<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>むかしのはなし</title>
<link>https://ameblo.jp/rtk785/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/rtk785/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>古典文学・歴史小説・レトロゲームなど古い話や日々の出来事を色々</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>池亭記　その5</title>
<description>
<![CDATA[ <font size="3"><font color="#FF0000">この二十年、世の人は豪邸を建てる事を好み、<br>柱に彫刻や模様を施し分不相応に贅沢をする。<br>巨額を投じて建てた家はわずかニ、三年しか住まない。<br>古人が言うには「家を建てたものはそこに住まない」ということだが、真の話だ。<br><br>私は晩年に及んで小宅を建てた。<br>これをわが身分に当てはめて考えるに、まことに贅沢である。<br>上を見れば天を恐れ、下を見れば人間に恥じる。<br>ちょうど旅人が仮に宿を作り、老いた蚕が繭を作るようなものだ。<br>いったいどれほどの期間住み続けると言うのか。<br>聖賢の家は、建てる為に民や神を頼らない。<br>仁義をもって棟と梁とし、礼法をもって柱と基礎となし、<br>道徳をもって門戸となし、慈愛をもって垣根となし、<br>好倹をもって家事となし、積善をもって家資となす。<br>そこに住む者は、<br>火に焼かれず、風に倒れず、<br>不思議な出来事が現れる事もなく、災いも起こらず、<br>悪霊が家を覗き見る事もなく、賊が入ることもない。<br>その家は自ずから栄え、その主は長寿を得る。<br>官位に永く留まり、子孫が代々続いていく。<br>だから、慎んで行動しなければならない。<br><br>天元五年（982年）十月、家主保胤、自ら作り自ら書く。</font></font><br><br>というわけで終わりです。<br>最後は自嘲の気味が加わるあたりが、方丈記とも重なる部分ですね。<br><br>以前の胆大小心録と比べれば遥かに短く、<br>解説が多いので、とても楽でした。<br>機会がありましたら、他の作品も読んでみたいところです。<br><br>短い間でしたが、読んでいただいてありがとうございました。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rtk785/entry-11629178501.html</link>
<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 18:20:57 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>池亭記　その4</title>
<description>
<![CDATA[ <font size="3"><font color="#FF0000">私は50歳になろうとしてようやく快適な小宅を持った。<br>かたつむりはその家に満足し、虱はその布を楽しむ。<br>かやぐき（鶉の仲間）は小枝に住んで広い林に住むことを望まず、<br>井の中の蛙は大海を知らない。<br><br>家主は内記の職に就いていようとも、<br>心は山中に住んでいるようだ。<br>官爵は公平な運命に委ね。寿命は天地に委ねる。<br>人が鳳のように出世することを望まず、<br>隠遁することも楽しまず、<br>王侯に媚びへつらうことを願わず、<br>また人の言葉や顔色を避け、深山幽谷に身を隠すことを願わない。<br>朝廷にあっては王のために働き、家にあっては仏に帰依する。<br><br>私は外では緑の朝服（6,7位）を着る。<br>位は低いが内記（中務省、詔勅の制作などを司る）の職は尊い。<br>家では白い麻の着物があり、春よりも暖かく、雪よりも清い。<br>手水の後に西堂に行き、阿弥陀に念じ、法華経を読む。<br>食後には東閣（書庫）で書を開き、古の賢人たちに会う。<br>漢の文帝は時代を異にする主君であり、倹約を好み人民を安んじる。<br>唐の白楽天は時代を異にする師であり、詩句に長じ仏法に帰する。<br>晋の七賢（竹林の七賢）は時代を異にする友であり、<br>朝廷に仕えながらも隠遁を志す。<br>私は賢主に遇い、賢師に遇い、賢友に遇う。<br><br>一日に三つの出会いがあり、<br>一生に三つの楽しみ（人として生まれる、男として生まれる、長寿）がある。<br>近代では一つとして喜ぶべきものはない。<br>教師たちは地位や富を第一に考え、学力を評価の基準にしない。<br>師などいないに越したことはない。<br>友人たちは権勢や利益をもって判断し、淡白な交わりをしない。<br>友などいないに越したことはない。<br>私は門を閉じて家に籠もり、独り詩句にふける。<br>興が乗れば下僕を呼んで菜園に行き、肥料や水をやったりする。<br>私は我が家を愛し、他には興味がない。</font></font><br><br>池亭での暮らしぶりです。<br>いわゆる隠棲文学の良さというのは、こういう部分を言うのではないでしょうか。<br><br>保胤の生活は、朝廷での仕事と池亭での暮らしを対極に置いているようです。<br>郊外に住むサラリーマンのようなものでしょうかね。<br>完全に俗世との関係を絶つわけでもなく、<br>家にいる間だけが心の安らぐ時間なのでしょうね。<br><br>「書を開き、古の賢人たちに会う」という一文は、<br>古典文学に触れる人なら共感できるのではないでしょうか。<br><br>漢の文帝は、前漢でも特に名君の誉れ高い人物で、<br>自身が恵まれない生い立ちであった為に恤民の心に溢れた人です。<br>白楽天は言うまでもなく有名な詩人ですね。<br>竹林の七賢は、後漢末期の詩人たちで三国志にも出てくるので、<br>知っている人も多いでしょうね。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rtk785/entry-11629175687.html</link>
<pubDate>Wed, 09 Oct 2013 20:10:11 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>池亭記　その3</title>
<description>
<![CDATA[ <font color="#FF0000"><font size="3">私は元々住む家を持たず、陽明門付近の人家に寄居していた。<br>経済的な理由で家を所有しなかったが、<br>もしそれを求めても叶わなかっただろう。<br>土地が極めて高価な為だ。<br><br>私は六条の北に初めて土地を持ち、垣根と門を作った。<br>漢の名相蕭何に倣い辺鄙な土地を選び、後漢の仲長統のように広々とした住まいを思う。<br>周りの土地は全て耕してある。小山を造り小池を堀り、池の西に阿弥陀堂を建てる。<br>池の東には書庫を建て、池の北には妻子の住む家を建てた。<br>屋舎は十の四、池水は九の三、菜園は八の二、芹田（せりの生えた水田）は七の一。<br>その外には緑松の島、白沙の汀、紅鯉白鷺、小橋小船など、普段好むものを全て設置した。<br>さらに春には東岸に柳が生え、煙ったように細い枝が美しくはびこる。<br>夏には北側に竹が生え、清らかな風が颯爽と吹き通る。<br>秋には西の窓に月が写り、月光の下で書を開く。<br>冬には南の縁側に日差しが当たり、背中を暖めてくれる。<br></font></font><br><br>この作品の肝というべき池亭の構造です。<br><br>蕭何は漢成立時の宰相で、古代中国史上でも随一の政治家です。<br>仲長統は後漢末期の人物で、魏の曹操に仕えた人物です。<br>共に政府の高位にありながら清貧な暮らしを送った人物です。<br><br>中ほどに十の四やら、九の三やらという部分がありますが、<br>意味がわかりません。<br>全体の四割とか三割とかそのぐらいに認識する事にします。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rtk785/entry-11629168061.html</link>
<pubDate>Tue, 08 Oct 2013 18:40:42 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>池亭記　その2</title>
<description>
<![CDATA[ <font size="3"><font color="#FF0000">鴨川や北野ではただ家が建ち並ぶだけではなく、<br>土地を田畑へと変えていく。<br>野菜農家は土地を拓き畑を広げ、米農家は川をせき止め田に流す。<br>毎年のように洪水が起き、水の流れが堤防を壊す。<br>堤防管理の官は堤防を作り表彰されたかと思えば、<br>翌日には堤防が壊れても意に介せず壊れるに任せている。<br>左京の人々は魚類のように水を浴びているが、<br>朝廷は貴族の田を耕す以外の工事を禁じている。<br>水害が起こるのは当然の事だ。<br><br>それだけではなく、鴨川と北野は天皇の儀式を行う地でもある。<br>人々が土地を耕したいと欲しても、必ず役人に禁止される。<br>もし庶民が娯楽に興じたいと思っても、<br>夏の鮎取りの際には岸がなく、秋に猟をする原野もない。<br>その為、都の外には人々が先を争って住み、都の中は日に日に衰微していく。<br>都垣の南方には荒れた土地がはるかに続く。<br>肥えた土地を棄てて、やせた土地に移り住む、これは天の定めか、それとも人の狂気の為か。</font></font><br><br>前回と今回で京の現況に関する部分となります。<br>住民たちが住みにくい都を避け、郊外に移り住んでいく様子です。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rtk785/entry-11629163357.html</link>
<pubDate>Mon, 07 Oct 2013 19:16:27 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>池亭記　その1</title>
<description>
<![CDATA[ <font size="3"><font color="#FF0000">池亭記<br><br>私は二十年余りも、西京（右京）東京（左京）を見続けてきたが、<br>右京は人家が少なく廃墟に近い。<br>人が去ることはあっても新しく来ることは無く、<br>家が崩れることはあっても新しく建つことは無い。<br>行き場のない者や、貧しい暮らしを恥と思わない者がここに住み、<br>また隠遁を楽しみ、官職を辞し農業に従事する者もここを去らない。<br>蓄財に励み、あくせくと働く者は、一日とここには留まらないだろう。<br><br>かつて一つの邸宅（源高明の西宮）があった。<br>この宮は華麗な建物と朱塗りの扉を持ち、木々や泉や石に囲まれた、<br>この世のものと思われない名勝地だった。<br>ある時、高明が陰謀(安和の変)に関わった咎で左遷され、さらに屋舎が火事に見舞われた。<br>彼の権力にすがっていた数十家の者どもは皆ここを去った。<br>やがて高明は帰ってきたが、屋敷を修繕しなかった。<br>彼には多数の子孫がいたが、皆永くはここに住まず、<br>茨が門を閉ざし、狐狸が住み着く有様だった。<br>右京の衰退はまさに天によって定められたかのようであった。<br><br>左京の四条より北、北西と北東には貴賎を問わず人々が群居していた。<br>名家の屋敷や庶民の小屋がぎっしりと立ち並び、<br>東に火災があれば西が類焼する、南を盗賊が襲えば北が流れ矢を受けるという有様だ。<br>一族間に貧富の差が激しく、<br>富める者は徳を併せ持たず、貧しい者は貧乏を恥じる。<br>また、大家の近辺に住む者は、<br>家が壊れても直すことができず、塀が壊れてもそれを直せない。<br>楽しいことがあっても大声で笑うこともできず、<br>悲しいことがあっても声高く泣くこともできない。<br>小鳥や雀が鷹や隼を恐れるが如く、常に顔色を伺い、心休まる時がないのだ。<br>ましてやその門をますます広げ、豪壮な邸宅を建て始める時にはなおさらのことである。<br>ただでさえ小さな家や土地を取られ恨みつらみを重ねる者も多い。<br>まるで人間界に追放される仙人のように、代々住んできた故郷を去る者もいる。<br>最悪の場合には狭い土地の為に、家が滅んでしまう例もある。<br>鴨川の畔に住み、洪水に遭えば、魚や鼈のように水中に沈むことになる。<br>北野に住み、日照りに遭えば、喉の渇きを潤す術もない。<br>この京に人の住まぬ土地はないのだろうか。<br>人の心の頑迷なことよ。</font></font><br><br>とりあえず全体の3分の1ほどの部分です。<br>大して長くない作品なので4、5回ぐらいで終わる予定です。<br><br>方丈記と同じく序盤は当時の京の状態を描写したものになっています。<br>右京と左京の違いを現していますが、<br>現代の感覚とそう違わない事に驚かされますね。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rtk785/entry-11629160094.html</link>
<pubDate>Sun, 06 Oct 2013 08:37:50 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>池亭記を適当に訳してみる</title>
<description>
<![CDATA[ 慶滋保胤が著した随筆文学「池亭記」（ちていのき）を訳します。<br><br>以前に訳したもののファイルを紛失してしまったのですが、<br>この間偶然見つかったので、どうせだからとこのブログに載せていきます。<br><br>池亭記は平安時代中期の文人、慶滋保胤が著したもので、<br>鴨長明が方丈記を書く際に参考にしたそうです。<br>この慶滋保胤よりわずかに前の世代に前中書王（さきのちゅうしょおう）という人物がいて、<br>彼は兼明親王という貴族なのですが、この人も同じく池亭記という文章を書いています。<br>ほぼ同時期で同じ傾向の作品なのですが、慶滋保胤と親交があったのでしょうかね。<br><br>ちなみに新日本古典文学大系の本朝文粋を基にしたのですが、<br>このシリーズは解説が非常に充実しているため、<br>実際には自分で訳した部分は少ないです。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rtk785/entry-11629158351.html</link>
<pubDate>Sun, 06 Oct 2013 08:08:54 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>胆大小心録　その163</title>
<description>
<![CDATA[ <font size="3"><font color="#FF0000">百六十三<br><br>仏教が衰えるのも、<br>金銭の流通と同じようなものと見れば残念という事もない。<br>七大寺も大社と同じ値段では無く遥かに高くつく。<br><br>玄昉・実忠・道鏡が帳台に入り、帝座を汚す事を、<br>神も仏も知らぬ顔とは、どういう事か。<br>清麿ただ一人が宇佐八幡の神勅を報告せず、<br>（道鏡が皇位を継ぐのを阻止し）正統な者に継がせた。<br>そのような忠臣すらも中納言で終わるとは不幸な事だ。<br>天の下す運命がえこひいきされるものなら、<br>自分は本腰で（清麿の）味方をしたい。<br><br>この卿の像の賛辞を請われて述べたのは、<br>　忠言硬直、涅而不緇、若矯神勅、則豈有今日哉<br>　（忠言で諌める素直な人で、黒に染めようとも決して染まらず、<br>　もしも神勅を曲げなければ、どうして今日まで皇統が保たれただろうか）<br><br>　あしの浦のきたな丸てふあた波をかけてもきよき名に流れけり<br>　（きたな丸という汚名をつけられても、清い名が知れ渡っている）<br><br>その王朝には、大臣が大勢いたが、<br>吉備公（吉備真備）こそ憎むべき存在だ。<br>人倫の学を尽くし、機会を謀り、出たり入ったり、<br>鼠が物を盗るような心持ちで、とても憎い。<br>周勃・陳平の例を思い、国家を護持して傾けなかったと言うが、これは偽りである。<br>本当は、「あの傾城づらめ」と言いたい。<br></font></font><br><br>奈良時代の和気清麿（清麻呂）という人物の話です。<br>当時権勢を誇っていた道鏡と対立していたそうで、<br>宇佐八幡神から、<br>道鏡を皇位につければ天下が治まるという怪しい神託が出された際に、<br>それを阻止したという宇佐八幡宮神託事件で有名な人物です。<br><br>その後、道鏡に皇位を継がせたかった称徳天皇に憎まれ、<br>穢麿（きたなまろ）という屈辱的な名前に変えられた上に、<br>流罪にされたそうです。<br><br>一方、吉備真備に対しては辛らつです。<br>こちらは有能な政治家で、<br>遣唐使の一員としても有名な人物ですが、<br>儒教の精神を忘れ、道鏡に屈服したという一面もあり、<br>秋成は相当嫌っていたようです。<br>秋成が以前に書いた「遠駝延五登」という書の中でも、<br>「きたな丸という名は真備にこそ相応しい」<br>という内容の言葉が残っているほどです。<br><br><br>というわけで、これにて胆大小心録は終わりになります。<br>約半年に渡ってお付き合い頂き、誠にありがとうございました。<br>正直途中で辞めるつもりもありましたが、<br>実際に始めてみるとなかなか面白く、結局最後まで続ける事ができました。<br>学力の方はほとんど進歩せず、<br>怪しい部分があるとわかっていながら発表してしまった回も結構あります。<br><br>今後は今までと同じく放置しがちなブログに戻りますが、<br>また機会がありましたら違う作品にも挑戦したいと思っております。<br>伴蒿蹊の「近世畸人伝」がいいかなと思っていますが、<br>軽く読んでみたところ、全く歯が立たなそうなので、<br>多分やらなそうです。<br><br>感想などコメントして頂けると助かります。<br>ではでは。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rtk785/entry-11556110448.html</link>
<pubDate>Thu, 20 Jun 2013 19:17:27 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>胆大小心録　その162</title>
<description>
<![CDATA[ <font size="3"><font color="#FF0000">百六十二<br><br>四方の国々が服従するのも時勢があっての事だ。<br>まず、それまでは門を守り、垣を堅くして守るべきだ。<br>これまでの茶に酔っての戯言はあまりに分を越えた放言だ。<br></font></font><br><br>当時北方で紛争があったそうで、<br>前半部分はそれに関する意見だそうです。<br><br>最後の一文は秋成著の茶瘕酔言に似たような言葉が出てくるそうですが、<br>この胆大小心録のまとめとも取れそうな一言ですね。<br><br>いよいよ次が最後です。<br>この期に及んでなかなか手こずってますが、<br>明日に更新できるように頑張ります。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rtk785/entry-11556071046.html</link>
<pubDate>Wed, 19 Jun 2013 21:10:31 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>胆大小心録　その161</title>
<description>
<![CDATA[ <font size="3"><font color="#FF0000">百六十一<br><br>それにしても釈迦は賢い人だ。<br>人情の欲だけを、先に説いて、無の見地へ導く。<br>しかし三千年も経ちながらもまだ（欲望を優先する事を）直せてはいない。<br>達磨・善導の本源の心も、<br>（現在これを伝える僧侶達も）口だけの悟り顔で、<br>身の行いを見れば、高座に上る人とは大違いである。<br>一文不知の僧と剛毅朴訥の民の中には、必ず無の見地を成就する人がいる。<br>いつ成就するかの前後は問題ではない。<br></font></font><br><br>何度も出てきた仏教の堕落に関する話です。<br><br>一文不知というのは文字を一文字も知らないという意味だそうです。<br>ここでは法然の言葉にある、<br>たとえ教法をよく学んだ者でも、一文不知の身となり、<br>智者のふりをせずに、一心に念じなさい<br>という教えを守った僧という意味で使われています。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rtk785/entry-11555253865.html</link>
<pubDate>Tue, 18 Jun 2013 19:24:21 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>胆大小心録　その160</title>
<description>
<![CDATA[ <font size="3"><font color="#FF0000">百六十<br><br>遣唐使がもたらす利益は交易のみである。<br>仏教、儒道の悪賢さに倣って、簒位や弑逆が相次いだ。<br>長年干戈の休む時は無い。<br>この徳川の治世になって、二百年来実に太平である。<br><br>今の清朝は女直国（女真国）という。<br>朝に尿で顔を洗い、清めるとする国である。<br>いつのまにか金と名乗り、中国を奪ったのを、<br>明に滅ぼされて後継が絶えたが、<br>明の弱主（荘烈帝）が崩じた時に、盗賊（李自成）が起きて国を滅ぼした。<br><br>（明の将軍である）呉三桂が忠心を持ち、<br>（清の）順治帝が隣の国まで切り開いていたが、聖徳の人と聞いて、<br>援軍を頼んだが、順治帝は、よい機会だと李自成を滅ぼし、<br>中国の主と成り、三桂が「約束が違う」と言っても、<br>「いや、国を返すとは言っていない」と言い、ついに清という王朝が立ったのだ。<br></font></font><br><br>清国の成立に関する話です。<br>干戈は盾と矛という意味で、<br>戦が収まらないという事です。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/rtk785/entry-11554456538.html</link>
<pubDate>Mon, 17 Jun 2013 18:33:39 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
