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<title>イスラーム哲学</title>
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<description>イスラーム哲学(およびアラビア哲学)について簡単に説明。イスラーム哲学の起源、特徴、その他もろもろのイスラーム哲学の諸派について簡単に説明しています。</description>
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<title>その後のイスラーム哲学</title>
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<![CDATA[ イブン・ルシュドの死とともに「アラブ逍遥学派」と呼ばれるイスラーム哲学の一学派が終わりを迎え、西方イスラム世界、すなわちアンダルスや北アフリカにおける哲学的活動は著しく減退した。一方で東方の国々、特にイランやインドでは哲学的活動がずっと長く存続した。伝統的な考え方に反して、ディミトリ・グータスとスタンフォード哲学百科事典の考えでは、11世紀から14世紀にかけての時代はアラブ哲学・イスラーム哲学の真の「黄金時代」である。この時代はガザーリーが論理学をマドラサの研究計画や続いて起こったイブン・スィーナー哲学の興隆に統合したことに始まる[1]。<br>西ヨーロッパ(スペインとポルトガル)において政治的力がムスリムからクリスチャンのコントロール下に移ったため、当然西ヨーロッパではムスリムは哲学を行わなくなった。このことによって、イスラム世界における「西方」と「東方」の交流が幾分か減少することにもなった。オスマン帝国の学者と特に今日のイランやインドの領域にあったムスリム王国に生きていた学者、例えばシャー・ワリーウッラーやアフマド・シリンディといった人々の研究からわかることなのだが、「東方」のムスリムは哲学を続けた。この事実はイスラーム(あるいはアラブ)哲学を研究していた前近代の歴史家の注意から外れていた。また、論理学は近現代までマドラサで教え続けられた。<br>イブン・ルシュド以降、イスラム哲学後期の多くの学派が興隆した。ここではイブン・アル=アラビー及びモッラー・サドラーが起こした学派などのごく少数の学派に言及するにとどめる。しかしこれらの新しい学派は現在もイスラム世界に生きているのでとくに重要である。その内でも最も重要なのは:<br><br>・照明学派 (Hikmat al-Ishraq)<br>・超越論的神智学 (Hikmat Muta'aliah)<br>・スーフィー哲学<br>・伝統主義派<br><br>○照明学派<br>照明学派は12世紀にシャハブ・アル=ディン・スフラワルディーが創始したイスラーム哲学の学派。この学派はイブン・スィーナーの哲学と古代のペルシア哲学を、スフラワルディーの多くの新しい革命的な思想と組み合わせたものである。この学派はネオプラトニズムの影響を受けてきたとされる。<br>イスラーム哲学の論理学では、論理哲学の思索の歴史の中で重要な革新である「確実的必要性」という概念を発展させたシャハブ・アル=ディン・スフラワルディーが始めた照明学派がギリシア論理学に対する包括的な論駁を行った[2]。<br><br>○超越論的神智学<br>超越論的神智学は17世紀にモッラー・サドラーが起こしたイスラーム哲学の学派。彼の哲学と存在論のイスラーム哲学における重要性は、後のマルティン・ハイデガーの哲学の20世紀西洋哲学における重要性とちょうど同じだとされる。モッラー・サドラーはイスラーム哲学において、「真実の本性を扱ううえでの新しい哲学的識見」を獲得し、「本質主義から実存主義への大転換」を成し遂げた。これは西洋哲学で同じことが起こる数世紀前のことである[3]。<br>「本質は実存に先立つ」という考えはシャハブ・アル=ディン・スフラワルディー[4] と彼の学派照明学派どころではなくイブン・スィーナー[5]と彼の学派アヴィケニズムにまで遡る。対する「実存は本質に先立つ」という考えはイブン・ルシュド[5]やモッラー・サドラー[6]の著書中でこの考えに対する応答として発展させられており、実存主義の鍵となる根本的な概念である。<br>モッラー・サドラーによれば、「実存は本質に先立ち、そして本質があるためには実存が先立って存在しなければならないので、実存は原理である。」 このことは第一にモッラー・サドラーの超越論的神智学の中核に据えられた主張である。サイード・ジャラル・アシュティヤーニーは後にモッラー・サドラーの思想を要約して以下のように述べた:[7]<br><br>　「実存は本質を有するなら引き起こされて純粋な実存でなければならない[…]それゆえ実存は必要な存在である。」<br><br>存在論(あるいは存在神学)の、つまりハイデガーの思想や形而上学史批判による比較を経由した研究の現象学的方法の術語においてイスラーム哲学者(および神学者)に関する思想の術語でより繊細なアプローチが必要とされた[8]。<br><br>○論理学<br>ガザーリーの論理学と11世紀のマドラサの学習計画との首尾よくいった統合によって、論理学、主にイブン・スィーナーの論理学を重視した活動が盛んになった[1]。<br>イブン・ハズム(994年-1064年)は著書『論理学の射程』で知識の源泉としての知覚の重要性を強調した[2]。 ガザーリー (アルガゼル)(1058年?1111年)はカラームにおいてイブン・スィーナー論理学を用い、神学における論理学の使用に対して重要な影響を及ぼした[9]。<br>ファクル・アル=ディン・アル=ラジ・アモリ (b. 1149)はアリストテレスの「三段論法第一格」を批判してある種の帰納論理を構築した。これは後にジョン・スチュアート・ミル(1806年?1873年)が発展させた帰納論理を予示するものである。イスラーム哲学の論理学では、論理哲学の思索の歴史の中で重要な革新である「確実的必要性」という概念を発展させたシャハブ・アル=ディン・スフラワルディーが始めた照明学派がギリシア論理学に対する包括的な論駁を行った[2]。イブン・タイミーヤ(1263年-1328年)がギリシア論理学に対するもう一つの包括的な論駁を行っている。『ギリシア論理学者に対する論駁』(Ar-Radd 'ala al-Mantiqiyyin)において三段論法に関して、妥当性には異論はないが有用性がないと主張して[10]、帰納的推論の方を好んでいる[2]。<br><br>○歴史哲学<br>歴史学を主題とする最初の研究と、歴史学研究法に対する最初の批判的考察はアラブ人でアシュアリー派の博学者イブン・ハルドゥーン(1332年-1406年)の作品に現れる。彼は、特に『歴史序説』(「プロレゴメナ Prolegomena」とラテン語訳される)と『助言の書』(Kitab al-Ibar)を書いた[11]ことで、歴史学、文化史[12]、歴史哲学の父とされる。また、彼の『歴史序説』によって歴史上の主権国家、コミュニケーション、プロパガンダ、組織的バイアスの研究の基礎が築かれ[13]ていて、彼は、文明の盛衰を論じている。<br>フランツ・ローゼンタールは著書『ムスリム歴史学の歴史』で以下のように述べている:<br><br>　「ムスリム歴史学は歴史的にイスラーム圏の学問一般の発展と密接に結び付いてきた。イスラーム圏の教育における歴史的知識の地位は歴史に関する文献の知的レベルに決定的な影響を及ぼしてきた[…]ムスリムは歴史の社会学的理解と歴史学の体系化において歴史の文献の中で一定の成果を上げてきた。近代歴史学的文献の発展はそれによって17世紀以降の西洋の歴史家が異文化の目を通して世界の広い領域を見ることができるようになったところのムスリムの著作の利用を通じて速度と内容において相当に進んできた。間接的にムスリム歴史学によってある程度今日の歴史思想が形作られた。」[14]<br><br>○社会哲学<br>最も有名な社会哲学者はアシュアリー派の博学者イブン・ハルドゥーン(1332年-1406年)で、彼は北アフリカでは最後の有名なイスラーム哲学者である。彼の『歴史序説』では、構造的結束性や社会的軋轢の理論を定式化する上で先駆的な社会哲学の理論が発展させられている。<br>また、『歴史序説』は7巻からなら普遍史の分析の序論でもある。彼は社会学、歴史学、歴史哲学の話題を初めて詳細に論じたため、「社会学の父」、「歴史学の父」、そして「歴史哲学の父」である。<br><br>○現代イスラーム哲学<br>多くの西洋人が思っているのとは逆に、シャハブ・アル=ディン・スフラワルディーの「Hikmat al-Ishraq(照明哲学)」や、その後のモッラー・サドラーの「Hikmat-e-Mota'aliye(超越論的神智学)」といった黄金時代を過ぎて今日でもなおイスラーム哲学は非常に活発である。イスラーム哲学を概説する上でもう一人避けては通れないのはムハンマド・イクバールである。彼は、20世紀初期のインド亜大陸のムスリムたちの間でイスラーム哲学を再形成・再生した[1]。彼はウルドゥー語とペルシア語で詩的作品を書いている一方で、『イスラームにおける宗教的思考の再構築(en:The Reconstruction of Religious Thought in Islam [2])』がイスラーム圏における近代政治哲学の里程標となった<br><br>現代のイスラーム圏では、「ヒクマ」が引き続き盛んに教えられている。<br><br>・アヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー、イラン・イスラム共和国の指導者で、ヒクマ・ウル・ムタリーヤ学派の著名な講師。イスラーム革命が勝利する以前には、彼はゴムの神学校で哲学をフォーマルに教える数少ない講師のうちの一人であった。<br>・アブドッラー・ジャヴァディ=アモリ、大アヤトッラーで、十二イマーム派のマルジャである。彼はイランの保守派の政治家で、ゴムのハウザの傑出したウラマーの一人である<br>・ムハンマド・ホサイン・タバータバーイー、二十七巻からなるクルアーンの注釈書『アル・ミザン』など膨大な量の著書の作者<br>・ハムカ、つまりハジ・アブドゥル・マリク・カリーム・アミールッラーはインドネシアの著述家で、ウラマー政治家、哲学的思想家、そして『ターフィル・アル・アザル』の作者である。彼はインドネシアムフティ議会(MUI)の議長である。ムスリムにクリスマスを祝わないようにという彼のファトワがスハルト政権から批判された際に辞職した。自国で尊敬されているだけではなく、彼はマレーシアやシンガポールでも高く評価されている。<br>・モルテザ・モタッハリ、アッ=タバータバーイーの第一の弟子、イラン・イスラム革命の殉教者;そして膨大な量の本の著者(彼の著作集は全集ではないのに25巻を数える)。彼は師のアッ=タバータバーイーやホメイニーと同じく、ヒクマ・ウル・ムタリーヤ学派に属する。<br>・サイード・アブル・アラー・モードゥーディ、20世紀に近代イスラーム政治思想を作り上げたとされる人物で、「ジャマート・エ・イスラミ」を創設し、イスラームの知的伝統を復活させようとして生涯を送った。<br>・イスラー・アフメド(1932年4月26日 ? 2010年4月14日)はパキスタンのウラマー[1]中東、西ヨーロッパ、北アメリカの南アジアディアスポラの間で、特に南アジアで付き従う。[2]ヒッサール(今日のハリャナ)で政府役人の第二子として生まれ、ジャマート・エ・イスラミの分派タンジート・エ・イスラミを創始した。イスラームとクルアーンの偉大な研究者。<br>・モハンマド・ハミールッラー(1908年2月9日 - 2002年12月17日)は学者、ウラマー、著述家、スーフィーの一群に属する。彼は世界的な名声を持つウラマーにしてインドの国際法学者で、ハディースの研究、クルアーンの翻訳、イスラーム黄金時代の研究の発展、それに西方でのイスラーム教育の普及に功績がある。<br>・ファズルール・ラフマーンはシカゴ大学のイスラーム思想の教授<br>・ワヒード・ハシム インドネシア宗教省の初代長官。インドネシア・ナフドワトゥール・ウラマーの元頭領。彼の最もよく知られた思想はマドラサのカリキュラムの改革である。<br>・セイード・ホサイン・ナスル<br>・イムラン・ナザル・ホセイン- 『コーランのイェルサレム』の著者<br>・ジャヴェド・アフマド・ガミディはよく知られたパキスタンのウラマー、釈義家、教育者。かつてはジャマート・エ・イスラミのメンバーで、自身の師アーミーン・アフサーン・イスラーヒーの思想を展開している。<br>・マレーシアのサイド・ムハンマド・ナキブ・アル=アッタースは傑出した形而上学思想家。<br>・南東ヨーロッパで懐疑主義的な「アル・イブン・テオドラキス」の教えがかなりの支持を得ている。<br><br>参照元：ウィキペディア「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%93%B2%E5%AD%A6" target="_blank">イスラーム哲学</a>」<br><br>[PR]<a href="http://www.chrisandsheryl.com/category/%E9%BB%92%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B1-%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%8A%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%A0" target="_blank">黒子のバスケのカラビナチャーム</a>
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<pubDate>Sat, 23 Nov 2013 16:38:10 +0900</pubDate>
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<title>西方イスラーム哲学 - イブン・ルシュド(アヴェロエス)</title>
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<![CDATA[ イブン・トファイルの後を受けて登場するのが、アヴェロエスことイブン・ルシュドである。彼の名は、イスラム屈指の大哲学者として西洋哲学史においてはイブン・スィーナーと並んで、必出の思想家である。イブン・ルシュドは1126年に、コルドバで生まれ、法学・哲学・医学で名をとどろかしていた。彼は、イブン・トファイルが引退したのを受け、王朝の主侍医として仕えた。カリフは、イブン・ルシュドの哲学に対する知識の優秀さを認め、カリフの保護の下、アリストテレスを註釈するように言われた。このアリストテレスの注釈の業績は非常に優れたものとして、後の西洋哲学に多大な影響を与えた。<br>イブン・ルシュドは、イブン・スィーナーのネオプラトニズム的なアリストテレスを批判し、あくまで純粋な姿のアリストテレスの哲学を見つめようと努めた。この姿勢は後の世にイブン・ルシュドは、「アリストテレスを神格化した人物」とさえ評されるほどでもあった。無論、アリストテレスの注釈のみならず、彼の独自の思想は、多くが後の西洋哲学史に論争を惹き起こした宇宙無始論や、神の個物知の問題、知性単一説、二重真理説などか有名である。<br>項目の性質上いずれも詳細は割愛するが、西洋哲学者で後の世で彼の反駁者でもあるトマス・アクィナスまで持ち越されたこの宇宙無始論は、宇宙創造の永遠性は認めるものの、時間的な始まりを否定したものである。この思想は神学上では、矛盾した考えであるが、イブン・ルシュドによると神学者たちは世界の創造をある一点でのみ考えているが、そこが誤謬であり、世界は常に創造されているものであると、イブン・ルシュドは宇宙(世界)が絶え間なく変動する中に一つの本源的な秩序(つまり真理)を見ていた。これが、イブン・ルシュドの思想のバックボーンにもなっている。<br>これにより、独特の知性論、即ち知性単一説を説く。すなわち、知性とは個々人により別の知性を持ち合わせているのではなく、あるのはただ一つ同一で普遍的知性というものであり、これが個々人の間で顕現化したものである。という考え方である。個々人に対する顕現の差はあるが、この知性が向かっていくものは一であるという。人は、個々人の知性が完全に最高度の知性(イスラーム哲学用語で言えば「能動的知性」)と合一したとき、現世において最高の幸福が訪れるという。イブン・ルシュドのこの独特な思想は、アリストテレスの解釈によるものとされているが、ネオプラトニズム的な流出論もみて取れる。<br>これに関連して、イブン・ルシュドは、人間の三段階説を唱える。この能動的知性の働きに応じて、最下級の大衆、中間に立つ神学者、そして最上位の哲学者である。彼によれば、中間の神学者のみが「病人」であり、みだりに聖典を解釈し、間違った解釈を施しこれを絶対的な真理として、民衆に与えている。しかし、これによって宗教を不必要で害悪なものとして捉えることはできない。民衆はこの宗教を通じて、哲学者が自らが直観する真理を、近づきやすい感覚的なものに置き換えられて接することができるからである。しかし、哲学者にはすでに直視し体得することができるため、必要のないものであるという。これは、イブン・ルシュドによれば、哲学と宗教が違うものを意味しているのではない。哲学者は、聖典の言葉の矛盾をどこまでも追究し、解釈していくのが聖なる努めであって、一方一般民衆は哲学者と違い知性が不十分なのであるから、知性ではなく信仰という能力によってこの聖典に近づかなくてはならない。民衆は、神学者の誤った解釈に惑わされてはならないという。従って、究極には、哲学と宗教とは一致しなくてはならないと説く。このような考えは、後の世にイブン・ルシュドに対して少なからぬ無神論的な評価が下されることにもなるが、これは前のイブン・トファイルの思想にも見られていたことでもある。<br>この知性論と関連して、かの二重真理説の諸端になる説が展開された。これは哲学と宗教の協調させようという試みで、相矛盾する二つの命題が、一方が哲学の原理で真理であれば、真理であり、他方も宗教的信条によって真理であれば、真理であるという立場である。しかし、このような立場は、前に触れた人間の三段階説を見てもわかるとおり、結果的に哲学的真理の追求をする立場である哲学が優位にたつようにできており、かえって神学サイドから、批判をあびた。この二重真理説は、ラテン・アヴェロイズムの信奉者によってキリスト教世界にもたらされ、度重なる異端宣告を受けるに到った。<br>イブン・ルシュドは、1198年にモロッコで没した。彼の後、イスラーム世界においてこの理性主義的な哲学を受けつぐものは現れず、イスラム世界によるイベリア半島支配もこの後すぐに終わり、ギリシア哲学の移入に始まった、イスラーム哲学の世界は、イブン・ルシュドの死によって、終焉したと見るのが一般的である。<br><br>参照元：ウィキペディア「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%93%B2%E5%AD%A6" target="_blank">イスラーム哲学</a>」
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<link>https://ameblo.jp/rm8e23d3/entry-11710683826.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Nov 2013 16:37:46 +0900</pubDate>
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<title>西方イスラーム哲学 - イブン・トファイル</title>
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<![CDATA[ イブン・トファイルは、イブン・バーッジャの門下生であったと言われている。やや彼の経歴に不明瞭なところがあるが、グラナダ近郊の生まれといわれている。彼は、ムワッヒド朝の侍医としても、腕を振るっていた。彼の哲学思想は、代表作である『ヤクザーンの子ハイイ』に集約されている。これは、哲学的な物語作品であり、いわゆる哲学書とは一線を画すものである。ヤクザーンとは、目覚めている者を意味し、すなわち神のことである。ハイイとは、生きている者を意味し、すなわち理性のことである。つまり、このタイトルの書によって哲学界全体を表現しようとする試みなのである。<br>内容の詳細は省略するが、トファイルはこの著作によって、大多数の人間が真理を知らずに暮らしていること、また知ろうとしないで暮らしているということを指摘している。人々は信仰によって救われようとするが、これでは、現世的で低級な部分にしかと留まることができず、真理に到達することはできない。真理を知るという行為は、哲学でしかすることができない。宗教ではこれを象徴的に暗示的に示すことかできず、単なる一手段に過ぎないという。<br>この様に哲学を宗教の上に明確においたトファイルの思想は、当時の宗教家からは反感を買い、哲学に対して注意の目で持って見られてしまった。しかし、トファイルの弟子であり、イスラム屈指の大哲学者イブン・ルシュドは、この文学的な小説作品を理論化することに努めた人物でもある(後述)。イブン・トファイル自身は、哲学と神学を熱愛していた時のかカリフ、アブー・ヤアクーブの寵愛を受けながら、穏健に生涯を送ることができ、1185年に高齢で没した。<br><br>参照元：ウィキペディア「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%93%B2%E5%AD%A6" target="_blank">イスラーム哲学</a>」
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<link>https://ameblo.jp/rm8e23d3/entry-11710683564.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Nov 2013 16:37:14 +0900</pubDate>
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<title>西方イスラーム哲学 - イブン・バーッジャ</title>
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<![CDATA[ 西方イスラーム哲学は、イブン・バーッジャ(?-1138年)に始まる。ヨーロッパではラテン語化されたアヴェンパーケという名で知られている。彼は、王朝の宰相を務めていた政治家でもあった。彼は、行政に関することでもあるが、仕事のために様々な知識を持ち合わせていた。このような政治家としてのプロフィールも反映して、彼は、ガザーリーのような神秘主義的な傾向を嫌った。<br>彼は、神秘家が求めるような感性的な能力ではなく、理性的な能力(知性)でこそハック(真理)が捉えられると考えていた。イブン・バーッジャによると、宇宙を構成するものの最下位の存在は、感覚的なもので占められており、この存在に知性は存在しない。知性としての人間の存在はこれより高度なものである。そしてより高度なものは、感性的な要素がなくなり、純粋に知性的な存在になるという。人間の知性の場合、感覚的なものはなくなるが、さらに上位に能動的な知性があり、人間の知性が最高位ではないという。最上位の存在、つまり人間よりもさらに上位であるが、これは最高に純粋な能動的な知性を持ち合わせた存在であり、この存在は、完全に幸福な存在であるという。この完全な知性との合一こそ、哲学が求めるものに他ならないのであり、この知性として存在(真理あるいは神)一になる時、最高の幸福が訪れるという。<br>このような、人間を含めたあらゆる存在者の中で、永遠的な能動的知性を最高の能力におき、人類の知性(これは個々の存在に還元されるものではなく、知性は人類全体に一なるものとして存在する考えていた)は、この能動的知性の流出に他ならないという考え方は、「知性唯一説」という形で後の中世スコラ哲学で大論争となった。これは後に述べるアヴェロエスの考えが基になっているが、起源はイブン・バーッジャといわれている。このよう知性的な神秘主義は、感覚的なものを排した傾向が認められ、ガザーリーのようなスーフィズムとは明らかに異質なものであった。<br>また前述のように、この哲学者は政治家としての顔も持っており、俗世の仕事で一杯であり、彼の希望でもあった哲学の仕事に打ち込むことがなかなかできなかった。それも反映して彼は、もっとも理性的な存在としての人間は、俗世から離れて一人孤独な道を歩まねばならないと考えていた。彼の代表作も「孤独者の嚮導」というタイトルである。この俗世(社会)と個人の関係は、次に現れるイブン・トファイルによって明確に意識されている。<br><br>参照元：ウィキペディア「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%93%B2%E5%AD%A6" target="_blank">イスラーム哲学</a>」
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<pubDate>Sat, 23 Nov 2013 16:36:50 +0900</pubDate>
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<title>東方イスラーム哲学 - その他活躍した哲学者たち(東方イスラーム)</title>
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<![CDATA[ 翻訳時代には、イスラム教徒以外にも、翻訳活動に従事していた人物が多い。また同時代にキンディーのほかにイブン=ザカリヤー・ラーズィーがいる。また、ファーラービーの弟子には、アーミリー、ヤハヤー・イブン=アディーなどがいる。イブン=スィーナーの弟子には、イブン=マルズバーンやアブー=バラカート・バクダーディーなど師の継承をはかった人物がいる。<br><br>参照元：ウィキペディア「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%93%B2%E5%AD%A6" target="_blank">イスラーム哲学</a>」
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<link>https://ameblo.jp/rm8e23d3/entry-11710683113.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Nov 2013 16:36:17 +0900</pubDate>
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<title>東方イスラーム哲学 - ガザーリーと哲学批判</title>
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<![CDATA[ キンディーからアヴィセンナまで来て、神学者ガザーリー(1058年 - 1111年)の出現で東方イスラーム哲学は大きな変節点を迎える。バグダードのニザーミーヤ学院で教鞭をとっていたガザーリーは、神学者ではあったが、哲学的思惟方法にも長けており、本来の真理とは何か考えていたと同時に、アヴィセンナを代表とする新プラトン的アリストテレスのイスラーム哲学は、真理の形骸のみを知り、生きた真理を捉えようとしないと彼は考えた。そして、哲学者たちは、神の全知の否定や個物知などクルアーンの教えに反する内容を説いていたがこれを宗教的な立場ではなく、哲学的形而上学的な立場から反駁しようとした。著『哲学者の自己矛盾(あるいは自滅)』はその集大成である。<br>イスラム哲学者たちは、アリストテレスの影響で、世界は時間的には無限で、クルアーンのように神の創世という始原を求めるのは矛盾として否定したが、ガザーリーは、神の創世というは時間的な問題ではなく、本質的な問題であり、例えば太陽のように太陽の本体と光は同時に存ずるが、本質的に太陽があるから光を発せられるのであって、本質的に太陽本体が先に存在するといった感じようなものであるという。哲学者は、時間的な相対的な立場とこのような本質的な立場を混同していると批判した。この他に哲学者が否定した神の個物知の証明や、因果律否定など、後のイギリス哲学者ヒュームを先取りした内容の哲学を説いたりなど、多様な批判活動を行った。このような哲学批判は、元々哲学思想に反感を持っていた一般信者の人々に決定打を放ち、東方イスラームの各地でアヴィセンナの書が「無神論」と非難され、焼き捨てられたり踏みつけられたりする事態となった。<br>この事態にも関わらず、哲学者の中で反駁するものはおらず、古代ギリシア哲学の移入に始まった東方イスラーム哲学は徐々にその様態を神秘主義的なものへと変質していく。また、ガザーリーの批判に対する反駁は「自己矛盾の自己矛盾(あるいは自滅の自滅)」というガザーリー批判に呼応するタイトルの書を出したアヴェロエスに代表されるように、哲学の舞台はイベリア半島を中心とした西方イスラーム世界へと移って行く。<br><br>参照元：ウィキペディア「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%93%B2%E5%AD%A6" target="_blank">イスラーム哲学</a>」
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<link>https://ameblo.jp/rm8e23d3/entry-11710682757.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Nov 2013 16:35:27 +0900</pubDate>
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<title>東方イスラーム哲学 - イブン・スィーナー(アヴィセンナ)</title>
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<![CDATA[ ファーラービーの続く哲学者がアヴィセンナことイブン・スィーナー(980年 - 1037年)である。彼は東方イスラーム哲学における絶頂期の哲学者といっても差し支えない。彼は、アリストテレスの注解に多大な力を注ぎ、また独力で数学・物理学・哲学・医学を修め、その名をイスラーム中に轟かしていたという。幾度の政変で必ずしも幸福な人生を遅れなかったが、「医学典範」・「治癒」・「救い」・「指示と勧告」などの壮大な哲学体系は現在においても、いまだ研究途上でさえある。<br>その論及は多岐に及ぶが、中でも、基本姿勢として貫いているのが存在一般の問題、つまり形而上学である。アヴィセンナは、「空中浮遊人間」説をもって、存在というものを説いた。(この比喩は中世ヨーロッパにおいて論議を呼んだ)すなわち、真空中に浮遊している完全な一人の人間がいる。ただ、完全に盲目であり、外を見ることができない。真空中なので、空気の触感ですら感じられない。彼は、そのような状況で何を感じることができるとすれば、自身の存在である。つまり、「我在り」という自身の存在は確実に肯定するというのである。これに、存在は他と違って本質的に直観知というべきものであり、近世デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」の命題の先駆的業績を掲げているといえる。この存在の立場から、アヴィセンナは、自然科学や数学のような絶対的な存在のあり方を捉えない学問と形而上学の独自性を主張する。<br>そのほか、知性・可能性・普遍性の問題など中世あるいは近世・近代の哲学史上で論及されてきた問題の先駆的業績を残した人物であった。また、一方で神秘主義的な傾向が認められ、アリストテレスの解釈としてのイスラーム哲学以外にも、神秘主義的な照明哲学つまり、「東方哲学」と名づけた独自の体系を考えようとした。アヴィセンナ自身は、こちらのほうが自身の考えに近い哲学と考えていたらしいが、現存する資料に乏しく詳しくは分かっていないの現状である。<br><br>参照元：ウィキペディア「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%93%B2%E5%AD%A6" target="_blank">イスラーム哲学</a>」
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<link>https://ameblo.jp/rm8e23d3/entry-11710682457.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Nov 2013 16:34:57 +0900</pubDate>
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<title>東方イスラーム哲学 - 「第二の師」ファーラービー</title>
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<![CDATA[ アリストテレスが「第一の師」とイスラム世界で仰がれてアリストテレスの哲学解釈が興隆していく中、それに続く「第二の師」と呼ばれたファーラービー(870年頃 - 950年)はキンディーが開いた道に基礎を固めた人物として知られている。キンディーのように彼も、著作が多く、殊にアリストテレスの注釈書はおおく、アヴェロエスを凌ぐものであった。キンディーと比べ、ファーラービーはアリストテレスの理解も正確であった。彼も、キンディー同様に真理を追究する情熱は確かなものであり、彼ももちろんムスリムであったが、真理に反対するものであれば服従すべきはずのクルアーンでさえも、許されるものではないと考えていた。<br>ファーラービーは哲学は真理を求める学問であって、人はこれに専念さえすれば最高の精神の境地へと到達することができると考えた。ファーラービーは、イスラム的であるよりも、哲学的であるべきだと考えていた。しかし、イスラームを始めとする宗教に対して敵意を抱いていたわけではない。彼は、イスラームに哲学の概念を導入することによって、イスラームの国家、政治、社会が安定するように考えていた。また、ファーラービーによると、イスラームにとって重要な概念である啓示は、本来哲学者が直接的に形而上学的認識として把握すべきものとし、預言者ムハンマドはこれを形象的、詩的に表現した天才ではあるが、哲学者よりは一段下と考えざるをえないとまで考えていた。<br>また、論理学にも長けており、後のヨーロッパのスコラ哲学で大論争となったいわゆる普遍論争は、ファラービーに端を発しているともいわれている。他にも、世界の存在をネオプラトニズム的な流出論からの説明を行ったり、形而上学やキンディーも論じていた知性論を踏まえ、10の知性流出説など深い論及をし、イスラーム哲学においては偉大な存在の人物であったことはもちろんであるが、ファーラービーの論及した問題は後のヨーロッパの中世哲学の要になるようなものばかりであった。<br><br>参照元：ウィキペディア「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%93%B2%E5%AD%A6" target="_blank">イスラーム哲学</a>」
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<link>https://ameblo.jp/rm8e23d3/entry-11710682198.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Nov 2013 16:34:19 +0900</pubDate>
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<title>東方イスラーム哲学 - 「アラブの哲学者」キンディー</title>
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<![CDATA[ 最初にイスラーム哲学史に登場する人物はアラブ人哲学者ヤアクーブ・イブン・イスハーク・アル=キンディー(801年頃-866年頃)ある。彼は別称として「アラブの哲学者」と呼ばれている。いちいち、アラブ人であることを言及されるのは、前述のように、長らく哲学などの思想関係ではシリア系やイラン系といった人々の活躍が目立ち、純粋にアラブ系の出身者はむしろ稀なケースであったからである。<br>その名前が示す通り、彼はジャーヒリーヤ時代にあたる5世紀後半にアラビア半島中央部のナジュド高原に大勢力を誇り、キンダ王国を築いたアラブ遊牧民キンダ族の血筋であった。彼は前項の翻訳時代にバグダードを活動の中心にして莫大な量の翻訳や著作を手がけ、その数は250を超えたといわれている。(しかし、現存するものは40作品程度である)。キンディーは哲学者は経験界のあらゆるものの本質を究めなくてはならないという百科全書的な考えを持っており、地理・歴史・数学・音楽・医学・政治など広範なジャンルに渡り知識を持ち合わせていた。彼自身はギリシア語を解さなかったようだが、ギリシア語文献からの翻訳の依頼や、生粋のアラブの名族のひとりとして豊富なアラビア語の知識を生かしたその翻訳指導にあたっていた。特に、アラビア語による哲学語彙の確立に多大な貢献をしている。アリストテレス関連で言えば、『形而上学』や『神学』(しかし実際これは、アリストテレスの著作ではなくプロティノスの「エネアデス」である。)からプトレマイオスの『地理学』など重要なものが多かった。<br>キンディーは、人間の知性を4つにわけ、能動的知性、可能態における知性、獲得された知性、現実態における知性と後のイスラーム哲学の基礎になる知性論を展開した(すでに、この時点でアリストテレスではなく、ネオプラトニズムの考え方になっている)。彼は、神を真理(ハック)と認識し、哲学独自の目標を「人間の能力の限界内において可能な限り事物に真にあるがままに認識すること」であるとし、このように獲得した真理(これはイスラーム信者のみに保証されるものではないという)こそ普遍であると主張した。また、神による無からの創造や啓示の優位性など、「完全なる一者」から創造がはじまったとするプロティノス系の流出論が優位となる後世の哲学者たちには見られない思想的特徴を持つ。このようにキンディーはイスラーム哲学に独自の道を開いた人物であるといえる。<br><br>参照元：ウィキペディア「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%93%B2%E5%AD%A6" target="_blank">イスラーム哲学</a>」
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<link>https://ameblo.jp/rm8e23d3/entry-11710681946.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Nov 2013 16:33:56 +0900</pubDate>
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<title>イスラーム哲学の萌芽 - イスラム法の解釈と哲学の発展</title>
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<![CDATA[ このような翻訳活動は確かにイスラムに哲学をもたらしたが、これだけではイスラーム哲学の成立の契機とは見なせない。彼らが、本当に哲学的方法を必要としたのは、イスラム法(シャリーア)の解釈が多様化してきたためであった。すでにムハンマドの頃とは違い異民族のムスリムたちを抱えた世界帝国になっていたイスラム帝国は、もはやクルアーンとハディースだけでは、収まりきれないものとなった。収まりきれない場合は、学者たちの合意によって決定されるものとされ、孤立した推論は忌避されていた。柔軟に制定されているイスラム法に対しての正確な解釈が必要とされてきたし、多くの学者が他者の異説よりも、自説が正しいと考えていた。このようなまちまちな解釈では合意にも支障がでるので、客観的妥当的な立場からの見解を持つために、哲学的方法が歓迎されたのである。<br>しかし、これによりイスラム法議論とその正当性を主張する際に、神学(カラーム)との対立が発生した。神学は、一般的に受け入れられていれば、論証することは必要とされない前提(つまり宗教的な教義)で議論されて法解釈の正しさを証明しようとしていたが、哲学は確実に疑い得ない前提が求められており、たとえイスラム教における宗教的な教義でも、論理的に正しくない限り、決して受け入れられないし、それを前提とした議論や推論は断じて証明されるものとはされず、忌避されるべきとした。このことは、哲学と神学との間に不和が発生し、哲学者と神学者の間で激しい罵りあいにまで発展した。哲学者たちは、神学を「矛盾点を嘲り、敵対者や異端を論駁するだけの発展性のない学問」とまで評したが、しかし実際は単なる観点の違い(テクスト解釈(神学)と論証する際の前提(哲学))であり、双方ともに帰結する点では結局のところ、大差はなかったといわれている。いずれにせよ、多様化され混沌としてきたイスラムの法解釈の打開策として哲学は歓迎されたのも、イスラーム哲学発展の要因の一つである。<br><br>参照元：ウィキペディア「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%93%B2%E5%AD%A6" target="_blank">イスラーム哲学</a>」
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<link>https://ameblo.jp/rm8e23d3/entry-11710681647.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Nov 2013 16:33:14 +0900</pubDate>
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