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<title>Destroy &amp; Creation</title>
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<description>「破壊と創造」の探究、知的な情報交換の場を提供</description>
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<title>市民革命を起こせない日本人～ようやく掴んだ選択権をどう活かすか～</title>
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<![CDATA[ <strong>日本という国は建国以来、市民が自らの権利を獲得するために革命を起こしてきた歴史を持たない。実にユニークな国である。</strong><br><br>17世紀イギリスで起きた清教徒革命と名誉革命、<br>18世紀に起きたアメリカ独立革命、<br>そしてフランス革命<br><br>といったように、欧米の近代国家では<font color="#FF0000">市民自ら</font>が「市民としての権利」を獲得するために革命を起こしてきた。欧米以外においてもそれは例外ではない。近年の例では、ソ連崩壊へと追い込んだ東ヨーロッパ諸国の独立運動。そして、現在進行中の北アフリカ諸国の民主化運動。これらの出来事から分かるように、国家が（良い意味でも悪い意味でも）変わっていくためにはそのための起爆剤となるもの（＝市民革命）が起きなくてはならない。<br><br>では、市民革命の経験がない日本はどのようにして変わってきたのか。<br><br>日本の現代史の中で最も重要な出来事は以下の２つである。<br><br>①「1868年　明治維新」<br>②「1945年　敗戦」<br><br>明治維新の最大の要因は何と言っても1853年のペリー来航にある。要するにペリー提督が来航しなければ明治維新は起きなかった。明治維新という出来事はあくまでペリー来航という出来事に<strong>依存している</strong>。<br><br>1945年の敗戦ではＧＨＱの統治によって戦後日本の方向性が決定付けられた。<br><br>重要なことは、日本のターニングポイントとなったこの２つの出来事が、アメリカという国の外交戦略＝<font color="#FF0000">圧力</font>によって決定付けられていたことだ。<br><br>日本が国として国家として自立できていない理由はここにある。<br><br><br>そして2011年、東日本大震災が起きた。<br>今後の日本の歴史は「3.11以前」と「3.11以降」に分類されることになる。その意味で「2011年」は、上記２つのターニングポイントに続く、日本の現代史における分岐点としてこれらと同等に扱われるだろう。<br><br>だが、今回の出来事は上記２つの出来事と決定的に違う。それは大規模自然災害という点である。出来事の発生要因が「アメリカ」ではなく、「地球そのもの」なのである。<br><br>上記２つの出来事では、アメリカの圧力によって（良い意味でも悪い意味でも）変わらざるを得なかった。そしてその方向性にも強制力が働いていた。だが、今回は<font color="#FF0000">日本という国をどう変えるのか、またはどう変わりたいのか、どういう未来を選択するのか、あるいは選択したいのか、我々に決定権・選択権があるのだ。</font><br><br>福島の原発事故を受け、原発推進派と脱原発派の対立が日に日に増していく昨今。我々はどういう選択を下すのだろうか。<br><br>前述したように日本人は市民革命を起こし、市民の権利を獲得してきた歴史がない。そういう民族性・国民性なのである。おそらく今後も革命は起きないだろう。だが<font color="#FF0000">今回の大震災で、我々は自分たちの未来に対する選択権を得た。</font>それは今後、原発を推進いていくのか、しないのかという選択だ。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/reflection-blog/entry-10865753613.html</link>
<pubDate>Mon, 18 Apr 2011 21:34:56 +0900</pubDate>
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<title>「1868年＝明治維新」・「1945年＝敗戦」・「2011年＝3.11東日本大震災」</title>
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<![CDATA[ <p>3月11日金曜日午後2時46分、この国は歴史上のレッドポイントを迎えた。もう後戻りのできない別の時代に突入してしまったのだ。</p><br><p>マグニチュード9.0の巨大地震。大津波。原発事故。３つのクライシスが同時に発生した。これ以上深刻な危機は「戦争」か「大規模テロ」ぐらいだろう。</p><br><p>今後の日本の歴史は「3.11以前」と「3.11以降」に分類されることになる。その意味で「2011年」は、</p><br><p>「1868年」（明治維新）</p><p>「1945年」（敗戦）</p><br><p>に続く、日本の現代史における分岐点としてこれらと同等に扱われるだろう。</p><br><br><p>日本は歴史上、今だ近代市民革命を経験していない。17世紀イギリスで起きた清教徒革命と名誉革命、18世紀に起きたアメリカ独立革命、そしてフランス革命といったように、欧米の近代国家では市民自らが「<font color="#ff0000">市民としての権利</font>」を獲得するために革命を起こしてきた。</p><br><p>だが、日本では「市民自らが市民としての権利」を獲得するために革命を起こしてきた歴史がない。その代りに<font color="#ff0000">「外圧＝外的な要因」によって変化変容してきた</font>。1868年の明治維新は1853年のペリー来航に端を発しているし、1945年の敗戦ではＧＨＱの統治によって戦後日本の方向性が決定付けられた。外圧とは外からの圧力＝ペリー来航やＧＨＱによる統治、大規模自然災害を指す。要するに、日本という国の市民は自らの権利を主張し革命を起こすことをせずに、<font color="#ff0000">専ら外からの圧力に自国の変化変容のきっかけを依存してきたのだ</font>。</p><br><p>こうして、日本人は「権利」という概念の重要性を全く理解してこなかったために、日本社会では個人の権利や人権よりも組織の利益の方が優先される事態が生じている。組織のために個が犠牲になることが仕方のないことだとしても、それをもって権利の侵害を正当化することはできない。</p><br><p>もし、日本の市民が自らの権利＝市民権や人権を主張し、獲得する歴史を歩んでいたら、ペリー来航時に不平等条約を押し付けられずに済んだかもしれないし、第2次世界大戦でも悲惨な結果を招かずに済んだかもしれない。そして、今回の3.11でもそもそも原発をつくること自体を避けることができたかもしれず、被害を最小限に抑えられたかもしれない。</p><br><p>外圧に頼った変化変容は代償が見返りよりも大き過ぎるのだ。よって外圧に頼らず、市民自らが市民権を主張し市民革命を起こさなければならない。遅かれ早かれ、日本は市民革命を経験しなければ、今後また、外圧によって変化変容を迫られたとき、<font color="#ff0000">大き過ぎる代償を支払わなければならなくなる</font>。</p><br><p>被災地への支援が最重要なのは言うまでもないが、この震災を歴史的な観点から俯瞰して眺めた時に見えてくるものは、外圧によって変化変容する（後手後手になる）のではなく、市民自らが変化変容の起爆剤になる=市民革命を起こすことなのだ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/reflection-blog/entry-10834709376.html</link>
<pubDate>Fri, 18 Mar 2011 22:04:57 +0900</pubDate>
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<title>贈与という創造的破壊</title>
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<![CDATA[ <p>経済人類学者カール・ポランニーは、今まで人類が経験した、経済の類型を３つのパターンに分類している。<br><br></p><p>①市場経済</p><p>　現在の世界経済の在り方が、これに該当する。商品には代金という、「有償」の見返りが伴う。<br><br>②再分配経済</p><p>　これは、豊かな社会階層から税金を取り、その資金で貧困層に対し、福祉・教育制度を拡充し、適用するといった、国家による経済運営の制度である。豊かな地域から税金を取り、道路建設等の公共事業を貧しい地域に対して行うという、日本型<span class="seesaa-floating-candidate">福祉</span>国家もこの類型に入る。<br><br>　この場合、要になるのが、国家による経済支配・コントロールである。<br><br>③贈与経済</p><p>　贈与経済については、マーシャル・サーリンズ等による研究書が多数出ているが、日本のお歳暮、お中元等が、その典型となる。<br><br>　贈与経済には、市場経済のように貨幣の支払いと引き替えに、商品・サービスを要求する「有償」の仕組みは無いが、贈与を受けた側は、その贈与に対し「負い目」を負い、何らかの優遇措置を相手に対し、取らなければならない心理状況に追い込まれる。これは、<span class="seesaa-floating-candidate">お中元</span>等に典型的である。<br><br>　市場経済と異なり、贈与は「無償」が基本となる。</p><br><p><br>周知の通り、1929年の世界恐慌によって、①の市場経済が欠陥だらけであることが暴露された。</p><br><p>それ以降、②の再分配経済によってその欠陥を補ってきたが、近年のリーマンショックによって、この市場経済が抱える欠陥が再分配経済で補えないきれないほど「致命的」であることが暴露されてしまった。</p><br><p>これは、①＋②の経済方程式がもはや成り立たない時代に突入したことを意味する。</p><br><p>残るは贈与経済である。</p><br><p>昨今話題になっている<strong>「タイガーマスク」プレゼント運動。</strong></p><p>伊達直人を名乗ったランドセルの贈り物があったというニュースを皮切りに、全国に伝染しつつあるタイガーマスク・ムーヴメント。</p><br><p>税金による富の再配分が機能していない以上、直接やるしかない。発想の転換である。日本の政界に期待できることは何ひとつない今、我々にできることは「贈与」である。<br><br>もし、日本国民1億3千万人がこのムーヴメントに参加し「贈与」し合ったら、どうなるのか？代金という「有償」の見返りなしに物資を与え合う。お互いが「無償」で与えあう。今まであり得なかった経済のフォーマットである。</p><br><p>これはある意味で庶民革命とも言える。そして、これこそまさに創造的破壊である。</p>
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<link>https://ameblo.jp/reflection-blog/entry-10767491752.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Jan 2011 20:48:28 +0900</pubDate>
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<title>現代人に思考の自由はない</title>
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<![CDATA[ <p>現代人は、想像力を奪われている。</p><br><p>本来、人間にはあらゆることを想像していい自由がある。しかし、我々は決まり切った思考を無意識に強制されている。我々は幼いころから「教育」という大義名分のもとで思考を強制されてきた。</p><br><p>模範的な思考をすることが良しとされ、それ以外の思考と解釈は「間違い」であると教わってきた。思考の強制である。「模範的な思考」とそれ以外に線が引かれ、後者は悪いイメージを刷り込まされる。こうして、思考は分断され想像力が奪われていく。</p><br><p>教育とは模範的な思考を正当化するためにそれ以外を悪に仕立て上げることだった。我々の思考の自由の侵害を意味する。</p><br><br><p>「映像化＝視覚化」という技術が文明にもたらした利益は大きいが、それによって失った代償もまた大きい。映像化技術が存在しなかった時代、小説を読むとき、読み手の脳内で自由に想像（＝映像化＝視覚化）が行われた。つまり、小説は映像化＝視覚化の自由を読み手に与えていた。</p><br><p>しかし、映像化技術が進歩するにつれ、小説の役割は映画・ＴＶドラマに取って代わられた。映像を脳内で想像するのではなく、外部からの情報として受ける。つまり、作り手の映像を受け手に強制させる。受け手の想像の自由を奪ってしまう。</p><br><p>ファミコン時代の初期のＲＰＧゲームでは、粗い２Ｄドット絵で描かれたキャラクターを操作して旅を進めていく。ボイスもなく、グラフィックの細部描写は貧弱であった。しかし、そのおかげで想像の自由があった。貧弱なキャラクター描写、粗いグラフィック、そういった制限された環境の中で足りない部分を自由に脳内で補完しようとした。</p><br><p>しかし、映像化技術の進歩によってこういった想像の自由が許されなくなった。近年ではＣＧで髪の毛一本に至る細部まで事細かく描写することが可能になった。最近の次世代ゲーム機が提供するＣＧ映像は、プレーヤーから想像の余地を奪ってしまった。解釈を強制するようになってしまった。押しつけがましくなってしまった。</p><br><br><p>我々は教育から娯楽に至るあらゆる経済活動において、思考の自由を奪われてる。</p>
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<link>https://ameblo.jp/reflection-blog/entry-10704551373.html</link>
<pubDate>Thu, 11 Nov 2010 22:03:12 +0900</pubDate>
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<title>中国とアメリカの連携による日本包囲網戦略</title>
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<![CDATA[ <p><a href="http://www.asahi.com/science/update/1029/TKY201010290492.html">http://www.asahi.com/science/update/1029/TKY201010290492.html</a> </p><br><p>ついに中国のスパコンが、演算速度の世界最速とされる毎秒２５０７兆回の記録を更新しましたね。</p><br><p>ＣＰＵ（中央演算装置）の技術革新が頭打ちとなり、近年それを打破すべく「グラフィックプロセッサ」所謂ＧＰＵ（図形演算装置）という新たな技術が生まれた。</p><br><p>従来のＣＰＵはステップ・バイ・ステップによるシーケンシャルな線形（＝1次元）処理でしたが、それに対しＧＰＵは2次元演算処理を可能とした。（因みに、今後は3次元処理を可能にするＰＰＵ＝物理演算装置がコンピュータの分野に革新をもたらすと予想される）</p><br><p>それで、<a href="http://www.nikkei.com/tech/news/article/g=96958A9C93819499E0EBE2E39A8DE0EBE3E2E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;da=96958A88889DE2E4E1E2E5E0E6E2E0E7E2E6E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2" target="_blank">中国人民解放軍国防科学技術大学は1万4336個のマルチコアプロセッサ（ＣＰＵ）と7168個の「NVIDIA Tesla M2050」（ＧＰＵ）を搭載させ</a> 、世界最速の処理速度を実現したわけです。</p><br><p><font color="#0000ff">問題は記録を更新したということではなく、このプロジェクトを主導したのが、「人民解放軍」であった点と、GPU</font><font color="#0000ff">を提供したのが「米ＮＶＩＤＩＡ社」だった点です。ここは注意が必要です。</font></p><p><font color="#0000ff"><font color="#000000"><br></font></font></p><p><font color="#0000ff"><font color="#000000">アメリカは何を考えているんだ！中国軍に技術を売るなんて！と御思いの方は多いと思いますが、それがアメリカという国のやり方です。アメリカが日本を守ってくれるか？その考えは改めた方がいいでしょう。</font></font></p><p><font color="#0000ff"><font color="#000000"><br></font></font></p><p><font color="#0000ff"><font color="#000000">アメリカの考えはこうです。</font></font></p><br><p><font color="#0000ff"><font color="#000000"><br></font></font></p><p><font color="#0000ff"><font color="#000000">アメリカ政府：「日本は中国の軍事的脅威に備えなければなりません。</font></font></p><p><font color="#0000ff"><font color="#000000">　　　　　　　　　よって自衛隊を強化し、我々の兵器を大量に購入しなさい！」</font></font></p><p>日本政府：「仰せのままに」</p><br><p>一方、中国に対し、</p><br><p>アメリカ政府：「かつて日本軍が中国本土に侵略を行った歴史を忘れましたか？</p><p>　　　　　　　　　歴史は繰り返します。我々の軍事技術を購入すべきだ！」</p><p>中国政府：「日本には恨みがある。よし！乗った！」</p><br><br><p>かつて、アメリカもイギリスも中国本土に軍事侵略を行ってきたが、その事は「無かったことになり」、なぜか、日本の侵略行為「だけ」が、繰り返し、声高に世界に宣伝されている。その理由は単純であった。</p><br><p>日本と中国が「対立すればするほど」、アメリカの軍事産業が「儲かる」からだ。</p><br><p>「北朝鮮だけではなく、中国の核ミサイルが大量に日本に向かって準備されている」として、アメリカは日本にＭＤミサイル防衛システム、迎撃ミサイルを大量に日本に「販売している」。一方で、中国に核ミサイル誘導技術、軍事通信衛星を売ったのもアメリカである。その中国の軍事的脅威に恐怖したインドに核ミサイル技術を売っているのも、アメリカである。</p><br><p>こうして、アジアに核ミサイル戦争が起きても「それはアメリカの知ったことではない」。死ぬのはアジア人であり、アメリカ人ではないのだ。</p><p><font color="#0000ff"><br></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/reflection-blog/entry-10694672797.html</link>
<pubDate>Tue, 02 Nov 2010 05:40:05 +0900</pubDate>
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<title>宇宙的に思考せよ</title>
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<![CDATA[ <p>白と黒しか色を識別できない世界を仮定してみてほしい。</p><br><p>その世界の住人は「白と黒が可視＝真実であり、そうでないものは不可視＝幻想だ」と主張するだろう。</p><br><p>一方、多様な色を識別できる世界の住人は、白と黒しか識別できない住人を見て何とか色の知識を知ってもらいたいと思うだろう。だが、白黒の住人は「不可視」という理由で強硬にそれを否定する。彼らにとって、可視が「まとも」であり、不可視は「異常」なのである。</p><br><br><p>では、我々の現実に戻ろう。</p><p>私たちの世界の科学は概ね唯物主義の上に成り立っている。つまり、可視であるものが科学的に真実であるとされ、不可視であるものはその存在の有無について原則的には認められない（※厳密には、不可視であっても間接的に存在を証明できる場合は除く）。この思考モデルを端的に表現するなら、「論より証拠」というやつである。</p><br><p>よってこの世界の人々は、不可視＝「幻想」「異常」と思っている。</p><br><p>だが、これには偏見が伴っている。</p><br><p>可視の世界と、不可視の世界の集合を考えてみてほしい。無限に限りなく近い膨大な大きさの全体集合の中に極小の集合体が1つある。それが可視の世界である。その補集合（＝残りの9割以上、限りなく無限に近い）が不可視の世界である。</p><br><p>その極小の集合が「可視＝真実である」というのは分かるが、それをもって、残りの膨大な不可視の集合を「幻想」だと言うことはできない。そもそも、私たちは自分たちの目に見える可視の世界についてすら、完全に解明できていない。ましてや不可視の世界をや。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/reflection-blog/entry-10672315493.html</link>
<pubDate>Sat, 09 Oct 2010 22:02:55 +0900</pubDate>
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<title>議論を議論たらしめるもの</title>
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<![CDATA[ <p>会議等における議論を有意義なものにしたいなら、他人の内面を害するようなことを口にした発言者にはペナルティを課せばいい。ペナルティを重ねたものはその場から退場いただく。次の会議には出席できないようにする。</p><br><p>会議に出席し、有意義な議論に貢献した発言者は「評価」を高めることができるようにする。何らかの形で「発言」という行為が評価されて発言者に反映されるようにする。発言者は自分の発言に対して責任を持つようになる。有意義な議論にするために思考錯誤して発言を工夫するようになる。</p><br><p>サッカーをサッカーたらしめているものは、「手を使ってはならない」という絶対的ルールである。手を使ってしまったら、もはやそれはサッカーではない。手を使ったプレーヤーにはペナルティが課せられる。ペナルティを重ねたプレーヤーは退場いただく。それと同様である。</p><br><p>外交を外交たらしめているのは、武力行使をせずにいかに有意義に交渉を進めることができるかにかかっている。そこに外交というものの存在意義がある。軍事力を利用して、相手に選択を強制することは外交ではなく「脅迫」である。</p><br><p>議論を議論たらしめているのは、他人に危害を加えることなく、いかに有意義な発言ができるかにかかっている。そこに議論＝ディスカッションとしての存在意義がある。暴言を吐いて、相手を威圧することで、意見を強制することは議論ではなく、「脅迫」である。それなら、最初から議論をする意味はない。</p><br><p>サッカーで手を使う行為、外交における武力行使、会議における威圧は、反則であり、逃げである。それはサッカー、外交、議論それぞれの存在意義を頭から否定する行為である。</p><br><p>この論理に従えば、どのような理由であれ、軍事力を利用した外交を行った国にはペナルティを課さなければならない。ペナルティを重ねた国は、国際会議の場で発言権を持つことは許されない。</p><br><p>国連の常任理事国がすべて核保有国という現状は明らかにおかしい。むしろ核保有国は国連において発言権を持つことが許されてはならない。核保有国が国際会議で発言権を持つのだとしたら、それはもう静かな脅迫であり、まともな議論が成立するはずがない。</p><br><p>サッカーの試合中に手を使ってプレーしている選手が何人もいるのに、審判も観客も気付かないかあるいは黙って見過ごして、試合終了後の試合結果をフェアなものだと信じ込んでいる。それが今の国際社会の状況である。</p>
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<link>https://ameblo.jp/reflection-blog/entry-10667667289.html</link>
<pubDate>Mon, 04 Oct 2010 22:48:37 +0900</pubDate>
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<title>欧米人と日本人の比較</title>
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<![CDATA[ <p>前回の記事で、欧米人と日本人の精神構造の違いについて個人的な見解を書いた。</p><p>簡単にまとめると以下のようになる。</p><br><p>欧米人</p><p>・何をするにも、軸となる思想を尊重する</p><p>・トップダウン思考</p><p>・クラシカルなスタイルを好む</p><p>・統一感に美意識を求める</p><br><p>日本人</p><p>・基本的には無思想</p><p>・ボトムアップ思考</p><p>・多用なスタイルを好む</p><p>・統一感に特別こだわらない</p><br><br><p>これだけ見ると欧米人の方が優等生に見えますが、どっちかが優れててどっちかが劣っているというのではないことを断っておきたい。それぞれに良いところ、悪いところがあって、比較をしてそれらを明らかにしていくことを考えよう。</p><br><p>欧米人は思考のスタート地点（＝思想、哲学的価値観、法、文化・・・etc）を凄く尊重しています。なぜなら、ここを間違ったら、最悪の結果を招くことになるからです。スタート地点から思考をトップダウンに段階的に詳細化していき、最終的に現実世界に具現化させる。これが彼らの思考モデルである。だから、欧米各国の街並みは総じてクラシカルで統一感がある。なぜなら、根底に思想・哲学があるからです。逆に言えば、このスタート地点が無ければ何もできない、かあるいは混乱をきたす。よって、スタート地点が最重要ポイントとなる。そのこともあり、良い部分は凄く良いが悪いところは酷く悪いといった二極化傾向が見られる。</p><br><p>それに対し、日本人は思考のスタート地点（＝思想、哲学的価値観、法・・・etc）などはっきり言ってどうでもいいと思っている。そんなものお構いなしに考え得ることを考えるだけだ。だから、ミクロな視点で自分が最良と思うことをする。その結果がまた自分にフィードバックされ、自分はそれに対してまた最良と思うことをする。その繰り返し・積み重ね（ボトムアップ）の結果、自己の本質（＝思考のスタート地点）を浮き彫りにしていく。という思考モデルである。だから、日本の街並みは混沌としていて統一感がない。思考はスタート地点に依存しないので、特別良いところもないが、酷く悪いところもない。</p><br><p>では、まとめよう。</p><br><p>欧米人</p><p>・何をするにも、軸となる思想・哲学を尊重する</p><p>・トップダウン思考</p><p>・クラシカルなスタイルを好む</p><p>・統一感に美意識を求める</p><p>・軸となる思想がなければ、何もできないか、あるいは混乱をきたす</p><p>・良い部分と悪い部分の極端な傾向（ハイリスク・ハイリターン）</p><p>・自己の本質は体験を通じて意識的に探究すべき重要なテーマだ</p><br><br><p>日本人</p><p>・基本的には無思想</p><p>・ボトムアップ思考</p><p>・多用なスタイルを好む</p><p>・統一感に特別こだわらない</p><p>・軸となる思想がなくても世界は回る</p><p>・特別良いところもないが、酷く悪いところもない（ローリスク・ローリターン）</p><p>・自己の本質は体験を積み重ねることで、自然と浮き彫りになるものだ（浮き彫りにならなくても構わない程度のものだ）</p>
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<link>https://ameblo.jp/reflection-blog/entry-10665650327.html</link>
<pubDate>Sat, 02 Oct 2010 20:31:57 +0900</pubDate>
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<title>日本人の精神構造</title>
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<![CDATA[ <p><a href="http://bipblog.com/archives/951913.html" target="_blank">在日アメリカ人だけど日本に来てガッカリした</a> </p><br><p>確かにおっしゃる通り、日本の景観は悪いです。事実です。はい。すいません。</p><br><p>エセ洋風とプラスチック製の雑貨に囲まれた安っぽい現代＝それが日本とは言ってくれたものです。ですが、それも解釈の１つとして存在するわけですね。残念なのは、この発言者さんに対して、猛烈な罵詈雑言で人格批判を繰り広げるコメント欄。。。ひどいです。このスレとコメント欄の酷さがまさに今の日本を象徴しているかのようです。このテーマは凄く素晴らしくて、掘り下げれば凄く良い議論ができるテーマなのに、もったいない。日本の景観どうのよりも、この論理性を欠いたスレ展開に私はがっかりしました。</p><br><p>しかし、中には鋭い洞察を与える投稿も。</p><br><div class="ent_body"><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"><em>景観に関して言えば、原因と結果が循環している<br>原因には大まかに二つあって、</em></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"><em><br></em></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"><em>・日本には芸術ってものが無い　庶民にも芸術精神が無い</em></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"><em>・日本人は論理・合理をきちんと学ばない</em></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"><em><br></em></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"><em>芸術意識のなさと論理性・合理性のなさ、これが町並みに反映され、そしてその町並みの中で育った子供はやはり芸術意識や論理性・合理性が磨かれないまま大人になる・・・</em></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"><em><br></em></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"><em>本当に、町並みが与える影響はぞっとするほど大きい<br>逆に言えば、町並みという物体を変革することができれば、日本人自体を変革することが出来る</em></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"><em><br></em></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple">街並みや景観って精神性が表れるから面白い。アメリカや欧州の人たちは物事を認識したり、表現するときにトップダウンに思考します。英語という言語がまさにそうです。英語って、言いたいことを最初に明確にしたあと、補足事項を付け加えていく文体でしょ。だから、どんなに文が複雑になっても、軸がぶれないんですよね。統一感がある。</p><br><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple">でも日本語って、言いたいことを後回しにする傾向があって、最後までちゃんと聞かないと全体の意味を正しく理解できない言語だと思うんだよね。ボトムアップです。だから、軸とか統一感っていう概念の重要性にそもそも無頓着。最後まで聞き終わったときに、何となく軸が浮き彫りになっていればそれでいいって感じ。</p><br><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple">だから、日本人はプランニングが下手。計画性っていうものに重要性を見出していない。都市計画にしても、ボトムアップに組み立てていった結果って感じで、混沌とした街なみが多いのはそのためだと思う。</p><br><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple">一方、トップダウン思考の欧米人はプランニングが上手い。都市計画では、マスタープラン＝都市の概要＝軸をもとにひな型を設計する。出来たひな型をもとに細部を設計、拡張、補足していくっていうスタイル。だから、日本みたいに無計画に商業施設を立てたりしないので、混沌とした町並みにはならないんですよね。軸はぶれませんから、伝統的でクラシカルなスタイルが維持されやすい。その結果、統一感のある街並みを形成する。</p><br><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple">あと、欧米の警察組織の構造も凄い。欧米には「権力の分散」ていう思想文化＝軸がある。だから警察組織の構造も日本みたいに1つの大きな権力組織なんじゃなくて、役割や地域に応じて独立してるんですね。連邦警察（ＦＢＩ）、州警察、群警察、市警察、航空警察、港湾警察といった感じで、それぞれ別組織です。これらの組織間の上下関係ってのは厳密には決められてなくて、管轄の問題になる。例えば、州内の事件は州警察の管轄で、他の組織には介入する権利がない。ただ、連邦警察（ＦＢＩ）には国家レベルの事件の場合や州をまたぐような事件には、介入する権利がある。このように権力が分散されて統治される文化を軸にしているので、他の民間組織やコミュニティも同じような分散型の組織を形成する傾向がある。</p><br><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple">このように欧米人は何をするにもプラン＝軸＝思想ってのを尊重する。だから言うことやることに統一感を求めるし、結果的にクラシカルなスタイルを好むのも当然ですね。アメリカが国連という世界規模の組織を擁し、世界のルール＝軸を定義するのに積極的な姿勢を見せるのも頷ける。</p><br><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple"></p><p class="ent_body_p ent_kyocho_large purple">それに対し、日本人はプラン＝軸＝思想というものにあまり興味がない。言うことややることに必ずしも統一感を求めようとはしないし、クラシカルなスタイルを特別好むこともない。世界のルール＝軸を定義することにもあまり積極的な姿勢は見せない。マクロな視点よりミクロな視点で最良と思うことをし、その結果、マクロ＝全体も良くなっていればそれでいいし、悪くなっていても特別気にすることないじゃん、というスタンスである。</p></div>
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<link>https://ameblo.jp/reflection-blog/entry-10663743678.html</link>
<pubDate>Thu, 30 Sep 2010 20:29:26 +0900</pubDate>
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<title>親が悪い？本人が悪い？ニート問題に潜む人権問題</title>
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<![CDATA[ <h3 class="title entry-title"></h3><h3 class="title entry-title"><font size="2"><a href="http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1543076.html" target="_blank">家柄・学歴が自慢の主婦「エリート教育した息子2人がニートになった。何がいけなかったの？」</a></font></h3><p class="title entry-title"></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2">上の記事をお読みいただきたい。今の日本の教育がいかに崩壊しつつあるか窺い知れるというものだ。</font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2"><br></font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2">コメントの多さから分かように現代社会において教育の在り方を今一度考え直さなくてはいけないのは明確だ。コメントに書かれている意見の内容はいろいろだが、大まかに分類すると、母親の教育が悪い派、本人に問題がある派、の２つに分かれる。この手の話では必然的に不毛な二極対立の流れに陥りやすい。そしてそれによって、より重要な問題を見落とすことになる。</font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2"><br></font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2">息子二人がニートになった「責任」の所在はどこにあるのか？</font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2"><br></font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2">この答えに明確な回答を与えることはできない。だが、「個人の権利」という新たな視点を持ち込むことで理解できることもある。憲法にある通り、個人の自由意思は尊重されなければならない。個人的人権の尊重である。これは子どもであるとか大人である等関係なく、また老若男女問わず適用されなければならない。憲法上で保障されているのである。</font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2"><br></font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2">しかし、この母親はこれらの憲法上の重要概念を理解していなかった。自分の子どもであろうと何であろうとその前に人間である。人間である以上、個人の人権は侵害されてはならない。保護されなければならない。憲法で保障されている。よって、子どもの自由意思を侵害し、意思決定に干渉したこの母親は憲法違反である。よって、この母親は「息子２人がニートになった」責任を負う必要はないかもしれないが、憲法違反の「責任」は負わなければならない。</font><font color="#666666" size="2"><br></font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2">干渉とは、助言や忠告とは違う。助言や忠告は相手に自分の意見は言うが、最終的な意思決定は相手に任せる。しかし、干渉は相手の意見に関係なく、自分の意見を押し付ける。押し付けること自体は悪いことではない。それだけの「責任」を負うなら許されるからだ。だが、この母親は責任は負わないが、干渉はした。問題はそこにある。</font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2"><br></font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2">こういったことは日常で頻繁に起こっている。どれも憲法違反であるが、会社＝職場では「契約」という盾によってこのことが正当化されている。しかし、「家族」というものは契約で成り立っているわけではない。よってこの正当化の論理は適用できない。現在の法体系ではこの憲法違反行為に対して責任を負わせるだけの強制力がない。そのため、こういった憲法違反者は野放しにされている。</font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2"><br></font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2">ニートなることが問題なのではない。こういった基本的人権の侵害、自由意思への干渉という憲法違反行為が問題なのである。これは社会的に裁かれないケースが多数である。</font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2"><br></font></p><p class="title entry-title"><font color="#666666" size="2">「殺人」とは個人の肉体的な生存を絶つことである。それは同時に個人の権利を奪うことを意味する。「殺人」とは人権を奪う手段に過ぎない。この母親は手段は違えど、息子２人の人権を奪った。手段が違うだけで、意味するものは「殺人」と何ら変わりない。</font></p><p class="title entry-title"></p>
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<link>https://ameblo.jp/reflection-blog/entry-10648572595.html</link>
<pubDate>Tue, 14 Sep 2010 19:16:42 +0900</pubDate>
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