これは税金の不当な使用だったと筆者は考えます。</p><p>&nbsp;</p><p>少し話は飛躍するかもしれませんが、1933年3月、ヒトラーが政権を獲得してから3か月後に議会を通過させた、いわゆる「全権委任法」はわずか5か条の時限立法でした。その要点は、政府が議会の承認なしに法律を定めることを可能にする、という点にありました。たったそれだけで民主的な憲法の下でも独裁政権は成立するのです。</p><p>行政府の力が議会をOverrideするような事例を既成事実として看過していくことは、民主主義にとって実は極めて危険なことだと筆者は考えています。</p><p>こうした政府与党の驕り、議会軽視の傾向は、つまるところ政権交代への恐れがないことに起因しています。政権交代のない国家では必然的に民主主義は堕落していく。これは避けようのないことなのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/raven2017/entry-12767526388.html</link>
<pubDate>Mon, 03 Oct 2022 17:30:40 +0900</pubDate>
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<title>新しい道　修正７（継戦能力）</title>
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<![CDATA[ <p>ひとたび刀を抜いたら、相手が倒れないまでも引くまで、刀を振るって戦い続けなければなりません。ウクライナでの戦争を見ても、相手の侵略意図を挫くまで戦いは続くことになります。日米安保条約があっても、アメリカ軍が主力となって参戦してくれるまでは自らの自衛力によって戦わねばなりませんし、アメリカの参戦後も共に戦い、支援し続けなければならなりません。</p><p>すでに「新しい道」で述べたように、戦争資源を国内にほとんど持っていない日本には、本来「戦争」というオプションはあり得ません。総力戦を戦える国ではないのです。必然的に日本に可能な戦い方は、局地戦で短期に敵の侵略意図を阻止することを軍事目的とすることになります。しかし戦争とは、相手の望まないことを互いに強いるものなのです。常に相手の想定外のことを、相手が嫌がることを強いることで勝利を得ようとするものなのです。</p><p>ですから、日本を侵略しよう、日本から領土を奪おう、日本の主権を自国に従属させようとする敵は、日本に短期の軍事的解決を許そうとしないでしょう。日本に長期の持久戦を強いようとするでしょう。</p><p>そのような状況では日米同盟によるアメリカの参戦と支援が不可欠となります。今日のアメリカの国情を考えると、アメリカのみでは足りないかもしれません。EUやオーストラリアなどからの支援も必要となるでしょう。しかし、それ以前に、日本自身が継戦能力を保持しておくことが必要です。</p><p>軍備というものは平時には極めて非生産的な投資です。平和であれば、いくら砲弾を作っても、ミサイルや魚雷を作っても、銃や弾丸を生産しても、富を生むことはありません。しかし、一旦軍事紛争が発生すれば、その備蓄の多寡は国家の運命にかかわります。</p><p>「たまに打つ弾がないのがたまにきず」とは自衛隊あるあるとして云われることですが、一定の継戦能力を保持するためには、それに充分な兵器弾薬の備蓄は必須です。また、一旦戦闘が始まれば、兵器弾薬は消耗される一方となりますから、当然補充生産する能力も必要となります。当たり前のことですが、平時と同じ生産レベルでは到底追いつきません。</p><p>継戦能力を保持するためには、有事（非常事態）における生産動員、産業シフト、それに対する国家補償の制度、さらには負傷兵の治療看護、補充兵の募集、訓練の制度準備、生産に必要なインフラの防衛体制、資源の確保、そのための民間協力体制の準備、等々、準備し、備えておかなければならないことが山のようにあるのです。</p><p>そのどれ一つ取っても、今の日本ではまったくと云っていいほど考えられていないか、考えられていても現実化されていません。</p><p>これでは抜ける刀を持っても、抜いた刀で戦い続けることができません。勝利は覚束ないのです。備えあれば憂いなし。時間的な猶予はもうあまりないように思えるのですが。</p>
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<link>https://ameblo.jp/raven2017/entry-12765452229.html</link>
<pubDate>Wed, 21 Sep 2022 12:15:33 +0900</pubDate>
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<title>新しい道　修正６（抜ける刀を持つ）</title>
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<![CDATA[ <p>どんな名刀も抜くことができなければ、ただの飾り物、よくて鑑賞用の美術品でしかありません。</p><p>日本の自衛隊は常に定員割れしているとはいえ、その装備、技術、予算はいずれも世界でも一流レベルだと云われています。海上自衛隊の戦力はアメリカ、中国、ロシアに次いで世界第四位だという評価もあるようです。</p><p>しかし、海上自衛隊は戦力とは云えません。海自だけではありません。航空自衛隊も陸上自衛隊も現実には戦力とは云えません。なぜなら、いずれも抜けない刀だからです。</p><p>1945年の破滅的敗戦により日本は戦争をしない国として再生しました。戦争をしない、戦争に直接かかわらないことで、限られた国力を経済に集中投下し、高度経済成長を実現し、ほとんど10年毎に戦争をしていた大日本帝国よりはるかに豊かな国となることができました。国民の生活水準についても世界でも有数の豊さを実現してきました。</p><p>日本国憲法は破滅的敗戦への反省から、この国を戦争をしない国と規定しました。20世紀において、冷戦の時代において、それは正しい決意だったと思います。筆者は今もそう信じています。以前このグログで「70年余りにわたって国の名の下に一発の銃弾も撃たず、国外において国の名の下に1人も殺していない」ことを、日本しか持っていない貴重な外交カードであると述べました。今もその考えに変わりはありません。</p><p>一方で、抜ける刀を持つことで初めて生まれる自覚もある、と述べてきました。</p><p>抜ける刀を持つことで初めて、いつ抜くのか、どう抜くのか、抜いたら何が起こるのか、抜いたらどう戦わなければならないのか、抜いた刀をどう納めるのか。そうしたことを具体的に考えるようになります。具体的に考えることで、刀を抜くことへの覚悟と自覚が生まれます。</p><p>戦争をしない、と規定した国の防衛力として創設された自衛隊は、従って実戦を想定していない軍事組織です。現場の部隊はもちろん実戦を想定して訓練を続けており、実戦を想定して装備も整えているのですが、その活動を現実的に可能とするような法律上の規定、経済、産業面での支援体制、部隊の移動手段、住民の保護や避難、負傷兵の受け入れ準備、等々、具体的には何も用意されていません。</p><p>つまり、自衛隊という刀は、名刀かもしれませんが、その抜き方が決まっておらず、誰も抜き方を知らないので、現実には抜くことができない刀なのです。抜くことのできない刀は誰も守れません。</p><p>冷戦時代、核による抑止が信じられていた時代には、日本は日米安保条約を信じて、アメリカの核の傘の下で、在日米軍の存在によって、自ら主体的に戦うことを考えなくてもやってこられたのです。そのほうがよかったのです。誰も自分の恋人や家族が戦場に行くことなど考えたくはないし、考えずにすむのであればそれでよし、としてきたのです。</p><p>その結果、日本は77年間の平和を享受してきました。</p><p>しかし、本当に残念ですが、世界は変わってしまったのです。中国は初めて日本のEEZ（排他的経済水域）の中に弾道ミサイルを撃ち込んできました。意識して打ち込んできたのです。</p><p>中国は台湾との緊張関係の中で、台湾海峡の中間線を認めないと行動で示し、日本のEEZも認めないと行動で示しました。地理上の主権の在り方について現状変更の意志を行動で示したのです。</p><p>国土とそこに暮らす国民の生活の保全は国家の存在理由の第一です。そして、ウクライナの戦争を見ても明らかなとおり、核兵器を恫喝の手段とする国家が相手の場合、アメリカの行動は規制されるのです。ロシアを短期に決定的に敗北させるような援助はしてくれない。ウクライナ人は自分たちの犠牲を顧みず長い戦いを強いられています。</p><p>相手が中国にせよ、北朝鮮にせよ、ロシアにせよ、日本の主権線に侵攻されたときには、日本人がまず自らの刀を抜いて戦ってみせなければ、そして、アメリカの国益のためにアメリカ国民の血を流しても援助する価値があるのだ、ということを証明して見せなければ、アメリカもイギリスもＥＵもオーストラリアも、日本を積極的に支持し、支援してはくれないでしょう。そういう世界になってしまったのです。</p><p>であるならば、世界の変化に適応して抜ける刀を持つほかないではありませんか。</p><p>自衛隊を抜ける刀にするためには何をすべきか、早急に、真剣に、考えなければならない局面にあるのだと思います。</p><p>たった一発の巡航ミサイルが、駅や集合住宅や、ショッピングセンターに着弾しただけで、何十人もの無辜の市民が殺されるのです。毎日ウクライナからのニュースで見るような光景を、日本では見たくない。そのためなら20世紀の考えかたは捨てなければならない。先送りできないところまで来ている、筆者はそう感じています。</p>
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<link>https://ameblo.jp/raven2017/entry-12764809710.html</link>
<pubDate>Sat, 17 Sep 2022 18:39:18 +0900</pubDate>
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