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<title>ミネルヴァのフクロウのブログ</title>
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<description>歴史を自分なりに考えて書いてます。寝る前の読書にお勧めです。</description>
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<title>クロスファイア　日露戦争で考えたこと</title>
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<![CDATA[ 年末になり坂の上の雲が楽しみな季節ですね。<br><br>日露戦争や第一次世界大戦の映画やドキュメンタリーを見ていて<br>いつも考えるのクロスファイヤをどう打破するかという戦術論です。<br><br><br>結論から言えば、たぶん地上戦のみでこれを打破する戦術は<br>生まれていない訳ですから僕ごときが考えても無理なんでしょうけど。。。<br><br>クロスファイヤは日本語で十字砲火と訳されますが、<br>正確な定義をすれば、塹壕線における機関銃の交差弾幕になります。<br><br>もともと塹壕戦は、攻城戦の一戦術でした。<br>火器の発達から城を攻めるのが難しくなります。<br>兵士は身を守るために塹壕を掘りました。<br>塹壕を横に広げて城を包囲します。<br>斜めに塹壕を掘って（斜線に）前進します。<br>ジグザグに塹壕を掘りながら、前に進み、城塞に取り付くという戦術です。<br><br>鉄砲が戦争を変えた訳ですが、<br>日本の歴史では、塹壕戦の原型を長篠の戦に見ることができます。<br>野戦築城という表現で以前散々書きましたが、<br>その発展形態が、日露戦争で行われました。<br><br>日露戦争は、本格的に機関銃が導入された始めての近代戦争でした。<br><br>当時の最新兵器をロシア軍も日本軍も積極的に導入しました。<br>この２カ国が、もっとも戦争に対する危機感を持っていたためでしょう。<br>どの国よりも早く広く実戦配備が行われ、各戦線で使用されました。<br><br><br>坂の上の雲で描かれているように<br>要塞や塹壕によって作られた防衛線を突破する戦争は<br>３つの兵器の発明・普及によって大変困難なものになります。<br><br>１つは、機関銃に代表される高速発射が可能な火気が開発されました。<br>弾幕という言葉が意味するように人間には突破が非常に困難な状況が<br>つくりだされた訳です。<br><br>２つ目は、鉄条網です。まさに安価な大量生産が可能で<br>消費社会の申し子のような兵器です。日常社会にも利用されていて<br>我々でも眼にすることがあります。<br>しかし、これほど効果的な、費用効果の高い兵器はなく、<br>確実に歩兵の足を止め、機関銃の餌食へと効率よく変えていくものは<br>ありません。<br><br>最後は２０世紀の悪夢というのにふさわしい地雷です。<br>地雷網も発見が難しく、戦後も長く地域住民を苦しめる最悪の兵器です。<br><br><br>塹壕線は、こうした兵器を生身の人間が乗り越え、屍を作りながら<br>突破するものとして日露戦争で現れたものでした。<br>日露戦争当時は、地雷がまだ普及していなかったとはいえ、<br>日本軍第３軍（乃木軍）が、戦争史上、歴史上ありえない死傷者率を出したのは、<br>悪夢としかいえません。<br>第一師団の犠牲者数は、戦国時代なら敵に寝返るのが当たり前、<br>第３軍に忠誠を誓う義理も理由も吹き飛ぶものです。<br><br>第一次世界大戦では、西部戦線が塹壕線に突入し、<br>多くの犠牲を出しました。<br><br>最終的に人海戦術による兵士の犠牲を覚悟した塹壕突破しか<br>人類は、この悪夢なような戦争を終わらせる方法を見出していません。<br><br>戦車は、最初有効な兵器に思われましたが。<br>塹壕の幅が大きく、深いと役に立ちません。<br><br>爆撃機という新たな兵器が登場して<br>平地における塹壕攻略は、可能になりました。<br>しかし、第二次世界大戦の硫黄島や沖縄戦のように<br>地下や密林といった戦場では、爆撃だけでは、<br>世界最強のアメリカ軍も勝てませんでした。<br><br>日本では硫黄島の戦いの詳細は、あまり知られていません。<br>２万３千の日本軍に１１万のアメリカ軍が硫黄島攻略のために<br>包囲展開した戦いです。<br>火力で日本軍を圧倒したアメリカ軍が勝つのは<br>戦前から分かりきったものでした。<br>しかしアメリカ軍は砲艦射撃と航空機による爆撃だけでは、<br>硫黄島は占領できません。<br>占領は最後的には、歩兵にしかできない作戦です。<br>日本軍は徹底抗戦を敢行し、１万７千人を超える戦死者を出します。<br>戦略上、どう考えても無駄死にです。<br>死んだ兵士の方々には、大変心苦しい表現ですし、適切ではありませんが、<br>どう取り繕っても事実は変わりません。<br>しかし、日本人戦死者はアメリカ軍に甚大な被害を与えました。<br>アメリカ軍は圧倒的に有利であったにもかかわらず、<br>７千人弱の戦死者と２万人を超える戦傷者を出します。<br>のちのベトナム戦争を予感させる戦いでもありました。<br>塹壕に潜む日本兵は、機関銃とライフル銃でアメリカ軍を苦しめます。<br>火炎放射器が有効に使われたと思われがちですが、<br>火炎放射器は射程距離が短いため、接近戦になるまでは<br>使えませんでした。<br><br>クロスファイヤは地上では解決が難しいため、<br>空へと兵器を進化させていきます。<br>爆撃機、長距離砲、ミサイルと進化を重ね、<br>兵器はより高価で、殺傷能力が高いものになりました。<br>そして今日の戦争へと引き継がれています。<br>アフガニスタンでアメリカ軍が使っている爆撃機の<br>爆弾は、恐ろしいものです。<br>東京大空襲で使われた焼夷弾が子供のおもちゃに感じられます。<br>そして戦術で解決できない以上、戦略で対抗する必要から、<br>第二次世界大戦のドイツ軍の電撃戦が生まれました。<br>こうした歴史の大きな流れの最初の一歩が日露戦争でした。<br>極東の果てで行われた戦争の一進一退が<br>世界中にニュースとして流れた最初の戦争でもありました。<br>しかし、塹壕線の真の意味を世界が理解したのは、<br>第一次世界大戦の西部戦線まで待つことになります。<br>当事者である日本軍は、部分的にしか日露戦争の教訓を活かせませんでした。<br>第一次世界大戦にヨーロッパ戦線に参加しなかったのは、<br>当時の政治上の判断では、絶対的に正しいものでしたが、<br>日本陸軍史として考えると致命的だったといえるかもしれません。<br>ヨーロッパ戦線への度重なる参戦要求に日本政府は海軍のみを派遣しました。<br>ノモンハン事件（事実上の日ソ戦争）で日本陸軍は完全敗亡を経験しますが、<br>ノモンハン事件という名が示すようにいまだに戦争として位置付けられていません。<br>あれは、完全な戦争であり、モンゴルの大地で行われた広大な局地戦でした。<br>日本陸軍の完璧な敗北。<br>ここから第二次世界大戦に向かう日本陸軍の無能・無謀は目に余るものがあります。<br>第二次世界大戦における日本陸軍の能力は、<br>第一次世界大戦を戦い抜いた列強諸国に比べて三流国に転落しています。<br>日中戦争で中国軍に勝ちきれないのですから。<br>ソ連・アメリカと戦える戦力などありません。<br>この事実に対する危機感が陸軍にはありません。<br>海軍との大きな違いです。<br>海軍はアメリカに勝てないことを十分に意識していました。<br><br><br>すこしずれました。<br>いつも日露戦争では、<br>陸軍は旅順攻略をどうすべきだったのだろうと考えます。<br>この当時の陸軍は状況分析能力がありました。<br>ロシア陸軍全軍100万を相手に勝てないことを分かっていました。<br>財力・戦力といった国力が違いすぎます。<br><br>坂の上の雲では、旅順艦隊砲撃のために203高地がクローズアップされます。<br>実際、大本営は、かなり203高地にこだわりました。<br><br>日本が基本戦略を２つ持っていました。<br>陸軍は朝鮮半島から上陸し奉天攻略です。<br>海軍は日本海の制海権の確保です。（陸軍の補給線の確保）<br>この状態で和平工作を有利に終結する。<br>とてもシンプルな戦略です。<br>問題は、２つありました。<br>１つは、戦費が確保できないため、陸軍は弾薬をはじめとした補給が十分に<br>できないことは、始めから分かっていました。<br>もう１つは、海軍が日本海の制海権を確保するには、ロシア艦隊を各個撃破する<br>必要がありました。<br><br><br>陸軍から見た場合、旅順は、満州南方のロシアの最大拠点でした。<br>北方の戦線に攻撃を集中したい陸軍は、ロシアの旅順の兵力が北上し、<br>挟撃されることを恐れます。<br>そのため第3軍が派遣さえることになりますが、<br>旅順を攻略する必要は、陸軍にはありません。<br>ロシア軍を封じ込めればいい訳です。<br>陸軍は強固な防衛線を構築し、半島の先端にある旅順の補給路を断って<br>長期戦に持ち込めば、この局地戦は有利に戦況を進められます。<br>防衛線に戦力はとられますが、旅順要塞を攻略して受けるであろう<br>甚大な被害を考えれば、北方にまわせる戦力ははるかに大きなものです。<br>陸軍は、当初は旅順攻略を考えていなかったと考えられます。<br>実際、半島を封鎖したあと、のんびり構えていました。<br><br>海軍の視点から見た場合、旅順攻略は必須かというと、<br>答えはNOです。旅順艦隊を壊滅する必要はありましたが、<br>旅順要塞そのものを攻略する必要はありません。<br><br><br>そこでクローズアップされるのが２０３高地です。<br>２０３高地は、ロシアの旅順防衛線から外れたいました。<br>長距離砲の命中精度を上げるために<br>旅順の観測地点として確保するだけですから<br>目標が達成されるまでの間、確保すればいいだけです。<br>長期に確保する必要はありません。２日もあれば十分でした。<br>ただ、旅順を観測できる地点は複数あります。<br>陸軍は２０３高地を確保する以前から旅順に砲撃を加えていました。<br><br>結果論として語れば２０３高地の確保は、観測地点として役に立ちませんでした。<br>旅順が見えなかったというのではなく、<br>日本陸軍が、既に旅順艦隊殲滅という目標を達成していたからです。<br>その戦果が黄海会戦でした。海軍は旅順艦隊に逃げられましたが、<br>そもそも旅順港にいられなくなったから、旅順艦隊は黄海に出てきた訳ですから。<br><br><br>ロシアの旅順要塞は、２０３高地で予備兵力を使い果たし、<br>陥落しますが、本来、攻略する必要のない戦いでした。<br>当時としては、陸軍の意地であり、軍を維持するのには必要な行動でしょう。<br>正確な情報把握と戦況分析が必要でしたが、<br>重視されず、戦後は十分な反省・総括が行われませんでした。<br>桂内閣は、国家崩壊の寸前まで追い込まれていましたが、<br>国民に真実を話すことなく、ロシアと賠償金なしで和睦を結びます。<br><br><br>結局は、最終目標を当初に明確に示さなかった陸軍幹部による<br>無益な犠牲と言えます。<br>面子と無責任。ひたすら自己反省をおこなわない、<br>無責任な、ひたすら無責任な行動をとり続ける官僚主義。<br>現在の日本の官僚の原型です。<br>旅順艦隊殲滅だけを目標に掲げれいれば、要塞攻略という戦略上必要のない<br>戦力の分散と犠牲を出さずに済みました。２０３高地の攻略も同様です。<br><br><br>第二次世界大戦へと向かう悲しい戦いが、<br>近代以降、もっとも無能な陸軍の誕生に向かった流れが<br>すでに始まっていたといえます。<br><br><a href="http://peta.ameba.jp/p/addPeta.do?targetAmebaId=rekishisukikai&amp;service=blog"><img alt="ペタしてね" src="https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/decoPeta/pc/decoPeta_16.gif"></a><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-11111984400.html</link>
<pubDate>Tue, 20 Dec 2011 10:33:40 +0900</pubDate>
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<title>フルベッキ写真について</title>
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<![CDATA[ こんにちは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif" alt="ニコニコ"><br><br><br>ちびびさんにお答えしてフルベッキ写真について。<br>プレゼント有難うございます<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif" alt="ニコニコ"><br><br><br>「フルベッキ写真」とは、フルベッキとその次女・エマ（夭逝した長女と同名）を囲んで、<br>致遠館の塾生と岩倉具定・具経兄弟などが集まり、<br>写真師上野彦馬によって撮影された写真です。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20100915/15/rekishisukikai/16/08/j/o0300021410748943623.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20100915/15/rekishisukikai/16/08/j/t02200157_0300021410748943623.jpg" alt="$ミネルヴァのフクロウのブログ" width="220" height="157" border="0"></a><br><br>現在の研究では、撮影時期は1868年12月（明治元年10月-11月）頃とほぼ特定されています。<br>決めてはエマの年齢です。<br><br>この写真は古くから知られていて、<br>1895年（明治28年）には雑誌『太陽』で佐賀の学生達の集合写真として紹介されました。<br>その後、1907年（明治40年）に発行された『開国五十年史』（大隈重信監修）にも<br>「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されています。<br><br>岩倉具定（いわくらともさだ）は1852年1月18日生まれ、宮内大臣になります。<br>岩倉具視の第三子（次男）として京都に生まれました。<br>この写真は、彼が学生時代の写真になります。<br>戊辰戦争に従軍し各地を転戦。<br>1870年（明治3）アメリカに留学、帰国後政府に出仕。<br>1882年（明治15）伊藤博文の憲法調査に随行して欧州に渡ります。<br>1884年（明治17）に家督を継ぎ公爵。<br>帝室制度取調委員、貴族院議員、学習院院長を歴任。<br>1900年（明治33）枢密顧問官、<br>1909年（明治42）宮内大臣となります。<br>具定の五男岩倉具顕の息子の岩倉具憲はパシフィックホテル社長。<br>具憲の姉　小桜葉子（岩倉具子）は女優。<br>小桜葉子の息子（具定のひ孫）は歌手・俳優　加山雄三。<br>若大将の祖先です。<br><br><br>1974年（昭和49年）、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、<br>この写真には西郷隆盛・高杉晋作・勝海舟・坂本龍馬・大隈重信らが<br>写っているとする論文を発表しました。<br>翌々年にはこの論文の続編を同誌に発表。<br>島田は彼らが写っているという前提で、<br>写真の撮影時期を1865年（慶応元年）と推定。<br><br>佐賀の学生として紹介された理由は、<br>敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、<br>偽装されたものだとしました。<br><br>阿呆な理由です。<br><br><br>この説は学会では問題にされませんでしたが、<br>一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明をとりいれた展示を行っていました。<br><br>この写真の話題は間歇的に復活して流行する傾向があります。<br><br>ちなみに最初に島田が推定した維新前後の人物は<br><br>22人<br><br>でしたが、<br><br>流通する度に徐々に増加。<br><br>現在では<br><br>44人<br><br>全てに維新前後の有名人物の名がつけられています。<br><br><br>個人的には、ただの佐賀の学生達の写真だと思います。<br>この時期、佐賀に維新の志士達が集まる理由もありません。<br>この写真は、誰が撮ったかも誰を撮ったかも<br>いつ撮ったかも、はっきりしていて議論の余地はありません。<br>撮影した時にはっきりと述べられている物を<br>後世の人々がおもしろおかしく尾ひれを付けているだけです。<br>明治天皇が写っているというのは、あまりに荒唐無稽です。<br>坂本龍馬は、この写真の頃には、すでに死んでいます。<br><br>ごめんなさいm(_ _ )mちびびさん。<br>期待を裏切ってしまったかもしれません。<br><br><br><br>ではでは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/106.gif" alt="パー"><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10649229154.html</link>
<pubDate>Wed, 15 Sep 2010 15:15:46 +0900</pubDate>
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<title>坂本龍馬ー薩長同盟　寺田屋遭難11ー</title>
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<![CDATA[ こんにちは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif" alt="ニコニコ"><br><br><br>1866年1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、<br>桂と西郷の会談が開かれました。<br>だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。<br>会話が始まらなかったとも伝えられています。<br>龍馬が1月20日に下関から<br>京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、<br>桂に問い質したところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えたといいます。<br>そこで、その夜に龍馬は西郷を説き伏せて、<br>これにより薩長両藩は1月22日に<br>薩摩側が西郷と小松帯刀、<br>長州は桂が代表となり、<br>龍馬が立会人となって列席して、<br>薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結びました。<br><br>龍馬伝では、話がすすまない事情を<br>桂が龍馬を待っていたためとしていましたが、<br>いままで語られた会談としては、<br>一番、説得力があるものでした。<br>龍馬到着後、会談は成立する訳ですが、<br>意外と作家の想像力が正解かもしれません。<br>当事者達は、この辺の事情を明確に残しませんでしたから、<br>いままで語られて物もほとんどが想像です。<br><br>盟約成立後も桂の薩摩に対する不信感は根強く、<br>帰国途中で龍馬に盟約履行の裏書きを要求しています。<br>天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、<br>彼がいかに信を得ていたかがわかります。<br>同時に長州がどれだけ追詰められていたかが、<br>如実に現れていると言えます。<br><br>さて、同盟の内容です。<br><br>内容は6条からなります。<br>桂小五郎から内容確認のために送られた書状によって<br>我々はその同盟の内容を知る事ができます。<br><br><br>一、戦いと相成候時は、<br>すぐさま二千余の兵を急速差登し、<br>只今在京の兵と合し浪華へも一千程は差置き、<br>京阪両所相固め候事<br><br><br>一、戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒相見え候とき、<br>其節朝廷へ申上げきっと尽力の次第これあり候との事<br><br><br>一、万一敗色に相成り候とも、<br>一年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき事に付き<br>其間には必ず尽力の次第これあり候との事<br><br><br>一、是なりにて幕兵東帰せし時は、<br>きっと朝廷へ申上げすぐさま冤罪は朝廷より御免に相成り候都合にきっと尽力との事<br><br><br>一、兵士をも上国の土、橋、会、桑も只今の如き次第にて、<br>勿体なくも朝廷を擁し奉り、<br>正義を抗し、<br>周旋尽力の道を相遮り候時は、<br>終に決戦に及ぶほかこれなくとの事<br><br>一、冤罪も御免の上は、<br>双方とも誠心を以て相合し、<br>皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、<br>いづれの道にしても、<br>今日より双方皇国の御為め皇威相輝き、<br>御回復に立ち至り候を目途に誠しを尽くして尽力して致すべくとの事なり<br><br><br>坂本龍馬が桂小五郎の求めに応じて裏面に朱書で、裏書署名しています。<br><br>表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同席にて談合せし所にて、<br>毛も相違これなく候。従来といえども決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。　<br><br>小は小松帯刀、西は西郷隆盛、龍は坂本龍馬、毛は毛利＝長州藩のことです。<br><br><br>盟約成立から程ない1月23日、<br>龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げます。<br>だがこの時、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていました。<br>伏見奉行所は、かなり早い時期から薩長同盟の動きを掴んでいたようで<br>龍馬の存在を同盟終結後、その日には把握していたようです。<br><br><br>明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が<br>窓外の異常を察知して袷（あわせ）一枚のまま二階に駆け上がり二人に知らせます。<br>すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、<br>龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を<br>三吉は長槍をもって応戦しますが、<br>多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られます。<br>なんとか両人は屋外に脱出。<br>負傷した龍馬は材木場に潜み、<br>三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めました。<br>このとき、三吉が切腹を覚悟したのは有名な話です。<br>これにより龍馬は薩摩藩に救出されます。<br>それを聞き及んだ幕府の伏見奉行所側は、<br>再三にわたり、伏見薩摩藩邸に龍馬の引き渡しを要求しましたが、<br>これを「知らぬ存ぜぬ」で押し通し、<br>龍馬たちの鹿児島への脱出の機会を窺わせました。<br>その後、坂本龍馬たちは京師の錦小路藩邸へと移ります。<br><br>寺田屋での遭難の様子を<br>龍馬は12月4日付の手紙で兄権平に報告しています。<br><br>寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、特に左手人差し指が曲がらなくなり、<br>以後、写真撮影などでは左手を隠していることが多い。<br><br>小松帯刀の勧めにより、<br>刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は<br>2月29日に薩摩藩船「三邦丸」に便乗してお龍を伴い京都をでます。<br><br>3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留しました。<br>接待役は家老である小松帯刀が自ら勤めています。<br>二人は温泉療養の傍ら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、などを巡りました。<br><br>温泉で休養を取ると共に左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、<br>これが日本最初の新婚旅行とされています。<br><br>ただ、この温泉治療自体が、小松帯刀のプロデュースで、<br>彼が、新婚の時に病気療養のために行った旅行を再現したものです。<br>旅の途中で、同じく温泉治療中の小松帯刀と龍馬は合流しています。<br><br>こうして、龍馬は、薩摩最大の実力者、家老 小松帯刀の後ろ盾を得ます。<br>それは、イギリス公使とつながるコネクションであり、<br>長崎で亀山社中は絶大な信用を得る事に成ります。<br><br>全然別件ですが、<br>現在、寺田屋を称する建物（同一敷地内）には、<br>事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや<br>「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、<br>当時そのままの建物であるかのような説明がされています。<br>しかし、現在の寺田屋の建物は明治38年（1905年）に登記されていて、<br>特に湯殿がある部分は明治41年（1908年。お龍はその2年前に病没）に<br>増築登記がなされている点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。<br>2008年になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、<br>京都市は当時の記録等を調査し、<br>同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、<br>現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は<br>後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものと公式に結論を出しています。<br><br><br>だまされないように<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/104.gif" alt="グー"><br><br>この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が<br>営業を始めたものであり、<br>「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はありません。<br><br>ではでは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/106.gif" alt="パー"><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10649103044.html</link>
<pubDate>Wed, 15 Sep 2010 11:33:42 +0900</pubDate>
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<title>坂本龍馬ー長次郎事件　10ー</title>
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<![CDATA[ こんにちは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif" alt="ニコニコ"><br><br><br>龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は<br>彼らの航海術の専門知識を重視していました。<br><br>1865年5月頃に龍馬らに出資して「亀山社中」を結成させます。<br>これは商業活動に従事する近代的な株式会社に<br>類似した性格（あくまで類似！！！）を持つ組織でした。<br><br>当時、商人が参集していた長崎の小曽根英四郎家を根拠地として、<br>下関の伊藤助太夫家、そして京都の酢屋に事務所を設置します。<br><br>長州藩では前年の1864年12月に高杉晋作が挙兵して、<br>幕府恭順派政権を倒して、再び、尊攘派が政権を掌握します。<br>功山寺挙兵です。<br>亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることの外に、<br>当時、犬猿の関係にあった薩長両藩和解も目的に含まれていました。<br>後の薩長同盟成立に貢献することになります。<br><br><br>幕府勢力から一連の打撃を受けて、<br>長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する<br>根強い反感と憎しみが生まれ、<br>一部の藩士は共に天を戴かずと心中に誓い、<br>例えば「薩賊會奸」の四文字を下駄底に<br>書き踏みつけて鬱憤（うっぷん）を晴らす者がいたほどでした。<br><br>この様な雰囲気の元でも、<br>土佐脱藩志士 中岡慎太郎とその同志 土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、<br>これをもって武力討幕を望んでいました。<br><br>中岡 慎太郎（なかおか しんたろう）は土佐安芸郡北川郷柏木村（現・高知県安芸郡北川村柏木）に<br>北川郷の大庄屋 中岡小傳次、はつの長男として生まれます。<br>龍馬と同じく実家は大変裕福でした。<br>武市瑞山（半平太）の道場に入門して剣術を学び、<br>1861年に武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を始めます。<br>1862年、長州の俊英 久坂玄瑞・山県半蔵とともに、松代に佐久間象山を訪ね、<br>国防・政治改革について議論し、大いに意識を高めます。<br>龍馬と同じように武市半平太から離れ、久坂玄瑞へと軸足をずらしていった土佐藩士です。<br>1863年、京都での八月十八日の政変後、土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、<br>速やかに藩を脱藩します。<br>同年9月、長州藩三田尻（現防府市）に亡命。<br>以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となります。<br>また、三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣（「衛士」）となり、<br>長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となります。<br>1864年、石川誠之助を名乗り上洛。<br>なんと薩摩藩の島津久光暗殺を画策しました。<br>しかし、果たせず、（これが成功したら薩長同盟はなかった）<br>また、脱藩志士たちを率いて禁門の変、下関戦争を長州側で戦い、負傷します。<br>長州藩への冤罪・雄藩同士の有害無益な対立・志士たちへの弾圧を目の当たりにして、<br>彼は自らの活動方針を単なる尊皇攘夷論から<br>雄藩連合による武力倒幕論に発展させていきます。<br>中岡慎太郎自身のこの頃の手紙によると彼の考えは明確です。<br>そして、長州藩の桂小五郎（木戸孝允）と<br>薩摩藩の西郷吉之助（隆盛）との会合による薩長同盟締結を<br>志士たちの第一の悲願として活動し始めます。<br>三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士たちのまとめ役として、<br>薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、<br>亀山社中の坂本龍馬と三条の随臣・土方楠左衛門（土方久元）をも<br>説き伏せて巻き込んで行きます。<br>そう、薩長同盟は彼の考えであり、計画です。<br>龍馬は途中から協力したのが事実です。<br><br>1865年5月、先ず土方と龍馬が協同して長州の桂小五郎を説得し、<br>下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させます。<br>同時に中岡は薩摩に赴き西郷に会談を応じるよう説きました。<br><br>同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、<br>「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけでした。<br><br>西郷は下関へ向かっていましたが、<br>途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために<br>急ぎ京都へ向かっいます。<br>藩命でしたから西郷自身に非があった訳ではありません。<br>しかし、事情を知らない桂小五郎は激怒して、<br>和談の進展は不可能になったかに見えたした。<br><br>しかし、龍馬と中岡は薩長和解を諦めませんでした。<br><br>倒幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、<br>幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、<br>長州藩は近代的兵器の導入が難しくなります。<br><br>一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していました。<br><br>ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、<br>その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案します。<br><br>取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。<br>この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるので、<br>両藩ともこれに首肯します。<br>武器の欲しい高杉晋作と米の欲しい小松帯刀の思惑が合致した瞬間です。<br><br>これが亀山社中の初仕事になり、<br>8月、長崎のグラバー商会からミニエール銃4,300挺、<br>ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買い付け斡旋に成功。<br><br>これは同時に薩長和解の最初の契機となります。<br>また、近藤長次郎（この当時は上杉宗次郎と改名）の働きにより<br>薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号（薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」）の購入に<br>成功し、所有権を巡って紆余曲折はありましたが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、<br>同船の運航は亀山社中に委ねられることになります。<br><br><br>近藤長次郎は高知城下の饅頭商人の息子として生まれ、<br>長次郎自身も饅頭を売り歩いていたため、<br>はじめは苗字がなく、<br>饅頭屋長次郎と呼ばれていました。<br>幼少期から聡明で土佐では河田小龍、江戸では安積艮斎らに学びました。<br>その才能を山内容堂にも認められて1863年に名字帯刀を許された上で、<br>神戸海軍操練所に入ります。<br>岩崎弥太郎とは知己で、土佐を立つ際には餞別として刀を貰っています。<br>同じく土佐藩出身である坂本龍馬とは仲が良く、<br>龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立しました。<br>龍馬の命令で長州藩に赴き、小銃を売り渡しています。<br>このとき、長次郎は長州藩主の毛利敬親から謝礼の言葉を直々に頂いています。<br>龍馬伝では長次郎の活躍が良く書かれていましたが、<br>軍艦を適正な価格で買うというのは、相場と機能を理解する必要があり、<br>当時の日本人で、それができたのは数人しかいなかったと思われます。<br>そして長次郎は汽船・ユニオン号を購入したが、<br>このときに長州藩とユニオン号の引渡し条件をめぐって諍いを起こしてしまいます。<br>しかし龍馬が仲介したため、長州藩は謝礼金を支払いました。<br><br>9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の<br>「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保一蔵の書簡を、<br>長州藩重役広沢真臣に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されています。<br><br>その後、長次郎は密航を企てて失敗した後、<br>割腹自殺します。<br>いわゆる長次郎事件です。<br>長次郎は亀山社中の社員として、<br>長州藩から依頼のあった汽船ユニオン号の売買に尽力したことから、<br>長州藩から謝礼金を受けました。<br>しかし、受け取った謝礼金の一部で、仲間には内緒でイギリスへの留学を計画します。<br>武器商人トーマス・グラバーの船に乗船してイギリスへ向かおうとしますが、<br>悪天候のため長崎に引き返し、さらに仲間に見つかってしまいます。<br>このため、亀山社中の社中盟約書に違反したとして、<br>仲間たちより追及を受けたのち、責任をとって小曽根邸で切腹しました。<br>このとき切腹を命じたのは龍馬自身であるという説が一部にありますが、<br>当時、龍馬は薩長同盟締結のため京都に赴いていて長崎には不在でした。<br>長次郎の切腹は、<br>龍馬不在中に社中の隊士が決定したことである可能性が高いというのが現在の定説です。<br><br>享年29歳。<br><br>才能ある若者が、またひとり命を散らします。<br><br>なお、龍馬の妻であるお龍は後に<br>回顧録『千里駒後日譚』（せんりのこまごじつのはなし）の中で<br>長次郎の訃報を聞いた龍馬が<br>「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」とその死を悼んでいたという証言を残しています。<br><br>葬儀は社中の者であげました。<br>墓は皓台寺墓地内の高島秋帆（幕末期砲術家）の墓の裏手（山側）に<br>ひっそりと建てられていましたが、<br>現在では大浦お慶とともに志士たちを援助した小曾根家の墓地内に移設されています。<br>墓碑には、小曾根邸の離れの屋敷名をとって｢梅花書屋氏墓｣と記されています。<br>筆跡は龍馬のものとされています。<br><br>龍馬は後に、<br>「術数有り余って至誠足らず。上杉氏（長次郎の変名上杉宋次郎のこと）身を亡ぼす所以なり」<br>と嘆いたといいます。<br><br>トーマス・グラバーは長次郎を非常に高くかっていました。<br>彼はこの事件を切っ掛けに龍馬に批判的になって行きます。<br>商人ですから、ビジネスは別ですが。。。<br><br><br>ではでは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/106.gif" alt="パー"><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10649066002.html</link>
<pubDate>Wed, 15 Sep 2010 10:28:52 +0900</pubDate>
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<title>坂本龍馬ー天衣無縫　偉大なる行動人9ー</title>
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<![CDATA[ <br>こんにちは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif" alt="ニコニコ"><br><br><br>また、間が空いてしまいました。<br><br>続けます。<br><br>1864年5月、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍（お龍）と出会い、<br>後に彼女を懇意にしていた寺田屋の女将お登勢に預けています。<br>龍馬伝では、全く書かれていませんが、<br>お登勢には、娘がおり、当時の龍馬について語っています。<br><br>当時の志士達は、貧しいものがほとんどだったが、<br>龍馬は実家が裕福だったためか、服装に気を使い、シャレものだったとか<br><br><br>5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足します。<br>6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、<br>京摂の過激の輩数十人（或いは200人程）を蝦夷地開拓に送り込む構想を話し、<br>老中・水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べています。<br>龍馬にとって北海道開拓の夢は真剣なもので、<br>のちに坂本家を継いだ甥は北海道へ移住します。<br><br><br>だが、この時点では龍馬と海舟は知りませんでしたが、<br>6月5日に池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていました。<br>池田屋事件で肥後の宮部鼎蔵、<br>長州の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、<br>死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいました。<br>北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊した経験のある人物で、<br>北海道開拓の中心人物でした。<br>同士を多く失い、北海道開拓の夢は、立ち行かなくなります。<br><br>また、望月は神戸海軍塾の塾生でした。<br><br><br>八月十八日の政変と池田屋事件の後、<br>長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃されました。<br><br>7月19日に京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約三千が御所を目指して進軍しましたが、<br>一日の戦闘で幕府勢力に敗れました（禁門の変）。<br>ここで龍馬にとっては、大きな影響を与えた久坂が自害します。<br><br>それから少し後の8月5日、長州は英米仏蘭四カ国艦隊による<br>下関砲撃を受けて大打撃を蒙ります（下関戦争）。<br><br><br>禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、<br>幕府はこの機に長州征伐を発令します。<br><br>二度の敗戦により長州藩には抵抗する戦力はなく、<br>11月に責任者の三家老が切腹して降伏恭順しました（長州征討）。<br><br><br>お龍の後年の回想によると、これらの動乱の最中の8月1日に龍馬はお龍と内祝言を挙げています。<br><br><br>8月中旬頃に龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、<br>龍馬は海舟に対して西郷の印象を<br>「分からぬ奴で、少し叩けば少し響き、<br>　大きく叩けば大きく響く、馬鹿なら大馬鹿、<br>　利口なら大利口だろう」と評しています。<br><br><br>望月の件に続き、塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことから、<br>幕府は塾そのものを問題視します。<br><br>さらに海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり、<br>10月22日に海舟は江戸召還を命じられ、<br>11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまいます。<br><br><br>これに至って、神戸海軍操練所廃止は避けられなくなり、<br>龍馬ら塾生の後事を心配した海舟は<br>江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老・小松帯刀に彼らを託して、<br>薩摩藩の庇護を依頼します。<br><br><br>1865年3月18日に神戸海軍操練所は廃止になりました。<br><br><br>龍馬の夢は、またひとつ潰えます。<br><br><br><br>ではでは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/106.gif" alt="パー"><br>
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<link>https://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10647601943.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Sep 2010 20:09:51 +0900</pubDate>
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<title>坂本龍馬ー天衣無縫　偉大なる行動人8ー</title>
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<![CDATA[ こんにちは<br><br><br>坂本龍馬のつづきです。<br><br>龍馬が神戸海軍操練所成立のために方々を奔走していた最中の同年4月、土佐藩の情勢が変わり、<br>下士の武市半平太が藩論を主導していることに不満を持っていた容堂は<br>再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、<br>土佐勤王党の粛清に乗り出します。<br><br>6月に勤王党の間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太が切腹。<br>平井の妹加尾は龍馬の恋人とされた女性で、<br>龍馬は6月29日付の手紙で<br>姉乙女へ<br>「平井収二郎のことは誠にむごい、<br>　妹の加尾の嘆きはいかばかりか」と書き送っています。<br><br>また、同じ手紙で攘夷を決行し米仏軍艦と交戦して<br>苦杯を喫した長州藩の情勢（下関戦争）について<br>強い危機感を抱き<br>「姦吏を打ち殺して、日本を今一度洗濯いたし申し候」と<br>後に世で殊に有名になった言葉を述べています。<br><br>打ち殺してという一句がついている事に注目してください。<br>これは、クーデター宣言です。<br>この頃の龍馬は、後の公武合体派としての活動以上に<br>幕臣に近い身でありながら（勝の海軍操練所は幕府の設備です）<br>親長州であり、幕府にとっては危険な思想的背景を持っています。<br>これは、久坂の影響下にまだ、彼があった事を物語ります。<br><br>8月18日に倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を<br>一網打尽にすべく薩摩藩と会津藩が手を組み<br>「八月十八日の政変」が起きます。<br><br>これにより京都の政情は一変し、<br>佐幕派が再び実権を握りました。<br><br>8月に天誅組が大和国で挙兵しましたが、<br>翌9月に壊滅して吉村虎太郎、那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしています。<br><br>土佐では9月に武市半平太が投獄され、<br>土佐勤王党は壊滅状態に陥ります。<br>武市は1年半の入牢後、切腹となります。<br>詳しくはこちらを<a href="http://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10558143626.html" target="_blank">どうぞ</a><br><br>10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭になりますが、<br>翌1864年2月に前年に申請した土佐への帰国延期申請が拒否されると、<br>龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるために再び藩に拘束されることを好まず、<br>藩命を無視して帰国を拒絶し再度の脱藩になります。<br><br>2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による<br>関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、<br>龍馬もこれに同行しました。<br><br><br>熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、<br>小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈り、海軍建設に関する諸提案をしています。<br><br>のちに船中八策といわれる発想は、龍馬のオリジナルではありません。<br>横井小楠は船中八策の原案となる『国是七条』を龍馬に説いています。<br>龍馬の感激ぶりは凄まじく、勝海舟に次いで彼は師に出逢えた喜びに歓喜します。<br><br>横井小楠は鎖国体制・幕藩体制を批判し、<br>それに代わり得るあたらしい国家と社会の構想を<br>「公共」と「交易」の立場から模索しました。<br>小楠は、「公共」性・「公共」圏を実現するために、<br>「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を<br>政治運営のもっとも重要な営為として重視しました。<br>また、「交易」を重視する立場から、<br>外国との通商貿易をすすめ、<br>産業の振興をも「交易」として捉えて<br>国内における自律的な経済発展の方策を建議し、<br>そのために幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いています。<br><br>まさに日本の近代化の父といえる人物です。<br><br><br>ではでは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/106.gif" alt="パー">
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<link>https://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10637643179.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Sep 2010 18:00:12 +0900</pubDate>
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<title>坂本龍馬ー天衣無縫　偉大なる行動人7ー</title>
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<![CDATA[ こんにちは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif" alt="ニコニコ"><br><br><br>龍馬は1862年8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿します。<br>この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞、高杉晋作らと交流しています。<br>龍馬伝では高杉晋作との出会いが長崎で描かれていましたが、<br>龍馬の脱藩の直接の理由が長州との合流でしたから<br>脱藩後は盛んに長州藩士と交流を持っています。<br><br>12月5日、龍馬は間崎哲馬、近藤長次郎とともに<br>幕府政事総裁職にあった前福井藩主・<a href="http://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10558140738." target="_blank">松平春嶽</a>に拝謁しました。<br>おそらく、坂本龍馬にとって人生最大の幸運でしょう。<br>この英明な殿様は、どんな理由で浪人でしかない龍馬に会う気になったか不明です。<br>千葉道場のコネがあったのか？<br>これほどまでの大物に会うには、よほどのコネが必要だった筈です。<br>逆に真っ向勝負で突撃したら<br>英明な殿様は、あっけなく受けて立ったということでしょうか？<br><br>12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた<br>龍馬と門田為之助、近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となります。<br>龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、<br>逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、<br>己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られています。<br>この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典です。<br>しかし、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であったこと、<br>また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には<br>既に龍馬は弟子であった可能性が高いことから、<br>近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会の話は海舟の記憶違い、<br>またはホラとする見方が強いです。<br><br>いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を<br>「日本第一の人物」と称賛していることによく現れています。<br><br>龍馬は生涯の師に出逢えた訳です。<br>彼は、自分で物事を考えるタイプの人間ではありません。<br>ここまでの人生は決して自分の人生を自分で切り開いた訳ではありません。<br>脱藩は長州の天才児、久坂玄端の影響です。<br>直接の切っ掛けを作ったのは沢村惣之丞（さわむら そうのじょう）です。<br><br>沢村惣之丞は土佐国土佐郡潮江村（現高知県高知市潮江）の浪人の子として生まれます。<br>間崎哲馬に師事し、学問を学び、その後、土佐勤王党に加入。<br>1862年に吉村寅太郎と共に土佐藩を脱藩。<br>武市半平太への現状報告と新たな同士を集めるため一時帰国しますが、<br>その後、坂本龍馬と再び脱藩します。<br>龍馬とともに勝海舟の門下生となり、<br>亀山社中に参加します。そして海援隊に属します。<br>1867年には坂本龍馬殺害事件の容疑者であった<br>三浦休太郎の暗殺計画に参加しますが、失敗に終わりました。<br>翌年には維新の混乱から無人状態となった長崎奉行所に、<br>沢村ら海援隊の人間が中心となって入居し、<br>長崎の町を警備します。<br>しかし1月14日の警備中、薩摩藩士・川端平助を誤殺してしまいます。<br>沢村は薩摩藩との軋轢を恐れ、海援隊本部で、<br>薩摩藩側でさえ止めましたが割腹した。<br>享年26。<br>龍馬とともに生きた人生でした。<br><br><br>海舟は山内容堂に取り成して、1863年2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、<br>さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認しました。<br>龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、<br>土佐藩出身者の千屋寅之助、新宮馬之助、望月亀弥太、<br>近藤長次郎、沢村惣之丞、高松太郎（龍馬の甥）、安岡金馬らが海舟の門人に加わっています。<br>勝海舟については<a href="http://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10558147367.html" target="_blank">こちら</a>をどうぞ<br><br>また、龍馬が人斬り以蔵の異名を持つ土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、<br>海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件は<br>この頃のことです。<br><br>幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために<br>海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させます。<br>4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦の後、<br>「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾（神戸海軍塾）開設も認められます。<br>この辺の経緯については<a href="http://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10596920123.html#main" target="_blank">こちら</a>を参照してください<br><br>幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、<br>この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、<br>そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春獄から千両を借入れしました。<br><br>5月17日付の姉乙女への手紙で<br>「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、<br>　ことの外かわいがられ候<br>　・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。<br>　エヘン、エヘン」と近況を知らせています。<br><br><br>ちょっと調子に乗った龍馬の姉への愛情溢れる手紙です。<br><br><br>ではでは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/106.gif" alt="パー"><br>
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<link>https://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10637108548.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Sep 2010 17:55:23 +0900</pubDate>
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<title>坂本龍馬ー天衣無縫　偉大なる行動人6ー</title>
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<![CDATA[ こんにちは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif" alt="ニコニコ"><br><br><br>土佐藩は不思議な藩です。<br><br>上士は日常的に下士を差別し、志士となった下士を弾圧しました。<br>明治以降は、下士の業績の分け前によって上士は立身出世を遂げます。<br>所詮、自らの力で得た物でないため<br>何も成し遂げる事なく、消えて行きますが。。。。<br><br>しかし、今日、そうした事実を我々が知る事が出来るのは<br>多くの地方史家が、志士達のように土佐の台地から湧き出て来たからです。<br>明治以降の土佐の人々による志士達への熱いまなざしがあったから<br>坂本龍馬と言う人間も世に知られるようになったと言えます。<br>武市半平太も同様です。近藤長次郎の生い立ちがはっきり分かっているのも<br>岡田以蔵にしても。<br><br>黒田清隆や西郷隆盛、小松帯刀にしても<br>幼少時代の事や世に出るまでの事は全く分かりません。<br><br>長州は伊藤博文によって多くの史実がまとめられましたが<br>編纂したのは長州人ではありませんでした。<br><br>薩摩は、一人の伊藤博文を生む事もなく、<br>土佐の郷土愛に支えられた地方史家達も生まれず、<br>多くの史実は、時間の流れに任せて風化してしまいました。<br><br><br>続きです。<br><br><br>武市は藩論を転換すために積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、<br>土佐勤王党の同志を四国、中国、九州などへ動静調査のために派遣します。<br><br>龍馬もその中の一人でした。<br>1861年10月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」を授かった後に、<br>龍馬は丸亀藩への剣術修行の名目で土佐を出て1862年1月に<br>長州萩を訪れて長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、<br>久坂から武市宛の書簡を託されています。<br><br>龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着しましたが、<br>この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わり、<br>土佐藩が二の足を踏んでいると挫折を感じていた土佐勤王党同志の中には<br>脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来ます。<br><br>脱藩は藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、<br>浪人となった脱藩者は藩内では罪人となり、<br>更に藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになります。<br><br>武市は藩論を変えて挙藩勤王を希望していますが、<br>脱藩して上洛する策には反対していました。<br>しかし、一部の同志が脱藩することを止めることはできず、<br>まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞等が脱藩し、<br>ここにおいて龍馬も脱藩を決意します。<br><br>龍馬の脱藩は1862年3月24日のことで、<br>当時既に脱藩していた沢村惣之丞の手引きを受けていました。<br>龍馬にとって<br>人生最大の転機は久坂玄瑞との出会いでした。<br>この若き天才に会う事によって<br>龍馬は、初めて日本という概念を肌で感じたと思われます。<br>頭では、日本国と言う概念を持っていたでしょう。<br>しかし、肌で感じ、日本政府と言う考えを理解したようです。<br>だからこそ、土佐藩を離れると言う決断をくだすのです。<br>土佐人は土佐藩から脱藩などできません。<br>武市半平太は、出来ませんでした。<br>殺されると分かっていても土佐に帰るしか彼には選択できなかったのです。<br><br>龍馬が脱藩を決意すると兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、<br>身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、<br>龍馬の佩刀は全て権平に取り上げられてしまいました。<br><br>この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、<br>権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話があります。<br><br>龍馬は那須信吾（後に吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加）の助けを受けて<br>土佐を抜け出したました。<br><br><br>同行したのは沢村惣之丞です。<br><br><br>脱藩した龍馬と沢村はまず長州下関の豪商白石正一郎を訪ねましたが、<br>吉村は二人を待たずに京都へ出立していました。<br>これは薩長土の三国同盟を目指す志士達の動きでした。<br>土佐藩は、武市半平太の思惑が外れ、まったく体制が整わず、<br>有志が脱藩して駆けつけましたが、3人しか集まらず、<br>沢村惣之丞は有志を集めに土佐に戻りました。<br>そこで脱藩したのが龍馬です。<br><br>しかし、尊攘派志士の期待と異なり、<br>島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、<br>尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、<br>4月23日に寺田屋事件が起こり薩摩藩尊攘派は粛清されます。<br><br>吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されています。<br>一般的には龍馬は沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされますが、<br>この間の龍馬の正確な動静は詳らかではありません。<br>というか、薩摩に向かったと言う話が何処から出て来たのかも分かりません。<br><br>一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され（勤王党の犯行）、<br>武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していました。<br>龍馬は7月頃に大坂に潜伏しています。<br><br>この時期に龍馬は望月清平と連絡を取り、<br>自らが吉田東洋暗殺の容疑者と見なされていることを知らされます。<br><br><br>ではでは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/106.gif" alt="パー"><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10634890462.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Sep 2010 17:00:37 +0900</pubDate>
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<title>坂本龍馬ー天衣無縫　偉大なる行動人5ー</title>
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<![CDATA[ こんにちは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif" alt="ニコニコ"><br><br><br>土佐藩では幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を<br>機に藩主 山内容堂が吉田東洋を参政に起用して<br>意欲的な藩政改革に取り組んでいました。<br><br>また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らと<br>ともに将軍継嗣に一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。<br><br>だが、1858年4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、<br>幕府は一橋派を退けて徳川慶福（家茂）を将軍継嗣に定め、<br>開国を強行し反対派の弾圧に乗り出します。<br>安政の大獄です。<br>一橋派の容堂も1859年2月に家督を<br>豊範に譲り隠居を余儀なくされました。<br>隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、<br>吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められます。<br>1860年3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で<br>水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺されます。<br><br>桜田門外の変です。<br><br>事件が土佐に伝わると、<br>下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となります。<br><br><br>1861年3月、土佐で井口村刃傷事件（永福寺事件）が起り、<br>下士と上士の間で対立が深まります。<br><br>4日の夜、小姓組・山田新六の長男・山田広衛と茶道方・益永繁斎が、<br>節句祝いの宴会の帰りに永福寺という寺の門前で<br>郷士・中平忠次郎と肩がぶつかりました。<br>当初、忠次郎は非を認め謝罪し立ち去ろうしたが、<br>相手を郷士と見た山田は酒の勢いもあり忠次郎を罵倒し口論になります。<br>口論の末に逆上した山田は抜刀し、これに応戦する形で忠次郎も抜刀。<br>しかし、土佐で小野派一刀流の師範代をつとめるほどの実力の持ち主である山田に<br>敵わず忠次郎は殺害されます。<br><br>忠次郎に同行していた宇賀喜久馬は忠次郎の兄・池田寅之進に<br>この事態を知らせ、2人は急いで現場へ駆けつけますが、<br>時既に遅く、忠次郎は殺害された後でした。<br>近くの小川で刀を洗い、喉の渇きを潤している山田を<br>発見した寅之進は背後から袈裟懸けに斬り掛かり山田を殺害、<br>近くから提灯を借用して現場に戻ってきた繁斎も殺害します。<br><br>寅之進は当初、弟の亡骸を運ぼうとするが、<br>現場に駆けつけた上士・諏訪助左衛門と上士・長屋孫四郎の2人が<br>「死体をみだりに移動させることは禁じられている」と彼の行動を咎めます。<br><br>その為、寅之進も一旦、弟の亡骸を寺の門前へと戻し、<br>改めて上士たちの亡骸は山田家に、忠次郎の遺体は池田家へと引き取られます。<br><br>翌朝には事件は人々の知るところとなり、<br>山田の家には上士達が、<br>寅之進の家には郷士達が集まります。<br>両者、互いに対決せんと息巻いており、<br>一触即発の危機を迎えてます。<br><br>上士側のリーダーであった吉田東洋は、<br>藩お取り潰しの事態を避ける為にも、<br>事を穏便に解決する必要があるとして、<br>山田を斬り殺した事件当事者の命一つで解決するように命じます。<br><br>しかし、これを聞き入れない一部の上士達が池田宅に乗り込みます。<br>池田宅に押しかけた上士達は、<br>当事者である寅之進と喜久馬の身柄の引渡しを要求。<br>これに郷士側は応じず、逆に2人の助命を主張。<br>穏便に解決する為にも2人を引き渡せと譲らない上士に対し<br>郷士は戦を辞さずとして徹底抗戦の構えを見せ、両者の緊張は高まります。<br><br>その頃、池田の宅内では、遅れて駆けつけた武市半平太が、<br>寅之進の行動を責め批判します。<br>他の郷士達が「敵討ちは武士の誉れ」と庇うも、<br>武市は「ここは土佐だ。他藩の常識は通用しない」とし、<br>「尊皇攘夷を達成するには土佐藩は必要であり、<br>　一連の寅之進の私怨から生じた刃傷沙汰で潰すわけにはいかない」<br>と語ります。<br>中と外で押し問答が続く中、<br>寅之進が突発的に刀を腹に突き刺し割腹。<br>皆に迷惑が掛かることを恐れた上での切腹でした。<br><br>上士側は「宇賀喜久馬も切腹させよ」と要求。<br>しかし、喜久馬はまだ歳若く、事件には一切関わっていません。<br><br>結局、宇賀喜久馬も切腹。<br><br>しかも、親族立会いの下、<br>介錯をしたのが喜久馬の実の兄知己之助（寺田利正）であった。<br>年端もいかぬ弟を介錯した利正（当時25歳）は、その後、精神を病んでしまったと言います。<br><br>『維新土佐勤王史』にはこの事件について<br>「坂本等、一時池田の宅に集合し、<br>　敢て上士に対抗する気勢を示したり」とあります。<br><br>なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、<br>その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったというエピソードが流布していますが、<br>これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションです。<br><br>同年4月、武市は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持ち、<br>土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを痛感し、<br>武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、<br>藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、<br>朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わしています。<br><br>これにより、同年8月、<br>武市は江戸で密かに少数の同志とともに<br>「土佐勤王党」を結成し、盟曰（めいえつ）を決めます。<br><br>武市は土佐に戻って192人の同志を募り、<br>龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟します。<br><br>武市が勤王党を結成した目的は、<br>これを藩内勢力となして、<br>藩の政策（主に老公山内容堂の意向）に影響を与えて、<br>尊王攘夷の方向へ導くことにありました。<br><br>勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、<br>土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張。<br>しかし、参政 吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が<br>藩論の主要な方針であり、<br>勤王党の尊王攘夷の主張は<br>藩内の支持を得ることができませんでした。<br><br><br>この状況で半平太の大いなる決断は、全ての人間達を不幸にしていきます。<br><br><br>ではでは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/106.gif" alt="パー"><br>
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<link>https://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10616342296.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Sep 2010 16:30:11 +0900</pubDate>
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<title>坂本龍馬ー天衣無縫　偉大なる行動人4ー</title>
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<![CDATA[ こんにちは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif" alt="ニコニコ"><br><br><br>さて、龍馬はこの時期に、徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいます。<br>1855年12月4日、父・八平が他界し、<br>坂本家の家督は兄・権平が継承します。<br><br>当時は長男がその家を継ぎ、<br>龍馬の兄 権平（ごんぺい、龍馬とは２１才差で、親子ほど年齢が違います）が、<br>坂本家の家計をにぎったわけです。<br>龍馬は『居候』（いそうろう）でした。<br>父や兄に養われていました。<br>長男が家系を継ぐというのが一般の慣わしで、<br>二男からは居候という身分が多いのです。<br>多くは、そのままいつまでもは無理なので、<br>他家へ養子にいってその家を継ぐとか、<br>剣道などを教える道場を開いて独立する、<br>自分の習得した技術で身を立てるなどしていました。<br><br>坂本家は、金銭的に恵まれていたので<br>龍馬は、のほほーんとあれこれ勉学に励んでいます。<br><br><br>最初の江戸行きが誰の意志だったかは、明確には分りません。<br>しかし、単純に想像すれば父・八平の意志だったのではないかと思います。<br>このままでは龍馬は兄のやっかいにならなければなりません。<br>龍馬の場合、１４歳から始めた剣術が性に合っていたようで、<br>めきめきと腕を上げます。<br>こうなると、父親は「剣で飯が食えるようにしてあげたい」と考えても不思議は有りません。<br>しかし、江戸へ修行に出してあげられるというのは、<br>かなりの財力があったから出来たことです。<br>龍馬がどんなに江戸へ修行に行きたくても、<br>１年以上も江戸に滞在するには莫大なお金がかかります。<br>それを許可したのはまぎれもなく父・八平です。<br><br>他の要素を考えてみると、<br>龍馬には開明的なアドバイスをしてくれる人が周りにいたことが分ります。<br>先日、６０年ぶりに発見された１８６３年８月１９日・川原塚茂太郎〔もたろう〕宛ての<br>龍馬の手紙に、次のようにあります。<br><br>「（前略）又兼て雅兄か御論にも土佐一国にて学問致し候へは<br>　一国たけの論がいで<br>　世界を横行すれば又それたけの目を開き自ら天よりうけ得たる知を<br>　開かずばならぬとは今に耳に残り居り申し候。（後略）」<br><br>川原塚茂太郎は、兄・権平の妻の弟で、<br>龍馬にとっては義理の兄にあたります。<br><br>茂太郎は、<br>「土佐一国で学問をしていたら、限られた知識しか得られないが、<br>　世界を横行すれば、世界の知識が得られる。<br>　天から授かった能力を大いに活用しなければならない。」<br>と龍馬に語っており、<br>龍馬はこの言葉がずっと耳に残っていたようです。<br><br>「狭い土佐から出て、大いに見聞を広めなさい。」<br>ということです。<br><br>龍馬は金銭的な面でも、人の面でも恵まれた環境にあったと言えます。<br><br><br>翌年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して<br>8月に藩から1年間の修業が許され、<br>9月に江戸に到着し、<br>武市半平太、大石弥太郎らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿しました。<br>二度目の江戸遊学では小千葉道場とともに<br>お玉が池の玄武館でも一時期修行しています。<br><br><br>1857年に藩に一年の修行延長を願い出て許されます。<br>同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった山本琢磨を逃がしています。<br>1858年1月、師匠の千葉定吉から<br>「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられます。<br>千葉佐那の回顧によると、<br>この年に龍馬と佐那が結納を交わしています。<br>同年9月に土佐へ帰国しました。<br><br><br>千葉佐那は、龍馬が剣術を習った千葉定吉の長女として、<br>１８３８年に生まれ、１８９６年（明治２９年）に没しました。<br>龍馬より３歳年下になります。<br>兄弟は他に、兄が一人、妹が二人いました。<br><br>龍馬がもらった「北辰一刀流長刀目録」に兄や妹とともに名を連ねており、<br>そこには、千葉佐那女と署名されています。<br>龍馬の死後、明治になってから『女学雑誌』で龍馬の事を語っています。<br>龍馬と婚約していたことも語られています。<br><br>１８５８年か１８５９年（佐那が２１・２２歳）に<br>千葉家から結納として短刀一振り、<br>龍馬からは以前、松平春嶽から頂いて着古びてしまった紋付が贈られたと語っています。<br>しかし、この年代では少し早すぎるので、（春獄から紋付をもらったのは、もっと後の事）<br>実際にはもう少し後のことではないかと考えられています。<br><br>龍馬の手紙では、１８６３年に佐那を乙女姉さんに紹介した手紙が残っています。<br>その手紙によると、もともとの名前は、乙女姉さんと同じで、"乙女"という名前だったそうです。<br>「今年２６才になり、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀（なぎなた）もでき、<br>　力はなみなみの男子より強く、<br>　例えて言えば、昔家にいた"ぎん"という女と同じくらい力がある。<br>　顔かたちは平井（加尾）より少し良い。<br>　さらに、1３弦の琴を上手に弾き、１４才の時には皆伝していた。<br>　そして、絵も描く。心もすばらしく、男子など及ばない。<br>　その上、静かで、余計なことを言わない人。<br>　まあまあ、今の平井、平井。」と書いています。<br><br>平井加尾は龍馬の友人である平井収二郎の妹で、<br>美人だったと言われており、<br>龍馬も好意を抱いていたようですが、<br>それよりも美人だと紹介しています。<br>"今の平井、平井"とは、<br>「平井に代わって、今一番好きな人」というような意味です。<br><br>以上のように、すばらしい女性だったようです。<br>それにしてもよほど好きだったのか、<br>誉めすぎくらい誉めています。<br><br>開放的な龍馬らしい手紙で、<br>乙女姉さんとの仲の良さもうかがえる面白い手紙です。<br><br><br><br>ではでは<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/106.gif" alt="パー">
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<link>https://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10616226248.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Sep 2010 15:25:53 +0900</pubDate>
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