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<title>愚痴、悪口、その他諸々。</title>
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<description>タイトルの通り陳述します。</description>
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<title>引越しというか２号店というか、、、</title>
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<![CDATA[ アメブロはじめますた。<br><br>ＲＣ４９です。<br>この名前マニアックすぎて誰もわからないだろうな…<br>この意味が分かる方、プロポーズお待ちしてます。<br><br>えー、ブログ二軒目です。一軒目はプラモ専用にしようと思いまして。<br>あとmixiがいよいよ赤字でヤバヤバリストラ丸らしいんで、<br>mixi日記一部抜粋して移転って感じです。<br><br>ちゅーわけで、この投稿より古いのはmixiから引っ張ってきたやつです。<br><br>ここではたぶん、しばらくは完全なる悪口及び愚痴を書くことになりそうです…<br>プラチナでいうと1000です。900とかそんなチャチな純度じゃないです。<br>純ワルグチです。ワルグチ1000です。<br><br>たまに明るい事も書けたらいいな！！(棒)<br><br>書きたい愚痴は埋め立てて海上空港作れるぐらいありますけど、とりあえずこの辺で。
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<pubDate>Tue, 01 Oct 2013 21:23:13 +0900</pubDate>
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<title>アンパン解釈</title>
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<![CDATA[ あー、二日連続です。 <br>溜まってるんですねー。いろいろと・・・/// <br><br>冗談はさておきまして、 <br><br><br>「何の為に生まれて 何をして生きるのか <br>答えられないなんて そんなのは嫌だ！」 <br><br>えー、幼児向けアニメ曲の一節とは思えないほど、心を抉ってくる歌詞です。 <br>答えられない人は沢山いるでしょうね…　私もはっきりと答えることはできません。 <br><br>しかし、一つ仮説を立てるとすれば、「正義」がなければ「目的」は生まれないのではないでしょうか。 <br><br>つまり、何を正しいとするか、という絶対的指標を見つけることが、 <br>「何の為に生まれたか」を定義する事になり、そのための行動を取る根拠が生まれると思うのです。 <br>この指標は千差万別でしょう。当然です。 <br><br>例えば私の場合は、「That others may live」という言葉を挙げることがあります。 <br>これは空自救難団のモットーで「他を生かす為に生きる」という意味であります。 <br><br>それぞれこういったものはお持ちかと思いますが、 <br>大切なのは、「出発点＝終着点になっていないか」ということではないでしょうか。 <br><br>自分本位に、安楽ばかり求めていては、自分の為に自分が行動するだけになり、 <br>周りの人間は蚊帳の外ですし、自分ができること以上の事は自分には返ってきません。 <br><br>逆に、他人に奉仕するばかりで、自己を過小評価してしまって、 <br>もらえるものすら遠慮してしまうのも、あまりいい結果は望めません。 <br><br>「他人と自分の為」という目線を持って初めて、人間同士の意思疎通が生まれ、 <br>自分にはできないことを人にしてもらったり、人にできないことを自分がしてあげたり、 <br>といった相互扶助の形が生まれるのです。 <br><br>誰かを自分より大切に思う気持ちこそが、自分を大切にすることに繋がるのです。 <br>まさに「情けは人の為ならず」という事です。 <br><br>冒頭の一節に戻りますが、 <br>私は「何かを愛す為に生まれ、何かを守るために生きる」 <br>のだと思います。それが何かなのは、今は分かりませんが。 <br><br>さて、今日はさっくりとこの辺で。
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<link>https://ameblo.jp/rc49/entry-11625814311.html</link>
<pubDate>Tue, 17 Sep 2013 08:09:38 +0900</pubDate>
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<title>文章化という名の思想の表明</title>
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<![CDATA[ おはようございます。 <br><br>この週末は久々にレンタカーを借り、１２時間ぶっ通しで走り回ったのち、 <br>よくよく考えれば一人はもう出会って５年になる友人らとカラオケで喉を苛め抜き、 <br>帰って服を着替えるか着替えないかの内に床に就き、そのまま２０時間ほど寝ました。 <br>タイムスリップ感が半端無いですはい。 <br><br>最近、こうして気難しいジジイみたいな回りくどく長ったらしい文章を書くことが、 <br>一つのストレス解消法になっていることに気付きました。 <br><br>そして今朝も例に違わず、ふとしたきっかけでいらぬ事を思い出し、 <br>ストレスが増えるワカメの如く急速に膨らんでるので、 <br>こうしてボロボロのキーボードを叩いているわけあります。 <br><br>たぶん今日は悪口を書きます。 <br>私の汚い部分に触れたくない方は、「安易に結婚の覚悟などするものではない」と言う事だけ <br>心に刻んで、今日の朝食の内容でもつぶやくためにmixiトップに戻ってください。 <br><br><br><br><br><br><br><br>いらぬ事というのは言うまでもなく、４ヶ月前の惨劇のことでありまして、 <br>いやはや本当に、冷静になればなるほど、見返せば見返すほどに、 <br>憎しみとも愛情とも取れぬ複雑な感情に苛まれるわけであります。 <br><br>ふとしたときに、「消化するのに５年くらいかかりそうだ。」などと冗談半分で口にしていますが、 <br>割と現実味を帯びてきた気がします。なんせ４ヶ月経ってこのザマですからね。 <br><br>「恋人がほしい。」とは言うものの、ほんの半年ほど前までもっていた深い愛情を、 <br>誰かに向けるだけの体力はまだ微塵も無く、むしろ「何を信じればいいのか」などと、 <br>完全に闇に落ちてしまった感すらあります。 <br><br>実際問題、今は都合よく抱き寄せて撫でてくれる相手が欲しいだけで、 <br>ただの依存恋愛にしかならないものと思われます。 <br><br>結婚という一つの変化に向けて、あらゆる物を迎合させていく過程の中にあった訳ですが、 <br>無論、精神性であったり、思考法というものも、その対象であった訳です。 <br>二年半かけて変えたものが４ヶ月そこいらで戻るはずも無いのは明白であります。 <br><br>板金と同じです。他者による強い力が掛かって形が変わったものを、 <br>一人で戻すのには地道な作業と時間が必要な訳です。 <br><br>誰の言葉だったかは忘れましたが、「結婚というのはアイデンティティの融合である。」 <br>という趣旨の文章を、発達心理学の文献で目にしたことがあります。 <br><br>この言葉にもっと早く出会っていれば、結果は変わっていたのかも知れません。 <br>しかし、ああいう結果になっていなければこの言葉に出会う事は無かったでしょう。 <br>なんともはや、無念という他ありません。 <br><br>今は、とりあえず大学という目標を、半ば無理に立ち上げて、 <br>ある意味「逃げ場」を作っている訳ですが、それが正しかったのかは今は分かりません。 <br><br>しかし、ふと「大学に行って何になるのか。」という疑問に悩まされることがあります。 <br>無理もありません。４ヶ月前まで就職して人一人を生涯養う覚悟を決めていたわけですから、 <br>そうそう寝返れるはずも無いでしょう。 <br><br>おそらくこの葛藤は、愛情の深さの証なのでしょうが、一人になってしまえば、 <br>そんなものは自由な人生を阻害する腐った鎖でしかないわけで、いやはや困ったものです。 <br><br>新たな恋に恵まれるのかどうかは知りませんし、知ったところでどうしようもありませんが、 <br>最近はそもそも自分の性的指向が分からなくなってしまっています。 <br><br>「分からなくなった」というよりは、「結婚に向けて“性的指向”というものさしを捨てていた」 <br>といったほうが、より正確かもしれません。 <br>つまりは、覚悟という形で、他の可能性を自ら勇んで切り捨てていたわけです。 <br>生涯一人を愛するのであれば、そんなものは二度と必要ではないはずですからね。 <br><br>そんなことで、あらゆる面で結婚以外の可能性はほとんど全て捨て切っていましたから、 <br>４ヶ月そこいらで戻れないのは、悔しいことながら自分の中でも辻褄が合ってしまうわけです。 <br><br>あえて加害者という言い方をしますが、彼女には今の私の心情は微塵も理解できないそうで、 <br>決して嫌味ではなく、情の薄さに彼女の未来を憂うばかりであります。 <br><br>さすがにあの時期に何の論理的根拠もなく恋人という相手にトドメの一撃をいれただけあって、 <br>冷酷非道な考え方を持っている事は痛感しましたが、その考えは全く理解に苦しむばかりです。 <br><br>無論、私にも未熟であったところがあるのは当然の事ですが、そのことを差し引いても <br>「許すまじ」と思わざるを得ないものなのです。 <br><br>願わくば、二度と私のような人間を生み出さないで生涯を終えられるように。 <br>残念ながら今の私に、彼女の幸福を心から願う事はできませんので、それだけ。 <br><br>さて、性的指向の話に戻りますが、 <br>一応私自身はオムニセクシャルという分類に属するのだと認識しています。 <br>随分前の日記でこの概念に触れた気がしますが、口語訳すると <br>「性別はなんでもいい」とでも言いましょうか。 <br><br>「バイセクシャル」が「両性愛」と訳されるように、あくまで性別二元論の範疇であるのに対し、 <br>「オムニセクシャル」というのは「全性愛」などという訳され方をします。 <br>つまりは、「男女」以外も可、ということであります。 <br><br>多少面食いですが、こと性別に関しては、本当に何でもいいです。 <br>「形振り構わぬ」という意ではなく、選考項目に含まれないです。 <br><br>恋愛の駆け引きに履歴書提出という習慣があれば、自社書式の履歴書から、 <br>真っ先に性別欄を廃止します。まだ学歴のほうが気になるレベルです。 <br>「代わりに交通違反歴の欄でも作りましょうか」っていうぐらいにどうでもいいです。 <br>たぶん諸々の事情で子孫を残す意思が無いのが拍車をかけています。 <br><br>ただまぁ、性行為の話になると、やはり***が***で***なのと、情が入りすぎるので、 <br>書面で婚約するまでは行為に至らないというのもアリかと思い始めていたりします。 <br><br>朝からなんと生々しい話を書いているんだろうか・・・有働アナも流石に引くレヴェル。 <br><br>えー、続けます。 <br><br>性別は本当に何でもいいのですが、「好み」というのは勿論あるわけです。 <br>あえて性別二元論的言い方をすれば「中性的」な人が好きです。考え方の面で。 <br>「知性と感性」のバランスが上手く取れている人とでもいいましょうか。 <br><br>感情論振りかざす為に理屈こじつけてくるのではなく、 <br>愛情は根本にあるのだけど、論理的なものに愛情を添えて渡してくれる人というか、 <br>アイデンティティの成熟した人が好いです。 <br>精神年齢という面で見れば自分より少し上の方ですかね。 <br><br>どういうわけだか、好みを語ってしまいましたね。 <br>私事ついでに、イタいのを承知の上でいろいろ考えたことを書き殴ってみます。 <br><br>「恋と愛の違い」ってよく言いますよね。 <br>私は欲＝恋、思いやり＝愛だと思ってます。 <br>端的に言えばですけどね。 <br><br>これに似たものとして私は性愛と親愛という考え方をしています。 <br><br>一つずつ端的に定義すると、 <br>性愛＝生殖を目的とした本能的性欲や、独占欲、金銭欲といった自分本位なもの <br>親愛＝理性的な思いやり、相手の幸福を願う、相手の為に何かをするといった相手本位なもの <br>という具合に考えています。 <br><br>どちらかだけだと、前者は恋人止まり、後者は親友止まりだと思うんですよね。 <br>自分本位な欲求の利害が一致しているだけでは精神的な意味での結婚は出来ませんし、 <br>思いやりあってるだけで性的感情が無ければ恋愛には発展しないと思います。 <br><br>共同生活という面では、後者でも、つまりは親友関係なら成り立ちそうにも思いますね。 <br><br>結婚、というのはこの性愛と親愛という二種類の感情のバランスが、 <br>互いに上手くつりあって完成するものであると思いますし、そうあるべきだとも思います。 <br><br>だから間違っても「世間体」だとか「親族の目」だとかそんなものは副次的要因であって、 <br>そんなものを気にする段階で、婚約はおろか、交際すらするべきではないと思う訳です。 <br><br>感情が高まっている間は気にしない。というのはいささか論理性に欠け、 <br>なんとも行き当たりばったりだと思いますし、そんな状況で相手に愛情を語るのは無責任かと。 <br>もっとも、長年付き合えば相手の負の部分が見えてきますから、 <br>それに拠る変化は仕方ないものですけれど。 <br><br>恋愛感情というのはどちらかというと性愛の類ですから、移ろい、いずれは冷めるものです。 <br>交際の中で親愛を育まないと、いわゆる倦怠期に関係が終わってしまう訳で、 <br>そこが理解できずに、表面的なものを原因としても、同じことの繰り返しになるものなのです。 <br><br>まぁ、毎回倦怠期に終わればまだいいですが、男女においては一時の快楽の為に妊娠したり、 <br>婚期を逃すまいと焦った結果こういうものが不十分なまま婚約、結婚してしまうと、 <br>その後に、取り返しのつかない事態になりかねないのです。 <br>運良くその後に知性的親愛を育めればいいですがね・・・ <br>最悪の場合、実子という、もっとも愛すべき存在を巻き込む事になりかねません。 <br><br>えー、大分好き勝手書きましたね。意外と心理学ではなくＹＵＫＩの影響が強いです。 <br>勿論心理学の影響も少なからずあるのですが、「ＹＵＫＩは強し」です。 <br><br>養老孟司氏の著書に「脳は一次関数の計算機だ」といった内容がありますが、 <br>まさにその通りだなぁと思います。これは脳科学的にも理に適った形容だと思いますが <br><br>彼曰く、「ｙ（出力）＝ax（入力）」だそうで、つまるところどういう事かというと、 <br>出来事や物理的刺激をｘとして、それぞれが持っている関数aがそれに掛かることで行動、 <br>すなわち発言や動きのyが決まるのだ。ということだそうです。 <br><br>そして、私の関数aにはＹＵＫＩの多大な影響があります。 <br>影響がありますというか、かねてから思っていた事が上手く書き表された、 <br>というべきかもしれません。 <br><br>歌詞を引用するといよいよスイーツＪＤみたいな事になるのでやめておきますが、 <br>しっくりくるものが非常に多いです。 <br><br>最近心理学系の書籍・文献を読んでも同じ現象に陥るので、 <br>もしかしたら心理学という学問も肌に合っているのかもしれません。 <br><br>「私の考え方を知りたい」と思ってくださる方で、 <br>このまどろっこしい文章が嫌な方はＹＵＫＩを聞いてください。 <br>好きな音楽って性格出ます。特に歌詞がある曲は露骨に出ます。 <br>面白いぐらい出ます。心理療法に音楽療法ってのがあるぐらいですから。 <br><br>えー、脱線しましたね。 <br>っていうか今日は端からトライアルバイクで林中突っ走るかの如く好き勝手書いてるので、 <br>レールなんてもともと無いんですけどね。 <br><br>さて、次はどこに行きましょう。 <br>白バイ愛とかいっときますかね。根っこはＹＵＫＩと同じです。 <br><br>可愛い・エロい・理知的っていう三拍子です。 <br><br>三つ目が大事です。いくらエロカワを体現してようが、 <br>感情論振り回して論理的根拠をろくに示せないようなのは無理です。 <br><br>もしシンガーソングライターになっていたら白バイの曲はたぶん作っていたでしょう。 <br>まぁ白バイといっても、ＶＦＲ姉妹がメインで他の皆様はそこまで魅力は感じないんですけどね。 <br><br>眠いので話があちこち行きます。大脳が確実に疲れ始めています。 <br><br>論理的根拠と某ドラマの某古美門先生のように連呼していますが、 <br>巷で言う「理屈っぽい」ヤツになるんでしょうね。 <br><br>論理的根拠を求める論理的根拠、ちゃんとあるんですよ。 <br>というのはですね、感情も理屈も出てくるのは脳みそであって、出所は一緒なわけですよ。 <br>ということはですよ？論理的根拠がアウトプット時に優先される人の方が、 <br>行動に正当性や論理性が望める訳で、移ろいやすい感情論を無責任に吐き出す人より <br>格段に信用できる訳です。 <br><br>もちろん感情も時には向けてもらいたいですけど、 <br>その感情の論理的根拠を説明できない人は、やはり先々その意見が、 <br>変わってしまう可能性が高い訳ですから、結婚とか処女くれてやるとか <br>そういう重大な相手には相応しくないと思うのです。 <br><br>この話は先の性愛と親愛にも繋がってくると思うんですよね。 <br><br>例えば付き合ってすぐの相手を好きな論理的根拠を示せるのって、 <br>ある程度相手のことを知って、友人と呼べる時期があった場合に限られると思うんです。 <br>むしろ「なんか好き」とか曖昧なものであったり「可愛い」「ヤリたい」といった身体的魅力、 <br>あるいは「金持ってる」だとか、あくまで付加価値である部分しか具体例を出せない事が <br>少なくないと思うんですよね。 <br><br>逆に友人の場合、出会って期間が経っていなくても「趣味が合う」だとか <br>「会話の間や返し方が好き」だとか、結構具体的にその論拠を示せるんじゃないですかね。 <br>もちろんどちらもケースバイケースですし、一概に言えるものではないですが、傾向として。 <br><br>こういうことから、相手を信頼して、感情を出し合いたいが為に論理性を求める訳で、 <br>カタブツなわけではないです。たぶん。 <br><br>さーて、大分と書きたいこと好き勝手書いてすっきりしたので、今日はこの辺で。 <br>また会いましょう。次はもうちょっと真面目に書きます（笑）
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<pubDate>Mon, 16 Sep 2013 09:01:46 +0900</pubDate>
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<title>ジェンダーの捉え方と多面性</title>
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<![CDATA[ はーい、大学入試の志望動機書もまだできてないのに悠長に日記書きます。 <br><br>ジェンダー論です。聞いたことありますかねー…中学保体に出たような出ないような… <br>とどのつまり「女性」「男性」という二項図式に基づいた社会的性別を論じたものであります。 <br><br>そもそも保体じゃなく社会科でやるべきなんですけど、文科省のオヤジどもはどうやら男女の問題＝エロっていうキャバクラ通いが行き過ぎた性的欲求の体現みたいな考え方のようで。 <br><br>えー、根拠薄弱な社会風刺は置いといでですね。 <br><br>性別というものの多様性は先に述べた通りですが（2013.6.14日記参照）まず「性別」を決めるものを考えてみましょう。 <br><br>～～～ <br><br>他人と接する時に、おそらく全ての人が「この人は男か女か」と言う事を（あるいは全くの無意識の内に）、さも当然のように気にしているでしょう。 <br><br>相手が自分と生殖できる相手なのか否か、といういわば種族保存本能の為の判断の為には重要な事です。 <br>こうった観点から見れば至極当然かつ必要な人間観察であり、分類づけであると言えましょう。 <br>但し、本当に「生殖対象」、すなわち自己の生物学的性別とヘテロ結合し得るか否か、というものに限られていれば、の話ですが。 <br><br>ここで、人間の性別というものを決定する要因を挙げてみましょう。 <br><br>一つはまずSex。すなわち身体的性別であるといえるでしょう。 <br>内性器、外性器が雄雌どちらなのか、ということです。つまりは生物学的性別ですね。 <br>おそらくほとんどの人は二種類だと思っているのでしょうが、現実には個々によってどちらでもなかったりどちらでもあったり、或いはどちらかではあるが不完全であったり、非常に多様なものです。 <br><br>二つ目に挙げられるのがGender、これには用法が複数ありますが、我が国では「社会的性別」という意味合いで使われるのが主です。 <br>例えば「スカートは女性装」だとか「男性は機械が得意」だとかそういうものですね。 <br>さも当然のように語られる、性別二元論に基づいた社会的役割強制であります。 <br><br>そこら辺のジェンダー論の本を見るとだいたいこの２点を主眼に置いている事が多いのですが、ここで終わらないのが私流。 <br><br>三つ目にあえて、Sexuality、つまり性的指向を挙げます。 <br>というのも、例えばメディアの中で「同性愛者＝性転換者」という何の論理的根拠もないステレオタイプがまかり通っているからであります。 <br>生物学的男性を恋愛対象とする生物学的男性（端的に言えばゲイの方）を「オカマ」だのなんだの定義する場面をテレビで見たことがある方、少なくないんじゃないですかね。 <br>多かれ少なかれ、恋愛対象とは逆の性別でなければならない、という考えが見て取れます。 <br><br>そしてもう一点、Gender identity、性同一性、或いは性自認というものを挙げておきます。 <br>この点におけるGenderというのは、国内で語られる社会的性別という定義ではなく、「生物学的性に限らない広義での性別」という欧米的捉え方であることにまず留意いただきたい。 <br>日本的に言い換えればSexual identityのほうが分かりやすいかもしれませんね。 <br>つまりは、自分を男性と思うか女性と思うか、或いは中性、無性と思うか、という点です。 <br>多くの場合は二点目に挙げた「Gender」と合致するのですが、決してイコールではなく、性自認は先天的要因も強いので、あえて挙げておきます。 <br><br>ざーっと４点ですね。この４点を念頭に、冒頭述べた「相手の性別の判断」について考えてみようと思います。 <br><br>初対面では「顔つき、体格、声」といったSexと、「服装・髪型・仕草」といったGenderから人の性別を「推測」しているものと思われます。 <br>しかし、確定的ではありません。股間に手を伸ばすわけにもいきませんし、そもそも性器も２系統ではないですからね。或いは強い身体的性別違和から手術を受けている可能性もあります。 <br>よく分からないままパトカーに乗せられるのがオチです。 <br><br>親密な関係になれば、相手の話し方や趣味、話題なんかから「男性的だ」とか「女性的だ」とか考えたりすることもあるかと思います。世話焼きの男性が「お母さん」なんていわれたりするのはまさにこれですね。行動に性別役割という意味を持たせて、人がどういった行動を取るかによって相手の性別的傾向を判断しているわけです。 <br><br>～～～ <br><br>ここまでに挙げたもので、確定的に性別を判断できるものは無いんではないですかね。 <br><br>身体的特徴については、所謂「中性的」な方も多々居られますし、生殖器についても先天的にどちらの典型でもない方も居られます。 <br><br>服装、髪型、仕草も人によりさまざまです。この点においてはあくまで「男性的」「女性的」という傾向に基づいた分類でしかありません。 <br><br>そして、例えば話題や話し方の性別的傾向も、生物的に男性であるから自動的に男性的になるわけではなく、むしろ「生物学的に男性だから」という教育によって作られるものなのです。 <br>すなわち、社会的に作り上げた偶像にしかすぎないんですね。 <br><br>極論、「アイドルはトイレに行かない」と同じです。 <br>もう少し近い例を挙げれば、「銀行員はすぐ倍返しする」とか「土木作業員は不良のやる仕事」とか「ジジイババアはワガママ」とか、そういう、代々不必要に受け継がれて来た「イメージ」に過ぎないのです。そして、そういうイメージが社会形成に大きく関わっている以上、個々の経験則に基づく判断も、それに合致したものになってしまう。 <br><br>無論、こういった「イメージ」が生まれる「社会背景」というのはあるのですが、それはまたの機会に。 <br><br>こういう広義的な捉え方をすると、「性別」なんてのは極めて曖昧かつ多様で、また非常に流動的概念な訳です。 <br><br>生殖、つまりは雄雌のヘテロ結合となるか、簡単に言えば子孫を生み出せる相手かどうか、という判断以外においては不必要ですらあります。 <br>もっとも、例えば生殖能力のある男性が「あなたは生理がありますか？」なんていう質問をすれば、ありとあらゆる鈍器のようなものを投げつけられることは想像にたやすいですが。 <br>（くどいようですが、月経があるからといって妊娠能力があるとは限りません。また、生物学的男性の直腸に受精卵を着床させて出産に持ち込むことが可能であるとかいう学説があったり、生物学的女性の例で、受精卵が腹腔に着床し、そのまま子宮外妊娠となった後に無事出産した例があります。） <br><br>すなわち、個人におけるジェンダーというのは、社会が作り出した性別という役割を演じる事で、子孫を残す為のセックスアピールをしているに過ぎないのです。 <br>しかしながら、性別の二分化が進む社会というのは、型にはまっていないと子孫が残せない社会なのです。 <br>ですから、極端な性別二分はむしろ、社会性という鎖で必要以上に個人を縛り上げ、本質的なアイデンティティの成長を阻害するものでしかありません。 <br><br>～～～ <br><br><br>えー、ここで上がりそうな反論を考えて見ましょう。 <br>まず１つ「生物学的性差に基づいて社会的性差が生まれるのは当然だ！」 <br>そして、「中性・無性が至上であるべきなのか？」 <br><br>一つ目から考えましょう。 <br><br>生物学的性差、これが社会的性差に影響している最たる例が「身体能力」です。 <br>突き詰めればホルモンバランスなんですが、体格や筋力量など、生物学的男性が発達しているのは、経緯はどうあれ紛れも無い事実です。（経緯というのは長い人類の歴史の中での一種の環境適応という意味合いです。） <br><br>しかし、どうでしょう。わざわざ「性別」に当てはめなければならない問題でしょうか。 <br>生物学的な性差であることは確かですが、これもあくまで傾向でしかありません。 <br>屈強な女性も居れば、可愛らしい男性も居るでしょう。 <br><br>例えば職業にあっては、それぞれの能力に適合したものを選択すればいいのです。 <br>かといってキャバ嬢を男性がやるのは無理がありますよ。「社会的女性性」が売りですからね。 <br>社会的女性性があまり無い生物学的女性がキャバ嬢になれないのと同じ話です。 <br>逆に、体力が無い女性が、現業系職業に就くのも難しいでしょう。これも体力の無い男性がなれないのと同じ話です。 <br>職業というのは適合するか否かであり、その適合条件に生物学的性別であったり社会的性別が含まれる事はあっても、ほとんどの業種においては能力によって選考されるべきなのです。 <br><br>能力、あるいは条件に合う容姿によってアイデンティティであり、社会性が形成されるべきであって、「男だから」、「女だから」というそもそも論理的根拠もない傾向によって人間を、或いは自己をどちらかに帰属させ、それをベースに社会性が形成されるべきではないのです。 <br><br>全ての人は「男・女」である前に「人間」であり、「人間性」の確立によってその人の社会性が形成され、それが社会において「男性的・女性的」と解釈されるべきであって、この順序は逆転してはならないのです。 <br><br>また、「男が外で働き、女が家を守る」という固定観念は廃れつつありますが、根強い支持をする者も少なくありません。 <br>しかし、全世界共通ではありません。全く逆の性役割を持つ民族も存在するのです。 <br>女性は出産と授乳以外ではあまり子と接することはなく、離乳すれば育児は男性の仕事である。という我々日本人の一般的な考え方とは真逆の民族です。 <br><br>こういった点からも、常に画一的定義が成されるべき性別というのは、生殖能力であり、それ以上でも以下でもありません。妊娠・出産能力があるものと受精可能な精液を射精する能力があるものが丁度いいタイミングで性交し、受精・着床すれば命が宿るという、それが性の根本なのです。 <br>（この辺を掘り下げすぎると生殖の倫理とか不妊とかそういう話になるので、この辺で。） <br><br>この領域を超えた「性」というのは、個々のアイデンティテイに基づく話ですから、まずまともなアイデンティティが形成されていないと話にならないわけです。 <br><br>身体的特徴とアイデンティティによって「その人そのもの」が社会によって定義づけられるべきであって、性別という観点に必要以上に縛られて一種のダブルスタンダードが生まれてしまったりしては、物事が「正しいかどうか」というものがないがしろにされて、不要な問題を生み出してしまうことになりかねないのです。 <br><br>ですから、本当に生物学的性別に基づいて社会的性差が生まれるのであればともかく、社会的性差によって性別が決定付けられてしまったり、全く能力にそぐわないものを負わされてしまったりしてしまうのでは全く意味が無い。と思うのです。 <br><br>そして、生物学的性別というものが二項でない以上、社会的性別というものも二項であるべきではないのです。 <br><br>性というのはニ方向ではありますが二種類ではないのです。 <br><br>生物学的性差に基づいた社会的性差、というのは何も生物学的性別に拠る必要は無いのです。 <br>あくまで傾向として存在するべきなのです。 <br><br>～～～ <br><br>２つ目、ここまで語った以上やはり「中性・無性であるべきなのか」という事も考えなければなりません。 <br><br>結論から申し上げますと全くそうではないと思います。 <br><br>中性的な人間が増える事は否定しませんし、時流によってそういった人が大多数となることも否定しません。 <br><br>しかし我々の至上命題は種族保存です。 <br>その為に生殖は欠かせないものですし、生殖能力が無い者は、それはそれで残すべき物、残せるものがあります。 <br><br>その生殖において、やはり相手の生殖能力の高さや、育児期の衣食住の安定性（≒収入・生活能力）というのは重要で、その中で性別役割分業が生まれるのも特におかしいことではありません。 <br><br>ですが、バカが子を産んでも十中八九その子はバカにしかなりませんし、固定観念と世間の目を過度に気にしたキョロ充の子はキョロ充にしかなりません。 <br>「蛙の子は蛙」であり、「三つ子の魂百まで」です。 <br><br>個人がそれぞれ、確固たるアイデンティティやポリシーを持つことで、より安定が望めるのであって、根拠薄弱な感情論と右倣え主義から生まれるものは、これと大差ないものにしかならないのです。 <br><br>こういった高次的人間形成の上に成り立つ女性性・男性性というのは十二分に存在意義のあるものであります。 <br><br>私が言いたいのは、社会的性別と生物学的性別は二種類ではなく、同時に必ずしも一致する必要はないということなのです。 <br><br>多様な考え方が認められる社会、という目標において、この性別ニ元論の蔓延はおそらくマイナスであるでしょう。 <br><br>そして、確固たるアイデンティティの上に成り立つ個々の考え方こそがその人であり、我々はよりよいアイデンティティの形成という部分に主眼を置くべきなのです。 <br><br>アイデンティティが社会によりコントロールされてはならない。その一つとして社会的性別が個人を必要以上にコントロールしてはならないのです。 <br><br>人間は社会によって作られ、社会は人間によって作られます。 <br>我々は、生殖だけでなく、社会という形で後世の人間を生み出しているのです。 <br><br>だからこそ、社会というのは個人に必要以上に干渉してはならない、多様性を認めることで個の多様性が認められ、多様で心豊かな社会が生まれて行くのです。 <br><br>「性」というものが、人を規制するものであってはならないのです。 <br>心豊かに愛を謳歌し、深い愛の中で子を産み育てるという過程こそが大切であり、そこに不必要な社会的性別という規制があるべきではないのです。 <br><br>そういう意味合いにおいては、ジェンダーというものは存在する必要性すら薄いのかもしれません。 <br><br>重要なのは、それぞれが自己や人、事象を敏感に捉え、真摯に向き合う姿勢であり、そういった姿勢は社会により形成されたもの、「性」や、或いは「常識」だとかいったものにも向けられるべきなのです。 <br><br>性に限らず「選択肢」があるに越したことはないのです。 <br>そして、選択肢を探し、選択する事が、あらゆる事象に対する多角的考察の礎となるのです。 <br><br>ですから、万人が中性的である必要はありませんが、社会がそのあり方を否定してはならないのです。何事であっても必ずどこかに肯定される場所はあります。社会がそれを隠し、或いは押しつぶしてしまってはならないのです。（公共の福祉に反しない限りは・・・　この「公共の福祉」ってのも難しいですけどね・・・） <br><br>～～～ <br><br>はい、長文乱文失礼しました。 <br>文字数記録更新です。 <br><br>書きたいこと書けたので明日は書きたくない入試書類書きます。 <br>次は何書こうかなー・・・ <br>
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<pubDate>Thu, 12 Sep 2013 05:22:01 +0900</pubDate>
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<title>概念の再定義</title>
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<![CDATA[ 少し暑さも薄らいで、過ごしやすくなってきました。 <br>油断して薄着で出歩いて風邪引かないようにせねば。 <br><br>えー、特に何というわけでもないですが、備忘録的に、今の私の思考法の根幹を活字にして残しておこうと思います。今夜もたぶん長くなります。 <br><br>1.言語という概念 <br><br>人類は、遥か昔に「言語」を獲得し、思考においても常に何かを定義した「語」を用い、結果を導いたりするわけです。 <br><br>つまり、快不快や空腹、眠気、興奮、その他もろもろの本能的情動を、「言葉」に変換することでより論理的に考察し、ある意味で「一歩引いた目線」において自己をコントロールしているのです。 <br><br>口に出すわけではないけれど「あぁ、おなか空いたな・・・確かカップラーメンがあったはずだ・・・」なんて、言語に変換して考える。日常的に行っているのでなんとも思わないですが、空腹→食べる、というプロセスが能動的かつ短絡的に行われるのではなく、常に一度「言語」に変換された上で行動につなげてるわけですね。 <br><br>いわば「言語」というのは、情報を一定のルールに則って整理する「ソフトウェア」なわけです。 <br><br>そして「ソフトウェア」と一口に言ってもLinuxとかWindowsとかMacとかあるように、英語とか日本語とかフランス語とかいろいろある訳です。 <br>共通のソフトウェアであれば出力された情報は相互に共有できますが、たとえばMacで作ったデータがWindowsに送ると文字化けしたりっていうのは、日本語というソフトウェアしか持たない人に対して、英語でいくら愛の言葉を語ってもワケワカメなのに似ているのです。 <br><br>「言語」というのはコミュニケーションツールである以前に、ＯＳの一つなのです。 <br>ですから、ＯＳの持つ特性がＰＣの動作を左右するように、個々の「言語」という概念、「言葉」というものに対する姿勢というのは、コミュニケーションのみならず、その人の行動をも表し、影響するものなのです。 <br><br>だからこそ、一つ一つの「言葉」を大切に、意味を捉え守ることこそ、いわばＯＳのバージョンアップであり、さまざまな物事への互換性が増すのではないかと思います。 <br><br>2.概念への姿勢 <br><br>前章では「言語」について述べましたね。まずこれが基本です。そしてこの捉え方は何にでも応用ができます。 <br>たとえば車の運転なんていうのでもそうです。「青は進んでも良い、赤は止まれ」なんていうルールがソフトウェアであり、それが法に則り、ドライバーの間で共通しているから免許が貰えるという制度がある訳です。 <br>ありとあらゆる事象に対して、一つ一つ丁寧に、きっちりとそのアウトラインを捉え、理解を深化させていくプロセスこそが思考であり、深化させる能力が思考力なのです。 <br><br>ここで「理解」とは何か、という事を考えてみようかと思います。 <br><br>例えば、「昨日、私は家でカレーを食べました。」という文章があったとしましょう。 <br>ここから、直接的に読み取れることは「私というヤツが昨日家でカレーを食べた。」という事だけです。「理解した」と言うには十分かもしれませんが、これで完結してしまってはただ読んだだけです。 <br>ここで、「何故カレーを食べたのか」とか「家で食べたのなら家族が作ったのか、或いはココイチの宅配だったのか」とか、いわば妄想を繰り返すことで、その一つの文章が持つ「伸びしろ」であったり「発展の可能性」が広がっていくわけです。 <br><br>ここで「私」という人間に対する予備知識があれば、この妄想を推測に変える事が出来ます。 <br>例えば「私さんは一人暮らしで、あまり収入はないものの料理が得意。昨日は昼間から友達に付き合わされて甘いものを食わされまくっていた。」としましょう。 <br>どうですかね？ココイチの宅配っていう線は可能性としてかなり低くなりますよね？ <br>そして甘いものに飽きて反動で辛いものが食べたかった。と推測できるのではないでしょうか。 <br><br>即ち、一つの事象を独立したものとして捉えるのではなく、「あらゆる情報と結びつき得るものだ」と考え、捉える姿勢によって、理解が深化する可能性が生まれるのです。 <br><br>これは、誰がカレー食ったとかそういう「現象」だけでなく、例えば「学歴」とか「性別」とか「年齢」とか、いわゆる「スペック」であったり、「好き」とか「嫌い」とか「どうでもいい」とかいう「対人感情」であったり、まさしくあらゆる物を捉える上で極めて重要な姿勢であると言えるでしょう。 <br><br>Wikipediaではどんな項目からでも、ページ内のリンクを辿ることを繰り返せば、６クリック以内にあらゆる別の項目にたどり着ける、と言われています。 <br><br>いかに「情報と情報を結びつけるか」という姿勢が、「理解を深化させる」というプロセスにおいて重要になるのです。 <br><br>3.思考という移動手段 <br><br>さて、「情報と情報を結ぶ」という考え方を述べましたが、では情報と情報はどのようにつながっているのか、考えてみたいと思います。 <br><br>脳科学的にもさまざまな研究がありますが、ここは私らしく「情報と情報を結ぶ」という「概念」として捉えてみようかと思います。 <br><br>今回はざっくりと「地図」として考えてみましょう。 <br>さまざまな情報・記憶があらゆるところに散らばっていると。 <br><br>下ネタ関連はある程度固まっているでしょう。いわばラブホ街です。 <br>同じように、好きな物事にまつわる物も固まっているでしょう。例えるなら商業地域ですね。 <br>生活の知恵、みたいなのも近場にありそうですね。商店街のように。 <br>仕事に関係する情報も固まっているでしょうね。ビジネス街です。 <br>失恋の記憶、なんてのはきっと臨海地域の埋立地とかの隅っこに固めてあるか、人によっては海上投棄したりしてるでしょう。 <br><br>こういったように人間はある程度関連した情報を固めてまとめて置いてるんですね。 <br><br>近場にあるものは徒歩でふらふらっと出ても見つかるように、大体苦労なく自然にたどり着けます。特に普段通っていて慣れていればなおさらですね。 <br>印象に残っているところなんかは、行き方を覚えてたりしますから、これもさほど苦労なく辿りつけるでしょう。 <br><br>しかし、例えばラブホ街歩いてる時にビジネス街に思いを馳せたりはなかなかしないんではないですかね。（一部ＯＬ好きの人なんかはともかく）　大体、横を歩いてる誰かさんとどのホテルに入るか。或いは、お気に入りのデリ嬢は今日はどんな格好で来るだろうか、とかそういう、やっぱり近場のことを考えると思います。 <br><br>ここで、詳細な地図を持ってるとしましょう。 <br>「あぁ、なるほどこっちとあっちはこういう鉄道路線があって、車でいくならこれこれこうで、こことあそこは少し遠いけどよく走ってるから大丈夫だ」とか、そういう風に思考できるんではないですかね。 <br><br>下ネタをあらゆる物に結び付けられるあの人なんかはきっと、下ネタターミナルから凄い本数のバスがあちこちに出てるんでしょう。 <br>なんでも仕事に結び付けて考えてしまうあの方は、ビジネス街を中心に放射状にいろんな方に路線は伸びてるけれども、隣接自治体同士の関わりは薄いのかもしれません。 <br>突拍子も無いことを言い出すあの殿は、山間部をぶち抜くトンネルを持ってるのかもしれませんし、もしかしたら第一種低層住居専用地域に何故かショッピングモールが建ってるのかもしれません。 <br><br>友人のシムシティのデータ見て、「そこにそれ建てちゃう！？」な事もあれば「そこのシャトルバスいる！？」みたいな事もある訳です。 <br><br>人はそれぞれ、各々が必要な情報と情報を結ぶルートを持っています。 <br>逆説的に言えば、必要外のルートは採算取れないんで廃止されちゃうわけです。 <br>（↑これ、脳科学的にも結構合理的なんですよ。） <br><br>実際、情報と情報ってのはもっと複雑に絡みあってますが、ざっくりとこういう捉え方も出来るんではないですかね？ <br><br>普段、電車バスしか使わない人は、決まった路線を逸れて、たまに車で出掛けてみれば、こんなところにこんなものがあったのか！と気付くかもしれません。 <br>普段、バイクだけの人は、自由度は下がってしまいますが、電車に乗ってみれば、流れていく車窓に気付かされる何かがあるかもしれません。 <br><br>地図を詳細に書き込んで、自分が見易いようにまとめるっていうのも、「自分の思考」というものに対する理解の深化なのだと思います。 <br><br>4.概念の再定義　　（やっと表題…この章で終わります。） <br><br>さて、概念の再定義。今日の日記のタイトルですね。 <br>再定義、なんでしょうね。地図の話で言えば「地域再開発」とでも言いましょうか。 <br><br>人間に限らず、動物は安定を求めます。生殖の為であり、種の保存の為です。 <br>しかし、目先の安定に囚われていては、あとあと痛い目を見ることになりかねません。 <br><br>住宅地の近くにショッピングモールぶっ建てても、地域の商店街を弱体化させ、シャッター街は治安を悪化させる温床となるかもしれません。買い物をする住民が離れてしまえば、ショッピングモールもただの箱です。 <br><br>大切なのは、常に「何が正解なのか」です。 <br>多少めんどくさくても、正解を見誤っていなければ結果は必ず良いものとなるはずです。 <br><br>商店街の各店舗の店主が消費者ニーズを見据え、商法を上手く消費者に合わせていけば、時間はかかっても商店街はかつての活気を取り戻す可能性があるでしょう。 <br><br>原点に立ち返ってみましょう。 <br>我々が日夜接触する森羅万象を、より齟齬のない安定したソフトウェアを用い、正確に捉える。 <br>そしてそれを上手く自分の中で整理し、定義する事で、自分と言う世界の中に新たな建造物を建てる。 <br>さらにはそれをフィードバックして自分のソフトウェアのエラーを探し、一つ一つ地道に潰して、より正確で安定した情報理解に繋げていく。いわばＰＤＣＡです。 <br><br>「何が正しいのか」という疑念を捨てずに、常に情報やソフトウェアを「更新」していく。 <br>誤った情報があればそれは修正すべきですが、投げやりになるのではなく「何を見誤ったのか」をしっかり深く理解して、いわばハザードマップを作っていく。間違ってしまったことを悔やみ恥じるだけではなく、次に生かす為にしっかりとその事実と向き合う。 <br><br>こういったプロセスこそが大切であり。結果というのは、指標であり通過点であり一つの駅でしかありません。プロセスを確実に積み重ねなければより良い結果は望めませんし、積み重ねの上にある結果こそ高い評価を受け得るものなのです。結果と言うのは過程の評価なのです。 <br><br>仕事なんかにおいてはクライアントの意向の沿う必要がありますし、結果が全てだと言われますが、「評価においては結果が全て」なだけであって、過程をすっ飛ばしてまともな結果が出るわけがありません。 <br><br>常にあらゆる物事、即ち「概念」を精査し、状況や成長に応じてより正確に組み立て直す。つまり「再定義」する姿勢こそが、過程というものの全てであり、そういう姿勢を持って取り組む過程が「より高次的な概念の再定義」につながっていくのです。 <br><br>ハイ!以上! <br>お堅いですねー・・・ <br>薄っぺらい自己啓発本みたいになってしまいましたが、今の私の哲学はざっくりとまとめられたかと。 <br>えーっと、約4500字ですか・・・こりゃなかなか・・・。 <br>希望大学のレポが大体３０００字以内との事なので、これを週２～３本出さないといけないと・・・。 <br>まぁ、頑張りましょう・・・ｗ　卒論20000字やったかな・・・orz
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<pubDate>Fri, 30 Aug 2013 05:10:07 +0900</pubDate>
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<title>「平和主義的事なかれ」と「責任回避的事なかれ」</title>
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<![CDATA[ 多少ストレスが溜まったので愚痴を。 <br><br>「事なかれ主義」　えー、よく聞きますねー。 <br>我が国は特に集団主義的傾向が強い国民性であるとされる事が多いですが、 <br>こういう国民性に密接に関わる「事なかれ主義」について理論的に感情論を振りかざしてみます。 <br><br>事なかれ主義：紛争を回避し、平穏無事であることをなにより優先する態度。（はてなキーワードより） <br>平穏無事を何より優先する・・・　聞こえはいいですねぇー、いやホントに。 <br>大事だと思いますよ。実現できればの話ですけどね。 <br><br>しかし現実、ヤグったりヤグられたり、アサヒったりアサヒられたり、ありとあらゆる問題が大小問わず、マジタイミングとか空気とか読まずに発現し、我々に降りかかってくるものです。 <br><br>事なかれなんて夢物語、絵空事、机上の空論です。おとぎ話です。 <br><br>ですが、「事なかれ」を是として善処し努力する事は、あながち間違いとも言い切れないと思います。むしろ、個々の冷静な考察と努力によって得られる「事なかれ」はまさに「平和」そのもの。 <br><br>問題が起こらないよう努力し、時に我慢し、時に上手く立ち回り、或いは多少の自己犠牲を払って周囲の平穏を守る。かっこいいじゃないですか。美しい、まさに和の精神です。こういう事なかれなら大歓迎です。こういった中で上手く自己や他者の主張を平和的に考察し、互いを高めあえればより高次的「平穏無事」を目指せる可能性すら感じます。時に、難題に直面する事があっても、個々の努力によって最小限度の被害によって解決できる事でしょう。 <br>人々が互いを尊重し合い、博愛の精神で平和を維持する。実に美しいではないですか。 <br>こういったコミュニティや社会は個々のアイデンティティや自己愛のさらなる成長の礎となるでしょう。 <br>いわば「平和主義的事なかれ」であります。 <br><br>しかしながら、現実はそうではありません。そんなイージーモードじゃないです。 <br>ろくすっぽ努力もせず、我慢もせず、ただただ問題を「無かった事に」する事に注力するような姿勢が溢れかえっています。努力も我慢もしなければ当然問題は簡単に起こるんですがそこが分からないようです。こういった姿勢の根底には「責任を負いたくない」という回避思考があるように思います。とにかく責められたくない、償うようなことをしたくない、でも努力も我慢も嫌。でも問題は発現してしまう。ならば起こってしまった問題そのものを「無かった事に」してしまおう！という一見天才的に見えて無計画なバカ丸出しの場当たり的思考が根底にあるのです。 <br>これを「責任回避的事なかれ」としてみましょう。 <br><br>前者が作りあげる「事なかれ」はそれぞれが個々が努力し組織内における責任を果たすことによって成り立ちます。その上で「全体の平和」を目標としているわけですから組織全体が平和なわけです。 <br><br>一方後者においては、「個々が責任を負いたくない」という大前提の上に成り立っているので、組織全体が平和とは限りません。利害が一致するもの同士が結託し責任の擦り付け合いをする場合が少なくないのではないでしょうか。もっとも利害が一致するもの同士によって形成された組織は問題は起こらないでしょうが。（それも上辺っつらだけですけどね） <br><br>表面的かつ短期的に見れば、どちらが作り出すコミュニティも「平穏無事」でしょうが、全くもってそこに至るプロセスが違う訳です。 <br>しかしながら、表面的かつ短期的にしか判断できないバカは前者も後者も同じに見えますから、後者に属するという（あるいは無意識の内に行われる）選択のほうが楽な訳です。 <br>或いは、努力も我慢もせず、責任も負わないという生き方はおのずとこういったコミュニティの形成に荷担し、不必要かつ低次元的な問題に関わる多大な責任を周囲に負わせているのかもしれません。 <br><br>そして本質的かつ長期的に見た「責任回避的事なかれ」の結束力の脆弱性なんてもう考えたくもありません。見なかったことにしましょう。無かった事に無かった事に…
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<link>https://ameblo.jp/rc49/entry-11625811366.html</link>
<pubDate>Sat, 17 Aug 2013 20:14:31 +0900</pubDate>
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<title>アイデンティティ確立の重要性</title>
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<![CDATA[ えー、真面目ちゃんモードです。 <br>月末はどうやらこうなるようです。 <br><br>アイデンティティですね、私自身今まさに立ち向かっている課題であります。 <br><br>アイデンティティ（自我同一性）とは、自分が何者であるか、何をしたいのか、 <br>何をすべきかという問題への対峙を通して確立される、「自分のありかた」であるといわれます。 <br>一般に心理発達において、青年期の課題とされています。 <br><br>私は具体的に「不甲斐ない自己の受容」とか「自己の能力の認知」の中で <br>「自分を理解し愛する力」を獲得・確立する時期だと考えています。 <br><br>えぇ、聞こえはいいですよね。アイデンティティ万歳ですよね。 <br><br>ですが、人間というのは古来から「社会」というものを形成し、 <br>相互援助の形を作り上げ、時に集団と集団で争い、今日に至っています。 <br>そして、支配する集団が認めないものは「異常」とされ排除されるわけです。 <br>つまりは、ある程度この「社会」というものを念頭に置いて、迎合しなければならない訳です。 <br><br>と言う事は、アイデンティティ形成など適当に、権力者の言うがまま、 <br>ただなんとなく流れに身を任せて似たもの同士馴れ合って生きてるほうが、 <br>何も考えず、疲れず済む訳です。 <br><br>或いはこういうありかたも一つの「アイデンティティ」なのかもしれません。 <br><br>しかし、こういった考えが「個の尊重」や「少数意見の尊重（≠全面受容）」に <br>果たしてつながるでしょうか？ <br><br>あらゆるものの多様性が爆発的に広がる昨今において、 <br>非常に前時代的かつ時流を無視したあり方だと思う訳です。 <br><br>高い自律性に基づくより良い個々のアイデンティティの確立があってこそ、 <br>より良い集団形成が生まれ、多様性の富んだ心豊かな社会になるのでは、 <br>と思う今日此の頃であります。 <br><br>えー、非常に思慮と学が浅いですねー・・・　 <br>幸いモラトリアムを頂ける環境にあるので、ゆっくり学ぶことにします。 <br>書きたい事はまだまだありますが、今回はこの辺で。
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<link>https://ameblo.jp/rc49/entry-11625810501.html</link>
<pubDate>Wed, 31 Jul 2013 05:36:25 +0900</pubDate>
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<title>性的少数者に対する認識について考える。</title>
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<![CDATA[ 深夜だというのに頭が真面目ちゃんモードです。 <br>備忘録的、殴り書き的、かつ暇つぶし的に真面目なことを書きます。 <br><br>表題のとおり、「性的少数者に対する認識」について、私なりに考えてみたものです。 <br><br>昨今、ＬＧＢＴという単語が少し一般に認知されてきたかもしれない・・・とは思いますが、 <br>私に言わせれば非常に視野の狭い話な訳で。 <br><br>LesbianとGayは言わずもがな同性愛者。Bisexualityが両性愛。 <br>Ｔransgenderは非常に端的に言えば性同一性障害。 <br>この4つの頭文字を取ってＬＧＢＴという括りになってます。 <br><br>しかしながらこの4つに含まれない「性的少数者」というのも看過できない数が存在する訳です。 <br><br>たとえば、「男女どちらにも帰属意識を持たない」あるいは「両方の性に帰属意識を持つ」という人。 <br>或いは、男女二元論に限らず、あらゆる性的特徴の人に対して性愛感情を持つ、 <br>「オムニセクシャル（全性愛）」という性的指向であったり。 <br>誰に対しても性愛を抱かない「アセクシャル（無性愛）」という性的指向であったり。 <br>それから、性指向とは同列に語るべきではありませんが性分化疾患という、身体的性別が非典型的である人も居られます。 <br><br>※あえてメディアや巷で取り上げられるような呼称は使いません。興味のある人はググってください。 <br><br>ここまで掘り下げると、そもそもの「性別二元論」というものや「性愛の定義」にスポットを当てる必要性を感じます。が、無学故に死ぬほど長くなるのですっ飛ばします。 <br><br>ちなみに、私個人としては、「性別（特に心理的側面）というのはあくまで傾向であり、多数が男女どちらかの典型に当てはまるだけであって、その特徴は千差万別である。ゆえに（特に心理的な分野においては）可能であれば単純かつ安直に二分、或いは三分するべきものではない。」というのが今現在の見解です。 <br><br>さて、少し話が逸れましたが、「性的少数者」というのは結構幅広いものなんです。 <br>ということをまず言いたかったわけです。 <br>或いは「小児性愛」なんかも性的少数者に含んでもいいのかもしれません。 <br><br>正直なところ「典型的男性或いは女性」なんてのが本当に多数派なのか？という疑念すらあります。 <br>誰しもがそれぞれに性的指向・嗜好を持っている訳ですから、区別する線引きの場所と量の問題であって、人口を上限としていくらでも細分化できるのではないか？と。 <br>現実問題として便宜上、扱い易い位置に線を引いているだけなのではないか？と・・・ <br><br>これはたぶん性的少数者に限らず、あらゆる「マジョリティ・マイノリティ」の問題に当てはめられるのではないでしょうか？そもそもの線引きを見直すべきものって沢山あると思います。 <br><br>こういった視点の移動から私は「性的少数者に対する認識」においては「性というカテゴリが特に一般的に興味の的に成り易いが故に、多くの当事者の実際の生活・感覚とは剥離した『イメージ』が先行している事が問題なのではないか？」という考えに至ったわけです。 <br><br>つまりは、嫌悪感や差別なんてものを語る以前の問題であって、 <br>まず両サイドの認識の違いを整理し、可能な範囲で統合するべきなのではないか？と。 <br>少数者側も含めて、あらゆる「偏見」をまず軽減する事が重要なのだと思います。 <br><br>もっと言えば、日常のコミュニティに置ける人間関係においては、 <br>他人を「個」として認識し、性別をはじめとする特徴はあくまで「タグ付け」程度に留めるべきなのではないかと思います。 <br><br>あくまで理想論ですけどね・・・ <br>全人類がこういった思考を共有してしまうのはそれはそれで問題ですし。 <br><br>こういった過程を経て、ようやく「差別」だとかなんだとか言う話になってくる訳ですが、 <br>私は、前述のように「偏見」が軽減されたところで、「嫌悪感」を抱く人は無くならないのではないかと考えています。 <br><br>そもそも「嫌悪」と「差別」は何故か混同されがちですが全く別物です。 <br>何にでも嫌悪感を持つ人は居ます。 <br><br>極端な話「クチャラー」と同じことです。 <br>特定の特徴を生理的に受け付けないのと同じ事です。 <br><br>ひっくりかえせば「同性愛者」が異性に対して性愛感情を持たないのと <br>似たようなものではないでしょうか？ <br><br>さらに掘り下げ、生物学的見地で見れば「子孫を残せない種を沙汰しよう」という動きが起こるのは至極当然な事、とも捉えられる訳です。 <br><br>私は、そういった嫌悪感や「劣等」という認識について、不当性は感じません。 <br>十分に発現し得る主張だと思います。 <br><br>ただ、それを当事者、或いは関係者に対して口に出して卑下する事は、 <br>あまり文明的な思考ではないと思いますが・・・ <br>それは「お前の性格や容姿が気に食わんから失せろ」というのと同じですからね。 <br><br>結局のところこういった問題においての目標は「差別を無くしましょう」というより <br>「偏見を無くしましょう」という文脈において語られるべきであって、 <br>偏見が軽減された上での嫌悪感や排他意識というものに対して、 <br>解消や妥協点を探る為の議論は有意義かもしれませんが、 <br>必要以上に問題視すべきではないと思います。 <br>むしろこういった感情や主張を抑圧するのは、逆差別につながるものであると考えます。 <br><br>以上。 <br><br>えー、乱文長文、お目汚し失礼しました。2000字越えましたｗｗ <br>この穴だらけの理論をきちんと整理して次に進むために大学に行こうかと思います。
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<link>https://ameblo.jp/rc49/entry-11625809687.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Jun 2013 05:06:33 +0900</pubDate>
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