<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>りーちゃんの徒然日記</title>
<link>https://ameblo.jp/rika3824/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/rika3824/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>双極性障害Ⅰ型です。入院歴もあります。病気との付き合い方や日常を綴ります。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>30</title>
<description>
<![CDATA[ (30)紹介状を持って、地元の病院へ行った。実に4年半振りである。主治医も変わらず優しそうだった。少し、頼りなそうではあるけど。知っている看護師さんもたくさん居て、居心地が良かった。やはり眠れないのが辛く、注射で眠らせてもらうことにした。注射の効果は抜群で、すぐに眠れた。そして、一度ぐっすり眠れると、判断力などが戻ってくる。薬もきちんと飲み、症状が安定してきた。私の症状は治って1ヵ月くらいすると必ずと言っていいほど、振り返す。だから、今回の入院でも症状はだいぶ安定したが、発作の治まった頃から1ヶ月くらいまで様子見てから退院しようということになっていた。そして、夫の予想通り、発作が再発した。その結果、3ヶ月も入院してしまった。<br><br>今回の入院で1番の被害は、私の体重増加だ。たった3ヶ月で6kgも増えてしまったのである！病院のご飯は美味しく、また、米飯の量がかなり多かった。少なめという指示を出してもらっていたが、それでも普段の私の食べる炭水化物の量よりはるかに多かった。かなりの体重増加に暗澹たる気持ちでいた。だが、普段の食事になり、ジムに復帰すると、半年で元の体重に戻った。<br><br>繰り返す発作、度々ある入院のお陰で、夫はもちろん、実家の両親、同居している夫の両親、子ども達にも本当に迷惑をかけてしまう。バイトすら出来ない、家事も夫の母にかなり頼っている。子ども達は私を大好きだと言ってくれるが、体調の悪い時は何日も遊びに連れて行ってやれないし、保育園への送迎すら難しい。はぁ、一体、私は何のために誰のために生きているのか？誰かの役に立ちたい。どうすれば、人に喜んでもらえるのか？などと悩みに悩んできた。働いていないのに保育園に子どもを預けていることにも、後ろめたさを感じている。ただ、日々笑顔で過ごすこと、夫や子ども、家族、友人、近所の方などに温かく接すること、結局、内在する「愛」を表現することなら、今の私にも出来る、人に喜んでもらえることかも知れない、という結論に至った。これからも、自分に出来ることを探し、実践し、目に留まった方々を笑顔にできる人間になりたいなと思っている。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rika3824/entry-12568864986.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Jan 2020 12:35:28 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>29</title>
<description>
<![CDATA[ (29)退院してからは、ラミクタールが合っているのか、かなり平和な日々が続いた。病気のトリガーを減らすべく、バイトはもうしない方針になった。すると、これまでかなりハイペースで入院していたのだが、次男が4歳を迎えて暫くするまで、一度も入院しなかった。<br><br>年に2回程度、数日眠れない日があり、その日から2〜3週間は養生していたが、それだけで済んだのである。4年も安泰だったと言うことで、本来は、研究機関である大学病院から地元のクリニックに代わった。自宅から徒歩5分程度のクリニックである。新しいクリニックは、なかなか素敵なクリニックだった。初診は1時間以上、みっちり問診があった。大学病院では、体調に変化がない時は、特に何も話さず、予定の調整だけだった。クリニックでは、毎回、自分のことだけでなく、最近会った出来事や家族の状況などに変化が無いかなど、色々質問してくれるので、たいてい15分くらいは話す。そして、診察している中で、薬を整理しよう、ということになった。ラミクタールとエビリファイという薬を飲んでいたのだが、その２つを外し、リーマスに替えよう、ということだった。勿論、すぐに全取っ替えではなく、リーマスを徐々に増やして血中濃度を安定させ、半年か一年くらい様子見て、発作の頻度が下がっているようであれば、徐々にラミクタールとエビリファイを減らす、という方針になった。<br><br>ところが、クリニックに替わって2ヶ月くらいが経った頃、また酷い発作が起きた。眠れない、小遣いの浪費、人を呼ぶ、よく喋る、怒りっぽくなるなど、症状のオンパレードである。普段ほぼ喧嘩せず、仲のよい夫とも、この発作が起こると、激しく喧嘩し、この時は私が顔をビンタしたことに怒った夫が3発顔をパンチするなどという酷い喧嘩もした。夫が私に手を挙げたのは初めてのことだった。夫も限界だったのだ。今までの発作でも、1ヶ月で4〜6万円の浪費があることはあった。カードで支払いをしたりもするため、夫から借り、毎月¥5,000ずつ返したりしていた。そこで、この時から、私のクレジットカードは解約する事になった。<br><br>クリニックで夫と一緒に受診した。主治医はすぐに入院の判断をしてくれた。これで、夫と望まない喧嘩をしなくて済む、とほっとした。しかし、クリニックには入院出来ない。提携病院も紹介されたが、見ず知らずの場所より、勝手が分かっている方がいいと思い、地元の病院か京大病院を希望した。たまたまベッドの空きがあり、地元の病院への入院か決まった。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rika3824/entry-12568864894.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Jan 2020 12:34:44 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>28</title>
<description>
<![CDATA[ (28)退院してからの育児も楽しかった。授乳しては、あまり眠れないが、取り敢えず横になった。便が出にくいことのある子だったので、オリーブオイルを染み込ませた綿棒で、肛門を回すように軽く刺激したりもした。一度、この作業の直後、大便が私の顔を襲撃したこともあった！笑。いっぱい笑いながら毎日が過ぎ、1カ月検診が無事に終わった数日後、また眠れなくなってしまった。この頃になると、入院への諦めがついていた。ジタバタしても、どうせ入院は避けられへんのやから、しゃーない、とようやく悟ったのである。<br><br>かくして、5回目の入院が決まった。大学病院への入院は、初めてであった。しかしまぁ、同じ精神科な訳だし、大して変わらないだろうと思っていた。事実、保護室の仕組みなどは変わらなかったが、眠りやすい環境を作るためだろうか、保護室は岩倉病院よりうんと薄暗かった。まもなくして、外の病室に移った。デイルームで会う、他の患者さんは、保護室から出てきたと言うと、たいていびっくりしていた。なぜか、保護室には、辛く怖いイメージがあるらしい。私など、保護室に入らなかった入院など、一度もなかったので、最初の試練、くらいにしか思っていなかった。まぁ、ほぼ、刑務所だけど。<br><br>大学病院は給食では、あまりワガママを聞いては貰えなかった。なので、嫌いな脂身を切り離して、赤身だけ食べたりしていた。また、大学病院では、外来の主治医は入院の決定までを担当し、あとは入院中専門の主治医と担当医がつくシステムだった。普段全く接触のない医師に病状などを相談しろと言われても、ろくに相談出来そうになく、事実、大したことは話せないまま退院した。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rika3824/entry-12568864753.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Jan 2020 12:33:57 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>27</title>
<description>
<![CDATA[ (27)次男の妊娠生活も楽しかった。例によって、悪阻もなく、よく散歩をし、ストレッチもした。長男の時と違うのは、長男の面倒も見なければならないことである。まぁ、紆余曲折あったお陰で、6年も離れたので、あまり手はかからなかった。赤ちゃんがいるから、あまり重たい物を抱っこしてはいけないのだ、と伝えると、いつまでも覚えていた。長男が泣いているので抱いてやろうとすると、「お母ちゃんはお腹に赤ちゃん居るから、重いもの抱っこしたらあかんのやろ？」と自分から我慢してくれた。健気である。<br><br>そうこうしているうちに、次男が生まれる。夜中の12時頃に陣痛が15分置きになったので、夫と病院に行き、そのまま直ぐに入院した。その日はスーパームーンだったそうで、出産が立て込み、助産師さん達はバタバタしていた。3時頃、かなり痛みが強くなったので、ナースコールすると、「わ！先生ー！先生ー！」と助産師さんが叫び、わらわらと数人の助産師さんが集まってきた。その時、また排便前のような違和感を感じた。次男の頭が出てきているのである。助産師さんは「あー、まど出たらあかんでー！」と、次男の頭を抑えながら、私の体の下に不織布を敷いてくれた。そして、無事、次男も生まれた。「ラミクタール様様」である。しかし、振り返ってみれば、長男の時も次男の時も、一度もイキまず、生まれてきてくれた。出産が得意な体質らしい。笑。<br><br>しかし、入院中から苦難は始まった。産後、またまた眠れないのである。ここで、出産と発作の相関関係の強さを実感した私達は、子どもを生むのはもうやめよう、という結論に至った。子どもたち2人は今も3人目を望み、私に「3人目の赤ちゃん産んで！」と言うが、理由を説明して、断っている。私は、今回も母乳は十分出たし、長男を育てた経験もあるので、当然オムツ替えなども困らなかった。最初の2〜3日は母子同室で過ごしたが、やはり眠れないので、主治医に相談することにした。<br><br>次男の妊娠を期に、病院を京大に代わっていた。出産時などに何かあったら、産婦人科と精神科が連携して、直ぐに相談出来るようにとの配慮だった。それがまさに役に立ったのである。主治医との相談の結果、リスミーという睡眠薬なら、授乳に差し支えないということで、リスミーを飲むことになった。しかし、リスミーは授乳に差し支えない程度の弱い薬だったので、気休め程度にしかならなかった。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rika3824/entry-12568864610.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Jan 2020 12:33:08 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>26</title>
<description>
<![CDATA[ (26)そして私は、4回目の入院をする事になった。4回目の入院ともなると、はっきり言ってベテランの域である。知っている看護師さんも増え、懐かしいような気分にさえなり、世間話にも花が咲いた。<br><br>ところで、この頃には既に、私は自分の障害を病気を受け入れるという程度の意味では自己受容していた。他人にも、自分が双極性感情障害であることも隠さず、寧ろかなりオープンにしていた。実家の両親や妹の方が、私の病気を人に伝えることに躊躇があったようだ。事実、「世間体が悪いから、病気のことをあまり人に言うな」というようなことを言われて喧嘩したこともあった。私の障害を家族に恥ずかしいと思われているというのは、辛かったのである。その辛さを家族に当たることで発散していたのかもしれない。<br><br>今回の入院は、少し有意義な入院だった。症状を安定させるために、それまではデパケンという、てんかんなどに使われる薬を飲んでいた。しかし、この薬は、飲んだまま出産すると、奇形児が生まれる確率が10倍以上に跳ね上がる薬なのだそうだ。第二子の妊娠を希望していた私達は、デパケンを減薬して無くしてから妊活をしようと担当医と決めていた。しかし、減薬途中、もしくは薬を飲まなくなって数週間で入院してしまうというのが、ここ2回の入院だった。そこで、夫が調べてくれたのが、ラミクタールという薬である。この薬はある程度効果が認められている上に、妊娠中飲んでも問題がないとされている薬である。徐々に量を増やさなければならないし、場合によると、スティーブン・ジョンソン症候群という重篤な副作用の危険もあるにはあった。しかし、やはりもう1人くらい子どもが欲しいと熱望していた私達は、妊娠中も飲み続けられる、この薬に頼らざるを得なかった。まさに、藁をもすがる思いだったのである。デパケンのように血中濃度を測ったりする必要は無かったが、少しずつ薬の量を増やして、適量にもっていった。ある程度の安定を確認し、退院となった。<br><br>ラミクタールは私の身体に合っていたようである。飲み続けられたためか、その後、順調に妊活し、と言っても、雰囲気のいい時や気分が乗った時に夫婦生活を楽しんだだけだが、間も無く次男を授かった。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rika3824/entry-12568864449.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Jan 2020 12:32:29 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>25</title>
<description>
<![CDATA[ (25)バイト生活は、楽しかった。長男を保育園に送った後、地下鉄でレストランへ向かう。バイトの予定入り時間は9時50分でよかったのだが、私は9時20分には着いて働き始めていた。これまでのバイト経験から、自分が仕事を覚えるのに時間がかかるタイプで、あまり仕事が立て込むと、軽いパニックになることも分かっていたからだ。レストランでのバイトは初めてだった。まぁ、似たとこでホテルの宴会サービスや旅館の仲居はしたので、接客や言葉遣いは自信があった。しかし、レストランは仕込み作業、テーブルセット、注文を受ける、厨房に注文を通す、料理を運ぶ、片付ける、皿洗い、皿の片付け、タオルなどを洗濯して干す、などかなり色々な種類の仕事があり、覚えるのが大変だった。仕事が立て込んでくると、やはり私は軽いパニックを起こし、何度も先輩に指示を仰いで、なんとか仕事をこなした。ランチタイムに70人以上のお客様が入った日には、大入り手当てだと言って、店長から¥500を手渡しで貰えた。これは、とても嬉しかった。1時半ごろから交代でランチ休憩をする。メニューを自由に組み合わせて好きなものを好きなだけ食べてよかった。お客様のために置いてある雑誌も自由に読んで良かったので、週刊誌に詳しくなった。連載漫画などは毎週、読むのが楽しみだった。<br><br>週に2回のバイトは適切なペースだと思われたが、負担が少しずつ積み重なってしまったのだろうか？それとも、第二子の妊活のためにデパケンを減らしたのが悪かったのだろうか？また、眠れなくなったのである。眠れないイライラから、夫と喧嘩になった。腹を立てた私は、夫が入浴している隙に脱走した。<br><br>「もう入院したくない」という気持ちが強く出たのかな、と思う。脱走した私は適当にブラブラ歩いた。そして東山に知人がいる事を思い出し、インターホンを押してみたが、出てくれなかった。この時、知人が居てくれたら、ここでしばらく雑談するだけで済んだのかも知れない。しかし、知人が不在だったため、そのまま東に山を越えて行けば叔父と叔母の家があると思ついてしまい、ひたすら歩きはじめた。山科への山越えの途中で、50代くらいのおじさんが私に声をかけてくれた。ホテルの料理人なのだと言う。自転車だったが、女の夜道の一人歩きはあぶないからと、徒歩の私に合わせて自転車を押しながら歩いてくれた。凍らせて半溶けになったお茶もくれた。話しながら歩いていると、相当疲れている事に気がついた。叔父と叔母の家まで行けそうにない。すると、おじさんは自宅がすぐ近くなので、休んで行ってはどうかと言う。「こんな、見ず知らずの人に付いて行って、大丈夫か？」と少し考えたが、このまま道端で眠るのは危険だし、親切な人のようだからいいや、と判断しお邪魔する事にした。<br><br>おじさんの部屋は、正直狭かったが、こざっぱりとしていて綺麗だった。着くとすぐに客用布団を敷いてくれた。お腹が空いているだろうと、大きなおにぎりを作り、ふわっふわの出汁巻も焼いてくれた。私は、それらを遠慮なくいただきながら、1人で歩いていた理由などを話した。おじさんは、家に電話した方がいいと思うよ、と控え目に助言してくれた。私は、連絡するのは次の日になってからでもいいかな、と思っていたが、無性に夫の顔が見たくなり、すぐに電話した。電話口で夫は烈火の如く怒っていたが、男性の部屋に居ると伝えると、笑えるくらい慌てだした。おじさんに電話を代わり、場所を伝えて貰うと、ほんの20分ほどでインターホンが鳴った。実家の父と2人でおじさんの部屋に入り、少し雑談して、出汁巻をつまんで帰路に着いた。ところが、安心したせいか腰から下に力が入らなくなり、両脇を夫と父に抱えられて帰った。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rika3824/entry-12568864336.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Jan 2020 12:31:29 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>24</title>
<description>
<![CDATA[ (24)3回目の入院を終えて2ヶ月もすると、普段通りに主婦が出来るようになってくると、なんだか生活が物足りなく感じられるようになった。朝8時半くらいに長男を送ってから17時ごろにお迎えに行くまで、暇なのである。夫に相談すると、週2〜3回くらいでなら、バイトをしてみてもいい、という話になった。思い立ったが吉日！とばかり、すぐにフリーペーパーを見た。かつての競合他社のものである。いくつか候補が見つかった。すぐに面接をしてくれると言うので、オフィス街にある洋食レストランに面接に行った。<br><br>店の場所はすぐに分かったが、15分くらい早く着いたので、少し時間を潰してから入った。入ってみると、かなり薄暗い店内で、レトロな感じの内装だった。最初、ふくよかで優しそうな女性が面接してくれた。病気のことも話そうと決めていた私は、障がい者手帳を出し、2度も入院経験がある事を伝えた。すると、次に、少し厳しそうな女性が面接をしてくれた。特に困るような質問もなかったし、人柄は上手く伝わったように思えた。結果は木曜日に合格者だけに電話で伝える、と言われた。<br><br>待ちに待った木曜日。14時頃に20分ほど外出したが、15時になってもレストランから連絡が来なかったので、もしかしたら留守の間に電話があったかもしれないと思い、レストランに電話を掛けた。すると、面接をしてくれた、優しそうな女性に「申し訳ないが、不採用になりました。」と言われたが、「分かりました。また、何かありましたら、宜しくお願い致します。」と言って受話器を置いた。すると、30分後、今度はレストランから電話がかかって来た。どうしたのかと不思議に思いながら話を聞くと、追加で私を採用してくれると言う。正直に障がい者であることを伝えてくれたことが好印象だったし、今回、電話をわざわざ掛けてきてくれたことに店長が「意欲を感じる」と評価してくれたそうだ。こうして無事に、私は週に2回、洋食レストランで働けることになった。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rika3824/entry-12568864168.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Jan 2020 12:12:46 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>23</title>
<description>
<![CDATA[ <br>(23)退院してから、半年くらい経ち、そろそろ、実家を出てくれないか？という話が出てきた。私は急いで不動産屋さんに入り、条件を示すと、当てはまる物件があればファックスしてくれると言う。お礼を言って、帰った。3日後、早速、例の不動産屋さんからファックスがあった。3つあった物件のうちの1つがかなり私達に都合のいい条件の物件だった。次の日、早速、夫と現地見学に行った。行ってみると、新築の家を建てるために壊している最中だった。広くて防空壕のある物件で、2棟に分譲して新築するため、壊していたのである。その後、長男と3人で夫の実家に行き、どう思うか夫の両親に相談した。新居は、夫の両親とも一緒に住もうと言っていたから、夫の両親の同意も欲しかったのである。みんな、良いんじゃないか？という意見になったので、その物件に決めた。<br><br>あっという間に引っ越しの日を迎えた。ただ、引っ越しという非日常は私にとっては結構な「刺激」だったようだ。引っ越しの少し前から眠れなくなった。また、眠れない事に興奮し、何としても入院したくないという気持ちが強すぎて、言動がおかしくなった。新居のキッチンに立て篭もり、長男を抱いたまま包丁を振りかざして、誰も近づかないよう要請した。実家の両親や当時まだ独身だった妹まで、夜中の新居に駆けつけてくれた。夜明け前、実家の父の声掛けに応じて包丁を置き、疲れた私は長男を抱いたまま、毛布の上に倒れこんだ。私の緊張をほぐすべく、鍼灸師の妹が治療してくれた。<br><br>一段落して、気分転換にシャワーを浴びると言い、浴室へ向かった。シャワーを浴びていると、また私の病気が頭をもたげた。身体は疲れているはずなのに、こんな時に限って、浴室を大掃除したくなってしまったのである。全ての棚を外し、全ての小物を洗い、鏡を磨き、床を擦る。挙句の果てには脱衣所まで水浸しにして洗おうとしたところで、実家の母が異変に気付いた。あまりに長いシャワーの私を心配して、様子を見に来てくれたのだ。かなりの惨状に母は絶句していたが、刺激しないよう、私を浴室から移動させただけで、叱りはしなかった。<br><br>引っ越しをしたその次の日に、私の3回目の入院が決まった。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rika3824/entry-12568860773.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Jan 2020 12:11:48 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>22</title>
<description>
<![CDATA[ <br>(22)元々かなり社交的な私には、デイルーム(みんなの共有スペース)はパラダイスだった。また、夫は毎日欠かさず、お見舞いに来てくれた。自宅からだと30分程度車を飛ばさねばならず、新入社員としての慣れない仕事もある中、本当に大変だったことと思う。夫や長男だけで無く、夫の両親も実家の両親も頻繁に見舞いに来てくれた。夫の母が、手作りの抹茶ういろうを持って来てくれたのは、本当に嬉しく、美味しかった。あれは忘れられない思い出の１つである。<br><br>実家の母の話によると、夫は、自宅でもかなり頑張って育児をしてくれていたそうだ。夫は汚いものや気持ちの悪いものが極度に苦手で、私と一緒にいる時はオムツ替えなど、決して、しない。しかし、私の入院中は母に任せるのでは無く、積極的にオムツ替えをしていたという。また、夜、なかなか寝付かない長男をベビーカーに乗せ、近所を歩き回ったりもしてくれたのだそうだ。私が入院すると、本当にみんなに、特に夫に負担を掛けるな、と実感した。<br><br>今回の入院では、寝る時以外OPEN、10時〜16時まで、近くのスーパーまでなら外出OKというところまで漕ぎ着けた。スーパーは、徒歩で片道15分くらいの距離の範囲だった。病棟の友人達と喋りながらの散歩は、実に開放感があった。途中でジュースを買ったり、スーパーで干し芋やお菓子などを買ったり、洋菓子店でシュークリームなどを買ったりした。<br><br>この時にできた友達の1人は、かなりお洒落で社交的な美人だった。髪型が私とそっくりの、前下がりのショートボブだったので、それをきっかけに話すようになった。彼女は、アルコール依存性だった。夜中になると、口寂しくなるそうで、スーパーで買った干し芋を3袋くらい、ペロリと食べていた。焼酎と同じ成分である芋を無性に食べたくなるらしい。食べて暫くは、華奢な彼女からは想像も出来ないくらいにお腹が膨らんでいたので、驚いた。<br><br>そうこうしているうちに1ヶ月が経ち、もう大丈夫だろうということで、退院した。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rika3824/entry-12568860580.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Jan 2020 12:11:02 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>21</title>
<description>
<![CDATA[ (21)そして待ちに待った、退院の日が来た。子供がまだ小さな赤ちゃんであるため、少しでも早く、退院させてあげたい、という主治医の配慮のお陰だった。夫の実家に帰ると、眠っていたはずの長男が私の声を聞きつけて、サッと目を覚まし、私を見つめてくれた。本当に愛しく、嬉しかった。身体が戻りきらず、あまり労働意欲が湧かなかったため、同居の実家両親や夫に甘えて暮らした。食事を食べては寝るばかり。生きている、というだけだった。退院したが、入院中と大差ない生活が続いた。私達は私の入院が決まってから、私の実家に引っ越して生活し始めていた。平日は実家、土日は夫の両親の家にお邪魔してお世話になった。本当に恵まれた環境だったし、今も恵まれている。特に、あんなに無茶苦茶な状態になり、一生治らない病気を患ったことを知りながら、離婚しないでくれた夫、離婚させなかった夫の両親には驚きと感謝しか無い。自分の嫁が将来、私と同じか類似した状態だったとしたら、離婚を息子に勧めないという自信など、はっきり言って、ない。本当に私は恵まれている。<br><br>ぼつぼつ普段の生活に慣れ始め、少しずつできる家事が増えてきたな、という頃、症状が悪化した。眠れなくなったのである。以後、私の発作は眠れないこと、が全てのスタートとなり、これを拗らせると入院になった。また、私が2〜3回こういった発作を繰り返して、夫が発見した法則が、「症状が治まって1ヶ月後に振り返す」というものだった。御多分に洩れず、その時の私も振り返しの発作だったらしい。ようやく手に入れた、自由な生活とも、愛する長男とも、おさらばだった。<br><br>私はまた、岩倉病院に送還された。これが、2回目の入院。せっかく不自由な生活に慣れ、それを乗り越えて自由を手にしたのに、また刑務所(保護室)生活に逆戻り、というのは正直辛かった。最初の入院は何もわからないまま、急に入院させられ、流れに身を任せるしかない状況だった。今回はどんな場所でどんな不自由が待っているか、十分、分かってからの入院である。無駄だと知りながらも、私はゴネた。まぁ、敢え無く却下され、再入院した。再入院は、また長男や夫とあまり会えなくなるのが辛かったが、大体どんな感じで解放されるのかも分かっていたので、気楽でもあった。「解放」されている時間に同じ病棟の患者と喋ったりカードゲームをしたり、仲のいい方にはジュースやお菓子、王将から出前してもらった餃子まで貰ったりした。連絡先を交換したりして、今でも繋がりのある方もいる。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rika3824/entry-12568860308.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Jan 2020 12:09:30 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
