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<title>岩崎公宏のブログ</title>
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<description>湯けむりの町　大分県別府市　鉄輪（かんなわ）からの徒然草</description>
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<title>第三の男　　その１４８</title>
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　日清戦争の講和交渉が山口県の下関で開催された。明治になってから近代の日本が最初におこなった対外戦争が日清戦争だった。１８９５年（明治２８年）４月１７日に下関講和条約が締結された。戦争に勝利したことで、莫大な賠償金と領土などを得ることができた。　太平洋戦争で大日本帝国が惨敗したあと戦後の日本では、とにかく戦争は悪いという考えが絶対的な金科玉条のようになっている。しかし戦前の日本では必ずしもそうではなかった。その要因というのが日清戦争の戦果にあったと私は考えている。国民にあまり負担を与えることなく
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<dc:date>2019-01-31T15:59:39+09:00</dc:date>
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<title>第三の男　　その１４７</title>
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　ヴィルヘルム２世は父親のフリードリヒ３世が亡くなった１８８８年（明治１１年）６月１５日にドイツの第３代皇帝に就任した。ドイツだけでなくプロイセンの第９代国王にも就任している。　フリードリヒ３世が５６歳という当時としては高齢で就任したのとは対照的に、ヴィルヘルム２世は２９歳で皇帝になった。結局、そのあと第１次世界大戦に敗れて１９１８年（大正７年）１１月に退位するまで皇帝の地位にあった。　皇帝に就任したときの年齢が若かったことで、どのように対応するかは人によって違うと思う。若さから来る経験の欠如を
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<dc:date>2019-01-29T23:14:34+09:00</dc:date>
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<title>第三の男　　その１４６</title>
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　ドイツにとって１８８８年（明治２１年）は節目の年になった。その１３６でヘルムート・フォン・モルトケの晩年のことを書いた際に触れたように、ドイツ初代皇帝であるヴィルヘルム１世が亡くなったからだ。　ヴィルヘルム１世は１８６１年に亡くなった兄のヴィルヘルム４世の後を継いでプロイセンの第７代国王に就任した。翌年には首相にビスマルクを就任させた。国王と首相との意見や考えがいつも一緒だったわけではなく対立することも少なくなかったと言われている。　ヴィルヘルム１世というと普仏戦争の勝利によって誕生したドイツ
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<dc:date>2019-01-26T23:29:30+09:00</dc:date>
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<title>第三の男　　その１４５</title>
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　アフリカ大陸もアジアと同様にヨーロッパ列強による植民地支配が進んだ。　１８７５年（明治８年）にはイギリスがスエズ運河を買収してエジプトに進出した。さらに１８８２年（明治１４年）にはエジプトを保護国にして支配したにおさめた。アフリカの北側からだけでなく南側のケープタウンにも根拠地を持ちここからも植民地の拡大を図った。北側と南側から植民地を広げる方法から大陸縦断政策と称されている。　フランスはジュール・ド・ポリニャックが首相を務めていた１８３０年６月にオスマン帝国の支配下にあったアルジェリアに軍隊
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<dc:date>2019-01-23T23:58:15+09:00</dc:date>
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<title>第三の男　　その１４４</title>
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　１８７８年（明治１１年）のベルリン会議のあと地中海への南下政策を阻止されたロシアはドイツと袂を分かつことになった。誠実な仲介人を自称していたビスマルクの外交政策にやられたという意識があったのだろう。ドイツから離れてフランスに接近する姿勢を見せた。これによって１８７３年（明治６年）に締結されたドイツ、ロシア、オーストリアー・ハンガリーの三帝同盟は破綻してしまった。　ロシアの復讐に備えてドイツは翌年にオーストリアー・ハンガリーとの同盟を強化した。　アフガニスタンをめぐってイギリスとロシアが対立した
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<dc:date>2019-01-19T23:42:03+09:00</dc:date>
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<title>第三の男　　その１４３</title>
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　ドイツ、ロシア、オーストリア＝ハンガリーの三国同盟が締結された４年後の１８７７年（明治１０年）にバルカン半島に居住するスラブ系の住民がオスマン帝国の支配に反対して反乱を起こした。スラブ系の住民たちを支援することを口実にして、ロシアが４月にオスマン帝国に宣戦布告して露土戦争が始まった。ロシアとオスマン帝国が戦う「露土戦争」が何度も出て来るけど、狭義の意味での「露土戦争」というとこの戦争を指している。　ロシアが優位に戦争を進めた。翌年の３月にはオスマン帝国の首都のイスタンブールの近郊にまで迫り、サ
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<dc:date>2019-01-14T22:52:55+09:00</dc:date>
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<title>第三の男　　その１４２</title>
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　ドイツが普仏戦争に勝利したあとの外交政策について書いておきたい。戦争をやらない現状維持の現実的な外交政策を採用した。普仏戦争が終了したあと１９１４年（大正３年）に第１次世界大戦が起こるまで、ヨーロッパ大陸では大国同士が激突する大規模な戦争はなかった。この理由はドイツの外交政策がその基盤にあったと私は考えている。　ヨーロッパの中心に位置するドイツが戦争を起こせば、周辺諸国にその影響が及ぶことは免れない。普仏戦争に勝利した直後のドイツには、ヘルムート・フォン・モルトケが参謀総長として在任だったし、
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<dc:date>2019-01-11T22:23:20+09:00</dc:date>
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<title>第三の男　　その１４１</title>
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　　オットー・フォン・ビスマルクはこのような社会主義の台頭に対して、国家の敵とみなして弾圧する方針をとった。　ゴータで結成されたドイツ社会主義労働者党は２年後の１８７７年（明治１０年）に行われた選挙で約１割の得票を得て、１２の議席を獲得した。　議会の勢力としては弱小だったにもかかわらず革命をとなえる社会主義労働者党にビスマルクは嫌悪感を持っていた。１８７８年５月１１日に発生した皇帝のヴィルヘルム１世の暗殺未遂事件の実行犯は社会主義者であるとして、ビスマルクは帝国議会に社会主義者の活動を禁止する法
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<dc:date>2019-01-08T16:42:08+09:00</dc:date>
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<title>第三の男　　その１４０</title>
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　１８６２年にオットー・フォン・ビスマルクが議会でおこなった「現在の問題は、演説や多数決ではなく、ただ鉄と血によってのみ解決される」という演説は、鉄血演説と評されたことは以前に書いた。この鉄血演説は有名なので、これが支持された、そして彼の評価が高まったと考えている人もいるかと思うけど、そうではなく議員たちの反発を買って評判が悪かった。そういう事情もあって、ビスマルクは、この時期にフェルディナント・ラッサールに接近した。１８６３年５月ごろから翌年の初めにかけて数回の秘密会談がもたれたと言われている
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<dc:date>2019-01-05T15:47:44+09:00</dc:date>
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<title>謹賀新年</title>
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新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。 
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