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<title>アウトサイダーの本棚</title>
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<description>活字メディアを中心としたレビュー</description>
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<title>石丸元章『KAMIKAZE神風』</title>
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<![CDATA[ <br><div><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120301/10/review2012/1c/b9/j/o0171025011824947245.jpg"><img border="0" style="width: 131px; height: 192px;" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120301/10/review2012/1c/b9/j/t01710250_0171025011824947245.jpg" alt="アウトサイダーの本棚-神風"></a></div>2004年、文春文庫<br><br>元特攻隊員をめぐるノンフィクション。<br><br>石丸元章氏の作品はだいたい読んでいるのだが、特にこの作品が好きだ。いつもの無法者的な姿勢で、元特攻隊員たちにインタビューをする石丸氏。結果的に特攻隊をめぐるノンフィクションとしては異色かつ出色の作品になっていると思う。<br><br>一般的な感覚からすれば、元特攻隊員のインタビューに、キャバ嬢同伴で真っ赤なカマロZ28で向かうなどというのは、「無礼」とされるだろう。しかし文章からは、何の嫌味も感じられない。相手に対する敬意を忘れないことを前提とした、自然体ということなのだろう。思いっきりアウェイにいるのに、自然体。こういうことは、できそうでできない。<br><br>なお石丸氏はあとがきで「本書はGONZOジャーナリズム失敗作」と述べている。現場に飛び込んで積極的に介入していくことで生まれる当事者性がGONZOジャーナリズムの肝である。しかし特攻隊は、シンクロできないくらい異次元の出来事であったということである。<br><br>だが読み手からすれば、それは些細なことであると思う。紋切り型でない元隊員たちの声が引き出せていることこそ、本書の価値である。<br>
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<link>https://ameblo.jp/review2012/entry-11179627627.html</link>
<pubDate>Thu, 01 Mar 2012 10:26:31 +0900</pubDate>
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<title>鈴木智彦『潜入ルポ ヤクザの修羅場』</title>
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<![CDATA[ <br><div><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120223/11/review2012/f4/80/j/o0311050011811278889.jpg"><img border="0" style="width: 134px; height: 216px;" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120223/11/review2012/f4/80/j/t02200354_0311050011811278889.jpg" alt="アウトサイダーの本棚-ヤクザの修羅場"></a></div>2011年、文春新書<br><br>鈴木智彦氏の本を紹介するのは<a href="http://ameblo.jp/review2012/entry-11166594293.html">、『ヤクザと原発』</a>に引き続いて2回目である。鈴木氏は、ヤクザ専門ライターとして知られており、この本では彼の15年にわたる取材で得られた情報がこれでもかと詰め込まれている。<br><br>ヤクザ関連の本というと、実録雑誌の提灯記事のようなものが思い浮かぶが、鈴木氏のスタンスは違う。ヤクザの是非を問うわけではなく、ヤクザ社会とはいかなる社会なのか、ヤクザとはいかなる人間なのかということを分かりやすく伝えようとする姿勢が感じられる。<br><br>加えて、潜入の深度は注目に値する。大阪で手本引き（伝統的な賭博）の現場に潜入するシーンなどは、類書の追従を許さない迫力がある。また晩年の加納貢との交流なども、正直、驚かされる。<br><br>無論、鈴木氏がすべてを語っているわけではあるまい。それでも本書は、堅気の人間には知り得ない世界に肉薄していると感じさせる。英訳してもかなり売れるのではないだろうか。<br>
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<link>https://ameblo.jp/review2012/entry-11173023158.html</link>
<pubDate>Thu, 23 Feb 2012 11:07:17 +0900</pubDate>
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<title>鈴木智彦『ヤクザと原発』</title>
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<![CDATA[ <br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120216/15/review2012/d9/49/p/o0180026011797664388.png"><img border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120216/15/review2012/d9/49/p/t01800260_0180026011797664388.png" alt="アウトサイダーの本棚-ヤクザと原発" style="width: 149px; height: 216px;"></a><br>2011年、文藝春秋<br><br>福島第一原発での作業に従事したヤクザ専門ライターによるルポルタージュである。<br><br>原発とヤクザの関係は深い。ある暴力団の組長は次のように言う。<br><br><span style="font-style: italic;">原発は儲かる。堅いシノギだな。動き出したらずっと金になる。これ一本で食える（中略）街を代表して電力会社と交渉し、ゼネコンと話付けて、地元の土建屋に仕事を振る。それだけじゃとても人手が足りんから、あとはよその場所にいる兄弟分なんかに話を振ったり、普段から仲のいい組長連中の会社を使う。どでかいシノギになるから、代紋なしではとても捌ききれんし、工事だって進まない（9-10ページ）</span><br><br>つまりヤクザがまとめ役になっているわけだ。タブーや面倒な出来事の「仲介」というのは、伝統的なヤクザのビジネスであり、原発もまたしかりである。<br><br>社会の「表」と「裏」は共存関係にあることが多い。原発はその典型なのだろう。<br><br>本書が優れているのは、「表」と「裏」の境界の状況を身体を張って調べ、描いている点だ。著者は末端の作業員たちに寄り添い、その日常を生きる。彼らの目線の先にあるのは、作業する現場であり、喫煙所であり、宿舎であり、飲み屋であり、ソープ街である。<br><br>原発がシノギであり、生活の糧である人々の日常は、マスメディアの原発報道からは見えてこない。逆に本書の視点からは、保安院や東電、原子炉メーカーなどの姿は、あまり見えてこない。上流と下流は互いに見えないほど遠いのだ。<br>
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<link>https://ameblo.jp/review2012/entry-11166594293.html</link>
<pubDate>Thu, 16 Feb 2012 15:25:42 +0900</pubDate>
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<title>平山夢明『異常快楽殺人』</title>
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<![CDATA[ <br><div><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120201/16/review2012/c2/e6/j/o0230032611767941220.jpg"><img border="0" style="width: 134px; height: 191px;" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120201/16/review2012/c2/e6/j/t02200312_0230032611767941220.jpg" alt="アウトサイダーの本棚-異常快楽殺人"></a></div>1999年、角川文庫<br><br>海外の猟奇殺人に焦点をあてたエッセイである。エド・ゲイン、アルバート・フィッシュ、ヘンリー・リー・ルーカス、アーサー・シャウクロス、アンドレイ・チカチロ、ジョン・ウェイン・ゲーシー、ジェフリー・ダーマーなどが取り上げられている。平山夢明氏は、以前レビューした<a href="http://ameblo.jp/review2012/entry-11143556691.html">『ダイナー』</a>や『独白するユニバーサル横メルカトル』などの作品で知られる小説家である。<br><br>1990年代中頃、ちょっとした殺人鬼ブームがあった。ディアゴスティーニから『マーダー・ケースブック』が出され、大手書店でも殺人鬼モノが平積みされたりしていた。<br><br>しかしこの作品は、特に質の面で、一般的な殺人鬼モノとは一線を画す。理由は平山氏の殺人鬼に対するまなざしにある。端的に言って、愛がある。<br><br>無論、平山氏は殺人鬼を崇拝しているわけではないだろうが、善悪自体を一度括弧に入れたうえで、「エンターテイメントとしての殺人鬼像」を浮かび上がらせる。その手法は極めて鮮やか。<br><br>また対象が異常とされるものであればあるほど、怖がるか、断罪するかに話が向かってしまいがちに思う。しかし平山氏は、そのどちらにも陥ることなく、自分の道を突き進む。それは一般的には困難なことだと思うのだが、平山氏はスイスイと進んでいるように見える。<br><br>氏のふざけたエッセイ集、『どうかと思うが、面白い』を読むと感じられる、基本的にダウナーだがツボは外さない姿勢が効果を発揮しているのかもしれない。<br>
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<link>https://ameblo.jp/review2012/entry-11152218029.html</link>
<pubDate>Wed, 01 Feb 2012 16:27:52 +0900</pubDate>
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<title>柳澤健『完本 1976年のアントニオ猪木』</title>
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<![CDATA[ <br><div><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120201/11/review2012/de/73/j/o0173025011767558095.jpg"><img border="0" alt="アウトサイダーの本棚-猪木" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120201/11/review2012/de/73/j/t01730250_0173025011767558095.jpg" style="width: 138px; height: 200px;"></a></div>2009年、文春文庫<br><br>「レスラーの役目は勝つことではなく、彼に期待されている身振りを正確に果たすことだ」（『神話作用』6ページ）<br><br>これはロラン・バルトの言葉である。「彼に期待されている身振り」とは、ヒールなりベビーフェイスなりの「らしさ」を意味する。「期待」に沿ってシナリオが書かれ、レスラーは身体でストーリーを表現する。<br><br>つまるところ、プロレスはショーである。だが1976年のアントニオ猪木は、異種格闘技戦を実行することで、プロレスとリアルファイトの境界を意図的に曖昧化した。戦争映画を撮っていた映画監督が、本当に戦争を始めるような異常さである。<br><br>本書は、そんな異常さの背景を丹念に記述している。ジャイアント馬場率いる全日本プロレスが一流だとすれば、アントニオ猪木の新日本プロレスは二流だった。NWAとのコネクションを使って、海外の有名レスラーを招聘できると全日本に対して、新日本は小粒な選手が奮闘する地味な団体だった。<br><br>しかし二流に甘んじることができなかった猪木は、一発逆転の差別化を図る。猪木は「プロレスはショーである」という絶対的なテーゼを揺さぶりにかかる。そして言う。「レスラーは最強である」と。<br><br>そもそも最強云々の話が出るところからおかしいのである。ショーなんだから。しかし猪木は真顔で最強を語り、異種格闘技戦を通してそれを証明しようとする。それが1976年の4戦である。相手は、ウィリアム・ルスカ、モハメッド・アリ、パク・ソンナン、アクラム・ペールワン。<br><br>それぞれの試合は、いずれもショーとしてお膳立てされていた。しかし様々な事情から、いずれもリアル・ファイト（に近いもの）になった。結果、「世紀の凡戦」と評されたアリ戦や（猪木はリングに寝転んでパンチをよけながら、アリの足を蹴り続けた）、目に指を入れたり噛みついたりというパク・ソンナン、アクラム・ペールワン戦のように、ショーとしては失敗の試合となった。<br><br>特にアリ戦は、あらゆる意味で異常である。アリの高額なファイトマネーによって、新日本プロレスは10億近い借金を抱え、1981年のタイガーマスク・ブームまで経営不振が続く。試合自体も当時は決して評価が高くなかった（現在では「名勝負」と語られることもある）。<br><br>経営を傾け、評価を落とすことでもやる。明らかにおかしい。発端は「最強」を証明し、全日本プロレスと差別化を図ることだったのかもしれない。だが重要なのは、目的論的には猪木の行動を説明することができないということだ。「最強」を語る猪木の背景には、合理性やセオリーを無視できるある種の「狂気」を強く感じる。<br><br>この本に関連して、<a href="http://allabout.co.jp/gm/gc/212934/">著者インタビュー</a>や、元『ゴング』編集長、金沢克彦の『子殺し：猪木と新日本プロレスの10年戦争』を挙げておく。併せて読むことで、猪木の異常性をより理解できるだろう。<font size="+1"><font color="#00af00"><strong><br></strong></font></font>
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<link>https://ameblo.jp/review2012/entry-11152030778.html</link>
<pubDate>Wed, 01 Feb 2012 11:16:11 +0900</pubDate>
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<title>豊田正義『消された一家』</title>
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<![CDATA[ <br><div><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120126/10/review2012/27/46/j/o0621088211756138836.jpg"><img border="0" style="width: 134px; height: 188px;" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120126/10/review2012/27/46/j/t02200312_0621088211756138836.jpg" alt="面白い本たち-消された一家"></a><br>2009年、新潮文庫<br><br>2002年、北九州で発覚した連続監禁殺人事件のノンフィクション。犯罪ノンフィクションは世に多いが、これは事件自体が凄まじい。<br><br>事件を簡単に説明すれば、加害者が被害者家族を監禁し、通電などの拷問を定期的に行い、資産を巻き上げ、さらに言葉巧みに被害者家族同士を相互不信に陥らせ、被害者同士で殺し合わせ、死体処理もさせたという事件<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%9B%A3%E7%A6%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6">（詳細）</a>。<br><br>説明していても今ひとつ実感がわかないような内容だが、この本では公判から明らかになった事実に加え、周辺への取材を通して、事件の経緯が明らかにされている。極めて凄惨な事件が、冷静に整理されている。<br><br>読み返して改めて思うのは、人間は簡単にコントロールされ、躊躇無く残虐行為に走るということである。私たちが日常で自明視している「常識」は文脈依存的であり、代替可能である。巧妙にシステムを更新すれば、私たちはどこまでも暴走できる。システムの更新は、一般的に「洗脳」と呼ばれるが、何も特殊なことではない。新入社員の教育から、カルト宗教の修行、軍隊の訓練に至るまで、世の中では広く用いられている。<br><br>事件自体は、「洗脳」の技術を用いながら、監獄実験（<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E7%9B%A3%E7%8D%84%E5%AE%9F%E9%A8%93">参照</a>）的な環境をつくることで、徐々に舞台が整っていったといえる。<br><br>しかし著者も書いているように、主犯の男がなぜこのような行為に走ったのかが不明である。つまり一般的な意味で言う「動機」がよく分からない。金を巻き上げるだけだったら、わざわざ手間をかけて監禁したり殺したりする意味がない。被害者たちを完全に意のままに扱える状態を楽しんでいたのかもしれないが、断定はできない。<br><br>結局、「よく分からない」のである。それこそが、事件の不気味なところである。著者の豊田氏は、凄惨な事実関係につきまとう得体の知れない不気味さを手際よく「翻訳」しており、その手腕が光る。<br></div>
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<link>https://ameblo.jp/review2012/entry-11146412384.html</link>
<pubDate>Thu, 26 Jan 2012 10:08:33 +0900</pubDate>
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<title>スティーヴ・ファイナル（伏見威蕃訳）『戦場の掟』</title>
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<![CDATA[ <br><div><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120125/14/review2012/48/76/j/o0351050011754614056.jpg"><img border="0" style="width: 139px; height: 198px;" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120125/14/review2012/48/76/j/t02200313_0351050011754614056.jpg" alt="面白い本たち-戦場の掟"></a></div>2009年、講談社<br><br>イラク戦争に従軍したアメリカの民間警備会社に関するルポルタージュ。2008年度ピューリッツァ賞を受賞している。<br><br>戦争とは何か。一種の外交手段とする人もいるだろうし、絶対に避けるべき過ちと捉える人もいるだろう。はっきり言えるのは、アメリカにとっての戦争は、経済活動としての側面が強いということである。<br><br>アメリカ経済がいわゆる「戦争経済」であるというのは、多くの論者が指摘するところである。製造業は衰退し、金融や情報分野は生き残っているものの、それだけでは経済が成り立たない。そこで軍需産業群が経済を牽引するために、定期的に戦争をやる、という話である。<br><br>戦争＝ビジネスなのであれば、当然、経済的な合理性が重視される。アウトソーシングできる部分は、アウトソーシングする。本書で登場する民間警備会社も、そのような流れのなかで存在感を強めてきた。実質的に軍隊であっても警備会社と呼ばれるのは、市場化された戦争を象徴するように思える。<br><br>本書はそんな民間警備会社で働く人々に焦点をあて、彼らの日常を生々しく伝えている。表向きは民間人であっても、時に米軍本隊の護衛をつとめる社員たちは、極めて厳しい状況に置かれている。戦場なんだから厳しいのは当たり前と思うかもしれないが、正確に言えば、戦場の厳しさとは異なった厳しさである。<br><br>会社がやるべきことは何か？多くの顧客を獲得して利益をあげることである。結果、警備会社間の競争が進み、より危険な仕事をより安く請け負うという状況が生まれる。社員たちを取り巻くのは、そういう厳しさである。本書の優れた点は、現場で働く人々に対する徹底した取材から、そうした厳しさを明らかにしている点だ。リベラル派の「綺麗事」な批判では決してない。<br><br>市場化された戦争は、多くのグロテスクな矛盾をはらむ。いわゆる「誤射事件」で悪名高い警備会社、ブラック・ウォーター（創業者エリック・プリンスは元ネイビーシールズのキリスト教右派で、現代の十字軍を自認。共和党の有力支援者。）に関しては、次のような矛盾が指摘されている。<br><br><span style="font-style: italic;">ブラック・ウォーターを活動できないようにできるのは、雇用者の米国務省だけだ。だが、ブラック・ウォーターがいなかったら、国務省そのものがイラク国内でなにもできなくなる（290頁）</span><br><br>明らかに行き過ぎである。でも行き過ぎ自体が、市場的には正当化される。ブラック・ウォーターは、現在ではXeサービシズLLCと社名変更しており、かつてのような影響力は持っていないといえる。しかし市場化された戦争は、今でも世界各地で繰り広げられている。正当化される行き過ぎもまた、続いている。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/review2012/entry-11145627582.html</link>
<pubDate>Wed, 25 Jan 2012 13:58:41 +0900</pubDate>
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<title>David Plowden“Small Town America”</title>
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<![CDATA[ <br><div><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120124/15/review2012/d2/d4/j/o0218024011752985522.jpg"><img border="0" style="width: 157px; height: 165px;" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120124/15/review2012/d2/d4/j/t02180240_0218024011752985522.jpg" alt="面白い本たち-small town america"></a></div>1994年、Harry N Abrams<br><br>1970年代から1990年代にかけて、アメリカのスモール・タウン（田舎の小さな街）を写した写真集である。<br><br>アメリカというのは広大であり、都会と田舎では、あたかも違う国のようである。労働力や資本、情報が集中する大都市部と比べると、いかにも「何もない」のがスモール・タウンである。<br><br>しかしスモール・タウンには、アメリカ人の心を強く惹きつける何かがあるようだ。それはノスタルジーかもしれないし、大都市部ではとうの昔に絶滅したように見える人間同士のつながりかもしれない。<br><br>日本人である私がこの写真集を好きなのは、部屋のインテリアや街並みなどから透けて見える、ある種の精神性のゆえである。「用の美」を感じさせる事物の並びと言うか、プラグマティズムの土壌と言うか。ページをめくっていると、ヨーロッパ的な合理主義をより実践的にしたような、アメリカ的としか言えないライフスタイルが見えてくる。<br><br>無論、これは私の勘違いかもしれない。日本びいきの白人が、何かにつけて「禅マインド」を引き合いに出すようなものかもしれない。でも勘違いにせよ、トクヴィル（フランスの思想家。19世紀にアメリカを旅し、ヨーロッパとの差異を感覚的に記した『アメリカのデモクラシー』が有名）が感じたような何かが、形を変えて生き残っている気がしてならない。<br><br>思想やライフスタイルが透けて見える風景。そこには世界の嫌われものである超大国アメリカとは異なる、ある種の普遍的な魅力を感じる。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/review2012/entry-11144783257.html</link>
<pubDate>Tue, 24 Jan 2012 15:54:22 +0900</pubDate>
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<title>平山夢明『ダイナー』</title>
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<![CDATA[ <br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120121/10/review2012/de/1b/j/o0460069011746535477.jpg"><img border="0" style="width: 154px; height: 232px;" alt="面白い本たち-ダイナー" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120121/10/review2012/de/1b/j/t02200330_0460069011746535477.jpg"></a><br>2009年、ポプラ社<br><br>第13回大藪春彦賞、第28回日本冒険小説協会大賞をダブル受賞した作品。殺し屋のための会員制ダイナーを舞台にした人間模様。<br><br>細かい解説はあまり意味がない。殺し屋、ハンバーガー、ブルドッグ・・・といった私の好きなものたちがこれでもかと登場するだけでも嬉しいのに、その上にはこってりした血のソースがかかっている。なんともハイカロリーな逸品である。<br><br>私は折に触れてこの作品を読み返している。そしてその度に、幸せな気分になる。財布が分厚いときに焼肉屋に行って、「上」やら「特上」という接頭語が付いた皿を片っ端から頼むときの気持ちに近い。<br><br>無論、一般性があるテーマではないし、こういう作品は好き嫌いがはっきり分かれるだろう。しかしそもそも私は、こういうのが嫌いな人の気持ちが分からない。<br><br>他の平山作品も、そのうち紹介できればと思う。<br>
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<link>https://ameblo.jp/review2012/entry-11143556691.html</link>
<pubDate>Mon, 23 Jan 2012 08:30:16 +0900</pubDate>
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<title>林壮一『マイノリティーの拳』</title>
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<![CDATA[ <br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120120/15/review2012/91/10/j/o0377056011745035166.jpg"><img border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120120/15/review2012/91/10/j/t02200327_0377056011745035166.jpg" alt="面白い本たち-マイノリティの拳" style="width: 134px; height: 192px;"></a><br>2006年、新潮社<br><br>本書は、かつてボクシングのプロテストにも合格したライターによる、歴代世界チャンピオンたちの軌跡である。登場するボクサーは、ホセ・トーレス、マイク・タイソン、アイラン・バークレー、ティム・ウィザースプーン、ジョージ・フォアマンなどである。<br><br>私は格闘技全般が好きだ。その中でも特にボクシングが好きだ。ただのファンなので、ボクシングの魅力について明確に説明する言葉を持たないのだが、素人的な感覚としては、ある種の合理性に強く惹かれる。<br><br>無論、どんなスポーツでも合理性が重要なことは間違いないだろう。しかし特に格闘技の世界において、攻撃と防御の理論化や、ウェイト制をはじめとする精緻なルールなど、ボクシングの合理性には抜きん出たものを感じる。<br><br>しかし結局、リングで闘うのは生身の人間である。理論は武器になるが、それがあれば勝てるわけではない。「マーベラス」の名を持つマービン・ハグラー（伝説的な統一ミドル級チャンピオン）は言う。<br><br><span style="font-style: italic;">ボクサーにとって一番大切なものは。ハートだな。それも、自信の含まれたハート。ロープに四方を囲まれたリングには、本当の人生があるからね。向かい合う相手と自分しかいない。決して逃げられはしない。外に出ることもできない。そういう場所なんだよ。自信が無ければリングでは勝てない。自信が無い、という時点で、そのファイターは敗者さ。人生も同じだろうね（214頁）。</span><br><br>合理的な練習を積み重ね、身体と理論を一体化させる。しかしどんなに練習を重ねても、防衛を続けても、リングに上がることの恐怖を口にするチャンピオンは少なくない。ハグラーは決して安易な精神論を語りたいのではなく、最後の最後で勝者と敗者を分ける非情な境界のことを言おうとしているのだと私は思う。<br><br>この作品に出てくる多くのボクサーは、マイナスから人生をスタートさせている。彼らはいずれも、自分の拳で人生を切り開いてきた。しかしチャンピオンとなった後も人生は続く。45歳になっても、ブロンクスのプロジェクトで困窮した暮らしを続けるアイラン・バークレーのエピソードなど、読み返す度に不条理を感じる。<br><br>チャンピオンといえども人気不人気があり、興行という側面からすればそれは「使い勝手」になる。ボクサーの力を超えたところにある力が、大きくはたらく。その力に翻弄される人、利用する人がいる。ハッピーエンドを望み、バッドエンドに落ちる。「敗者には何も与えるな」という言葉があるが、勝者であったはずの者も、気づけばすべてを失っている。<br><br>仏教的に言えば「無常」ということなのかもしれないが、普通はそこまで達観できない。だからあがく。ピークをすぎてもリングに上がり、老醜をさらすと揶揄されても、いくばくかの金をかせぐ。<br><br>この本がしみるのは、そうやってあがいている人々の姿を愛情をもって描いているからだろう。伴走者のような著者の姿勢には、共感するところが大きい。<br>
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<link>https://ameblo.jp/review2012/entry-11140948944.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Jan 2012 15:02:18 +0900</pubDate>
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