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<title>言葉で写真を撮ろうか</title>
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<description>海津の手元には自分の写真がない。だから代わりに言葉で撮る。だって物書きだもの。</description>
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<title>お風呂と洗濯機</title>
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<![CDATA[ わたしはお風呂が好きでして、といっても家ではもっぱらシャワーで、休日に隣駅まで歩いてサウナ付きの、色んな湯槽がある温泉に行くのが習慣です。<br><br>ただ最近は風邪をよく引いてたものですから、治療がてら、家にて熱いお湯を張って浸かり、冷水を浴び、を何度か繰り返しておりました。<br><br>余談ですが、この方法、薬飲んだり、病院行くより余程效果的なんじゃないかと思っております。最後に水浴びするのがポイントなんですけれど、湯冷めしようがないことと、繰り返すうちに体調がよくなっているのが実感としてありました。<br><br>で、熱いお湯を張っている最中（さなか）、小学生の頃を思い出したんです。<br><br>家から程近い同級生の友人宅では、今となってはどこまで日本の習慣として残っているかわからないけれども、家長というか、祖父が一番風呂に浸かるわけです。祖父以外は特に順番がなかったような気もするけれど。<br><br>当時の家というのは、蛇口を捻（ひね）るとお湯が出るというわけではなく、お風呂にはボイラーがついていて、水から湯を沸かすのが一般的だったと思います。北海道は一軒家が多いから、建替えでもしてない限り、今でも多いんじゃないのかしら。ちなみに、蛇口を捻ってお湯が出ることに加えて、ボイラーの設備もついていて再加熱することを追い炊きという。<br><br>わたしもそうですが、友人もまた家では風呂掃除をしてお湯を沸かす係りで、友人宅では確か17時までに祖父が風呂に入れる準備を整えなくてはならない。それをサボると容赦なく母親のビンタが飛ぶ。友人は北海道で空手で二位取っているくらい強くて、当然打たれ強い。そいつが母親にビンタされて必死に泣いて謝るわけです。それを見たときに心中「こいつが泣くの！？」と、かなり驚いた。<br><br>ですから、それからというものその友人の家で遊ぶ時は親の言いつけであったり、風呂掃除の時間になるとどんなに遊びが盛り上がっていても、「サボれよ」なんて言う事もなかったです。で、ある時、一人で待っているのも退屈なので手伝うことにしまして、彼は浴槽、わたしは洗い場を掃除しました。<br><br>二人でやると掃除も早いですし、しょうもない話もしたりして楽しくて、ピカピカにすることによくわからない情熱が燃えたりするわけです。もうそろそろいいだろうというところで、彼の掃除した浴槽を見ると、我が家には見慣れない温度計がありました。<br><br>彼はわたしの視線に気づいたのか、「あー、温度計って合わせないと怒られるからね」と言うわけです。彼の母親の怒った怖さを知っているだけに、内心、（細か～）と思いつつも、「大変なんだなー」と言いました。<br><br>水から湯を沸かすとなると、１時間はかかるわけで、それを考えると今の世の中って蛇口を捻ればお湯が出て、10分もすれば湯船に湯を張れる訳ですから便利ですよね。びっくりしちゃう。<br><br>この友人宅で風呂掃除の手伝いをしたとき、手伝いをした手前最後まで見届けたいこともあり、そういえば温度計使って何度に合わせようとしてんだろう？という疑問を解きたいのもあって、湯加減を見に行くという友人についていったのです。<br><br>で、温度計見るとおかしいわけです、明らかに。何故なら60℃を温度計が指しているから。一般的にお風呂の温度は40℃前後なのです。「温度計使ってる意味ないじゃん、おじいちゃん煮えちゃうよ？」と、友人の母親の怖さを知りつつも、あまりのズレに堪えきれず笑いながら言うと、彼は「いや、良かった調度良い」真顔で言うわけです。<br><br>彼曰く、「俺もこんなの熱くて入れないんだけど、爺ちゃんこれじゃないと温いっていうか冷たいみたいなこというからずっとこの温度なんだ」そうな。温度計挿してるのも、この温度だと熱くて手を突っ込んで湯加減わからないから挿しているという理由からだそう。わたしはそれを聞いて人智が及ばないというか、俄（にわか）に信じ難い話だったから、「へぇ」と言うしかなかった。さすがに入ってるところ見るわけにもいかないから確かめようがないし、生物学的に細胞が耐えられるものか疑問なんですよね。何分湯船に浸かるか知らないけれども、一般的な人間なら全身火傷になってると思うんだけれどどうだろう。<br><br>今思い返してみると、爺ちゃんが一番最初に入っていたのは、古き家長制度としての意味合いでもなんでもなく、単に温度の問題だったのかもしれないな、という話。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/rin-kaitsu/entry-11445825657.html</link>
<pubDate>Thu, 10 Jan 2013 00:04:00 +0900</pubDate>
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<title>新年のご挨拶</title>
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<![CDATA[ 皆様、遅らばせながら新年明けましておめでとうございます。<br><br>暮れから年明けにかけて忙しく、ご挨拶遅くなりまして申し訳ございません。<br><br>昨年は当エッセイを読んでくださった方々を始め、コメントを寄せて頂いた方々、誠に嬉しく思っております。<br><br>エッセイを通して有意義な交流もさせて頂きましたし、また貴重な意見も寄せて頂きまして大変よい経験になりました。ありがとうございます。<br><br><br>ところで、前回のエッセイについて、内容はともかく、乱文もいいとこで反省するところが多々ありました。これを機会に他のエッセイについても、ニュアンスが変わらない程度に見直していこうと思います。どうぞご容赦くださいませ。<br><br><br>それでは本年もどうぞ宜しくお願い致します。<br><br>海津 輪<br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/rin-kaitsu/entry-11445763247.html</link>
<pubDate>Wed, 09 Jan 2013 23:32:00 +0900</pubDate>
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<title>お洒落あれこれ</title>
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<![CDATA[ 休日のとある形として、あれこれと予定を考えながらも決めきらずに家を出て、よくわからない無意識の優先順位による消去法に従って、近くの服屋を覗く。<br><br>ここ数年いわゆる金銭的な問題でセレクトショップを覗くことははなくなり、そのくせ着てる服はなんだかんだと好みに従うとブランドものになっていて、接客される鬱陶しさを含めると、自然、出入りするのはリサイクルショップになったのです。というわけでわたしの中で服屋＝リサイクルショップとなりました。<br><br>リサイクルショップは一言で言うとかなり安い。わたしの買う服だと、50～80%ＯＦＦくらいで買えるのです。もう一言言えば、いっぺんに色んなジャンルの服が見ることが出来、加えて色んな年齢層の、色んなお洒落が見ることが出来て楽しい。<br><br>わたしは値札を見ずに、値段を当てるのが好きで。流行はよくわからないけれど、素材だとか、パターンだとか、縫い方だとか、色とか見ていって、こんぐらいの値段かなー？と思って値札をめくるわけです。<br><br>いっつもそんなことしているから、結構あたるんだけれど、この時何となく、「おうおう、わたしも時代わかってんじゃーん」と心中で呟いてほくそ笑む。こんな感覚で株を買えば儲かるだろうなと邪推も混じえつつ。<br><br>で、服を選ぶ時の楽しさというのは、服を着た時の楽しさに直結していて、わたしってば単純なものだから、お気に入りの服を着ていると嬉しさというか楽しさが雰囲気に出てしまう。そして散歩をしたくなってしまうのです。<br><br>試着するのが面倒で、自分のサイズは常に把握しているし、その読みが外れて大きすぎたり、小さすぎたりすると、こういうパターン(服の形)は<br>太く、細く見えるんだなぁとか、自分の目も大したことないなぁと思ったりして、そういうのも含めて楽しいのです。<br><br>ひとつ書き加えるなら、衝動買いをして失敗することはたくさんあるし、専門店に行って見栄を張らずに色んなことを教えてもらうことはたくさんありました。<br><br>例えばスーツでどこを見るかというと、座っている時に首の襟の折返しの下を見るのです。そこに皺が寄っているとサイズが合っていません。後は肩幅が合っていないと、スーツやジャケットは重く感じますし、疲れます。いらない方向に力が掛かっているので長持ちもしないのです。<br><br>ということは、肩を軸にしてジャケット全体のバランスを見なきゃいけないわけなんですけれど、流行りの細身のスーツは正面から見たときの首からそれぞれの左右の肩までは長さを合わせていても、肩から背中を回って反対側の肩への距離を適当にしていることがちょいちょいある。後者が適当だと着心地はよくない。<br><br>そういうのは何度も袖を通してみないとわからないし、売りが過ぎる店員さんに当たるといい加減なアドバイスをされて買わされてしまう。<br><br>何かの雑誌で「着たい服を着るべき」ってのと「似合う服を着るべき」ってのがあって、言うまでもなく前者ってのは絶対的な感覚なわけで、後者が世間を気にした相対的な感覚だな、と思ってたんだけれども、後者でも、世間とか関係ないところの、絶対的といわれる個人の中でも「これ、ないわ～」てのがあることに気づいて、(端的に言えばパリコレの服で恰好いいと思いつつ、着る気は起きない感覚)、自分の感覚はどっち？と疑問に思ったりする。<br><br>そうそう、お洒落っていうとやっぱりイメージしやすいのは服や装飾だったりして、それが部屋や、車に及ぶと思うのですが、なんで言葉には気軽にお洒落とかないんだろうって思う。<br><br>そこらへんは固く文学的に言えば『文体』って話しになるんだろうけれど、あってもいいでしょう？よく使うのですから。<br><br>お洒落な言葉、会話＝BARという的外れかもしれないイメージも抜いて、もっと言葉も愛(め)でようよ～と思うわけです。<br><br>ある種(あくまである種)の一般性のところに2chてのがありまして、わたしとしてはあれのリアルタイムのやり取りを読むのは文章的にきつくて参っちゃうんですが、『まとめスレ』と呼ばれる、かい摘んで読みやすくされたものは時々読むんです。そこで、ふと、2ch用語と呼ばれる特徴的な言葉使いは言葉のお洒落というか、ファッションに近いなと思ったのです。<br><br>同音意義語を駆使した漢字の当て方とか、独特の言い回しとか、時に人格を疑うような見たくないものもありつつ、言葉をいじいじしようという感覚には共感できるものがある。<br><br>いつだったか、文学的、それも純文学的なところで、最近の流行作家は！、テーマは！、というトレンドやたらと詳しく、読書量もわたしと比較にならないくらい多いひとと話したことがあったんですけれど(読書量は尊敬しつつも、どことなく疑問を抱かせる人物)、ここ１０年の出版されたものにほとんど興味が湧かない爺の海津は、参考にはしつつも、そのひとの言うトレンドがいまいちピンとこない。<br><br>何故かといえば、今となっては古典と呼ばれる近代の文学に何かしら共感を覚えるとして、その共感は時代を超えることで普遍性を示唆するなら、それが軸にならざるを得ないというのが一つ。<br><br>テーマはいくつでもあるだろうとは思うけれども、その文章に人となりが表れるとするならば、個人の抱えるテーマ以上に真摯に書けるわけがない、というのが一つ。<br><br>それを踏まえてトレンドとは何かと考えると、既に出版化されたものの中からそれを導くっていうのはトレンドとは思えないんですよねわたしには。どうでしょう。<br><br><br>そういう意味では例え、説得力ある形として成立してはいなくても、語感や、言葉をつくろうっていう、世の中の無意識な感覚は共感出来るし、好きだなって思うのです。<br><br>例えば、顔文字は元々記号なわけだけれど、端的に感情や心情を表現する手段としては、その浸透速度と、もはや一般化されている事実も含めて秀逸だと思うし、その発想は、本質的に象形文字と何ら代わりがないくらい革命的なことだと個人的に思っているけれど、そこらへんの社会的評価は低い気がする。そう思いませんか？<br><br><br>新聞の１面とか、なんたら白書に載ってもいいくらいの出来事だと思うんだけどな。ま、わたしがこうしてここで文章で書くときに出ることはありませんけれど、と申し添えたところで筆を置く。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/rin-kaitsu/entry-11435187264.html</link>
<pubDate>Wed, 26 Dec 2012 09:30:00 +0900</pubDate>
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<title>はてさて、座り心地は如何なものか</title>
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<![CDATA[ <br> 体調が少しずつ戻ってきまして、こうして書くことも出来るようになりました。皆さんのお心遣いありがとうございます。<br><br> さて、するすると文学のお話も進めようかと思います。<br><br> わたしは、精神的にじじぃだからか知りませんが物欲に乏しいんです。<br><br> なんで物欲に乏しいかといえばそこに形があるからで、その形は他人が作ったものだから、自分の求めるものと合致しないんです。そこに妥協が生まれる。もうちょっとここがああだったらなぁというように。<br><br> そして、物は最終地点ではなくて媒体なんですよね。それを使って、満足して、こういう心地になりたい。二度手間じゃないですか。<br><br> 言葉は正確にいえば何物もいい表せません。例えば、『椅子（いす）』。『椅子』と聞いて皆さんは思い思いにイメージするでしょう。それが１００人いたら、１００通りの椅子が出来る。ですから、同じ椅子をイメージさせるのは無理なのです。特定の椅子を伝えたいのなら絶対に写真や実物を見せることには勝てません。ただ勝つ必要もなくて、そこには皆さんの想像した『椅子』があるのです。とても単純な話ですが、とてもすごいことで、とても大事なことだとわたしは思います。<br><br> 自分というものを求めれば求めるほど、自分にとって相応しい形を求めるのは自然なことではないでしょうか。その時、他人が作った形ある『物』ではなくて、自分の思うがままにイメージできる『言葉』が適当に思うのです。だからわたしは言葉を選ぶのです。<br> <br> 『本』というのは、たぶんひとの引き出し開けたり、引き出しを作ったりするものと思っています。それは、言葉と読む人の人生の断片が結びつくからで、それはそのまま読む人によって意味が変わり、或いは深くなり、広くなるということで、そこに驚きがあれば、引き出しを作るということになると思います。根本的なテーマが『ひと』であるなら、それは出会いとも呼べると思います。<br><br> わたしは『本』を書く行為が、そして『本』そのものを『ひと』或いは『会話』と捉えていて、というのはそこに共感があるならば、それは読む人の話を聞くこと、好奇心を刺激したならば、それは話すことだと思っています。共感というのは、自分という人間を理解している、と思うからこそ生まれるのであって、会話というものが理解のない、また、その意思のないところで円滑に進むとも思えません。<br><br> 本を読む行為は先の『椅子』の話のように、読む人の個々のイメージと、それに構成された世界の中で進むわけで、その世界観が強くなればなるほどに対話はデリケートになる。何故なら、漠然とした椅子であったものが、その世界の時間軸が進むにつれ、形と色彩、そして質感までが明確になっていくからです。<br><br> 『本』を読み終える頃にあなたは、あなただけの『椅子』を作り上げる。わたしがしたいことはその『椅子』と、もう一つまったく別の『椅子』を作り上げることで、その対峙なのです。そこにはたぶん、想像以上のインパクトがあって、日常というものがぐっと広がるような、一新するものがある気がする。<br><br> そこから逆算して自分の段階というものが生まれて、自分の見えている世界があって、わたしの部屋のそこら中に本が散らばっている。<br><br> これがわたしのわたしにおけるアイデンティティのようなものであったりする。<br><br> 引用すべき著者も、物語もない、文学と呼べるかもわからない話。<br><br>と、今回はこのへんで。<br><br><br><br><br><br> <br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/rin-kaitsu/entry-11423925997.html</link>
<pubDate>Mon, 10 Dec 2012 00:08:00 +0900</pubDate>
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<title>近況とあれこれ。</title>
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<![CDATA[ 先月からどうも体調を崩し気味で、ここ数年無縁だった風邪をこじらせて長引いている次第です。<br><br> 執筆のことについていえば、今書いている長編を自分なりに完成させようというのが第一で、それを過ぎれば、いよいよ投稿を中心に執筆を進めることになると思います。<br><br> 自分としては、長編を軸に短編と童話とエッセイを書けたら、特にこの世に望むものがない。<br><br> そういえば、文学談義も頭の片隅にあってこのエッセイを始めた気がするのですが、そこに触れることも大してなくて、また、その想いも様々であったりするのだろうと想像すると、なんだか引っ込み思案になってしまう。<br><br> ただ、文章を書く前に物語はまぁいいとして、その根本的なテーマについて考えるとき、やっぱり書くべき、というか言いたいことはあるわけで、それはそのまま文学談義のテーマになるのかもしれない。<br><br> そもそもわたしの中で少なからず疑問としてあることに、『誰々の影響を受けた』というのがある。<br><br> 誰にだって影響受けるだろう、というのがわたしの言い分で、上の『』は『中でも』が抜けているように思うし、それはそれとしても、やっぱり答え切れる数でもないように思うのです。<br><br> そもそも、わたしは本が好きで書き始めたわけではないから、そこが違うのかもしれない。好きになったのはここ数年のような気がするし、『本』と同等くらいに『言葉』が好きなのです。<br><br> ちょっとスピリチュアルな話といえば話なんですが、わたしは言霊というものを漠然と信じている。言葉というのは、気持ちがそこに込められてなければ効果が失われたり、また逆の意味を持ったりする。説明文や、論文には一見なさそうに見えて、そこに丁寧さや、真摯さが見て取れれば、自然と説得力が増すように思う。<br><br> わたしがそこらへんを歩いている女性に「好きです」と言ったところで、白い目を向けられるか、無視されると思うのですが、それなりに関係が進んでいて、相思相愛に近い状態であれば「好き」という言葉の意味は違うと思うのです。<br><br> そう考えると、ひとつの言葉には随分と幅があるといって差し支えなくて、そんな幅がある『言葉』が好き、というのがわたしの好きです。単純に『言葉が好き』というと、変に深読みされて美文を好む人と思われたり、する。わたしは志賀直哉は読んだことありません。<br><br> わたしが思うに、文学の真骨頂はひとの心をかくところにあって、その心が生まれる状況を書くところにあると思うのです。<br><br> 具体的な言葉が、読む人のすべては疎（おろ）か、多くに深くまで染み込まないように、逆を言えば、読む人が各々に形を変えて想像するからこそ、ひとに適ったものになると思うのです。<br><br> わたしにとって具体的な言葉は、こころというものの輪郭を求める補助に過ぎない、というところです。<br><br> 抽象から具象へのベクトルは、否がおうにも限定的なものにしてしまうけれども、俳句における言葉のひとつひとつには、限定的というよりそこに深みと広がりがあるように思うものです。<br><br> それは言葉という窓を通じて世界を窺おうというベクトルを持つからではないでしょうか。<br><br> わたしがこんなことを書くのには理由があります。文学の世界では、たぶん『わかりやすさ』というのが常に問題になっています。そのわかりやすさとは、具体的な言葉で書かれることを意味することが多いように思います。<br><br> ただ具体的な言葉で書かれた物事というのは、ほんの一部分しか書くことが出来ません。それは、結果的にある物事に関して正確に書いているとは言えないと思うのです。何よりわたしにとってはつまらないと映る。<br><br> と、ここらへんで一度文学談義を締めたいと思います。また、いずれ。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/rin-kaitsu/entry-11421831545.html</link>
<pubDate>Fri, 07 Dec 2012 02:57:00 +0900</pubDate>
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<title>47:19</title>
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<![CDATA[ <br>わたしの好きな音楽家、ピアニストにグレン・グールドというひとがいる。<br><br>クラシックを聴かれる方なら知らないひとはたぶんいないくらい有名なひとなので、わたしが説明するまでもないのだけれど、不思議なほどに親しみを感じるものだから、わたしなりに書いてみたいと思う。<br><br>グールドは、たぶんバッハをピアノ演奏することで知られている。わたしが知り合いに薦められて初めて聴いたとき、芸術性どうこうというより、アーティキュレイション（音の区切り方というか明快さ）が気になって気になって仕方がなく、どちらかというと嫌いな演奏だった。何ていうのかな、音が固いと表現するひともいるでしょう。<br><br>ちなみに、曲名はゴールドベルク変奏曲という。わたしの知人が一時期バッハのギターアレンジを熱心にしていたから、その関係でグールドを聴いていて、わたしに薦めてくれたわけだ。ただ、先に書いたような印象であったから、わたしはうまく言葉がでない。というより、ひとりで落ち着いてじっくり聴かないと、わたしはうまく反応できないというのが正しい。<br><br>ここですでに個人的に不思議なことがいくつかあるのです。この曲はだいたい50分くらいの演奏なんだけれど、この曲を聴くまで、こんな長い曲に最初から最後まで耳を傾けた記憶がないということです。<br><br>わたしの周りはいまとてもゆっくりと時間が流れていて、見方によってはとてもはやいんだけれど、だいたい何をするにも小一時間はみてるし、かかる。<br><br>グールドのこの曲は、たぶん一般的にいって長い。その時間を特に意識することなく、聴けているという事実がまず不思議。それがわたしの在り方によるものなのか、演奏の持つ力なのかは置いておく。<br><br>バッハのこの曲はもともと、チェンバロという楽器で弾かれていたもので、チェンバロというのはピアノみたいな楽器なんだけれど、音の強弱がない。ピアノにアレンジすると、ピアノは強弱がある楽器であるから、当然強弱が生まれる。音の幅も増える。<br><br>大事なことは、チェンバロだから、ピアノだからとその楽器で優劣を決めることではなくて、ピアノのない時代、強弱もタッチもない楽譜から、グールドが豊かでロマンチックな演奏を引き出したということにあると思う。<br><br>わたしは家に戻って、シャワーを浴びた後、この曲をたいてい聴いている。侵されない時間に、じっと耳を傾けている時、今までとは違い、曲から風景、光景をイメージするのではなくて、純粋に音の広がりを楽しんでいる。ピアニシモからフォルテシモ、そして彼独特のアーティキュレイションは曲そのものを強烈なインパクトで表現しているのだけれど、聴いているわたしは、それに反して完璧といっていいくらいにリラックスしている。寝る前にも必聴いていてそのうちに寝てしまう。<br><br>彼の演奏を聴いていてつくづく感じるのは、本当に音楽のことしか考えていないのだという安心感と、音がかわいらしくあって、力強くて、闊歩して、くつろいぐその表情の豊かさにあると思う。<br><br>物事に対する真摯さであるとか、素直さは音にも、文章にも表れる。<br><br>グールドはある時期からコンサートやめて、スタジオ収録のみの活動に絞った。その意図は何となく理解できる気がする。<br><br>グールドの半生に興味は特にない。演奏家は演奏に、文章家は文章に。それ以上の、それ以外の意味はまったくない。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/rin-kaitsu/entry-11405049566.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Nov 2012 18:05:00 +0900</pubDate>
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<title>散歩の話</title>
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<![CDATA[ <br>  海津は歩くことが大好きです。休みの日は大抵携帯電話をほっぽり出してそこらへんを歩いている。ウォーキングというのはあまり好きではありません。目的が健康、健康と露骨で嫌になっちゃう。<br><br>  例えば、5ｋｍ歩くとか、1時間歩くというよりも、休みの日に寛（くつろ）げる喫茶店を探していたら1時間歩いていたというほうが楽しくありませんか？<br><br>  歩く距離は変わりません。健康の為だけに歩くのは勿体無い。そして歩くことは色んなことを教えてくれるのです。<br><br>  高校生のとき、授業で使う地図を開いて自分の住む町を見ていました。北海道は大きいから14の支庁に別れていて、支庁の大きさはまちまちですけれど、小さい支庁でも東京都くらいある。わたしの住んでいた檜山支庁はその東京都くらいしかないんだけれど、檜山支庁には住んでいた当時で町が10しかない。今は合併したからもっと少ない。ですから町の一つ一つがとても広いのです。そこにたぶん5万人程度しか人が住んでいないのです。とーっても田舎です。<br><br>  わたしは高校卒業までに北海道の檜山支庁の三つの町の中で6回の引越しをしました。ですから、この三町についてはよく知っていると何となく自信があったものです。<br><br>  地図を広げてみて町の形をじっと見るていると、へんてこな形をしているななんて思うと同時に、あれ、わたしの知っている町ってこんなだっけ？と思ったのです。わたしは自分の住む町の何を知っている？知るって何だろう？<br><br>  わたしはその時、わたしの知る町は点と線でしかないなと思ったのです。例えば一ヶ月のうち、自分の行き先はいくつくらいと考えてみると意外と限られているものです。それを結ぶと細い線にしかならない。<br><br>  市街地に行くと色んなお店があるでしょうが、それでも見たいお店や看板しか目に映っていなかったりして、それ以外は雰囲気であるとか、模様として見ているだけで、空間というには歪（いびつ）で平面に近く、平面にしても線に近い。たぶん、それを「知っている」とわたしは思っていた。<br><br>  なんだかそれは違う気がして、とりあえず歩けるだけ歩いてみた。三町を跨（また）いだから、丸一日近くかかったんだけれど、途中、歩いてきた道や町並を見下ろしたなってちっちゃい山に登ってみたり、いつもは通らないような裏道を通ってみたり、疲れてそこらへんに寝転んだり、近くに川が流れていて、汗も掻いたから泳いでみたり、そうそう、もともとこの川は清流日本一の川なのです。楽しかったな。<br><br>  歩いている中で得られるものはそれだけではありません。歩くと足を使うから地面の感触もわかってくる。昼と夜じゃアスファルトの固さが違うだとか、野原の土が柔らかいのは草だけじゃなくて根が張って土がほぐれているからだとか、緩んでいるのは近くに川や水溜まりがあるからだとか、粘度質でここは固いとか、草の種類で感触が違うとか色々わかる。裸足で歩くとまた違うし。<br><br>  わたしのポリシーなんだけれど、いかにも歩く気まんまんですみたいな格好は嫌で、ちょっと小綺麗なくらいなんだけれど、泥まみれも気にしない。そしてどれだけ歩こうが汚れようがあくまで散歩です。<br><br>  歩いていると考えごとは進むし、進むから考えごとをするときは歩く。ずんずんと歩けばそのうちに金（きん）になれるかもしれない。成金ていうてしょう？<br><br>  町中だと夜には夕飯の匂いがあちこちからして、焼魚や炒めもの、これは醤油で味付けだな、あれはソースだな、鍋を反す音、廻す音、そんなことがわかる。<br><br>  ピアノのタッチを聴いてどう弾いているかわかるように、足音は歩き方を教えてくれるし、疲れていたり、ウキウキしていたり、だるかったり、すれ違ってひとをよけたりすると、リズムもかわる。<br><br>  そういえばベースを弾く、とある大学の先輩が裏取りの練習に、ひとの歩くリズムの裏で歩くことをしているとかいってた。試しにやってみると、慣れるまでは鳩みたいな歩き方になるし、慣れたら慣れたでスムース過ぎて気持ち悪い。<br><br>  森の中を歩いていると、澄んだ空気を味わえるんだけれど、せっかくだから『澄んだ空気』について考えてみたりして、それが水分を含んで冷えた空気のことなのかと思ってみたり、土や木々、草花の香りが織り混じっていたり、ちょっと歩けばそのバランスが違ったり、口の形を変えた呼吸をすれば味も、口の中や喉を通る感覚も違ったりと、澄んだ空気について考えてみても様々。<br><br>  史跡があって、新旧の家々があって、そこに流行り廃（すた）り、世代があって、営みがある。そこに記されない歴史や文化がある。<br><br>  散歩をするという行為は、能動的なんだけれど、そこで五感でもって感じたものは教えてもらったという気持ちがして能動的なようで受動的だ。それをわたしは勝手に『接（ふ）れる』と充てて呼んでいる。ひとに対してもそう。ひとに、接れる。<br><br>  町を知る、『知る』ってことはたぶんそういうことだ。<br><br><br> 書を捨てて町へ、野へ、山へ出て、遊ぶ。家へ帰ればたくさんのお土産が自分の中にある。どうですか、散歩って楽しいでしょう？<br><br><br>という話。<br><br> <br><br> <br><br><br> <br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/rin-kaitsu/entry-11354969186.html</link>
<pubDate>Sat, 15 Sep 2012 01:03:00 +0900</pubDate>
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<title>音のない干満</title>
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<![CDATA[ <p>　</p><p>　近頃では、電子書籍も浸透してきたのか、電車に乗っているとタブレット端末をちらほら見かけます。メリットはあるんでしょうが、いまいち魅力的に感じない海津です。</p><br><br><br><p>　というのも、わたしは思うことあればメモを書き込んでいくのです。勿体無いかもと思いつつ、その瞬間は二度とないものですから、やっぱり書き込む。後から読み返すと、自分ながら新鮮な気持ちになるんです。ああ、この時はこんなこと思ったんだと。</p><br><br><br><p>　鞄には数冊の文庫本を入れているんですが、カバーも特に着けないし、しおりではなく表紙の折り返しで挟むものですから、一冊読み終える頃には、本がボロボロになっていまして、表紙もどっかにいって、剥き出しの赤裸々な姿になっています。わたしは読書に敬意を込めて『一戦交える』と呼ぶ。読書は闘いなのです。</p><br><br><br><p>　季節は朝な夕なに、秋を感じるところで、木々の葉が色づく小径（こみち）を本を片手に歩くのを想像すれば、腰を掛けるに適当なところを探すという体で、辺りを散策するもよし、乾いた野原に寝転がるのもよし、本を開く前から、本を開いたような心持になる。</p><br><br><br><p>　そんな時の流れはゆるりとしていて、ひたひたと微睡（まどろ）むうちに日は暮れて、また、秋だな、と染々思うんでしょう。</p><br><br><br><p>　読書の秋と申しますけれども、一年を通してなんやかやと本を読んでいると、秋という季節は思い返すといイメージがあって、冬を迎える前に立ち止まってみたくなる。感覚的に、たぶん、冬がわたしには始まりの季節で、経験的にも大きな動きがあるんです。</p><br><br><br><p>　そう考えると、冬に備えるという意味合いから、秋に多くを取り込むということで読書の秋なんでしょうかね。それにしては随分と穏やかな季節に思うところですが。</p><br><br><br><p>　歳を重ねる毎に時間の流れは早くなり、それと同時にうねりみたいなものを感じていて、中でも秋は音のない干満のように思えてならない。意識を鋭敏に保っていないと、色んなものを見落とすような。得るべきもの、というと厳（いか）ついんですが、例えば、落ち葉に埋もれた渓流の水を両手で掬うとして、そこに何もないと、流れに戻した後、見るべきは水に溶け込んだ落ち葉のいろであったことに気づく、というような。そうしたものが其処彼処（そこかしこ）にあって、そうしたものは逸（はや）る気持ちを留めて立ち止まって</p><p>みなければ気づかない気がする。</p><br><br><br><p>　去年の暮れから濫読はやめにした。多くを急いて読むことに疑問を感じた。気づいたら外書の割合が半数をこえた。</p><br><br><br><p>　わたしの好きなあるひとがいっていたけれど、季節は来るものか、迎えるものか、追うものか。</p><br><p>そうして、わたしは迎える半ばのところに秋が来た。</p><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Tue, 04 Sep 2012 01:08:36 +0900</pubDate>
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<title>お久しぶりだしおにぎり</title>
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<![CDATA[ どうもおひさしぶりです。<br><br> 先日、流行に目覚めて、スマートフォンに携帯を換えまして、波に乗った海津です。<br><br> 流行に疎いといったら海津、海津といったら流行に疎い、は皆さんの知るところですが、実は3台目なんですね。意外ですか？ははは。<br><br> 定額制の映像系のアブリがありまして、映画に飢えていた海津は、お目当ての映画が配信されていなかった結果、『北斗の拳』に辿りつき、勢いで夜通し見ていたんです、マックス-ウェーバーの『社会主義』を片手に。<br><br> 懐しいクリスタルキングに哀愁を感じながら、アニメを見ていて気づいたんですが、やたらと日本のアニメは展開を引っ張りますね。焦らしに焦らされて、つい本に手が伸びる。<br><br> 世紀末な話に社会主義っていうのは、なんだか生々しさがあるのですが、マックス-ウェーバー自体は資本主義な思想なはずなので、この本では批判なわけです。<br><br> 『北斗の拳』をよく知らない人の為に簡単に説明するとですね、現代？の水戸黄門、もといモヒカンてこんなに種類があるんだ、へーって話です。漫画をご覧になった方はわかるかと思うんですが、作画を担当している原哲夫さんの登場人物はコマ割りと気分で縮尺が変わるのも特徴の一つです。主に敵キャラと馬ですが一人の身長について大体2～5ｍの幅があります。物語のイメージが湧かない？あ、そう。わたし、優しくないんです。<br><br> で、全体を通じて屈折した愛が展開されていきます。人間愛と呼べなくもないですが、拳で語り合うことしか出来ない不器用な男達を常としていますから、やっぱり根本的な問題が孕んでいるのは否めない。愛すべき見切り発車？なストーリー展開がそもそもの原因かもしれません。<br><br> 主人公であるケンシロウは非常に分かり易い思想の持ち主で、悪に対して更生の余地を与えません。<br><br>「お前に今日を生きる資格はない」<br><br>と、はっきり言い切り、躊躇いなく命を断ちます。個性の尊重など存在しません。人が人を裁くわけです。ワイドショーのコメンテーターが見たらキーキー言う事こと受け合いです。<br><br> 中でも、海津のお気に入りのセリフに、<br><br>「弟よ、遊ぼうぞ～」<br><br>というのがあります。筋肉質で巨躯（きょく）の大の大人が二人で一体何をして遊ぶのかが気になって気になって仕方がないわけです。<br><br> この「遊ぶ」について適当な意味を求めることは甚（はなは）だ文学的じゃないですか。非常に趣がある。ですが、『北斗の拳』そのものにはありません。<br><br> <br> そんなこんなで、エッセイで書くことはたくさんあったにも拘わらず夢中になっておりました。<br><br> で、おにぎりついてなんですが、厄祓いとして出すのが、「鬼切」ということからおにぎり、お祝い事など、縁結びとして出すのが「おむすび」といいます。一般的なのはおにぎりという感じしますけれども、こんな意味だったりするのです。<br><br> といいますか、コンビニではなくてたまに自分でおにぎり握って食べると美味しいよね、だって屈折していない愛がこもってるもんね！<br><br><br>っていう話。<br><br><br>安心してエッセイごとお召し上がりくださいませ。<br><br><br><br><br><br> <br><br><br><br><br> <br> <br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/rin-kaitsu/entry-11342158514.html</link>
<pubDate>Fri, 31 Aug 2012 03:04:00 +0900</pubDate>
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<title>禿げと恋</title>
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<![CDATA[ <br>　BOOK・OFFに本を買いに行くついでに、漫画コーナーに立ち寄って少女漫画を読んでいてつくづく思うのです。わたしゃベタに弱いんだな、と。<br><br>　そういえば他人ののろけ話も楽しく聞けますし、寧ろ自分が間に入り込んで、三角関係に持ち込むことで、ぐっと展開が盛り上がり、ハラハラドキドキするのでは？とさえ思う。<br><br>「ごめん、あいつのこと好きかもしんない」<br><br>「！？」<br><br>続く。みたいな。<br><br>　制服のパンツをやや腰穿きしてですよ。シャツの第二ボタンまで空けて、ネクタイをラフに締める。帯刀が許されているなら、こんな奴ら即切りますけどね。<br><br><br>　で、思い出したんですけれど、大学のいつだったか、冬になると坊主頭にするという習慣をとある先輩に教わりました。<br><br>　コタツに入って他愛のない話をしながらおでんをつついていると、<br><br><br>「にゅ～ん」<br><br><br>と、いきなり頭にバリカン入るんです。最初は何が起こったかよくわからんのです。襟足から側頭部にかけて弧を描いてにゅるっと。髪、ぱさ～。<br><br><br>　この時歴史は動くわけです。人生の岐路は突然やってくるのです。つまる、つまらないの道です。<br><br><br>「寒っ！」<br><br>　髪がなくなることによるよって、風邪を引きました。<br><br><br>「そうか、じゃあおでん食え。暖まる。この季節は油断大敵ですからな」<br><br><br>　頭に弧のラインが一本入った絵はシュールです。先輩はといえば、おでん食いながらバリカンで髭そっていて、そのまま勢いでジョリジョリ頭に入るわけです。<br><br>「お？」<br><br>　お？じゃないよ。まるで他人事のように嘯(うそぶ)く。で、このボウズ頭のことを禿げと呼んでいて、それがいつの間にか周囲に広まって禿げと呼ばれる。<br><br>　なんか禿げになるとね、恋したくなるんです。でも、モテないんですよ。だって、禿げだから。無い物ねだりですわね。<br><br>　しばらくの間、禿げ＝モテないの図式は頑(かたく)なに守られる。髪があるだけで、<br><br>「なんだお前、あれか、リア充か？モテるんだろう？」<br><br>呼ばわり。で、<br><br>「別にモテないですよ」<br><br>というと、<br><br>「だろう？だってお前禿げてないもん」<br><br><br>　生殺与奪は常に禿げにあって、禿げを中心に世界は回る。禿げには常にアドバンテージがあるわけです。失うものはもう何もないわけですから。自然、心のゆとりが生まれてひとに優しくなれる。禿げは優しい。そして実らない恋をし続ける。<br><br><br>　春になると、若草がそよそよと風に揺れるように、頭が豊かなことになる。<br><br><br>「禿げはやっぱりモテんなぁ…」<br><br><br>といいつつ、頭をさわる。周囲の目も物悲しさに満ちている。一つの季節が終わりを告げて、また新たな季節が始まる。<br><br><br>　少女漫画のコーナーに行くと、よく禿げの群れがいるでしょう？それは恋を託して、また求めてもいるから。<br><br><br><br>　今年の冬？しないよ、モテないもん。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/rin-kaitsu/entry-11335536620.html</link>
<pubDate>Thu, 23 Aug 2012 09:35:46 +0900</pubDate>
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