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<title>Siroi mayu</title>
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<description>大阪の大学に通っていますダンスとお茶と音楽と梅酒が好きです</description>
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<title>ギリシャ国民投票反対多数 二橋の中に残るしこり</title>
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<![CDATA[ 本日朝、各メディアがギリシャの財政緊縮策の賛否を問う国民投票で反対多数だというニュースを報じた。<br><br>国民投票に至った経緯やギリシャの経済状況等は今の時代調べればいくらでもでてくるのでここでの記述はしないが、二橋はこの結果を素直に喜ぶことができない。<br><br>EUの行った財政緊縮によってギリシャ国民の多くが職を失った事実がある。財政緊縮がゆるくなれば国内に出回る金がおおくなり国民が豊かになるかもしれない。<br>しかし、忘れてはならないのがギリシャがいまだに多額の負債をかかえていること、そしてその多額の負債は政府が以前に負債を隠蔽していたことで拡大したことである。この政府にギリシャ経済を任せていいのかという疑問が残ってるわけだ。<br>国民の多くが失業していれば治安は悪くなり観光が主な外貨の獲得方法であるギリシャにとって治安の改善、もっといえば国民が経済的に豊かになることが最優先事項であることに異論はない。しかし、その大役を務める政府が健全でなければいくらEUの支援があっても思うような結果はえられないのではないだろうか。<br><br>EUもこの結果を苦い水を飲むように受け入れ今後の交渉をしていくのではないだろうか。EU諸国も、ギリシャがEUをここで脱退されたらユーロの信頼が失われるからしゃーなし支援をするというのが本心であろう。<br>某テレビ局の番組では、ギリシャがEUを脱退したら中国やロシアが支援をするだろうから、下手に脱退させられないという見解をしめしていた。<br>困っている国があったら助け合うのが連合の存在意義だと思うが、ずるがしこく甘い水をすするような国をほかの健全な国が救いの手を差しのべるようでは彼らが可哀想である。<br>財政緊縮策は反対、EUとの交渉は今後継続する。それは決定事項。しかし、ギリシャ政府がもっとクリアにならなければ長い目でみて、ギリシャの財政再建はない。なんともしこりが残る結果となった。
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<link>https://ameblo.jp/rikyua777/entry-12047129759.html</link>
<pubDate>Mon, 06 Jul 2015 07:23:49 +0900</pubDate>
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<title>コンビニエンスストアと個人主義</title>
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<![CDATA[ 日本人は集団主義だと言われている。<br><br>「私も」と言えば「じゃあ、私も」、時間内に仕事が片付けなければ「周りに迷惑がかかるし残業するか」、合言葉は「足並みを揃える」。自分を周囲にいかに同化させるかに全神経を集中させ「チーム一丸となって」物事に取り組むのが集団主義だ。<br><br>一方、対義語として「個人主義」という言葉がある。個がいかに努力して成果をあげるかに焦点をあて、リスクも個人が負うことになる。<br><br>そして、注目したいのが日本をはじめとした多くの国が民主主義の上に成り立っているということである。説明するまでもないだろうが、民主主義とは簡単に言えば「多数派が正義」という考え方である。<br>民主主義のもとで圧倒的に有利なのは集団主義の元に生活している人たちである。手段で足並みを揃えて行動していれば個人で行動している人よりも多数派になることは必死で、当然意見も通りやすい。「水面下で」「口裏を合わせて」なんて言葉も集団主義の賜物であろう。何が言いたいのかと言うと、日本の会社や広義では社会は個人主義の者が生きにくい世の中なのかもしれない。<br><br>語弊があるかも知れないが、バカは大抵徒党を組んで何かをしようとする。個々の力が弱いから集団になって自分達の主張を通そうとするからだ。世の中の大多数は平凡な人間なのだから、一部のインテリは孤独になっていく。それでも成立しうるのが個人主義であり、個人主義は能力があるものでなければ成り立たないのだ。先人を例にあげれば夏目漱石や芥川龍之介などは個人主義者だ。それでも世間に認められるのだから非凡な思考能力があったと見て間違いない。<br><br>さて、本題に入ろう。今回はコンビニエンスストアは個人主義の上で成り立つのかというテーマだ。<br><br>コンビニエンスストアは本社と個人が契約を結び、本社のシステムに従って経営をすることで成立している商売だ。大手であれば全国に数万と店を構えるコンビニエンスストアで１人足並みを揃えないで個人の考えで経営をされたらコンビニ業界はここまで成長しなかっただろう。このように考えるとコンビニは集団主義の最たるものである。<br><br>一昔前、某コンビニエンスストア店長が消費期限の迫った弁当を安売りして販売した結果フランチャイズ契約を剥奪されかけたという事例があった。店として当然廃棄をだすことは大きな損失になり、また、スーパーマーケットや商店でも当たり前に行われているこの方法をとったことが「新鮮な食品をお客様にお届けする」というコンビニエンスストアのイメージを崩すことになるというのが理由である。<br>確かに、他の店ではやっていない、チェーン店のイメージを下げかねない、というのがコンビニエンスストアの業界ではタブーであることは間違いなさそうだ。しかし、経営者として、店の利益を上げるために行った行為がこのような仕打ちをうけると私は考えてしまう。コンビニエンスストアの各店舗に経営者は必要なのかと。<br><br>私自身、コンビニエンスストアでのバイト経験があり、そこのオーナーも店長も絵に書いたような集団主義だった。一度入ったアルバイトが使えなくてもなかなか切ることができない。怠慢バイトに対して他の店員が強い指摘をしても「それはいかがなものか」と。挙句の果てにはその店員の漬け込むスキを見つけて叩く始末。<br>確かに、民主主義において集団主義の人間は絶大な権利をもつ。周りの輪を大切にする人間は好かれる。しかし、そこで働くひとは一個人であり、個を潰す経営は発展しないのである。<br>正直、経営は個人主義のぶつかりあいでいいと思っている。個々の意見をぶつけ、より良いものが選出される、良くないものは淘汰される、一番えらいのはオーナーでも店長でも社長でもなく、一番能力がある者。そうでなければ経営は発展しない。<br><br>ここまで読んできて、わかって頂かるだろうか。私は個人主義だ。コンビニエンスストアで働いている時に関して言えば「客の事を第一に考えれなければ、店のことも店員の事も、自分の事も考えられない」というコンセプトで働いている。そのために作業の時間を極力効率化、簡略化して、接客に時間をさく。客を待たせるようなコンビニエンスストアであればちっともコンビニエンスじゃない。そういう個人主義ももと働いている。だから経営をしているオーナーに対しても使えない店員はクビにしろと言えるし、自分自身も使えなければいつでも切ってくれていいといっている。客を大切に出来ない店など店じゃない。<br><br>個人主義は弱い。しかし、個人主義は貫けば相手方から評価される。たかだかどこにでもあるコンビニエンスストアでも個のプライドをもって各店舗が営業してもらいたいものである。客もまた個人の主観で気に入った店に来て欲しい。そうでなければちっとも面白くない。
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<link>https://ameblo.jp/rikyua777/entry-12046740359.html</link>
<pubDate>Sun, 05 Jul 2015 06:35:54 +0900</pubDate>
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<title>愛とは技術か</title>
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<![CDATA[ 愛とは技術だろうか。そう問いかけたのは20世紀の社会心理学者エーリッヒ･フロムだ。<br>愛が仮に技術だとしたら、それはダンススキルやその他もろもろの技術の様に知識と修練が必要だ。<br>それとも、ラヴ･ストーリーは突然によろしく突然恋に「落ちる」ものだろうか。<br>ほとんどの人は後者を信じ、出会いを求めクラブや合コンに足を運んでいる。<br>どこにいってもモテない人がいる。彼らはそれを容姿や環境のせいにする。チビだ、デブだ、ブサイクだ、仕事が忙しい―。<br>かたや、仕事がいくら忙しいかろうと、容姿が大したことがなくてもモテる人もいる。この違いはなんなのか。<br><br>結論から言うと愛は技術なのだ。そして「愛する技術」を習得した者が世間でいうところの「大切にされる人間」になりうるのだ。ほとんどの者は愛する技術よりみ愛される技術を得ることに執着し、連日エステに通ったりおしゃれな服を買ってみたり言葉遣いを変えてみたり、様々な試行錯誤をしている。それが望む結果に結びつかなくて絶望する。先ほどのラブストーリーは突然にで言えば「love＝愛」が突然に落ちることはありえず、あくまでも「love＝恋」であって、恋は永遠ではない。熱した鉄のようにいずれは必ず冷める。<br><br>愛されるための条件は簡単に言えば「社会的な地位」をもつか「セックスアピール」があるかのどちらかだ。前述の人々の無駄な努力もこれらに当てはまる。多くのつながりをもち人々に影響を及ぼすことがモテる事の条件という概念の過ちに我々はいい加減気づかなければいけない。<br><br>また、恋人、対してこういう考えを持つ人がいる。恋愛は経済だという考え方だ。<br>自分の容姿、学歴、友達の数、社会的信頼云々、我々は様々な人間的価値を持っていきている。それをお金に例えるならば、自分の持ち金の中で買える最大限値段の高い異性を結婚相手にすればいいのだ。この場合重要だと考えられるのは不動産の様に「将来値段が上がる」と相手に思わせ、少々手が届かない相手を落とし込むことである。この理論で行けば、恋愛は全て市場に置き換えられ全ての人間が商品としてみなされることも驚くに値しない。このような取り引きの過程で両者の価値観が合致したとに「恋に落ちる」という訳だ。言うまでもないが不動産は価値が暴落しそうになれば売りに出される。恋ならば可能性は十二分に有り得るが、はたしてこれが愛に置き換えて語れるだろうか。<br><br>人々の信頼を得るのは簡単である。どれだけ周りの人を信頼して、自分の金と労力を費やせるかだ。愛に置き換えればどれだけ周りの人を愛せるかで自分が愛されるかが決まる。これはマザーテレサなど自分の愛を多く人に分け与える事が出来た人ほど言っている。<br><br><br>愛について学ぶものはない、という観念がそもそも間違いなのだ。愛という定義をここで明らかにしなくてはいけない。<br><br>血のつながりから性格まで何もかも違う２人が必然的に出会い、お互いの違いや壁を理解しながら、一体となっていく過程が「愛を育む」というものである。このように文字におこして定義すれば、それを学ばなくても良いと思う人は誰もいまい。<br><br>多くの人が愛を履き違える原因が、恋に落ちてお互いがポーっとしてる状態を愛だと思っているところにある。それはただ単に周りが見えていない状態なだけで愛という概念からはかけ離れている。ちなみに、フロムはこれを「それまで２人がどれほど孤独だったのかを示す状態」と言っている。<br><br><br>結論の繰り返しになるが、愛とは修練である。恋に落ちた時の失敗から学び、教訓として昇華しなければ愛する技術は一向に進歩しない。技術をどう伸ばしていくか。何かにうちんだことがある人ならばここに書くまでもなく分かるだろう。<br><br>様々な分野において技術を身に付けるというより他に大切なものがあってはならない。それなのに、なぜ我々は愛だけを技術ではないと思えるのだろうか。そして、何故愛を修練しようとしないのだろうか。それこそが「なぜかモテない人」の根本的な間違いなのである。<br><br>世にあまたいる愛することを学ばない人よ。いい加減目覚めよ。チャンスがないのではなく己の努力が足りないのだ。<br><br>ここまで来て何が言いたいのかというと、僕も努力不足なのでこれから努力し、いい加減、嫁を見つけたい。
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<link>https://ameblo.jp/rikyua777/entry-12043828077.html</link>
<pubDate>Sat, 27 Jun 2015 18:30:38 +0900</pubDate>
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<title>孔子―50で天命を知る</title>
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<![CDATA[ 現在読んでいる本がある。朝日新聞社出版「学級崩壊」である。<br>タイトルの通り小学校で実際に起きた学級崩壊の様子が書かれたドキュメント本だ。これが出版されたのが1999年、僕が５歳の時。僕は2001年に小学校に入学したからちょうとその頃だ。<br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20150624/04/rikyua777/31/37/j/o0540096013346223624.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20150624/04/rikyua777/31/37/j/o0540096013346223624.jpg" width="100%"></a><br>1980年代の詰め込み教育の弊害が指摘され新学力観、俗に言うゆとり教育がもてはやされたこの時代あたりから学校現場はややこしくなった。<br>確かに、校長を中心とした教師の絶対的権力がなくなり子どもたちへの縛りは軽減された。しかし、複雑な問題を抱えるようになり、教師、保護者、そしてなりよりも子どもが悩まされることになった。詰め込み教育と現代の教育の過渡期を過ごした彼ら。<br>ゆとり教育じゃあかん、このままじゃダメだと現在は少しずつ教育方針は転換されているが、問題の解決には至っていない。未だに児童1人1人が悩みを抱え、教員はそれぞれに対応が求められる。もちろん、教師が王様で、体罰やら教師の校内喫煙やらなんでもありだった時代と比較したらこれは迎合すべきなのかもしれないが……。そんな教育現場で僕は数年後働くことになる。<br><br>前置きは長くなったが、最近悩みがある。自分は教師に向いていないのではないかという悩みだ。<br>まず人と話すのが苦手だ。というより誰にでも好かれるというのが苦手なのだ。これは子どもだろうが同世代だろうが関係なく、やはり僕という人間に対しての評価は人によって大分差がある。<br>もし、教師になった僕のことをどうしても好きになれない子どもがいたらどうだろう。精神的にも肉体的にも成長が著しい彼らにとって僕が担任の教室の居場所はきっといいものではないだろう。人の将来を担っている職業の責任は重い。できたら教え子全員に好かれたいし、なにより何かを与えて成長して進級進学してほしい。そして、彼ら皆に対してそれはできないのではないかと悩んでいるのだ。<br>学校の講義も同じように勉強しているはずなのに教授によって評価は大分違う。今日の模擬授業も評価は概ねよかったが中には最低評価で点数をつけてくる者もいた。僕はそういう人間なのだ。<br><br>その旨を母にメールしたら思わぬ答えが返ってきた。<br>「向いてるかどうかなんて今の段階で誰もわかんないじゃん。教師になってみて向いていないと思ったらそんなの辞めちまいな」<br><br><br>同時に彼女は孔子の言葉を挙げた。<br>『吾、十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る』<br>50にならなきゃ天命はわかんない。あたしゃいま48で、今の仕事だってなんのために働いてるか、誰の役に立ってるか、そもしも向いてるか、なんてのは分からないでただただ働いてる。あと２年で分かるんだか、だそうだ。<br><br>山の中の高校を卒業してそのまま就職し、数回職を変えて現在に至る彼女。一見どこにでもいるただのおばちゃんだが、本当に世の中どこから名言がとびだしてくるか分からない。ちなみに孔子のこの言葉、僕が大学受験の時に使っていた倫理の用語集を読書している時に見つけたそうだ。センター倫理で満点をとって有頂天になっていた僕。受験が終わり遊び惚けてすっかり忘れていた。もう少し生きる糧を得るために倫理を学習していたら今ここまで悩むことはなかったかもしれない。<br><br>天命を知るまであと30年。やってみなければ分からない。向いてるか否かなど決める力量など自分にはない。兎に角、腹を括って教師への道をまっしぐらである。
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<link>https://ameblo.jp/rikyua777/entry-12042483175.html</link>
<pubDate>Wed, 24 Jun 2015 03:04:59 +0900</pubDate>
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<title>教育実習ガイダンス 思わぬところに落とし穴が</title>
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<![CDATA[ 今年度から大阪府内の某中学校での教育実習が始まる。今日はそのガイダンス初日。<br><br>実習の説明から授業見学、討論、実習へのやる気が満ち溢れている僕を想像してほしい。<br>中学生らしい生徒が多いながら、皆賢そうで僕自身がやり込められてしまいそうである。もちろん実習生ながら彼らに何かを与えられるように、そして自分自身も成長できるように今から準備を進めようと思う。<br>担当教諭の先生もいい人そうで本当にヨカッタ。<br><br>そんな中、心に不安が残るのがタバコの件だ。知っている人もそうでない人もいると思うが、僕は喫煙者だ。成人しているので、こうした場で公言すること自体はなんら問題はないが、ご存知の通り今日学校現場をはじめとした公共の場所の多くは禁煙とされていて我々喫煙者は非常に肩身の狭い思いをしている。吸いたくても吸えない場面が多いのだ。<br>学校現場はその最たる場所。いくら喫煙者であっても子供達に副流煙を吸わせることは決して許されない、とされている。<br>さて、そんな場所に朝から晩まで１ヶ月もいることが喫煙者にとってどれだけ辛いことなのか、同志なら想像に難くないだろう。タバコの依存性は相当なものでこれまでも幾度となく禁煙に失敗してきた。人間関係が原因のストレスで軽はずみに手を出してしまった喫煙の習慣、ここでもう一度見つめ直さなくてはいけない。<br>実習の緊張感とニコチン切れのイライラとのダブルパンチに勝つ自信は全くない。禁煙と実習の緊張感に耐える実力も恐らくない。消去法でいまから禁煙をして、ニコチン依存が抜けてから実習に臨むのが最良の選択肢であろう。<br><br>禁煙しよう。今から。禁煙の同志を募集したい。意志の弱い人ではダメだ。以前チームメイトと一緒に禁煙したが二人とも１ヶ月と続かなかった。二橋がやるなら俺もやろうという良心と強い信念をもった友を募る。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/rikyua777/entry-12040945339.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Jun 2015 12:49:23 +0900</pubDate>
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<title>教育福祉と芸術の狭間を生きるジレンマ</title>
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<![CDATA[ 先日ある人に言われた一言が不覚ながらグサッと突き刺さった。<br><br>要約すれば、お前(二橋)は独りよがりの人間だと。<br><br>彼は例を挙げた。<br>「音楽には二種類ある。一つは自分の感情をひたすらぶつけたもの。もう一つは聴く人の気持ちを考えてつくられたもの。前者は響く者には響くが、響かない者にはなにも響かない。一方後者は誰が聴いても心に届くものになっている」<br>「福祉は後者だ。どんな人にでも何かを与えられるものでなければ意味がない。」<br><br>二橋は何をするにも前者なのだと。言いかえれば、お前がどんなに一生懸命動いても周りがついてこないのはそういうことだ、と。<br><br>確かに言われる通りだ。幼少期から仲のいい人とそうでない人はぱっくり二つに割れていた。自分をはじく人間に関しては僕も知るかボケッと思っていたので関係を好んで築かなかった。それは今も変わらない。だから友達が少ない。<br>教員としてはどうだろうか。一般的な高校で家庭科を担当している教員はだいたい1人。その教員が前者のような考えをもっていたら授業をした際響かない生徒は何も学ばないまま学校を卒業してしまう。それを『学ぼうとしなかったお前が悪い』と割り切ってしまうべきではないし、そんな勇気もない。したがって、自分がどう思ってるかなんてのはとりあえず置いておいて万人受けする授業を構成することになる。もちろん、一人ではそんな授業到底つくれないので周りに相談しながら。<br><br>僕が世界で一番すきな事は踊ることだ。それも、自分をぶつけて相手に喰らわせるのが大好きだ。それで「やばかったっすねー」って言われている自分が最高に好きだ。<br>しかし、バトルでは結果が出る時とでないときの差が激しい。その理由は言うまでもなく、僕の踊りが万人受けするものではないからだ。僕は何をするにも一貫して前者として生きてるようだ。<br><br>教員のタマゴとして、ダンサーとして、結果がついてこなくてもいいとは思わない。僕だって頑張っているんだから結果はほしい。ただ、今のままでは結果はでない。<br><br>激しい葛藤とジレンマが僕を襲う。どうあるべきか。どう生きるべきか。<br><br>多分、それらを分けていきれるほど器用な人間ではないだろう。そして、後者に身を移せるのならとっくにしている。<br><br>教員採用試験、大学院入試まであと２年。というか教員として生きる約40年。自分がどう生きるかという課題とは向き合い続けなければならないだろう。
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<link>https://ameblo.jp/rikyua777/entry-12040304203.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Jun 2015 12:57:14 +0900</pubDate>
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<title>しゃべれどもしゃべれども</title>
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<![CDATA[ 「しゃべれども しゃべれども」という小説を知っているだろうか。<br><br>僕は確か中学２年の夏休みに読書感想文を書いた時にこの本を手にとったのが出会いだ。その本は、簡単にいうと平凡な落語家の青年の周りの同世代の平凡な男女が悩んだりする話だった(記憶がある)。そこまで内容は覚えていないのが辛いところだ。<br><br>しかし、その中で今でも忘れない言葉がある。「よし」という言葉だ。<br><br>「〇〇はよしが足りない。××はよしが多すぎる。△△はあるところでは極端によしが多く、またあるところでは極端にすくない―」<br><br>自分を「よし」とする。このくらいで「よし」にしとく。そんな使い方をする「よし」―。<br><br>僕の小さい頃の夢は総理大臣だった。ちょうど北朝鮮と日本が拉致問題でバチバチに揉めて、連日キムギョンイルと小泉総理の話題がニュースでもちあがっていた。当時小学生の僕は思った。<br>「俺なら日朝関係を改善できる」と。キムギョンイルを改心させる自信が僕にはあったのだ。<br><br>しかし、どこかのタイミングでその夢はなくなった。多分中学生になって自分にそこまでの能力がないと悟ったのだ。<br><br>その後、高校生になり教師になりたいという夢をもった。目指した大学は教員養成大学の最高峰、東京学芸大学。高校３年夏の時点での偏差値は38、さぁ、やれるのか……！<br>センター試験の結果を開くと偏差値はおおよそ60に若干届かないくらい。東京学芸大学の偏差値は64。かすりもしなかった。これはダメだと慌てて大学を探して現在通う大学を受験した次第である。<br>大学に入りブレイクダンスを始めたがとても才能があるとは思えない。もともと音感がないと母からお墨付きをもらうほどの実力だったのだ。もうすぐダンス歴２年。学生限定のバトルでベスト8が最高でそれといって輝かしい成績は残していない。<br><br>さて、こうしてみると何もいい事がなかった人生に思えてくる。上手くいったり、希望がそのまま叶ったことなんて生きてて一度もなかった。僕はそういう平凡な人間だ。<br>でも、そんな平凡な人生が嫌いかと言えばそうではない。総理大臣になる資質がなかったからこそ現在教師になるための勉強に努めているし、志望大学に何かの奇跡が起きて受かってしまったら、馬鹿で不器用なのに「またなんとかなるだろう」「キセキを起こせ！」「伝説になれ！」みたいな暑苦しくてイヤらしい人間にもならずにすんだ。なにより自分を「よし」とできるように、最近なった。<br><br>子供の頃はできなくても「よし」ではいけない。まずはやってみろということだ。しかし、年齢が進むにつれ、どんな人間でも自分がどこまでできるかがある程度分かってくる。それでもやりつづけろ、努力は無限だ、と言うのはエゴである。頑張れるだけ頑張ってあとはなんとかなるくらいの生き方でなければ人間まいってしまう。<br><br>多分、僕はこれからも総理大臣にも教育委員会のおエライさんにもなれないだろう。平凡な教師が平凡に頑張ってどこにでもある学級を守っていく生活があと数年後には始まる。そのために、勉強もダンスもバイトも精一杯頑張っている自分を「よし」としてやろうとたまに思う。
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<link>https://ameblo.jp/rikyua777/entry-12039782257.html</link>
<pubDate>Wed, 17 Jun 2015 02:13:10 +0900</pubDate>
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<title>ブログ 始めました。</title>
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<![CDATA[ ブログを始めてみた。<br><br>先日、エッセイストだか作家になるという若かれし頃の夢が不意に思い出され、でも今更原稿用紙にペンを入れる気力もなく、ワードで小説を書くほどの時間もアイデアも浮かばず、結局手軽にはじめれるブログに至った次第だ。<br><br>そもそもなんでエッセイストになりたかったんだろう。<br><br>一番初めに読んだエッセイはさくらももこの「ももの缶詰」だった。20歳中盤でちびまる子ちゃんを大ヒットさせた彼女が書いたエッセイで、内容もくだらなく(もちろんいい意味で)読みやすかったので当時大ベストセラーになった。<br>それをよんだのが小学四年の時、谷島屋で。<br>想像して欲しい。静かな書店で大爆笑を必死でこらえながらそれでも爆笑して周囲から冷ややかな目線を浴びている少年の姿を。それが僕だ。<br><br>幼少期から母に無駄に本を与えられ暇さえあれば自宅で本を読みふけっていた少年にとって「自分も書く側にまわってやろう」という考えに至るのは自然な流れだった。<br><br>中学に入った頃からユーモア･エッセイを書き始め、周囲の友達や先生やお母さんに見せていた(某ダンサー風に)。それがなかなかウケた。(自分でいうのもなんだが)地元では名門校とされている浜松西高校中等部に入学して、そこで落ちこぼれになり、運動でも推薦組が全国大会に毎回のようにいく学校の中で自分が人に誇れることは「面白い事を書く」くらいだった。<br><br>「これを極めてやろう。絶対に小説家として成功するんだ」。僕の人生は決まっていた。<br>しかし、エスカレーター式の中高一貫校でエスカレートできない危機に陥り(成績面で)猛勉強を余儀なくされたり、ひょんな理由から高校でも野球を続けることになったなどの、時間はみるみるなくなり、ものを書く時間完全に消滅した。<br>高校生になってからもクラブの合間を縫って書いたものの半分ほど書いて止まった小説が僕のパソコンの中ににある現状。今後も書く予定はない。ちなみに、紙に起こしたものは妹が持っているとのことだ。<br><br>現在はダンスと大学での研究とバイトで飽和状態。多分僕はもう小説家にもエッセイストにもなれないだろう。<br><br>でも、書くことが嫌いになったと問われればそれはない。でも書けといわれたら嫌だし、ただ書きたい時にのんべんだらりとやれていればいいのだ。<br>唯一の才能を無駄にして社会に出ること濃厚だが、そんな二橋が気が向いた時に書いた文章を読んでくれる人がいたら嬉しいし、誰も読んでくれなかったとしてもそれはそれでいいと思っている。<br><br>これは僕の記録である。
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<link>https://ameblo.jp/rikyua777/entry-12038620067.html</link>
<pubDate>Sun, 14 Jun 2015 03:26:59 +0900</pubDate>
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