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<title>ルウコのブログ</title>
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<title>”ダイエット中もOK‼︎【レンチン2分】オオバコ コーヒーゼリー”</title>
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<![CDATA[ <br><br><p><iframe class="reblogCard" height="234px" width="100%" scrolling="no" frameborder="0" sandbox="allow-same-origin allow-scripts allow-top-navigation" src="https://ameblo.jp/s/embed/reblog-card/noripetit/entry-12612930361.html?reblogAmebaId=ruko7151" data-ameba-id="noripetit" data-entry-id="12612930361"></iframe></p><br><br>
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<pubDate>Tue, 31 Aug 2021 21:24:44 +0900</pubDate>
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<title>全コピー</title>
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<![CDATA[ 退屈日記「ぼくを振り返らせた素敵な女性について」Posted on 2021/03/28辻 仁成　作家　パリ<br><br>某月某日、交差点で買い物袋を両手に持って信号が変わるのを待っていたら、一人のすっとした女性が横断歩道を渡ってきた。<br>で、ウールっぽい素材のケープコートを着ていて、いや、まとっていて、それが足元まで隠れるような長いもので、また、その人がとっても細くて、スタイルがよくて、でも、背が高いわけじゃなく、頭が小さかったからか、とってもバランスがよく、何か、昔の英国あたりの童話から飛び出してきたような、不思議な世界観を醸した人で、とにかく目が留まって眺めていたら、ぼくとすれ違う時に、その人が８０代くらいの老女であることがわかって、ぼくは言葉を失った。<br>失礼とは思ったけど、ぼくは思わず、振り返ってしまったのである。その後ろ姿がまたすっとしていて、背中もぜんぜん曲がっていないし、肩も小さくて、セクシーなのである。<br>何よりも歩く姿が絵になってる。<br>歪んでないし、清楚だけど、すたすたと、ある意味、若々しいのである。<br>でも、ぼくの横を素通りした彼女は、はっきりとわかる老女の顔をしていた。もちろん、眼力もあり、マスクだったので、顎先とかはわからなかったけれど、…ぼくの母親くらいの年齢の顔であった。<br>一度、ケープというかマントの端を、片方の手でさっと翻して、整えた時のかっこよさ。<br>宇宙戦艦ヤマトの中に出てきそうなキャラクターであった。<br>こんな風に年を取りたい、年を重ねたいと思ったのである。<br>ぼくは帰り道、背筋を伸ばして歩いた。<br>その老女を真似てすたすたと歩いてみた。だらしなくないし、自分を律する気持ちになる。<br>誰かに見られているからやっているのじゃなく、いつまでも自分のスタイルを追求している人の歩き方だと思った。<br>単純にかっこいいな、と思ってしまった。<br>ぼくはここのところ、年齢を受け入れつつある。<br>もう還暦を超えたのだから、どこかで諦めてもいいんじゃないか、と自分に言い聞かせる時もある。<br>でも、その老女を目撃した瞬間、いかんいかん、と思った。<br>今、頑張ればきっとまだ頑張れる。変な日本語だけど、年齢を超越したかっこよさが出せるといいなぁ、と思った。<br>自分自身が上がるというか、気力で若さなんてコントロールできるものかもしれないのだから…。<br>ぼくは作家で還暦なのに、自撮りをよくやる。<br>それは、どこかでまだ諦めたり、捨てたりしてない自分がいるということで、息子などには「やめなよ、自撮りとか」ってバカにされ笑われているのだが、これは若さを保つための、自分を律する運動でもある。<br>許せない自分は許せないので、気に入らないと食事制限とかして頑張ってしまうのだ。<br>自撮りした写真をインスタとかにあげる時も、修正とかガンガンいれて若くみせるのは嫌で、ああ、これ自分じゃないじゃん、と思いたくない。<br>プリクラみたいな写真に萌えないタイプなのである。あはは。<br>これも変な言い方だけどぼくの友人の女性たちが修正アプリで別人のような写真を送ってくることがあるのだけど、それはそれで頑張っているなと思うし、そういうのが流行っているのはいいことだと思いつつも、出来る限りごまかさないで、できるだけナチュラルな写真で、でも、奇跡の一枚を狙ってほしい。<br>奇跡の一枚をたくさん生み出していくと、不思議なことに、奇跡になるのじゃないか。まず、見られている自分に気合いが入る。<br>やっぱり年を取っても頑張っている人は、ただ若いだけの人より、かっこよかったりする。<br>で、今日、すれ違ったケープコートの老女は、ぜんぜん、おばあちゃんじゃなかった。<br>ぼくも、おじいちゃん、と言われたくない。<br>まだまだ言われない自信があるし、死ぬまで言わせない、くらいの気もちで生きなきゃ。いや、ぜったい、それがいい。<br>そんなのくだらない、と笑われても、まず、自分が嫌なのだから、ぼくはぼくなりの生き方を追求するだけだ。<br>すっと生きて歩きたいのだ。死ぬまで背筋を伸ばして歩きたいのだ。<br>というようなことを、その人を見て思った。<br>写真を撮りたかったけど、失礼だから、心の印画紙に焼き付けておいた。<br>８０代で、ぼくを振り返らせたその人に、万歳！　年齢なんか関係ない。<br>
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<link>https://ameblo.jp/ruko7151/entry-12665131522.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Mar 2021 00:00:00 +0900</pubDate>
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<title>1年前とブレてない辻仁成さんブログ全コピー</title>
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<![CDATA[ 滞仏日記「塵も積もれば山となり、小さな幸せも積もれば大きな幸せとなる」<br>Posted on 2020/09/30<br>辻 仁成　作家　パリ<br><br><br>某月某日、ここ最近、ずっと幸せについて考えている。<br>一言で言い切るにはあまりに大きな概念だから、一緒くたにはできないけれど、あえて一つにしちゃうならば、人が絶望するのはどこかで幸せを目標にしちゃってるからじゃないか、或いは使命にしているから…。<br>今よりももっと幸せになりたくてなれなくて、本当は今幸せなのにそれに気づかず、気が付けば人生を投げ出してしまっている、なんてのはもったいない。<br>無理して幸せになろうとすると幸せになることが思った以上に大変で苦痛になることがある。<br>幸せというものの怖さだ。<br><br>だからぼくは大きな幸せと小さな幸せと大雑把にだけど区別して考えるようにしている。大きな幸せって、何よ、と言われてもうまく説明出来ないけど、手が届き難い、難易度の高い幸せじゃないか、と思う。<br>じゃあ、小さな幸せって何よ、と言われたら、目標じゃないもの、なにげなく日々の中で起こる、ふっと笑みを誘われてしまうようなこと…。<br>大事なのは小さな幸せなんだよな、とぼくはこの歳でやっと気が付くことが出来た。<br><br>大きな幸せを手に入れようとすると人間というのは無理をする。<br>無理をして手に入る幸せもあるだろうが、それは稀だ。<br>逆に、大きな幸福を狙い過ぎて、手に入らない時、失望感が生まれる。<br>酷い場合は絶望する。<br>実は幸せだったのに、もっと大きな幸せを手に入れたくて頑張った挙句、最初にあった幸せを犠牲にしてしまう、なんてこともある。<br>大きな幸せには手が届かないがために、人間は落ち込んで、不幸になってしまうのだ。<br><br>で、最近、ぼくはちょっとしたことで心が楽になった時、或いは何気ないことで微笑みを誘われた時、あるいは「へ～、いいなぁ」と思えた時なんかを、小さな幸せと呼ぶようにしてみた。<br>あ、来た来た、小さな幸せ、と呟くようにしている。<br><br>たとえば、朝、淹れたコーヒーを口に含んだ瞬間、もしくは行きつけのカフェのいつものお気に入りのテラス席が空いていた時とか、息子に、ありがとうって言われた瞬間、ごはんが美味しく炊けた時とか、いつもより目覚めがいい朝とか、をぼくは小さな幸せと呼んでいるのだ。<br>これを出来るだけかき集めるようにして生きている。<br>小さな幸せを無視しないように、見逃さないようにしている。<br>その一つ一つを噛みしめるようにしている。<br><br>大きな幸せって、手に入ったら入ったで、怖いものだし、そういうものの後には必ずなんらかの反動が待ち受けたりする。<br>いきなり訪れる幸せは怖い。<br>少しずつ少しずつ、気づかないうちに辿り着ける幸せがいい。<br>朝、行きつけのカフェに行き、カフェオレを飲む瞬間の小さな幸福には反動など待ち受けていない。<br>だから、そういう小さな幸せを、たとえばベルマークを集めるように、或いはスーパーの割引券を集めるように、ちょっとずつ集めて増やしていけば、自然と、ある程度大きな幸せになっているのじゃなか、と思う。<br><br>窓から差し込む光りが壁に見たこともない模様を描いてる時なんかがあるけれど、そういう瞬間、ぼくは「ラッキー、なんかいいことあったね」と思うようにしている。<br>しかし、こういう喜びって、無意識に、別の喜びを連れてくるものだ。<br>一ついいことがあると、そのいいことがもう一つなんかを連れてきてくれる。<br>いい気分って、いいものを誘い込む力のことだったりするんだ。<br>或いは、見逃さないことだと思う。そして、丁寧に生きることじゃないか、と思う。<br>そういう風に生きている人には、絶望や失望が少ない気がする。<br><br>急いでいたり、欲を出していると見逃してしまうものがある。<br>調子が悪かったり、空回りしている時にこそ、思い出してほしい。<br>ゆっくりと生きて、丁寧に生きて、自分の周りにある小さな幸せを探せばいいのである。<br>小さな幸せも積もれば大きな幸せとなる、ぼくはこれが最善だと思っている。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ruko7151/entry-12628595493.html</link>
<pubDate>Wed, 30 Sep 2020 23:38:00 +0900</pubDate>
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<title>全コピー</title>
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<![CDATA[ 滞仏日記「誰もが幸せになる方法」<br>Posted on 2019/08/16<br>辻 仁成　作家　パリ<br>某月某日、幸せと不幸というのはいつも不意にやってくる。でも、不幸というのは結構、「今ぼくは不幸だ」とわかるものだが、幸福というのはなかなか「今ぼくは幸福だ」と気づき難いものじゃないか、と思う。その時に幸福だと分からずに、しばらくして人生を振り返った時に、あの時期って「もしかしたら幸福だったのかな」と思えるようなものかもしれない。そういう幸福ならいくらか経験がある。でも、大事なことは「今ぼくは幸福なのだ」と気づけることであろう。そのためには小さな幸福を見つめることじゃないか、と思う。大きな幸福、たとえば大成功というのはなかなか経験できないし、何をもって大成功と言うのかも定義が難しい。でも、小さな幸福、たとえば、美味しいご飯が炊けた、とか、気分よく元気に目覚めることが出来た、とか、子供が笑った、とか、友達から嬉しいメールが届いた、とか、そういうものをきちんと幸せだと認識することで、生活というのは割と幸福感を中心に添えることが出来るようになる。<br><br>逆に、なんでも不幸にカウントしていくとその逆の現象が起きるので、ぼくは幸せではないことからできるだけ自覚的に遠ざかるようにしている。もっと正確に言うならばあまり幸せじゃないことが起きた場合、小さな不幸と呼んでもいい、大事にしていたコップが割れたり、車のミラーが壊されていたり、注文したランチがとってもまずかったり、悪い知らせが届いた場合、ぼくは悲しむよりも前に、「生きているのだからこういうことは起こるし、生きていれば仕方がないことだし、厄落としのようなものだし、順番なんだ」と思うようにしている。人間万事塞翁が馬という故事があるけど、幸いと不幸というのはいつやってくるか予想がつかないものだし、そのことに振り回されても、一喜一憂をしても、ひたすら現象に振り回されるばかりなのだということであろう。大きな成功がやってきたら、ぼくは身構えるし、悪い事態が起きた時は、神様に試されているのだと思うようにしている。我が人生を振り返ると、不幸なことの方が多かった印象が強いけれど、それを招いたのは自分だということ。幸福はその不幸の底から少しずつ自分を回復させていく過程にあり、その中で正しい価値観に気が付いていくようになり、幸せの基準も時を重ねるたびに、変化していく。最近は明らかな成功よりも何気ない日々に起こる、さわやかな風のような出来事を「日々の幸福」と名付けてあえてコレクションしているようなところがある。その小さな幸せに「気づく」ことの「幸せ」はたぶん誰もが公平に持っている能力だけれど、そこに気が付かない人が多いということじゃないか。それで自分は「不幸だ、不幸だ」となるのだけど、自分を不幸だと思うことで不幸を招いていることの方が不幸じゃないだろうか。ものは考えよう、というが、ささやかな幸せこそが人生の大事な瞬間なのだと思って毎日生きることが出来るなら、幸福は無限に存在することになる。<br><br>午前中、原稿に向かい、それから昼ごはんを作り、息子と二人きりで食事をし、午後は近所を走って、青空や木々を見上げ、疲れたら立ち止まって、深呼吸をし、家に戻ってシャワーを浴び、ライブに向けて歌の練習をしていたら夕方になったので、米を研ぎ、こぶ締めにしておいた鱸の白身を切り、野菜を洗い、皿に盛って、暮れなずんだ頃に息子と二人きりでご飯を食べ、ぼくは日記を途中まで書いてから、ベッドにもぐりこんだ。その時、誰にかわからないけれど、ぼくには信仰がないので、でも、天井のもっと上の方に向かって、ありがとう、今日も幸せでした、と声にしたら、なんとなく気持ちが楽になり、よく眠ることが出来た。
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<link>https://ameblo.jp/ruko7151/entry-12507515872.html</link>
<pubDate>Fri, 16 Aug 2019 00:00:00 +0900</pubDate>
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<title>”悩まないという選択。”</title>
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<pubDate>Sat, 04 May 2019 00:00:00 +0900</pubDate>
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